戦時下の教育 日中戦争以降、日本は戦時下に入った。学校では「忠君愛
国」「陛下のために死ぬ」「国のために命を捧げる」といっ
た、つきつめた感情に洗脳する教育が著しくなり、士官学校・
兵学校・予科練習生等の予備校生的な性格を中学生たちに求め
るようになった。昭和一八、一九年頃からは、それまでの農村
の勤労奉仕から中学生・女学生は軍需工場へ動員されることに
なり、小学生の勤労奉仕も一段と強化された。それ以前に女学
生の英語授業を廃止したのは象徴的な出来事であった。しかし
寝屋川高等女学校は、英語授業を継続している。
聖母女学院を例にとると、昭和一八年に従来の制服が作れなくなり、全国の女学生が同じ紺色で白のヘチマ衿のスフ製の制
服に統一された。ただしスカートはほとんどはかず、モンペを
常用していた。正門の金属製の扉やハイカラであった暖房用ス
チームの設備も外して献納し、一九年には校名を香里高等女学
校に改めさせられた。四・五年生は門真の松下工場に学徒動員され、二0年になると三年生は陸軍(造兵工廠)枚方製造所、
二年生は同香里製造所、一年生は校内に疎開してきた松下の学
校工場で働くようになり、全校生徒が工場に動員された。また
寝屋川高等女学校も同様で、一九年頃より学業としての教育は
停止状態となった。一方、農村も工場と同様人手不足は深刻
で、小学生の労働力にも頼ることとなり、彼らの勤労奉仕の時
間が多くなった。ただ当市では疎開の間題が起こらなかったこ
とは恵まれていた。
昭和一七年、軍部設立の第二山水中学校が男子校として開校した。なお同校は、戦後には同志社香里中学校・高等学校とな
っている。
こうした異常な状況を経て終戦を迎える。それまで声高に鬼畜米英撃滅を叫んでいた先生の一部が急転換して民主主義の説
教を始めたため、先生不信となった生徒もいたという。
山下定男