山口県光市の母子殺害事件の遺族、本村洋さん(32)を4年間、取材してきた。広島高裁は差し戻し控訴審で4月、被告の元少年(27)に死刑を言い渡したが、本村さんが記者会見などでずっと語り続けてきたように、私も今回の判決を社会に生かさなければならないと思っている。広島支局の大沢瑞季(みずき)記者は4月29日の本欄で、「自分が裁判員だったら」という視点で事件を見つめた。私は、本村さんから判決後に受け取ったメールの一部を紹介し、この判決をどう受け止めるべきなのか考えてみた。
事件から9年間、本村さんはメディアの前で発言を続けた。山口地裁の1審当時は、無期懲役判決に「司法に絶望した」と話し、応報感情が激しい言葉になった。しかし、今回の判決直前の4月19日の会見では、改めて死刑判決を求めながら、「裁判の『正義』を信じ、(死刑でも無期懲役でも)それを真実と思って生きていく」と語った。私はその言葉に、死刑を求める遺族としての葛藤(かっとう)を感じた。
判決後に2回、本村さんとメールを交換し、発言の真意を尋ねてみた。裁判を巡る報道を振り返った時、本村さんに関しては「物言う遺族」の発言を伝えることだけに終始していなかったか、という思いがあったからだ。
本村さんは私への返信で「どれだけ思考しても、やはり『死刑が相当』だという結論になります」「命で償うべきだという私の『正義感』は満たされたし、判決に納得しましたし、司法を信頼することもできました」と書く一方で、「今後、この裁判が厳罰化の起点と認知された時、死刑を求める発言をした遺族として責任をどう負っていくべきか……」とつづっていた。
本村さんは判決後の会見で、失った妻子を思い涙を浮かべながら、「死刑判決は決して喜ばしいことではない」と語っている。そして(妻子と死刑判決を受けた被告の)3人の命を思いながら、「こんな残酷な判決が出ないようにするにはどうしたらいいのか。犯罪抑止の方法を、教育のあり方を考えないと」と訴えた。自らに向き合う「遺族の責任」からの言葉だった。
私は判決前、元少年がどうして事件を起こしたのか、事件までの18歳と30日の生い立ちをたどってみた。母の自殺と父の体罰。複雑な家庭環境を抱えた元少年を、学校の先生たちは必死で支え続けたという。「怠学したり家出したり。かまってほしかったのだろう。私たちは何をすべきだったのか」。当時の担任教諭たちは今も悩み続けていた。
取材するうち、裁判への疑問も感じた。事件直後に成育歴を調べた山口家裁の調査官が、担任や同級生には数人としか接触していなかったからだ。当時の心理状況を解明する重要な資料となる家裁の少年記録には、小中高の担任らが記した照会書が7枚添付されている。「学級の人気者」「思いやりがある」。そんな評価はあるが、窃盗や痴漢には詳しく触れられていない。しかし、そうした行為の中に、彼が抱える課題が見えはしないだろうか。
「不安や怒りを言葉にできず問題行動に出るのもサインの一つだ」。福岡市こども総合相談センターの藤林武史所長(精神科医)は非行少年の特徴を説明する。元少年は1、2審まで一度も遺族に反省の手紙を書けなかった。藤林所長は「なぜ家出したのか、なぜ盗んだのか、自分の気持ちが『分からない』ことが課題。感情を伝える言葉を育てる作業こそ、非行少年が罪と向き合う第一歩ではないか」と指摘する。事件の背景に何があったのか、司法の場で解明に至らなかったことがある気がする。
私は昨年11月7日、「広島拘置所の君へ」と題して本欄でこの事件を取り上げ、元少年が小学生の時に父の暴力から母を守ろうと何度も止めに入ったという供述を紹介した。加害少年にも「心」があることを伝えたかったからだ。その後、福岡県の専門学校生から「裁判は罰を与えるのが目的ではなく、被害者と加害者がどう生きていくかを考える場だと知った」という感想を受け取った。
この記事が紙面化された5日後、私の長男が誕生した。12日で6カ月になった。本村さんの長女夕夏(ゆうか)ちゃんは事件当時、生後11カ月だった。長男はやがて夕夏ちゃんが生きた時間を超えていくだろう。元少年は今回の判決を受け、即日上告した。最高裁は06年、無期懲役判決を破棄して審理を高裁に差し戻しており、上告棄却の公算が大きいという。しかし、私は今後も、事件の意味を探し続けたい。「3人」の命のために。(周南支局)
毎日新聞 2008年5月13日 0時19分