んー、なんかもう、直接に言いたくなるんだが。そういうことはしないと決めたから、一般論としても通用するように言うけれど。たぶん、今の私が直接言うと、私が後悔する。
相手の言葉の意味を決めるのは、半分は自分なんだがね。自分の心を守るのに都合の良いように、相手の言葉の意味を解釈しようとするのが人間。
・ストレートに批判された
→そんなキツい言い方はないだろう
・遠まわしに批判された
→皮肉でいやらしい言い方をするのはいかがなものか
・大事な話をしたのに、「そんな話はもういいから(笑)、『嘲笑に見えるやり方』について話しましょう」と、『(笑)』付きで、話を切り捨てられた
→嘲笑するのはいけないだろう
相手が自分に対して失礼な批判をしてきたから、批判内容を受け入れない、のではないんだよ。批判内容を受け入れられないから、悪い批判方法で言ってきたと「受け取ろうとする」のね。
人間にそういう判断のバイアスがあるのは当然のこと。その当然のことを受け入れつつ、どこまで正確に情報伝達ができるのか、どうやったらいいのか、という話だと思うんだが。そこでも大事なのは、個人を包括した第三者的な正しさ、つまり常識なんだよ。常識と「物語」は、単純には両立できない関係にある。物語を優先すれば常識を害し、常識を優先すれば物語を排除することになる。そこをどうするのかの具体的な方法が問題。
常に自分の言葉の意味を正しいものだと決めてかかると、どんな人を相手にしても、いつでも相手を悪人にできる、ということを知ってないとならないんだが。
ちなみに、議論ばっかりやって、これを自分でも知らないうちに無意識に極めると、絶対に議論で負けないようになれる。誰に批判されても、自分の正しさを変えずに済む。しかし、その代償に、人生には負けるが(笑)。