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5/8 パワー閲覧者
最近、異常なほどにチンコが痒い。
いやいやいや、いやね、いくら僕でも、いつも下劣なる文章を書き綴っている僕でも自らが運営するウェッブサイトに「チンコ」とか書きたくないですよ。できることならもっと高尚なお話、ブラックホール理論とか欧州原子核研究機構CERNの加速器LHC((Large Hadron Collider)を用いた極小型ブラックホール生成実験の話とかしたいですよ。ブラックホール作るとか超すごくない?
でもね、ここってNumeriじゃないですか、下劣過ぎてついに自分の職場からもアクセスブロックされたNumeriじゃないですか、誰もブラックホール生成実験の話なんて聞きたくないでしょうし、「やだ、Numeriに下ネタが載ってる!信じられない!」って幻滅する女の子なんていませんし、信じられないですけどそういった「チンコ」的な話で逆に狂喜乱舞する下世話な読者の方が何名かおられるんですよ。今日から日記下部に途方もない広告ついてることですし、もはやそういうもんだと割り切って読んでいただくしかないとないと思われます。諦めろ。
だからまあ、で何も気にすることなくチンコが痒い話させてもらいますけど、とにかく尋常じゃないレベルで痒いんですよね。それも局所的とかそういった生っちょろいものじゃなくて、もう、なんていうかエリア全体が痒い、死ぬほど痒い、それはそれは我慢できないレベルの痒さなんですよ。
でまあ、こういうことを勇気を出してカミングアウトすると、すぐに「patoってインキンじゃね?」みたいなことを言い出す輩がいるんですけど、そういうのってちょっと浅はか過ぎるんじゃないですか。僕はね、この部分はハッキリと憤りたい。
チンコ痒い→インキンだね
これはもう、すぐに空爆しちゃうアメリカ軍ぐらい浅はか。信じられない。バカ丸出し。そういう短絡的な閲覧者の方ってどうかと思うよ。もっとこうひとつの事実から千のことを読みとれるパワー閲覧者が理想だよね。例えば、
「最近、異常なほどにチンコが痒い。」
という名文からNumeri日記が始まったとします。そこで次の文を読み進める前に「フゥ」と一息つきます。これがパワー閲覧者。そこで様々なことに思いを馳せるのです。
きっとpatoはインキンでチンコが痒いんじゃない。なぜなら、インキンでチンコが痒いのは当たり前だ。痒くなかったらインキンじゃなかろうに。そう、インキンで痒いのは当然のことなのだ。当然のことをウェッブサイトの日記に載せるなど、今日は六本木でスイーツを食べましたって写メまで載せている24歳OLのブログと変わらないじゃないか。俺たちがpatoに求めているのはそんなことじゃない。きっとなにか納得できるだけの理由があるはずだ。
ここでパワー閲覧者はパソコンの電源を落とします。すぐに続きを読まない。謎を謎としてあえて残す、そうすることで森羅万象が見えてくるのです。この姿勢がパワー読者。
そして部屋の掃除を始めるでしょう。風呂にも入るでしょう。自分の体と身の回りを清めることからはじめます。湯船の中で自らの仮性包茎気味のチンコを見たとき、また先ほどの名文を思い出すのです。なぜpatoはチンコが痒いのか。
patoという人間は日記を通じてこれまでに様々な問題提起をしてきた。日本中がバブル経済に乱舞するころ、pato氏は物質的豊かさより精神的豊かさの重要性を日記上で訴えていた。彼はそういう人間だ。アホみたいな文章を書いていつつも、そこにはグサリと心の奥深くに突き刺さる言葉たちがあったはずだ。きっと今回の日記にも「チンコ痒い」を隠れ蓑にした強烈な社会批判が存在するはずだ。
私はいつもNumeri日記を読むたびに思う。日記上の彼はいつも「君はそのままでいいのかい?」と強烈に問いかけてくる。しかしそれは皮肉めいた嫌味でもなんでもなく、何かを強制するものでもなかった。ただまっすぐに私自身を激励してくれる、まるで古くからの友人のような軽々しさで「ほらっ、がんばれよ」と尻を叩いてくれる。そんなメッセージがあるのだ。
なぜpatoはチンコが痒いのだろう。インキンでないのならなぜ痒いのだろう。
高志はふと自分のチンコを見る。男なら誰だって一度や二度は痒くなった経験があるはずだ。痒くもないのにそっと掻いてみるだろう。すると、まるでフラッシュバックするかのように昔の思い出が走馬灯のように思い出された。
4年前の冬だった。当時私は彼女と同棲していた。同い年の芳江という女性だ。高校時代からの付き合いで、まだ若かった私たちの同棲生活はまるでオママゴトのような暮らしだった。
「ねえ、またpatoさんがNumeriでバカなこと書いてるよ」
「アハハハ、ホントだ。チン毛剃ろうとして出血したのか、バカな人だなー」
「すごいバカだよね、この人。高志はこんなのにならないでね」
「アハハハ」
収入の少なかった二人の楽しみといえば、週一度近くのファミレスで食事することと、一緒にNumeriを読むことだった。あの日、あの時、あの場所で、当たり前のように存在していた幸せ、湯船に半分顔を漬けブクブクと泡を吹き出す高志、いつのまにか芳江のことばかり思い出していた。
小さなベッドの上で毎日のようにセックスをした思い出、ことが済むと芳江はいつも物珍しそうにちんこを弄ってたっけなあ。湯船で自分のチンコを弄る高志はいつのまにかその思い出の中の芳江の手つきを真似ていた。
「なんであんなこと言っちゃったんだろうなあ」
些細な行き違いからあっという間に芳江との生活は終わりを告げた。いつもの軽い喧嘩では終わりそうにない壮絶な口論、売り言葉に買い言葉、次第にエスカレートした私は思ってもいない辛辣な言葉を芳江に投げつけた。そして、芳江は出て行ったっきり二度と戻らなかった。
何度か連絡を取ろうと思った。芳江に謝ろうとも思った。けれども、あんなひどい言葉を浴びせた自分がいまさら何を言えばいいのだろう、そうやって迷っているうちに4年の歳月が過ぎた。そこで突如として高志の頭の中に言葉が鳴り響く。
「最近、異常なほどにチンコが痒い」
名文中の名文として後世に残るであろうpatoの文章だ。
そうだ、チンコが痒いんだ。そこには何の打算もない。ただチンコが痒いという事実しかないのだ。インキンなのか、それとも不潔にしてるからなのかなんて関係ない。ただ事実を装飾する色付けに過ぎず、さしたる問題ではない。問題なのは痒いという事実のみ。それだけが大切なのだ、そうpatoに教えられた気がした。
いまさらどんな理由で芳江に連絡すればいいのだろうか、連絡が取れたとしてどんな話をすればいいのだろうか、なんてウジウジ悩むなんて本質から目を背けているに過ぎない。そんな装飾的な理由なんてほっといて、チンコが痒いなら理由なんて考えずに痒いと言い切る、それと同じように自分はまだ芳江のことを愛しているという事実だけが大切なんだ。
「また教えられたよ、patoさん」
また一つNumeri日記に救われた気がした高志は急いで湯船から飛び出し、びしょ濡れのままリビングの携帯電話を手にした。湯上りの熱気で携帯電話の画面が曇る。
もし電話番号を変えられていたら?メールアドレスも変えられていたら?芳江に新しい男ができていたら?芳江の中で自分が過去に成り下がっていることを知るのが怖くなる高志。携帯電話を操作する手が止まる。
「びびってんじゃねーよ、いっちゃいっちゃえ」
小栗旬、いやpatoさん。まだ会ったこともないpatoの顔が浮かんだ。そして、なぜか妙に心強い気がした。一呼吸おいて携帯電話を操作する。ずっと消せなかった芳江の電話番号だ。
プルルルルル
呼び出し音が鳴る。番号は変わってないのかもしれない。しばらく呼び出し音が続いた後、4年前に何度も聞いた女性の声が聞こえてきた。
「もしもし?高志?」
「ああ、ごめんな、突然電話して」
「ううん。気にしないで、私も高志に電話しようとしてたところなの」
「え?なんで?」
「今日、Numeri読んでたの、そしたら急に高志のこと思い出して」
「うん」
高志は俺もという言葉をぐっと飲み込んだ。
「でも急に連絡して高志が迷惑しないかな、もう時間も遅いかなって色々迷ってたんだけど、なんか、チンコが痒いなら痒いって言い切っちゃうpatoさん見てたら・・・」
「色々悩むのがアホらしくなったんだろ」
「そうそう、それで電話しようとしたらかかってきたんだもん、びっくりたよう」
あの日のようにNumeriで笑いあう二人、同じ思いを抱えた二人、なんだか急に裸のままで濡れネズミのようにして携帯電話を持っている自分に笑えてきた。
あれから数ヶ月。私はあいも変わらずNumeriを読んでいる、とんでもない広告がついていても読んでいる。今日も何かバカな話の中に勇気付けられるメッセージが隠されていた。そして今日はいつも素通りしているNumeri-FORM
を使ってpato氏に感謝のメールを送りたいと考えた。
あなたの日記を楽しみにしていること。あなたの日記に励まされたこと。そうそう、あなたの日記に発奮して素っ裸のまま電話した笑い話も書かなきゃね。それこそNumeriの日記と同じくらい長文になりそう。だけどメールの書き出しはもう決まっている。
「今度、彼女と結婚することになりました」
チンコをボリボリ掻きながら高志はパソコンに向かっていた。こんなメールをもらってもpatoさんは何のことかわからないだろう。困惑するだろう。それでも私は満足だ。
っていうね、これくらいの熱いエモーションが欲しいわけですよ。チンコ痒いという一文を受けてこれくらいの考えを巡らし、思いを燃やすパワー閲覧者が理想的。「patoインキンだろw」とかそんなんで片付ける人は心の底から反省してほしい。
でまあ、ここまで書いておいてまっこと言い出しにくいのですけど、どうやらインキンで痒いみたいでしてね、もうインキンの教科書みたいな典型的インキンに悩まされてるんですよ。イケメンならまだしもインキンっすよ、インキン。
インキンの痒さってほんっとどうしようもなくて、仕事中だろうがラーメン食ってようがお構いなし、この世の終わりみたいな、育児ノイローゼのママみたいな痒みがやってくるんですよ。
これが耳とか腕とかが痒いならいいですよ、それこそ、痒いなら掻いちゃえばいい、掻き毟っちゃえばいいわけですからね。でもね、インキンの極悪さってのは痒さだけじゃなくてその部位にあるわけなんですよ。人間の体の中で最もセックスアピールの強い部位周辺が猛烈に痒い、これがもうブービートラップかってほどに熱烈に極悪。インキンってのは本当に悪魔以外の何者でもない。
これがまあ、一人のプライベートタイムとかなら全然構わない、むしろ痒いところを思いっきり掻き毟る快楽に身を委ねるんですけど、時と場合を間違えるとさあ大変。とたんに大変なことになるのです。
この間、職場の中庭でアリを捕まえていたんですね。天気のいい日でしたし、燦々と照りつける太陽を浴びながら必死にアリを捕まえていたんです。こうやってアリを捕まえる体勢ってのはインキンを掻き毟るには絶好のポジショニングでしてね、もう夢中になりながらアリを捕まえてるんだかチンコかいてるんだか分からない状態になってたんです。
「えーマジでー」
「それはないわー」
そうこうしてると女子社員の声が聞こえてきましてね、なんか旧社屋と新社屋を繋ぐ渡り廊下をキャピキャピと話しながら歩いとるんですよ。それが中庭にいる僕に丸聞こえなわけ。
「でもさ、森岡さんってカッコイイじゃん」
「私は高田さんがイケメンだと思う」
とかなんとか、社員の中で誰がカッコイイかみたいな話題に花が咲いてましてね、ホント、突如武装強盗が職場にやってきて全員レイプされねーかなーって感じで盗み聞きしていたんです。すると、
「私はpatoさんがいいと思うけどー」
みたいな、え、なに、幻聴?みたいなセリフが聞こえてきましてね、そりゃ僕だって分かってますよ、そういうのはわかってますよ。僕のようなイケメンランキングブービー賞みたいな男がそういったレースに加わること自体許されないって分かってますよ。たぶんその発言をした彼女も安全パイ的な意味合いで僕を名指ししたんだと思います。
例えばここで、本当にイケメン大本命みたいな社員の名前を出すとするじゃないですか。すると、当然、そのイケメンのことを気に入ってる女性はいるわけで、あっという間に噂が広まります。女性のそういった色恋沙汰に関する怨念ってものすごいものがありますから、知らず知らずのうちに恋敵、異常に敵視される事態にもなるんですよね。
そういうのって人間関係的にも得策ではありませんから、あえて無難な、それこそ絶対にバッティングしないであろう人間を、少し変わり者の自分というアピールと共に名指しする。世知辛い世の中を生き抜くテクニックですよ。
僕もまあ、職場で「芸能人で誰が好き?」とか聞かれて、「大塚愛さん」って即答すると、熱狂的なファンに敵視されるかもしれないじゃないですか、しかも人間って他人が欲しいものは自分も欲しいってなりますから、僕のカミングアウトを受けて「大塚愛いいかも」みたいな魅力に気づいちゃうかもしれないじゃないですか。そういうのって望ましくないですから、僕はいつもバッティングしないであろう「谷亮子さん」とか答えてます。多分、それと同じなんだろうと思います。
でもまあ、分かっていても嬉しいもので、その発言を聞いたときは自分のホッペをつねってました。夢じゃないかしらって感じで呆然としてました。
はい、ここまで読んだら懸命なパワー閲覧者の方ならご理解いただけますね。そうです、いつものヤツです。もう分かってると思うので端折りますけど、いつものようにその「私はpatoさんがいいと思うけどー」って発言した女の子の前で異様にインキンが痒くなるんですね。
考えても見てくださいよ、僕はその女の子が安全パイとかそんなんじゃなくて本気で告白してきたらどうしよう、とか、新婚旅行は熱海にしよう、とかそんなこと考えてるんですよ。そしたら、そこにその女の子が書類を持ってやってくる。ちょっと照れちゃってまともに目を見れないですよね。
「うんうん、この承認は先月もらってるからさ」
みたいな真面目な話をしつつ、こいつは俺に気があるのかも、それにしてもいい匂いがしやがるぜ、とか考えてて、彼女も
「そっかあ、なるほど。さすがですね」
みたいに、これは今晩空いてますよっていう遠まわしなアピールかもしれない言動をするんですよ。そこにズガーンとインキンですよ。
痒い、もう死ぬほど痒い。なんかちっちゃい悪魔みたいなのが性器周辺で五穀豊穣の祭りでもやってんじゃねえのって痒さが襲ってくるわけなんですよ。
もう考えることはインキンのことばかり、許されるならベロンと出して彼女に掻き毟らせたいくらいなんですけど、そうなるとNumeri日記じゃなくて獄中手記を書く羽目になりますからできません。なにより、僕のことを愛している彼女の前でそんなことできないじゃないですか。
「だから、ここは他の業者との兼ね合いもあるから、事前に連絡をしなきゃだめだよ。仕事してご飯食べていかなきゃいけないのはウチの会社だけじゃないんだから」
とか、微妙に真面目なこと言いながらも痒い痒い。っていうか、お前はやくどっかいけよ、お前がいるから掻き毟れないんだろうが、みたいな状態ですよ。
「ありがとうございました」
笑顔で去っていく彼女。もうその瞬間に手を突っ込んで掻き毟ってましたからね。なぜか「出力全快!」とか言いながらものすごい勢いで掻き毟ってた。
そしたらさあ、掻きすぎて出血しちゃってさ、それでも痒いから掻いてたらさらに出血するわ痛いわで大変でね、へへっ、それでも掻くのはやめられない、もはやインキンってのは麻薬だな、ってニヒルなアロマに酔いしれていたんです。すると、
「あのー、聞き忘れたんですけど・・・」
彼女が戻ってくるじゃないですか。うわっ、やばいっ、って光のごとき速さでパンツに突っ込んでた手を抜き取るんですけど、指先にインキンから出血した血がついてるんですよ。
「どうしたんですか!血がついてるじゃないですか!」
ビックリして駆け寄る彼女。
だめだ、インキンを掻き毟ったら皮膚がはがれて血が出たなんて言えない。僕と結婚したいとまで思ってくれている彼女の気持ちを裏切るわけにはいかない。ヒーローは子供たちの夢でいつまでもヒーローでなくてはいけないように、僕も彼女を失望させてはいけないのだ。
多分きっと、彼女は難しい話をする僕の姿を好いてくれているんだと思います。何か難しい話をしなくてはいけない、でもチンコが痒いというか痛い、この出血をどうやって隠すか、色々な事象がミラーボールのように頭の中で回転しちゃいましてね、なんか気が動転して
「欧州原子核研究機構CERNの加速器LHCを用いた極小型ブラックホール生成実験ってのがあってね、地球上でブラックホールを作ろうという実験なんだ。LHCってのはおっきな加速器でね、スイス−フランス国境にあって、ここで加速した陽子をぶつけてブラックホールを作ろうってわけ。でも、多分無理だけどね。これは、そもそも超ひも理論っていうのがあって・・・」
訳のわかんない話をしてました。
結局、死ぬほど心配して
「どうしたんですか?狂ったんですか?なんで血が出てるんですか?」
とか詰め寄ってくる彼女に対処できず、
「インキンかいてたら血が出た」
とカミングアウトしたら、彼女は怒って帰っちゃいました。帰ってくれて大満足。これで心置きなくインキンを掻き毟れる。
結局、今日の日記はいつものごとくインキンで大変なことになったというバカ話ですが、パワー閲覧者の方はここに隠された深いメッセージを読み取って欲しい。今日、みんなに伝えたかったのは
「インキンを掻くのも日記を書くのも同じだ」
ということ。微妙に深いことが言えて満足なので、今日はチンコをかいて寝ようと思う。それにしてもすげえ広告だな、おい。
5/1 思い出の優しさ
「思い出は優しいから甘えちゃダメなの」
ゲーム界最高の名作と名高いファイナルファンタジー10のリュックのセリフだ。思うに、いつだって思い出は優しすぎる。優しすぎるからこそ甘えてはダメなのだ。良い思い出は鮮烈なる記憶と共に美しきものとして脳裏に残る。悪い思い出も、本当に悪いことは忘却の彼方に消え去り、セピア色に色褪せた瞬間に美しきものに変わる。
結果、一つの思い出というパッケージに包まれた過去の出来事たちは都合の悪いことを包み隠し、嫌なことも良かったことに変換され、半ば偽装されて美しく振舞う。思い出はいつだって優しいのだ。
例えば、美しき思い出として今も僕の心の中に燦然と輝いている事実がある。それは「ウチの弟がなんとも素敵な恋をしている」というものだ。中学時代、思い出の中の弟はピュアで、心が張り裂けるような切ない恋愛をしていた。ひょんなことからそれを知った僕と親父は何とか協力できないものかと四苦八苦する。弟のために、弟の恋のために、家族が一つになった切ない思いで、今でも僕の中で家族愛と誇りに満ち溢れたエピソードとして燦然と輝いている。
しかし、こんな美しき思い出も蓋を開けてみると本当に酷い。思い出というラッピングを施されたセピア色の包装紙をバリバリと破り捨てて実態を覗いてみるととにかく酷い。上記の美しい思い出が実際にはこうだった。
中学時代のある日、確か土曜日の昼下がりだったと思う。当時、人気絶頂だった宮沢りえがヘアヌード写真集「サンタフェ」を出すって衝撃発表があり、エロの権化だった僕はどうしてもお金が必要だった。別に宮沢りえはそんなに好きじゃなかったけどヘアヌードとなるなら話は別、とにかく写真集代を手に入れるしかなかった。
小遣いなどとうに使い果たした僕にとって、確か5千円くらいだった思うんだけど、それだけの値段の写真集は手の届かない存在だった。なんとか家捜しし、家内に散見される小銭をかき集めたのだけど80円くらいしか集まらなかった。郵便ハガキくらいしか買えない。
このままではサンタフェを買えない。焦った僕は弟の部屋へと突入した。どうやらウチの弟は根本的に頭がおかしいらしく、「貯金」などという意味の分からない行為を趣味として地道に生きていた。お小遣いやお年玉などを盛んに貯蓄して楽しむというキチガイだった。
過去に何度となく、その弟の貯金を盗んだのだけど、その度に怒ったり泣いたりするものの、それでもしばらく経つとまた金を貯めているという、兄としてちょっと心配になるくらい堅実な生き方をしていた。
ヤツならきっと貯めこんでいるに違いない。
最近はそんなに盗まなかった。きっとサンタフェを買えるくらいの貯蓄額はいってるはずだ。弟の不在を突いて徹底的な家捜しが始まった。過去、何度となく盗む度に弟は貯蓄場所を変えていたのだけど、そんなの関係ない。徹底的に探せば必ず見つかった。それこそ、警察の家宅捜索かって勢いでペンペン草1本生えない勢いで徹底的に探した。
すると、やはり貯金箱みたいなのが出てきて、中には夏目漱石様が7体ほど鎮座しておられた。貯金箱の前面にはノートの切れ端に手書きで「このお金はスーパーファミコンのカセットを買うための大切なお金です。盗まないでください」と赤のサインペンで書かれていた。
「あいつ、カセットが欲しくて金貯めてたんだな」
欲しいものを買うために貯金をする。そんな弟が随分と大人に思えた。随分と成長したもんだと感慨深かった。
幼かった頃、遊ぶ友達もいなくていつも僕について回っていていた弟。いつも鼻を垂らしながらついてきた弟。一緒に捨て猫を見つけて、大雨の中連れて帰ったっけ。弟は猫が濡れると可哀想っていって着ていたシャツを脱いで包んでいた。僕もシャツを脱いで2人で抱きかかえて帰ったよな。子供2人が上半身裸で猫抱えてずぶ濡れで帰ってきたものだから母さんが烈火の如く怒ったっけ。
ずっとずっと幼き日のままだって思ってた弟がいつの間にか随分と大人になっていた。その事実が嬉しくもあり、少し寂しくもあった。
「大人になったならカセットよりサンタフェのほうが必要なはずだ」
僕は何の迷いもなく注意書きを破り捨て、中にあった7千円を盗んだ。この時の僕は見紛うことなくシーフだった。
さてさて、金も盗んだことだし、しかも思いもがけず7千円、サンタフェ買ってもいくらか余る、ここは中野ショップ(地域の駄菓子屋)にいって豪遊でもするか。そう考えながら証拠隠滅作業に没頭していると、ハラリと一枚の写真が僕の目の前に落ちてきた。
その時の貯金箱の隠し場所ってのが、畳の下とかそんなレベルのあり得ない場所で、普通に考えるとそんな場所に写真があるとは考えにくい。となると、子の写真は貯金箱と同じように隠す必要があった物で、かなりの秘匿性を持つ必要があったものだと推察される。簡単に言っちゃうと、隠し財産と同じレベルで隠さなきゃならないもの、ということだ。
僕の胸は躍った。サンバカーニバルのように踊った。7千円という大金を手に入れただけでなく、なんとなく秘密めいた写真まで見つけてしまった。高鳴る鼓動を抑えて床に落ちた写真をめくった。
そこには女の子が写っていた。おそらく弟のクラスメイトだろう。遠足か何かの時のスナップのようで、学校指定のジャージを着た女の子が単独の被写体として写っていた。
「あいつ、こんな写真を隠し持って、恋してるんだな」
とにかく弟は写真の子に恋してるんだろうと思った。なんとか応援してあげたいと思った。僕は兄として何が出来るんだろうか。何も出来ないんじゃないか。無力な自分を呪った。
と、まあ、美しき思い出はここまで。この後は家族総出で弟の恋を応援したはずだ、と思い込んでいる。そいういった記憶が美しき思い出として脳裏に焼きついており、僕の姿が「弟の恋を応援したい兄」として涙無しでは語れないものとして燦然と輝いている。そして、こういった美しい姿に比べれば金を盗もうとしたことなんてご愛嬌だ。
しかし、実際にはそうではなかった。よくよく記憶を紐解いてみるとどうにもこうにも様子がおかしい。実際に細部まで入念に思い出したこの後の展開をなぞってみよう。
写真をめくった僕は驚愕した。
とんでもねーブスが写真の中央に鎮座しておられた。
なにこれ?ペロの毛布?それが正直な感想だった。ウチの隣の家ではペロっていう雑種の犬を飼っていたのだけど、何をトチ狂ったのか隣の家の人が美人画みたいなのが描かれた異様に趣味の悪い毛布をペロに与えていたのだけど、ペロだってやっぱ犬ですから毛布を汚く使ったり噛んだりするじゃないですか、一気に美人画が破れて汚れてグロテスクなものになっちゃいましてね、もう見るも無残な状態になっちゃってたんですよ。
で、その無残なペロの毛布みたいな女が写真に写っている。しかも弟はそのペロの毛布の単独写真を秘密裏に入手し、さらに隠すように所持している。もしかしたらその写真でオナニーくらいしていたかもしれない。
「た、た、たいへんだー!」
実は、こうやって僕が弟の恋路を暴くのは一度や二度じゃないのだけど、とにかくこの時のインパクトは相当のもんだった。写真を手に転げるようにして階段を降り、家族に報告しようとする。しかし、家には半分ボケた爺さんしかおらず、
「大変だ!弟がとんでもないブスに恋してる!」
「んあ?」
とラチがあかない。仕方ないので写真片手に自転車に乗って親父の仕事場まで報告に行った。
「た、大変だ!弟がブスに恋してる!」
「なんだと!」
親父は仕事の手を止めて乗り気だった。
「とにかく、この写真はコピーしよう、お前は写真を元の場所に戻して来い」
証拠隠滅作業もはかどり、弟包囲網は完成した。
夕食の席、事情を聞いた母さんがそれとなく弟に話を振る。
「お母さんはね、美人で性格の悪い嫁が来るよりブスでも性格の良い嫁が来て欲しいわ」
あまりにもド直球過ぎてひどい。
「ワシもブスでいいと思う」
親父のフォローも重ねてひどい。
弟は何のことやら分からずにマゴマゴしていたのだけど、夕食が終わった後に親父が動き出す。
「よっしゃ、久々に家族でトランプしよう」
脈略がなさすぎてビックリする。どっから持ってきたか知らないけどトランプを取り出す親父。手際よくシャキシャキとトランプをきるのだけど、なんと、そのトランプの中にはあのブスの写真をトランプサイズに切り取った物体が。ひでー、ひどすぎるよ。しかも、なんか普通にそのブスの写真がハートのQとして流通してた。地獄のファミリーババ抜き。ジョーカーじゃないところに親父の良心を感じたよ。
最終的には僕と親父が異様に盛り上がってしまい、弟のクラスメイトに電話してブスの名前を聞きだし、そこから電話番号を調べだして、弟と仲良くしてやってくださいって電話で頼もうぜ、とか、弟の声色をモノマネ(僕も親父も得意)して告白しようぜ、とか盛り上がってるところで弟が発狂して終わった。あれからだっけかな、弟があまり家族と会話しなくなったの。
このように、漠然と良い思い出として心の中にあるものでも、よくよく詳細に思い出してみるととんでもない思い出であることが多々ある。本当に人間の脳ミソってやつは都合よく出来ているもんだと感心する。
この春、定年退職した職場の先輩から手紙が届いた。新しい生活を満喫しているという内容の手紙だった。インターネットや電子メールが隆盛を極めるこの電脳社会において封書の手紙とはレトロで趣があっていい。そういえば最近、手紙を貰う機会って減った、変なダイレクトメールばかり貰って、心の篭った人と人とのやり取りとしても手紙を受け取らなくなった。
ふと、手紙という存在に思いを馳せると、僕自身にも手紙にまつわる美しくも素晴らしい思い出があるのを思い出した。
確か、中学校の時だと思う、記憶の断片に残っているのは、クラスで一番カワイイ女の子に恋をしていたということ、そしてその子が劇の練習か何かで我が家にやってくるというエキサイティングな事件があったことだ。で、確かにテンヤワンヤだったのだけど、その子たちが帰った後に手紙を貰ってしまい、そこには「アナタのことが好きです」って書かれていた。死ぬほど美しい思い出だ。美しすぎる、楽しすぎる。
ハッキリ言って、この思い出があるからこそ今の僕はかろうじて生きている。あの日あの時、あの子に貰った「好きです」という手紙、それが心の支えになってるからこそ、今みたいにうだつが上がらなくて職場で女子社員に蛇蝎の如く嫌われていて、「早く死ねよ、いつ死ぬんだよ」とか陰口じゃなくて限りなくダイレクトに言われている現状も我慢できる。あの日、あの時、カワイイ子に手紙貰ったんだぜ、と心の中で誇ることができる。そうじゃなかったらとっくに硫化水素っちゃってるところだ。美しい思い出はこうやって心の支えというか礎にすらなるのだから有難い。
「クラスで一番カワイイ子」「劇の練習でうちに来る」「好きですという手紙」このキーワードが断片的に染み込んでいる美しき思い出なのだけど、これも良く考えたら勝手に書き換えて良い思い出にしている可能性がある。少し怖いのだけどキチンと順序だてて思い出を紐解いてみよう。
「アンタ、同じ班になったから」
「ちゃんとやってよね、怒られるの私たちなんだから」
クラスの中でブスランキングをつけるのならば燦然と1位2位のワンツーフィニッシュを決めるであろうツートップのブスが、彼女たち2人のスナップを撮影したとするならばどんな戦場カメラマンでも勝てない残酷な状況を伝えることになるだろうブス2人が、その顔を不機嫌に歪めながら話しかけてきた。僕も歴然たるブサイクであるので、言うなればブサイクの三重奏だ。
何かの出し物でクラスで劇をやることになり、その中で班分けが行われ、この圧倒的な戦力を誇るブスのツートップと組むことになったのだ。我ながら恐ろしい引きをしてるもんだと思う。
「そうそう、ケイ子も同じ班だから」
呆然とし、半分魂が抜けかかっている僕の前に天使が舞い降りた。クラスで一番かわいいケイ子ちゃん。透き通るような白い肌が眩しく、物静かな性格がなんともカワイイ子だった。
「じゃあ、今度の日曜日、アンタの家で練習するから」
右のブスだったか左のブスだったかが言い放つ。こういった劇の練習ってのは班の誰かの家でやるっていうのが不文律になっていて、皆で相談して誰の家でやるとかそういったのをすっ飛ばして僕の家でやることに決まったようだった。
「大変だ、ケイ子ちゃんが我が家にやってくる!」
ブス2人のオマケがついているとはいえ、憧れの彼女が我が家にやってくる、こんな汚い我が家を見せるわけには行かない。その日から僕の戦いが始まった。
まず、ケイ子ちゃんが我が家にやってくるにあたって、絶対に我が家から排除しなければならない人間がいる。親父だ。ヤツがいたらどんな惨劇が繰り広げられるか分かったもんじゃない。なんとかして排除しなければならない。
母さんに必死で頼み込んで、それこそ土下座する勢いで頼み込んで当日、親父をどこかに連れ出してもらうことにした。ついでに、入念に掃除をしてもらい、品の良いお菓子なども出してもらう算段を整えた。
ふう、これでなんとかケイ子ちゃんに見せても恥ずかしくない我が家になるぜ、親父とかいたら最悪だからな、と一息つくと、我が家の玄関には燦然と鹿のペニスが飾ってあった。
「だー、なんでウチは玄関に鹿のペニス飾ってんだよ!頭おかしいんじゃないか!」
いきなりクラスメイトの家に訪ねていったら玄関に鹿のペニス、そりゃケイ子ちゃん、泣いちゃいます。なんとか鹿のペニスは弟の部屋に隠匿する。コレで大丈夫なはずだ。
必死に下準備を整える僕の姿を見て母は悟ったようだ。今度の日曜日、やってくる女の子は息子が好意を寄せている女の子だ。そんな噂が家族間を駆け巡り、母も親父も弟もニヤニヤ、爺さんは半分ボケてて魂が抜けかかっていた。
さて、いよいよ当日、僕はもうヤキモキしながら玄関で待っていると、何故か親父と母さんと弟が居間から覗いていた。爺さんは天使が迎えにきてた。おかしい、あれだけ親父を連れ出すように頼んでおいたのになんでいるんだ。とにかく、今はそれどころじゃない、ケイ子ちゃんがやってくるんだ。鹿のペニスも隠した、ええい、こうなったらケイ子ちゃんがいかにカワイイかその目ん玉ひんむいてしかと見やがれ家族ども!
「おじゃましまーす」
やってきた。ついにやってきた。我が家の玄関を開けてやってきた。ついにやってきた。ブス2人が。
「あれ、ケイ子ちゃんは?」
お前らに用はないと言わんばかりに問いかけると、右のブスだったか左のブスだったかが口を開く。
「ケイ子は体調不良でお休みだって」
意味が、わから、ない。
ケイ子ちゃんが来れなくなったのは至極残念なのだけど、もっと残念なのは家族達。ウチのファミリーどもは、今日は僕が好意を寄せてる女の子がやってくると思い込んでますから、イースター島みたいな2人を見てニヤニヤしてるんですよ。親父なんか「どっちだ、どっちだ、っていうかどっちでもやばくねえか?」みたいな顔してやがる。
ちがう、ちがうんだー、と釈明したい気分なんですけど、まさか声に出して言うわけにもいかないじゃないですか。鹿のペニスを隠してまで出迎えたかったのはこいつらじゃないんだ!こいつらなら逆に鹿のペニス突っ込んでるわ。
とにかく、どうしようもないので部屋まで上がってもらって劇の練習を始めます。確か、
「卵の色が何色だっていうんだ!」
っていう、意味が分からないセリフを情熱的に言わなくてはいけないシーンで、左右ブスに「やりなおしー」って言われて何度も「卵の色が何色だっていうんだ!」って言わされた気がする。もう何色でもいい。
その様子を親父がニヤニヤと天井裏から覗いてましてね、母さんが精一杯奮発したお菓子を持ってやってきたんですけど、たぶん親父に演技指導されたんでしょうね、弟がやってきて「お菓子僕も食べたいよ、昨日もご飯食べてないし」とひもじい子供を熱演してました。死んだらいい。
風神雷神みたいにそびえ立つブス2人、妙に芝居がかった弟、それを覗いて嬉しそうな親父と散々でしてね、僕もパニックになっちゃって「卵の色が何色だっていうんだ!」って怒ってた。
最終的に劇の練習が終わってホッとしていると、帰り際に親父がブスの片割れを捕まえましてね、「ウチの息子がアナタのこと好きらしい、情けない息子ですがよろしくお願いします」と何故かスーツに着替えて挨拶したらしい。親殺しが5年くらいの刑なら確実に殺ってた。
結局、ブスには「pato君、あまりタイプじゃないですし」みたいなニュアンスの返事を貰ったらしく、なんか途方もなく大いなる勘違いでいつの間にかフラれてしまったらしく、その日の夕食の席では
「兄ちゃん、人間はフラれることで大きくなると思うよ」
と親父に入れ知恵されたんでしょうね、弟が言ってました。いいから黙って貯金を差し出せ。親父も親父で
「フラれたのは悲しいけど、あのブスはないと思う。ワシ、腰が抜けるかと思った。フラれてよかったよ、あのブスには」
と、何故かフラれた長男を気遣う展開になってました。卵の色は何色だ。
思い返すととんでもないひどい思い出で、なんでこれが美化されていたのか全く分からない。「クラスで一番カワイイ子」「劇の練習でうちに来る」「好きですという手紙」のキーワードのうち「クラスで一番カワイイ子」「劇の練習でうちに来る」の二つが消え去ってて「ブス」ですからね、とんでもない真実だ。
じゃあ「好きですという手紙」はなんだったのか。この思い出は何だったのか思い返してみると、何故かブスにふられたことになっていた長男を気遣う沈痛な夕食が終わった後、母さんにそっと手紙を渡されました。
「今回はお父さんが暴れて振られちゃったけど、お母さんはアナタのことが一番好きです。だから元気出して」
すごい感動もんで、「母さん」とか泣く場面なんだろうけど、違うから、違う、あのブスじゃないから。フラれてないから。
とにかく、思い出の美化ってのは恐ろしい、貰った手紙すら実は母さんから貰った手紙だったとは。これから何を支えに生きていったらいいんだ。
人間は辛いこと悲しいことを忘れ、そして美化して生きていく生き物です。そうしないと辛くて生きていけないから。でも思い返して美化した思い出の真実を知ってしまうと、何ともやりきれない気持ちになるものです。
「思い出は優しいから甘えちゃダメなの」
いいや、思い出には甘えなくちゃダメだ。じゃないと心の支えをなくして硫化水素っちゃう事態になりかねない。絶対に甘えるべきなのだ。
この間、31歳にもなってウンコ漏らしてしまった思い出も、ウンコを漏らした美女をかばうために颯爽と登場し、美女がウンコしたってことで注目する観衆を前に、「彼女はウンコしたんじゃありません!卵を産んだだけです!卵の色は何色だ?そう、茶色だ!」とかばって感謝された思い出に書き換えて甘えることにしよう。
4/23 新説カルネアデスの板
カルネアデスの板というお話があります。ある船が荒天に巻き込まれて難破し、乗組員全員は海に投げ出されてしまいます。命からがら波間を漂う船板にしがみつきます。そこにもう一人の乗組員がやってきて同じ板にしがみつこうとしました。まずい、この板は一人を支えるのがやっとだ、2人も掴まったら沈んでしまい二人とも死ぬだろう。
苦悩した男は板にしがみつきながらもう一人の男を突き飛ばし溺れさせます。結果、男は助かりもう一人の男は死亡します。生還した男は裁判にかけられることになりますが罪には問われなかった。
これは古代ギリシアの哲学者カルネアデスによって提唱された有名すぎる問題で、2人とも死ぬくらいなら1人を殺しても罪にはならない、もっとくだけていうと、やむを得ない場合は人を殺しても構わないということを言っているのです。
日本における法律においてもこの種の問題は定義されており、刑法においては刑法37条の「緊急避難」がそれに当たり、危機を回避するために何らかの法を犯したとしても一定の条件下でそれを免除する、というものです。
ここで大切なのは、もちろん他に手段がない場合に限るという条件付ですが、危機によって生じる損害と、回避するために生じる損害との大きさの比較です。上記のカルネアデスの板の場合、他に手段もなく、危機によって2名の命が失われようとしています。それを回避するために1名の命を消し去ったとしても、それは回避行動の方が損失が少ないので正当、ということなのです。
こういったお話は、そんなに社会生活の中で遭遇するものではなく、そりゃあ命の危機に直面することもないでしょうし、二人とも死ぬくらいならいっそ一人を殺して、などと苦悩する場面もそうそうありません。けれども、ミステリーの世界なんかでは結構あって、連続殺人の真犯人が
「5年前のあの海難事故の日、愛する芳江の命を奪ったあいつらに復讐してやったのさ」
「そんな高志君……」
「助けを求める芳江の手を振り払ったあいつらを法律では裁けない、緊急避難とかいって裁けない、だからおれが裁いてやったのさ!」
「天国の芳江さんはそんなこと望んじゃいないぞ!」
「遅いのさ、もう何もかも遅いのさ。俺はやっと芳江のところに行くことができる。じゃあな、名探偵!」
「まて!」
ズガーン
「なんで自殺なんか、なんで殺人なんか、それが芳江さんが望むことなのかよ!答えてくれよ高志君!」
「ハジメちゃん……」
ってな感じで殺人の動機に関わるコアな部分として結構な頻度で登場しますが、ふつうにに日常生活を営んでる分にはそうそう遭遇し得ないシチュエーションです。そりゃあ、助かるために人を殺すべきか、なんて苦悩する日常なんていや過ぎる。
数年前、車を運転していた僕は異常な脱糞衝動に駆られました。普通のウンコしたいって感覚を10とするならば、その時は4000万くらいだったんじゃないかっていう異常な脱糞衝動、漏らしてはかんわん、といち早くコンビニに駆け込もうとアクセルを踏みしめました。すごい普通の農道なのに100キロくらい出してたわ。それくらい危険が危ない状態だった。
まあ、そういう時って大抵間が悪いもので、思いっきりスピード違反取締りに引っかかっちゃいましてね、途方もない速度違反だぞって警察の人に怒られちゃいました。確かにスピード違反は良くないけどやっぱ何か釈然としないじゃないですか。そこで反論したんです。
「もうウンコが漏れそうだったのでついついスピードを出しすぎてしまいました」
「そう、よかったねー」
警察官の方には全く取り合ってもらえず、思いっきり違反切符をもらいました。見逃してくれるかもしれない、とか淡い期待を抱いた自分がバカだった。そのうち事情聴取みたいなの受けながら本気で漏れそうに、ってかちょっと漏れちゃいましてね、大変な騒ぎでした。
これも緊急避難に当たるんじゃないかとも思うのですが、スピード違反ってのは死亡事故などに直結します。自分が死ぬならまだいいですが、人を轢き殺すことだってある危険な行為です。ウンコを漏らすという損失よりも、そちらの方が損失が大きい、だから緊急避難にはあたらないと自分の中で納得したものです。
このように、日常生活でカルネアデスがあったとしてもせいぜいウンコレベル。そこまで深刻な場面に直面することなど今日の平和な日本社会ではありえないのです。けれども先日、そんな前提を覆す重大事件が起こったのです。
あれは週末のホットなひと時のことでした。明日は仕事も休みだし今日は夜更かししちゃうぞーとネットサーフィンに勤しんでいた時のことでした。
女性のアナルの中にウズラの卵を入れるっていう途方もない、文化大革命みたいなエロ動画を繰り返し見てたんですけど、そこでね、思ったんですよ。ほら、Numeriって下品って言うか下劣なるものじゃないですか。どっかの会社からは「下品」という理由でNumeriにアクセスできないようになってるらしいですしね。
そういう下品なNumeriであっても「アナル」って単語は良くないと思うんですよ。今やインターネットって普通に当たり前で青少年とかも読んでしまう可能性がありますから、「アナル」って直接的表現はあまり良くない。できれば包み隠したオブラート的な表現はないかと模索し始めたんです。
で、色々と考えた結果、今度からはアナルのことをエイナルと呼ぼう、それだと語感もあまり失わないし、未来的でなんだかカッコイイ。そもそも英語の発音に近い。それに映画の題名になりそうな単語、浜崎あゆみの歌のタイトルになりそうな単語だ。うん、これからアナルのことはエイナルって言っちゃうよーって決意したんですよ。で、それが浸透していってYahoo!とかで「エイナル」で検索したら下のほうに「 アナル ではありませんか?」って出てくるくらいにならないかなーって夢想したその時ですよ。
「絶対にセックスできる出会いサイトです!」
衝撃的な謳い文句の宣伝が目に飛び込んできましてね、絶対にセックスできるとはまた豪気な、まあ、こんなもん今更驚くも何もない、絶対にセックスできずに架空請求とかされまくる詐欺サイトだと思うんですが、その時はアナルのことをエイナルって呼ぶって決めて興奮してたんでしょうね、女の子とエロいメールそつつサラッと「エイナル」って言ってみたい衝動に駆られてしまったんです。
早速、件のサイトにアクセスし、登録、掲示板の書き込みを見てエロそうな女を物色したんです。
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名前 アユム
書き込み 今から会える人とかいないかなー、エッチしか取り得ないけど
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ハッキリ言ってこれは反則ですよ、反則。僕ぐらいの魔王になるとこの書き込みから1000の真実を読み取ることができるのですが、「エッチしか取り得ない」なんてすごい強烈な破壊力じゃないですか。なんとなくドジでボーっとしてる天然系の女の子で、でもエロいことになると豹変して貪欲に求める、みたいなイメージがあるじゃないですか。この書き込みにはそれだけ深い意味がある。
ケロッグもう我慢できないって感じですぐさまメール出しましたよ。送る際のニックネームを「pato」にするか「タダシ」とか普通の名前にするか、それともエキセントリックに「色狂中年卍」とかにするか悩んだんですけど、天然系の人見知りする子だろうから、ちょっと控えめに「ネコ」とか訳の分からない名前で送っておきました。31歳の中年が「ネコ」もクソもないんですけど、とにかく送っておいた。
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名前 ネコ
エロい話とかできないかな?
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まあどうせ、こんなインチキ出会い系サイトですよ、会うとかそういうの絶対にあり得ませんからエロい話でもしてサラッとエイナルって言えたらいいやくらいの気持ちでメール出したんです。そしたら鬼のような速さで返信が届いてきましてね。
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名前 アユム
エッチな話より会ってエッチしたいな!
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おいおい、アユムちゃん積極的だな。ほんと、貞操観念とかどうなってんだ、けしからん!って憤るんですけど、どうせサクラが会話を引っ張ってポイントをせしめようとしてるんでしょう。ここは乗ってあげるのが大人のマナーってもんです。
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名前 ネコ
うーん、会ってもいいけど、どういうことしたいの?
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まあ、正直言うとこの時点で半分くらい面倒になっちゃいましてね、もうどうでもいいやって感じだったんですけど、それでもエイナルって言いたい!っていう欲求だけが僕を衝き動かしていました。
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名前 アユム
普通のエッチがしたいかな?
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なんだよ普通のエッチって!と思うのですが、これはもう大チャンスで、ここで一気に決めてしまいましょう。
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名前 ネコ
エイナルをペロリとかしてみたいなあ
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よっしゃあ、いったああああ。もう満足、大満足。もうこれでおしまいでいい。って思ったんですけど、またもやアユムちゃんから鬼の速さで返事が来ましてね。
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名前 アユム
エイナルってなに?
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そうだよ、そりゃそうだよ。これが極めて普通の反応。ここでエイナルって言葉を脳裏に叩き込んでおいてですね、実はそれはアナルのことだよ、って教えることでウブな子なんかは赤面もんですよ。それを想像するだけでご飯3杯はいける。
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名前 ネコ
アナルのことだよ
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これでもうアユムちゃんはドン引き。顔真っ赤にして携帯電話握り締めてるに違いありません。そうではないかもしれないけどそうであると考えるだけで興奮する。もう最高だぜ。しかし、アユムちゃんの返事は予想外のもので
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名前 アユム
アナル舐めてくれるの!?お願いしていい?
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おいおい、どうなってんだ。すごい乗り気じゃないか。昨今の若い娘の貞操観念はどうなってんだ、けしからんな!などと思いつつも、アユムちゃんから得体の知れぬ本物のオーラを感じてしまい、省略しますが色々とメールのやり取りをしました。
するとまあ、アユムちゃんは会ってエロスなことをするのにたいそう乗り気でしてね、本気で待ち合わせ場所とか待ち合わせ時間とか指定してくるんですよ。こりゃもう、美人局か本当にエロスな女子が存在しているとしか思えない具体性でしてね、もしかして大変なことになるかもしれない、とこっちがドキドキしてきたんです。
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名前 アユム
じゃあ、9時に○○町のセブンイレブンの前で待ってる。こっちはジーンズに白のトレーナー着てるね
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もうね、ここまで言われたら行くしかないじゃないですか、行かないやつがいるのならばお目にかかりたい。行ってエイナルをペロリだぜ。ポケモンゲットだぜ!
早く行かねばならない。1分でも1秒でも早く到着しなければいけない。走れ!エロス!ってこれは前回の日記だった。とにかく、セブンイレブンの前では内気で人見知りをするアユムちゃんがドキドキしながら待ってるに違いない。こういうサイトで出会うのって怖いよぅ、殺されちゃったりする事件もあるし怖いよぅ、でも……エイナルをペロリされたい。恐怖とエロへの好奇心を天秤にかけるアユムちゃんの姿がそこにあった。そんな彼女を待たせてはいけない。急いでいかなければならない。
もう、緊急避難でも通用するんじゃないかって状況ですので、アクセルをブリバリに踏みしめてスピードを出します。もうアクセルペダル取れるんじゃないのって勢いで待ち合わせ場所に向かいましたよ。
するとね、まあ、予想はしていましたけど待ち合わせ場所に女の子はいないんですよ。微妙に寂しい場所にあるコンビニだったんですけど、アユムちゃんと思わしき女の子がカケラも存在しないの。あーあ、また釣られちゃったよ、すぐに釣られるダボハゼみたいな性質をなんとかしなきゃいけないなーとガックリと肩を落として帰ろうとしたその瞬間ですよ。
なんかポッチャリとしたっていうかデブな男性、年の頃は30歳前後でしょうか、品の良いザンギエフみたいな顔した男性がセブンイレブン前に佇みながらソワソワして腕時計見たり携帯見たりしてるんです。オッサンが普通にセブンイレブンの前に立ってるの。
いやいやいや、そんなね、品の良いザンギエフみたいなデブって点は愉快ですけど、そういう人がいたって何らおかしくないじゃないですか。普通にコンビニですし、人がいるのは当たり前。特段興味を惹く存在ではないはずです。けれどもね、そのザンギエフ、普通にジーンズはいて白いトレーナー着てるの。うん、アユムちゃんが言ってた服装そのままなの。
まてまてまて、落ち着け、落ち着くんだ。どういうことか分からないけどとにかく落ち着くんだ。もう冷や汗とかドカドカ出てくるんですけど、落ち着いて店内に戻って頭の中を整理します。そして一つの悲劇的仮説が。
もしかして、お互いがメール相手を女だと勘違いしてないか?
メール履歴を見て受け取ったメール、送ったメールを確認してみます。ふむ、僕はすっかりアユムちゃんのことエッチに興味津々な女の子だと思ってたけど別に男が送ってきていてもおかしくない内容だ。逆にこっちが送ったメールも女の子が送ってきていてもおかしくない内容だ。こりゃあ、本気でお互いに勘違いしていた公算が高いぞ。
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名前 ネコ
ごめん、遅くなって今から家出るんだけど、どんな服装が好き?
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ここでジャブ的メールを送信。すると時間を置いてザンギエフの携帯が光りだします。やっぱこのオッサンがアユムだ。で、ピコピコと返信を打つザンギエフ。すぐに僕の携帯にメールが来ます。
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名前 アユム
ミニスカートが好き
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完全に勘違いしとる。
おいおい、男同士で身の毛のよだつエロ会話してたのかよーと腰が抜けるどころか砕ける思いをし、さすがにアユム君のエイナルを舐めるわけにはいかない、と落胆。たぶんアユム君はアユム君で舐められたくないと思う。
もう相手が男なら会うもクソもないじゃないですか、ここでサッと帰ってしまおうかと思ったのですが、去り際にチラッとアユム君の姿を見たら物凄いウキウキしてて楽しそうでしてね、ほっぺとかちょっと赤くなってんの、多分すげえ勢いで風呂とか入ってきたんだと思うよ。その姿を見ていたら心の奥底がギュッと締め付けられる思いがしましてね、
「あのーすいません……。メールのアユムさんですか……?」
って普通に話しかけてました。
アナルを舐めてくれる積極的なメール相手の女の子、おいおい最近の女の子は過激だなーって思っててやってきたのが31歳の野武士だった。そりゃもう、アユム君の方の落胆もとんでもないものでしてね、
「どういうことですか!男には興味ありません!」
みたいなこと汗かきながらいってました。こっちも興味ないわボケ。
普通なら逆上したアユム君に殺されかねないシチュエーションなのですが、何故だか意気投合し2人で近くの喫茶店に行って飯を食うことに。そこで色々と事情を聞くと、どうやらアユム君は間違って女性が男性を募集するコーナーに書き込みをしてしまったようでした。その顔で「エッチしか取り得ないけど」とかかわいらしく書き込みしてんじゃねえよカス。
「トントン拍子で話が進むんでおかしいと思ってました」
とはアユム君の弁。こっちもおかしいと思ってたわ。
だいたい、アユムなんて名前だから勘違いするんだ、いやいや、ネコって名前の方が極めて悪質、女の子だと信じて疑わなかった、みたいな会話をしていたところ、そもそも本当に出会い系サイトで女性に出会えるのかっていう話になったんです。
「一度だけ会えたことあるんですけど、すぐにヤクザみたいな男が出てきて4万円取られました」
とはアユムの弁。そりゃねーよアユム、いくらなんでも不憫すぎる。1度目が美人局で二度目に男がやってきたなんて可哀想で目も当てられない。
「こりゃあいっちょ女を召還するしかないな!」
2人で召還魔法でも唱えて召還できるならいいのですが、現実世界ってそう甘くないですから、なんとか携帯電話を駆使して女性と出会おうと努力する2人。目の前にはエビピラフが運ばれてきていたけど手をつけなかった。
僕とアユムが出会ってしまうキッカケとなったサイトにアクセスし、2人で片っ端からメッセージを送りまくります。こいうメッセージのほうがいいんじゃないか、いやいやこっちのほうが好感をもたれるはず、そんな議論をしながら女性が引っかかってくるのを神妙に待ちます。すると、僕の携帯のほうにメールが!
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名前 ユミ
いいよ!いますっごい暇だし
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もうメッセージ送りまくってて誰に何て送ったのか分からないんで何が「いいよ!」なのか分からないんですけどとにかくエロスな提案に対する快諾だと判断。アユムと2人で興奮しながら返事を書きます。もちろん、「女だよね」とキチンと確認もした。
「マジで来たらすげーな」
「ドキドキしてきた」
やっとこさエビピラフに手をつけ始めた2人。そこでアユムのヤロウがとんでもないことを言い出すのです。
「今回は勘違いがあったといえ、女性が来ると思っていた僕のところに君が来た。いわば僕は被害者だ。これから来る女性がかわいかったら僕が貰うよ」
テメーは頭の中にニューカレドニアでもつまってんのか。ガックリきたのはこっちも一緒だわ。ザンギエフみたいな顔しやがってからに。
「ちなみにブスだったら…?」
そう質問してゴクリと唾を飲むと
「君にあげる」
こんな自分勝手なヤツみたことねー。なんなんだコイツ。太りすぎて死んだらいいのに。
もう圧巻としか言いようのないアユムの自分勝手さに触れつつ、早く来ないかなと喫茶店に置かれていた古いジャンプなんかを読みながら待っておりました。あまりにも遅いのでやっぱりすっぽかされたか、そもそもそうそう出会い系サイトで会えるもんじゃないよな、と思いつつトイレに行くと、携帯に着信があったのです。
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名前 ユミ
ついたよー、店の前にいるよ
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これはチャンスだ。トイレのために席を立った僕。この場には僕しかいない。アユムに気付かれる前にやってきた女性を確認すべきではないか。恐る恐る入り口近くに行き、窓から女性の姿を確認します。
ありえねー。
ホラ、ブスとかいるじゃないですか。男の子ってどうしても「アイツブス」とかそう言葉にしちゃう困ったちゃんじゃないですか。でもね、それってあくまでも人間を前提としたブスでしょ。「アイツブス」の枕詞として「人類として」ってついてるんですよ。稀に「ゴリラブス」みたいなのもありますけど、それでも生き物としてブスってのが前提じゃないですか。
でも、店の前にいるのが、暗くて明確には分からないんですけど、それでも人間の、いや生き物としての範疇を軽々とK点越えしたブスなんですよ。言ったら、無機物としてのブス。椅子とかあるじゃないっすか。椅子にもいろいろあって、捨てるしかないボロ椅子とか新品の高級椅子とか、そんな価値観の中での椅子としてのブス、みたいなのがソワソワと店の前にたっとるんですよ。椅子ブスがたっとるんですよ。
さあ、迷いましたよ。なんかブスなだけならいいんですけど、明らかに性に関して貪欲そうなブスがゲルルルルルルルって感じで店の前にいる。このままでは二人まとめて相手してあげるとか言われて僕もアユムも死ぬより辛い思い出をプレゼントされるかもしれません。
「なんて禍々しきオーラだ」
店の小窓から覗いて震えるしかない僕。こんなブスみたことない。づするべきかどうするべきか。
そこでカルネアデスの板ですよ。このままいったら発奮した椅子ブスに僕もアユムもやられてしまう。二人ともやられるくらいならいっそのことアユムを陥れて僕1人でも助かったほうがいいに決まってる。危機による損失が回避行動による損失を上回った瞬間でした。
-------------------------
名前 ネコ
店の中にいるからー。白いトレーナー着てジーンズはいてエビピラフ食べてる。早く来て!ちなみにアユムって名前だから!エイナル舐めちゃうぞ!
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って送ってレジでエビピラフ代だけ払って帰りました。帰り際に椅子ブスとすれ違ったんですけど、やっぱり椅子ブスだった。店の中にあった木製の椅子のほうがかわいかった。
悲しい選択だった。仕方ないとはいえ、アユム君という尊い犠牲を出すに至った。それでも誰も僕を責めることなどできやしない。それこそがカルネアデスの板なのだから。
本来のカルネアデスであるところの、助かるために人を殺す選択とはどういうものなのだろう。それは僕には分からない。けれども、きっと苦しい選択であるはずだし、罪に問われないとはいえその後も本人を苦しめるであろうことは容易に想像できる。
そういった選択をしなくていい平和な日常をありがたいと思いつつ、さらに今回の椅子ブスの擦り付け合いみたいに自分を誤魔化して納得するためにカルネアデスを使えることに感謝しなければならない。
さあ、家に帰ろう。今頃きっとアユム君は椅子ブスにエイナルを舐められている。僕も家に帰って自分のエイナルにウズラの卵を入れて満足しよう。
4/16 走れエロス2
エロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の上司を除かなければならぬ。エロスには仕事がわからぬ。エロスは、31歳であり今年32歳、仕事をサボり、給料泥棒と罵られようとも全ての物事を曖昧に濁して面白おかしく暮してきた。仕事のやり方などとうの昔に忘れた。
エロスには癖があった。年齢を聞かれた時、必ず「28歳です」と何の得にもならぬ嘘をつくことだ。若く見せよう、などという邪(よこしま)な気持ちはない、キャバ嬢が皺(しわ)だらけの顔で「19歳です」などと言い張るトリックでもない。ただ単純に28という数字の響きが好きなのだ。
エロスの会社にも4月となり新入社員がやってきた。フレッシュなスーツに身を包んだ新入社員を見るに、情熱と希望に包まれた若き日の自分を思い起こし、エロスは少し寂しくなった。
新入社員の中に異端の者がいた。名はセリヌンティウス(仮名)という。セリヌンティウスは学生時代に諸外国をリュック一つで回り、気付けば28歳だったという。大学も中退だ。28歳で新卒採用、異例中の異例であった。エロスはその若者の情熱、型から外れることを怖れない勇気にいたく関心を持ち、さらにそんな異端の若者を採用する我が社を誇らしく思った。早速、入社直後、彼に接触を持った。
「はじめまして、patoっていいます。仕事で分からないことあったら何でも聞いてね」
「あ、どうも。ところで先輩、何歳っすか?」
「俺?28歳だけど」
何の得にもならぬ嘘をつく。エロスはそんな自分を誇りに思った。
「なんだー、タメじゃん、マジでー。なんかこの会社ってダルくね?社長キモくね?お前、28にしてはフケてね?」
セリヌンティウスはエロスを同い年と勘違いし、いきなりタメ口であった。全ての言葉の語尾に「w」がついていそうな勢いであった。新入社員にいきなりタメ口を叩かれてしまうエロス、31歳、ただ呆然とするしかなかった。そして、彼が何故28歳になるまで一切合切働いていなかったのか、その理由の一端が垣間見えた気がした。
数日後、エロスは寝坊して昼前に職場にやってきた。遅刻をした時は堂々とすることだ。遅刻しまして、などと恐縮してしまっては遅刻自体が大罪のように扱われてしまう。堂々と、今来ましたけど文句ある?といった顔つきで職場の廊下を歩けばいい。エロスには譲れない誇りと信念があった。
眠いのにわざわざ職場に来てやったのだ。先ず、各部署に趣いて時間つぶし、お茶でも飲もう。それから職場のメイン廊下をぶらぶら歩いた。歩いているうちにエロスは、職場の様子を怪しく思った。ひっそりしている。
節電だか省エネだかで不必要な電気が落とされ、廊下が暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、節電のせいばかりでは無く、職場全体がやけに寂しい。のんきなエロスもだんだん不安になって来た。
路で逢った若い同僚を捕まえて何かあったのか、職場はクズどもが唄い踊り賑やかであった筈だが、と質問した。若い同僚は首を振って答えなかった。
しばらく歩いてベテラン社員に逢い、こんどはもっと語勢を強くして質問した。ベテラン社員は答えなかった。エロスは両手でベテラン社員の体を揺すぶって質問を重ねた。すると、ベテラン社員は、あたりを憚(はばか)る低声でわずかに答えた。
「上司は人をクビにします」
「なぜクビにするのだ」
「業績不振によるリストラ、というのですが、業績不振は今に始まったことではございませぬ」
「たくさんの人をクビにしたのか」
「はい、はじめは無断欠勤が多かった中堅社員を。それから、派遣の女子社員を一掃いたしました。それから、出世コースから外れ定年間近のご老人たちを。新しく来た上司は鬼でございます」
「おどろいた。上司は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。業績不振の打開策として他社より引き抜かれ、4月よりやってきた新上司、やる気に満ち溢れているのです」
聞いて、エロスは激怒した。
「呆れた上司だ。生かして置けぬ。」
エロスは単純な男であった。直接的にクビには出来ぬものの、あらゆる手段を駆使してクビに追い込む新上司、その手腕に怖れはなかった。なにより、社内中のダメ社員の代表であるという自負がエロスにはあった。
「許せぬ、喫煙所で悪口とか言ってやる」
正義に厚いエロスであってもクビは困る。頑張って仕事するのもそれ以上に困る。あまり目立たぬよう、喫煙所でヒッソリと上司の悪口を言うことしかできなかった。
しかし、そのような話は知らず知らずのうちに広がるもの、あっという間に悪口が上司の耳に届いてしまい、騒ぎが大きくなってしまった。エロスは上司の前に引き出された。
「私のことが気に食わないなら直接言え!」
暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その上司の顔は蒼白で、眉間の皺は刻み込まれたように深かった。
「何も文句はございません」
とエロスは悪びれずに答えた。あなたの忠実な犬ですとまで言おうと思ったがやめておいた。
「ほんとうか?」
上司は、憫笑(びんしょう)した。
「はい、それでは仕事がありますので」
エロスは上司の部屋をあとにしようとした。すると上司が憮然と話しかけてくるではないか。
「まあ待て。どうせ暇なのだろう。ならば新入社員の教育係を任せてやろう」
見事教育できたのなら上司も考えを改めるだろう、教育できたら自分のクビを守ることもできるだろう、エロスはそう思った。
「ほう、教育係とな。して、その新人とはどこに?」
「分からぬ。人事にいけ、一人扱いづらい新人が余っていたはずだ」
エロスは颯爽と人事へと向かった。
「教育係だった人が断わってしまいましてね、彼だけ教育係がいないんですよ」
人事の言葉が胸に突き刺さる。教育係に教育を断わられるとは余程のことだ。エロスの記憶が確かならば、エロスが入社した時に1件起こったきりだ。それだけに異例中の異例、新人がかなりの傾奇者でない限り断わられたりはしないはずだ。エロスは自分が新人だった時に教育係がいなくて一人ぼっちだったことを思い出した。
「彼です」
人事が資料を差し出す。名前と写真を見てエロスは絶句した。
「これはセリヌンティウスではないか!」
「はい、そうです。どうも彼、扱いづらいみたいで」
人事は申し訳なさそうに笑った。あのタメ口の若者だ。扱いづらいのも頷ける、教育係が教育を放棄したのも頷ける。エロスは与えられた使命の重さに身震いした。
「して、このセリヌンティウスは今どこに?」
早く彼と会わねばならぬ、会って教育をしなければならぬ。はやる気持ちがエロスの語気を強くした。
「無断欠勤中です」
おのれセリヌンティウス。入社4日目で無断欠勤とは豪気よのう。呆れるを通り越して感心してしまった。いいや、感心している場合ではない。拍手喝采している場合ではない。あの暴虐の上司は無断欠勤したセリヌンティウスをクビにするだろう。ゆくゆくは教育係のエロスにまでその毒牙は及ぶだろう。それだけは避けねばならぬ。
エロスは資料を見て早速セリヌンティウスに電話をかけた。呼び出し音の変わりに人を小バカにした様な音楽が鳴り、セリヌンティウスが電話に出た。
「だれー?」
「あ、エロスっていいますけど、今度君の教育係になってね、ほら、1度会ったじゃん」
「ああ、あの人か。なにか用事?」
エロスはくじけそうだった。電話の向こうの男は人種が違う。言葉が通じぬ。彼には無断欠勤したという負い目が微塵も感じられないのだ。
「いや、今日、会社休んだでしょ?ダメじゃない、休むにしても連絡しないと」
セリヌンティウスは無言だった。電話の向こうから聞こえてくるのは賑やかでアップテンポな音楽とジャラジャラという喧騒、間違いなくこいつはパチンコを打ってやがる。エロスは彼からとてつもない大物のオーラを感じた。
「パチンコ、打ってるよね……?」
「はあ、まあ、ぼちぼち」
何がボチボチなのか、エロスには全く分からなかった。
「とにかくさ、会社が終わる5時までに来て。それまでに来たらあらゆる力を駆使して遅刻扱いにするから。なあに、そういうの得意なんだ」
エロスがそう言い終わるか終わらないかのタイミングで電話が切れた。電源を落とされたようで何度かけなおしても繋がらない。おそらく拒絶、というやつだろう。エロスは決意した。
彼はこのまま来ないだろう、おそらく仕事を辞めたいのだろう。辞めるのは自由だ、辞めたいのなら辞めればいい。けれども、何も言わずに無断欠勤をしてフェードアウトするような大人にだけはなって欲しくない。ケジメだけはつけるべきだ。彼の教育係としての保身がなかったと言えば嘘になるだろう。けれども、必ずや無断欠勤だけはさせない、辞めるにしても会社に来させようと決意した。
インターネットでパチンコ屋を調べ、彼と同期の新人に話を聞き、彼が行きそうなパチンコ屋を調べ上げた。何軒も何軒もパチンコ屋を周り、全部の台を見て回って彼の顔を捜す。4軒目だっただろうか、郊外の大型パチンコ店で彼を見つけた。
セリヌンティウスは半分口を開け、エヴァンゲリオンのパチンコ台に座っていた。丁度アスカが出てくるリーチが外れたのだろう、「クソッ!」と台の上皿を殴っていた。見紛うことなき人間のクズ、そのお手本がそこにあった。
「見つけた」
「なんだよ、うぜー」
「さあ、会社に行こう。5時までにいけば遅刻扱いにできる、してみせる」
「いいよ、もう辞めるしさ」
エロスの予想通りであった。セリヌンティウスは悪態をついて1万円札を千円札に両替する。彼はこのまま無断欠勤してフェードアウトするつもり。そうやって今までも嫌なことから逃げてきたのだろう。
「辞めるなら勝手に辞めればいい。でもな、そうやって誤魔化しながら生きていくのは止めろ。俺だって仕事できない、ゴミだ、クズだ、でもな、自分を誤魔化すことだけはしない。辞めるなちゃんとケジメつけて辞めろ」
今このシーンをなぜ職場のヤリマンとかが見ていないのか、エロスはそればかりが悔やまれた。いや、それどころかセリヌンティウスすら聞いていなかった。彼はまたエヴァンゲリオンのパチンコ台に座り、咥えタバコで台に向かっていた。またアスカのリーチが外れたようで悔しそうに台を叩いていた。
「お前は間違ってる!」
エロスの言葉にセリヌンティウスは体を震わせた。
「お前は間違ってるぞ」
再度念を押す。どうやらセリヌンティウスは話を聞く気になってくれたようだ。近くの定食屋に行き話をしながら飯を食うことになった。
「いいか、お前は間違ってるぞ」
「何が?」
オムライスを食べながらセリヌンティウスは憮然としている。これから始まる説教にウンザリしているのが読み取れた。
「いいか、アスカリーチはお前が思ってるほどアツくない。どんなにアツい予告が絡んでもまあ外れる。つまり外れて当たり前。お前は悔しがるポイントが間違ってるんだよ。三機迎撃リーチとか外してから悔しがれ、その辺の認識からして間違ってるんだよ」
セリヌンティウスの表情が和らいだ。打ち溶け合えた気がした。それからはまあ、セリヌンティウスの喋ること喋ること。パチンコの話、世界を回っていたと時の話、日本に戻って風俗にはまったこと、どうでもいい話のオンパレードであった。
「いやね、日本に帰って風俗にハマったんだよ。日本各地の風俗街を巡ってね!札幌とか大阪とか!もうヘルスとか最高!」
屈託のない笑顔でそう言うセリヌンティウス、心のどこかで彼が仕事を辞めないように引き止めようと考えていたが、なんだか辞めてもいいやって考えるようになった。それと同時に今は亡きヘルス大好き鈴木君、略してヘルスズキ君に苦しめられた思い出が走馬灯のように流れた。彼、元気にしてるかな。
「それでね、博多にすっごくいいヘルスがあるんだよ。こっちが攻めるとすごい感じちゃう女の子がいてもうビンビン!」
わかった、わかったからもっと声のトーンを落としてくれ。他の客が鯖の味噌煮定食食いながらこっち見てるだろ、恥ずかしいだろ。
「で、すっげえ攻めてたら感じすぎちゃってブシューー!って潮吹いちゃった!聞いてる?潮だよ!潮!ブシューって!」
やっぱ君は辞めた方がいいよ、エロスはそう思った。
「博多のヘルスで潮吹く風俗嬢、これが本当のはっ!かっ!たっ!の!潮ー!ってね!」
もうダメだコイツ、本当に辞めて欲しい。会社からその存在を抹消して欲しい。死んだらいい。しかし、それで打ち解けたのかセリヌンティウスは切々と悩みを語り始めた。希望に燃えて入社して、いきなり○○という部署に配属され、それで心底落胆した、そんな話だった。
○○という部署は、ハッキリ言ってリストラ予備軍みたいな人が配属される部署で、朝から晩までずっと資料のコピーアンドペーストをし続けるという恐ろしい部署、別名コピペ部とも言われている。しかも、そのコピペが仕事になるのならまだやりがいがありそうだが、大半がやってもやらなくても関係ないコピペばかりやらされるという、発狂物の部署だ。
そこに配属された人はガンガン辞めていく、今回やってきた暴虐の上司も辞めさせたい人員をガンガンそこに配属させるという妙手を使っていた。入社してすぐ、それも表向きは研修期間だ。その期間でいきなりそんな墓場みたいな部署に行かされるとは、セリヌンティウスは一体何をやらかしたんだ、怖くて聞けなかった。
「もうちょっとがんばってみようかな」
セリヌンティウスがポツリと漏らす。
「いや、辞めたほうがいいかもしれない。もっといい仕事いっぱいあるって」
なんとか思い留まるよう説得するエロス。
「今日、patoさんと話してたらなんだかやってみようかなって気がしてきました。来てくれてありがとうございます」
セリヌンティウスはいつの間にか先輩に対する口調に代わっていた。
「人生なんてアスカリーチみたいなもんだ。仰々しいだけで大抵は外れる。でも、たまに当たる。だから外れたからって悔しがることないさ」
良く分からないまとめ方をして会社に向かうことに。セリヌンティウスが辞めない気になったのならば欠勤はまずい、やる気になっていても欠勤などしたら暴虐の上司にクビにされてしまう。なんとか5時までに会社にいかなければならないのだ。時計を見ると4時45分、あと15分、日没までに会社に戻らねばならぬのだ。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、エロスは黒い風のように走った。実際には車を運転して落ち着いて走った。助手席ではセリヌンティウスが神戸のソープランドの話をしていた。ウザかった。
渋滞にひっかかる。田舎なくせにいっちょ前に渋滞しやがる。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
裏道を抜けて渋滞を回避、なんとか職場の駐車場に着いたとき、時間は4時59分であった。あと1分、間に合う、間に合うぞ。ダメかと思われたがわずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。
わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。5時までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。たぶんいないけど。
私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!エロス。あと、もっと早く走れ、セリヌンティウス。
到着した時、時計は5時3分であった。このままタイムカードを押せばセリヌンティウスは欠勤として扱われてしまう。5時前だったならば9時間遅刻なだけだと珍妙な良い訳もできるが、欠勤はどうしようもない。
「間に合わなかったんですか?」
「すまん!」
「そんなことないっすよ、嬉しかったです」
息を切らす2人。そこに暴虐の上司がやってきた。最悪だ。このままではせっかくやる気になったセリヌンティウスがクビになってしまう。コピペ部というリストラリーチの部署でも頑張ってやっていくと決めたセリヌンティウスがクビにされてしまう。セリヌンティウスは覚悟し、エロスは目を瞑った。
暴君ディオニスはタイムカード前で息を切らすエロスとセリヌンティウスを見て全てを悟った。そしてそっと口を開く。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
とは言わなかった。断じて言わなかった。けれども、上司は鍵を使ってタイムカードを開け、無言で時計を5時前に移動させた。我々は間に合ったのだ。
どっと群衆の間に歓声が起った。実際にはみんな黙々と仕事をしていた。
「万歳、上司万歳」
誰も言わなかったが、弛緩した空気が流れるのが分かった。そしてセリヌンティウスとエロスは顔を見合わせる。
「よかったな、コピペ部でも頑張れよ、セリヌンティウス」
お前はコピペ部だ、リストラ要因だ!エロスにはセリヌンティウスを見下す気持ちが確かに存在した。上司がそっとエロスに近付きエロスに紙を渡す。その紙には
「エロス コピペ部に配属」
とんでもないことが書かれていた。セリヌンティウスを見下していたら自分までコピペ部になっていた。リストラ要因になっていた。死ぬほど恥ずかしい!
エロスはひどく赤面した。
4/8 1ポンドの福音
絶対に負けてはいけない。負けてはいけないのだ。ワンルームのアパートに据え付けられたキッチンとは呼べない粗末な流し台の前に佇み、蛇口をひねる。程なくしてカラカラと耳障りが良く、それでいて聴きなれないサウンドが聞こえる。その異様な音に耳を傾けながらpatoは決意した。
勝ち負けにこだわることは人生を面白くするが、勝ち負けだけにこだわることは人生をつまらなくする。patoはその言葉はひどく当たり前だと常々思っている。人生は勝ち負けがあり、いつも負けてばかりでたまに勝つから面白いのだと自らを鼓舞する際に言い聞かせていた。
全てをこだわるのは愚かなことだけど、ここだけはこだわってやろう、ここだけは勝敗にこだわってみよう、patoは心に決めていた。蛇口の前で自分自身に向けてそう決意表明するのだった。
patoはもう31歳だ。今年の夏に32歳になる。そろそろ職場にやってくるヤクルトのオバちゃんに「28歳です」と何の得にもならない嘘をつくのが苦しくなってきた年齢だ。かつての同級生達が家庭を持ち、出世をしていき、それなりに温かい家庭を築いていく中、歴然たる敗北を痛感していた。気分は敗残兵だ。
きっかけは古い友人からの連絡だった。突如アパートに届いた古い友人からの便りには、笑顔で佇む友人とその奥さん、生意気そうな子供が2人写っていた。その写真の下にはボールペンで小さく、「ブログ始めました」とURLが記載されていた。
アイツが家庭を……!?それもこんな幸せそうな家庭を……!?
様々な想いが脳裏を駆け巡る。この幸せそうな写真に心霊の一つでも写っていないかと目を凝らしたが、当たり前にそういったものも存在しなく、正真正銘、見紛うことなく幸せファミリーの写真だった。
焦る気持ち、震える指先を抑えてパソコンに向かい、ハガキに記載されたURLにアクセスする。「○○のキモチ」と思いっきり友人の本名が記載された冠番組ならぬ冠ブログが目に飛び込んできた。何がキモチだ、七回死ね。そして、思いっきり行間を空けて書かれたスカスカの文章は、明らかに僕の心の中のコアな部分を侵食していった。
親からの支援があったものの一戸建てを建てたこと。将来はこの部屋を区切ってマサシとコウヘイの子供部屋にしますとも書いてあった。職場で出世し、責任ある立場になったという緊張と共に決意ともとれる文章。子供が生まれた際の涙の感動回顧録。休日は家族でドライブに行く、この間、同級生とバーベキューしました。そこには「Numeriつまんない」とか掲示板に書かれるより心臓に悪い文章たちが所狭しと踊っていた。
こいつは悪質なインターネットだ。どんな闇サイトより詐欺サイトより違法サイトより学校裏サイトより、こういった同級生のブログこそ悪質だ。政府は本腰入れて取り締まるべきだ。patoは誰に聞かせるでもなくひっそりと呟いた。
そんなpatoの周囲を見回すと、うず高く積まれたゴミの山、家族のように常に寄り添うエロ本の山、エロ本の一戸建てだ。休日は寝たりパチンコしたりしているうちに一日が終わる。どうしようもない、丸っきり負け組みの姿がそこにあった。
「負けちゃったね、pato」
どこからかそんな声が聞こえる。幼き日、想像した自分はどうだったろうか。ただ漠然と何らかの素敵な未来を想像していたに違いない。21世紀の未来は車が宙を飛んでいて人々が透明なチューブの中を移動しているに違いない、そう思うと同時に漠然と未来の自分を思い描いていたはずだ。今、自分はその場所に立てているのだろうか。過去の自分が今のpatoを見たらムチャクチャ怒るんじゃないだろうか。考えれば考えるほど呼吸が苦しくなり、なんだか喉がカラカラと音を立てそうなほどに渇いてきた。
急いで流し台に走り、コップを手に蛇口をひねる。水でも飲んで気を落ち着かせないとやってられない。気を落ち着かせないとあまりのストレスに小学生チャットを荒らしにいってしまいそうだ。patoはありったけの力をこめて蛇口をひねった。
カラカラ
多くの人はご存知ないだろう。いや知りたいとも思わないだろう。水道を停められた状態で蛇口をひねると、もちろん水なんてこれっぽっちも出ないのだけど代わりにカラカラと音がする。それはそれは心地良い音がするのだ。水道管の奥深くから蠢くような乾いたサウンドが聞こえる。本当に空だから乾いたカラカラサウンドを聞かせる、水道局もなかなかトンチが効いてやがる。
「バカな、水道まで停められたというのか……?」
ハッキリ言って水道を停められるというのは余程の事態だ。電気、ガス、電話、ネットを停められるってのはほんの序の口、スキーでいうボーゲンみたいなものだ。しかし、最後のライフラインであるところの水道は違う。水道停めたら死ぬかもしれんなという仏心が働くのか、本当に本当、どうしようもない事態に陥らない限りなかなか給水停止とはいかない。スキーでいうと美女と遭難して山小屋で裸になって抱き合うくらいのレベル、水道停止にはそれだけの価値がある。
いくらひねっても水は出てこない。急いでゴミの山を確認すると「給水を停止します」という水道局からの脅迫文が紛れ込んでいた。そんな絶望的、四面楚歌の状態でpatoはニヤリと笑った。
「面白くなってきたじゃないの。絶対に負けてなるものか」
人生の勝ち組となった同級生の写真ハガキ、その幸せを綴ったブログ、かたや水道を停められるレベルの負け組みの自分に、アホなことばかりを綴ったNumeriというテキストサイト。全てが圧倒的に負けている中でpatoは勝負魂を燃やしていた。負けてなるものかと自らを鼓舞したのだ。
「負けてなるものか、水道局め!」
その相手は同級生にでも、人生についてでもなかった。ましてや巨大な何かでもなかった。ただ見当違いに水道局に向かって闘志を燃やしたのだ。明らかに何かを大きく逸脱している。
水道料金を滞納し、それが許せないレベルまで達したので停められるのは仕方のないことだ。停められるのなんて人間のカスだし、わざわざ停めに来た水道局の人を思って平身低頭謝らなければならないと常々思っている。しかし、そこで絶対に譲ってはいけない勝負のアヤが存在するのだ。
「水道を停められたからといって急いで水道料金を払ってはいけない」
多くの人は水道を停められると焦る。本当に焦る。なんとか水道を出してもらおうと急いで料金を支払い、頼む、早く復活してくれ!と蛇口の前で祈るはずだ。しかし、それは水道局の手の平で踊らされているに過ぎない。もう、圧倒的な負け組みと言わざるを得ない。水道を停められるだけでも負け組みなのに、それ以下の負け組みと言わざるを得ない。
逆に停める側、水道局サイドの人はどう思うだろうか。水道を停めたらいきなり水道料金が払い込まれた。「やりい、やっぱ水道停められるのはきつかったか!すぐに払いおったぞあのクズめ!ベロベロバー」くらいに思うかもしれない。これはもう負けを認めるようなものだ。停められたからといってすぐに払ってはいけない、それはもう負けを認め平伏したに等しいのだ。
もちろん、人道的、道徳的、社会的体裁、全てを加味してあらゆる面から見てもすぐに払う、申し訳ないと謝るのが普通なのだけどどうしても譲れない勝負がそこにあった。人生には負けた。同級生にも負けた、後輩のほうが先に出世したし、ついでにパチンコにも負けた、けれどもここだけは負けちゃならねえ、こうなったら勝負だ、どっちが根負けするか勝負だ!水道局!こうして、patoのアパートの水道を使わない孤独な勝負が始まったのだった。
水道停止から1週間。
大した問題はなかった。どうせ飲料水なんてコーラで代用できる。洗濯はコインランドリーでできる。風呂なんて健康ランドに行けば死ぬほど入れる。もしかして家に水道なんていらないんじゃないの?そんな余裕すら感じられた。
水道停止から半月。
そろそろ限界に近い。飲料水、洗濯水、風呂水、その辺は全く問題がないのだけど問題はトイレの水だ。もちろん、水道を停められると水洗トイレの水も流れない。基本的に垂れ流し、これを読んでる人で食事中の人がいたら本当に本当に、不快な気持ちにさせてしまって愉快なのだけど、茶色い水がモンマリと便器に溜まった状態になる。匂いが凄い。明らかに管理されていない公衆便所の匂いがする。
水道停止から1ヵ月。
トイレの匂いが最強レベル。トイレだけに止まらず、部屋の中にまで漂ってくる始末。部屋全体が公衆便所。寝ていても公衆便所、飯食っていても公衆便所。心が折れそうになるも、負けてなるものかと固く決意する。これ以上のトイレ使用はやばそうなのでペットボトルにし始める。
水道停止から1ヵ月半。
匂い、ついに部屋の外へ。通路を歩いているだけで漂ってくる公衆便所スメル。不審に思ったアパートの管理会社がついに「アパート全体に異臭がしています。入居者各自でトイレ等の点検をしてください」などと異例の張り紙がされる事態に。そろそろマズいと思いつつも、負けてなるものかと唇を噛み締める。
水道停止から2ヶ月。
匂いに慣れる。周りの住人的にはたまったものじゃないだろうけど、もう慣れてしまったので全然楽勝。公衆便所臭い?ふーん、って感じ。水道なんてなくても2ヶ月も生きていける。これはもう勝利だろうと確信する。洗濯も風呂も無理なのでいつものようにコインランドリーに行って健康ランドに行くことに。
このまま2年くらい水道出なくても全然困らないよ、大勝利じゃん、などと鼻歌混じりに健康ランドの湯船に浸かる。いつもは体洗って湯船に浸かったらすぐに帰るのだけど、今日は2ヶ月も水道無しで生きられて気分が良い、いっちょサウナでも楽しむかと湯船を上がって意気揚々とサウナへ。
サウナの中には20人くらい人がいて、主にオッサンを中心に修行僧みたいになってダラダラ汗を流している。僕はこのサウナの息苦しさっていうか、ムーンと肺に来るプレッシャーみたいなのが苦手で5分といられない。それどころかサウナの何が楽しいのかサッパリ分からない。入ってみるもののやっぱりダメみたいですぐにギブアップ、もう帰ろうかと支度をする。するとサウナの横にあったある看板が目に留まった。
「蒸気風呂」
蒸気によって発汗を促します。サウナが苦手な人でも大丈夫。そう書いてあった。これならいけるかもしれない、サウナはダメだったけどこれならいける、意気揚々と蒸気風呂へ。
入ってみると、やはり蒸気風呂と銘打つだけあって蒸気がものすごい。入った瞬間にムーンと蒸気が押し寄せてきて部屋全体が暑い。中には先客が2人いるみたいで、一人はバーコードハゲのオッサンが汗をダラダラ流し、もう一人はボクサーみたいな若者が瞑想をしていた。
中は本当に蒸気だけ出るようになっていて、そこに4つ石の椅子が置かれている。それ以外に何もなく照明も暗い。テレビやなんかが置かれて人も多いサウナに比べるとあまりにも暗くて寂しい。けれども、息苦しさもさほどでもなく、確かに蒸し暑いけどこれなら我慢できると睨んだ僕はちょうど先客の間に置かれた椅子に腰かけた。
これならある程度我慢できるだろう。よし、勝負だ。僕は先客2人より長い間この蒸気風呂を我慢してみせる。絶対に負けない。心の中でそう決意し、勝手に勝負魂を燃やす。
30分経過。
バーコードもボクサーも微動だにしない。僕はもう限界に近くて汗をダラダラ流して大変な状態だった。はやく出ろよコノヤロウ、などと心の中で唱えていた。そこには負けられない戦いがあった。
45分経過。
ついにバーコード動く。「うひゃあ、暑い暑い」とか言いながらチンチンをブラブラさせて蒸気風呂から出て行った。ついに勝利。残すはボクサーを倒すだけだ。
50分経過。
異常発生。なにやらボクサーの動きがおかしい。
いや、ボクサーは動いてなくて、相変わらず下を向いて微動だにしていないのだけど、明らかに何かがおかしい。何か変だと思いながらよくよく見てると、ジリジリとこっちに動いてきていた。意味が分からない。
55分経過。
とんでもないことを発見する。1分間に数ミリくらいのオーダーで僕に近づいてくるボクサーをチラチラと見ていたのだけど、その股間が明らかに大変なことになってる。フルチャージで勃起してやがる。フェイスタオルで股間を隠していたのだけど、そんなの意味ないぜって言わんばかりダイナマイトしていた。その立ちっぷりや、そびえ立つソビエトみたいな感じ。意味分からんけど。
とにかく大変なことになった。今やこの狭くて仄かに暗い蒸気風呂の中で僕とボクサーは2人っきり、しかも相手は勃起してやがる。ジリジリと僕に近づいてきやがる。ここは大事をとって逃げ出したいのだけど、彼より先に蒸気風呂から出ることは敗北を意味する。徹底的に勝負にこだわっている僕はこんなところで負けるわけにはいかない。
もしかしてこの蒸気風呂だけ目立たない場所にあって暗いのは理由があるんじゃなかろうか。じつはここはホモのハッテン場とかになっていて、それがユーザーの間では暗黙の了解。だからさっきのバーコードも妙にソワソワしていたんじゃなかろうか。そんなところにやってきた僕、これはもう貫かれてしまうんじゃないだろうか。逃げ出したい、今すぐ逃げ出したい。でも勝負に負けるわけにはいかない。
ビクビクしているとボクサーが動いた。
「ふぃー!」
安堵の呼吸をしておもむろに立ち上がる。あまりの事態に驚いた僕は
「ヒィ!」
と意味の分からない悲鳴を上げていた。相変わらずボクサーはギンギンだ。まるで僕に見せびらかすように己のマグナムを見せ付けている。それを見た僕がウットリするとか思ってるのかもしれない。
しかも恐ろしいのは、立ち上がったボクサーが蒸気風呂から出て行くわけでもなく、その場でスクワットを始めたからさあ大変。フンッフンッ!とか上下に動くボクサー、おまけにギンギンですよ、歩く電動こけしみたいな状態になっとった。これはもう盆と正月が一片に来て、ついでにお婆ちゃんにも生理が来たみたいな状態ですよ。
これは不器用なボクサーの愛情表現!求愛行動!そうとしか思えない僕は恐怖に震え、もうボクサーの方を見ることも出来ず、俯きながら「ごめんなさいごめんなさい、許してください、水道料金もちゃんと払います、弟のお金も返します、本もちゃんと送ります」神様に向かって必死の懇願。蒸気の中でスクワットするボクサーに体育座りみたいな状態でブツブツ呟く僕と、まあ知らない人が見たらすごいシュールな光景ですよ。おまけにボクサービンビンですからね。
結局、あまりに激しいスクワットのためにフェイスタオルがハラリとめくれて僕の眼前に落ち、それをボクサーが「おっとっと」とか言いながら照れくさそうに拾いに来た時点であらゆる意味で限界と感じ、そそくさと逃げるように蒸気風呂から出たのでした。歴然たる敗北。
寒さではない、恐怖でブルブルと震える僕は、圧倒的な敗北感を胸に家路へとつき、大人しくコンビニで水道料金を払ったのでした。もうこんな何の意味もない無益な勝負に熱中しない、そんな意思表示でした。間違った勝負だけはしちゃいけねえ、部屋は臭いわ怖い思いするわ何も得るものがねえ。
人生とは勝負の連続です。勝つこともあるでしょう。負けることだってあるでしょう。その勝敗にこだわることは人生という退屈なクソゲーを面白くしてくれます。僕のように勝負どころを間違わず、もっと有益な部分で勝敗にこだわってみる、それこそが極上のスパイスなのです。負けたっていい、勝てる部分で勝てばいいのです。
件の同級生のブログ、人生レースの敗北という辛酸を味わされた悪魔のブログですが、人生では負けたけどインターネットでは負けないぜ!俺、インターネットは得意なんだ!負けないぞ!とそのブログに
「久しぶり!高校の時同級生だった○○だよ!この間健康ランド行ったらボクサーみたいなホモにギンギンのチンコを見せつけられたよ!怖かった!」
と全てのエントリーにコメントにしまくってたら、「このブログは子供もみるのでそういう書き込みはご遠慮ください」とひどく他人行儀なメッセージと共にアクセス禁止にされました。インターネットでも負けた。その横でトイレ代わりに使っていたペットボトルが腐臭を放ち始めていた。
4/1 山が動く日
山が動いていた。
人間とはワガママな生き物だ。もし神という全知全能の存在がいて人類のことを見守っているとしたら、さぞかし腹立たしいと思うことだろう。人類ムカつく!ワガママすぎる!くらい思ってるかもしれない。それほどに人間はワガママだし、相反する考えを矛盾という入れ物に内包して生きている。
例えばこうだ。多くの人は毎日変わることない平凡な繰り返しに飽き飽きとするだろう。刺激を求め、変化を欲する。祭囃子に耳を傾け、突然訪れる恋に胸躍らされる、見たこともないような想像したこともないような華やかな世界に身を置く夢を見る、ハラハラドキドキの刺激を求める、そんな一面がかならずあるのだ。より新しいものを、新しいものを、現状よりも新しい何かに変化を求めて、まだ新しいものにまで変化を求める。それは決して逃げられない人間の性なのだ。
その反面、変わることない平凡な日常に安堵を覚えることもある。どうしようもない日常でありながらも、その安定と繰り替えしにどこか心が安らぐ気持ちを抱いている。毎日がジェットコースターじゃ身が持たない。ゆったりとしたメリーゴーランドのような日々こそが大切なんだ、古く変わらないものに何より安堵する。これもまた人間の持つ性だ。
刺激を求めつつ安定を求める、古きを懐かしみつつ新しさを求める。極端に言い換えてしまうとリアルとドリームの狭間で揺れ動いている。人類とは何ともワガママなものだと思わずにはいられない。
朝、職場へと向かう通勤経路、いつもの如くハンドルを握って車を走らせていた。もうウンザリするくらい繰り返される朝の風景。まるでビデオを再生したかのように同じ景色がフロントガラスを流れていく。その退屈なリピートにウンザリしながらもどこか安心している自分がいた。
これが毎日同じ風景だからいいのだ。下手に刺激があって、例えば巨石が落ちてくるとかだったらおちおち通勤していられない。畑にでも向かうのだろうか、毎日7時45分にこの交差点で見かける老人だって、いつもと同じ作業着姿で半分口が開いてるから安心するのだ。下手に刺激があってある日いきなり全裸で現れたりしたら、ついにボケたかと身悶えて通勤どころの騒ぎじゃない。変わることない日常だからこそ安心できるのだ。
けれども、やはりこの退屈さはいかんともしがたい。ワガママだとは分かっている、変わらない日常だからこそ安心であることもわかっている、それがどんなに罪深いことかも分かっている。それでも、何か刺激的な変化があってもいいんじゃなかろうか、そう考えながらハンドルを切ると、そこには何か得体の知れない違和感が待ち構えていた。
「あれ、なんかおかしいな」
確かに普段とは何かが違っていた。山道の一本道。その手前で年度末調整か何かだろう、まだ綺麗だった道路を無理矢理掘り返す工事が始まり、片側交互通行になっていた。けれでも、そんな変化とは違うような、何か途方もない違和感が悶々と心の中に取り付いていた。
何かがおかしいはずなのに考えても分からない。何かが絶対に違う。何かが明らかに変わっている。けれどもそれが何なのか分からない。何かとてつもないことが起こってるに違いない、そう考えてハラハラしていたら職場に到着してしまった。
次の日の朝。また同じように通勤して同じ景色を見る。いつも見かける老人も相変わらず健在だ。けれども、また工事現場を過ぎた辺りから異常な違和感に襲われる。どうも、高台の電柱のあたりに途方もない違和感を感じるのだ。
工事現場を過ぎて坂道を登りきったあたりは高台のようになっていて眺めが良い。1年位前のある日、この絶景ポイントに電柱が立てられた。絶景ポイントが台無しじゃんかと思いつつも毎日その横を通っていたのだけど、ある日、異様な便意に襲われたことがあった。
山道で周囲には何もなく、とてもじゃないが我慢できるレベルの便意じゃなかった。そこで僕は本当にどうしようもなく、周囲に人もいなかったし、その、ゴニョゴニョした。隠さず言うとノグソした。まだ真新しかった電柱に隠れるようにして、ホント、電柱の影に隠れてするのって大変だぜ、と思いながらゴニョゴニョした。
それからこの高台の電柱は僕の戦友となり、毎朝見る度に不甲斐なくゴニョゴニョした思い出が蘇っていたのだけど、どうもその電柱辺りから異様な違和感を感じずに入られない。何かがおかしい、何かが絶対に違う、そう考えながらも答えには至らなかった。
次の日、相変わらず通勤風景は同じで、いつもの老人もご健在、というかこの人はロボットなんじゃなかろうかと思うほどに同じすぎる、そしてまた問題の違和感ポイントに差しかかった時、ついに車を停車して電柱の横に立ってみた。
「やはり何かおかしい。何かが違いすぎる」
ユックリと電柱の周りを周りながら検証する。ノグソに関係あるのかとも思い、あの日のようにその体勢にスタンバイしてみた。そして、途方もない事実に気がついたのだ。
「山が動いてる」
明らかに山が動いていた。この高台の向こうに見える壮大な山、名前なんて知らないけどそこそこの高さはありそうな山が明らかに動いていた。確かに覚えている、この電柱の陰になるようノグソをした位置で向こうの山々を見ると、丁度正面に2つの山が見え、その先端近くに鉄塔が誇らしく建っていた。その光景がおっぱいみたいで、山がおっぱいに見えるとはね、俺もそろそろお迎えが近いかもな、ヘヘッとか感慨に浸りながらノグソしたもんだった。
それが今やどうだ、確かに高台の向こうには2つのオッパイ山脈が見える、鉄塔も興奮しきった乳首のように鎮座しておられる、それ自体に何も変化はない。けれどもその位置が明らかにおかしい。絶対にノグソポジションから正面にあったはずなのに、もう今や右前方40度くらいの位置に変わってるのだ。山が動いたとしか考えられない。
「まずい、とてつもない事態になったかもしれない」
僕は急いで車に乗り込み、まるで逃げるかのようにその場を離れた。別に安いシャブをやってるわけではない。理論的に考えても山が動くはずがないことも分かっている。地殻変動の類で動いたとしても、そんなの年に数ミリ数センチのオーダーだってのも理解している。けれどもあの山々は明らかに、それもとてつもない規模で動いているのだ。それは覆しようなのない事実だった。目を背けてはいけない僕達のリアルだった。
僕は驚きより何より恐怖を覚えた。山が動くということはそれだけの想像を絶する何かが起きてるということだ。とてつもないことが起こっているのだ。そして、ふと、ある有名な民話が頭をよぎったのだ。
ベルギー南部ワロン地域に居住するワロン民族の間には以下のような民話が伝わっている。時代は産業革命華やかりし頃、工業化が盛んに叫ばれるヨーロッパにおいてワロン地域も同様に多くの工場が立ち並び始めていた。これまで川と共に生きてきたワロン民族も、便利さをもたらす工業化に心奪われ、古くから自然と共にあった生活様式を捨て始めていた。
ムーズ川のほとりで一人の羊飼いが仕事をサボって昼寝をしていた。この羊飼いはある時、川の形状が変わっていることに気がつく。始めは些細な変化であったが、日ごとにその変化量は増大していた。
アマゾンなどでは大雨の影響で一夜にして川の場所が激変することもあるらしいが、ムーズ川のように穏やかな川では考えれないことだった。驚いた羊飼いは村の大人たちにそのことを伝えるが誰にも理解してもらえなかった。羊飼いだけが川の変化に気付いていたのだ。
そして、川は日に日に形を変え、意思を持った生命体のように、まるで村を飲まん勢いで姿を変えた。いつしか穏やかだった川が濁流に姿を変え、村の隣りまで及んでいた。恐怖に駆り立てられた羊飼いは避難するよう村中を大声で駆け回る。しかし、工業化に没頭し、そもそも川に興味がない村人は、ついに羊飼いが狂ったかと思い、羊飼いを縛り付けて閉じ込めてしまう。そして、その夜、大きな洪水が村を襲う。工場も村人も羊飼いも、全てが濁流に押し流されてしまい、後には何も残らなかったという話だ。
これはワロン民族の間で、川と共に生きてきた民族が川を軽視したために戒められた、として今でも語り継がれている。そして、自然の変化に目を配ることの大切さを次世代へと伝えているのだ。それ以降、ワロン民族は頑なに近代化を避けている。
これはもう、便利さを追求した上での環境汚染、それに伴う異常気象に通じる大変な問題提起だと思う。ホント、感心するばかり、僕らは地球環境や大自然にもっと目を向けるべきだ、ガソリンが25円下がるとかそんなことより大切な問題があるはずだ、そう思うのです。とにかくこの民話は感心するばかりだ、現代社会が抱える問題や病理をこんなにも的確に現した民話があるだろうか、と感嘆するばかりなんだけど全部嘘です。なんだよ、ワロン民族って。バカじゃないの。
とにかく、そんなウソ民話はどうでもいいとして、問題はあのオッパイ山脈だ。あれが動いてしまったのは紛れもない事実。もしかしたら日本沈没とか大地震とかそういったレベルの大異変の前兆かもしれない。どうしていいか分からず気が動転した僕は職場の喫煙室で後輩に相談した。
「なあ、今から言うことを驚かず聞いてくれ」
「なんすか!またパチンコで負けた話スか?」
「違うんだ。もっと真剣な話。本気の話。すごいことが起こってるかもしれない」
「なんすか!なんすか!」
後輩は目を爛々と輝かせていた。彼もまた、退屈な日常を重んじつつ、新しい刺激を求めている人類そのものなのだ。そこまで期待されると言っていいものか迷うのだけど、それでも意を決して相談してみた。
「実はな、毎朝通勤の時に見る山が動いてるんだよ。それもちょっとじゃない、信じられないくらい動いてるんだ」
それから切々と、どんなレベルで山が動いているのか、なぜそれに気付いたのか、迷ったけど包み隠さずノグソの話もした。もしかしたら日本列島の、いや地球の終わりの始まりかもしれないと話をした、ワロン民族のウソ民話の話もした。それを受けて後輩は一息ついてこう言った。
「patoさん、疲れてるんスよ。一緒に大きい病院行きましょう。大丈夫、俺、そういうのに偏見とかないっスから」
すごい勘違いされてる!なんかすごい上から目線で憐れみを持たれてる!
「いやいやいや、本当に本当だって。どう理論的、物理的に考えても山が動いてるんだって!」
「別にそんなのどうでもいいっすよ!」
信じてもらえない僕は羊飼いだった。
「いや、ホントにホント、さっきのワロン民族の民話はウソだけど山が動いたのはホントなんだって」
「どっちでもいいっすよ」
「マジだって。よーし、そこまでいうなら今度の休み検証しに行こう。山が動いた痕跡とかあるかもしれないし」
「えー、やですよ。面倒くさい」
こうして、山が動いたという事実に驚愕する僕と、興味津々、もう抑えられないといった知的好奇心溢れるミステリーハンター後輩は、動いたオッパイ山脈の謎を検証すべく立ち上がったのだった。
休日の朝、問題のオッパイ山脈が見える高台で待ち合わせた二人は、もう辛抱たまらないといった按配で検証を始めた。
「前はこの電柱から正面にオッパイが見えていたんだ。それが今は、こっち、角度にして40度は動いてる。どうだ、驚いただろう」
「そんなことより眠いっすよ。休日なのに早起きなんて……」
半信半疑だった後輩も壮大なる謎を目の前にして興奮気味だ。若いってのは良いことだ。それだけでこちらも元気になってくる。とにかく、この高台で話していても埒があかないので実際に山のふもとまで行って検証することにした。
「いやー、でも山が動くとか本当にワクワクしてくるよな。日常っていう安堵感に包まれながらこういう刺激を受けることが大切なんだよ」
「そうっすか?俺は日常でいいっすよ」
「日常を望むってのは古いものを大切にする心、でも新しいものも欲しいだろ?そして、新しいものを持っていてもさらに新しいものも欲しくなる。それが刺激なんだよ。人間とはつくづく業が深い。カルマの塊だ」
「はあ」
僕のありがたい話に後輩も涙、といったところでしょうか。とにかく、山道をワイルドに運転しながらオッパイ山の麓を目指します。
「それにしてもなぜ山が動いたのだろうか、火山活動の前兆?それにしてもダイナミックすぎる。どう思う?」
「それより、なんでウォーズマンってマスク取るとカニの中身みたいなんっすかね」
知るか、バカ。
微妙に噛みあわない会話をしつつも、ついに車でいける限界ポイントに到達、なんかショボいキャンプ地みたいになってた。都会派の人ってあまりピンとこないかもしれませんけど、有名な山、地域を代表するような山ってちゃんと登山道みたいなのが整備されていたりするじゃないですか。ちゃんと山まで続く道路もあって人とかも住んでいたりね、でも、正式名称も知らないような雑魚レベルの山々って道路が繋がってないとか普通にあるんですよ。
もちろん、オッパイ山脈も道路が繋がってなくて、どうやって乳首にあたる鉄塔を建てたのか謎なんですけど、とにかく山まで行く手段がないっぽいんですよね。で、仕方なくここからは歩くことに。
「なんで歩いてまで行くんですかー、帰りましょうよー」
「山が動いた痕跡とかあるかもしれないだろ」
「ないですよー、それより週明けに大きい病院いきましょうって、一緒に行きますから」
草木をかき分け、とんでもない段差の岩とか登りながらついにオッパイ山の麓に到達。
「よし!ついに到達したぞ!早く山が動いた痕跡を探すんだ!」
と振り返ると後輩の姿が見えない。あの野郎逃げやがったか、とか思うのだけどどこからともなくか細い声が聞こえる。
「たすけてくださいー」
見ると、後輩はなんか前は川だったみたいな溝に思いっきり落ちていた。深さ2メートルくらいあったかもしれない。足を踏み外して落ちていた。横幅は狭いわりに深さのある不自然な溝だった。とてもじゃないが自力では登れないような禍々しき溝に愛すべき後輩が今まさに飲み込まれようとしていた。
「くっ、これが謎に近づいた我々に対する山の神々の仕打ちか。なるほど、どうやら我々は知りすぎてしまったようだな。しかし、それだけ真実に近付いているということだ」
「そういうのはいいんで早く引き上げてください。殺しますよ」
のれない後輩なんて助けたくなかったのだけど、さすがに人道的にまずいのでなんとかして引き上げようと思案します。
「まってろ!今助けてやる!」
と言ったはいいものの、なんか引き上げる道具とかないし、かといって自分が溝の中に助けに行ったら昇れなくなって携帯も繋がらなくて2人ともお陀仏だし、で困ってしまいましてね、しょうがないから
「まて!この溝はもしかしたら山が動いた痕跡じゃないか?だっておかしいだろ、こんな溝があるなんて。きっと山が動いた時にできた歪がこうして溝になって表れたんだよ!そうに違いない!」
と誤魔化してたら、なんか後輩が黙っちゃっててシャレにならない雰囲気がムンムンしてきたので本気でなんとかしようと画策します。
「ロープとかないと難しいかもしれない」
「ああ、それなら僕の車の中に仕事で使うロープありますから、取ってきてください」
ええー、車まで戻るの、それでもう一度ここに?ないわー、ジョークきついわーって思ったのだけど、さすがにそれってまずいじゃないですか。仕方ないので後輩を置いて嫌々車まで戻ることに。
で、またもや過酷な草木ロードを超えてなんとか車まで戻ったのですが、なんていうんでしょうか、後輩の車の中にロープなんてないんですよね。なんか後部座席にYesNo枕みたいなカワイイクッションが置いてありましたけど、「助けに来たぞー」ってこのファニーなクッション持っていったら死ぬほど怒られると思います。
しょうがないので車を運転して高台ポイントまで戻り、そこからさらに街まで車を走らせることに。高台ポイントのところに工事現場があってロープくらいありそうだったけど、さすがにそういうのって盗人というかシーフじゃないですか。だからちゃんと街まで戻ってホームセンターでロープ買いましたよ。ついでに腹が空いてたのでCoCo壱番屋でチーズカレー400g辛さ普通を食って戻った。
「すまんすまん、ロープがなくて街まで戻ってた!今助けるぞ!」
「逃げたかと思いましたよ」
その冷徹なセリフが逆に新鮮だったね。普段の朗らかな後輩からは想像できない新しい変化、これこそが俺たちのリアルだった。
早速、近くにあった木にロープを結びつけて溝の中に渡します。後輩もそのロープを手がかりに全体重をかけて溝を登ろうとします。
メキメキメキメキ
細っそい木でしてね、なんか笑っちゃうくらい豪快に木が折れちゃいましてね、なんか後輩も溝の中でスッテコロリン。
「見ろ!植物がこんなにも弱っている、これはきっと山が動いた影響に……」
「いい加減にしてください」
すごい冷淡な、こんなのってあるのって感じで冷たく言われて、すごい怖かったので太い木にロープを結んで後輩を助け出したのでした。
「さあ、まだ日は高い、急いで山が動いた痕跡を探そう」
「帰りますよ」
「この謎を解明するんだ!」
「帰りますよ」
「はい」
有無を言わさぬ迫力ってこういうのを言うんですね。ホント、新しいわー。普段の日常生活を営んでいたらこんな後輩絶対に見れない。
「patoさん、なんかカレーの匂いしますけど、まさかロープ買いにいった時に食ってませんよね」
「食ってないよ」
まさか400グラムも食べたとか口が裂けてもいえなかった。結局、集合した高台に戻り、そこで後輩とはお別れ。
「もうpatoさんとは二度と遊びません」
と、照れ隠しなのか、余程楽しかったのか、自分の想いとは裏腹なことを言ってました。こう言ってますけど、やはり彼だって今日のような非日常の大冒険は楽しかったはずなのです。
僕らの日常は、安堵を覚える変化のない繰り返しです。けれども、実際には新しい刺激に溢れている。実は変化に溢れている。そうやって溢れていてもさらに新しい刺激を求め生き続ける、そんな業の深いところが人間の魅力なんじゃないでしょうか。ちょっと目を凝らせば至る所に新しい何かは落ちている。そうやって日々を生き抜くべきなのだ。
「それにしてもなんで山が動いたかなあ」
また一人になってノグソポイントでオッパイ山脈を眺める。電柱を見上げ、そこにあったプレートを見て自然と笑みがこぼれたのでした。なるほど、だから山が動いたか、新しいものなのにさらに新しいものが欲しいとは、つくづく人間は業が深い、その真実に新しい刺激を覚えながら家路につくのだった。
3/29 ぬめぱと変態レィディオ-テレクラ100番勝負完結編-
ぬめぱと変態レィディオ-テレクラ100番勝負完結編-
テレクラ100番勝負もついに佳境!笑いあり涙ありの名勝負をカックラキン大放送いたします!暇だったら聞いてあげてください。放送中のお便りなどは左側にあるメールフォームから頂けるとありがたいです。
放送開始 3/29 20:35〜
放送URL 終了しました
放送スレ 終了しました
聞き方が分からないなどはスレで聞いてみてください。
放送内容
・テレクラ100番勝負(たぶん30戦目くらいから)
・各賞発表
・重大なお知らせ
・エレキギター生演奏
・親父が自販機の下敷きになった話
・リスナーのお母さんコーナー
3/24 秒速5センチメートル
「ねえ、秒速5センチメートルだって、知ってる?」
「桜の花びらが落ちるスピード」
東京や静岡などに桜の開花宣言が出され、めっきり春らしく、そして温かくなった昨今、ピンク色に彩られた日本人独特な感傷的な気持ちに浸る機会が多くなるかと思います。
常日頃から思うことなのですが、桜というものは、その美しさ、雄大さ、豪快さ、数日で散ってしまう儚さも確かに素晴らしいのですが、その咲き誇る時期が反則に近いんだと思う。誰しもが感傷的にならざるを得ない説得力を持つ大きな要因になっている。
桜の時期といえば、言うなれば卒業入学シーズン、社会人になっても転勤や新入社員の登場などで何かと出会いと別れが多いシーズンだ。この時期ってのはやはり特別で心の奥底に影響を与えやすい。そんな時期に咲き誇る桜だからこそ何か特別な感情と共に記憶に刻まれる。
例えばこうだ。田舎の大学で女子大生としてキャンパスライフを楽しんでいた芳江は、同じ大学に通う高志とサークルを通じて知り合う。他に何の娯楽もない大学、2人が惹かれあうのに時間はいらなかった。
「実は、入学してすぐ芳江のこと気になってたんだ」
「またまたあ」
「いや、ホントだって。大学の入り口のところに桜の木があるだろ。舞い散る桜の花びらの下に芳江がいた。それからずっと好きだった」
「私も……高志のこと……ずっと好きだったよ……」
でまあ、田舎町ですし、お互いに大学近くのアパートで一人暮らしですよ。やることっていったらおセックスくらいしかないですわな。もう朝から晩までおセックスおセックス。そうこうしているうちに高志が留年してしまうんですね。セックスに夢中になるあまり留年とかかっこわりい、とか高志の自虐ギャグも冴え渡ります。
それから数年、桜の花が咲き、芳江は卒業を迎えます。一流企業に内定を貰い、正に門出といった表現が適切なほど誇らしい卒業を迎えた芳江、反面、留年グセがついた高志はまだ2年生でした。最近ではめっきり大学にも行かなくなり、夜ごと歓楽街に繰り出すか、止められた仕送りを補填するためにアルバイトに精を出す毎日。
「いいよな、いいよな、エリート様は」
それが高志が芳江に対する時の口癖でした。その言葉を聞くたび芳江は悲しい気持ちになり、自分は高志のためにならない女だったんだろうかと涙する。それでも芳江は頑張って
「ねえねえ、聞いてよ、高志。今日、ゲシュタポ教授の授業でさ」
と話を振るものの、高志の返答は冷淡なものだった。もう2人の関係は冷え切っていて、ただ惰性で同じアパートに暮らすだけでした。
卒業式。同期の友達は艶やかな衣装に身を包んでいます。晴れ着だったり袴姿だったり、けれども、どうしても気乗りしない芳江はいつもの服装のままでした。奇しくもそれは入学時に着ていた、普段着ではあるけど少しかしこまったワンピース。
「きっと高志は来ないんだろうな……」
桜の木の下で佇む芳江、そこには信じられない光景が。なんと、そこにはスーツ姿の高志が花束を持って立っていたのだ。
「卒業おめでとう、芳江」
「高志、どうして……?」
「おれ、自分が不甲斐ないのを全部芳江のせいにしてた。芳江のせいで進級できなくてってずっと恨んでいた。でも、それは間違いなんだよな。不甲斐ないのは全部自分の責任。桜を眺めていたらそう思ったんだ」
「高志……私のほうこそ、ごめんね」
「謝るなよ、芳江はなにも悪くない」
少し強めの風が吹き、散るには早すぎる桜の花びらが何枚か2人に降り注ぐ。
「あの日、芳江を始めてみた日みたいに戻れるかな。この花びらみたいにユックリでいい、少しづつ少しづつ失った時間を取り戻せるかな」
「わたし、ずっと高志のこと待ってるから」
桃色に彩られた桜の木は、まるで相合傘のように2人を覆っていた。
ていうね、まあ、遠距離恋愛になって3ヶ月ぐらいで高志はパチスロにハマってまた留年、飲み屋で知り合った女とくっつくんですけど、芳江も芳江で入社した大企業のやり手の先輩社員と同棲し始めるんですけど、そいつがとんでもないDV男だったっていう結末を迎えるんですけど、それはまた別の話。とにかく、こういった思い出と重なりやすい時期に存在する桜、そこには否応無しに印象付けられる力が存在するのです。
みなさんも親しい人と別れた記憶がありませんか。別れとはなんともあっけないものだろうと心を痛め、それでも気にしていない素振りで日常生活を営まなければならなかった経験はありませんか。その傍らには冬を抜けて温かくなりつつあった気候と、桜の木がありませんでしたか。
逆に、大切な人や、自分の人生において脇役ではないキーマンと出会った時、その傍らには桜の木がありませんでしたか。その時の風景を思い返すと桜の木があったりしませんでしたか。人と人との出会いと別れを司る桜の木、だからこそこんなにも愛されてるんだと思います。
かくいう僕にもありました。満開に咲き乱れた桜の花びらを見る度に思い出す、胸がキュッと締め付けられてどうしようもない思いに駆られるセピア色で桃色の思い出が。
あれは僕が小学校の時でした。ウチの小学校はイチョウの木と桜の木が自慢の小学校で、その植物群に沢山の野鳥が集まってくるのどかな学校でした。春には校庭に満開の桜が咲き誇り、秋にはイチョウの木から落ちた異臭を放つ銀杏を投げあう銀杏大戦争などが楽しめたものです。
何年生だったか忘れましたけど、4月になって学年が上がり、なんか担任の先生もヒステリックなババアから普通のババアに変わってワクワクドキドキ、これから始まる新学年に期待を膨らませていました。窓際の席だった僕はボンヤリと校庭を眺め、その綺麗な桜の木々を眺めながら何か別の世界にトリップしていました。
「転入生を…」
担任の声がどこか遠くに聞こえつつ、転入生という言葉に敏感に反応、もうすでにニューカマーは登場していて黒板に名前書かれて自己紹介していました。転入生といえばなぜかロクなのが来ないってのがウチの学校の伝統でして、盗みグセのある岩田君とかとんでもない人々を輩出してきた経緯があるので、またとんでもないヤツが来たんだぜ、と今まさに紹介されている転入生を見ると、そこには可憐な女の子が立っていました。
スカートをはいたその子は途方もなく魅力的でした。田舎の小学校でしたので、女の子なんてほとんどジャージとかでしたし、ゴリラみたいな怪力勝る女子が多い中で、どこか都会的で洗練されたイメージを受ける女の子でした。
「はじめまして、○○さくらといいます。よろしくおねがいします」
サクラちゃんか。なんてカワイイ女子だろうか。窓の外に見える桜の木のように艶やかで可憐だ。僕はこの刹那、一瞬で恋に落ちてしまったのです。
しかしまあ、ガキどもなんてどうしようもないもので、ちょっとカワイイ娘っ子がいると皆好きになっちゃうもので、クラスの男子のほとんどがサクラちゃんのことが好きだっていう異常な状態になっちゃいましてね、彼女に親切にして好意をアピールする男子、逆に意地悪するくらいしか愛情表現できない男子と様々、それに嫉妬するゴリラみたいな女子たち、と異常な状態で1年間が過ぎていったのです。
もちろん、ありえないくらい奥手でトゥーシャイシャイボーイだった僕はサクラちゃんと会話することもなく、それどころか近寄ることも出来ず、まんじりともしない想いを抱えて1年間を過したのでした。
そんな折、途方もないニュースが舞い込んできました。もう2月も終わりに近付き、この学年も終わり近付いたその時に、担任のババアから衝撃のニュースが告げられたのです。
「3月下旬に桜満開運動会が開催されます」
ウチの学校は、父兄たちで構成される子供会のトップあたりに運動会キチガイがいたみたいで、なぜか学校主催の運動会と子供会主催の運動会、と年2回の運動会が当たり前でした。普通は5月ごろに「こいのぼり運動会」と題して5月の連休に開催されていたのだけど、それが雨で中止、予備日も雨で中止と呪われているとしか思えない不運続きで開催できないでいた。
その代替案として、気候も温暖になり、それでもってまだ現学年である3月下旬に開催しよう、それならば学校も春休みで開催しやすい、3月下旬に「こいのぼり運動会」はまずいだろう、「桜満開運動会にしよう」と相成ったわけでした。春休みに運動会とか頭おかしい。
さて、運動会当日。桜の花がチラホラ咲いているとはいえ、まだまだ肌寒い中で運動会をさせられる児童たち。全然満開じゃないですからね、どこが「桜満開運動会」だ。しかし、父兄の方はといいますと一緒にお花見もできてこりゃええわい、といった趣で大変賑わっていました。春一番というんでしょうか、強風が吹き荒れる中での開催で、テントなどが紙くずのように吹っ飛ばされていましたが、それでも滞りなく徒競争、リレー、綱引きなどが消化されていきました。
子供会主催運動会の大きな特徴といえば、学校主催とは違い、父兄たち保護者が一緒に参加する競技が多かったのです。どの競技にもうざったいくらい保護者が絡んできてですね、親子の絆、みたいなのをしきりにアピールしてくるんです。
そんな中、うちはクソ貧乏だったので親父は休みなく働いてましたし、母親は体が弱くてそれどころじゃないって状況でして、運動会に両親がやってきたことなかったんですね。今でこそ、ハンディカムのCMとかで子煩悩なお父さんとかが運動会を撮影したりしてますけど、そういうのって現実味がないくらい運動会と両親が繋がらないんです。
昼休憩になると、どこの地域の運動会でもそうだと思いますが、やってきた保護者とシートでもひいて一緒にお弁当を食べる楽しい時間があると思います。「お父さん、僕1着だったよ!」「偉いぞ!」「あなたにて運動神経がいいのよ」「がはははは」みたいな心温まる会話が展開されるのですが、これがもう、両親が来ない児童にとっては途方もない苦痛で仕方がない。
あちこっちで家族団らんが展開されている中で、一人ポツンとシートに座ってですね、たまに担任の先生なんかと一緒に弁当を食べるんですよ。見ると一クラスに数人くらいそういった子がいましてね、悲しきランチが展開される孤独の旅、横見るとウチの弟がいて、毛むくじゃらの体育教師みたいなのとひっそりと弁当食ってて孤児みたいになってた。
でまあ、今年も担任と昼飯食うのか、微妙に気使って嫌なんだよなーって思いつつ用意されたシートに向かうと、そこにはサクラちゃんの姿が。
「ウチは両親とも仕事で忙しいから……」
とかいって寂しそうに弁当を食べてました。ホントね、これは興奮したよ。大興奮だよ。盆と正月が一緒にやってきて、ついでに見たこともない浮浪者風のオッサンが「叔父だよ、元気してたかい」ってやってきてウチの親父に追い払われてたみたいなもんですよ。あのオッサンはそうやって他人の家に上がりこんでは飯食ったりしてるみたい。
そんなことはどうでもいいとして、恋をしていたサクラちゃんとシートの上でお弁当ですよ。もう喋ったことすらほとんどないのにいきなり一緒にランチとかランクアップにも程がある。まあ、担任のババアがいて2人っきりってわけにはいかなかったんですけど、「2人の邪魔するな、心臓発作で死ね」とか思ってたら、本当に父兄に呼ばれたみたいでイソイソとどこかに消え、マジで2人っきりになってしまったのです。
「なんかさあ、春休みに運動会とか頭おかしいよね」
何を喋っていいのか分からず、そんな会話を展開したのを覚えています。するとサクラちゃんはフッと寂しい表情に変わり、こう言いました。
「私は嬉しいけどな」
僕はその意味が分からず、サクラちゃんがかわいすぎて目線すら合わせられないのでシート脇に佇む桜の花を眺めていました。
「そっか、pato君は休んでたから知らないのね、実は私ね、新学年からは千葉に転校することになったの」
たぶん、春休み前の登校最終日なんだろうけど、僕は飼ってた猫が車に轢かれて死んだという理由でショックを受けて学校を休んでいたのです。どうもその時にサクラちゃんの転校が発表されたらしい。なんで人が休んでる時にそんな重大な話をするかな。
「そう、なんだ……」
どうしていいのか分からなかった。それ以上にショックだった。サクラちゃんがどこかにいってしまう。その事実を受け止められないでいた。
「だからね、こうやって最後に運動会ができてよかった。ちょっと寒いけどね」
重苦しい沈黙がシートを包む。周りの喧騒が恨めしかった。もちろん、何も出来ない自分に腹が立ってどうしようもなかった。初めて交わした会話がそんな内容だなんてそりゃないよ。その空気を察したのか察しなかったのか、サクラちゃんは切り出した。
「私は親の都合で転校は慣れてるから。それよりpato君のお父さんお母さんはどうしてこないの?」
パニック状態の僕は、それでもなんとかサクラちゃんと会話を交わす。
「親父は仕事が忙しいから」
「そうなんだ。うちと一緒だね」
サクラちゃんの口ぶりから、彼女の両親はバリバリの商社マン的な感じだった。それは彼女の裕福な感じからも存分に感じ取れた。それとウチの親父が同じ?違う、大きな勘違いをしている。ウチの親父は見紛う事なきキチガイだ。
「これから午後の競技を始めます」という放送と共にやかましい音楽が流れる。それは僕とサクラちゃんが交わす最初で最後の会話、それが終わることを意味していた。
「じゃ、午後からも頑張ろうね」
その時だった。また、サクラちゃんの笑顔が眩しすぎて目を合わせられなかった僕は、フッとグラウンドの隅のほう、道路からの入り口へと目線を逸らした。その瞬間、信じがたいものが視界に飛び込んできた。
「あれは……!?」
強風がグラウンドの砂を舞い上げ、砂煙のようになっている先に薄っすらと人影が見えた。午後の競技の開始を告げるユーロビートみたいな音楽に乗って人影は颯爽と入場してきた。
「あれは……親父!」
なんと、何をトチ狂ったのか、何の気まぐれか、親父は仕事を切り上げて運動会にやってきていた。見ると思いっきり作業着姿で、ガニ股で、この世の全ての不幸を背負ったようなオーラを身に纏って入場してくる。そんな表現を全て超越して簡単にいうと「悪夢の始まり」だった。
僕の姿を見つけた親父は少し早歩きで近付いてくる。そして開口一番こう言い放った。
「おう、来てやったぞ」
来てやったもクソもない。もう来るなよ、ホント。サクラちゃんと感傷的な会話をしてたのになんでやってくるんだ。
「pato君の……お父さん?」
サクラちゃんは明らかに驚いている。ウチの親父はそんな他人の動揺を見逃さない。すぐさまサクラちゃんにロックオンし、逃がさないぜといった体勢で話しかける。
「なんだ、このかわいこちゃんは」
お前はルパンか。かわいこちゃんとか言うな。早くこの場を逃げなくては、そう思うのだけど時既に遅く、なんか親父は僕がオシッコ漏らして泣いた話とかを大変エンターテイメント性豊かな感じで話していた。皆さんも想像して欲しい、自分の大好きな子が、自分の親と話をしているだけでもドキドキ物なのに、その親がキチガイだった時の惨状を想像して欲しい。
「親子で参加、大玉転がし競技を始めます、出場希望者は親子で入場門まで集まってください」
やかましい放送が鳴り響く。このままではマズイ、公園で拾ってきたエロ本を大量に洗濯機の裏に隠してたエピソードとか暴露されてしまう、危機を感じた僕は親父を黙らせるために大玉転がしに一緒に出場しようと持ちかけた。
正直、ここまで悪態をついたけど、本当は嬉しかった。親父が来てくれたことが嬉しかった。やはりいつもいつも担任や知らないオッサンと競技に出るのは嫌だった。一緒に出てくれる人も親切でやってるんだろうからそういうこと言っちゃいけないんだろうけど、それでもその親切が僕の心を苦しめていた。だから、親父と競技に出られることが本当に嬉しく、照れくさくって言えないけど「ありがとう」って気持ちだった。
「大玉転がし出ようよ」
恥ずかしくもあり、それでいて嬉しくもある、そんなくすぐったい感情が入り混じった純真無垢でピュアな気持ちで親父を誘ったところ、
「うるさい、ワシはこのかわいこちゃんと参加する。女の子の方がいいもん。なんて名前?サクラちゃん?おじさんと一緒に出ようか」
とか言ってた。もう死んだらいい。
結局、親父の気概に押されたのか、サクラちゃんも出場してみたかったのか知らないけど、なぜだか恋心を抱いている女の子とキチガイ親父が一緒に大玉を転がすという訳のわからない展開に。
もうね、見るも無残だった。はっきり言って正視に耐えなかった。本当にもう顔が真っ赤になるくらい恥ずかしくて振り返りたくないくらいなのだけど、それでは日記にならないので落ち着いて振り返ってみる。
まず、スタート時から妙にハッスルしていた親父はスタート地点でなんかラジオ体操みたいな動きをしていた。その時点でサクラちゃん苦笑い。
スタートの号砲と共に力いっぱい大玉を押す親父、けれども力が強すぎて紙と張りぼてで構成されていた大玉をいとも簡単に突き破る。赤い玉から親父の下半身が生えていた。サクラちゃん青い顔。もうやめて欲しい。
気を取り直して大玉が破れた状態でスタートする。ちなみに、この時点で他のチームはゴールしていた。逆転とか関係ない。なんか放送で「頑張ってください」とかしきりに言われていた。
ほぼサクラちゃん置き去りでぐおおおおおおと玉を転がし、鬼神の如き勢いで走る親父。逆転すらないのに本気の玉転がし。しかし破れた大玉が災いしてイレギュラー、本部席にダイレクトイン。親父も一緒にダイレクトイン。すごい音がしてた。ガシャーンとか鳴って放送が中断する。行き場のないサクラちゃんがコース上で泣きそうになってた。
ボロボロの親父が玉を転がして本部席からヨロヨロと出てくる。それ、足折れてるんじゃないのって感じで右足がプラプラしてた。笑ってた観衆、一気に沈黙。右足プラプラさせながらゴールに向かう親父、サクラちゃん泣いてた。
まあ、ざっとダイジェストで振り返ったわけなのですが、一言に集約すると「この恋終わったな」って感じで、親父は骨こそは折れてませんでしたがそのまま右足を引きずって帰っちゃいました。
「すげえな、サクラちゃんの親父。ガッツあるぜ!」
それを見ていたクラスメイトが、サクラちゃんの父親だと思って必死のフォローというか、そういう感じで話しかけてましたが、それを受けてサクラちゃんが
「ウチのお父さんはあんなんじゃない!あれはpato君のお父さんだよ!」
と修羅のような形相で必死に弁明しており、それを見て、本気でこの恋終わったな、と痛感した次第であります。
それから数日、最悪の思い出を胸にサクラちゃんは旅立っていったことだと思います。桜の季節にやってきて桜の季節に去っていったサクラちゃん。あれがトラウマになってなければいいが、と今でも願うばかりです。
満開の桜を見ると多くの人が切ない出会いと別れを思い出すと思います。いうなればそれが桜の仕事なのかもしれません。僕もそうで、あの最初で最後だった桜の季節の運動会、桜満開運動会を思い出し、ほろ苦い思い出がギュッと僕の心を締め付けるのです。それは秒速5センチメートルで舞い落ちる桜の花びらのように、ユックリと、それでいて確実に心の中に鬱積しているのです。
ちなみに、足をプラプラさせて大玉を転がす親父も、秒速5センチメートルくらいでした。