PROFILE
08.4.23 UPDATE

― 小学生時代(朝霞第七小学校)
サッカーを始めたのは物心がつく前からです。僕にはサッカーをやっている七つ上の兄がいまして、兄が少年団に行く時についていって一緒にボールを蹴っていたんです。正式に少年団に入ったのは小学校2年生からです。小学校のスポーツ少年団でしたので「楽しく」をモットーにしていました。背は小さい頃からかなり高かったですね。少年団に入った2年生の頃、まだユニフォームがなかったので、兄のユニフォームを借りて試合をしていたんですが、僕がひと際大きかったので「なんで4年生くらいの生徒が混ざっているんだ!」と相手チームからクレームが入ったこともあったんだそうです(笑)。そんなこともあって、小学校時代はストライカーでした。今では考えられませんよね?(笑)練習はいつも楽しかったんですが、朝霞の中でなかなか勝てないチームだったので、5年生くらいになったら「どうしたら勝てるようになるか」と勝負を意識したミーティングもするようになりました。大会になると、朝霞に加えて、新座、志木、和光にあるチームが同じ地域内として対戦するんですが、新座に新座片山というあり得ないほど強いチームがあったんです。身体がすでに出来ているような選手が中心のチームで、「なんなんだ、このチームは!」というくらいに、衝撃的でした。おかげで地域は勝ち抜けず、県大会には届かないという感じでした。小学校時代はトレセンなどまったく縁がありませんでした。

― 中学生時代(浦和ジュニアユース)
小学校時代時代にいろいろなチームと対戦して、すごく上手い選手や、なかなか勝てないチームが存在することを知って、「もっと高いレベルでサッカーがしたい」と家でも話をしていたら、父がサッカーマガジンかサッカーダイジェストに掲載されていたレッズジュニアユースのセレクション記事を持ってきてくれたんです。それで応募しました。セレクションにはものすごく多くの人が来ていました。700人くらい来ていたでしょうか。それで、なんとかその中の最終15人に入ることができました。僕の分岐点はまずそこにあったと思います。ここを通っていなかったらプロにはなっていなかったと思いますし、そのくらいレッズジュニアユースでは刺激を沢山受けましたし、「伸びているな」と自分で思うくらい充実していたように思います。周囲は上手い人だらけでした。同期に上野剛一(元新潟)がいて、ひとつ上には千島徹さん(愛媛)がいて。千島さんがものすごく上手くて、憧れていました。そんな選手たちを見ていて「ここからテクニックを上達させようにも限界があるな」と痛切に感じたんです。だったらディフェンスをやろう、身体を張ればなんとかなるかもしれない、と考えたんですね。そこで、当時のジュニアユースのコーチである名取さん(名取篤さん/元浦和)にお願いして、1年の途中からサイドバックにコンバートしてもらいました。左サイドバックだったんですが、「ここだったら勝負できるぞ!」と必死になってやり、なんとか1年の時から試合に出られるようになりました。レッズジュニアユースは埼玉では負けた記憶がないくらい強いチームでしたね。ただ、全国となると、僕らの頃はマリノスやヴェルディが強くて、クラブジュニアユースでは予選は突破していても、そこから先はなかなか行けずベスト8とか、微妙な順位のチームでした。2年生からストッパーになって関東選抜に選ばれ、そこからナショナルトレセンにも行き、U-14日本代表に入りました。上手い選手がとても多くいて。1学年上の飯尾くん(東京V)と寿人くん(佐藤寿人選手/広島)が早生まれで入っていて、その中でも飯尾くんがものすごく上手かったです。小原章吾(山形)や本橋卓巳(山形)もすごくて、そんなすごい選手たちの中に入っていって、壁にあたって、挫折して、なんとか乗り越えて。僕のサッカー人生はそんな感じの連続でした。

― 高校への進学
浦和のユースには上げてもらえることになっていたんですけど、小さな頃から憧れていた高校サッカー選手権にどうしても出たい気持ちがありました。そんな中、中3、高1、高2の3学年合同関東トレセンがあって、そこで市立船橋の西くん(磐田)に会ったんです。また西くんがめちゃくちゃ上手くて衝撃を受けたんですけど、その西くんから、「お前、ウチに来いよ!」ってその場で勧誘されたんです。「えっ!」って驚きながらも「行きたいです」って言ったら、西くんが何を思ったか、「昨日、関東トレセンで気になったレッズジュニアユースの選手がいるんですけど」って翌日に市立船橋で布先生に話をしてくれたんですよ。それで布先生から僕に直接電話が来て。市船は実績があったし、以前から興味があったので、是非にということで入学することになりました。

― 高校生時代(市立船橋高校)
北朝霞から西船橋まで毎日58分かけて武蔵野線で通っていました。大変でしたよ。ただ、武蔵野線は途中で座れたので、それが大きかったですね。僕らジュニアユース育ちはちょっと温かったところがあるので、高校サッカーは厳しかったです。1年生時代は全然試合に出られず、2年からは試合に出られるようになりました。この市船はすごく強くて、2年間、千葉では一度もどこにも負けませんでした。2年生の時のインターハイではベスト4、選手権では優勝しました。選手権では決勝で当たった鹿実もそうでしたが、前橋育英も強かった記憶があります。茂原さん(柏)、松下さん(草津)、佐藤さん(元草津)、岩丸さん(横浜FC)、青木(鹿島)といいメンバーがいましたからね。選手権で優勝できたのは、この時の3年生だった原くん(湘南)や羽田さん(C大阪)が2年間選手権に出られなかったから、この選手権にかける強いモチベーション、強い想いがあったためだと思います。3年生の時にもインターハイと選手権に行きましたが、何もできなかったというような印象です。国体のメンバーにも選ばれたのですが、関東予選で負けてしまい、10年ぶりくらいに千葉が国体に出られないという伝説を作っちゃいました。というのも、市船でオランダ遠征があって、帰国直後の関東予選だったんです。それでも市船中心のメンバーで行っていたのですが、コンディションが非常に悪く、全然動けなかったんです。そのために負けてしまって…。千葉の国体選抜には栗澤(FC東京)とかいい選手がたくさんいたので、そんな選手たちに申し訳なかったと思っています。そのオランダ遠征ではアヤックスやグラスゴー・レンジャース、シュツットガルトなど有名なチームがいっぱい出ていた大会に出場したんですが、接戦を勝ち抜き、なんと神がかり的に優勝したんです。きっと現地の人たちは「なんだ、この日本のチームは!」とびっくりしたと思います。僕としても、海外のチームに負けなかったということがすごく自信になりました。そして、この試合を機にU-18などの代表に呼ばれるようになりました。

レイソルの練習には2年生くらいから参加していました。練習はレッズにもマリノスにも参加させてもらいました。いくつかオファーをもらったんですが、地元であるレッズに行きたいという気持ちが強かったんです。でも、その時にJ2に降格していたこともあり、3年間千葉でサッカーをしていたというのもあったので、レッズとレイソルの挟間でかなり悩みました。最後に西野監督(当時の柏監督)から直接電話がかかってきたんです。西野監督はもう覚えていないかも知れませんが、電話で「中澤、悩んでいるのか?」と聞かれたんですね。その時に、ふと気持ちが吹っ切れて。その電話が終わってすぐ強化部の方に「お願いします」と連絡を入れました。

― プロになれた一番のポイントは?
やっぱり出会いだと思います。小学校の少年団に出会えたこと、ジュニアユースで名取さんに出会えたこと、関東選抜で西くんに出会えたこと、布先生に出会えたこと、いろいろなライバルに出会えたこと、そんな数多くの出会いだと思うんです。それと、僕はいつもケガに泣かされていたのですが、その度に助けてくれた家族や知人たちの支えが大きかったと思います。それがなければ、今の僕はないんじゃないかと思っています。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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