対岸まで最も近い地点で三十メートルしかない。手が届きそうな距離だが、かつては社会と隔てられた絶海の孤島だった。
その場所に行くと、本土との近さに驚いた。島からの外出を許されなかった人たちは、狭い海を渡れば故郷への道が続く、懐かしい家族もいると望郷の念を募らせたことは容易に想像できた。厳しい島の暮らしに対する不満も重なり、夜陰、ひそかに監視の目をくぐって対岸に泳ぎ渡ろうとした人も少なくなかったという。
だが、闇の海面に方向を失ったか、潮流時の速い流れに体をとられたか、何人かはここで命を落としたと「隔絶の里程 長島愛生園入園者五十年史」は書く。狭い海を「宿怨の海峡」と記す。
瀬戸内市の長島にはハンセン病の国立療養所・長島愛生園と邑久光明園がある。ハンセン病患者を強制隔離するためにつくった。国は戦後特効薬が出来、病気が完治するようになっても隔離政策を続けた。社会に偏見と差別を植え付ける結果になった。
二十年前のきょう、島と本土を結ぶ橋が開通した。橋の名前は「邑久長島大橋」だが「人間回復の橋」と呼ばれる。偏見差別をなくし、人々が自由に行き来する交流の橋に、との願いが込められている。
偏見差別はあってはならない。橋の持つ教訓を後世に伝えなければ。