『瞼の母』といえば遠く78年も前に大衆文学の巨匠・長谷川伸が書き上げた母恋モノの定番。片岡千恵蔵、長谷川一夫、中村錦之助といった往年の銀幕スターも演じてきた名作だ。ストーリーは至ってシンプル。天涯孤独の渡世人・番場の忠太郎(草なぎ)が、5歳で生き別れた母(大竹しのぶ)の面影を求め江戸へ出向くところから始まる。この老婆が母かもしれない、この夜鷹が肉親かもしれない。そんな切なる想いを抱え忠太郎はくる日も くる日もよるべなく歩きまわる。そしてようやく、母と思わしき高級料亭の女将と出逢う。「忠太郎でござんす、おッかさん!」。だが目の前の母は彼の積年の想いをつれなく拒絶する──。

 稽古を見ていてすぐに気づいたことなのだが、長谷川伸はこの芝居においていっさいの無駄なセリフを排している。何十行も費やして心情をことこまかに吐露するシェイクスピア芝居とは真逆。長谷川芝居では、ほんの数語に無尽蔵の感情を込められているのだ。と なると役者たちはここで、足し算ではなく引き算の芝居を作り上げねばならない。つまりデコラティブに飾ることによってではなく、究極まで飾りを取り払うことによって、人間の芯を浮かび上がらさねばならないのだ。これはごまかしが利かないという意味で、役者 にはとても勇気がいる行為。だが草なぎをはじめとする役者陣は、この飾り気のない引き算芝居にゆったりと身を委ね、シンプルだからこそ心を打つ美しき人間ドラマを作り出していた。

 テレビや映画でしか草なぎを見ない人にはあまり知られていないことかもしれないが、実は彼は近年、演劇界において見巧者からとても高い評価を得ている。2年前の2本立て芝居『父帰る/屋上の狂人』(ともに菊池寛作)では、その清潔感あふれる演技が認められ、読売演劇大賞優秀男優賞と杉村春子賞をダブル受賞したほどだ。では果たして彼の何が、そんなに舞台に向いているのか──。今回の稽古を見ていて改めて思ったのだが、彼の一番の強みはその「過剰さを脱ぎ捨てられる潔さ」にあるのかもしれない。

 「自分が主役なんだぞ」という見栄を露見するような自己主張に走ったり、「客の心をここで掴んでやる」といった作為的な計算に奔走したり。草なぎはそんな余剰部に我を忘れることなく、ただただ過不足なく役柄の本質をつかみそこに居る。まるで相手役の出方を懐深く受け止める澄明な“鏡”のように、彼はそこに凛々しく端座しているのだ。これは誰もができることではない。下手な役者ほど、自己防衛のため、めくらめっぽうに玉を打ちたくなるものだ。だが稽古場の草なぎは、そっけないほど表面的には何もしない。常態として感情のゼロ地点を保っているように思える。でもだからこそ観客はほんの少し彼の感情の針が振れるだけで、繊細にその心理描写を察知することができるのだ。

 過剰な刺激に慣れてしまった都会人はさらに大きくさらに強い刺激を求めたがる。でもここで一度、過剰さを追い求めることをやめて逆のベクトルに向かい、素朴で些細な人間感情に触れてみたらどうだろう。もしかすると自分の五感が内部から研ぎすまされ、普段 の荒っぽい過剰刺激からは得られない温かな充足感を味わうことができるかもしれない。

著者

岩城京子(いわき きょうこ)

岩城京子

演劇・舞踊ジャーナリスト。77年東京都生まれ。86年から91年までニューヨーク在住。高校在学中に東京バレエ団専科に在籍。96年に慶応義塾大学環境情報学部に入学。当時より舞台コラム、エッセイ、取材文等を書きはじめる。(株)主婦と生活者に編集者として勤務したのち、01年に独立。現在『マリ・クレール』『ELLE』『NUMERO TOKYO』『Dear』『Aera』『ぴあ』『シアターガイド』などで定期的に執筆。熱量のあるルポルタージュ記事や、独自の視点から舞台を読み解くコラム記事に定評がある。秋にはフランスにて書籍を出版予定。公式サイトはhttp://kyokoiwaki.com/