高嶋伸欣・琉球大学教授
沖縄では憲法をゼロから勝ち取った
文部科学省の検定で高校の歴史教科書から沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に日本軍が関与したとする記述が削除された問題について、検定意見の撤回を求める意見書が、沖縄の41市町村のうち38で議決されています。県議会では、公明党は先に決議しており、自民党だけが拒否していますが、会期末ぎりぎりに可決するのかどうか、沖縄タイムスは「流動的」としていますが、琉球新報は「確定的」としています。沖縄にはこの意見書に反対だと沖縄県民でない、「非国民」みたいな雰囲気があります。
日本軍関与は直接でなくても、下っ端の兵隊が村民に手榴弾を2個配ったなどという証言はたくさんあり、当時は「自決」とは言わず、「玉砕」でしたが、「玉砕」するようにと指示したのです。下手に生き残ったらスパイと言われるとか足手まといになるとか言われ「玉砕」したので、遺族が強く反発しています。
ここ(壁)に新聞を貼っておきましたが、沖縄の報道は他府県とは温度差があります。みなさんは国民投票法案の全文を読んだことがありますか? 読売はこのように少しですが、沖縄タイムスは国民投票法案全文を3ページに渡って載せました。広告代を犠牲にしてです。しかも5月15日(沖縄返還の日)付です。ジャーナリストの気概というものでしょう。
沖縄はアメリカ軍占領下で、日本国憲法もアメリカ憲法も認められず、人権がありませんでした。ベトナム戦争の時に、嘉手納基地のゲートを封鎖してB29が出撃できないようにし、アメリカ軍によって社会大衆党の幹部が負傷させられました。沖縄の運動の盛り上がりがあったので、アメリカは基地だけにして施政権は帰そうということになったのです。沖縄に「押し付け憲法」は当てはまらず、最後はアメリカ軍に譲歩させて、ゼロから勝ち取ったものです。
辺野古のことや自衛隊のことは「言ってもだめさ」という諦めムードになっていますが、今回の教科書のことは私が「ひっくり返せる」と話したので「やりがいがあるね」と元気付いています。東京のメディアも入っているので6月23日の慰霊の日頃に取り上げてもらえれば、沖縄に関心を持ってもらうきっかけになると思います。
海外から日本はどう見られているか
レジュメを用意しました。全部はとてもできませんが、まず、海外から日本はどう見られているかを見てみましょう。
最近のアジアの人は日本に警戒していますが、レジュメの1ページにあるのはフランス人が「3発目の原爆も日本に落とされるだろう」と言ったという1989年の朝日ジャーナルの記事です。日本は世界では異質で何かやらかすのでは? と見られています。エコノミックアニマルで、世界共通の倫理観が日本にはない、アジアに対する差別を戦後も総括していないと思われています。福沢諭吉を1万円札に使っていいのかという議論も、前のお札の切り替えの時はまだ少しありましたが、今回は全くありませんでした。筑紫哲也でさえが「小泉の大学の創設者だから?」などと言ってごまかしていました。
90年5月のシンガポールの中国語紙にリー・クアンユー首相が「日本の60歳代の戦争体験世代は保革に関係なく、戦争はもうこりごりと思っているので、2度とあのようなバカなことはしないだろうが、『侵略』を『進出』と言い換えるような歴史教育で事実を学んでいない戦後世代は、軍事力の増大と共に何をするかわからない。彼らはやがて日米同盟をやめて、米国に押さえられることなく、軍事力を海外で自由に行使できることを目指す可能性さえある」と述べています。安保は日本の軍隊をびんの中に閉じ込めふたをしている役目で、安保を破棄して独自の軍隊を持つことを恐れているのです。今、この予想通りになっていますね。野中(広務)や後藤田(正晴)が戦争はダメと言っていたのに、戦後生まれの世代が権力を握るようになってきました。この90年5月というのは盧泰愚(ノ・テウ)大統領が訪日し、天皇に謝罪してほしいと申し入れて、小沢が「何度土下座すればいいんだ」と言った時です。この記事は日本でも大きく扱われていい記事でしたが、そうはなりませんでした。
91年5月5日の朝日新聞には同じリー・クアンユー前首相がヘラルドトリビューンに語った記事が載っています。この時は1・2月に湾岸戦争があって、地雷が残っていて自衛隊が地雷の処理のためペルシャ湾に派遣された時で、自衛隊が初めて本来業務で海外に出るようになった時です。クアンユーさんは「多くのアジア人は日本が平和維持に軍事的に参加することを望んでいない、なぜならアルコール中毒者にウィスキー入りのチョコレートを与えるようなものだからだ」と述べています。アルコール中毒者とは何を指すのか、と生徒に聞くところです。つまり日本には軍国主義が残っているという意味ですね。天皇がいるということです。占領軍は日本統治のために天皇制を残しましたが、アジアの人は納得していません。アジアは日本の経済援助や日本企業に遠慮して物が言えないでいるところ、この人が代表して言ったと考えていいでしょう。
2002年4月の東京新聞に、「有事法制関連3法案の閣議決定を受けて、与党3党が早期成立に向けて走り出す」とあり、かつては自民党の「ハト派」が一定の歯止め役となってきたが、「ハト派」は衰退し、「待った」が効かなくなったことが取り上げられています。
(教科書を開いて見せ)これはシンガポールの小学校4年生の社会科後期用の教科書です。「The Dark Years」とあります。日本占領時代です。シンガポールの社会科は丸暗記で、小学生にはむずかしいので去年12月に打ち切りになったそうです。90年代まではこの内容は中学校でやっていました。なぜ小学校になったのかと質問したら、「言えない」という答えだったので、「日本の政治動向が気になるのですか?」と聞いたら「半分はそうだ」と言っていました。おそらくそうなのでしょう。
レジュメ3ページ目は原爆投下についての教科書の記述です。「The End of the War」というタイトルで2つの原爆の絵が大きく載っており、焼け野原となった広島ときのこ雲の絵があります。よくぞアメリカは日本に原爆を落としてくれた、これで仇が討てたという内容で、被爆者にとっては大変な説明です。シンガポールでは「No More Hiroshima」ではないのです。シンガポールだけでなく、日本が占領した地域の人々はほとんどが同じ考えです。広島の人にそう言ったら、「やっぱりそうですか」と言っていました。広島の慰霊祭でアジア代表団は「No More Hiroshima」に拍手しないそうです。自分たちは被害ばかり言っているが、本当にそれでいいのかと内々に議論していたそうです。マレーシアの戦争記念館で戦争の最後の説明が広島でした。どうして広島なのかと質問したら、ガイドさんが逃げてしまいました。次に行った時には絶対に答えてもらおうと、ガイドさんをみんなで取り囲んで質問したら、日本のみなさんは気を悪くすると思うが、と前置きして、上記のようなことを話してくれました。学校でそう教えているそうで、みんなそういう考えだということでした。これはシンガポールだけではなく、日本に侵略された国はどこでもそうなのです。このことを被爆者に言わなければと思い、言いました。冷静な受け止めもありましたが、家族の死などを思い出すと、やはり抵抗感があるようでした。個々の被爆者の捉え方と社会全体の捉え方とは違って当然だと思います。
私はマレーシアで住民虐殺について調べています。林博史さんが日本側の資料に裏づけがあるかを調べていて、防衛庁の資料館で42年3月16日に駐屯地のそばの村で160人を刺殺したという記録を見つけました。具体的事実が出てきたということで、資料はコピーサービスで手に入りました。このことについて横浜でしゃべっていたら、共同通信の記者が特ダネにしたいということで、12.8にちなんで87年12月8日に公式記録として出しました。広島中国新聞に載ったので大騒ぎになりました。それは広島の第5師団第11連隊という歴戦の部隊で、広島に碑もあります。シンガポール陥落の後、ゴム園に1軒ずつ離れてあった家をゲリラと思い込み、刺殺したのです。「すべて殺せ」という文書が残っています。
南京事件が組織的かどうかは不明ですが、マレーシアははっきりしています。戦友会に聞こうと思うのですが「高嶋」という名前を出すと断られてしまいます。広島の部隊なので、広島は原爆の被害者だと言ってもマレーシアの人たちには納得してもらえないでしょう。アジアが日本の経済力に遠慮しなくなって本音を言うようになってから、初めて「そうだったんですか」というのでは恥です。議論の必要があると思います。私は憎まれ役になってもいいと思っています。
「醜い日本人」
私のことをなんでいろんなことに首をつっこむのかという人もいます。日本人として気づいたことは、臭いものにふたではなく、アジアの人に言われる前に整理しておく必要があると思うのです。本来、私たちの前の世代のやるべきことでした。
沖縄差別の一例が43ページの太田さんの文章にあります。大阪で第5回勧業博覧会が催された際、学術人類館に、沖縄婦人2人が「陳列され」説明者が「此奴は、此奴は」とムチで指しながら動物の見世物さながらに沖縄の生活様式などを説明したとあります。沖縄差別があるために、差別に負けまいとし、他県に負けない立派な教育をやっているということを示すために、沖縄は皇民化教育をより強力に行ったのです。その結果はどうだったでしょうか。沖縄戦でアメリカ兵が1万2000人、日本兵が9万余の死者を出したのに比べ、沖縄住民が15万〜16万人も死んだ事実は何を物語っているのでしょうか、と太田さんは問いかけています。大本営は沖縄を、本土決戦を遅らせるためのいけにえに供し、しかるに戦後沖縄に対する本土政府の取り扱いは周知のとおりであり、占領者アメリカは日本政府の沖縄に対する差別をとことんまで利用し、基地沖縄での数々の人権侵害に対する非難の防壁としてきたと怒りをこめて語っています。太田さんはこの事実には一般国民にも責任があると訴えています。この本は「醜い日本人」というタイトルで69年に出版されたものです。
私はその翌年に初めて沖縄入りし、沖縄人民には人権がなく、交通事故でも“ひかれ損”だと知りました。沖縄の人たちはそれでもくじけずに、おかしいことにすぐ声をあげ、米軍をたじろがせ、復帰を勝ち取ったのです。本土の我々は何をしているのでしょうか? 知識人ばかりでなく、一般の国民には責任があります。私は社会科の教師として、沖縄を非常に重いものと受け止め、特設授業を行ってきました。
82年の文部省の検定で、「日本軍による住民殺害」の記述が削除された時、私は沖縄タイムスに「このことを知っていますか?」と聞いたら、「知らなかった」ということで、私が知らせたから大きな問題となったのです。次の年、文部省が「集団自決を書け」と言い出して書いたのに、今回、その文部省が削除したということで、教科書というものは政治動向をいち早く現すものだということです。
今回、文科省は慶良間の梅沢さんが名誉毀損で訴えたことを削除の根拠にしていますが、一司令官の言った言わないは問題のすりかえにすぎません。下っ端の兵隊が言ったことでも、当時の軍の命令は絶対だったのです。朝日新聞は5月14日に生き残った人々の証言などを大きな記事で取り上げました。06年10月3日には米公文書に日本兵が住民に「集団自決」を命令したことを示す記録が発見されたことが沖縄タイムスに報道されました。
世論があれば撤回は可能で、撤回させた例もあります。82年7月、高校の社会科教科書から「チッソ」の名前が全面削除されましたが、9月に撤回させました。
ひめゆり学徒隊
さて、ひめゆりのことを少し話しましょう。まずひめゆり学徒隊は「部隊」ではないので、「ひめゆり部隊」とは言わないで下さい。それから「ひめゆり学徒隊」と「ひめゆり同窓会」は同一ではないとご存知でしょうか。ひめゆり同窓会は 沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の同窓会です。ひめゆり学徒隊と同窓会は複雑な関係で、学徒隊の人たちは自分たちはだまされたのであって、2度と繰り返してはいけないという立場で戦争と教育を考えますが、女子師範の先輩は教え子を戦場に送った立場なのです。慰霊祭で生徒を代表した仲里マサエさんは、「私たちはみなさんの死が殉国の美談にすりかえられることを最も恐れます」と述べ、先輩から「言いすぎだ」と叱られた、と口ごもっていました。翌日、その発言は新聞報道されました。女子師範の先輩にとっては、うまい具合に誤解してくれていたのにという思いがあり、資料館では立場をはっきりさせてはいません。私は責任の取り方、ものの言い方は多面的でいいのであって、戦争は悲惨だとするワンパターンの平和教育を疑問に思っています。私がこういうことを発言した時、ひめゆりの人が聞いていて、後で「よくぞ言ってくれた」と言われたことがあります。私はいろいろな立場の人がいることを知っていますが、知らんぷりして言ってしまうことにしています。
「集団自決」問題に話を戻すと、文科省が原告側の裁判名を使ったことに対して国会で追及され、謝り、内容については共鳴していないとしましたが、そんなことはないのであって、03年に産経新聞が「軍の強制はなかった」とキャンペーンを張り、そのあと梅沢さんの裁判が出てきたのです。裁判の提訴は05年8月5日なのに、2年前の検定ではなぜ消さなかったのか? ちぐはぐです。アジアの人たちが日本を警戒する原因となっていることがやはり日本で起こっているのです。
筆者の感想
沖縄と本土の関係を考えると、長い間沖縄に行くこともできず、まして最近まで「観光」目的で行こうなどとは思ったこともありませんでした。今、沖縄に向かう観光客は増え続け、石垣島では定年退職者の移住が多く、土地の値段が急騰しているそうです。ずいぶん勝手な話ではありませんか。これでは外国人に「3度目の原爆も日本に落とされる」と言われても仕方がないと思わざるを得ません。今からでもいいです。沖縄に行く人には、観光地で遊ぶだけでなく、ぜひ沖縄と日本の歴史にも関心を持って、勉強してもらいたいとそれだけが言いたいです。
観光客はお金を落とすんだから、沖縄にとってもいいはずだ、などとは口が裂けても言ってほしくありません。ものごとをお金だけの関係で見ることは、人間の魂を失ってしまったことだと私は思います。