サムライ 聖@浅葱
累々と横たわる屍体。
一本だけ転がった腕。血と脳漿にまみれた顔面。胴切りになった腹からとびだした臓腑……。
異臭漂うその真っ只中に、一団の男たちがいた。いずれも、見るからに屈強そうな男たちだ。
彼らは、一様に浅葱色のぶっさき羽織を身にまとっていたが、そのはかない色はおびただしい返り血で、すでにどす黒く変色している。
それは、このまばゆい光に満ちた白昼にはまるでそぐわない、無惨な光景であった。
「人殺しっ」
誰かが叫んだ。
周囲には、いつのまにか大勢の民衆が集まっている。
「鬼や、みぶろは鬼や!」
また、誰かが叫んだ。断末魔のような絶叫だった。
突然、中央にいた男が鋭い音をたてて血振るいをした。
……あたりが、しんと静まった。
男はにやりと笑うと、足元に呻く身体へ無造作に刀を振りかぶった。
「やめろっ!!」
切っ先をピタリと止め、男はゆっくり首をまわした。
そこには、鋭い視線を放つひとりの武士が冷然と佇んでいた。
武士は男たちと同じ浅葱色の羽織を着ている。が、武士のそれには一滴の血もついていない。
ふいに、一陣の熱風が頭上を吹きぬけていった。
武士の右の袂がひらりとひるがえる。その瞬間、返り血のこびりついた男の頬がふたたびにやりと笑った。
『武家上申書』
一 守護職二組
一 所司代一組
右、何レモ一組之人数凡三十人宛
一 新撰組一組
但、是ハ只今迄モ始終見廻リ居候得共、猶亦改テ相達積。
右ハ追テ永久之御警衛向相立候迄、当分之内洛中夜廻リ相達。尤見廻リ場所案内之為、町奉行両組三人ツゝ差添候様可相達候事。
総督附属八百人
一橋人数四組
壱組二十五人、槍、剣隊之者計。但、従者有之候間猶取調之上、可申上候事。
右、昼夜回リ之儀ハ、御築地内外并市中寺院等、厳重可為相廻事。
〔『孝明天皇紀』〕
元治元年、夏。
混沌とした世情は加速度を増し、都はこのとき、まさに地獄であった。
「きみは、本当に鬼だな」
そうつぶやいたのは、ほとんど無意識だった。山南敬助は自分の口からもれたそのひとことに、驚いたような目をあげた。
すでに日はとっぷりと暮れ、あたりには夜の静寂がはりついている。
月は、なかった。
山南の前には、ひとりの男が黙々と歩いている。
隙のない背だ。
山南はかすかな夜天光に浮かぶそれを鋭く見すえ、深く吐息をついた。
暑い……。
炎をくすぶらせる不快な湿気、からみつく澱んだ空気。町中がまるで高熱を発しているかのようだ。
こめかみにひとすじの汗が流れる。真一文字に引きむすんだその唇が、ふと自嘲気味に歪む。
腰の刀がひどく重かった。
昼の喧騒を逃れて、すでに一刻。
暑さに喘ぐ夏枯れの山茶花を横目に、微妙な距離を保ったふたりの足取りは、寸分違わずに打ち揃っている。
眼前には、一本の大きな公孫樹。
男は唐突に歩を止め、振りむいた。
「おれが鬼なら……」
おまえはなんだ、とその目が云った。冷ややかな目だった。
山南は思わず一歩退いた。
風が、強く吹きぬけていった。京の燃えるような熱風だ。あまりの熱さにおいしげった公孫樹の葉が、ザァッと悲鳴をあげる。山南の右の袂がひらりとひるがえった。
その腰に・・・・刀が、あった。
男はかすかに眉をひそめ、しかし、ふたたびスタスタと歩きだした。
「待てっ!」
山南は鍔元をまさぐって鯉口を切り、ぎこちなく鞘を奔らせた。
「よせ」
男が振りかえらずに云った。が、抜きはなたれた刀の切っ先は、真っすぐにその背へと向けられている。
左、片手青眼。
熱風がふたたび、ふたりのあいだを駆け抜けていった。山南の右袖が虚しくはためく。
男は背を向けたまま、
「思想なんざ、必要ねえ」
「ならば……」
いいかけた山南をさえぎって、
「必要なのは、行動あるのみ」
ぴしゃりと云った。とりつく島のない拒絶だった。
男はみぶろ、すなわち新選組の、副長土方歳三だった。
そして……。
山南もまた、みぶろであった。
やがて、ある寺の山門からひとりの僧があらわれた。
僧はふたりをみとめると清廉な所作をもって合掌した。墨染めの衣の裾が熱風をはらんで、ふわりと揺れる。
土方歳三は、しかし歩をゆるめることもなく通りすぎていった。
山南は無言でそれを見送った。
残された炎闇に、左手の抜き身がきらりと光った。
「……ひどいものです」
くぐもった声で僧が云った。
庫裏の奥、ふたりが座した小さな部屋は外の熱気から遮断され、まるで異空間のようにひっそりとしている。
「今日もひとり、門前に打ち棄てられておりました。……人は、なにゆえに人を殺し、また殺させるのか」
僧が自問自答のように呟く。清廉な横顔が、まるで異物を呑みこんだかのように苦しげに見える。
山南は答えなかった。
ただ、それ以上に苦しげな顔で、かたわらに置かれたろうそくの炎へ視線を逃がした。端正な顔立ちがために、眉間にきざまれた深い皺がなお一層つらそうにみえる。が……。
一瞬の間もなく、僧のことばがそれを追った。
「なにもできぬ、と申されるか」
声は抑えられている。しかし、
「なにもなされぬままに、なにもできぬと申されるか」
それは鋭い切っ先がごとく、山南の胸を貫いた。
山南は頬を硬くこわばらせ、
「わたしにいまさらなにができると」
と、おのが右袖へそっと手をふれた。僧はそれにちらりと視線を走らせたが、
「人は……武だけでは動きませぬ」
静かな声で返した。
「されば、論のみでひきいていくことも、またでき申さぬ」
山南の首が小さく振られた。そして、まるでなにかにあらがうかのように、その唇が真一文字に引きむすばれた。
ふたりのあいだに、ひっそりとした沈黙が落ちていった。
僧は膝元の茶をそっと手にとった。茶はすでにその熱を失っている。
ゆっくりと口に含む。
山南はそれをじっと見つめている。 ふいに、かすかな雨の匂いが宙を流れた。山南の視線がわずかに揺れる。
刹那に。
激しい雷鳴と蒼銀の光が、空間を引き裂いて奔りぬけた。
「新選組には、鬼がおります」
突然、山南が云った。呻くような声だった。だが、僧は一瞬の逡巡もなくそれに答えた。
「鬼にならずば、できぬこともありましょう。たとえ、それがまちがっていたとしても。……されば、土方殿は」
さえぎるように山南の顔がけわしくなった。
なにかを云いかけたその唇が、かすかに震える。それはまるで、内心の激しい相剋がことばを失わせているかのようだった。
僧は深く息を吸いこみ、まっすぐに山南の目を捉えた。
「山南殿……新選組を、お捨てになられますか」
山南は唇を噛みしめ僧を見た。僧は慈愛に満ちた眼差しで、ただじっとそれを受けとめていた。
外は、すでにどしゃぶりの雨だった。
武士とはなんだ。
濡れそぼった闇のなかで、山南は何度も自問を繰りかえした。
武士とは、侍とは……。山南は左の手を、おのが右腕へそっとのばした。
そこにあるはずの、あってしかるべきもの。
だが……。
あの日。
あの頬凍る、上弦の月の夜。
血だまりに転がった絶望。
ただ蒼褪めて、凄惨たるおのが運命を嘆き、やがて恐ろしい懐疑に押しつぶされてしまったあの・・・とき。
しかし、その向こうで目にしたものは、ただ滑稽なるおのれの姿だった。
激情に流され、それにつりこまれて従うのは、無知な、無力な人間と軽佻な人間だけだ。激変の凄まじさを血とともに知り心魂に撤した者は、人には常に幾つかの道があり、絶対唯一の道などないことを知っている。
自分は、果たしてそのどちらを選ぶのか。無数に存在する真理の、なにを信じ、なにを求めるのか。
あの日。
あの頬凍る、上弦の月の夜。
煌々たる蒼き光を浴び、やがて遠くなる意識の下で、自分が選んだ道は、いったいなんだったのだろう。
空を駆け巡る鳴神と篠を乱すかのような雨音が、山南の耳を激しく打つ。
間違い、であったか。
……。
迷い、か。
……。
……否。
否、否、否!
山南は激しくかぶりを振った。
乱れうつろいゆく世情に、国を捨てすべてを捨てて選んだこの道に、何の間違いがあろうか。あのとき、あの瞬間に、何の迷いがあったろう。
新選組副長。
それはみずからが選んだ、選びとった道なのだ。ならば……。
ろうそくの炎が、ジジッと小さな悲鳴をあげる。
山南は静かに障子を開けた。
東の山々にひとすじの光を流し、夜はもうしらじらと明けはじめている。
わずかに残るちぎれ雲、それを染める血のような紅と、そして未だ暗き沖天には綺羅と輝く明けの明星。
雨は、すでに遠く去っている。
山南は固く目を閉じた。
どこからか、ひっそりと冷たい空気が流れている。
庫裏の奥の、異空間のようなその一室で、山南はひとりすずやかに端座し、薄闇にさらされたおのが愛刀をじっと見つめていた。
「遅かったな」
視線を切っ先に据えたまま、突然、山南が云った。
その声とともに、背後の障子が音もなくスゥッと開く。
土方歳三だった。
山南は抜き身をかたわらに置き、静かに振りかえった。
視界に細い月が映る。
土方はそのわずかな光を背にし、冷然と黙している。
表情は見えない。
山南の無言の視線に促され、土方は忌々しげに舌をならしながら、しかしゆっくりと三歩、前へ進んだ。
障子は開け放たれたままだ。
「論など、いらぬか」
唐突に山南が云った。
土方の目がきらりと光る。しかし、山南は鋭い視線で、ことばをつづけた。
「たしかに、いまのわたしには武をない。だが、武のみを信ずるきみには、論がない」
「なにが……云いてえ」
「新選組は強くならねばならぬ。そう云ったのは、きみだ」
「答えになってねえな」
土方の舌打ちの音が、ふたたび部屋に響いた。が、
「いまのままでは、我らに先はない」
山南は容赦なく云った。
「この時勢において、新選組はどうあるべきか。いかに生くべきか。それを考えなければならぬ」
「……くだらねえ」
土方は吐き捨てるように云った。
「思想だの、論だのとごたくを並べてなにができる。そんなものは尊王攘夷とやらにかぶれた、阿呆な連中にまかせておけばいい。我らに必要なものは行動だけだ」
「わたしは、はやりの尊王かぶれではない。同様にするな」
土方がふんと鼻で笑った。そして、
「おれには、おんなじに見えるぜ。てめえらなんざ、首が飛んでもいっそ血もでまいよ」
嘲笑うように云った。
山南の目が、一瞬すっと細くなった。
かたわらに置かれていた抜き身の刀は、すでにその左手に握られている。
咄嗟に土方がうしろへ飛んだ。
山南はそんな土方を、ただじっと見据えている。
凄まじい殺気だった。
灯心が、ゆらりと舞った。
「土方」
山南は無機質な声で云った。
切っ先がすっと土方の眉間に向けられる。とほとんど同時に、土方の刀の鯉口が小さな音を立てた。
闇が、凍りついた。
長い沈黙だった。
真剣勝負の如く、ふたりはしばらくの間、そうして睨み合っていた。
やがて、それを最初に破ったのは土方だった。
「聞かせてもらおう」
土方はまるで観念したかのように、山南の真っ正面へどかっと座りこんだ。山南は静かに頷き、刀を鞘に納めた。
「わたしには、もはや天下をどうするなどという論はない。いまはただ、新選組はどうあるべきか、それのみを考えている」
山南は大きく息を吸い、そしてすべてを吐きだすかのように続けた。
「これから先、世の中はもっと荒れる。いくさになる。そして、ことをおこすときになによりも大事なのは知るということだ。いくさは、喧嘩とは違う。それは、戦国の世もいまも変わらぬ。が、我らのいくさには大義、すなわち思想の裏づけがなければならぬ。いまは思想の時代だ。それはつまり、尊王攘夷ということだ。それがなければ世の支持はない。きみがいくら抗おうとそれはまぎれもない事実だ」
土方の片眉がピクリとあがる。
「人は、武のみでは動かぬ」
わかるか、と山南の目が鋭く云った。坦々とした低い声が、しかし斬りこむような激しさを秘めている。
土方はごくりと唾を飲んだ。
「が、きみはきみのままでいい」
思いがけないことばだった。土方は拍子抜けしたように山南を見た。
土方は山南のことばをはかりかねていた。いまのいままで自分を批判したその口で、なにを云うか、と思っている。考えをあらためろと、そう云いたかったのではないのか。
山南はそんな土方の疑問を素早く感じとった。そして、
「新選組は、あくまでも武の集団でなければならぬ」
と、くっきりとした声で返した。
土方は苦虫を噛み潰したかのような顔をした。山南のそのひとことで、すべてが了解できたのである。
いくさになる、と山南は云った。
いくさには、なによりもまず武力が必要だ。それがなければどうにもならぬ。しかし、これからはじまるであろうこの動乱のときを、それだけでのりきっていけるのか。
山南は、そう云っている。
土方はこのときはじめて、山南の占める位置の大きさをひしひしと感じた。
「論は、わたしが役目だ」
果たして、山南が云った。
山南は自分の立ち位置を正確に計算し、そのうえで答えをだした。
曰く、影になると云うのだ。
山南の云う論とは新選組の知謀、すなわちあらゆる工作、作戦を引き受けるということだった。それには、たしかに武力は必要としない。先を見通すことのできる明晰な頭脳と一瞬の決断力があればそれでいい。そして、その点では山南ほど適任なるものはいない。
土方は呻くように云った。
「それで、いいのか」
「かまわぬ。ただし……」
「ただし?」
「ひとつ、云っておく。こののちなにがおころうと、きみはあくまでも新選組副長としての道を貫くのだ。決してあきらめてはならぬ。腹を切らねばならぬときはわたしが、切る」
いつのまにか月は沈み、天には綺羅と耀く星々が満ちている。その開け放たれた障子の向こうに、山南はふっと視線を移した。
「我らは、新選組の両輪だ。されば、もはや恐いものなどない」
「そうだといいがな」
土方が低く云った。その一瞬、山南の頬がかすかに笑ったかのようだった。
「わたしは新選組副長山南敬助だ。それ以外にこの世に山南は存在しない」
くっきりとした山南のことばに、迷いは一切なかった。
土方はあらためて山南を真っすぐに見つめた。
片腕を失くしたくらいで、この男はいささかも変わってはいなかった。
むしろ、その緻密な頭脳はますます鋭さを増しているかのようだった。そして、失ってしまったはずの剣の力さえも、敵うものはたぶん、いまこの京洛でも数えるほどしかいまい。素直にそう思えた。
土方はその身から発せられる強烈な誇りを痛いほどに感じた。
新選組副長山南敬助は、いかにも武人らしい静謐な顔で端然とそこにいた。
「さて……」
山南はあらためて土方へ顔を向けた。
「今度の一件だ」
「うむ」
「会津は、使うな」
「なんだと?」
「彼らの助勢を頼んではならぬ」
土方は無言で先を促した。
「動かせば、結局彼らの手柄となるのは明白。しかし」
土方はハッとした。
「おれたちだけで捕ったとなれば」
「そうだ。我らの名は京のすみずみにまで知れ渡る」
「むう」
土方が苦々しい声で呻いた。
「十分だ。決してひとりも逃すな」
土方は力を込めて頷いた。そして、
「屯所は」
どうする、とその目で云った。山南は答えるかわりに首を振った。
「留守を狙われる。おまえ以外にまかせられるヤツはいねえ」
土方がじれたように云った。
「この……」
山南は左の手を空虚な右袖へのばし、
「隻椀に屯所を守れと?」
自嘲するかのように笑った。
「やれるだろう」
土方は確信をこめて云った。だが、山南は唇に微笑を浮かべたまま、
「たしかに。浪士の三人や四人、ものの数ではない。しかし、もし万々が一ことがおこったとき、隻椀に屯所を守らせたなどと云われては新選組の恥となろう。わたしは武士だ。武士とは、なによりも恥を知る者」
と、きっぱりと云った。
土方がすっと視線をあげた。
「武士、か」
「然り」
「……笑わせてくれるぜ」
そう呟いた土方のことばに、山南は力強く頷き、そして颯爽と笑ってみせた。それは正しく武人の顔であった。
高瀬川のせせらぎに、かすかな喧騒がざわめいている。
闇……。うだるような夜の闇。
その燃える炎闇を、ひとりの男が息荒く走っている。
男はいたるところに刀傷をうけ、全身を真っ赤に染めていた。
と、陽炎のように、ひとつの影が道の中央にゆらりと佇んだ。
男はハッと立ち止まった。
影は袴の裾を軽くさばくと、間合いをつめるがごとく、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
男は瞠目した。
影はすでに一足一刀の間境を越えようとしている。その、流れるような滑らかな動きには一瞬の遅滞もない。
男は咄嗟に刀を抜こうとした。
と、ほとんど同時に、瞬息の左片手斬りがあざやかに空間を一閃した。
きらり、と切っ先が光った。
男はよろめくように二三歩、足を進めた。……音もなく、首が落ちた。
その瞬間、凄まじい血飛沫が漆黒の空を真っ赤に染めた。
遠く西の地平線では、五日の月がいままさに沈まんとしていた。
新選組副長山南敬助。
武に走る新選組に於いて、ひとり思想に生き、そしてそれゆえに隊中で孤立、やがて心の病に陥り自ら死を選んだと、いま人は云う。が……。
新渡戸稲造『武士道』に曰く。
『もっとも進んだ思想をもつ日本人の表皮をはいでみよ。そこに人は、サムライをみるであろう』
了