「まつろわない言葉たち」を集めて(1) 京極紀子さんの言葉 (2)遠藤良子さんの言葉 (3)井上 森さんの言葉 (4)清水康幸さんの言葉 娘たちよ、また青年よ、また50過ぎた私自身よ。事がうまく運ばぬからといって決して腰をひくな。どこまでも自尊心を謙虚に保って、筧(かけひ)の水のようにしたたりを溜めて行け。 (中野重治 :沢地久枝『ひたむきに生きる』(講談社現代新書)より) 「また私自身よ」と、青年のことだけでなく、自らへの呼びかけになっているところが気に入りました。高校生たちの判断や行動を見守るというとき、彼らの判断の是非や甘さや未熟さをあれこれ言うことは、簡単なことではない。事は大人自身のことだと思います。そして、今回の所高のように、一種の「負け戦」を闘っているものとしては、「自尊心」は大事です。「したたりを溜める」とはどうすることか。いろいろ考えさせられる気がしました。 (5)入江輝之さんの言葉 (6)小林 明さんの言葉 「打倒・天皇制」 「『ヤマザキ天皇を撃てより』十数年、今だからこそ云える天皇制」 (7)鈴木香織さんの言葉 今日の集まりに参加できなかったことがとても残念です。 私がこの歌を作りながら思ったのは 「いつかきっと、歌うことを禁じられるような歌にしよう」 ということです。 私たちの暮らしの中の、あらゆる場面から、君が代を追放したいからです。 でも、「禁じられた歌」になっても歌い続けられるように もうひとつ、メロディーを選びました。 Can't Help Falling In Love―好きにならずにいられない―という歌の メロディーに乗せて歌いましょう。 Can't Help Standing Up ―立ち上がらずにいられない―という歌にして。 この歌は LOVE SONG です。 子供たち、孫たち、生徒たち、そしてすべての愛する人たちに 「国家は殺人を強いるものだ」と伝えるための歌です。 戦争が無ければ愛する人たちと暮らせた日々を、アジアや沖縄の人々から 奪ったことを忘れないためにも、歌い続けられるようにと願っています。 鈴木香織 ~~~~~~~~ KISS ME ~~~~~~~~~訳: 僕にキスしたら君のその古臭いジョークにも(サヨナラの)キスをしておやりよ 君に必要な忠告をあげよう 死者たちのこの声が君に届くまで何年もかかったんだよ 「国家ってのは本当に奪ってはならないものを欲しがるけど そのことに気がつく日が来るんだろうか? 冷たい洞窟だって知ってるんだ (戦争で傷つき)気が狂ったり死んでしまった人たちを お月さまはいつも見てるってことを」 註:古臭いジョーク (old one) たとえば「南京大虐殺は無かった」とか、「鉄道や学校の建設など植民地にも良いことをしてあげた」とか、「従軍慰安婦は商行為」などの嘘八百。 心ならずも「君が代」を歌わざる得ない状況に置かれた人々のために この歌が心の中の抵抗を支える小さな柱となることを願って (8)田中伸尚さんの言葉 「ひきょうな」私たちの応答は? 昨年春から、「日の丸」「君が代」問題を通じてさまざまな方たちに出遭い、多くの教えを受けてきました。その中から、どうしても応答できていない問い(文章)を読みたいと思います。 これは、すでに拙著『日の丸・君が代の戦後史』で一部を紹介しておりますので、読まれた方はあるいは記憶されているかもしれません。在日三世で京都在住の日本籍韓国人・朴幸子さんが今から一二年前の一九八八年三月、小学校を卒業する直前に四歳からのことを書いた「思い出の記」と題する作文の一節です。五年生と六年生のところにしぼって読みます。少し文意が通りにくいところもありますが、原文のまま読みます。最初は、八七年三月、五年生のときのことです。 「私は一つの大切なぎょうじがあるのに気が付きました。それは、六年生を、おくる卒業式だった。その卒業式には、日の丸をあげ、君が代をながすということで私の家族はとても反対し、校長先生に日の丸をあげたり、君が代を、ながさないようにたのみにいきました。ほかたくさんの人が反対をしました。でもとうじつは、日の丸をあげ君が代をならした。私は、それに反対し、たい席した。お兄ちゃんも、お父さんも、でもその卒業生の中のお兄さんも、きりつをしないで、すわっていました。私はたい席して体育かんに出た時、みじめだった。私達なぜこんな思いにならないといけないのかが不思議だった。これは、かんぜんな差別だと思った。私は泣いた。くやしくて日本がにくかった。日本の国がすごくにくい。ひきょうや、めちゃくちゃなひきょうな国や!と思った。/なりおわって体育かんにもどる時思った。天皇は、とてもひきょうだ、その天皇と同じいけんの人がたくさんいる。その一人が校長先生ではないかと思った。めいれいにしたがいいけんを、言わない。私はよくわからないけど、とにかくとてもひきょうな国だと思った」。 これが五年生のとき、送る側として出あった卒業式についての彼女の「思い」です。次が一九八八年三月に送られる側として、卒業式直前の「思い」を記したところです。 「私は卒業式もし日の丸君が代を、するのなら私は卒業式を、出ないときめました。小学校の卒業は一回しかない。でも私はもうあんなみじめな思いを、して出るのはいやだからです。今私はなぜ私がいるのか、なぜ人間になって生まれたのか、私はとても不思議です。でもこうやって六年生になって友達がいてうれしいです」 八八年の卒業式にも「日の丸」「君が代」が持ち込まれました。朴幸子さんは、卒業式の当日、欠席すると決めていたのですが、どうしても好きな友達に・「たくて登校します。しかし、式には出ないで終わるまで教室で待っていました。彼女は、日本の公立中学校へ進む予定だったのですが、卒業式の直後、「あんなみじめな思いはいやだ」と、韓国学園の中等部に変更しました。 父親の朴実さんは、幸子さんが五年生のときに退席した様子を、京都・「君が代」訴訟の意見陳述の中で、こう記しています。「娘は式の間中、肩を震わせて泣いていました。それをただ後ろから眺めているだけの私の胸は張り裂けそうでした」と。 小学生の幸子さんが書いた「ひきょうな国や」「天皇は、とてもひきょうだ」という「言葉」は、象徴天皇制の中にいる私たちへの問いなのです。在日朝鮮人三世のこの問いへの日本政府の答えは、法制化でした。では、私たちは彼女に今、何と応答すればいいのでしょうか。 幸子さんは現在、眩しい二四歳です。あれから一二年になりますが、彼女は「うーん、日本の社会はちっとも変わってへんなぁ」とわたしに言いました。これは、一二年後の再びの問いです。私たちの社会は、「ひきょう」のままなのです。しかも二月二七日の横浜・桜木町の事件が語っていますように「言葉」を発することをも殺す社会になってしまいました。 ですが、沈黙や無関心の衣裳を纏うのは最悪の選択です。それは、応答への微かな回路をも閉ざすことになってしまいます。ですから、異議申し立ての「言葉」を発し続ける。そこから幸子さんへの応答を想像していくしかないと思っています。これがいま、彼女に言える私の唯一の「言葉」です。 (9)金 友子さんの言葉 (10)竹森真紀さんの言葉 学校現場に内心の自由を求め、「君が代」強制を憲法に問う裁判 一九九六年(行ウ) 第二二号戒告処分取消等請求事件 意見陳述書 原告 竹森 真紀 一九九八年一二月八日 福岡地方裁判所第五民事部 御中 一、私が生まれて育ったところと出会ったこと スペースワールドという大型レジャーランドのある北九州市八幡東区「枝光」、それが私の生まれ育った町である。父は、戦後間もなく田舎から出てきて十代半ばから八幡製鉄所の職工として働き、私は決して豊かではないがその安定した収入のおかげで食いはぐれることもなく育った。父は現在の新日鉄での定年すら待たずに病に伏し、定年後の生活を送ることもなくこの世を去った。スペースワールドは、溶鉱炉の火が消えた後、父と入れ替わりに私の前に現れたようで、未だ足を踏み入れる勇気はない。 枝光、かつては八幡製鉄所の煙突の煙りと洞海湾の赤い海に囲まれたところであり、一八九七年の溶鉱炉に火が入って以降、この国の「富」をもたらしたところである。「富国強兵」政策の一環として、日清戦争の勝利による巨額の賠償金を資金に設立された八幡製鉄所は、当時の村民を搾取したばかりか、第二次大戦中は多くの朝鮮人を強制連行してきた。「鉄冷え」からも久しい今、目に見える風景はあまりに様変わりしてしまったこの枝光の町であり、煙突の煙や溶鉱炉の火は消えたが、戦争を経て何も変わらないのは、また新たな「開発」が目論まれているということである。 人は、それぞれに歴史を背負っているものであり、この枝光という町で生まれ育ったちっぽけな私にも小さな歴史があり、こだわりも少しはある。私は、食いはぐれのない仕事であり、かつ、何か自分の生き方を表現できる仕事として教員を目指し、近くの教育大学へ進学した。そこで私は「たたかう」ということと出会った。最初の出会いは、部落解放運動。福岡市のある解放子ども会へ通うことになり、そこでたたかう被差別部落の子どもたち、親、青年たちと出会った。差別論を云々するよりも、狭山差別裁判をたたかう集会や不当判決に対する裁判所への抗議行動や、地域でのハンストなど、一つ一つの活動が新鮮で楽しかった。狭山事件を知り、私は警察権力の恐ろしさをこのとき初めて強く感じ、冤罪や自白の強要とたたかう術を身につけることの重要性を思い知らされたものだった。自分の中の勝手な「部落」というイメージは、そこで明るく生きる人たちによって簡単に抹消された、つもりだった。たかが二十歳そこそこの私が分かったつもりで使った「エタ・非人」という言葉の表現に対して、「やっぱり、あんたたちには分からんちゃろうね」との部落の人からの言葉が胸に刺さった。それでも、私にはそんな投げかけの中にさえ彼らの熱い思いを感じたいと必死になり、ここでの運動が好きになっていた。また、学生という位置にしかいなかった私にとって解放運動は、「学校」という国家の中にもずけずけと土足で入っていくダイナミズムとエネルギーを育んでいるようにも思えたのだ。 もう一つの出会いは、「障害」者解放運動だった。重度の脳性マヒの人たちが自立し、生活するたたかいである。私にとってそれは、ノーマライゼーションとか「共に生きる」という理屈だけのきれいごととは程遠いものだった。食事、排泄、移動、何もかも一人ではできない私と同じ年代の人がそこにいたのだ。 私は、その人たちの言うとおりに食事を口に運び、トイレの世話をし、行きたいというところへ連れて行かねばならなかった。そんな介護活動を通して彼らからは、「障害」がないというだけで何一つ自立していない自分をつきつけられた。彼らのたたかいは、生活そのものであり、そのことの意味を教えてくれるものだった。 今となっては、「障害」者とのつきあいは、時として時間だけに追われ何かを求めて焦っている自分にとっては、結構楽しい時間だ。食事をしたり、着替えをしたり、バスに乗ったり、そんな一つ一つが生きることの証しだと思えて、楽しいのだ。そして、彼らはしたたかで明るい。 二、教員となって 一九八〇年、私は教員になった。「たたかう」ことと出会った私が勤めた「学校」は軍隊のように見えた、と言えば言い過ぎだろうか。四〇人以上の子どもの集団を相手に、毎時間チャイムに合わせて授業が始まり、終わり、その度に「礼」がある、毎週月曜日の朝は全校朝会だと言って体育館へ移動するために整列、体育館では真っすぐ並んで長い時間じっとして話を聞かなければならない、給食は時間内に嫌いなものも全部残さず食べさせる、運動会の練習ともなれば「前に習え」「気をつけ」「休め」などと大声を張り上げて号令をかけなければならない。「君が代」強制以前のことである。「学校」なら当たり前のことなのかもしれなかった。私にとっては、自分が管理する側に居座ることに馴染めず、抵抗しなければならなかった。そんな私の小さな思いとはかけ離れて、職員集団は、とってつけたような研究授業や指導案づくり、指導計画書などの書類の提出の強要、評価に対するチェック、職員会議は形だけで、職員一人一人が何を考えているのか分からないといった疎外感も募った。自分のやってることが何なのか分からないほど、自分を失いつつあったかもしれない。学校が息苦しかったことは、「学校」のせいではなく自分の心が解き放たれず、満たされていなかったからかもしれないが、私はそこで自分自身を見いだせなかった。非力な自分に愛想がつき、「学校」と言う名の国家に息苦しさを覚え、それに同化せざるを得ない自分に疲れきっていた。管理することとされることの狭間にいながら、私は心と体を「学校」という枠にはめるしかなかった。教員では解放されない…そのときはそう思った。 三、知花氏との出会い 一九八五年高石邦男による「君が代」徹底通知以降、沖縄においてもほぼ「〇」に近かった「日の丸・君が代」実施率は、沖縄国体開催前に一〇〇%を目指し強行されていった。一九八七年沖縄国体開催の春、読谷村の女子高校生が卒業式に初めて持ち込まれた「日の丸」に抗議して、それを壇上から引き下ろし捨てた。沖縄反戦地主であり現在も反基地運動を取り組む知花昌一氏は、彼女に対する大人としての答えとして、同年一〇月、沖縄読谷村での国体ソフトボール会場の開始式、日体協会長広瀬によって強行された「日の丸」を焼き捨てた。 知花氏は、読谷村波平部落でのチビチリガマでの「集団自決」について、「調査を行うだけで現実の戦争への動きは見守るだけ、そんなことであってはならない、日の丸の掲揚に抗議すること、それが遺族たちへの責任のとり方である」と考えたという。さらに、「私は日の丸を『焼く』ということについても考えはじめていた。やるんだったら徹底してやるほうがいい、と思い始めていた。日の丸がこのようにおしつけられてきていることの重さを知るものとして、民衆の一人としての心情の表現としては、焼くところまで徹底して当然なんだと思った。それほどの重い意味をもって日の丸押し付けの攻撃はやってきたのだ、ということを何としても示したかった。フィリピンでも、韓国でも、日本の侵略に反対して日の丸が焼かれていることの意味を考えるべきなのだ」と語っている。 北九州市では、校長の命令によって当たり前のように「日の丸・君が代」が実施され、「君が代」斉唱時にただ黙って座っているだけで処分という事態に悶々とし、閉塞していた私たちに、この知花氏の提起は大きな衝撃をもたらした。この直後、北九州市の地で出会った知花氏は、朴訥で、屈託のない笑顔の人であり、そんな知花氏に勇気づけられ私たちはただ黙って座っていることから、自分たちで「たたかう」ことを決めた。 一九八七年以降市教委による処分に抗議を込めて、私たちは教育委員会へ話し合い求めて何度も訪れた。「日の丸」を常時掲揚する学校長への申し入れも行った。市庁舎の前や街頭で、ビラをまくこともした。抗議の座り込みもした。広く市民に訴えるために集会もした。「日の丸」「君が代」をはねかえす会を社会的にも明らかにすることによって、自分たちの行動に責任をもとうとしてきた。知花氏が語るように、北九州市の教育現場でただ黙って「君が代」を歌わないという最低限度の自由を、命令−処分という脅しでもって弾圧してきた公権力に対して、私たちはその重みをもってはねかえす行動を起こすしかないと考えたのだ。「強制−命令−処分」という弾圧がなければ、私たちは行動を起こすことはなかったかもしれない。黙って座るという最低限度の自由すら剥奪されようとしたとき、私たちは毅然として行動するしかなかったのだと思う。 教育委員会は明らかに私たちのこのような行動を嫌って処分を強行し続けている。教育委員会は処分理由にはまともに答えようとせず、「職務命令違反」とは全く関係のない「運動を学校へ持ち込むな」とか「抗議は受け付けない」といった理由で、私たちの思想を、表現を認めようとしない。思想・良心の自由とは表現の自由であり、理不尽なことやいわれのない差別や弾圧とたたかかうことであり、自分らしさを取り戻し、自分自身が解放されることだと思う。思想は、言葉や行動に現れるし、言葉や行動を伴わない思想や良心などあり得ないと思う。 四、今、なぜ「戦争論」復活なのか 小林よしのりの「戦争論」が若者に受けているらしい。既に五〇万部の売れ行きだという。その「戦争論」の基調は、現代の利己的な若者の姿を「個」を重んじる戦後民主主義の悪しき結果とし、今こそ「『個』を捨て『公』のために生きることが必要」とする。果たして、戦後「学校」はどのような「個」を育ててきたのだろうか。 「学校現場に内心の自由を求め、『君が代』強制を憲法に問う」、これが私たちの本裁判のテーマであり、本日陳述の準備書面において「内心の自由」は憲法に保障された基本的な個人の精神的自由であることを述べた。戦後民主教育の内実は、「管理教育」とか「詰め込み教育」との批判を仰ぎながらも、一方で高度成長期以降の「豊かな社会」によるみせかけだけの「自由」をまとわされ、子どもたちはその中で自己を確立することをさせられないままに「あまえ」といった言葉で非難されてきたような気がする。 教員をやめた今も私自身こだわり続ける「学校」は、私自身が自分を表現することができず、管理する側も、管理される側も、自らを解放する場ではなかった。私は、冒頭述べたように学生時代にいったん「学校」ではない社会に身を投じ、そこで自らの差別とたたかう人たちとの出会いがあった。そこでは、差別され、社会から排除された人が、人として、自分らしく生きることの本当の豊かさに出会うことができたのだと思う。わずかではあるが、警察権力や司法権力の汚さと向き合わずして、自分を本当には解放することはできないことも知った。「学校」では出会えるはずのない人たちと、「学校」の外だからこそ知り得ることができ、自分自身の立つ位置をも見つけることができた。 今の「学校」で育った多くの若者たちが、「戦争論」に駆り立てられることが、理解できないではない。「何のために生きるのか」「自分の存在を確かめたい」そのような疑問に、戦後の「学校」は答えようとはしてこなかったのだと思う。自分らしさを表現しようにも、何を基軸として自分らしさを見つけたらいいのかが見えないのだろう。「戦争論」に駆り立てられる若者たちは、戦後民主教育と言われる場において、何も考えずに「君が代」を歌うことは教えられたが、「君が代」を通して、戦争や平和を語る場などあり得なかった。国家は、戦後「君が代」を復活させ、公教育において徹底させるために、強制や命令という手段を用いた。「学校」は、強制や命令ではなく「君が代」を通して戦争というものを具体的に考え、問うていく作業を必要としているのだと思う。被告北九州市教委のいう「学習指導要領の趣旨に則って」の一行ではなく…。 私は「学校」を去った者としての自分の言葉を「学校」へ届けるべく、今も必然として「学校」にこだわり続けている。 五、国家へ心を売り渡しては生きられない 一九八九年最初の懲戒処分に対して、私たちはあまりに非力だった。本人訴訟と言えば聞こえはいいが、審理についての知識すらなく人事委事務局の言うがままだった。そんなとき、公開の審理が開催されず何度も事務局での打ち合わせ会議に呼び出された。思い切って「福岡からの交通費もかかるので審理を早急に開いてほしい」と言った私に対して、人事委事務局職員は「竹森さんには『金づる』があるからいいでしょう」と言った。私は、この職員の発言の撤回と謝罪を求め、最終的に北九州市人事委員会局長名での謝罪文、局長自ら自宅まで謝罪にきたことで、この発言の決着を見た。 私はこのとき、この職員の発言に象徴されるように、私たちの異議申立や活動は世間からは何らかの組織や金で動いているものと思われているのだと知った。私たちは、本当に「無力な個人」でしかなく、「処分をダシに」との精一杯の強がりで踏ん張っていた。社会的地位も組織的権威ももたない「個」が、国家から自立して表現することをこの国は認めようとしていないことを、私は強く思い知らされた。 「君が代」斉唱をほんの一、二分がまんして歌えば、処分という社会的制裁を受けることもなく、生活を脅かされることもない。本当にそうなのだろうか。命令は処分に脅されて「君が代」を歌うことは、国家に自分の「内心」さえ売り渡すことになりはしないだろうか。そしてそのことが、ほんの五〇数年前の過誤を繰り返すことになりはしなだろうか。今日一二月八日は、日本が太平洋戦争をしかけた日である。その翌年一九四二年版国定教科書「初等科修身4」の「新しい世界」を引用する。「昭和一六年一二月八日、大東亜戦争の勃発以来、明るい大きい希望が沸き起こってきました。昭和の聖代に生まれて、今までの歴史にない大きな事業をなしとげるほこりが感じられて、たくましい力がもりあがったのであります。… 日本は、大きな胸を開いて、あらゆる東亜の住民へ、手を握りあうように呼びかけています。日本人は御稜威(みいつ)をかしこみ仰ぎ、世界にほんとうの平和をもたらそうとして、大東亜建設の先頭に立ち続けるのであります。私たちは、ゆたかな資源を確保し、軍備を固めて、敵を圧迫し、おおしい心構えをもって、建設をなしとげなければなりません。…今、はっきりと私たちの果たさなければならない使命についてわきまえ、それを果たすことのできる日本人となるようつとめましょう。」 説明は要らないだろう。知花氏の「日の丸」焼き捨てから一〇年後、沖縄で多発するアメリカ兵による少女暴行事件がようやく明るみとなり、沖縄の基地問題が沖縄だけの問題ではないと全国に反対運動が広がった。しかし、今、また「基地がないと生活が安定しない」「不況の波に、失業者が増大している」との経済的理由で沖縄の心がかき消されようとしてはいないだろうか。目先の「平和」や「豊かさ」と引き換えに、国家という力によって傷つけられ、排除され、弾圧されてきた人々の痛みを消し去ってはいないだろうか。多数者の論理としての「平和」や「人類の発展」のために、戦争は始まる。国家のいう「平和」のための強制や命令に対して、抵抗し、服従しない権利が「無力な個人」に保障されることこそが重要である。 最後に、現在、本裁判所において開廷の「起立」を強制されないことを保障され、私たち原告は安心して裁判を受けることができている。多数決によらない法の論理において、はじめて少数者の人権を守ることができることを確信して、本裁判を真摯にたたかっていきたい。 以上 (11)みつはしひさおさんの言葉 千葉高教組「2.11『日の丸・君が代』強制反対 千葉県民集会」の取り組み 千葉高教組「日の丸・君が代」対策委員会 昨年8月、国会で「日の丸・君が代」が法制化されました。しかし、法制化反対闘争は自然発生的に大きく盛り上がりました。夏休みだったにもかかわらず、千葉高教組からも多くの仲間が国会前座り込みなどに参加しました。法制化後も運動は発展し、高教組内では学習会・討論会・『一問一答集案』作成などが取り組まれました。 その中から考え出されてきたのが、法制化後初の卒業式の前に、新聞への『意見広告』と『2・11県民集会』の取り組みをやろうということでした。それは、この間の法制化反対や新ガイドライン反対などの取り組みを通して、県内で多くの労組や市民団体などを結集していくためには、千葉高教組が声を上げることが重要であり、多くの人々もそれを望んでいるという声を私たちは聞いていたからです。 [意見広告] 私たちは「日の丸・君が代」の強制に反対します。 「日の丸」を国旗に、「君が代」を国歌とする そんな法律が、十分な論議もなしに成立しました 卒業式や入学式での「国旗・国歌」の押しつけが 今後いっそう強まることを私たちはおそれます 入学式や卒業式は、子どもたちの成長を みんなで心からお祝いするものです 「日の丸・君が代」の強制は お祝いの場にふさわしくありません かつて多くの人々が 「日の丸」のもとに戦争にかり出され 「君が代」のもとに死ぬことを余儀なくされました それは主権在民・平和をうたった日本国憲法とは相いれません 「日の丸」を揚げるか 「君が代」を歌うかは、一人ひとりの心の問題です 法律で心の中まで縛ることはできません 教育の場に一律に「日の丸・君が代」を強制することに反対します 憲法は思想・良心・信教の自由を保障しています 千葉県高等学校教職員組合 代表:中央執行委員長 本間義人 2月3日の「朝日新聞」千葉版に掲載された『意見広告』では、賛同カンパをした人が2206名でした。この数は当初の私たちの目標を大きく越えるものです。いかに多くの人々がこの問題について「おかしい」と考えているかということがはっきりしました。市川市内の中学校の校長に「日の丸・君が代」強制反対の申し入れをしたある保護者は、「意見広告」に出た担任の名前を見て、子どもに「先生に名前を見たよと言いなさい」と言ったということです。「心強かった」「いいアイデアだった」「またやって欲しい」という声もありました。 そして、『2・11「日の丸・君が代」強制反対千葉県民集会』は、私たちの予想を大きく越える1300人以上の人を結集して、画期的な成功を収めました。 集会では、前沖縄県知事の大田昌秀氏が、「沖縄問題と日の丸・君が代」と題して、約2時間にもわたり熱弁を振い、日本軍と米軍に踏み躙られた沖縄の歴史を語りました。氏は最後に、長崎で被爆した永井医師の子どもへの遺書(たとえ一人になっても戦争に反対しなさいという)を紹介し、講演を終えました。 集会はその後、参加者からの発言、『集会アピール』採択のあとデモ行進に移り、右翼の妨害を圧倒して「『日の丸・君が代』強制反対!」の声を千葉の町に轟かせました。 ここで、集会参加者の声をいつくかご紹介します。 *よく正面きって「日の丸・君が代」強制反対を堂々と掲げられたと思います。右翼の反応もこれを表しています。保守の千葉でも変化はおきているのかなと思いました。 *戦争につながる道を二度と走ることのないよう、大きな声をかけ、一人でも多くの仲間をつくっていこうという気持ちを強く持ちました。 *予想以上に多くの方が参加され、大田さんの話も大変心に残りました。私たちの戦争反対の行動こそ今必要と思います。 *日本中で同様の集会があるように、今後大いにこの運動が盛り上がるといいと思う。 *誰かが「集会をやろう!」と声をかければ必ず市民会館を埋めるだけの人、人が集まってくるのだと思います。 *この広告はもっともっと大きな広告に発展させよう。580万県民に強いインパクトになるよう。 *朝、新聞を見て、本当にうれしかったです。声を出してくれてよかったと思います。 *思い切って全県民に呼びかけたことに敬意を表します。なにか意見表明しなくてはと思っていた人々が多くいたのですから。 *中高の父母の話題にのぼった。「私の先生の名前が載っているよ」と勇気づけられた。一人ひとり参加できる運動としてとてもよかったと思いました。 *反対の意志の機会ができてよかったし、こんなに多くの賛同者がいると励まされた。 *職場などでも大反響があった。私の職場でも4人も広告に名がある。 *とても良かったです。職場でも私の名前も載ったせいで注目を集めていました。 *最後までがんばりましょう。私は71才です。 *うちの組合本部にも呼びかけをして下さい。鳶職人。 *教組だけでない全国的な反対の輪をさらに広めていきましょう。 *これからも意見広告のような積極的な運動をお願いします。みんなでつけやすいワッペンとかリボンのような形であってもいいと思います。 *重苦しいものになってはいけないと思います。むずかしすぎること、かたすぎることは疲れます。誰でも気楽に参加できるようにわかりやすくユーモアを忘れてはいけないと思います。 *入学式、卒業式を子どもや親と共に作っていけるよう努力すべきだと思う。地域の人とももっと話し合う場を作っていくことも大切。 今回の取り組みは、幾つかの大きな成果と教訓があったと言えます。 それは一つには、思いきって訴えたら多くの人々が結集し、連帯の輪が大きく広がったということです。やはり「おかしなことはおかしい」と、勇気を持って訴えることが重要なのです。 二つには、右翼は人々を威嚇するだけで、何らまともなことを言えない、ということが多くの参加者に分かったことです。また、彼等の登場によって「日の丸・君が代」の本質が暴露されたのです。 三つには、どちらが多数派かということが実証されたことです。「日の丸・君が代」を強制しようとしているのは、実はほんの一握りの者たちです。 全国の皆さん、われわれは道理のある多数派なのです。しかも、闘いながら強くなりつつあります。「日の丸・君が代」を強制する者たちを包囲し、圧倒するために、ともに頑張りましょう。 (12)中井正幸さんの言葉 『1945夏』 君たちが生まれたころ、中学2年生のぼくは、学校へは行かず、毎日穴を掘っていた。ぼくらは弁当をさげて近くの駅前に集まった。そこは家々が取り壊されていて、広場というより空き地になっていた。決められた場所に、決められた大きさの四角の穴を掘る。それが1メートルぐらいの深さになると四方に柱を立て、屋根を作り、それに土をかける。その材木を取り壊された家から、大八車と呼ばれる荷車で運ぶのもぼくらの仕事だった。この穴がアメリカの飛行機の爆撃から身を守るための防空壕だということを、ぼくらはもちろん知っていた。しかし、あり合わせの古い材木で組み立て、わずかに土をかけただけのこの防空壕が実際の爆撃に耐えられる代物ではないということも知っていた。 4月に始まったこの仕事は夏になっても続いた。ひとつの駅前にいくつかの壕ができ上がると次の駅に移った。この無意味と思える仕事がいつ終わりになるのか、ぼくらにはわからなかった。真夏の太陽は暑かったし、弁当はまずかった。それに、なにより、穴を掘る作業は苦しかった。しかし、これを続けることしかぼくらには考えられなかった。そのころ、学校はないといってよかった。上級生は工場に行っていたし、ぼくらより下のものは東京にいなかった。校舎は兵隊が使っていたし、先生も殆どいなかった。ぼくらは何もしないでいるわけにはいかなかった。穴を掘り、材木を運ぶことが、ぼくらの「学校」だった。「学校」はそれなりの楽しみがなかったわけではない。穴を掘る時には、シャベルで土を遠くへ飛ばす競争に熱中したし、ぼくらの監督をしていた区役所のおじさんをからかって怒らせたことも度々あった。荷車をひいて街を行くことは一種のレクリエーションであった。 8月の6日と9日、広島と長崎に「新型爆弾」が落とされたことを、ぼくらは新聞で知った。もはや、ぼくらの作る防空壕が何の役にも立たないことは誰の目にも明らかだった。しかし、ぼくらの仕事は8月15日まで続いた。戦争の終わりは、ぼくにとって、穴掘りの終わりを意味した。明くる日からは何もすることがなかった。 秋、何ヶ月かぶりで学校に行った時、ぼくは百二・三十円の金を渡された。日給1円。ぼくが生まれて始めてもらった給料である。 (1961年3月) −−−杉並区高南中学校生徒会誌『高南の窓』No.11.より (13)浜邦彦さんの言葉 ひとつの<イマージュ>について,お話ししてみようと思っています。昨年の7月に『朝日新聞』が「私と日の丸・君が代」という特集を10回にわたって社会面に連載していたのですが,その間に400通もの投書が寄せられたそうで,22日の紙面では「投書から」という特集が組まれていました。その中に,69歳の男性からのこんな投書がありました。 昭和14年当時,中国山東省に住んでいた。夏の日,弟らと三人で町外れの有刺鉄線の囲いの中に入ってみた。直径10メートルもありそうな大きな穴に巨大な黒いかたまりが見えた。死体の山だった。黒く見えたのはハエの群れであることもわかった。頭を上げると,近くに日の丸が翻っていた。60年以上たって私の記憶に残るのは,まばゆい空を背景にした日の丸が恐ろしいまでに美しかったことだ。それ以降,私は目に見える美しいものを素直に信じる気にはなれなくなっている。今年現地を旅行し,そこが刑場だったと知った。私はこの投書を,ひとつの圧倒的な<イマージュ>として受け取りました。私がアーチストなら,日の丸の赤い丸に黒いハエがびっしりたかったオブジェ――その旗の四隅を,有刺鉄線が囲っている――をつくったかもしれません。だけどアーチストならざる私が考えるのは,この<イマージュ>が,日の丸のイメージをめぐる「別の公共圏」,あるいは別の記憶の公共圏のようなものへと,つながっていく可能性ということです。今日は,そういうことを私なりに話してみるつもりです。 (14)細見和之さんの言葉 傘、その他の断章 1 ほそい雨の降る路地。ひとり傘をひらくと、濡れた肩で ひっそりとぼくのかたわらに立つひとがある。ぼくも半 身を濡らすからもっと近くへ、と呼びかけると、すでに そのひとの姿はなく、ただ暖かな潮風がぼくの肩に吹い ているのだった。 2 降りしきるものを局所的に遮蔽して激しく緑から滴らせ るもの。たとえば傷口に押しあてられる少女の掌、ある いは開かれている一冊の本のような……。やがて人々は 水平線に跼まり、残された影だけが悲嘆の背中をこすれ あうのだった。 3 落日までのぼくの仕事。生きてゆくことを疑ってしまう 淋しさを、破れ傘いっぱい分汲みあげること。すると新 鮮な死者が、ひょいと水たまりから覗いたりする。(徹 ちゃん、こっちはどんな具合に見えますか?) 4 夢の中で約束の時間に遅れぬように 腕時計を着けたままで眠りましょう 遠くにあなたを見分けることができるように 眼鏡もはずさず眠りましょう。 たとえあなたが血まみれであっても しっかり両腕に抱けるよう 勇気も確かめて眠りましょう 7 暗い背中で、次々と傘を焼いている男がいる。あんな湿 った小屋の影で。黒い炎が渦巻いて、その男の掌はすっ かり煤で汚れている。あれではいたるところに手形を残 してしまうだろう。たくさんの傘を燃やしている、その 男の背中を見てしまったぼくは、今夜彼女に何を伝えれ ばよいのだろう。ああ、湿った小屋の中には、形も定か でない骨ばかりが積まれていて。 (15)「Kiss me」からのリードイン・スピークアウト 板垣竜太(大学院生、現在韓国在住) 板垣竜太と申します。大学院生で、現在韓国の一農村にてフィールドワークをしています。インターネットを通じて今回の「祭り」の実行委員として参加していますが、本当にそんなことができる時代が来たのだなぁとつくづく感じています。 さて「Kiss me」については、歌それ自体と鈴木香織さんの訳と註とメッセージでほぼ全て言い尽くされていると思うのですが、鈴木さんに代読出演を依頼した者として、経緯説明をかねて、少しだけ私なりのリードイン・スピークアウトをしてみたいと思います。 私の知る限り、もともとこの替え歌は、いわゆる「思いやり予算」違憲訴訟・東京原告の一人である高校教師との会話から生まれたとのことです。できあがった替え歌は、「女性国際戦犯法廷」という、日本軍によるいわゆる「慰安婦」問題をはじめとする戦時性暴力を裁くための女性による国際的な民間法廷を今年末に準備しているVAWW-NET Japanのメーリングリストに投稿されました。替え歌自 体は鈴木さんの創意から生まれたものであるにしても、その背景にはそうした場との積極的な関わりがあったということは記憶にとどめておく必要があると思います。そこからさまざまなメーリングリストに転載されたり、ネットワークを通じて配布されたりと、今この瞬間にもあちこちにひろまりつつあるようです。 私も最初この替え歌を見て、あまりに見事にできているので驚きました。やや内幕話めきますが、それがちょうどこの「祭り」の企画段階のことで、この歌が「まつろわない言葉」としてとてもふさわしい、つまり君が代の強制に抵抗しなければならない場面でそのまま使えるとても役に立つツールであると思い、さっそく知り合いをたどって鈴木さんに「祭り」への参加を依頼しました。残念ながら鈴木さんは会場には来られないとのことでしたが、その後代読メッセージや「祭り」での使い方をめぐっていくつかメールをやりとりする過程で、鈴木さんがとても言葉を豊かに使う方だということがわかり、私もそこからいろいろ触発されました。 鈴木さんは最初にこの歌が、「公(オオヤケ)の場で禁止されるような歌にしたい」とおっしゃいました。ご本人は特に意識していなかったようですが、「オオヤケ」という言葉はもともとは、「大きな家」などと書いて、天皇家を意味していました。そういう意味では、「君が代」とは文字通りオオヤケの場で天皇を賛美する歌だったわけです。それがこの鈴木さんの替え歌によって、完全に逆転されます。オオヤケの儀式で発声される「コッカセーショー」というかけ声を、「国家殺生」すなわち「国家とは殺人を強いるものだ」と聞きまちがえ、また「君が代」を「Kiss Me」と聞きまちがえることによって、オオヤケの儀式を追悼の場に変えてしまう。そうなれば大声で歌えば歌うほど、「Kiss me」はオオヤケを揺るがすものとなる。禁止されるべきものとなる。鈴木さんご自身のことばを使わせてもらえば、まさに君が代それ自体が「今世紀最大のジョーク」となるのです。 そのときオオヤケを揺るがす主体として、そして君が代を追放する主体として、「私たち」というものが想定されるのだと考えます。それをオオヤケに代わる新たな公共性とよぶこともできるかと思います。その「私たち」とは、まず言語によって区別されえません。「Kiss Me」は日本語ではありませんし、だからといって、単純に英語であるともいいきれません。それはしかるべき場において通用するコトバであるとしかいえないと思います。またそれは民族や階級や性別などによっても区別されえません。歌は言葉をもつものであれば誰でも口ずさむことができますし、歌の内容も特定の民族・階級・性別のためのものではないからです。そうした「私たち」がつながっていくネットワークを想いえがきながら、今や作者の手を離れてさまざまな現場へと散っていっているこの歌をうたいましょう。 以上、ささやかなリードイン・スピークアウトでした。あちこちでこの歌をめぐって発せられているコトバの一つとしてうけとめていただければ幸いです。 (16)井前弘幸さんの言葉 「良心と抵抗」発行者より、「日の丸・君が代」の押しつけに手を貸す皆さんにお便りします。 拝啓 文部省のみなさん、全国の教育委員会のみなさん、 何の疑いもなく命令に従おうとする校長のみなさん。 軍国主義、国家主義の亡霊がこれほど蠢いているのに、あなたがたには、何も感じるとることができないのですか。 まるで何ごともなかったかのように。 このまま力づくで学校に日の丸・君が代を押しつけていったら、そのうちすぐに愛国心だの、国家への忠節だの、天皇崇拝だの出てきて、戦前の学校と同じになるとは感じられませんか。 「国旗掲揚・君が代斉唱をしないような人は会場から出ていけ」(秋田市体育協会長) 「教師と児童・生徒には歌わない自由はない」 (高松市教育長) 「国旗・国歌を尊敬できない人は日本国籍を返上せよ」 (岐阜県知事) 「逆らう奴は非国民だ」とみんな言っていますね。この人たちは、戦前のような日本がお好きなようです。「命令」に従うだけのみなさん。まだ後戻りはできるのですよ。 でも、私たちはあなた方に頼るつもりはありません。私たちには、もっと力強いものがまだ見えています。 軍靴のごとく押し寄せてくる得体のしれない重圧に戦きながらも、ささやかでもめいっぱい、考えをめぐらせている子どもたちの良心の抵抗が。 子どもたちから勇気をもらい、また与えている大人たちの良心の抵抗が。 「権利感覚が自己に加えられた侵害行為に対して実際どれだけ強く反応するかは、権利感覚の健全さの試金石である。」 (『権利のための闘争』(イェーリング著)) 「権利感覚の本質は行為に存するのだから、行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、しだいに鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう。敏感さ、すなわち権利侵害の苦痛を感じ取る能力と、実行力、すなわち攻撃を斥ける勇気と決意が、健全な権利感覚の存在を示す二つの指標だと思われる。」(同上) 私たちの権利感覚は、抵抗すればするほど磨かれますし、能力と実行力を付け加えていくことになります。私たちは、現実の厳しさの中でこそ鍛えられていきますから、いずれあなた方の罪を、暴いてお見せすることができるでしょう。 「日の丸・君が代による人権侵害」 市民オンブズパーソン事務局・大阪 (2000年3月11日 井前弘幸) (17)小倉利丸さんの言葉 日の丸・君が代を法制化し、この法制化を口実とした強制に強い反対が存在するということは、この国がこれらの表象の背後に支え持つ「天皇制」がこの半世紀の歴史の中で、決して「国民の総意」とはなり得なかったということを示しています。この半世紀の間に、天皇制は、あたかも「国民」によって肯定されてきたかのように語られていますが、事実はまったく逆であって、マスコミによる敬語報道、皇室写真に対する宮内庁の検閲、国体や植樹祭などの行事に際しての過剰な警備と住民の動員、右翼によるテロリズムなど、国家的な象徴としての「尊敬」を演出する硬い殻に守られてやっとのことで存立しているにずぎないというのがむしろ実態であると思います。日の丸・君が代の法制化は、この硬い殻にさらにもう一段の防護の覆いを被せるものではあっても、このことによって戦後の天皇制が本質的に持たざるをえないあらかじめ失われた「総意」を生み出すことに何一つ寄与することはありえないと考えます。 私たちに今もっとも必要なことは、この天皇制の虚構をはっきりと指摘することです。いいかえれば、誰もが思っているように「王様は裸だ!」と言う勇気を持つことだと思います。天皇はなにものも象徴していないし、天皇という「制度」によって国家の基本的な理念を象徴させることには何の意味も合理性もありはしない、ということです。このことは、アナキストやコミュニストや国民国家を否定するラディカルなポストモダニストでなくてもごく当たり前に理解することが可能なことだといえます。 憲法調査会が実質的な審議を開始しています。今後、憲法についての議論が従来の護憲・改憲の枠組に捉えられ、とりわけ「護憲」の議論が天皇制をめぐる議論を回避するのであれば、わたしはそうした護憲論に与することはできません。政府が日の丸・君が代の法制化を憲法の象徴天皇制規定によって根拠づけようとしたことをふまえれば、私たちはむしろはっきりと天皇制を憲法規定から削除する要求を明確にすべきだと考えます。これが出発点であり、戦前戦後を通じての近代日本に対する私たちがなすべき政治的な総括の態度だと考えます。この出発点にたった上で、決して一つにはならないであろう多様な意志を「総意」としてまとめるのではない民主主義の新たな形を模索する次の一歩へと進むことができると思います。困難な時代ですが、この国の人々がかつてなし得なかった可能性に開かれた時代でもあると思います。 (18)駒込武さんの言葉 この広漠たる宇宙の中で、人間はそのみずからの秩序を守る責任をもつ唯一の存在である。新たな秩序を生みだすことすらできる自由をもつ唯一の存在である。 しかし、この自由は、秩序を自分で打ち砕く自由をも許しているのである。この自由ゆえに人間は、その機構を自分が見守らないと、自分で自分の秩序を投げすてる危険をも許すのである。 今、人間はその危険の前に立っている。 人々は、自分がその危険を感じていながら、その理由がわからないことがある。それを、拒否すべきことを知りながら、否定の理由がハッキリわからないことがある。拒否すべき現実がハッキリしながら、否定すべき理論がハッキリしないことがある。それは、否定のない拒否である。それは往々にして、いらいらした、断固として、といったようなやりきれない心持ち、いわば、信念となってくる。… このイライラしさが暴力に手を貸すとき、人間の秩序は一瞬において破滅に瀕するのである。 どんな小さな手でもいい。 その軌道が危険であることを知らすためにさし挙げられなければならない。 (中井正一「『土曜日』巻頭言 手を挙げよう、どんな小さな手でもいい」1937年3月 『中井正一全集 第4巻 文化と集団の論理』所収) (19)土屋 豊さんの言葉 「大勢に順応することは、自分で自分を殺すことだ」 (20)DeMusik Inter. の言葉 君が代をめぐる音楽状況に関してのアピール ―音楽に関わる/音楽を愛する全ての方々へ 私たちは、現在の日本の「音楽」状況に関して非常な危惧の念を抱いています。 昨年の国旗・国歌法案に際して、歴史的に根拠がないにもかかわらず「国民に馴染んだ」という根拠が捏造された「国歌」。根拠があったとしても、強制が許されるべくもありませんが、そのような「うた」がまさに憲法違反ともいえる「職務規定」の名のもとに教育の現場において強制されているという事態。 その後の天皇在位10周年奉祝なるイベントにおける、芸能人の大量動員。それを受けるかのように進展している、沖縄サミットに向けての、歴史の忘却の上に成り立つ多文化主義的な国民文化デザインとも思える「テーマ・ソング」作り。 こうした状況下において、成長業種と目される音楽産業や情報・通信産業と政治的な思惑が手を取り合って、音楽なり「うた」なりが本来備えているだろう「私的」なありかた、また、「国家」に収斂していくだけではない様々なかたちでの「公的=公共的」なありかたが、徹底的に疎外されつつあるのではないでしょうか。 根拠を持たないまま「公的=法的=国家的」な地位を与えられた「うた」と、経済的な効果のみをもたらす「うた」が補いあうかたちで、制度的・経済的・感覚的に、他の細やかで無数の「うた」を抑圧し、消去していく。そのような危機的状況が到来しつつあるのかもしれません。 私たちは、そのような状況に対して、漠然とした、あるいは切実な危機感を抱え、様々な現場で孤立感を強いられているだろう、あらゆるミュージシャン、制作・流通・広告・評論/ジャーナリズムなどのメディア・音楽関係者、研究者、教育者、そして音楽や「うた」を愛する方々に呼びかけます。 いま、音楽や「うた」は誰のものなのか? 様々に異なる、「私たち」の音楽や「うた」たちを守るためにも、恐れることなく声をあげなければいけない瞬間であると。それは、具体的な音楽や「うた」のかたちの差異ではなく、音楽や「うた」に対する繊細な、しかし、決然とした姿勢そのものを明確にすべき瞬間でもあります。 歌いたくないうたは歌わないこと。耳を塞ぐこと。背を向けること。そして、他の、そして、異なる無数のうたを歌うこと。違う無数の響きで満たすこと。そして、それらを恐れずに支え続けること。 いうことを聞かない人間には、政治的に経済的に徹底した暴力をむき出しにしてくる鈍感な「彼ら」の「うた」や音響の新しい空間のなかに、違う「うた」や響きを思いっきり満たしてやるべき時が来ているのです。 (21)酒井直樹さんの言葉 『まつろわない言葉たちの祭り』に参加できないのがとても残念です。ここまで、反ヒノキミの運動を広げてくだっさった皆さんの努力と成果に驚嘆しています。去年始まったときには、未だ強かった管理臭がどんどん消えて、違った人々の共同性の編み方が見えてきたように感じています。「君が代」「日の丸」の強制に抵抗する人達の多くは、一人で孤立して抵抗しているのでしょう。その様な人達に、世界中に散らばっている私達の声援が届くことを願っています。私は私なりに、微力ながら人々との「星条旗」に支配されない関係を模索しています。 ニューヨーク州の片田舎より、酒井直樹 (22)ヨネヤマ・リサさんの言葉 中野さん、 今からお送りするものが、「言葉」になるかどうか、わかりません。遠く離れた地で、つぎつぎに送られてくる厳しい処罰の情報、そして「祭り」のための差し迫った準備や段取りについて交わされる議論をよみながら、言葉を失っているのです。称賛も感謝も、激励や連帯の意志表示も、どれも嘘になります。「贈る言葉」などみつからないのです。「敗北を認めて」という表現を誰かが使っておられました。これが廃墟だとすれば、できることは、別の誰かが書いておられた「焼かれた傘の骨」を拾いあつめることだけなのかもしれません。日の丸が張り巡らされ、君が代が流れるとき、なつかしく優美なものではなく、醜く陰惨で残忍な何かが、いつでも、必ず、否応なく思い起こされるように、記憶の条件反射をつくってゆく。この旗と歌のイメージを占拠してゆく。それを可能にしてくれるのは、だけどやっぱり、「言葉」なのでしょうか。 まとまらなくて、すみません。必要なのは、言葉ではなくて、そこにいてくれる(はずの)人のからだのように思えて仕方ないのです。自らの文化理論に忠実でないと思ってはいても。 ヨネヤマ・リサ (23)徐京植さんの言葉 2000年3月11日 反ひのきみ集会によせて 徐京植(ソ・キョンシク) ああ、せめて あの空に 窓でも開けられぬものか。 息がつまる…… 1920年代の植民地朝鮮で、ひとりの詩人がこう謳い、その詩にみずから「朝鮮病」と題した。病いの本当の原因は日本の支配にある。それなのに日本人たちはみな、何喰わぬ顔、どこ吹く風。朝鮮人ばかりが確実に窒息していく。だから、「朝鮮病」なのだ。 かつて、「奪われた野にも春は来るか」と謳ったこの詩人は、のちに亡命地シベリアで命を落とした。 西暦2000年の日本― 戦争に次ぐ戦争であれほど他民族を殺したというのに、日本人自身もあれほど多く死んだのに、あっという間の君が代・日の丸法制化。次に待つのは9条改悪。 小国寡民、東洋のスイスなどと、真面目くさって理想を説いていたのに、 教え子を戦場に送るなと、たとえ一時でも心から叫んだはずなのに、 自己否定とか、わが解体とか、格好よかったし、 近頃は多文化主義とか、多民族共生なんて、耳障りのよい言葉をまき散らしていたのに、 その時その時は、まんざら嘘八百でもなかっただろうに、 だからこちらも、あやうく信じてしまいそうになったのに、 (今度は「まつろわぬ民」だって、ほんとかね?) それなのに、 見わたせば、いつの間にかまた、誰もかれも何喰わぬ顔、どこ吹く風だ。 これじゃあ「病気」にだって罹るわけがない。「日本病」なんてあり得ない。 無病息災、不老不死、千代に八千代に、日本人よ永遠なれ。 ああ、息がつまる…… 俺たちは、昔もいまも「朝鮮病」だ。 蛇足― 日の丸・君が代が、あざとく強制されているが、そのこと以上に息苦しいのは、屈辱感すら希薄なままの、相次ぐ屈服の知らせだ。大阪のある都市では、教職員組合みずからが組織防衛のためとして、昨年までの卒業式での日の丸・君が代への不起立の方針を撤回した。「生徒たちにどう説明するんだ」という抗議の声は弱々しく、それもすぐやんだ。組合脱退を口にした者は、引き留められもしなかった。激論も分裂もなく、ことは粛々と運んだという。 100年このかた変わることのない自発的隷従。 殴られる前のノックアウト、殺される前の安楽死。 60年代のアメリカ南部で、頑として「白人専用席」に座り続けた黒人女性を憶い出す。野球のバットや警察犬に脅されながら、じっと正面を見ていた瞳の静かな光を。 80年代の日本で、役所の窓口に「指紋押捺を拒否します」と告げた16歳の少女を憶い出す。緊張で張り裂けんばかりの、その心臓の鼓動。震える声を。 当たり前の小さな権利のために、人間としての尊厳のために、彼女らはどれほど巨大な勇気を奮い起こさねばならなかったことか。だが、結局彼女らは、なすべきことをなした。記憶のなかの彼女らの、つかめば壊れそうな細い姿は、いまもなお眩しく私の眼を射る。 よく闘うことができぬ者は、正しく敗れることもできない。 殺されることすらできぬ者が、生まれ変われるはずもないのだ。 ああ、息がつまる…… (24)茨木のり子さんの言葉 四海波静 戦争責任を問われて その人は言った そういう言葉のアヤについて 文学方面はあまり研究していないので お答えできかねます 思わず笑いが込み上げて どす黒い笑い吐血のように 噴きあげては 止り また噴きあげる 三歳の童子だって笑い出すだろう 文学研究果たさねば あばばばとも言えないとしたら 四つの島 えら笑ぎにえら笑ぎて どよもずか 三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア 野ざらしのどくろさえ カタカタカタと笑ったのに 笑殺どころか 頼朝級の野次ひとつ飛ばず どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット 四海波静かにて 黙々の薄気味わるい群衆と 後白河以来の帝王学 無音のままに貼りついて ことしも耳すます除夜の鐘 (初出 『ユリイカ 現代詩の実験』一九七五年 『自分の感性くらい』一九七七年、所収) |