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※前回の「直言」とNHK「新聞を読んで」は、下とバックナンバーにあります。

※次回の「直言」(5月19日)は、砂川事件「米軍駐留違憲」跳躍上告への圧力の米公文書発見について予定しています

今週の「直言」 (2008年5月8日)  トップページへ。 こちらからも読めます(高文研)。



緊急直言 胡錦濤主席の早大訪問歓迎せず

中友好の歴史は、中国の民衆や知識人と早稲田大学との文化・学術交流の歴史でもある。大隈重信以来、中国のキーパーソンが早大を訪れ、あるいは早大で学び、中国の政治・経済・金融・文化・学術などさまざまな分野で活躍してきた。早大の留学生総数は2721人だが、中国からの留学生は1057人と、全体の4割近くを占める(2007年11月1日現在)。法学部・法学研究科で法律を学ぶ中国人留学生は82人おり、何人かを私も教えている。過去・現在・未来に向かって、中国との文化・学術交流はきわめて重要であり、体制は違っても、重要な隣人であることに変わりはない。
   一方、早稲田大学は、学問の自由、進取と在野の精神と、「学の独立」を掲げ、外に向けて、とりわけアジアに向けて開かれた大学を標榜している。偏狭なナショナリズムとは無縁であり続けている。しかし、大学は常に、誰に対しても開かれているわけではない。相手が一国の元首であったとしても、政府・外務省とは違った、大学としての立場と見識によって、ゲストとして招くかどうかを自ら決定すべきである。 大学の自治の観点から当然だろう。
   加えて、 大学が招待する以上、構成員がこぞって歓迎できる相手であることが望ましいし、そうあるべきである。ただ、国家元首や政治家の場合は評価が対立し、それぞれの国における政治動向も反映して、時に反対運動が起こることもまた、思想や言論の多様性を前提とする大学の場合、ある意味では「日常的」風景といえるだろう。早大の歴史のなかで、たくさんの国家元首政治家が来学したが、それについてこの11年間、講演「内容」を理由として、来学に批判的なコメントをすることはしなかった。しかし、今回は特別である。

  明日(5月8日)、中国の胡錦濤国家主席が大隈講堂で講演を行う。結論からいえば、私はこの来学を歓迎しない。むしろ、大学理事会は、大学としての見識を発揮して、これを断るべきであった。しかし、理事会は胡錦濤来学を演出し、福原愛選手(スポーツ科学部)+福田首相vs胡錦濤氏+中国選手の卓球のダブルスまでセットした模様である。これで、メディアは和気あいあいムードを演出するのだろうが、内閣支持率19.8%(共同通信5月2日)の福田首相の起死回生になるとはとうてい思えない。そんな茶番劇に協力する大学に、情けないを通り越して、悲しみすら覚える。

  一般に、外国の賓客が来学し、講演を行うときは、事前に教職員に対して参加を募る案内が届く。限られた範囲の人々を集めるような講演会でも、関連科目の担当教員には招待状が来る。学生の参加を募ることもある。しかし、今回は、講演会があることすら伏せられ、前日になっても公式ホームページに情報提供は一切ない。少なくとも私の所属する法学部の中国語関係の教員に対して講演会への参加案内はなかった。法学部がそうなのだから、全学的に中国関係の教員・研究者に参加を呼びかけるということはなされなかったとみてよい。全学に中国語を履修する学生はたくさんいるが、そういう学生たちに講演会への参加がアナウンスされることもなかった。大隈講堂に入れる早大生は、1998年11月の江沢民主席来学時のような、一般公募の学生たち(その個人情報の扱いをめぐって訴訟にまで発展したところの)ではなく、40人前後の「身元の確かな」中国留学経験者だけである。彼らには、事前に「政治的な質問はしないように」という趣旨のことが伝えられたようである。
   そして、明日、大隈講堂の一階前よりの座席を埋め尽くすのは、胡錦濤主席と一緒に来日した中国共産主義青年団の精鋭200人とみられている。昨日、軽井沢で静養した彼らは、元気いっぱいで「警護任務」につく。胡錦濤氏はこの青年団の出身で、1984年にその第一書記(最高指導者)に登りつめた人物である。中国共産党のエリート養成機関であり、まさに彼らは胡錦濤氏の「親衛隊」といってよいだろう。この親衛隊があたかも学生の聴衆のように拍手を送る。明日の夕方のニュース映像には、早大生が拍手しているように映るのだろうが、中国製の「サクラ」である。
   このように、 早大の教職員も学生もあずかり知らないところで、「早稲田大学は、胡錦濤主席を歓迎する」という行事がとりおこなわれる。これは相当な疑問符である。

  胡錦濤氏の警備は「米合衆国大統領並み」と聞く。明日、さまざまな団体が大隈講堂前で抗議行動を繰り広げるだろう。警備上の導線から、立ち入り禁止ゾーンが設けられる。木曜日というのは授業が集中する日である。昼過ぎから正門は閉鎖され、1号館で行われる政経学部のすべての授業が別の教室に変更となった。理由は「重要な行事が行われるから」と。南門周辺は3 限(13時から)の授業前に混乱が心配される。大学理事会は教職員にすら事前の情報開示もせず、警備上の事情を最優先させた。そこまでして、今、胡錦濤氏を早稲田に呼ぶ必要があるのか。

  チベット問題が起きて、オリンピックの聖火リレーは、中国と北朝鮮を除くほとんどの国で混乱した事態をもたらした。「政火」のリレーとなって、「政治的火の粉」は全世界をめぐった。それだけ、中国が行ったチベットでの弾圧政策は世界中の心ある人々の怒りをかっているのだ。そうしたなかで、チベット事件以来、初めての外国訪問となる日本。そして、講演としては早大が初めてとなる。これは、胡錦濤氏が世界に向けて、自己の立場と行動を正当化する一大デモンストレーションの場として利用されるだろう。

  外務省からの依頼があったとしても、これだけ世界がチベット問題や人権問題について関心を高めているときに、大学としての見識を示すべきだったと思う。福田首相は早大出身である。あの森喜朗元首相もそうである。
   いま、日本も、日本政府も、早稲田大学も、世界中から注目されている。本当の友人というのは、相手にはっきりものをいう関係、いえる関係である。 だが、政府の対応にも、大学の対応にも、「人権」に対する毅然とした指針がみえない。
   チベット問題は、さまざまな複雑な背景をもつが、人民解放軍を投入して「鎮圧」した事実は否定できない。世界中からの厳しい批判に、胡錦濤氏の党の政府は、「中国がんばれ」というナショナリズムの高揚で乗り切ろうとしている。そして軍である。いま、中国各地で、「格差社会」の矛盾からさまざまな騒乱が起きている。それを抑圧するために登場するのが、「人民解放軍」である。
   胡錦濤氏は46歳でチベット自治区の党書記となり、1989年3月7日に、チベットのラサに戒厳令を布告して、弾圧政策の実施の最高責任者となった。そして、常に「人民解放軍」を投入して、チベットの人々の自由を抑圧してきた

  来年は天安門事件から20年である。1989年6月4日(日)。自由を求めて天安門前に集まった学生・市民を、人民解放軍の戦車と装甲車が押しつぶした事件の全貌はいまだに明らかになっていない。中国の党・政府の公式発表は、「反革命暴乱を平定し、社会主義国家の政権を防衛し、人民の根本的利益を保護し、改革開放と現代化建設が引き続き前進するのを保証した」(1992年、中共第14回全国代表大会の江沢民報告)というもので、この評価は胡錦濤政権のもとでも変わっていない。胡錦濤氏は、天安門事件のときも、チベットに運動が波及しないように、担当区域に戒厳令を布告している。人民解放軍を統括する中央軍事委員会副主席に彼がなったのは、天安門事件の10年後である。

  「人民解放軍」とは、「人民から『党』を解放する軍隊」、つまり、「党治国家」と「党の支配」、国制ではなく「党制」を維持し、確保するための「党の暴力装置」である。だから、軍の最高司令官よりも、党軍事委員会主席の方が「政治指導」として優位に立つ。政治委員はコミッサールと呼ばれ、ヒトラーは、独ソ戦で赤軍政治委員を捕虜と認めず、即決で射殺するように命じたのも、社会主義国の軍隊の特殊性、即ち軍と党の二元指導(実質は党が優位)を熟知していたからである。人民解放軍は「党の軍隊」として、人民から党を守っているのである。

  胡錦濤氏も、かつてはチベット自治区党書記として軍を動かし、いまは中央軍事委員会主席として、最近の「チベット暴動」を鎮圧した。ヨーロッパ諸国は「国際人権」の観点から、中国のチベット政策を強く批判してきた。北京オリンピック開会式への首脳参加を取り止めた諸国は、この弾圧政策への批判を表明したものといえる。このような状況のもとで、「日本で中国の主張が認められた」「早稲田で歓迎された」という既成事実をつくり、中国の最高権力者に、「天安門」や「チベット」の問題への非難をかわすことに寄与する。早稲田大学が、その政治的デモンストレーションの場として利用される。これは大学にとって、最大の不名誉である。

  すでに現役を退かれた、ある高名な憲法学者は、天安門事件について中国政府・党が総括をして反省しない限り、中国からの講演の招聘には応じないという立場を20年近く続けてこられた。私も、この「直言」によって、胡錦濤氏の早大訪問を歓迎せず、それに反対する意思を明確にしたいと思う。
  

 

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憲法施行61周年と「直言」600回

本国憲法施行61周年を迎えた。当日は、気温32.3度という真夏日のなか、「5.3高知県民のつどい」で講演した。1993年に集中講義で1週間ほど滞在して以来、15年ぶりの高知である。3日間、土佐料理を堪能した(特にウツボのたたきが美味しかった)。講演は午後からなので、午前中、高知市内の歴史名所をまわった。今回は、中江兆民の生家跡にも行った。その前の通りが「兆民通り」となっていたのだそうだが、今回はその標識はなかった。高知市立の自由民権記念館も15年ぶりに訪問した。西田館長や学芸員の宮崎篤子さんのご配慮で、展示に関係する資料も頂戴した。植木枝盛が1881年に「東洋大日本国々憲案」を執筆した旧植木邸にも行った(右写真)。彼の日記によると、8月28日〔日曜〕「大風雨幽居、日本国憲法を草す」、8月29日〔月曜〕「大風雨。幽居日本憲法を草す」とある。憲法草案は、まさに暴風雨のなかで執筆されたことがわかる。民権の時代への知的ワープをたっぷりやったこともあって、午後の講演には熱が入った。

  演題は「憲法とは何かを改めて問う――日本国憲法施行61周年の日に土佐から」とした。講演時間が80分しかなかったので、憲法9条関係の話は必要最小限にして、ほとんどを、憲法とは何か、立憲主義とは何かといった基本問題と、植木枝盛草案の先駆性に重点を置いて語った。そのためか、『毎日新聞』5月4日付高知県版は「土佐の歴史を学ぶことは憲法を学ぶこと」という4段見出しで、私の講演を紹介していた。私自身、「立憲の故郷」土佐の歴史に刺激されて、市民はもっと主体的に憲法というものと向き合うことを強調した。感想文をみると、そういうところに聴衆が共感してくれたことがわかる。

  県立高知短期大学名誉教授の外崎光広氏によると、植木枝盛草案の特色は二つある(『植木枝盛の生涯』高知市文化振興事業団刊〔1997年〕103〜106頁参照)。第1に、枝盛らの自由民権運動の課題を条文化したということである。弁士中止の体験や、集会・結社禁止の弾圧体験、信書の秘密の保障も彼らの苦い経験に根ざしていたという。第2に、民権運動に影響を与えたということである。草案には「日本人民ハ兵士ノ宿泊ヲ拒絶スルヲ得」(73条)とあるが、明治21年(1888年)秋に陸軍演習が高知であったとき、松山・丸亀の兵士が民家宿泊することになったが、高知の上町の人々が「兵隊のお宿は出来申さず」とこれを拒否したという。枝盛が米合衆国憲法修正第3条を取り入れたものと思われるが、これが町民の具体的行動の指針となったようである。

  このように、植木枝盛の草案は内容も、その後の影響も大変興味深いものがある(「『疑』を胸にひめて――植木枝盛のリアリティ」今週の一言〔法学館憲法研究所、2007年4月23日〕も参照) 。そこで、憲法記念日の直言として、 読者の皆さんに、植木草案についてもっと関心をもっていただくために、私が4年前、『月報司法書士』に連載した「憲法再入門」の通算7回目、「憲法が注目される時代を考える」から、その一部を引用することにしよう。なお、「○年前」という年数のカウントは、2004年2月の執筆時点から起算したものである


憲法が注目される時代を考える

 

◆連載再開にあたって 【省略】

◆123年前の憲法草案から見えるもの

  半世紀あまり生きてきて、私の活力の源泉は「驚きと発見」だとつくづく思う。だからこそ各地を旅して、問題意識を持ったさまざまな人々と会う。そこから学ぶものは無限である。自分から前に出なければ会えない。「出会い」とはそういうものである。

  11年前、 高知市の自由民権記念館で、思わぬ「発見」をした。常設展示のなかに、三つの憲法(案)の比較対象表があった。大日本帝国憲法(全76カ条)と日本国憲法(全103カ条)との比較ならば、講義や講演で何度もやっている。ところが、そこでは1881(明治14)年の植木枝盛「東洋大日本国国憲案」(全220カ条。以下、国憲案という)の条文が、二つの憲法の条文と比較対照できるように並べられていたのだ。それを何気なく眺めていてハッとなった。国憲案45条「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ」。日本国憲法の方に目を転じると、対応する条文はない。周知のように31条には、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とある。ここでは死刑は明示的に否定されていない。この31条に対応するのが国憲案46条である。「日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ何等ノ刑罰ヲモ科セラレサルヘシ」。国憲案45条との絡みで見れば、この46条の「刑罰」から生命刑は排除されていると解するのが自然だろう。

  さて、国憲案には、近代市民革命期の政治思想と憲法(構想)への初々しい感動と共感に基づくフレーズが随所に盛り込まれている。粗削りで、素朴な形ではあるが、プロイセン憲法に限りなく準拠した大日本帝国憲法に対する「もう一つの憲法構想(オルターナティヴ)」がそこにある。植木が描いた国家のありようは、各州からなる「日本連邦」であるが、そこには皇帝が存在する。興味深いのは、国憲案では「女帝」が想定されていたことである(97、98、102条)。また6条には、「日本ノ国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スヲ得ス」とある。ここには、「私事」(プライバシー)の考え方が早くも示されている。他にも興味深い条文が多いが、ここでは省略する。

  国憲案で最も注目されるのは、憲法というものが、国家権力を拘束し、その暴走をチェックするところに存在意義があることを、抵抗権や革命権の実定化によってさらに徹底しようとした点だろう。「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」(70条)、「政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得」(71条)。明らかにアメリカ独立宣言やフランス人権宣言の影響を受けていることが看取される。国憲案には、近代立憲主義のエッセンスが鮮度を保った状態で沈殿しているといえよう。なお、全文は、家永三郎編『植木枝盛選集』(岩波文庫)で読むことができる。

◆憲法が注目されるとき

  さて、憲法が熱く語られるとき、その時代は転換期にある。日本が近代的な国の「かたち」を模索していた明治10年代は、自由民権運動の側からさまざまな私擬憲法草案が提起された。一説によると、40種類以上はあったという。植木の案もその一つだが、そこでは、政府の暴走に対するチェックの必要性がことのほか強く自覚されていた。政府が違憲行為を継続反復して行った場合には、人民に「最後の切り札」として抵抗権が留保されていたのが一例である。結局、大日本帝国憲法というコテコテの欽定憲法が制定されたが、それが発布されるまでのわずかな期間、この国に、立憲国家を求める下からの熱い思いと構想と運動が存在したことはもっと知られていいように思う。

  敗戦直後の一時期も、憲法が熱く語られた。フィリピンの捕虜収容所でも、遙か彼方の日本に思いをはせながら、捕虜たちの間で、新しい憲法をめぐる「論争」が展開されていた(拙著『戦争とたたかう ――一憲法学者のルソン島戦場体験』〔日本評論社〕第9章「捕虜収容所の憲法論争」参照)。国内では、各政党だけでなく、民間レヴェルでもさまざまな憲法草案が発表された。そのなかでも特に重要なのが憲法研究会の草案である。GHQ(連合軍最高司令部)は、日本国憲法の原案となる「マッカーサー草案」を作成するにあたり、この憲法研究会草案を参考にしたとされている。憲法研究会草案は、「戦前におけるほとんど唯一の植木枝盛研究者」である鈴木安蔵が、植木の国憲案をも参考にして起草したものである。それゆえ、日本国憲法と植木枝盛草案との間に「実質的なつながり」があるという指摘もある(『植木枝盛選集』家永解説)。

  いま、国会やメディアで改憲論議が盛んである。だが、それはもっぱら、憲法によって拘束され、規制されるべき権力の側が自らの「規制緩和」のために改憲を熱く語っているように思える。はじめに改憲ありきではなく、市民が主体的に関わる真に熱い憲法論議が求められる所以である。

(日本司法書士連合会『月報司法書士』385号〔2004年3月〕38〜39頁)


  一昨日の高知の講演では、「平和のスリーナイン(999)」についても 語った。この言葉は、『琉球新報』1993年5月3日付文化欄に書いた、山内徳信読谷村長(当時)の村長室にあった2本の掛け軸をヒントにしたものである。つまり、憲法9条は99条と一体となって、権力担当者に、平和や安全を守る方法として軍事的手段を選択することを認めない。「市民が9条を守る」のではなく、市民は「権力担当者に99条を通じて、9条を守らせる」という視点を強調したわけである。3年前に、長崎県佐世保の「九十九島9条の会」の発足の会で、私は「九十九島9&99条の会」という名称にすることをすすめた。後に金沢市での講演で「九十九湾」や、水戸での講演でも「九十久里浜」で、「9&99条の会」を、と呼びかけた。今回の高知講演でも、憲法99条の「憲法尊重擁護義務」の意味を特に強調した。イラクでの空自の活動を憲法9条違反とした名古屋高裁の判決について、空幕長が「そんなの関係ねぇ」といったこともあって、高知の皆さんにも、この点はよく理解していただけたようである(感想文による)。

  思えば、昨年の憲法記念日は、安倍晋三内閣のもとで、憲法改正国民投票法成立を目の前にした危機感が強く漂っていた。それが、「7.29」によって「9.12」が起こり、その後始末のピンチヒッターとして登場した福田内閣は、いまや支持率10%台となった。森内閣の最低支持率9%(2001年2月)のレコードに接近すべく、日々支持率を低下させている。憲法改正どころではないかの如くである。だが、楽観は禁物である。「平成の枯れすすき」の安倍前首相が5月1日の改憲の集まりに参加して、「わたくしの内閣」での憲法改正の「成果」について語っている。まるで「再チャレンジ」とは自分のためのことのように。憲法審査会を軸に、改憲の「再チャレンジ」はすでに始まっている。

  今日5日、幕張メッセで開かれている「9条世界会議」のシンポジウム「9条の危機と未来――日本の市民がめざす『戦争なき軍隊なき世界』」で講演する。憲法の特定条文がここまで注目され、あるいは思いや想いを込められ、それが固有名詞のように語られるのは、世界の憲法史のなかでも珍しいことである。「『武力によらない平和』という9条の考え方を、世界共通のものにしたい」ということから、ノーベル平和賞受賞者など、世界各地からゲストを招いて行われる。新聞報道によると、会場収容人員の12000人を3000人も上回ったということである。世界の市民にとって「9条」は共通の財産になりつつあるのかどうか。これについては、また別の機会に触れることにしよう。

  さて、1997年1月3日に短い文章から始めた「直言」の毎週更新も、今回で連続600回を迎えた。年数にして11年4カ月である。サポーターの協力と読者の皆さんの励ましのおかげである。この機会にお礼申し上げたい。2年前の500回目のときに、1000回を目指すと宣言し たとおり、 これからも毎週の更新を続けていきたいと思っている。読者の皆さん、今後ともこの「直言」をどうぞよろしくお願いします。
  

 

「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
  (2008年4月25日午後5時収録、 4月26日午前5時38分放送

 

   1.二つの高裁判決――名古屋高裁判決その後

  先週から今週にかけて、二つの高等裁判所で大変注目される判決が出されました。先週の17日、名古屋高等裁判所は、イラクでの航空自衛隊の空輸活動について、武力行使と一体化した行動であるなど、憲法9条に違反する活動を含むという判断を示しました。この判決自体は先週の出来事であるため詳しく立ち入りませんが、私の担当の19日から本日までの間に、判決に対する政府・与党の反応を各紙が伝えています。特に空自トップの航空幕僚長が「そんなの関係ねぇ」と記者会見で述べたことを、『毎日新聞』19日付などが報じています。お笑い芸人の言葉を使って隊員の心境を代弁したというのですが、司法の判断に対して、あまりにも不適切な言葉ではないでしょうか。福田首相も、「それは判断ですか。傍論。脇の論ね」という鼻から相手にしないという態度でした。しかし、これらの人々には憲法尊重擁護義務(憲法99条)があります。裁判所の違憲判断が出された以上、その内容に不服があったとしても、現在行われているイラク派遣について、判決内容に即して再検討してみる姿勢をもつべきでしょう。『朝日新聞』名古屋本社版4月22日付連載「違憲・イラク派遣」では、ある元裁判官の声として、「(傍論にすぎないという)政府は都合のいい解釈をしている。『そんなの関係ねえ』と言って下級審の判断を無視するというなら、司法への信頼を行政府が自ら損ねることになってしまう。これは憲法秩序に対する危機的な状況だ」という言葉を紹介しています。

  判決は高裁の3人の裁判官が合議したうえでの結論です。合議の秘密があるのでわかりませんが、全員一致か、少なくとも2人の裁判官の意見が一致しない限り、この結論は出せません。辞めていく裁判長が判決主文に関係ないことを勝手に「蛇足」で述べたというような言い方は、それぞれ独立して職権を行う裁判官が合議のうえで出した判決に対するものとしては不正確です。メディアのなかにも、判決を軽視、無視、蔑視するような傾向がみられます(『産経新聞』18日付等々)。裁判所の違憲判断は、その事件を解決する必要な限度で行われるとされており、この判決も主文を導くのに必要と裁判官が判断したからでしょう。その効力も当該事件への個別的なものにとどまります。ところが、『産経新聞』24日付などによると、23日の自民党憲法審議会の総会で、この判決を契機に、裁判官の人選のあり方や最高裁に上告できる制度、傍論で憲法判断ができない制度の見直しの検討に入るということです。たまたま政府に都合の悪い判決が出たというだけで、司法の制度を変えるというのでは、この国の権力分立(一般には三権分立)はどうなるのでしょうか。政治家は、憲法が違憲審査制を設けたことの根本的な意味を考える必要があると思います。        


    2.「光市母子殺害事件」の差し戻し控訴審(広島高裁)判決

  さて、今週22日、広島高等裁判所で「光市母子殺害事件」の差し戻し控訴審の判決が出されました。この日の新聞テレビ欄をみると、東京のキー局すべてが判決言い渡しの5分前から報道特別番組を組んだことがわかります。実際、記者を何度も走らせて、法廷内の様子を刻々と伝えました。ここまでやったのは初めてだと思います。

  この事件は、99年4月14日、母親と生後11カ月の赤ちゃんが押し入れと天袋から変わり果てた姿で発見され、近所に住む18歳と30日少年が殺害を認めたため逮捕された事件です。1、2審は無期懲役、2006年6月に最高裁が「特に酌むべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」として前控訴審判決を破棄・差し戻しをして、今回はその差し戻し控訴審の判決です。元少年は供述をひるがえし、強姦の犯意や計画性を否認したため、新たな供述の信用性が焦点になりました。判決は「あまりにも不自然」「到底信用できない」などの強い言葉で新供述をすべて退け、元少年に死刑の判決を言い渡しました。新聞各紙は地方紙を含め、22日付夕刊ほとんどが一面トップ扱い。広島の『中国新聞』夕刊は法廷内部のカラー写真を正面に据え、『東京新聞』夕刊は傍聴券を求めて裁判所周辺に並んだ3886人の航空写真をカラーで乗せました。翌23日付各紙はすべて社説で取り上げ、「常識に沿う妥当な判決だ」(『産経』)、「厳罰化の流れが強まるが」(『毎日』)、「処罰感情重視する流れ」(『中国』)等々。『朝日』社説だけは、「あなたが裁判員だったら」という見出しで、目を引きました。

  光市の事件が起きた3カ月後の1999年7月、司法制度改革審議会が設置され、2001年6月の最終意見書で、「国民の司法参加」の脈絡で裁判員制度が提言されました。来年5月21日にこの制度が発足します。この判決ほど、裁判員制度との関連で注目された事件はなかったと思います。『中国新聞』22日付夕刊解説は、「厳罰化の流れ加速 裁判員制度にも影響力」という見出しを打ち、1983年に最高裁が示したいわゆる「永山基準」の9項目に言及し、「根底にあったのは『原則は無期懲役、例外は死刑』の考えだった。遺族らの処罰感情を重くみる判断が続くなか、従来の枠を超えて『死刑を例外としない』という意思がのぞいた」と書いています。どの社説も一様に、「市民がこうした死刑か無期懲役か難しい判断を迫られる。自分なら、この事件をどう裁いただろうか」(『朝日』)というトーンです。ただ、私は裁判員制度の問題に行く前に、刑事裁判の根本が問われているという点が大切だと思います。被告人・弁護団対被害者遺族という対決図式がメディアを通じてクローズアップされました。肝心の刑事裁判というのは、裁判所において、検察官と弁護人が証拠に基づいて争う。そこでは「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれます。弁護側は傷害致死を主張して争い、鑑定証拠も提出されました。しかし、メディアは、荒唐無稽、まったく奇異なこととして、被告人・弁護団の許しがたい妄想という扱いすらされました。しかし、刑事弁護の基本からすれば、事実認定で争うということは当然のことで、そのこと自体を否定すれば刑事裁判の根底が揺らぎます。
   神戸連続児童殺傷事件で少年審判を担当した井垣康弘元裁判官は、『中国新聞』(時事通信配信)23日付コメントのなかで、元少年が父の虐待と母の自殺で人格の正常な発育がとまり、身体は大人でも心は中学1年程度とすると、死刑判決は間違いだとして、家裁調査官や心理学者ら元少年を調べた専門家は、裁判官や検察官にも理解できる説明の工夫をする必要があると述べています。長年少年事件を担当してきた裁判官の言葉として重いものがあります。

  なお、今回の問題では、メディア、とりわけテレビの伝え方が問われました。『北海道新聞』23日付社説は、「事件をめぐるテレビ番組の報道について、放送倫理・番組向上機構(BPO)が、『きわめて感情的に制作されていた』として、各局に改善と自主的な検証を求めた」と書き、裁判員制度の発足との関係で、「裁判報道では予断を与えず、冷静さや公平性が大事なことを教訓としたい」と結んでいるのが印象に残りました。同様の指摘を『毎日新聞』、『河北新報』、『沖縄タイムス』各23日付社説もしています。私もこの意見書を読みましたが、光市事件差し戻し審に関する33本、7時間半の番組を委員会自身がつぶさに検証し、資料を含め42頁にのぼる意見書にまとめています。そこには、テレビメディアが「その場の勢いで、感情的に反応する性急さ」「他局でやるから」という「集団的過剰同調番組」の傾向があったこと、また、番組製作者に刑事裁判の前提的知識が不足していたという指摘もあります。被告人・弁護団に対する反発・批判の激しさや、裁判所・検察官の存在の極端な軽視などから、「刑事裁判における当事者主義について視聴者に誤解を与える致命的な欠陥があった」とも。さらに意見書は、テレビの世界における「素材負け」という言葉をあえて使い、「被告人の荒唐無稽、異様な人物像を捉え損なった点」と「被害者遺族のひたむきな姿勢、痛切な思いに頼りきった点」に、本件放送の「素材負け」がみられると指摘しています。「冷静さを欠き、感情のおもむくままに制作される番組は、公正性・正確性・公平性の原則からあっという間に逸脱していく。それはまた、民主主義の根幹をなす、公正な裁判の実現に害を与えるだけでなく、視聴者・市民の知る権利を大きく阻害するものとなる」(意見書9頁)。重い指摘です。放送界の第三者機関が、判決の一週間前に出した意見書は、そのままこの判決の問題点と課題を浮き彫りにしていると思います。

  『毎日新聞』23日付コラム「余録」は、正義の女神(テーミス)が右手に剣、左手にてんびんを持ち、剣が正義を実現するための力を、てんびんは公平さを象徴する。そしてもう一つ、女神は顔に目隠しをしている。これは真実の公正な判断の妨げになる何ものにも影響されないことを示す。見てはならないのは予断をまねく情報や、権力者の圧力などだ。「女神の目隠しは人が人を裁く理性への信頼と、その困難を同時に象徴しているようだ」。極刑を求める被害者遺族の訴えに世の注目が集まるなか、「中途半端な目隠しは役に立ちそうにない状況にあって裁判官のてんびんは極刑に傾いた」。「裁判員制度で、剣、てんびん、そして目隠しを用いるのは国民である」と結んでいます。

  『四国新聞』23日付社説は、元少年が「反省の仕方を学んだのは、当初約1カ月間の鑑別所の中だけだった。少年院なら、反省や贖罪の意味を理解しない子どもを、教官が手取り足取り導く。だが裁判中に入る拘置所では、…そんな機会はない。だから18歳だった彼が反省の仕方を知らないまま『元』少年になり、9年間を無駄に過ごしてきた可能性は多分にある」と書いています。引き起こされた犯罪のあまりの酷たらしさと、被害者遺族の悲痛な思いを受け止めながらも、私たちは判断に冷静さを失ってはならないでしょう。

  なお、『毎日新聞』23日社会面には、今回の判決の記事のすぐ横に、「死刑になりたい」という3段見出し で 、鹿児島県でタクシー運転手を殺害した容疑で逮捕された19歳の自衛官が、「殺すのは誰でもよかった。死刑になりたかった」と供述していることを伝えています。死刑判決の当日に、19歳が罪を犯しました。この「死刑になりたい」と人を殺した19歳に死刑をもって臨めというのでしょうか。個人として大切にされなかった人が人を殺す。その家族を殺された人は死刑を望む。命を大切に思える社会をつくるにはどうしたらよいのか。私たち自身が問い続けていかなければならない重い課題がここにあります。

 

 

「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年
Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.


 ――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
     肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
     「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。
「直言」2002年6月10日

 

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