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二百年影を落とした一夜の愛 (風説的情報) |
【在原業平と恬子内親王】
在原業平 (ありはらのなりひら) の一代記的歌物語である伊勢物語は第69段に、
業平と伊勢斎宮恬子 (やすこ) 内親王との一夜の情交の話を描いている。
この歌物語を 「伊勢物語」 と呼ぶのは、この一夜の愛こそが、愛の極致の姿であると考えられたためだとも云う。
伊勢斎宮は未婚の皇女たちの中から選ばれて、伊勢神宮に巫女として奉仕する女性である。
神に仕える女、すなわち神の妻であり、神聖にして冒すべからざる神女である。
ある時、業平は勅使として伊勢の国に下り斎宮の館に宿泊する。
業平は斎宮恬子に、二人でお逢いしたいと云う。
彼女は親友惟喬 (これたか) 親王の同母妹である。
兄から妹へ、業平がそちらへ行くから、便宜をはかってやってくれとの書状は予め届けられていた。
それかあらぬか、業平は酒宴の後一人部屋に帰り、寝付かれないままに、西に傾く月を見るともなく眺めていると、
恬子は業平の居る部屋に、そっと音も立てず影のようにやって来る。
短い情交の後、あかときに自らの部屋に帰った恬子は、一つの歌をしたためて業平のところへ侍女に届けさせる。
それが、伊勢物語中でも屈指の名歌。
「君や来し我れや行きけん思ほえず 夢かうつつか 寝てか覚めてか」
それは愛の行いの朦朧とした夢幻の境のみならず、淡い月光の射し入る 「ほのかな」 世界を描き出すものである。
何と云う皮肉であろう。この一夜の情交によって恬子内親王は懐妊する。
やがて月満ちて一人の男子が産まれる。
時の伊勢権守兼神祇伯の高階峰緒 (たかしなのみねお) は、この処置に苦慮した。
彼は師尚 (もろひさ) と名付けることになったその子を引き取って、我が子茂範の養子とした。
しかし、この時から、高階氏は伊勢神宮に 「はばかりある家系」 、
すなわち、伊勢神宮に参詣することを許されない家系と云うことになったのである。
【皇后定子と敦康親王】
それから150年近くの月日が流れて、1011年、
三条天皇が即位の時に、突然に、この二人の愛の物語が政局の中に浮き上がる。
寛平2年、皇太子であった一条天皇が僅か7才で即位する。
天皇が11才で元服した時、関白藤原道隆は我が娘で15才の定子を天皇の中宮に入れる。
定子は長保元年 (999年) 24才の時、皇子敦康 (あつやす) 親王を出産する。
その年、関白藤原道長も12才の娘彰子 (あきこ) を一条天皇の下に入れる。
翌年、定子は再び妊娠するが、あっけなくも産褥で死去してしまう。
定子の忘れ形見敦康親王は彰子が引き取って養育する。
彰子はやがて二人の皇子 (後一条、後朱雀) を出産するが、彼女は敦康を我が子以上に可愛がり慈しんだ。
この一条天皇は寛弘8年 (1011) 32才で死去し、皇太子であった三条天皇が即位する。
ここで、新たに三条天皇の皇太子を選ぶに当たり問題が噴出する。
結果として、13才になる敦康親王を差し置いて、彰子所生の4才の敦成親王(後一条) が皇太子に選ばれる。
彰子自身も愛し育てた敦康を皇太子にと父道長に強く推薦し、それを拒絶した父に対して、
彼女は明らさまな怨みを投げつけたと伝えられている。
道長のその決定に大きな影響を与えたのが藤原行成の奏上文であった。
彼はその中で、敦康親王の生母定子は伊勢神宮に憚りある高階氏の血を承けているから敦康親王は王位には適さないと述べていた。すなわち、定子の父道隆は、若い日、円融天皇に内侍していた才気煥発な高階貴子を見初めて妻とし、
彼女から伊周 (これちか) 、隆家、定子らを儲けたのである。
【後朱雀天皇と原子】
さらにそれより約30年後、事はもっと激烈な形をとって現れ、遂に一人の天皇をも取り殺すに至る。
長元9年 (1036年) 後一条天皇は29才で死去する。その後を嗣いだのは、その弟で28才の敦良親王 (後朱雀天皇) である。
後朱雀天皇は強い性格の持ち主で、王者意識の強い天皇であった。
そして、その王者意識は 「この国は神国なり」 と云う神国思想と一体的に結び付いていた。
従って、神風の伊勢の大神には絶対的な尊崇を抱いていた。
ところが皮肉なことに、その治世の初めから、伊勢にからまる事件が頻発する。
神宮の祭主の人事をめぐる紛争や怪異。
台風による伊勢外宮の破壊転倒。
伊勢神人の強訴。
そうした中で中宮原子 (もとこ 正しくは女偏に原) の産褥死。
そして、この原子の死去が 「伊勢神宮の神罰なり」 と噂されたのであった。
原子はかの敦康親王の娘であり、伊勢神宮に憚りありとされた高階家の血筋を引いているのである。
それは、後朱雀にとっては物凄い衝撃であった。
彼の精神は惑乱する。私は伊勢の大神の怒りを蒙っている。
何としても大神の怒りを鎮めねばならないと、彼は毎夜清涼殿の庭に出て水垢離を取り、
伊勢に向かって、宮中の外まで響く大声を発しながら、凄まじい形相で礼拝を繰り返し、止めようともしない。
身体は冷え切って腰痛が激発する。
折りも折り、内裏で火災が起こり内侍所の神鏡が焼け、形も留めず溶けてしまう。
後朱雀の精神はもう完全に錯乱状態となり、その容貌は鬼気迫るものとなった。
そして、やがて全身的な浮腫に襲われ、寛徳2年 (1045年) 在位9年にして死去する。37才。
【風説的個人情報の伝承と云うこと】
このようにして、在原業平と恬子内親王との愛の一夜より、数えて200年、
延々として伝えられていった伊勢神宮に憚りある血筋、
伊勢大神の神罰を受ける家系なるものの、その実体は一体何なのか。
業平と恬子との子師尚の中に、伊勢大神が忌み嫌うようなDNAが生じて、
その遺伝子が代々子孫へと流れているかのごとき、人々の認識である。
しかし、そんなDNAなど存在する訳はない。
では、何が伝わっているのか。
伝わっていったのは何か。
それは、まさに一つの 「情報」 である。
姿も形もないが、それでいて厳然と実在する 「情報」 である。
情報以外の何ものでもない。
さらに云えば、情報の中でも、個人に関する風説と表現される種類の情報である。
こうしてみると、この種の情報の恐ろしさに身の毛がよだつ。
何と恐ろしいものだろう。
それは、しばしば、事実の有無にかかわらず作られてゆく。
しかも第三者の心の中で作られてゆく。それは全く本人たちの関知しない所で作られてゆく。
そして、その情報が、ひと度、社会の中で呼吸をし始めると、それは魔王的破壊力を持つものである。
にもかかわらず、それを消し去ることは殆ど困難である。
消し去るための手段は殆どない。
敦康親王、彼を愛育した中宮彰子、後朱雀天皇、そして、その寵姫原子。
その人たちも、どうすることも出来なかった。
ただ周囲に怒りを叩き付け、あるいは狂気のように神に祈るのみであった。
伊勢の神罰を蒙る家系と云う、云われもなき風説的情報に晒され続けた高階一族の人たちにとって、
それは何と云う痛憤であったろう。
(本稿は数研出版「i-net」 11号 (2004年10月) に掲載した同じ題の原稿を要約したものである)
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