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救急車“たらい回し”に拍車も

厚労省が進める医療版“事故調”に潜むワナ

 「医療は不確実な要素が多い。適切とされる処置をしても、人間の身体は予想外の反応を示すことがままある。良かれと思って手術したのに、そうしたリスクを理解してもらえず、訴えられることが増えているから、リスクの高い手術を引き受けない病院が増えている。周りでは救急医療をやめたがっている医師も少なくない」

医療論文が急減

 東京大学の上昌広准教授によると2007年後半から、診療中に起きた個別の事例を取り上げる医療論文の数が急減している。「事故調構想が本格化して以降、行政処分や刑事責任の追及につながることを医師が恐れて発表を控えている」と見る。

 医療事故の原因究明という目的を掲げる事故調だが、結果的には医師を萎縮させ、救急医療の現場からの離脱を促してしまいかねない。患者を受け入れてくれる病院がなかなか見つからない救急車のたらい回し問題も、今以上に悪化すると危惧する声もある。国交省が耐震偽装防止のために講じた政策が、逆に建設現場を混乱に陥れる副作用をもたらしたのと似た構造だ。

 昨年秋以降、インターネット上を中心に、医療関係者による批判的な意見表明が急激に盛り上がっている。ネット上ではチェーンメールさながらに、医療事故調についてこんな文面が飛び交っている。

 「身近な方々、ご友人、代議士の方々、ジャーナリストの方々、などにご説明いただけませんか」「1人でも多く厚生労働省へ意見を送っていただきたい」。中には意見を簡単に投稿できるよう、投稿フォームを作成するなど、至れりつくせりといったものもある。

 こうして反対意見が盛り上がる中、4月3日に厚労省が公表した事故調構想の第3次試案は、「事故調の目的は原因究明と再発防止であって、責任追及ではない」という旨を明示した。医療界の声にある程度、配慮した格好だ。

 これは建築基準法改正の際に、建築士ら現場の意見が反映されにくかったのと異なる点だ。既に医師不足の問題が顕在化していたため、厚労省も医師を萎縮させて事態を悪化させるわけにはいかない事情もあったものの、現場の医師の間で、「お上にこのまま任せてはいけない」という危機感がネットを通じて共有されたことが大きかったようだ。ただ、医療事故に故意や重大な過失があった場合には、事故調が捜査機関に連絡するという内容は残った。医師から「萎縮するのは、故意や重大な過失となる要件が不明瞭だから」という声が上がる以上、ガス抜き的な効果はあっても、本質的な問題解決にはならない。

行政に頼らぬ解決スキーム案も

 超党派で組織する「医療現場の危機打開と再建を目指す国会議員連盟」の幹事長である民主党の鈴木寛・参院議員は「社会問題の解決を役所に頼っても、役所の焼け太りを招くだけ。そもそも行政は紋切り型の対応しかできず、医療のような多様な事例があることへの対応は下手。むしろ当事者同士がケース・バイ・ケースで解決できるようにすべき」と主張する。それには、医療の専門知識を持たない患者や遺族へのサポートが不可欠になる。だから、事故調のように医療事故の善悪を判定するような機関よりも、「患者や遺族に専門性の高い医療の情報を分かりやすく提供するような組織こそ必要だ」と訴える。

 耐震偽装事件では、国中がパニックになって建築手続きの厳格化を求めるムードが醸成された。政策立案に関わった村上周三・元慶応義塾大学教授は「後になって規制が強すぎたと批判されるが、国中が建築手続きの規制強化を求めた空気の中でどうすればよかったのか」と話す。そして、与野党双方から「あそこまで厳格な制度にする必要はなかった」との反省の声が聞こえる。そういう意味では、鈴木参院議員が主張するようなスキームにいずれ現実味が出てきてもおかしくない。

 厚労省の第3次試案は現在、パブリックコメントの受け付け中。現場の医師の意見が一定程度、尊重されたとはいえ、医療に対する不信感の高まりから来る事故調創設に向けた空気の盛り上がりは健在だ。医療事故の隠蔽など、一部の医療機関に不信を招いた原因があるのも事実だが、現場で起こりうる副作用への懸念も無視はできない。厚労省は患者や遺族の求めに応えつつ、医師の萎縮も抑えなくてはならない。落としどころを探る時、国交省の教訓は生きるだろうか。

(5月12日号『日経ビジネス』の特集「こんな行政いらない」は、社会問題の解決を掲げる政策が引き起こす諸問題とその構造について取り上げた企画です。あわせてお読みください。)

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このコラムについて

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「政策」というと、霞ヶ関の官僚や一部の政治家、これに圧力をかける団体の手で、いつの間にか作り上げられるものだった。だが、そうして出来た法律は当然、私たちのビジネスを縛り、生活に影響する。「政局」を追う新聞やテレビの政治報道では、本当の政策論議は見えてこない。ビジネスの視点から、政策が法律となって世に出るまでの流れを追い、一見暴論とされかねない意見も、あえて世に問う。名付けて「ビジネス・政策道場」。コメントやトラックバックでぜひご意見をお寄せください。

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著者プロフィール

永井 央紀(ながい おうき)

2001年日本経済新聞社に入社。流通経済部を経て2006年から日経BP社へ出向、「日経ビジネス」編集部記者

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