以下は、自民党の太田誠一氏のブログに私が投稿したコメントである。インターネット上の自称憂国の志士の方々は、太田氏を、人権擁護法案推進派の急先鋒として、日夜、誹謗中傷を続けている。太田誠一ブログのコメント欄は承認後公開のスタイルをとっているが、かなり口汚いものまでパスしている。社民党や日本共産党の議員に比較するとずっと潔い態度である。
>[4/30 14:21] >その精度は別として、報道機関には自浄機 >能が備わっています。よくドラマなどで、 >血気にはやる若い記者に年嵩の上司が、 >「オイ、ウラをとったのか。ガセネタじゃ >ないのか」と質す場面があります。怪しげ >な情報ばかり流す放送局には最悪の場合、 >免許剥奪もありえます。 > >ところが、インターネットにはこの自浄機 >能がありません。新聞社や放送局のような >主体が最初から存在しないからです。「テ >レビや新聞では伝えられない真実がインター >ネットにある」というまことしやかな新伝 >説が、今や熱狂的に支持されています。世 >論に「仕掛け」をする者にとって、笑いの >止まらない時代になりました。なにしろ >「報道はされないが○○が黒幕だ。」と書 >くだけで、読む者達が勝手に信じてくれる >のですから。 > >標的にされる方は、たまったものではあり >ませんね。 そして、以下がその記事のアドレスである。記事本文は、実にまともなことを言っていると私は思う。 政治が空白に近い時代が続く http://www.election.ne.jp/10829/58540.html#comment 実は、その数時間後に以下のネットニュースが流れた。上記の私の投稿とリンクする内容だ。何とも土偶なことである。 2ちゃんねる発の怪文書広まる ネットでは問題点指摘も[4/30 19:23] http://news.ameba.jp/weblog/2008/04/13375.html > 巨大掲示板・2ちゃんねるにおいて、 >「善光寺が聖火リレースタート地点を辞退 >したことが海外メディアで賞賛の嵐だった」 >との内容の書き込みがされるも、ソースと >なる記事が1つとして存在しなかったこと >から、誰かの創作であった可能性が高いと、 >ネットで話題となっている。 > 事の発端は、2ちゃんねるに「『善光寺 >が発した静かな怒りは、世界の全仏教徒の >みならず宗派を超えた宗教指導者が身を切 >るほどの警告となった』@CNN」 >「『ZENKOUJIは一滴の血も流さず、一個の >石(投石?)も用いずに最大級のデモンス >トレーションを成し遂げた』@NBC(アメ >リカ)」など書き込まれたことに始まる。 >これらは、同一IDにより複数のスレッドで、 >ほぼ同時刻に投稿され、「日本の親中メデ >ィアは一行も伝えない世界からの賞賛の声 >を、せめてコピペで伝え合おう」と書かれ >ていたことから、他の投稿者によって、瞬 >く間に広まったようだ。 > 米国在住の岩谷文太氏は、自身のブログ >「Red Fox」で該当記事の原文を検証。こ >れらの内容が書かれている記事、記述が1 >つも見つからないという状態だったことを >明らかにし、「世界中が日本や長野だけを >特別に意識して報道している筈などない」 >「やや自意識過剰的な日本人の視点で書い >たもの、又は日本のネット層が喜びそうな >反応を期待して書いた確信犯的なものに見 >えます」と作為的であるとの見解を示した。 > > これに対して、ネットでは「ソース主義 >の2chでリンクが無いものは即ち捏造と取っ >て問題なし」「偽リンクもあるし油断なら >ない」「書きこんだ本人が本気でなくても >広めようとする人のせいで余計に混乱する」 >「チェーンメールは信用しない、拡散させ >ないそれがマナー。でもなぜか掲示板書き >込みは信用し、コピペする人が多い不思議」 >など、問題点を指摘する声も多く挙がって >いる。 私が「テロに屈した」として批判した善光寺の行動が、世界中から絶賛された、という記述は、mixiや自称憂国の志士の皆さんのブログでよく見かけたが、それが嘘っぱちだったということについては沈黙が続いている。やっぱりバツが悪いんだろうか。カワイイもんだね…。 コンピュータ・ウィルス並に異常繁殖している例の「アリ@FreeTibetの日記」を読んで、「こんなもの自己責任だろう」という声がなぜ上がらないのだろうか。聖火リレーでは騒ぎが起きそうだということは、百も承知、二百も合点で現地に乗り込んだのだろうに。こんな寝言、世迷言みたいなものが、たとえごく一部だとしても共感を集めるということについて大きく落胆する。こんなヘナチョコなやつらに「世界最低の国日本」とまで言われて嬉しそうにしている自称憂国の志士、自薦保守良識派って、一体全体どういう神経しているんだろうか。気は確かですか。思いつきの政治ごっこで少しくらい痛い目を見たからといって、全国の農業の皆さん、製造業の皆さん、私の所属する建設業の皆さん、その他諸々の勤労者の皆さん、この日本国を愚弄することは絶対に許さない。
YBN(やりちゃんブログネットワーク)のはてなダイアリーやyaplogのコメント欄には「栄庫」というハンドルネームの人物により「私は創価学会に盗聴されている」というような病的な投稿が繰り返されるようになった。いわゆる「黒太陽さまよりの毒電波」の類である。インターネットでは、おかしなものが迷い込むのはよくあることなので、削除せずに残してある。
一方、mixiの日記には「大圓」という「お客さま」が訪れるようになった。大圓さんは「日本は狙われている。GHQも、日本共産党も、日教組も、みんなみんなグルでつながっている」と主張している。文章の感じでは20代位の印象を受ける。プロライターの私のマイミクさんにまで討論を挑むのは勇敢なことだが、ほとんど対話が噛み合っていない。悪いことに大圓さんは、ネット上の資料を検索して大量に貼り付けるスタイルなので、投稿の間隔がとても長い。自分は忘れた頃にマイペースで書き込んでくるくせに、コメントの後にはしきりに足あとをつけたり、他の記事に短い投稿をしてみたり、構って欲しそうに甘えてくる。実に子供じみている。ひょとすると10代なのかもしれない。 大圓さんは、昨日の「人間の條件」に関する記事にも、「こんな映画を観るようなやつはアカだ」というような低レベルな言いがかりをつけてきた。映画に登場する悪役の古参兵の方が余程気の利いたことを言う。文章からみて大圓さんが作品を観ているとはとても思えない。一事が万事この調子で、大圓さんの書き込みは、どこからか引っ張ってきた資料の内容を理解した上での文章ではなく、ボリュームばかり大きくて内容に乏しい。彦摩呂なら「ネット投稿のメタボリックや~ッ」と叫び声をあげるところだ。 確かに「人間の條件」には主人公・梶が、自身を社会主義者と位置付けるセリフがある。しかしながら、梶は、戦友・新城一等兵や丹下一等兵によるソ連軍への投降への誘いを幾度となく拒絶している。ソ連兵の避難民への凌辱も表現されている。物分かりのいい敵軍人も登場しないことはないが、これはアメリカが相手の映画でもあることだ。ソ連軍収容所での査問シーンでは、「あんた達には一晩中かかっても足りないくらい問い質したいことがある」という内心のモノローグがあり、作品を通じて「人間性の解放」を謳うソ連邦、共産党に対し、懐疑的なトーンが貫かれているといえる。終末近くには、山崎豊子の「不毛地帯」に出てきたようなアクチブが登場する。これは前にも日記に書いたが、アクチブとは進んでソ連軍に取り入って保身を図る者をいう。梶はブチキた後にアクチブ・桐原伍長をチェーンで撲殺して肥溜めに投げ入れる。そんな共産主義礼讃映画はないだろう。 映画「人間の條件」には、惜しげもなく大量のエキストラが動員され、戦闘シーンに登場する十数台もの戦車は特撮ではなく、どう見ても実物だ。後半には、岸田今日子、中村玉緒、高峰秀子らの単独で主役を張れる女優が、これでもか、と畳みかけるように投入される。旧日本軍の抱えていたマイナス面が微塵でも表現されているか、否か、を第一の価値観に据える人以外にとっては観応えのある作品であり、自信をもってお勧めできる。 ウルトラ者的視点で言えば、ヤマオカ長官、ムラマツ・キャップ役の藤田進、小林昭二が重要な役で出演している。藤田は二等兵、小林は少尉と階級が逆転しているところがおもしろい。道を尋ねられた朝鮮人役でロボット長官こと成瀬昌彦も顔を見せてくれる。
映画「人間の條件」は、私の生まれる前の作品だ。全9時間六部構成で、戦争と人間の姿を描き出す超大作にして意欲作である。小学生の頃だと思うが、数日間かけてテレビで一挙放映されたことがあった。父親がかじりついていた記憶があるが、今では深夜の放送も考えにくい。
第一部では、理想主義者である主人公・梶(仲代達也)が、満洲の鉱山で労務管理の任にあたり、苛酷で凄惨な現実に対峙する。増産運動に際して、鉱山は関東軍から中国人捕虜600人を「特種工人」として引き受ける。貨物列車のコンテナを開けると、仮死状態の捕虜が雪崩のように溢れ出す場面には慄然とする。CGなどではなく生身のエキストラによる撮影である。いろいろな意味で現代では再現不可能だと思う。 観ていて感じるのは、理想主義者・梶のよき理解者である沖島(山村聡)の存在感の大きさである。山村聡は、東芝日曜劇場やら橋田壽賀子プロデュースによる一連のドラマでの落ち着いた父親役の印象があるが、本作では「ごくせん」や「ROOKIES」みたいに殴ったり、殴られたりで、私にはこちらの方がずっと逞しくて美しく思える。人間を綺麗に撮りたいのなら、やっぱりモノクロームなのだろうか。淡島千景演ずる女郎・金の放つ妖しさも、白黒映画ならではという気がする。 私には、ミクシィやブログに謳われた理想論は、最初から現実主義者の心を動かそうとはしていないように思える。むしろアリバイ造りのようなものだ。その意味で、梶も沖島もいない。右も左も、閉じられた身内だけで「そうだよな、うんうん」と確認し合っているに過ぎないように感じる。 悲観している訳ではない。彼らの不在は、現代の日本に、満洲の鉱山程の苛酷な現実がないことを示している。今の所は。
ミクシィの憲法改正に関するトピックで、いわゆる護憲派を「ウルトラマンを信じるような人達」と揶揄している人がいた。
円谷プロのウルトラシリーズには、 ・ウルトラマンの力を過信して失敗するイデ隊員(ウルトラマン)や、郷秀樹(帰ってきたウルトラマン) ・「人類自らの手で地球を守る」と決意するキリヤマ隊長(ウルトラセブン) ・最終回では変身せずに戦う東光太郎(ウルトラマンタロウ) などの姿が繰り返し描かれており、安易に「苦しいときにはウルトラ戦士が現れる」というメッセージを発しているものではない、と告げた。先方もDVDを持っていたらしく、すぐに撤回に応じてくれた。ウルトラは、人のこころに平和をもたらす。 ウルトラセブンの「セブン」が米国海軍第七艦隊のメタファーである、という説は、昔からまことしやかにささやかれている。これが単なるヨタ話として一蹴されずにいるのは、他のウルトラシリーズに比較してもウルトラ警備隊とセブンの双務性が高く表現されていることに起因するものと思われる。巨大化した宇宙人はセブンが倒し、円盤の掃討はウルトラ警備隊、というように役割分担されている例は、枚挙に暇がない。対ペダン星人戦に至ってはライトンR30爆弾の開発、砲撃が必須勝利条件だった訳で、ここではセブン、警備隊の主従が完全に逆転している。 我が国の防衛問題においても、日米安保同盟を堅持しつつ、両者の双務性を高めていくことが必要だ。実際問題、米国政府は恒常的な債務超過に陥っており、今後グアムの基地に軸足を移し、朝鮮半島から兵力を撤収する、というシナリオも充分ありえる。セブンと警備隊のような対等な関係が、否応もなく求められてくる。
映画「プライド」は、いわゆる東京裁判を東條英機の立場から描いた画期的な作品だ。最近では、映画「靖国」に右翼議員が圧力をかけたの、かけないの、と話題になったが、「プライド」の時には逆のことが横行していた訳で、今更ジロー、何言ってんの、という気がする。
本筋から外れるが、私は、確定した事実関係があるのなら、従軍慰安婦、南京事件、集団自決などについて、いくらでも歴史教科書に書けばよい、と思っている。その代わり、戦後社会で日本共産党や社会党がしでかしたこともキッチリ記述しなければならないのは当然だ。戦時下で人を殺す者と平時に人を殺す者。歴史を改竄しているのは一体誰なのか。生徒、児童はめいめいが自分なりの判断をするだろう。「確かな野党」という宣伝文句には、思わず失笑がもれるようになるかもしれない。真面目な話、何かを隠すことによって日本人の尊厳が保たれる、という発想は誤りだ。日本人は、 現在≒過去≒未来 というのがやりちゃんの立場である。日本人を強引に、 過去>現在 未来>現在 と評価するのは政治家の商売の都合だ。 「プライド」は人間、東條英機にスポットを当てた日本側の立場の作品なのだが、なぜタイトルが英語なのだろうか。月刊「Will」についても「日本よ、今こそ立ち上がれ」「対米追従は情けない」というようなことがたくさん書いてあるが、やはり誌名は英語、ご丁寧にローマ字だ。「正論」には毎月のように中国はとんでもない国だ、という記事が載っているが、正論というのは漢語じゃないか。 あまてらすおおみかみ すさのおのみこと あびらうんけんそわか みたいなのが日本古来の大和言葉ではないのだろうか。和語で映画や雑誌のタイトルを考えてみよう。 にんげんをかえせ いのちのまつり にっぽんのこえ あらぐさ ひきこもりのうた あれれ、何だかとても左翼チックになっちゃったね…。
「世論調査では、『民主党は審議に応じて責務を果たすべき』との声が圧倒的だ。」
上記のような文章をよくみかける。違和感を持つ人も少なくなってきたのではないだろうか。文章のおしりに「べき」がくる文は、「べき止め」と呼ばれ、好ましくない、誤りだ、と言われている。言葉は生き物だから、今後この用法も定着していくのかもしれないが、少なくとも伝統的価値観を尊重する保守派ぐらいは避けた方がよい表現なのではあるまいか。 「べき」は連体形だから、体言を伴っていなくてはならない。上記の例で言えば、 ・審議に応じるべき民主党。 ・民主党は、なすべきことを忘れている。 あるいは、 ・民主党は審議に応じるべきだ。 ・民主党は審議に応ずべし。 とするのが正解だろう。
ウルトラセブン第4話「マックス号応答せよ」で、ストーリー上重要な役割を果たす小道具、アンヌのお守りの複製が商品化される。発売元は、アンヌ隊員のフィギアなどのマニアックなグッズを製作、販売している下記企業。
有限会社インスパイア http://www.inspire.co.jp/ 発売日は7月20日で、おそらく通信販売も可能だと思われる。興味深いのは、過去にひし美ゆり子さんのブログのコメント欄にこれの商品化を希望するファンの声があったことだ。ネットの双方向性を示す好例といえる。過剰な広告費を転嫁されることなく、欲しい人に欲しいものが手渡される素晴らしい商品企画だと思う。熟女萌えのやりちゃんとしては、ここの美人社長のこともかなり気になる。 あれから40年・・アンヌのひとりごと http://blog.goo.ne.jp/anneinfi/
ホッピーをご存知だろうか。昔から焼き鳥屋の店先などに泡のたったジョッキのイラストに「ホッピー」と書いてある短冊が貼ってあるのをよく見かける。庶民にとってビールが高価だった時代から代用物として親しまれてきた飲料だ。
ホッピーを注文すると、焼酎の入ったジョッキとホッピーの入ったビンが運ばれてくる。焼酎を割るホッピーの量でアルコール濃度がお好みに調節できるという寸法だ。店によっては、最初のジョッキは空で、焼酎がグラスで運ばれてくる場合もある。マドラーがついてくる場合もあれば、かき混ぜない方がおいしいです、という説明書きがついている場合もある。追加注文の際には、焼酎の追加を「ナカ下さい」、ホッピーの追加を「ソト下さい」とコールする。 最近、チェーン店の居酒屋などで、ホッピーがメニューに載っていることが多くなってきた。創業者の孫娘がドラスティックな経営刷新を行い、凄まじい増収増益になっているらしい。ホッピーミーナという名前で手記を出版したり、講演会が盛況だったりしているらしい。ブログもある。今では、生ビール一杯とホッピーはほんの数十円しか値段が変わらない。売れ行きが好調なのは、価格要因だけではなく、ホッピー自体が見直された、ということなのだろう。よくそのように仕向けたものだ。良い商品なのに売れない、ということはよくある。 会社の健康診断で脂肪肝を宣告されてしまった私のような者には、ビールよりも低カロリーなホッピーの方が向いているらしい。栄養価の低い食物や、品質の低い再生紙がもてはやされる時代である。昭和と平成の隔たりは大きくなるばかりだ。 #「ぼんじり」と「どんどり」は同じものらしいが、後者がメニューにある店はずっと少ない気がする。両者に明確な線引きはあるのだろうか。詳しい方がいたら教えてください。かしら、どんどり、しいたけ、ししとうは私の好物だ。レバーは店によって当たり外れが大き過ぎるので最近は頼まなくなった。敬愛する湯川トーベンが「焼き鳥の二本もあれば酒は飲めるのだ」と歌っているのを聴いて以来、つまみは焼き鳥に軸足を置いている。
長野のオリンピック聖火リレーで欽ちゃんは、沿道から物を投げられる嫌がらせに遭いながらも、堂々とその務めを果たした。お疲れ様でした。以前この日記でも取り上げたが、欽ちゃんは西武から裏金を受け取ってバッシングを受けていた学生選手に「よかったらウチ(の球団)に来なヨ」と発言したことがある。行き詰まった状況があっても、欽ちゃんだったらどうするかな、と考えれば、大きなヒントになるだろう。どんなときも。
ネット上には、「福原愛は中国のスパイだ」「(欽ちゃんを指して)ピークをとうに過ぎた芸人の醜態」というような言葉が飛び交っている。放送コードは言葉狩りだ、という批判があるが、もたらしたのは副作用のみ、とも言い切れないと思っている。ネットが既存メディアの解放区となり、これまで保ち守っていた礼節を突き崩し始めているかのようだ。やりちゃんは昭和を21年生きたが、来年は平成21年で、以降どんどん平成の方が長くなっていく。欽ちゃん、特撮、ニューウェーブとずっと昭和のままでいようかな。 -- 欽ちゃん 1人でやり直し走 念願の長野市民とハイタッチしながらランニングする萩本欽一 北京五輪の聖火リレーが26日、長野市内であり、タレントの萩本欽一(66)が走行中にビラが投げ入れられるなど、平和の祭典とはかけ離れ、3000人超の警官による厳戒警備の中、まるで戦場のような光景が繰り広げられた。 ◇ ◇ 長野県警によると、タレントの萩本欽一が聖火リレー妨害の“標的”にされたのは、午前8時45分ごろ。長野駅前をリレー走者として走行中、何者かがビラの束などを投げ込み、直後にコースに出ようとした神奈川県在住の男(30)が威力業務妨害で現行犯逮捕された。萩本は、危機一髪の状況だったにもかかわらず、本番の出走後には、再び警備なしで街へ飛び出し、市民とふれ合う“本物の聖火リレー”をたった1人で実現させた。 萩本は出走後の会見で、妨害の場面について「横にいた警察官が『位置につけ!』と言ったら、(警備隊が)一斉に横向いて“欽ちゃん走り”をしたの。『僕がしないのに、なんで』って思った」と笑いながら振り返った。さらに「欽ちゃんのところで何か言いたかったんだと思えば、僕は許せますけどね。不愉快な思いはないです」とも語った。 むしろ厳重すぎる警備の方が不満だったようだ。萩本は、中国とチベットの旗で埋め尽くされた、殺伐とした沿道の雰囲気もあり「笑顔で走ろうと思っていたんだけど…。(トーチに)いろいろな旗の重みがのっかってしまった」と自分の走りに悔いをのぞかせた。 会見後、萩本は「長野の人とハイタッチしないと帰れないからね」と警備隊もなしで、突然、街へと駆け出した。殺到する市民と次々とハイタッチを交わし「僕の中の聖火リレーができなかったから、笑顔のランナーをやって帰ろうと思ってさ」と充実の笑顔。会見場の市民会館から始まった“リベンジ走”は、本番の163メートルよりも長い約200メートルにも及んでいた。
昨日に続いて言葉遣いについて考えてみる。
アトラス選手は、「煮詰まる」という言葉は本来、機が熟した、という意味であるのに、しばしば「行き詰まる」と誤用されている、と憂慮する。あまのじゃくを演じたがっている訳ではないが、「煮詰まる」が否定的に用いられるのは、かなり昔からのことなのではないだろうか。私はこれをみて、以下のような解釈をしていた。 鍋ものがいい感じに煮えてきたのに、他のメンバーは仕事のけりがつかなかったり、不慮の来客があったりで食卓につくことができない。オイオイ、このままでは焦げ付いてきちゃうぜ、というジレンマ…。 あくまでも「煮詰まる」が否定的に使われていることに対する後付けの解釈だけれども、私はずっとこのように考えていた。少しネットで検索してみたが、このような記述は見当たらなかった。読者の皆さんはどのように考えますか。 ある問題について、持ち寄った情報を詳細に検討した結果、事態を好転させる要素が皆無であることが判明した。このような場合には、「煮詰まる」と「行き詰まる」がほぼ同義になるのではないだろうか。 -- 昨日の日記で触れた「青春とはなんだ」の主演は夏木陽介。後続シリーズとは違い、第一昨目になるこの作品にはシリアスな描写もあった。昨日の「貴様と俺」を歌いながらスクラムを組んだ生徒たちがデモ行進をするシーンには、かなり迫力があった。80年代に再放送を観た記憶があるので、是非ともビデオ、DVD化をして欲しいものだ。夏木陽介は、「ウルトラセブンX」にデウス司令の声で出演していた。私はこんな大物が声だけとは勿体ないので、最終回近くで登場してくるに違いない、と踏んでいたが、予測は外れた。しかし、ガッカリするのはまだ早い。映画版「ウルトラセブンX」ではどんでん返しがあるかもしれないじゃないか。今でも話題になるダンとアンヌだが、制作当時のひし美ゆり子さんは、森次さんよりも夏木陽介に惹かれるものがあったとエッセイで回顧している。セブン・夏木の接点は、昨日今日の話ではないのだ。
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