俺は謝らねばならない人がたくさんいる。
それはこれまで傲慢に生きて、傷つけてきた方々ももちろんそうであるが、それ以外にも前回の格闘技の試合で、俺のセコンドについてくれた友であり、そして俺を応援してくれた方々や試合を主催して下さった方々に対してである。
なぜなら俺は格闘技というものを、本当に全然やる気が無いからだ。
なぜ格闘技をやる気がないか、それを説明する為には、「志」という言葉の意味を説明しなければならないのだが、 この「志」という言葉を説明することほど、俺にとって難しいことはない。
なぜなら 「愛」とか、「勇気」とか、「正義」とか、そうした言葉も説明に難しい言葉であるが、しかし「志」という言葉を説明する為には、「愛」などの言葉抜きでは出来ないからである。
あえて 「志」という言葉を簡単に説明するならば、「世の中を良くしたい」とか、「人を幸せにしたい」とか、そうした「世の為、人の為を想う心」とも言えるかもしれない。
しかし「自分が脚光を浴びたい」とか、「自分が重要な存在になりたい」とか、「自分が名声を欲しい」とか、そうした「自分が、自分が」という想いから、世の為、人の為を想っても、残念ながらそこにあるのは名誉欲という欲望であって、本物の志とは言えない。
やはり、愛の想いから世の為、人の為を想う心でなければ、真の志とは言えないだろう。
そしてただ世の為、人の為を想うだけならば、多くの人々が「世の中が平和に成って欲しい」とか、「世界中のみんなが幸せになれば良いのに」と、そう想っているものであるのだから、その想いがいつかは実際に行動に現れるくらい強くなければ、真の志とは言えないだろう。
つまり勇気あってこそ、志であるのだ。
この様に「志」という言葉を説明するとなると、とても長くなってしまうので、ここらへんでやめておくが、つまり志とは、「愛や勇気によって世の中を良くしたい、人を幸せにしたいという想い」のことである。
『真実の大和魂』という原稿の中で、俺はこの日本の国をこれまで築き上げてきた精神について語っているが、真実は次の通りである。
「志無くして大和魂無し」
つまり、あの『真実の大和魂』という原稿の中で、俺は「本当の大和魂は『武』の中には無い」と、そう断言しているが、それはすなわち格闘技の中に真実の大和魂は無く、志を持つ者にこそ真実の大和魂は存在しているのである。
だからあえて申し上げるのならば、宮本武蔵に「剣客として天下に名を轟かせたい」という大望はあっても、もしも仮に、彼に愛や勇気による「世の中を良くしたい、人を幸せにしたい」という志が無かったのならば、「宮本武蔵には大和魂は無かった」と言っても過言ではない。
宮本武蔵に志があったかどうか、それは俺には定かではないが、ただ『宮本武蔵(吉川英治著)』『バガボンド』などの小説や漫画などを読む限り、どうも武蔵に志があった様には思えず、『竜馬が行く(司馬遼太郎著)』とか『お~い!竜馬』などを読む限り、竜馬には確かに志があったと言える。
俺は、活字が苦手な人には、司馬遼太郎を絶対に薦めはしないので、『お~い!竜馬』と『バガボンド』を読み比べてみれば、「志の在る人間」と「志の無い人間」の違いが良くお分かりになるだろう。
そして格闘技の中に大和魂が無い為に、俺は格闘技というものにはそれほど興味が無いのである。
ましてや、憎しみ無く、怒りも無く、恨みも何も無い人間の顔面を、あんな薄手のグローブをつけて、倒れているところを殴りつけることなど、今の俺には到底できるわけもない。
もしも仮に、今の俺の心の中に、憎しみ、怒り、恨みの心があったのならば、そうした心を消し去り、心に安らぎを作り上げて、そして人を愛して許す、そうした心の闘いにこそ、今の俺は真剣になる。
なぜなら、そうした憎しみや怒りや恨みなどの想いが、もしも己の心の中に出来上がってしまったのならば、そうした想いを打ち消す心の闘いこそが、意味のある闘いであり、幸福と平和を生み出す闘いであると俺は考えているからだ。
逆に平和を築く為に、仕方無しに戦争をしているわけでもないのに、むやみやたらに他人の肉体と闘うことなど、とても無意味なことであり、幸福も平和も生み出すことはないと、俺は考えている。
だから本心を明かすのならば、格闘技というそうした他人の肉体の闘いを見ることも、所詮は「非日常的な過激なものが見たい」という人間の快楽欲なのではないのかと、俺は考えているわけだ。
その快楽欲に応える為に、ある者はパンチドランカーになったり、ある者は障害を抱えたり、ある者は人生を狂わせたりしていることさえも多々あるだろう。
「リングの上に立つ快感を一度味わったら、それは麻薬の様なものであり、男ならば誰もが引き込まれていく」と、俺は色々な方からそう聞かされていたが、しかし俺は一度リングに上がっても何も感じはしなかった。
おそらく俺には、「自分が脚光を浴びたい」とか、「自分が重要な存在になりたい」とか、「自分が名声を欲しい」とか、そうした名誉欲など既に無いからである。
もしもそうした欲望が俺にあったのならば、俺もこんな人に受け入れられ辛い厄介な原稿など書かずに、誰にでも受け入れられる小説や物語でも書いていることだろう。
いや、むしろ実は俺は、入場曲と共にリングに入場し、そしてリングの上から、これから始まる俺の試合に熱狂している観衆を眺めながら、こんなことを考えていた。
俺が人を裁いていて、大変、横柄に感じられてしまうかもしれないが、しかし批判も、誹謗中傷も覚悟の上で、あえて俺の本心を明かしてみたい。
「今日も同じ赤い血の通った人間が、同じ国内だけであっても、百人も自殺しているのに、どうしてみんなはそのことには無関心なのだろう?
イジメを苦に学校に行けない子供の気持ちなど関係ないのだろうか?
誰だって子供ができたら、学校に行かせるというのに、そして学校が既に病んでいるというのに・・・
新聞を覗けば、今日もおかしな事件が起きている。
肉体の闘いに果たしてどれほどの値打ちがあるのだろう?
この格闘技に熱狂するパワーを違うことに使えば、もっと素晴らしい世の中になるのに」
もちろん前回の格闘技の試合において、俺は勝つつもりで闘いに望んだのだが、しかし初めから勝敗など気にもとめておらず、俺にとって大切なことは、格闘技という「肉体の闘い」を観戦している方に、「心の闘い」に参戦して頂くことである。
そんな俺であるが、第二回目の大会も主催者側からオファーを頂き、一人でも多くの方に俺の声を届かせ、心の闘いに参戦して頂く為に二回目の出場も視野に入れていた。
しかし、前回の時よりも、今では格闘技に対する考え方が固まってきている為に、今度はもっと相手を痛めつけようとか、傷つけようとか、そういった闘う意欲が俺には無い。
そんな気持ちではどうせ勝てやしないのだから、終始、無抵抗で試合に出ようかとも実は考えた。
そして腕の一本くらいへし折られたのならば、俺の想いやメッセージも伝わるのではないかと考えて、この考えを妻以外の誰にも明かさずにおこうとも想っていた。
利き腕だと厄介だから、左腕もこれまで約三十二年間、よく働いてくれたので、まぁ左手が骨折するくらいは覚悟を決めてリングに上がろうと決意した。
大和魂を謳い文句にする格闘家の方々が、骨折くらいの怪我を覚悟して試合に臨むのだから、真実の大和魂を謳い文句にする以上、俺が腕の骨折くらいの怪我を恐れるなど、なんともおかしなことであり、絶対にあってはならないことだ。
しかし、実際に闘う意欲の無い俺が無抵抗でリングに上がったら、困るのは対戦相手であり、主催者側の方々であり、多大な迷惑をかけてしまいかねない。
俺は、主催者である前田日明氏という方とお話させて頂く機会があったのだが、あの方は想像していたよりも遥かに礼儀礼節を重んじる紳士であり、多くの書物を読んでいて知的でもあり、そして190センチを越す大男でありながら精神世界にも詳しい一方で、会話しているだけでありありと、その胆力が伝わってきた。
これまで前田氏がカリスマ的な人気をほこってきたことも十分に納得できたし、男子として俺も尊敬して惚れずにはいられなかった。
そうした尊敬して惚れている方に迷惑をかけてしまうのは、ちょいとまずいと考えて、スポーツ関係の仕事をしている友人に、無抵抗で試合で出ようとしていることを相談したら、「闘う意欲が無いのならば、主催者と対戦相手に迷惑だからやめた方がいい」と止められた。
それによくよく考えてみると、闘う意欲無しに格闘技のリングに上がって、無抵抗で殴られ蹴られ続け、自分の腕をへし折るなんて、どうも過激で暴力的過ぎて良くない。
たとえ目的が正しくとも、その手段が間違っていれば、やはりそれは間違っている。
なぜなら、たとえば理想を実現させる為に、その過程で暴力などの間違った手段を行ってしまえば、理想というものは永遠に存在し続ける為に、ずっと過程が続いて、暴力という間違った手段の連続となってしまうからだ。
そうすると今度は困るのが、何の後ろ盾も、とりえもの無い俺みたいな無力な男が、インターネットの世界で声を大にして叫んだり、たとえ本を出版したところで、その声が多くの人の心にまで届くことなどありえないということだ。
だから、やはり何らかの戦略を考えて、時には身も命も惜しまずに、体を張って努力していかなければならない。
この様に未だ思索中ではあるが、これからも何らかの戦略は練って、努力していかなければならないだろう。
心の大切さを訴えて、そして暴力とか、虐待とか、イジメとか、詐欺だとか、そうしたもの僅かにでも世の中から減らして、一人でも多くの人が幸せに生きられる、そうした「心の時代」を築き上ることに少しでも多くの自分の生命を燃やすことこそが、俺の目的である。
この原稿を読まれている方に間違えて頂きたくないのは、俺ごとき未熟な人間が「心の時代」を築き上げることなど到底できるわけもないので、あくまでも俺の目的は、「心の時代を築き上げることに少しでも努力する」とういうことである。
これを間違えないで頂きたい。