2008-05-05
■温度をなくす発想
わたしの通っていた小学校の近くには公園があって、クラスの男はみんなそこで野球をしていた。当時、わたしたちの野球熱はあきらかに常軌を逸しており、たいていの子どもは野球のこと以外ほとんどなにも考えられないといった腑抜けの状態で、学校が終わればまっすぐ公園まで走って移動し、ランドセルを降ろすのももどかしく、さっそく試合開始。雨の日をのぞけばほぼ毎日、野球をやっていた。
大雨の翌日など、公園の土はひどくぬかるんでいて、野球をやれば泥だらけになってしまうのだが、そのていどではわれわれの荒ぶる魂を止めることはできず、みな靴や服が泥まみれになるのもかまわず試合に没頭した。しかし中には、服を汚して帰ると親に叱られる子ども、また、きれい好きで泥だらけになるのを嫌がる子どもなどもいて、彼らは他の子どもたちが野球に熱狂するかたわら、できるだけ靴や服が汚れないように気をつけながら遊んでいた。
そうした子どもは、自分の守備位置にボールがとんできても、なるべく靴に泥がつかないように注意しながらキャッチ、返球するので、どうしても守備が甘くなり、周囲からは「ちゃんと守れってー」「汚れたっていいばい」等の怒号がいきかうことになる。今となっては、身なりを汚して親に叱られないように緊張しながら野球をしていた子どもの悲哀も理解できるが、当時はそこまで発想がいたらず、どうしても納得がいかなかった。あいつらと俺のやっている野球はちがう、とおもっていたのである。
つまり試合後、「あの打球、よく捕った」とか、「今日はおもしろかったな!」などと感想を述べあうわたしたちの横で、泥がつかないよう細心の注意を払って遊んでいた彼らはというと、やはり「よかったー靴が汚れなかったよ」といってよろこんでいるのであり、俺は野球をやってるけど、あいつらのやってるのは「靴を汚さないようにボールを打ったり捕ったりすること」であって野球ではないとおもっていた。
これはプライオリティ(優先事項)の問題である。わたしは「ぐっとくる試合」「しびれるゲーム展開」こそが欲しかったのであり、そのためなら服などいくらでも汚してかまわなかった。しかし、「身なりが汚れないこと」がプライオリティになっている子どもの場合、自分の靴に泥がつかない範囲内でなら遊ぶが、すこしでもぬかるんだ場所にボールがとんでいくと、そのまま見過ごしたりする。わたしはただ「くだらない」とおもっていた。靴なんか洗えばいいじゃないか。
糸井重里と岡田斗司夫が、いぜん対談でこんなことを話していた*1。「もし恋人から別れを切り出されたら」についてである。そこで糸井氏がとてもいいことをいっていた。こんな内容です。
糸井 岡田さんやぼくは、「私はあなたと別れたいの」と言われたら、事情を聞いて、「なるほどなぁ、そりゃ別れたいだろう」と、言います。
岡田 はい。まったくそのとおりでございます。「俺はいやだ」と言ったところで、どうなるか? と、復縁できる可能性が上がるかどうかをまずは考えて、その可能性と、みっともないこととのリスクのバランスを計ります。
糸井 それは温度をなくす発想なんですよ。「俺はいやだ」と言う人は、そこで相手に「愛せ」って言ってる、ということなんです。そこで、愛、つまり依存が生まれるんです。ぼくは愛は依存だと思う。それがないと「契約」とか「親切」だけになるんです。ぼくはなんだか、依存がないのはいかん! と思いはじめたんです。
歳を重ねるにつれて、糸井氏のいう「依存」、みっともないことにしかリアリティが感じられなくなってきた。「俺はお前と別れたくない!」と平気で言えたらどれだけいいだろう。そのみっともない感じ。そんな風にだらしない自分をさらけだせたら、もっといろんなことが相手に伝わるのではないか。わたしはつねに、靴に泥がつかないようにと注意しながら恋愛をしてきたような気がして、そういうのはそろそろ止めてもいいんじゃないかとおもうようになった。もっとみっともなくなりたい。無意識に損得を計算したり、頭の片隅でこっそり勝算を計ったりするのはもう止めたい。なんかもう、そういうのはいいんじゃないか。
糸井氏が「温度をなくす発想」といったのはよくわかる。本気で人とつきあったら泥もつきますよ。とくに男女の関係はね。だからといって、自分の身なりを汚さないことばかり考えていたら、温度が下がってしまう。平気で泥まみれの恋愛ができる人ってたくさんいて、そうした人たちの恋愛はわたしのそれよりもずっと充実しているに決まっているのであり、わたしはなぜそうなれなかったのか、つい考えてしまうのである。もっと温度を上げていきたい。