「風吹く夜に」
「……水の誓いを」
ラグドリアン湖畔の岸辺。合言葉を確認すると、二人の男女───ウェールズとアンリエッタは互いに姿を現す。合言葉を交わして待ち合わせるする男女など、傍から見れば逢瀬を重ねる恋人同志以外の何者でもないだろうが、
(まあ……実際やってることは、色気がなんて皆無の地味な作業に過ぎないんだがね)
思わず口元に浮かんだ苦笑を誤魔化すように、ウェールズはアンリエッタに言葉を掛ける。
「今夜は水の精霊との橋渡し役、よろしくお願いするよ、アンリエッタ」
「ええ、わたくしに任せて下さい、ウェールズさま」
誇らしげに背を伸ばして見せるアンリエッタ。自らを大人びて見せようとするそんな彼女の仕種に、ウェールズは思わず噴き出してしまった。これにアンリエッタは顔を真赤に染めて、ウェールズに抗議の声を上げる。
「ウェールズさま!」
「ははは! いや、ごめんごめん」
「いやですわ、もう……身代わりを頼むことまでして、天幕から抜け出して来たというのに」
「来てくれたことにはホント感謝してるよ、アンリエッタ。しかし、身代わり?」
「ええ。わたくしのお友達、ルイズ。ヴァリエール家の三女です」
「あー……なるほどね」
そいつは大変そうだなぁ。確か、髪も染められてるんだったかね。しみじみと返すウェールズに、アンリエッタはどこか不思議そうに小首を傾げてみせた。
ラグドリアン湖の水位が上がっている。昨夜、村人が告げた言葉だ。
原作では、クロムウェルがガリアの騎士隊と指輪を奪ったのは原作開始二年前のことだったはず。
しかし、村人の話が事実なら、原作三年前たるこの時点で、既に指輪が奪われていることになる。
ウェールズの行った数々の施策の影響から、アルビオンにおける貴族間の対立構造は日増しに深まっている。
どちらか一方の勢力に趨勢が傾くでもなく、派閥の力関係は完全に拮抗していた。
故に、現体制に不満を抱く者たちを、それと見分けて渡りをつけるのも、原作より容易になっているだろう。
最近、いやに状況が早く流れているように感じたのも、既にクロムウェルが動いていると考えれば説明がつく。
少し落ち込まないでもなかったが、まあ、ジワジワと気付かないところで浸食されて行った原作よりも、多少はマシな状況と言えないこともない。
そんな風に、村人から話を聞き終えたウェールズは、一人湖の岸辺に立って、つらつらと思考を巡らせていた。
ともあれ、これでウェールズが湖畔で確認しておきたかったことは、すべて確認し終えてしまった。本来ならこのまま引き返してもよかったのだが……ああも熱心に頼み込まれた願いを無視するのは、さすがに寝覚めが悪かった。
ふぅ、いったいどうやって水の精霊と接触を図ったものやら。ウェールズが腕を組んで唸ったところで、不意に背後から響く、呼びかけの声。
『こんばんは、ウェールズさま』
『って、トリステインのアンリエッタ王女!?』
『ええ、アンリエッタですわ』
あまりに唐突なアンリエッタの登場である。ウェールズが思わず仰天して叫んでしまったのも、無理ないことだろう。
しかし、転んでもただでは済まさないのがウェールズ。かなり間の抜けた叫び声を上げた後で、動揺から立ち返るや、ウェールズはこの状況が思ったよりも悪くないことに気付く。
『アンリエッタ。もしかして、君って水の精霊と対話とかできたりするかい?』
『ええ。トリステイン王室は水の精霊と盟約を結んでおりますから。でも、それがどうかしまして?』
返された答えに、ウェールズは小躍りしたくなるのを抑えながら、これ幸いとばかりにアンリエッタに対して協力を求めて行った。最初はこちらのあまりの食いつき具合に困惑していたようだが、ウェールズが事情を説明すると、彼女も快く交渉役を引き受けてくれた。
その後、話し合いを行った結果、詳しい探索は明日行うことになり、その日は別れた。
そして今夜、二人の逢瀬とは名ばかりの、水の精霊探しが始まった訳だ。
「それにしても、昨夜はウェールズさまがこんな場所にいるとは思いませんでしたわ」
「んー……まあ、昨日の夜、父王と到着したばかりだったからね。一度、ラグドリアン湖畔を目にしておきたかったんだよ」
出会い頭がアレだったせいか、原作のような展開にはならなかったが、そーいう場面が苦手なウェールズとしては、内心ほっとしていたりする。
微妙な表情になるウェールズを、アンリエッタが不思議そうに見返してきた。それを誤魔化すように、ウェールズは視線に気付かぬふりをして、先へと歩を進める。
しばらく進むと、どこか他の場所よりも深い色合いの水面を湛えた湖畔に辿り着く。
岸辺に立ったアンリエッタが、手にした護身用のナイフで指先を少し切り裂いた。ついで湖面に向けて突き出した指先から、滴り落ちた血が湖に沈む。
「旧き水の精霊よ、盟約の持ち主の一人が話をしたい」
呼びかけに応えるように、岸辺から30メイルほど離れた地点で、水が盛り上がりを見せた。盛り上がった水はアメーバのように蠢くと、すぐさま人の形を取る。ちょっと怯むウェールズを余所に、アンリエッタがすっと前に出る。
「私はトリステイン王国王女アンリエッタ。水の使い手、旧き盟約の盟主たる家系」
水の塊がアンリエッタの姿を模すと、こちらに向けて微笑んだ。
『覚えている。単なる者よ。貴様の身体、そこに流れる液体を、私は覚えている』
「水の精霊よ、湖の水かさを増やす理由をお教え下さい」
問い掛けに、水の精霊が震えながら形を変える。しばしの沈黙を挟んだ後で、再び声が響く。
『盟約の盟主に敬意を表し、我は行動の理由を話そうと思う』
水の精霊は淡々と語る。
曰く、数えるのもばからしくなるほど月の交錯する時の間、我が守りし秘宝をお前たちの同胞が盗み出した。我が共に時を過ごした秘宝。名をアンドバリの指輪と言う。我が暮らすもっとも濃き水の底から、秘宝が盗まれたのは、月が15ほど交差する前の晩。
『秘宝を持ち去った個体の一人は、クロムウェルと呼ばれていた』
「クロムウェル……」
やはり既に動いているのか、レコン・キスタ。
口の中で小さく呟いたウェールズの言葉に、隣のアンリエッタが視線をこちらに向けた。
「んんっ……なら水の精霊。奪われた指輪を取り戻したら、そのときは水位を上げるのを止めてくれたりするか?」
咳払いして視線を誤魔化しながら、ウェールズは本題に入った。それに水の精霊はあっさりと答えを返す。
『指輪が戻るなら、水かさを増やす必要もない。しかし、お前たちに任せる理由がない』
「どうにかお願いできないか? ただ水位を上げるよりも、早く秘宝が戻る方法だと思うんだが、水の精霊」
『時間の流れは我等に無意味なものだ。故に、理由足り得ない』
さらば。そう告げると、そのまま身を翻そうとする水の精霊。
って、あっ、ちょっ、そう来るかっ!? ずぶずぶと湖面に沈み行く相手に向けて、ウェールズは咄嗟に手を伸ばす。
「ちょ、ちょーっと待ったぁっ!!」
『なんだ?』
湖に戻ろうとしていた水の精霊の動きがピタリと止まり、こちらを振り返った。じっとこちらを見据える、まるで表情の変わらない水の精霊を前に、ウェールズは言葉に詰まる。
「えー……あー……うん、そのだな……」
呼び止めておいてアレだが、言葉が続かない。どう説得したものか。考えてみれば、自分が水の精霊に信頼されるような要素は何もない。まずい。根本的に接触を早まったか?
ダラダラと額に冷や汗を浮かべながら、ウェールズは必死に思考を回転させる。しかし何も言葉が浮かばない。ただただ時間だけが過ぎていく。
どうにもこうにも進退窮まったところで、不意に隣のアンリエッタが口を開く。
「水の精霊、わたくしからもお願いします。我等の契約はこのような事態に対応する為に結ばれたもののはず。わたくし達を信じてくれませんか?」
アンリエッタの言葉に、初めて水の精霊が考え込むように動きを止めた。
水の精霊の迷いを示すように、ゆらゆらと人を形取る水の表面が揺らぐ。
しばしの沈黙を挟み、ようやくその動きが止まる。
『……わかった。盟約の盟主たる血脈に敬意を表し、お前たちを信用しよう』
「感謝しますわ、水の精霊」
『期限はそちらの寿命がつきるまでで構わん。水位を上げるのも止めよう。指輪の奪還、期待する』
こうして、ウェールズが口を挟む間もなく、あっさりと交渉は成立した。成立してしまった。
水の精霊と橋渡しをしたのがアンリエッタなら、交渉を取り付けたのもアンリエッタである。
何と言うか、ウェールズ、いいとこなしだった。
「ううっ……私が居た意味ってあったのかなぁ……」
「もうウェールズさま、そんなに落ち込まないで元気を出して」
どんよりと落ち込むウェールズに向けて、アンリエッタが懸命に慰めの言葉を掛ける。
「もともとトリステインの問題ですもの。ウェールズさまがそこまで気に病む必要はありませんわ」
何処までもウェールズを気遣うアンリエッタの発言に、なんだか泣けてきた。
「ん……まあ、そうだな。そうだよな。事態が解決する目処は立ったんだ。いつまでも落ち込んでても仕方ないよな」
「ええ、そうですわ」
とりあえず、これ以上この件を引きずっても意味はない。
ウェールズはすっぱり気分を切り換えて、改めて状況を振り返る。
水の精霊の言質を得たことで、アルビオンの状況にクロムウェルが関与していることは明白になった。今後はこれまで以上に、レコン・キスタを意識した行動が必要になるだろう。
これまでもアルビオンで色々な対策を進めてきたが、ここはトリステイン。今ここでしかできないこともある。水の精霊の件がなければ、確か自分はどう動こうと思っていたか?
そこまで考えたところで、目の前にいま、トリステインの王女が居る事実を思い出す。
正面からじっと視線を向けるウェールズに、アンリエッタがどこか恥ずかしそうに身をよじる。
「あの、ウェールズさま、どうかしました?」
「いや……その、かなり気が引けるんだけど、アンリエッタ。最後にもう一つだけ頼みたいことがあるんだけど、ちょっといいかな?」
「ええ、もちろん」
いったいなんでしょうと首を傾げるアンリエッタに、ウェールズはおずおずと次のような言葉を告げる。
「一度、マザリーニ枢機卿と話をする機会をつくって欲しいんだ」
* * *
トリステインに常駐する枢機卿は、かつてロマリアの教皇庁において、次期教皇確実とまで言われていた程の人物だ。
今では宗教上の権力闘争に嫌気がさして、宗教人としての一線は引いていたが、政治家としてはいまだ第一線で活躍する身でもある。
市井の間では王になり代わる鳥の骨と陰口を叩かれるなど、いまいち民衆の人気はなかったりする。しかし、為政者に対して批判の声が上がるのも、すべては国が健全に動いている証拠に他ならないと素知らぬ顔で反論を返すなど、政局のみならず、さまざまな場面において、彼に関する逸話は尽きない。
そんなトリステインの実質的な宰相たる枢機卿──マザリーニの天幕に、今日は予期せぬ客が訪れた。
「さて、いったいどのような用件がお有りになるのかな?」
「失礼します、マザリーニ枢機卿」
一礼して天幕に足を踏み入れたのは、金髪の凛々しい青年──アルビオンの若き皇太子、ウェールズだ。
トリステインにも、彼がアルビオンで行った大胆な事業の成果は届いている。
マザリーニにしてみれば、いささか強引さの目立つ施策も目に付いたが、それも若さ故の性急さから来るものか。いずれ老獪さを身につければ、なかなか悪くない為政者になるだろう。伝え聞く噂から、マザリーニはウェールズに対して、そんな評価を下していた。
いまだ若々しい、アルビオンの次代を担う存在を前にして、ふと、王に対する喪に伏したまま、かたくなに即位を拒む太后の姿が脳裏に浮かぶ。
「マザリーニ枢機卿、どうかしましたか?」
「……いえ、なんでもありません」
いかんいかん。今は客人に対応するのが先だろう。マザリーニは被りを振って思考を切り換え、早速本題を尋ねる。
「アンリエッタ様から、殿下が来ることは聞いていましたが、何か宴の席で問題でもありましたかな?」
「いえ、宴に関しては何もありません」
「宴に関しては……ですか」
ふむ。では宴以外のことで、何か問題になるようなことがあっただろうか。
「実は、ラグドリアン湖畔に住まう先住について、少しお話をしたいことがあります」
「水の精霊に関して、ですか?」
予想外の所から切り返しが来た。そんなこちらの思いが顔に出ていたのだろう。ウェールズが顔を頷かせる。
「やはり、何の報告も受けていなかったようですね」
どこか深刻そうな相手の様子を見るに、どうもこれは只事ではないようだ。マザリーニは気を引き締めて、改めてこの話しに望む。
「ふむ。いまだ皆目見当着きませぬが、ひとまず話をお聞かせ願いたい」
「わかりました。実は……」
こうして、ウェールズは語り始める。
曰く、ラグドリアン湖畔の水位が上昇しつつあった。この件に関して周辺に住む村人から相談を受けたウェールズは、たまたま外を歩いていたアンリエッタと合流、水の精霊と対話の機会を持つに至った。幸いにも、何者かに奪われた水の精霊の秘宝をいずれ奪い返すことを条件に、ひとまず水かさを増すのを止めてもらうよう交渉をまとめることができた。だが、
「あのまま事態が放置されていれば、近隣の村が湖に飲まれるのも時間の問題だったでしょうね」
「…………むぅ」
何とも頭の痛いことだった。土地を治める貴族によって、地方の行政方針も多様に変化する。中央の権力は絶対ではない。それはわかっているつもりだったが、よもやここまで状況が酷いとは。
マザリーニは地方と中央の間に存在する、統治者の意識格差に唸った。
「ご報告、感謝します。ウェールズ殿下」
「いえ、こちらも貴国の領内で勝手に動いてしまった。礼を言われるのは恐縮です」
「とんでもない。助かりましたよ」
それを言うなら、むしろ一人天幕を抜け出していたアンリエッタの方が問題だろう。まったくどうしたものか、あの姫様にも。
「しかし、クロムウェル……ですか」
頭の中を探るが、そのような名前の貴族はトリステインには存在しない。他国の者が潜入したということだろうか? だがそもそも秘宝が狙いだったとして、なぜラグドリアン湖畔にそんなものがあるとわかったのだろう?
思考を巡らせるマザリーニに向けて、不意にウェールズが呟いた。
「盗まれた指輪は、果たして何に使われるのでしょうね」
「? まあ、確かに気にはなりますな」
もっともな疑問だったが、はたしてわざわざ言うようなことだろうか。
「実はアルビオンの東部で囁かれる、こんな噂があります」
───虚無が現れたと。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「我々も人を遣って確認してみましたが、ことの真偽は掴めませんでした。しかし、聞き込みを行った者の話から、噂の人物に関して、一つの特徴がわかっています」
混乱するこちらの思考が追い付くのを待つように、僅かな間を開けると、ついでウェールズは話の核心を告げる。
「なんでも噂の中心にいる人物は、虚無と称した力を行使する際、常に、その指に古めかしいつくりをした指輪を嵌めていたそうです」
「!? なんと……では、その噂の人物が、今回の件と関わっていると……?」
「断言はできませんが、その可能性は十分考えられるかと。しかも困ったことに、最近、この噂を中心にして、アルビオン国内をいささか不穏な空気が漂っていましてね」
「不穏な空気……?」
眉を潜めるマザリーニに、ウェールズはしかりと頷き返す。
「我々としては、噂の中心に立つ者が、特異な能力を備えたマジックアイテムの力を虚無と称し、アルビオンに対して何らかの工作活動を仕掛けていると考えています」
ガツンと頭を殴りつけられたような衝撃が意識に走った。
「また、このマジックアイテムがラグドリアン湖畔に住まう水の精霊のものであるならば、ことはアルビオンだけに収まらない。秘密裏に、国家間を跨いだ行動を可能にするだけの力を持った組織が、噂の中心人物の背後に立っている可能性が強いでしょうね」
そこで、ウェールズは一端言葉を切った。
いったい何を考えている、この相手は……? 動揺から立ち返ったマザリーニは、あえてそんな話をこの場で持ち出した、相手の意図に思考を巡らせる。
トリステインのラグドリアン湖畔。奪われた水の精霊の秘宝。アルビオンで蠢く不穏な影。背後に潜む力ある組織の存在。
そこまで考えたところで、最悪の仮定を、一つ思い付く。マザリーニは視線も鋭く相手を睨み据えた。
「……よもやウェールズ殿下、我が国をお疑いか?」
「いえ、今回の件とトリステインは何の関係もないと、我々も考えています」
少なくとも、マザリーニ枢機卿は関与していないでしょうね。
ある意味、痛烈な皮肉ともとれる言葉に、マザリーニは苦い顔になる。
「ただハルケギニアの何処かに、この絵図を描いた何者かがいると、疑っているだけです」
「それにしては、随分と具体的なイメージを抱いているように感じられましたが?」
「とんでもない。我々としても、いまだ情報を収集している段階に過ぎませんよ」
大げさな仕種で否定を返すウェールズに、マザリーニは疑念の視線を向ける。それもどこまで信じられたものか。自然、言葉も刺々しいものが出る。
「ふん。背後関係を洗うよりも、まずは噂の中心人物に対処する方が先決と思いますがな」
「我々としても、一度、国内の引き締めを行う必要性は認めています。しかし、このまま耳目を塞いだまま踊らされるのは、我が国にとっても、貴国にとっても、いささか面白くない事態だとは思いませんか?」
「む……」
確かに、それはそうだろうが……ん? 待てよ。
アルビオンにとっても、トリステインにとっても面白くない事態と、いま、そう言ったか。
マザリーニは顎先を一度撫でると、ウェールズの顔を改めて見据える。視線に応じるアルビオンの皇太子の瞳で、どこか悪戯を仕掛けた悪童じみた光が瞬いた。
「なるほど、そういうことですか」
「ええ、マザリーニ枢機卿。そういうことです」
先程の発言は、アルビオンにおける状況の改善が、トリステインにとっての利にも繋がる可能性を示唆する言葉だ。ならば、相手がこのあと切り出すだろう提案も、容易に察しがつくというものだ。
これまでの話の流れにようやく得心行ったと頷くマザリーニに、ウェールズもまたニヤリと笑みを返す。
「ラグドリアン湖畔の件を考えるに、トリステインとしても相手に関する情報は掴んでおきたいところでしょう。そこで、一つ提案です。我々が国内を引き締める過程で、相手に関する何らかの情報を掴んだ際は、貴国にもその情報を伝える用意があります」
「して、その条件は?」
「代わりと言ってはなんですが、しばしトリステインには事態の静観を要請したい」
「ふむ………まあ、そんなところでしょうな」
つまり、ウェールズとしても最初からトリステインの関与を疑っていた訳ではない。今回の事態の裏に何者かの意図が存在する以上、国内問題の早急な解決を図る必要がある。故に、アルビオンが国内を引き締めている間、トリステインには下手な動きを見せないよう、何らかの約束を取り付けておきたい。そういうことか。
(さて……どうしたものか)
このウェールズの申し出を受けたところで、こちらが要する労力は何も存在しない。
ただ事態の静観を約束することで、秘宝を奪ったと思しき勢力に関する情報をアルビオンから受け取ることが可能となる。
トリステインにとっては、そう悪くないどころか、かなり破格な条件ともいえる。それだけアルビオンの情勢が切迫しているということか。それとも他に何らかの意図が隠されているのか。現時点の判断材料では、そこまで掴むことは難しい。
ならば、今はこの辺が限界か。
マザリーニは顔を上げると、ウェールズと視線を合わせる。、
「いいでしょう。しばしの間……そうですな、少なくとも1〜2年の間は、貴国が多少騒がしくなったとしても、こちらは特に動かず、事態の静観に努めるとしましょう。確約まではできませんが、無論、それでよろしいですな?」
「もちろん。感謝します、マザリーニ枢機卿」
所詮口約束に過ぎなかったが、それでも密約を交わすことにもそれなりの意義はある。
トリステインとしては、事前にアルビオンの不安定な情勢を知れただけでもかなり得るものは大きかった。今後の情勢がどう転ぶか次第になるが、いずれアルビオン王政府の中心に座すことになる人物に、単なる口約束で恩を売れるなら悪くない。
アルビオンとしては、水の精霊から秘宝を奪った者の存在に関して、自分たちが既に何らかの情報を掴んでいることをチラつかせることで、ある程度こちらの動きを制限できれば幸いといったところか。
また噂の中心人物の背後に立つ、何らかの組織の存在に関して言えば、正直、マザリーニは話半分に聞いていた。おそらくは、トリステインの行動を牽制するために、かなり誇張された話だろうと。
しかし、万が一の場合に備えるのが政治家の仕事でもある。
奪われた水の精霊の秘宝に、不穏な動きを見せるアルビオン国内、囁かれ始めた虚無の噂。そのような大掛かりな謀を考え、実行に移す者が現実に居るとは思えない。思えないのだが……わが国も多少、国内の動向に注意を向ける必要があるかもしれない。
そこまで考えたところで、ふと一つの可能性に気付く。
ひょっとすると今回の会談は、トリステインに警戒を促す意図もあったのかもしれない。
なかなか喰えない相手だ。
目の前で微笑む皇太子を、最初と違った意味合いの視線で見据えながら、マザリーニは最後の確認を口に出す。
「ちなみにウェールズ殿下。騒動が収まった折に、貴国で水の精霊が求めるマジックアイテムが回収された場合は、ぜひお知らせ願いたい」
「ええ、それはもちろん」
朗らかに言葉を返すが、答えるまでに僅かな間があったことをマザリーニは見逃さなかった。
もしこちらがその点を指摘しなければ、どうするつもりだったのか。思わず尋ねたい衝動に駆られるが、とりあえず自制する。
ともあれ、トリステインにとってもそう悪くない話にまとまった。
アルビオンが国内を引き締めた後、水の精霊の指輪がトリステインに取り戻されたならば、水の精霊の怒りも収まり、王家と水の精霊の間に結ばれた盟約も果たされることになる。
「なかなか有意義な時間でしたな」
「そう言って頂けたなら、私としても光栄ですね」
内心では互いに、この野郎、と思っているが、もちろん口には出さない。
腹の底で考えていることをまったく面に出すことなく、二人は朗らかに握手を交わし合った。
* * *
マザリーニとの会談を終えたウェールズは、一人天幕を抜けて湖の前に立っていた。
やはりマザリーニ枢機卿はなかなかに侮りがたい相手だった。水の精霊の件を手土産に持って行ったことで、こちらが会話の主導権を握ることはできた。しかし、それも危ういバランスのもとに成り立っていたように思える。
下手すると、アルビオンに対して無用な警戒心を抱かせてしまったかもしれない。
(まあ、そこまで心配する必要もないだろうけどさ)
常にゲルマニアと緊張状態にあるのがトリステインだ。たとえ何の約束も取り付けなかったところで、この国はもともと滅多なことでは動けない状況にある。
今回の会談の目的は、マザリーニ枢機卿に会って、多少なりともトリステインに国内動向の警戒を促せた時点で、果たされていると言っていい。
(……しかし、トリステインもけっこう厄介な問題抱えてるよなぁ……)
トリステインの地方統治に関する脆弱性と、アルビオンに巣くう不穏分子の影。
前者の問題は統治者の意識そのものに訴える必要があり、改革にもかなりの時間を要する。しかし、対処を2〜3誤ったところで、体制そのものが崩壊するような危険は低い。
後者の問題は軍事的な措置を取ることに成功すれば、短期間であらゆる方向に改革の鉈を振るうことができる。しかし、この問題で対処を誤ることは、即、体制の崩壊に繋がり、危険性も高い。
どちらも、ひどく対処の難しい問題だった。
しかも、トリステインに関していえば、人材の欠乏がかなり深刻なレベルにある。極端な話し、トリステインは実質マザリーニ枢機卿一人の手で切り盛りされているようなものだ。
仮にアルビオンでウェールズがいなくなるようなことがあったとしても、王族という冠を抜かせば、代わりを担えるような人材は見つかるだろう。
しかし、トリステインにおいては、マザリーニの代わりになれるような人材は何処にも存在しない。彼が死ぬようようなことがあれば、トリステインはかなりの混乱に陥るはずだ。
(まあ、どこも厄介な問題抱えてるのに変わりはないってことかね……)
ぼーっと特に考えるでもなく、つらつらと思考を巡らせるウェールズ。
ふと、背後に人の立つ気配を感じた。ウェールズは振り返ることなく、そのまま口を開く。
「アンリエッタか」
「ええ、ウェールズさま」
「今日はありがとうな。アンリエッタのおかげで、マザリーニ枢機卿にお会いすることができたよ」
「いえ、わたくしはなにも。ウェールズさまと会う判断をしたのは、マザリーニですから」
アンリエッタはそれ以上何を言うでもなく、ただウェールズの隣に立った。しばしの沈黙を挟み、彼女は問い掛ける。
「ウェールズさまは……水の精霊が告げたクロムウェルという名の人物について、なにか心当たりがありますの?」
「ん……どうしてそう思うんだ?」
「水の精霊がその名を告げた瞬間、ウェールズさまが、何事かつぶやくのを耳にしました」
「そっか。そうだな……どう、話したものか」
政治の実権を握ってるのが枢機卿とはいっても、いずれアンリエッタ自身の耳に入ることもあるだろう。しばし悩んだ後で、ある程度までは話すのも仕方ないと、ウェールズは質問に答えることにした。
「まず一つ。年内、アルビオンが少し騒がしいことになるかもしれない」
「? それはいったい……?」
「アルビオンで、一部の貴族が反乱を起こす可能性があるってことだよ」
ウェールズが苦笑を刻みながら告げた言葉に、アンリエッタが目を見開く。
「下手を打てばアルビオンそのものが騒乱の渦に叩き込まれることになるかもしれない。しかし、こちらも裏で動いている組織の正体は、既に掴んでいる。その組織の盟主の名が───クロムウェルというらしい」
「そ、そこまで既にわかっているなら、事前に防ぐことも可能なのではありませんの?」
「んー……まあ、そこが難しいところでな」
腕を組んで唸ると、ウェールズは大きく嘆息をついた。
「あくまで今の私は皇太子であって、王ではないんだよ。だから明確な証拠もなしに、そこまでの強権を発動するような力はないのさ」
それに、と言葉を区切ると、ウェールズは僅かに声を潜めながら付け足す。
「……対症療法では何の意味もないしな」
ボソリと漏らされた言葉に、アンリエッタが首を傾げる。
「? それはいったい?」
「あー……何と言ったものか……」
王家を打倒できる。そう思わせるアルビオンの空気そのものを一度変えてやる必要があった。
仮に反乱の発生を事前に妨害できたとしても、それで不穏分子がすべて消え去る訳でもない。
いずれより大規模な反乱が起こるだけだろう。それでは何の意味もない。
対ガリアを考えた場合、可能な限り後顧の憂いは取り除いて置かなければならない。
しかし、こんなことを彼女に告げたところで、何の意味もない。結局、戦争が起きることに変わりない。
「まだまだ力が足りない……それを思い知らされてるってところかね」
ため息を交えながら、ウェールズはそう言葉を締めくくった。
アンリエッタは自分と年の近い従兄妹の置かれた難しい状況を必死に想像するが、何もかけるべき言葉を思い付けなかった。ただ沈黙が続くことを畏れ、彼の名前を呼ぶ。
「ウェールズさま……わたくしは……」
「ああ、そんな心配する必要はないって。こっちもそう簡単にやられるつもりはない。きっとまた再会できるさ」
さばさばとした口調で、ウェールズはアンリエッタに笑いかける。
「んじゃ、そろそろ行くよ」
またな、アンリエッタ。
ラグドリアン湖の岸辺。流れる一陣の風が湖面を揺らす。
アンリエッタは去りゆくウェールズの背中を、いつまでも見送っていた。
そして、これより半年後、アルビオンにおいて、内乱勃発の報がアンリエッタの下に届く。
アルビオンを真っ二つに割る騒乱の始まりは、北東部と中央の領境に位置する、レスター砦に仕掛けられた奇襲により告げられた。
蜂起の参加者には東部・北部周辺を地盤とする大貴族が多数名を連ねていた。反乱軍を率いる盟主クロムウェルは、自らを始祖の意志を継ぐものと称すと、堕落した王家に変わり、聖地奪還を目指すことを大義に掲げ上げた。
中央や南部周辺を地盤とする貴族達は、彼らの蜂起に憤激しながら、その宣言を鼻で笑い飛ばす。バカを言うな。お前らが反乱を起こした理由は、単に既得権益を侵されたことから来る私怨に過ぎないだろうと。
この物言いに、反乱軍に参加した貴族たちはしたり顔で言葉を返す。アルビオンの王位はそもそも始祖により預けられたものに過ぎない。我等が盟主クロムウェルは虚無を使役する。これは現在のアルビオン王家が始祖の天意より見限られた証拠に他ならないと。
そこに虚無の存在を本心から信じるものなど存在しない。ただ決起するに足るだけの大義を必要とした現体制に不満を抱く貴族たちと、王軍に抗するに足る力をもった後ろ楯を求めたクロムウェルとの間で、利害関係の一致が成立したに過ぎなかった。
しかし、掲げられた偽りの大義に対して、反乱に参加する貴族たちの間に、いつしか熱烈な信望を捧げる者たちが現れ始めた。気付けば彼等は反乱軍そのものを飲み込むまでの勢力に達し、本来ならばお飾りの頭に過ぎなかった盟主に対して、病的なまでの狂信さをもって忠誠を捧げて行くことになる。
彼等は自らの組織を称し、次のような名乗りを上げる。
曰く、我等は聖地奪還の名の下に結ばれた貴族の連合───
すなわち、レコン・キスタと。
原作開始時期まで───あと二年。
- 2007/07/21(土) 00:00:05|
- ジャンク作品
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