「創氏改名」とは、大日本帝国において、朝鮮併合後に行われた政策のひとつ。朝鮮総督府が実施したもので、「創氏」は強制、「改名」は任意でした。歴史教科書などでは皇民化政策の一つとして「朝鮮人から朝鮮名を奪い、日本人の名前を名乗るよう強制した」と記述されていますが、最近の研究では、必ずしもそうではなく、朝鮮人から、日本人名を名乗りたいという要望があったために実施されたという説もあるそうです。
実は、大変誤解しやすいのが“「創氏」は強制”というところです。これは一体どういうことなのか、そこには日本と朝鮮との間にある「名前」の常識の違いがあるということが、わかってきました。
日本と韓国の代表的なサッカー選手の名前を例に、みてみましょう。
中田 英寿(ナカタ・ヒデトシ)
安 貞桓(アン・ジョンファン)
この場合、二人の「名字」はそれぞれ中田、安で、名前は「英寿」「貞桓」になりますね。
ところで、日本語では名字と名前のことをセットで「氏名」とか「姓名」といいます。名字=「氏」または「姓」というわけです。ところが、実はもともと「氏」と「姓」は別々のものだったのです。日本人の名字として現在使われているのは「氏」ですが、韓国人の「名字」は「姓」なのです。
氏というのは、英語でいうとファミリーネームです。これに対して姓というのは氏よりワンランク上の、氏族という血縁集団をあらわすもので、英語ではクランといいます。
姓と氏を厳密に区別して上記の二人の名前を記述すると、次のようになります。
姓 氏 名
中田 英寿 (ナカタ・ヒデトシ)
安 貞桓 (アン・ジョンファン)
これを見てもらうとおわかりの通り、日本人の名前には「姓」がなく、韓国人の名前には「氏」がありません。
実はもともと、日本人の名前には「姓」がありました。氏族集団をあらわすもので、「蘇我」「源」などがこれにあたります。代表的な姓は「藤原」「橘」「源」「平」です。これは、皇族が臣下に下るときに天皇から与えられたもの。姓のあとに「の」を入れて読むという決まりがあります。例えば「蘇我馬子」なら「そがのうまこ」、源頼朝なら「みなもとのよりとも」というように、「の」を入れて読むのが、氏族集団をあらわす「姓」です。ここから、同じ姓の親族がとっても増えたために、区別する目的で名字(氏)が作られました。おなじみの戦国大名は、姓と氏の両方を持っています。例えば有名なこの三人は・・・
姓
平 織田 信長 (たいらの・のぶなが/おだ・のぶなが)
源 徳川 家康 (みなもとの・いえやす/とくがわ・いえやす)
豊臣 羽柴 秀吉 (とよとみの・ひでよし/はしば・ひでよし)
私たちにもおなじみの名前ですが、実は戦国時代には「織田信長」というふうには名乗らなかったんですよ。公式文書には「平 信長」と署名されているものもあります。ただし、信長の「平」と徳川の「源」はどちらも、自称の姓だといわれています。源氏か平氏でなければ、征夷大将軍にはなれないという不文律があったので、自分に都合よく、姓を名乗っていたわけです。一方秀吉の「豊臣」は秀吉が関白となるにあたって天皇から与えられた、ほんまもんの「姓」です。
これらの「姓」は、明治維新とともに制度が改正されてなくなり、日本人の名前は名字(氏)プラス名前に統一されました。
一方の韓国では「姓」があって「氏」がありません。韓国では最近まで、同姓で出身地が同じ人(本貫という)とは結婚できないという決まりがありました。そこで、姓はそのままにして新たに「氏」を創るという「創氏」が行われたということです。「創氏」として届け出た人には、姓とは別に朝鮮風、または日本風の名字を設定し、届け出のなかった人には従来の姓を名字として採用しました。「改名」が任意であったのは、名字を日本風にした際、下の名前も日本風にしたいという場合には、任意で改名できるというもので、そのため改名には手数料を取られました。「創氏改名」によって、戸籍には氏名が書き記されましたが、朝鮮戸籍には従来の「姓」を記載する「本貫欄」があったそうです。ですから、朝鮮名である姓を奪ったという表現は、正確ではないでしょう。
「創氏改名」をなぜ行ったか、それは「朝鮮人からの要望があった」「朝鮮民族の家族制度を破壊するのが目的だった」などいろいろな説がありますが、「姓名」「氏名」という別々の名前をもつ民族を統一して統治するため、戸籍制度上の手続きとして実施された政策だったということが、まず前提となるのではないかと思います。
「創氏改名」を強制されたというのは、半分は史実で半分はそうとはいえない、ということになります。「創氏」は強制であって、姓とは別の氏をつけるのが、あるいは姓と同じ氏を名乗るのか、いずれにしても届け出を必要としていましたので、当時の官庁から「創氏」をするよう手続きを勧められたのは、当然といえなくもないでしょう。しかし、日本風の氏をつけることを強制されたわけではなく、その意味で「朝鮮名を奪われた」とは言い過ぎだと思います。
「創氏改名」の手続きをしなかった場合は、姓と同じ名前が氏として登録されるので、日本風の名前に改めなくても問題はありませんでした。朝鮮人で、帝国陸軍中将だった洪思翊(こう・しよく/ホン・サイク)は、朝鮮名を改めなかった人の一人です。
ただ、「創氏改名」が制度上での差別というか区別をなくすのが目的で、朝鮮名でも制度上問題がなかったとしても、実際には朝鮮人に対する差別があったことは、忘れてはならないでしょう。
実は、大変誤解しやすいのが“「創氏」は強制”というところです。これは一体どういうことなのか、そこには日本と朝鮮との間にある「名前」の常識の違いがあるということが、わかってきました。
日本と韓国の代表的なサッカー選手の名前を例に、みてみましょう。
中田 英寿(ナカタ・ヒデトシ)
安 貞桓(アン・ジョンファン)
この場合、二人の「名字」はそれぞれ中田、安で、名前は「英寿」「貞桓」になりますね。
ところで、日本語では名字と名前のことをセットで「氏名」とか「姓名」といいます。名字=「氏」または「姓」というわけです。ところが、実はもともと「氏」と「姓」は別々のものだったのです。日本人の名字として現在使われているのは「氏」ですが、韓国人の「名字」は「姓」なのです。
氏というのは、英語でいうとファミリーネームです。これに対して姓というのは氏よりワンランク上の、氏族という血縁集団をあらわすもので、英語ではクランといいます。
姓と氏を厳密に区別して上記の二人の名前を記述すると、次のようになります。
姓 氏 名
中田 英寿 (ナカタ・ヒデトシ)
安 貞桓 (アン・ジョンファン)
これを見てもらうとおわかりの通り、日本人の名前には「姓」がなく、韓国人の名前には「氏」がありません。
実はもともと、日本人の名前には「姓」がありました。氏族集団をあらわすもので、「蘇我」「源」などがこれにあたります。代表的な姓は「藤原」「橘」「源」「平」です。これは、皇族が臣下に下るときに天皇から与えられたもの。姓のあとに「の」を入れて読むという決まりがあります。例えば「蘇我馬子」なら「そがのうまこ」、源頼朝なら「みなもとのよりとも」というように、「の」を入れて読むのが、氏族集団をあらわす「姓」です。ここから、同じ姓の親族がとっても増えたために、区別する目的で名字(氏)が作られました。おなじみの戦国大名は、姓と氏の両方を持っています。例えば有名なこの三人は・・・
姓
平 織田 信長 (たいらの・のぶなが/おだ・のぶなが)
源 徳川 家康 (みなもとの・いえやす/とくがわ・いえやす)
豊臣 羽柴 秀吉 (とよとみの・ひでよし/はしば・ひでよし)
私たちにもおなじみの名前ですが、実は戦国時代には「織田信長」というふうには名乗らなかったんですよ。公式文書には「平 信長」と署名されているものもあります。ただし、信長の「平」と徳川の「源」はどちらも、自称の姓だといわれています。源氏か平氏でなければ、征夷大将軍にはなれないという不文律があったので、自分に都合よく、姓を名乗っていたわけです。一方秀吉の「豊臣」は秀吉が関白となるにあたって天皇から与えられた、ほんまもんの「姓」です。
これらの「姓」は、明治維新とともに制度が改正されてなくなり、日本人の名前は名字(氏)プラス名前に統一されました。
一方の韓国では「姓」があって「氏」がありません。韓国では最近まで、同姓で出身地が同じ人(本貫という)とは結婚できないという決まりがありました。そこで、姓はそのままにして新たに「氏」を創るという「創氏」が行われたということです。「創氏」として届け出た人には、姓とは別に朝鮮風、または日本風の名字を設定し、届け出のなかった人には従来の姓を名字として採用しました。「改名」が任意であったのは、名字を日本風にした際、下の名前も日本風にしたいという場合には、任意で改名できるというもので、そのため改名には手数料を取られました。「創氏改名」によって、戸籍には氏名が書き記されましたが、朝鮮戸籍には従来の「姓」を記載する「本貫欄」があったそうです。ですから、朝鮮名である姓を奪ったという表現は、正確ではないでしょう。
「創氏改名」をなぜ行ったか、それは「朝鮮人からの要望があった」「朝鮮民族の家族制度を破壊するのが目的だった」などいろいろな説がありますが、「姓名」「氏名」という別々の名前をもつ民族を統一して統治するため、戸籍制度上の手続きとして実施された政策だったということが、まず前提となるのではないかと思います。
「創氏改名」を強制されたというのは、半分は史実で半分はそうとはいえない、ということになります。「創氏」は強制であって、姓とは別の氏をつけるのが、あるいは姓と同じ氏を名乗るのか、いずれにしても届け出を必要としていましたので、当時の官庁から「創氏」をするよう手続きを勧められたのは、当然といえなくもないでしょう。しかし、日本風の氏をつけることを強制されたわけではなく、その意味で「朝鮮名を奪われた」とは言い過ぎだと思います。
「創氏改名」の手続きをしなかった場合は、姓と同じ名前が氏として登録されるので、日本風の名前に改めなくても問題はありませんでした。朝鮮人で、帝国陸軍中将だった洪思翊(こう・しよく/ホン・サイク)は、朝鮮名を改めなかった人の一人です。
ただ、「創氏改名」が制度上での差別というか区別をなくすのが目的で、朝鮮名でも制度上問題がなかったとしても、実際には朝鮮人に対する差別があったことは、忘れてはならないでしょう。