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水野 直樹 さん
プロフィール
1950年京都市生まれ。京都大学文学研究科卒業。現在、京都大学人文科学研究所教授。朝鮮近代史、東アジア関係史を研究。(財)世界人権問題研究センター客員研究員。
編著書に『「アリランの歌」覚書』(共編、岩波書店)、『論集 朝鮮近現代史』(共編、明石書店)など。 |
(京都大学人文科学研究所教授)
「日本の植民地支配をふりかえる」
2004年11月19日
第3回 多民族共生人権啓発セミナー |
私たちは21世紀の初めに生きているわけですが、現在の時点で歴史、特に前世紀の歴史を振り返って考えることが必要だと思います。それは、現在の世界情勢、我々が生きている東アジアの未来というものを考える時に、朝鮮半島、それから中国などとの関係がますます重要になってきているからです。
最近、自由貿易協定(FTA)交渉の一環としてフィリピンやタイなどから外国人労働者を導入して日本で不足している分野の労働に従事してもらおうという問題が盛んに議論されています。日本の社会には、産業を支える労働者として現在でも80万人あまりの外国人労働者がいます。しかし、それらの人達は、日本に入ってくる時は労働を目的として来ているのではないのです。半分くらいの人は日系人あるいはその子ども達と言われています。彼らの主な出身国はブラジルです。これは、日本社会と歴史的な繋がりがあるという理由で日系人、その子どもの入国が特例として認められているからです。単純に労働に従事するために入国しようとする外国人を認めないというのが日本政府の原則でした。しかしながら、人手が足りないので日本の国内だけでは賄いきれません。そのため、歴史的経緯があるからという別の理由づけをして、日系人などの入国を認めてきたというのがこれまでの日本のあり方でした。それが、自由貿易協定においては、最初から労働をするために日本に入国してもらうことになるわけです。
日本社会は外国人労働者を受け入れる社会に変わらざるを得ない時代を迎えています。これから私たちは、そこから派生するさまざまな問題に直面するようになるでしょう。その時、私たちは目の前の問題をどのように考えるのかということを、いろいろな側面から検討することが必要だと思います。
20世紀前半日本の「国際化」
20世紀前半、日本は近隣諸国を支配するという形で国際化していました。外国を支配する形での国際化とは、日本を含む東アジアの地域内で、お金も人も物も移動していたということです。多くの日本企業が植民地である朝鮮半島や台湾に進出しました。当時、朝鮮半島にあった会社の90%は日本人の経営する会社で、住民である朝鮮人の経営する会社はごくわずかしかありませんでした。物資の国際化の代表は米です。戦前の日本人が食べていた米の何割かは朝鮮半島や台湾で作られたものでした。農作物だけでなく、鉱物資源なども日本に持ち込まれました。情報の国際化は、ほとんどが一方通行で、新聞やラジオなどの媒体を通じて日本から朝鮮半島、台湾の方に流れていました。物や情報だけでなく、人も行き来していました。現在、日本の総人口の1.5%ぐらいが外国人登録をしている人々です。これに対して1945年では、韓国・朝鮮人の数が210万人程度であったと考えられています。これは当時の日本の総人口の約3%であり、現在の外国人の割合よりも高くなります。
このように戦前の日本はさまざまな面で国際化していたといえます。しかしながら、当時の日本人はそれを国際化だとは考えていなかったのです。「外部」の人間であると考える一方で、同じ日本の国民(帝国臣民)だと見なそうとしていました。日本社会、日本人にはそういう歴史的経験があったのです。異なる民族の韓国・朝鮮人や台湾人を日本人はどのように考えていたのか、どのように取り扱っていたのかを振り返り、そこに問題点があればそれを正しく認識しておくことが必要だと考えています。
日本と韓国における歴史認識のギャップ
日本の植民地支配時代の日本と朝鮮との関係について見ておきたいと思います。現在の日本と韓国との間には歴史認識をめぐる大きなギャップがあると言われます。石原都知事が「韓国併合というのは日本が侵略したものではなく、当時の朝鮮人が相談して決めた朝鮮人の総意によるものだ。」と発言して批判を受けました。これと同じような見方が日本社会の中で全体的に広がっています。この10年くらいの間にそういう傾向が強くなっているように思います。これらの見方は一国主義的な歴史認識、あるいは自国中心的な歴史の見方だと言えます。19世紀後半から20世紀前半にかけて、日本は今とは違う国際化の方向を歩んでいました。そうであるなら、日本の歴史を考える際には日本のことだけを見ていたのでは話になりません。他の国、特に近隣諸国との関係をきちんと見ておかなければ日本の歴史も理解できないのです。
韓国での最近の歴史の見方を紹介します。日本では、日本の政治家が変な発言をしたら韓国や中国は国をあげて非難してくる、あるいは間違いがあれば全部日本に押し付けて来ているというイメージがあるのではないでしょうか。しかし、1990年代に入って韓国の事情も相当変わってきています。とりわけ軍事政権の時代が終わって民主化をすすめていく中で、韓国での歴史の見方は大きく変わりつつあります。それを反映しているものとして『韓国近現代史』という教科書があります。これは韓国の高等学校で使われている教科書で、学校で学ぶ選択科目の1つとして昨年から始まりました。
この科目ができたのは、これまで様々な場面で歴史上の事実について日本と韓国で論争があったためでもあります。また近年では、日本の高校生が韓国に修学旅行に行って韓国の高校生達と交流・討論するという機会もつくられてきています。このように交流が深まる中で、より深く勉強しなければならないということから始まったのが1つの理由です。もう1つの理由は、民主化に関わっています。これまで韓国の近現代史は、韓国の政権の正当性に関わるような問題が多いため、あまり詳しく勉強しませんでした。ところが民主化の中で、我々が生きている時代とはどういうものであるのかを知らなければならないという方向に変ってきました。
この『韓国近現代史』教科書について言わなければならないのは、この教科書は日本と同じように検定教科書であるということです。韓国では、これまで教科書は国定でした。現在もほとんどの教科書は国定教科書のままです。ところが昨年から、この近現代史ともう1つの教科書は検定教科書に変わりました。そのため、現在『韓国近現代史』は6種類出ています。その中から学校が選んで使っていいという形になっています。これも歴史の見方が多様化しているということの表れです。最近では韓国の歴史研究者の間でも歴史に対するさまざまな見解が出ています。それも民主化の現れなのです。
もう1つ注目すべき点は、この『韓国近現代史』教科書を見ると、自らを反省する観点が表われているということです。これまでの教科書には、そういう観点がほとんどありませんでした。歴史的な事実をならべて、国の発展を誇るような見方が強かったわけですがこの教科書に表れているのは、自省的な見方であるといえます。
例えば、ベトナム戦争の時に韓国は軍隊を派遣しました。そこで「韓国の軍隊は勇猛果敢に戦い、共産ゲリラを打ち破った」というのがこれまでのとらえ方でした。しかしこの教科書の記述を見ると、ベトナムに軍隊を派遣することによって韓国の軍人の中にもアメリカ軍の枯れ葉剤の被害を受けた兵士がいることや、韓国が軍隊を派遣したことによってベトナムの人達がどんな被害を受けたのかを考えなければならないということなど、ベトナム戦争が「韓国にとってどういうものであったのか」「ベトナムの人達にとってどうであったのか」ということを書いています。このような記述を見ると、日本と韓国との間でますます歴史の見方にギャップが大きくなるのではないか、と心配せざるを得ません。
これから日本と韓国との間で交流が深まっていくのは確かです。そこで日本と韓国の若者はどういう話をするのか。「冬のソナタ」でも、歌や映画の話でもいいかもしれませんが、歴史に触れての対話というものが成り立つのかどうか懸念されます。やはり、本当に相手を理解し、交流を深めていくには歴史や文化などについても理解をした上で交流と対話をするということが必要です。
朝鮮に対する日本の植民地支配
日本による植民地支配の時期には、一定の近代化、経済開発が進んだと私は考えています。そういうと韓国の人から怒られたりするのですが、それは認めなければなりません。しかし、それが良いことだったかというと、必ずしもそうではありません。
経済が発展し朝鮮人の生活も安定させたと主張する人々がその証拠としてあげるものに人口増加があります。日本の支配期に韓国・朝鮮人の人口は2倍になったといわれることがありますが、実際には40〜50%ほどの増加率でした。さらに、人口が増えたからといって経済発展したとは言えません。むしろ、自分の家の労働力を確保したいから子どもを産んで、結果的に人口が増えたと考えることもできます。
また、日本が朝鮮や台湾を支配した時には欧米列強が行ったような帝国主義による支配ではなかったといわれることがあります。確かに、欧米列強はアフリカの海岸地帯を支配し、そこから黒人を連れ出して、もう一方の植民地であるアメリカ大陸を開発することをしました。奴隷売買・奴隷貿易と、日本が朝鮮に行った支配とは違うものです。しかし、違いがあるからといって欧米の支配が悪い支配で、日本の支配がいい支配だったとは言えません。19世紀には欧米列強も奴隷売買を禁じていましたから、違っていたのは、支配を行った時代とそれに規定される支配のあり方なのです。
同化・皇民化と差別の構造
同化政策とは、朝鮮人を日本人化しようとする政策であり、皇民化とは「皇国臣民」にすることをいいます。1930年代、日中戦争の時期には「内鮮一体」が謳われていました。「内鮮一体」とは、「内地」と呼ばれていた現在の日本の地域と「外地」と呼ばれていた朝鮮半島は一体である、一体でなければならないということを示したスローガンです。その1つとして創氏改名が行われました。
しかし、同化・皇民化政策の中にも、実は差別の構造がしっかりと組み込まれていたことを認識しておかなければなりません。現在でも、植民地支配を合理化、正当化する見方の1つとして「当時、朝鮮人は日本の国民だったので日本の国民として扱っただけで、戦争のために働く徴用も、徴兵もやむを得なかった」という意見があります。
しかしそれは、本当に正しいといえるでしょうか。そのことを考えるときには差別の構造が根強くあったということを見ておかなければなりません。例えば、強制連行の一形態として徴用を取り上げると、徴用は戦前日本で国民徴用令という法令に基づいて軍需工場やそれ以外の戦争に必要な物資を作る工場や、鉱山などで働くよう徴用令状が届き、逃げ出すと処罰を受けるというものです。徴用は、国民徴用令にもとづくという限りにおいて日本人も朝鮮人も同じです。しかし動員先を見てみると日本人の動員されたところは主に軍需工場でした。軍需工場は後から考えると空襲を受けるので危険で、たくさんの人が亡くなったわけですが、軍需工場で働く限りでは突発的な事故が起こることは少なかったのです。それに対して朝鮮人の動員先はというと、炭鉱や鉱山、土木の建設現場です。非常に危険で、今で言うところの「3K労働」を強いられました。ここで問題なのは、なぜこんなにもはっきりと動員先が分けられたのかということです。それは、一方が日本人であり、一方が朝鮮人だからという理由、つまり差別的に扱った結果です。
日本政府が、日本人と朝鮮人の違いを何によって定めていたかというと戸籍の違いです。戦前の日本では、明治から日本の国籍に登録されている人を「日本人」としました。今も同じです。これに対して朝鮮人、台湾人はどうだったのかというと、日本の役場の戸籍には登録されず、自分の故郷の役場にある戸籍に登録されていました。日本の戸籍と朝鮮の戸籍、台湾の戸籍はそれぞれ根拠となる法令が異なりました。そして、相互の行き来は原則として禁止されていたのです。例えば朝鮮の戸籍を持ってきて日本の役所に「戸籍を日本に移してくれ」といっても許されませんでした。なぜなら、そんなことをすると日本人と朝鮮人の区別が出来なくなるからです。あくまで日本人は支配者であり、朝鮮人は被支配者である。そういう支配秩序の法的な根拠として戸籍制度がありました。ですから「同じ日本人だったのだから、同じように徴用令の適用を受けただけで、それに対して文句を言う必要はないのではないか」という見方は間違いなのです。
戦後日本の差別構造
この問題は戦後の問題にもつながります。現在日本に住む外国人が参政権を認められていないのは日本の国籍を持っていないからです。しかし、さかのぼって見てみると、1945年に日本が敗戦を迎えた時、朝鮮人や台湾人は日本国籍でした。国籍は日本で、戸籍はそれぞれ別でしたが、日本政府の見解によると、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効まで朝鮮人と一部の台湾人は日本国籍を持っていました。サンフランシスコ講和条約の発効に伴って、法務省の民事局長通達が出て日本に住む朝鮮人、台湾人は一斉に日本国籍を喪失することになったのです。それ以降は日本の国籍を持っていないということになりますが、少なくとも1952年までは日本国籍であるというのが日本政府の見解でした。では、参政権はあったのかというと、戦前には選挙権を認められるための要件を満たせば選挙権を得ることができました。私が見た戦前の選挙人名簿には、朝鮮人の名前も記されています。
ところが、1945年に国籍はまだ日本なのに選挙権は無くなってしまいました。1945年12月に「衆議院議員選挙法」が改正されましたが、そのとき附則に「戸籍法の適用を受けない者は当分の間、選挙権及び被選挙権を停止する」という文章が付け加えられました。皇族には戸籍がないので現在も選挙権はありません。韓国・朝鮮籍の人々もそれに当てはまるのだといわれますが、そうではなく、戸籍の違いという理由によって戦後選挙権を失いました。これを見ると、戦前の日本の植民地支配を支えてきた差別の構造が、戦後も受け継がれているということが分かります。
以上のように、日本が20世紀の前半、植民地として朝鮮半島を支配したという歴史的事実が、どういうものであったのか、何をもたらしたかということを考えておく必要があります。それは戦後の問題にもつながり、南北の分断の一因になったものだと思います。さらに、韓国・朝鮮人に対する、あるいは広く外国人に対する日本人の意識も植民地支配からさまざまな形で影響を受けて、それが現在でも尾を引いていると感じます。日本社会が国際化、多民族共生を本当に考えていくならば、20世紀の歴史の歩みを振り返り、それを踏まえて何が問題であったのかを認識しておくことが必要だろうと思います。それを認識しなければ、これからのアジアの諸国との対話や交流は深まらないのではないでしょうか。
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