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ソウル五輪の亡霊が「チベット暴動」に蘇った現地では100人超の死者が確実視?朴 哲鉉(2008-03-20 12:30)
3月16日、日曜日。東京・上野のインドカレー屋を訪れた。インドカレー屋だが、店長はパキスタン人。下で働く3人のうち、2人はネパール人だ。
彼らとは3年前に知り合い、上野に行くたびに、お店に寄る。インド映画を観ながら(というより、その音楽を聴きながら)カレーを楽しむのが常だったが、この日はネパール人のN氏が落ち着かない様子だった。 聞いてみると、不安そうな顔をしながら説明し始めた。「チベットが今、すごいことになってるみたいなんだ」 チベット自治区での大規模デモと、中国政府による鎮圧についての話だった。 N氏はネパールの首都、カトマンズの出身。騒乱の渦中、チベット自治区ラサの人たちが大勢、カトマンズに避難してきているという。 きっかけとなったのは、チベット仏教寺院「郎木寺」の僧侶たちによるデモ。インド亡命中のダライ・ラマ14世のチベット復帰を求めた抗議デモだったが、それを中国政府が鎮圧する過程で、13人の死者(中国政府発表)が出た。そのデモはラサにとどまらず、報道によると、アバなど四川省周辺地域まで広がる動きを見せている。 インド北部のシリグリでの抗議集会に参加するチベット僧侶=3月18日、ロイター 「この事態は長期化する可能性が高いと思います。中国政府は、オリンピック前までなんとか終わらせたいだろうけど、引っ張られるでしょう」 10年間チベットを取材し続けてきたフォトジャーナリストの足立百合氏はいう。 「チベット自治区だけではありません。四川省のチベットエリアもこういう抗議と鎮圧が繰り広げられている」(足立氏) 20年前、じつは韓国でも似たような例があった。 1980年、軍事クーデタで政権を握った全斗煥政権は、3S政策を積極的に展開した。3Sは、SPORTS、SCREEN、SEXを意味する。国民の関心を政治から離れさせるのが目的だった。その3S政策のいわば頂点となるイベントが、1988年ソウルオリンピックだった。 80年2月に発足した実質的な最高権力機関「国家保衛立法会議」のトップに就いて以来、全斗煥政権は反対デモに直面した。5月には、ソウルの10万人学生デモがきっかけになり、全国で戒厳令が敷かれた。そして、それに反対した光州市民が政府によって大量虐殺された(光州事件)。 こうした強硬路線は、1983年の暮れ、表面的に緩和された。同年12月21日、全斗煥政権は朴正煕前政権から光州事件までの間に除籍された学生を復学させる緩和措置を発表したのだ。 「学院自由化」と呼ばれるこの表面的な融和策が採られた最大の理由は、86年にアジア競技大会、88年にオリンピックが控えていたから。世界中の注目が集まるこれらの大イベント開催時に、「人権弾圧国家」のイメージを持たせたくなかったわけで、政権もこれを大きく広報した。 しかし、この表面的融和策は、あっけなく崩れた。アジア競技大会直後の10月、建国(コンゴク)大学で起きた学生運動で、1290人の学生が、警察に拘束されてしまったのだ。この数字は世界学生運動史上最大の数字としても有名だ。 「83年はデモの数も134件と、81年の56件から大幅に増え、強硬策だけでは抑えられない状況だった。だから政権は、ムチだけでは解決できないと判断して、アメとしての学院自由化を発表した。しかし、これは表面的な政策転換だった。結局、86年の建国大学事件で、全斗煥政権の本質が暴露された」 韓国民主化運動記念事業会の李仁洙(リ・インス)資料館長はこう解説する。 韓国社会は1987年の全国民的な民主化運動によって、民主主義を勝ち取ったように言われている。しかし、これも表面的な解説だ。1987年冬から、88年のオリンピック直前まで、何が起こっていたのか知る人は少ない。 上渓洞(サンゲドン)など、スレートふきの屋根の家屋が集まるソウルの村の住民が、88年2月、政府から立ち退きを求められた。当時の建設交通部(日本でいう国土交通省)とソウル市は当初、86年から91年まで6年間かけて、毎年15%程度ずつ、順次、ソウルとソウル近郊の衛星都市の環境を整備する計画だった。 ところが88年、政府とソウル市はオリンピックを控えて計画を大変更し、一気に60%分の「環境整備」を実行しようとした。その結果、3万人超の人々が立ち退きに直面した。 この出来事を大手4紙はどこも報じなかった。ドキュメンタリー作家・金東元(キム・ドンウォン)氏が「上渓洞オリンピック」という皮肉ったタイトルの作品を発表するまで、多くの韓国国民にこの事実は「隠ぺい」され続けた。 大成功だったといわれる1988年のソウルオリンピックの陰には、じつはこのような学生運動弾圧と強硬な都市開発政策があった。 中国政府によるチベットとその周辺地域への弾圧は、今、いきなり始まったことではない。しかし、今年入ってからさらに激しくなり、ついに、死傷者まで出た。 私はどうしても20年前のソウルオリンピックを思い出してしまう。あまりにも似たような構造だからだ。 実際にチベット近辺の四川省・成都から韓国オーマイニュースにルポを送っているモ・ジョンヒョク氏に電話で話を聞くと、「ここは80年の光州だ!」と話す。 「チベット内の複数の人と電話で話したところ、現地では、100人超の死者が出ていることが確実視されている。しかし、外国メディアも、外国の観光客も誰も中に入れない。だから、中の正確な情報は完全に閉ざされ、外に出ない。チベット最大の仏教学校、ラロンガル(五明仏学院)は、人民解放軍に包囲された状態。ラロンガルには、3万人を超える僧侶が居住している。もし、ここでデモが起きれば、その衝撃は計り知れない。中国政府はデモが起きて、その様子が外に漏れることを恐れている。外部の人の出入りを徹底的に統制している状況だ。まるで80年の光州事件が蘇っているようだ」(モ氏) 日本のメディアは今回の事件を、チベット僧侶の「暴動」から起きたと報じている。しかし、チベット(蔵族)と中国(漢族)間の長い歴史からみて、果たして「暴動」や「騒乱」という用語は当てはまるものなのか。 光州事件の時にも全斗煥政権の使用した「暴動」という表現が、マスコミに使われていたのが記憶に新しい。 中国政府には1959年、チベットを弾圧し、8万7000人を殺害した「チベット大虐殺劇」の前科がある。89年には戒厳令を敷いた(参照:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所サイト)。オリンピックを控えている今年、チベットの僧侶や民衆たちが中国政府による弾圧を世界に知らせるため、これからもっと過激化していく可能性はある。 もちろん、韓国のように世界の目を意識して、中国政府が表面的な融和策を出すかもしれない。しかし、その場合でも、オリンピック後に中国政府がどう出るか、心配せざるを得ない。 チベットに平和を トップページへ バックナンバー
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