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2008-05-06 八重桜の植樹 
今日は午前中、当社境内に於いて、総代さん達や敬神婦人会の会員さん達、計18人(写真参照)により、八重桜(サトザクラ)10本(高さ3m弱)とアジサイ二十数本(高さ50〜90cm)を植樹する作業が行われました。
今日植樹された木々のうち、八重桜はいずれも総代会からの奉納で、第二駐車場の縁二面(北面と東面)に植樹され、また、アジサイは、株式会社クリーンリバーさんや、当社の氏子さん達各個人からの奉納で、参道沿い(鳥居の脇や土俵の向いなど)にそれぞれ植樹されました。当社に御奉納して下さった皆様方、また、植樹作業を手伝って下さった皆様方、どうもありがとうございました!
なお、今日の植樹作業の様子を写した写真は、「西野神社アルバム」の平成20年5月「八重桜の植樹」のページ(下記URL)に掲載させて頂きましたので、御覧下さい。
http://nishinojinja.or.jp/photo/200506.htm
(田頭)
2008-05-05 人形供養受付中 
当社では今月1日から7月末日まので3ヶ月間、参集殿に於いて随時、人形供養の御祈祷を執り行います(写真参照)。
人形の御供養(お焚き上げの清祓い)を希望される方は、電話かメールで予め御予約の上、それらの人形を当社まで直接お持ち下さい。但し、遠方の方や、事情により直接当社まで来られない方は、宅急便等で人形を送って戴いても構いません(送られる場合は事前の予約は不要です)。
当社に直接人形を持って来て戴いた場合は、その場ですぐに人形供養の御祈祷を執り行い、その御祈祷には原則として持ち主の方にも参列して戴きます(御祈祷に要する時間は概ね15分弱程度です)。但し用事のある方は、御祈祷には参列せずすぐに帰られても構いません(参列されない場合は事前の予約は不要です)。
人形を送って戴いた場合は、その都度供養の御祈祷は行わず、人形の数がある程度の数になってから、一度にまとめて供養の御祈祷をさせて頂きます。ちなみに、人形供養の御祈祷をしている様子を写した写真は、以下のページにも掲載されておりますので御参照下さい。
http://nishinojinja.or.jp/photo/ningyou.htm
(田頭)
2008-05-04 徒然草で描かれている春の様子 
当社の境内では、先月20日過ぎ頃から開花していたエゾヤマザクラは既に散ってしまいましたが、今は丁度、サトザクラ(八重桜)が見頃を迎えています(写真参照)。
ところで、「枕草子」「方丈記」と並ぶ日本三大随筆の一つである「徒然草」の第十九段には、著者である吉田兼好から見た春の様子が活き活きと描かれています。第十九段には、四季の移り変わりと、大晦日から元旦にかけての描写がそれぞれ描かれているのですが、その中から春の部分が描かれている箇所を、以下に転載させて頂きます。
『折節の移り変るこそ、物毎にあはれなれ。「もののあはれは秋こそまされ」と、人毎にいふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春の景色にこそあめれ。鳥の声なども殊の外に春めきて、長閑やかなる日影に垣根の草萌え出づる頃より、やや春深く霞み渡りて、花もやうやう景色立つほどこそあれ、折しも雨風うち続きて、心あわたたしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそおへれ、なほ梅の匂にぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて思ひ捨て難きこと多し。』
上記の原文を現代語に口語訳すると、だいたい以下のようになります。
『季節の移り変わることこそ、何事につけてもしみじみと感興が深い。「しみじみとした情緒は、四季の中では秋が一番だ」と誰も彼も言うようだが、それも一応もっともであるが、もう一段心も落ち着かずそわそわするものは、春の様子であるようだ。
鳥の声なども、とりわけて春らしくなって、のんびりとした日光を受けて垣根の草が芽を出す頃から、少し春が深くなり、一面に霞が立ち続いて、桜の花も段々咲く様子が見えてくる丁度その時分にあいにく、雨や風が続いて、気ぜわしく散り落ちてしまう。花が散って青葉になって行くまで、何かにつけてただ気ばかりもむ事だ。
橘の花はその香が昔の人を思い出させるものとして有名だけれど、何といってもやはり梅の匂いを嗅ぐ事によってこそ、過ぎてしまった日の事も、その当時に立ち戻って恋しく自然思い出される。山吹が清らかな美しさをもった姿でいるのや、藤の花房がおぼろげなな様子をしているなど、全て無関心ではいにくい事が多い。』
確かに、日本人は誰もが春の様子に無関心ではいられません(桜の開花予報や開花宣言というものが存在している事からもそれは明らかです)。なかなか情緒深い文章ですね。
ところで、当社では昨日、神輿殿周囲の「犬走り」が完成致しました。この件については以下の記事を御参照下さい。
http://blog.goo.ne.jp/nishino-mikoshi/d/20080504
(田頭)
2008-05-03 文月会創立六十周年記念植樹 
「北海道神社庁札幌支部青年神職文月会」の創立六十周年記念事業の一つである「札幌支部管内各神社への梅の苗木の奉納(植樹)」が、今日(5月3日)から6日まで、4日間の日程で各神社を回って行われる事になり、私は第一日目となる今日の植樹作業に参加してきました。
午前8時半過ぎ頃、私はまず中央区に鎮座するY彦神社へと行き、そこで自分の車(レガシーワゴン)から、Y彦神社が借りて下さったトラックに乗り換えて、今日の集合場所である北区に鎮座するS似神社へと向いました。マニュアル車を運転するのは普通自動車免許を取得して以来(多分十年とちょっとぶり)だったため、少々ぎこちない運転でしたたが、その割には一度もエンストを起こす事なくS似神社へとトラックを回送させる事ができたので、自分としては上出来な運転でした(笑)。
午前9時頃、S似神社に到着した後は、他の会員達と一緒に早速同社の境内にて苗木を植樹させて頂き、その後は、今日の植樹に参加した文月会の会員10人がそれぞれ5人づつの2班に分かれ、どちらの班も、苗木や添え木、苗木と一緒に埋めて立てる看板などを荷台に積んだトラックに分乗して、支部管内の各神社を回って来ました。
私達の班は、石狩市内の神社や江別市内の神社など数社を回り、各社の境内にて、その神社の宮司さんが指定された場所に深さ40〜50cm、直径50〜60cmの穴を掘り、その穴の中で、掘り上げた土と土壌改良剤5〜6kgと水を混ぜ合わせてから、苗木をその穴の中に入れて土を埋め戻し、添え木と看板を立てる、という作業を繰り替えしてきました(但し神社さんによっては、既に宮司さんが穴を掘ってくれていた所もありました)。
私達の班が最後に訪れた江別市に鎮座するE別神社では、その後合流する予定のもう一班との時間調整の都合上、植樹を終えてから、社務所の一室にて1時間以上も休ませて頂き、その間、北海道神社庁一区教化委員でもある同社のU宮司さんから神道教化についての貴重なお話を沢山聞かせて戴き、有意義な時間を過ごさせて頂く事ができました。ちなみに貼付の写真は、同社境内にて撮影した、植樹直後の様子です。
また私は、今日はずっと、文月会前会長のTさんと同じ車に乗って各社を回ったのですが、車中ではTさんからも神事にまつわるいろいろと貴重なお話を聞かせて戴く事ができました。
そして各社を回った後、私達は午後6時過ぎ頃に、再び北区に鎮座するS似神社へと戻り、同社にて解散をしました。私は自分の車をY彦神社に置いてきていたため、解散した後は、文月会の会長でもあるY彦神社の禰宜さんの車に載せて戴いて同社へと戻り、その途中、二人で店に立ち寄って夕食を頂くなどして、ここ(車中や店内)でもまたいろいろと有意義なお話を聞かせて戴く事ができ、振り返ってみると、今日は木を植えに行ったはずなのに、何だかずっと講習を受けてきたような、そんな有意義で勉強になった一日でした(笑)。
正直言いまして、神青の活動に初めて参加した頃はその活動の意義がよく分からなかったのですが、やはり神青の活動に参加すると、(本来のその活動の目的とは別の部分に於いても)間違いなく何かしら得るものがあるな、と今では実感しています。
(田頭)
2008-05-02 北越戦争の端緒を開いた小千谷談判 
“越後の虎”といえば上杉謙信ですが、“越後の龍”もしくは“蒼龍”といえば、幕末期の長岡藩の家老・河井継之助(写真参照)です。
河井に対しては、稀代の名家老・名戦略家、西軍の侵攻をさんざん悩ませた武将、長岡の英雄という高い評価がある一方で、長岡藩の藩論を主戦に傾けて長岡を泥沼の北越戦争に導いた、意味のない戦争を引き起こして長岡を焦土にした悪雄とする見方もあり、実際、北越戦争終結から間もない明治初期は河井家のお墓は怨嗟の的となってよく壊され、河井の家族は外出もままならない苦難に満ちた生活を強いられました。
しかし明治が過ぎると河井に対しての評価は変わり、同じく越後出身の英雄・山本五十六(連合艦隊指令長官、海軍元帥)は、ロンドン海軍軍縮会議に行く前には「僕は、河井継之助先生が小千谷談判で天下の和平を談笑の間に決しようとされた、あの精神で行ってくるつもり」と言い、自身の最も尊敬・敬愛する郷土の偉人として河井の名を挙げていますし、また戦後は、時代小説の大御所である司馬遼太郎さんが自身の複数の作品で河井を英雄として描き、時代劇などでも、河井の役は一般に好感度の高い有名俳優が演じるようになり(例えば昭和52年に放送されたNHK大河ドラマ「花神」では河井の役は高橋英樹さんが演じ、平成17年に放送された日本テレビの年末大型時代劇「河井継之助 駆け抜けた蒼龍」では河井の役は18代目中村勘三郎さんが演じました)、最近は、河井は専ら高い好評価を得ています。
その河井が、長岡藩の命運をかけて臨み、結果的にその望みが断たれて北越戦争への端緒を開く事になったのが、俗に「小千谷談判」(おぢやだんぱん)と云われる会談です。
私が暮らす北海道と、新潟の地で行われた小千谷談判は、特に接点はないようにも思われますが、しかし、北海道を舞台とした箱館戦争へと続く一連の戊辰戦争の中でも北越戦争は最大の死傷者を出した激戦であり、その帰趨次第では薩長の天下が一挙に覆される恐れさえあったという意味では、北越戦争の端緒を開いた小千谷談判が箱館戦争に与えた影響は決して小さくはなく、また、これは意外に知られていない事ですが河井の妻・河井すがは苦難に満ちた境遇に耐えながら明治22年に札幌の隣町・江別でその生涯を閉じており、そして、河井と共に小千谷談判のもう一方の主役(河井が談判した相手)である土佐藩の岩村精一郎は、一昨年6月22日付の記事で紹介したあの岩村通俊(北海道開拓使判官、初代北海道長官、貴族院議員、男爵)の実弟である事からも、やはり北海道とは何かと接点や関係が少なくはありません。
その小千谷談判が行われたのが、今日から丁度140年前の、慶応4年5月2日です。小千谷談判から今日で丸140年経った事に因み、今日は小千谷談判について、簡単にその概要を紹介させて頂きます。
慶応4年、戊辰戦争が勃発した際、長岡藩家老の河井継之助は、当時日本国内を二分していた西軍(薩長を中心とした京都政権軍)・東軍(薩長の天下を認めない奥羽越列藩同盟や旧幕府軍)どちらの勢力にも属さない武装中立派として長岡藩を統一し、西軍への恭順・抗戦も、東軍との同盟・抗戦も否定して、西軍と、当時東軍の中心とされた会津藩との調停を図ろうとしていました。しかし西軍は長岡藩に対してあくまで恭順を求め、中立は認めず、会津討伐に行く前に長岡藩を叩くため長岡の地に東征軍を差し向けました。その時、東征軍の軍監の一人として、長岡に派遣された東征軍を率いていたのが、土佐藩の岩村精一郎でした。
岩村は土佐の宿毛の生まれで、慶応3年に上洛した際には中岡慎太郎の陸援隊の尻尾について行動を共にするなどしましたが、志士の活動歴としはたったこれだけで、文久年間からの激動の波を潜った筋金入りの志士ではありませんでした。しかし、討幕軍の陸援隊の近くにいたという事実だけで、陸援隊に加入してから5ヶ月余りで東山道先鋒総督府の軍監に抜擢され、次いで、北陸道鎮撫総督府の軍監へと出世しました。こうした、時代の波に乗って幕末の修羅場をほとんど経験する事なく新政府軍の幹部に出世した土佐の幸運児に死命を制せられたのが、一代の傑物・河井の不幸であったともいえます。
慶応4年5月2日、何としても長岡藩の中立の立場を守り戦争を避けようとする河井と、長岡藩を潰そうと東征軍を率いて越後に進軍し小千谷(現在の新潟県小千谷市)を占領した岩村との会談(小千谷談判)が、岩村側が会談の場所として指定した小千谷の慈眼寺にて開かれました。この時河井は42歳、岩村は24歳で、二人は親子程の歳の差がありましたが、この頃から岩村は既に高慢で無思慮な性格であった事で知られており、また、小千谷まで破竹の勢いで進軍してきた岩村は、今まで諸藩の無能な門閥家老だけにしか会った事がなかったため、河村の事もそれらの家老と同じ単なる田舎家老の一人としてしか思っておらず、そのため会談は、岩村が一方的に河井を威圧する形で行われました。
岩村の尊大な態度に「この若造が!」と思いながらも河井は、中立の立場で会津・桑名両藩を説得するので今直ちに軍兵を進めるのを停止して貰いたいと熱心に訴えました。しかし「錦旗を掲げた官軍」という権威を背負っていた岩村は河井の申し出を悉く一蹴し、嘆願書さえ受け取らず、結局会談は僅か30分で終了しました。交渉が決裂し、しかも岩村には長岡藩まで“賊軍”扱いされたため、河井は開戦を決意せざるを得なくなり、長岡藩は、中立を守るという立場からそれまで一定の距離を置いていた奥羽越列藩同盟に加わり、ついに北越戦争が始まりました。
この小千谷談判での素っ気無い対応により、後年、岩村は長岡藩との戦端を開いた狭量な人物として評されようになり、しかも北越戦争で西軍が払わされた代償は「見込み違い」といえる程に大きかった事から、その見込み違いの要因は“岩村の若気の至り”とまで云われるようになってしまいました。
しかも岩村は、河井と十分な交渉ができなかっただけでなく、交渉の決裂により敵方の事実上の総大将となるであろう事が明白となった河井を捕縛せずに帰してしまったという認識の甘さも指摘される事となり、更に、長岡藩側からの攻撃が始まって激しい銃声を聞きつけた北陸道鎮撫総督府参謀の山縣有朋(後に長州閥の首領となり、陸軍元帥、第3代・第9代内閣総理大臣、元老などを歴任)が急いで小千谷の本営に駆けつけた時も、岩村を始めとする幹部達は戦況を無視して給仕を侍らせて夕食をとっていたという事も、岩村の評判の悪さに拍車をかけています。ちなみに、この時はさすがに山縣が岩村に詰問をしたのですが、岩村は銃声が聞こえていないフリをして「銃声など聞こえない」と言い出したため、その言葉に激怒した山縣は、土足のまま岩村の膳を蹴り上げたと云われています。
長州の品川弥二郎(戊辰戦争時の奥羽鎮撫総督参謀、後に内務少輔・農商務大輔・内務大臣などを歴任)も、後年、小千谷談判の件では「なぜ岩村のような小僧を出したのか」と事ある毎に山縣に食ってかかり、品川は、もし山縣か黒田清隆(後に薩摩閥の首領となり、北海道開拓使長官・第2代内閣総理大臣などを歴任、詳しくは一昨年5月19日付の記事参照)のどちらかが河井と会っていれば北越戦争の開戦は無かったとまで断言しています。岩村もそういった風聞を知ってか、後年、「もし河井の人物を知る事、今日の如くならば、また談判の仕様もあったであろうが、右の次第で、頭掛けに之を斥けて取り合わず、遂に破裂に及んだ」としみじみと述懐しています。
北越戦争では、河井の巧みな采配と最新の火器や兵器による攻撃によって、長岡藩は一時は西軍を圧倒し、西軍を激しく動揺させました。作家・司馬遼太郎さんは、河井を主人公とした短編「英雄児」の中で、北越戦争開戦直後の様子を以下のように描いています。
『雨中の交戦が各所でおこなわれ、そのほとんどの戦闘において長岡、会津軍は勝ち、官軍の拠る榎峠にせまった。ついに十一日榎峠を陥し、十三日には旭山の戦闘で官軍を大いに破り、司令官時直八を戦死せしめた。
柏崎方面から参謀山県狂介(のちの有朋)が駈けつけて、直接作戦指導をし、官軍のある砲などは一門に一日百五十発も射撃するほどに戦ったが、敗戦はおおうべくもない。「河井をなぜあの慈眼寺の会談のときに抑留せなんだか」と、山県はあらためて岩村を叱ったのはこの前後である。官軍諸将は、このころになって、自軍が異常な天才と戦っていることに気づきはじめた。
官軍の士官だった二階堂保則が、「継之助はもとより剛愎の士であり、権を専らにし、同僚を圧伏している。長岡の向背はこの男ただ一人にあった。これを捕えれば一兵も殺さずに長岡を攻めえたはずである。ついに虎を野に放ったようなものだ」という意味のことを書きのこしている。』
しかし、このように開戦当初は西軍を圧倒し優勢を誇っていた長岡藩軍でしたが、兵力的な限界のためにやがて後退が始まり、ついには藩の中枢である長岡城が奪われ(長岡藩は、西軍に占拠された長岡城の奪還に一度成功していますが、再度西軍に奪い返されました)、この後長岡藩軍は同盟関係にあった会津藩へ落ち延びようとするものの、河井は膝に受けた鉄砲傷から破傷風を起こして会津領の塩沢で亡くなり、東軍・西軍双方に甚大な被害を齎した北越戦争は終結しました。
ただ、一応岩村の弁護もすると、当時の岩村はあくまでも軍人であり、河井が求めた武装中立という曖昧な政治的立場を許容する権限まであったのかどうかといえば、その権限は岩村には無かったと見るべきかもしれません。また、河井が求めた中立という策がそもそも当時の日本に於いて実現可能な策であったかといえば、西軍にとっては、長岡藩の中立を認めてしまうと長岡藩内にある新潟港から海路を通じて会津藩に武器弾薬の補給を許してしまう事になり、西軍が長岡藩だけに政治的な中立を認めるという事は、実際には到底できないものでした。また、この後成立した明治政府にとって、北越戦争での西軍側の失態や甚大な被害の責任を、岩村一人に押し付けようとした意図があった事も否定はできません。
とはいえ、北越戦争の後、岩村は順当に出世を続け、明治7年には佐賀県権令として佐賀の乱を鎮圧し、明治11年には愛媛県令となって松山中学校などの開設に奔走し、更に石川・愛知・福岡等の県令や知事も務め、明治25年には貴族院議員に勅撰され男爵位を授けられるなどし、明治39年、62歳で亡くなりました。
時代は下って昭和12年、小千谷談判が行われた慈眼寺の境内に、河井と岩村二人の談判記念碑が建てられ、その除幕式には岩村の甥と河井の甥が共に顔を揃えたそうですが、両者共に全く歩み寄る姿勢を見せなかったため、ついに河井・岩村両氏の和解は成らなかったといいます。
私は昨年、新潟県に旅行に行って来ましたが、また新潟県に行く機会があった時は、今度は北越戦争の古跡や慈眼寺などを巡ってみたいと思っています。
(田頭)
2008-05-01 八十八夜 
今日(5月1日)は、『夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が繁る あれに見えるは茶摘みじゃないか あかねだすきに菅の笠』と唱歌にも歌われている「八十八夜」です。
八十八夜は、節分・初午・土用・彼岸・節供などと共に雑節(二十四節気以外の暦日)の一つで、立春(今年の場合は2月4日)から数えて88日目、現在の暦では5月1日〜3日頃に当たります。
八十八夜の頃は、大陸からの移動性高気圧が南下して、昼間は暖かいのに夜は急に気温が下がり、霜が降りたりする事があります。この霜を晩霜(ばんそう)といい、晩霜のために植物の新芽や若葉は一晩のうちに枯れてしまう事もあります。しかし、この日以降は霜が降りる事はまずないので、昔の農民達はこれを「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などと呼び、この日を境に茶摘みや苗代への種もみの時期が到来したと実感し、そのため八十八夜は特別に暦に記されるようになったのです。
現在では稲の品種改良が進んだため、もっと早くから種蒔きをする事もできますが、昔はこの日を待って初めて稲の種を蒔き、この日の行事は「水口祭り」と称し正月の粥占いに使った粥掻き棒を苗代の水口に立て、それに種もみの残りで作った焼米を載せるといった風習が全国で広く行われていました(その焼米を鳥が早く食べる年は豊作になると言われました)。また、八十八という字を組み合わせると「米」という字になる事からも、この日は農業に従事している人にとっては特別重要な日とされてきました。
ところで、日本では年に3回程茶摘が行なわれていますが(4月下旬〜5月下旬、6月中旬〜7月上旬、7月中旬〜8月下旬)、それらの時期の中でも茶摘みに最も適しているのは八十八夜の頃とされています。この時期に摘み取られるお茶は特に極上品、縁起物(長寿になると云われています)の新茶として、古来より珍重されてきました。但し、実際には茶産地の温暖差等によって茶摘みの適切な時期は異なり、必ずしも八十八夜のお茶のみが極上とは限りませんが。
貼付の写真は、八十八夜の今日、当社の境内にて行われた、敬神婦人会の会員さん達(有志)による清掃奉仕の様子です。婦人会の清掃奉仕は5〜11月までの7ヶ月間、毎月1日の朝に境内で実施されます。婦人会の皆様方、今日は朝早くからお疲れ様でした。
(田頭)
2008-04-30 チベット問題に対しての神青協と全日仏の見解 
私は今月26日付の記事「チベット問題に対しての対応」の中で、私は、『神社界に限っていえば、神職個人としては各々この問題に積極的に取り組んでいる方もおられますが、神社本庁としては、あるいは神道政治連盟としては、特にこの件についての見解は発表していません(平成20年4月現在)。何らかの具体的な行動を起こす予定があるとも今の所は聞いてはいません。私としては、この問題に対しては神社界も何らかのアクションを起こす事を期待しています』と述べさせて頂きましたが、この件(チベット問題)については、私がその記事をアップする2日前の4月24日に、神道青年全国協議会が久富真人会長の名前で公式見解(会長談話)を発表しておりましたので、神社界がこの件に対して何も反応していないような書き方をしてしまった前言を訂正させて頂くと共に、以下にその見解を紹介させて頂きます。
『チベット問題に関する神道青年全国協議会会長談話
私ども青年神職は、全国津々浦々にご鎮座坐します神社のご神前に額づき、朝な夕なに天下国家の繁栄、世界の平和と共存共栄を只管お祈り申し上げてをります。
然るにこれまでチベットの方々が置かれてきた境遇に思ひを馳せるとき、大きな胸の痛みを感じますとともに、本年の三月より起こってゐる騒乱において多数の死傷者が出てゐることに、深い悲しみを覚えます。
また、長い歴史に培はれたチベットの尊い伝統と素晴らしい宗教文化が失はれることは、世界人類にとって大きな損失であると存じます。
本件の真実が白日の下に明らかになり、当事者同士の平和的な対話が積み重ねられ、この深刻な事態が一日でも早く収拾されることを衷心より切望致します。
畏くも天照大御神が天石屋戸にお隠れになられたとき、八百万の神々が相集ひて叡智を結集され、再び日の光がこの世を遍く明るく清く照らした如く、世界各国が知恵を出し合ひ、事態打開に尽力され、チベットの民に再び心穏やかな生活が取り戻せるやうお祈り申し上げます。
平成二十年四月二十四日
神道青年全国協議会 会長 久富真人』
神青協は神社界全体を代表する団体ではないため、この見解(会長談話)が直ちに神社界全体の統一見解を意味するという訳では勿論ありませんが、しかし、神社界の公式団体(しかも巨大な組織)の一つとして神青協がこの問題に対しての見解を示した事の意義は大きいと思います。
というのも、確かに現実には、見解を示すよりも具体的な行動を示す事の方が重要ですが、しかし神社界の公式団体が正式な見解(かなり穏やかな表現をとりつつも事実上中共への抗議)を示した事により、その会員である神職個人が具体的な行動を起こしやすくなる(神青協の会長談話に権威を求めるのもおかしな話かもしれませんが、もし行動を起こしていいかどうか迷っている会員がいたとしたら、その行動に“御墨付き”を与える役割は十分に果たすでしょう)という効果と、そして、「なぜ神社界はこの問題に対して沈黙しているのか」という疑念を抱いている人達がいたとしたら、そういった不信をある程度は払拭させる効果があると思うからです。
また、今月22日には、日本国内全寺院の9割以上が加盟し、事実上日本仏教界を代表する機関・窓口となっている「財団法人全日本仏教会」が、胡錦濤中華人民共和国国家主席、ダライ・ラマ法王十四世、福田康夫内閣総理大臣、潘基文国連事務総長の4人に対して、この問題に対しての要請文をそれぞれ提出・送付しています。以下が、同会が胡錦濤主席宛てに提出した要請文の本文です。ちなみに、現在の同会の会長は松長有慶氏 (高野山真言宗管長) ですが、要請文は全て同会の理事長・豊原大成氏(浄土真宗本願寺派総長)の名前で書かれたようです。
『日本の伝統仏教界唯一の連合体である、財団法人全日本仏教会、及び世界仏教徒連盟日本センターの機関を代表し、現今のチベット情勢について、以下の通り表明いたします。
現在、チベット仏教の聖地ラサ市をはじめ、中国及び周辺各地において、僧侶・市民と治安部隊の武力衝突により、多くの死傷者が出ている深刻な事態に対し、私たち日本の仏教徒は深い悲しみを覚えます。
私たちは釈尊の尊い智慧と慈悲の教えの下、全ての人々に分け隔ての無い信頼と敬いの心が育ち、怨讐を越えて幸福を享受出来る世界の実現を願っています。事態収拾の為に、武力や暴力的な手段を用いず、平和的な対話の積み重ねによる、一日も早い人道的な解決の方途を探られるよう念願致します。 合掌』
なお、ダライ・ラマ法王十四世宛ての要請文は、上記要請文の最後の文章「一日も早い人道的な解決の方途を探られるよう念願致します」が「一日も早い人道的な解決を念願致します」という文章に、福田康夫首相と潘基文務総長宛ての要請文はこの文章が「一日も早い人道的な解決へのご尽力を給わるよう念願致します」という文章にそれぞれ改変されておりますが、それ以外の文章は原則としてどの要請文も同一です。
私としては、日本の宗教界がチベット問題に対して、今後更に積極的に関わっていく事を期待しています。
(田頭)
伊予
田頭様
人間と地球の歴史と共に宗教が誕生し幾多の宗教分かれてきましたが、幸いかな日本の神道は他の宗教とは違いもっとも純粋にかつ原始の宗教の本質をもっている宗教だと思っている一人です。自然の恵みに感謝し、自然を敬い、神の御心に耳を傾け、人類と共に歩んできた宗教と思っています。世界の国においては、忘れられ、無くしてしまっている土着の(人類の宗教)貴重な要素、精神性を持っているものと思います。旧約聖書、新約聖書、コーラン、仏典、等を広めた有名な預言者たちがおりますが、その根幹をなす不偏の目的、救いは「人間の幸せ、生き方、感謝の祈りの心」等なのですが、・・・・・
神道は世界のすべての宗教を包み込み赦す事の出来るふところの広い人類誕生の宗教だと勝手に思っております。まさに「神の道」です。
今までに日本においても神の御心からそぐわないことがその時々の時代においても不幸にしてありましたが、2668年途絶えることなく今日まで守り続けてきた先人達に感謝申し上げます。
時の権力者の指示、イデオロギーで宗教を否定、打ち捨ててきた他の国の人達はなんて不幸なことか、生と死がすべての生き物、物質、宇宙の惑星、星にもあるように人間の考えている事はなんて小さいことか?
今回の世界的に問題になっているチベットの今起きている現実について「神道青年全国協議会が久富真人会長の名前で公式見解(会長談話)」上記のように発表されことは、大変すばらしい事と思います。それこそ神道の持っている本質と思います。
最後に、日本国の総理大臣含め国に関わっている公の司人もチベット問題や拉致被害者等、人権、領土問題等を日本国全ての国益のためにも世界にはっきりと丁寧に発信、主張してもらいたいものです。
舞蹴
神道は日本民族間に発生しその精神生活・文化の根底となった固有の民族信仰といわれます。神ながらの道、日本の心。いろいろ表現されますが。私は神道とは人類のみならず生きとし生けるものすべての共存共栄の大道だと思っています。いま世界を救うのはこうした共存共栄の営みしかないのではないかという私の持論なのです。ご意見いただけたら幸せです。
田頭
>伊予様
今回の神青協の会長談話については、「素晴らしい、よくぞ言ってくれた!」というよりも、「良かった、やっと会としての公式な見解を示してくれた」と一安心したのが私の正直な思いです。
私自身の体験としては(但し私は全国の神青の活動には参加していません)、神青の活動などに参加しても今までチベット問題が話題になった事は全くなかったので、青年神職とされる人達がこの問題に対してどれだけ関心を持っているのかがずっと気になっていたからです。
福田首相は、北京五輪の開会式には出席する方向で前向きに検討している、との事ですが、中共の国家発揚の場に積極的な姿勢で出席してしまっては、中共の対チベット政策に迎合しているとも受け止められかねないので、一国の行政府を代表する立場として、もっと慎重かつ毅然とした態度を取って貰いたいですね。
田頭
>舞蹴様
「いま世界を救うのはこうした共存共栄の営みしかない」という御意見、全く同感です。
世界各地に無数に存在する宗教も、互いの相違点を強調したり殊更対立を煽るのではなく、互いの類似点や共通点を見つけるよう努力し、共存・協調の道を模索していく事こそが、何よりも重要であると私は思っています。
勿論それは宗教間だけではなく、国家間や、個人同士の関係に於いても同様です。
宗教間の共存共栄については、以下の記事でも触れさせて頂きましたので、御一読戴ければ幸いです。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070126
伊予
田頭様
いつもながら日誌を興味深く読ませていただいております。
意見を述べたいと思っている方はたぶん沢山いると思いますよ。
田頭
>伊予様
私としても、そうである事を願っています!
2008-04-29 終礼の次第・作法 
私が階位を取得するために2年間在学していた京都の某養成機関では、毎週月・火・水・金・土曜日は授業終了後の午後5時から、校舎内の祭式場にて学生達により「終礼」(しゅうれい)という拝礼行事が行われていました。
終礼の祭員は毎回1年生が奉仕する事になっており、斎主(さいしゅ)、祓主(はらいぬし)、大麻所役(おおぬさしょやく)の三役を、原則として出席番号順に1年生が持ち回りで奉仕していました。但し(今はどうなのか知りませんが私が在学していた当時は)、所作を間違えると翌日も同じ人が同じ所役を担当し、3日連続で間違えると、罰当番(大抵は、朝早く起きて寮の便所を掃除する役目)が課せられていました。
終礼が終わると学生達はすぐに京阪電車に乗って学生寮のある八幡市まで帰らなければならないため、終礼では白衣・袴には着替えず、服装は授業の時と同じ学生服のまま奉仕しましたが(写真参照)、その点以外は神社祭式作法に則った正式な次第・所作で、御奉仕をさせて頂きました。
現職の神職になってから時々受ける神社庁研修所主催の各種研修会の日程の中で行われる朝拝行事や夕拝行事では、受講生達は終礼の時と同じく斎主・祓主・大麻所役の三役を奉仕させて頂きますし、また、神社の大前にて日常的に行う各種の御祈祷も、結局の所は斎主・祓主・大麻所役の三役を一人で奉仕している訳であり、つまり今振り返ってみると、神職としての日頃の神事で行う所作の多くは、実は終礼の内容がそのまま基本になっていたのだな、という事に改めて気付かされます。
今回、なぜ終礼の話をしたのかというと、今月からその京都の養成機関に入学した学生(昨年4月10日付の記事、今年1月1日付の記事、今年3月18日付の記事などにコメントを付けて下さった葉月さん)から、先週、「終礼は昨日から一年生で行っています。私は昨日、斎主でした。間違えましたが…」というメールを頂き、私が終礼の奉仕をしていた1年生だった当時を思い出し、とても懐かしく感じたからです。しかも、「間違えましたが…」というその初々しさには、何だか微笑ましくも思いました(笑)。確かに、最初は誰もが例外なく間違えていました(笑)。
そこで今日は、神職養成機関の1年生だった当時、私達がほぼ毎日奉仕していた終礼とは具体的にどういった内容であったのかを、以下に、所役別にその所作をまとめてみたいと思います。今回は祭式の専門用語のオンパレードとなるため、神社関係者以外の方は「何を言っているのかさっぱり…」と感じられるかもしれませんが、しかし、たまにはこういった“いかにも神職らしい”記事も良いのでは、と思います(笑)。
なお、以下の例では、斎主・祭員の自座と祓戸はいずれも「右面」(これは「うそく」と読み、神様から見た場合の右側の意で、神様と対面する自分から見ると左側になります)にあり、また、祓戸に軾(ひざつき)はありません。
≪ 斎 主 ≫
【1】 大麻所役が自座に着座・小揖をした直後、斎主は小揖をし、右足から進む起座にて立ち上がる。
【2】 右足から緩歩にて二歩前進し、三歩目から平歩となって正中へ向かう。
【3】 正中近くで緩歩となり、正中にて進行の左折をして御神座と向き合い、小揖。
【4】 左膝から先に突き起居をし、左足から三歩膝進。
【5】 着座・深揖。
【6】 二拝二拍手一拝。一息おいて二拝。
【7】 大祓詞を懐中より出し奏上。
【8】 大祓詞を懐中する。
【9】 二拝二拍手一拝。一息おいて二拝。
【10】 神社拝詞奏上。
【11】 二拝二拍手一拝。
【12】 明治天皇御製唱和。
【13】 教育勅語唱和。
【14】 深揖をしてから起居をし、右足より三歩膝退。
【15】 右足から退く起座にて立ち上がり、小揖。
【16】 左足は動かさずに右足のみ左後方に一歩逆行して右足を正中から外し、そこで逆行の左折をして自座と向き合う。
【17】 平歩にて自座に向かい、自座の直前にて止立してから、座前着座。小揖。
◆ 明治天皇御製は、月・金曜が一〜五首まで、火・土曜が六〜十首までを唱和。
◆ 教育勅語唱和は、原則として土曜のみ。
≪ 祓 主 ≫
【1】 大麻所役が「終礼を執り行います」と言い正中と対面するよう体の向きを直した直後、祓主は小揖をし、右足から進む起座にて立ち上がる。
【2】 右足から緩歩にて二歩前進し、三歩目で進行の左折。大麻案の正中まで平歩にて斜行。
【3】 大麻案の正中にて進行の左折をして大麻と向き合い、小揖。
【4】 左膝から先に突き起居をし、左足から三歩膝進。
【5】 着座・深揖。
【6】 二拝。
【7】 一息おいてから浅い平伏をして祓詞を奏上。祓詞の最後の句「恐み恐みも白す」で深い平伏。
【8】 二拝二拍手一拝。
【9】 深揖をしてから起居をし、右足より三歩膝退。
【10】 右足から退く起座にて立ち上がり、小揖。
【11】 逆行の右回転(もしくは逆行の左折)で大麻案の正中を外し、自座に向かい平歩にて斜行。
【12】 自座の直前にて止立してから、座前着座。小揖。
◆ 斎主が平歩にて正中へ向かい出したら、祓主は着座したままの状態で、体の向きを左に約四十五度回転する。
◆ 斎主が平歩にて自座へ向かい出したら、着座したままの状態で、体の向きを元に戻す。
≪ 大麻所役 ≫
【1】 祓主が自座に戻り小揖をすると同時に、大麻所役は小揖をし、右足から進む起座にて立ち上がる。
【2】 右足から緩歩にて二歩前進し、三歩目で進行の左折。大麻案の正中まで平歩にて斜行。
【3】 大麻案の正中にて進行の左折をして大麻と向き合い、左膝から先に突き起居。
【4】 小揖をしてから、左膝より一歩膝進。
【5】 大麻を持って一歩膝退。
【6】 右足より退く起座にて立ち上がる。
【7】 右足より右後方に三歩逆行してから、逆行の左折。
【8】 斎主・祓主を祓う適切な位置まで、正中と平行に退歩。
【9】 進行の右折にて斎主・祓主と向き合い、右膝より起居。
【10】 小揖。大麻を左・右・左と振り、斎主・祓主を祓う。祓い終えたら小揖。
【11】 左足より退く起座にて立ち上がり、逆行の左折をして学生(斎主・祭員以外の一年生と二年生全員)を祓う適切な位置まで斜行。
【12】 適切な位置で左膝より起居し、小揖。大麻を左・右・左と振り、学生を祓う。小揖。
【13】 右足より退く起座にて立ち上がり、逆行の左回転をして、大麻案に向かい平歩にて斜行。
【14】 進行の右折で大麻案の正中に入り大麻案と向き合い、左膝より起居。
【15】 左膝から一歩膝進。
【16】 大麻を大麻案に戻してから、右膝より一歩膝退。
【17】 小揖をしてから、右足より退く起座にて立ち上がる。
【18】 右足から左後方に三歩逆行し正中を外してから、逆行の右回転で自座に向く。
【19】 自座に向かい平歩にて斜行。
【20】 自座の直前にて止立してから、座前着座。小揖。
◆ 大麻所役は、終礼の開始時に体を右に約四十五度回転し学生の方を向き、小揖をしてから「ただ今より終礼を執り行います」と言い、言い終えたら再び小揖をし、体の向きを元に戻す。
◆ 大麻案前での揖は、大麻を持つ前の小揖と、大麻を置いた後の小揖の二回だけ。
◆ 大麻所役は、自座を立ってから自座に戻るまで、着座する事はない。
◆ 斎主が平歩にて正中へ向かい出したら、祓主の回転に合わせて体の向きを左に約四十五回転し、祓主が体の向きを戻したら、それに合わせて大麻所役も体の向きを元に戻す。
◆ 大麻所役は、終礼の終了時(斎主が座前着座・小揖をした直後)に、体を右に約四十五度回転し学生の方を向き、小揖をしてから「以上をもちまして終礼を終わります」と言い、言い終えたら再び小揖をし、体の向きを元に戻す。
(田頭)
だいすけ
ざっと拝見しただけでも細かい所作がいっぱいあって、とても大変なお仕事ですね。それ故に頭で覚えるのでは無く、毎日繰り返し練習する事で体に染み込ませて行くのですね。
週末は以前このブログでも紹介されていた、葉室宮司の著作を読み耽っていました。
葉室宮司は元「形成外科」の医師だったとの事ですが、医者と神職の両方の立場から世の中の具象を簡潔に判り易く解説した文章は、「神道会の赤川次郎」のように心に柔らかく沁み込んで来て、幸せな週末を送る事が出来ました。私も、以前「整形外科」に勤務していた経験があるので、余計に共感出来る物があったのかも知れません。
他にもカメラマンや構成作家等の仕事を経験して来ましたが、今までの経験が無駄ではないという事が再確認出来たのも幸いでした。今までの職業経験を通して、物事を多角的に見る事が出来る様になれたのはこの上なく幸せなことかも知れません。
舞蹴
はじめまして、伊藤雅紀さんが亡くなったことを最近知りました。彼の名前で検索していましたらここに到達したわけです。伊藤さんは私の母館の後輩です。この春、息子が母館に入学しましたので、伊藤さんに再会できると思っていたのですが亡くなったことを知って驚きました。田頭さんがこのホームページでじつに温かく取り上げて下さって目頭が熱くなりました。彼の先輩として感謝します。
京都の養成所の体験談、詳細な各所役の作法興味深く意見しました。私は一人奉仕が通常の民社の神主です。
だいすけ
追伸
一般の人より神事に立ち会う機会が断然多い筈なのに、揖の組み方に大小があるとは気付きませんでした。具体的にはどのような違いが有るのでしょうか?。神職の方は、袍や狩衣のような「モコモコ系」の装束を着装されているので気が付かないだけなのでしょうか?。
田頭
>だいすけ様
だいすけさんは実にいろいろな経験を積まれているのですね。
仕事で、あるいはプライベートで何か大きな壁にぶつかった時、大抵は「知識」よりも「経験」の方がその突破口になりますから、今までの経験の積み重ねは、人生において貴重な武器、強みになりますよね。そういった意味では、様々な職を経験されただいすけさんが、ちょっと羨ましくもあります(笑)。
そして、そういった経験があったからこそ、葉室さんの言葉にもより共感できたのでしょうね。
ちなみに、その葉室さんは病気療養のため今年3月31日付で春日大社宮司を退任されました。
後任の宮司には、藤原氏の血筋を引く花山院家第33代目当主・花山院弘匡(かさんのいんひろただ)さんが、翌1日付で就任されました。
揖や拝については、簡単にいえば、小揖(しょうゆう)は浅いお辞儀、深揖(しんゆう)は深いお辞儀、拝(はい)はもっと深いお辞儀の事です。
具体的には、小揖は伏す(腰を折る)角度が15度、伏している時間は極めて短い時間(1秒間)で、深揖は伏す角度が45度、伏している時間は半呼吸(2秒間)程度で、拝は伏す角度が90度、伏している時間は一呼吸(約3秒間)程度とされています。
ただ、現実には小揖なのか深揖なのかよく分からないような揖も時々見受けられ(特に高齢の神職だったりすると、本人は拝をしているつもりでも、他人からは小揖にしか見えない事もあったりします)、神職一人だけで奉仕している民社の一部に於いては、その辺は厳密には区別されていない事もたまにあるようです。
田頭
>舞蹴様
はじめまして。コメントありがとうございます。
舞蹴様のコメントを読んで、改めて、伊藤先生が誰からも慕われ愛されていた事を知り、私にとって自分の人生の中では本当に短い期間でしたが、伊藤先生のような素晴らしい先生と知り合える機会が得られた事を、嬉しく思い、また誇りに思いました。
ちなみに、私は今年の2月、皇大を訪問し、伊藤先生がおられた神道学科研究室も訪ねさせて頂きました。
その時の様子は以下の記事に詳しく書かせて頂きましたので、もし宜しければ御一読下さい。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080227
だいすけ
>田頭様
返信ありがとうございます!。拍手ひとつとっても横綱の土俵入りのような所作をされる神主さんもいらっしゃって面白いですよね。
まさかず
私は教派神道の道場にてかつて修行しました。その時に師匠から「祭式作法は頭で覚えるのではなく、ひたすらくりかえして体にたたきこむよりほか方法はないのである」と教わりました。
舞蹴
田頭様 早速のお返事恐縮です。仰せの通りすぐさま拝見。再度驚きました。本澤先輩を訪ねられたとは。私も先日再会し暫くお話できました。いつもながらの穏やかで優しい方でした。本澤さんの優しさが不変であったこと。嬉しく思いました。伊藤さんにはいろいろお話したいことがあったのですが残念です。
田頭
>だいすけ様
揖や拝の仕方は神職によって多少の差があり、また、笏(しゃく)の持ち方も神職によって差がある時があります。
常に一人で御奉仕する場合は兎も角、他社に助勤に行くなどして何人もの神職が同時に神明奉仕する場合、個々の違いは、参列者から見ると結構目立ったりしますね。
田頭
>まさかず様
教派神道で学ばれていたのですか。教派神道と神社神道とでは祭式に少なからぬ違いがあると思いますが、あくまでも基本は同じなのでしょうか?個人的には、教派神道の祭式にもちょっと興味があります。
火葬祭を行うためたまに火葬場に行く事がありますが、その際に何回か、火葬場のホールなどで教派神道系教団の神職を見かけた事があり(神社の神職とは装束が違っているので一目で分かります)、どういった次第・作法で神事を執り行うのか、ちょっと興味を持っていました。
ちなみに、私は京都にいた当時、休暇を利用して京都府亀岡市の「大本」の本部や、青森県平内町の「松緑神道大和山」の本部などに、参拝・見学・宿泊しに行って来た事があります。
田頭
>舞蹴様
伊勢では本澤先生には大変お世話になり、感謝しております。舞蹴さんの仰る通り、本当に穏やかで優しい先生でした。次に伊勢に行った時もまたお会いしたいなぁと思っています。
まさかず
教派神道の祭式は神社神道の祭式作法を基本としつつも、各教団や教祖の独自の考えやさまざまな土着的な要素、神仏習合時代の作法を踏襲したために各教団は独自の祭式作法になっております。又、斎服や浄衣、狩衣を着ることを廃止してその教団独自の装束を考案して着装し、大麻や大祓詞を廃止した教派神道教団もあります。
私は思いますが、神社神道、教派神道の違いがあっても、奉仕対象は同じ「神」であり共通する部分は当然たくさんあり、基本的な考えは同じといえます。
田頭権禰宜様は「大本」に行かれたそうですが、私も京都の綾部市の大本の本部に行った事があります。
田頭
>まさかず様
大本の両本部のうち、私はどちらかというと、宣教の中心地である亀岡天恩郷よりも祭祀の中心地である綾部梅松苑の方が個人的には興味があったのですが、綾部へは移動に時間がかかる事などから、結局亀岡の方に行って参りました。
亀岡では境内地で一泊してきましたので、夕拝や、翌朝の朝拝にも参列してきましたが、教派神道では使っていない事が多い大祓詞を奏上していたのは、神社神道と共通する部分だなと思いました(但し神社神道で使う大祓詞では今は削除されている天津罪・国津罪の具体的な内容を奏上していましたが)。
機会があれば、後学のため、また別の教団にも参拝・見学に行かせて頂きたいと思っています。
まさかず
教派神道から神社神道の神職になった方も大勢おります。小規模の教派神道教団では、その教団の教師養成機関を備えてない場合があり、子弟達を國學院大学や皇學館大学、そして全国に点在する神職養成所にて研鑽させるケースが多くみられます。私の知り合いの某教派神道教会の息子さんは、京都國學院出身で卒業後暫く神社に奉職してから実家の教会を継ぎました。
田頭
>まさかず様
そういえば、神職養成所で私の一期下の後輩にも、黒住教の信者がいました。
2008-04-28 松を奉納して戴きました 
だいすけ
コメントを読む前に写真を見た瞬間、除雪車を操縦する要領でショベルローダーを操縦する宮司さんの姿が頭に浮かんでしまいました。失礼しました。
田頭
>だいすけ様
ショベルローダーにこそ乗っていませんでしたが、この松が植樹された後、実際に宮司は耕具などを使ってこの周辺で作業をしていました。
最近、祭式の話が多く、関心深く拝読しております。
このブログによりまして、出雲大社の特別公開を知り、
此れも神縁と勝手に拝察して、急遽、出雲旅行を決しました。
明日より大阪に入り、5日に参社致します。
貴重な情報をありがとうございました!
お久しぶりです。
出雲に旅行に行かれるのですか!いいですねー!
帰札後、改めて出雲大社参拝の感想などを聞かせて戴ければ幸いです。
旅行の無事・安全を御祈念致します。
最近では二十四節気を気にかける事も少なくなりましたが、20年ほど前青果市場でアルバイトしていた頃は一番の関心事でした。
一流料亭等で使われる高級果物を扱う中卸で働いていたのですが、品種改良や温室栽培のお陰で一年中美味しい果物が手に入るものの、本当に美味しい物は露地栽培で育てた旬のものだという事を教わりました。
例えばイチゴは、今ではすっかり冬の果物だというイメージが強いのですが(クリスマスケーキの需要に合わせる為出荷時期をずらしてしまったので)、本当は初夏の果物なんです。栄養価だって食味だって、そして何よりも価格だって旬のイチゴの方が断然勝っているのに、些細な人間の我儘のために生物本来の生き方を歪められてしまって本当に可愛そうだと思いました。
外で食事をすれば、食べ物を平気で残したり好き嫌いを言ったりする人があまりにも多い事に気付かされます。天照大御神様の御力(太陽エネルギー)の偉大さに気付き、無駄な化石燃料を使わず、自分が生きて行く為に他の命を「頂いている」という事に思いを馳せれば、小麦粉もバターも決して足りなくはないと思うのですが、如何でしょうか?。
仰るように、自分が生きていく為に他の命を「頂いている」という思いに至る事はとても大切な事で、それは神様の御心にも適う思いであると思います。
「人間一人の命は地球よりも重い」という有名な言葉がありますが、私は、正直に言うとこの言葉は嫌いです。勿論人の命が大切である事は間違いありませんが、しかし、地球上に存在する全ての動植物を含むあらゆる自然よりも、人間一人の命の方が重いなどと言うのは、自然に対しての人間のエゴの極致であると思えてしまうからです。
命を「頂いている」と思う、その謙虚な思いこそが大切だと思います。