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西野神社 社務日誌

2007-07-31 次回の人形供養は10月からです

人形供養

5月1日から今日までの3ヶ月間受け付けて参りました人形供養の御祈祷(写真参照)は、社務の都合により明日から9月末日までの2ヶ月間、一時休止させて頂きます。

人形供養を御希望される方は、10月1日以降に直接当社に人形を持ってきて下さるか、もしくは、10月1日以降に当社に届くように人形を送って下さい。宜しくお願い致します。

(田頭)

2007-07-30 北海道横断旅行(後編)

今朝は、午前6時10分に釧路駅前のホテルをチェックアウトしました。昨日は只管“東”を目指して、日本本土最東端の納沙布岬まで行って来ましたが、今日は逆に、只管“西”を目指して札幌へと帰ります。しかし、折角釧路まで来ている訳ですから、札幌に帰る前に釧路市内も少し見て回ろうと思い、釧路を出る前に市内に鎮座する神社2社を参拝して来ました。


◆厳島神社

厳島神社 厳島神社

まず最初に参拝して来たのが、釧路市米町に鎮座する厳島神社(上の写真2枚)です。厳島神社創祀の年代ははっきりとしていないものの、幕府が東蝦夷地を直轄した寛政11年(1799年)頃に創祀されたと推定されているようなので、北海道内に鎮座する神社の中ではかなり古い神社のようです。

御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、阿寒大神(あかんのおおかみ)、金刀比羅大神(ことひらのおおかみ)、秋葉大神(あきはのおおかみ)、稲荷大神(いなりのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、海津見大神(わだつみのおおかみ)の7柱で、神社としての最終社格は「県社」でした。

ちなみに、上の右側の写真では石畳の参道が右側に分岐していますが、その分岐した参道の先には「釧路護國神社」が鎮座しております。


◆鳥取神社

鳥取神社 鳥取神社

次に参拝して来たのが、釧路市鳥取大通に鎮座している鳥取神社(上の写真2枚)です。鳥取神社は、明治17〜18年に鳥取県から移住してきた士族達が創始した鳥取村の鎮守として、出雲大社から御分祀を受け、明治24年に大國主神(おおくにぬしのかみ)を御祭神としてお祀りする神社として創建された神社です。

鳥取開基百年を記念して、鳥取県士族の精神的シンボルである鳥取城をイメージして境内に建てられた、城郭型の資料館「鳥取百年館」(上の右側の写真)が、かなり強いインパクトを放っていました。開館時間前だったため、生憎館内を見学する事はできませんでしたが。

そして、鳥取神社を参拝した後、午前7時20分に釧路を出発し、国道38号を走って帯広へと向かいました。帯広は、釧路から札幌へ帰る際には必ず通過する都市で、その帯広からは、狩勝峠や占冠村のトマムを経由して札幌へと帰るルートもあるのですが、私は最短ルート(但し難所あり)の日勝峠を通って札幌へ帰る事にしました。


◆帯廣神社

釧路の鳥取神社を出て丁度2時間後、帯広市内に入ったのですが、帯広市内に入ってすぐに国道沿いに大きな神社は鎮座しているを見つけ、神職として興味を惹かれましたので(笑)、その神社へも参拝させて頂きました。その神社が、帯廣神社(下の写真2枚)と、同社と隣接している十勝護國神社でした。

帯廣神社 帯廣神社

由緒書きによると、帯廣神社は、西野神社と同じく明治18年に創祀された神社で、明治43年に札幌神社(現在の北海道神宮)より御霊代を鎮斎し、昭和5年に「県社」に昇格し、現在では、道内に6社しかない「別表神社」のうちの一社になっているそうです。御祭神は北海道神宮と同じ大國魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遲神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の3柱で、帯広の総鎮守に相応しい、かなり規模の大きな神社でした。

また、同社に隣接して鎮座している十勝護國神社は、日露戦争終結後間もない明治39年に創祀された神社で、帯広出身の戦歿者や平和功労者など1,208柱をお祀りしているそうです。


◆日本神宮本庁

帯廣神社を参拝した後は、同社の比較的近くに鎮座している「帯廣明神大社」という神社(以下の写真2枚)にも参拝させて頂いたのですが、この神社は神社本庁の包括下にある神社ではなく、「日本神宮本庁」という神道系包括宗教法人の包括下にある神社で、境内に「神社神道日本神宮本宗 文部大臣所轄 日本神宮本庁」と刻まれた石柱が立っていた事から、同社が、その日本神宮本庁の本宗兼事務局となっているようです。

日本神宮本庁 日本神宮本庁

上の左側の写真が、その日本神宮本庁が本宗とする帯廣明神大社の全景で、右側の写真が、帯廣明神大社の社殿と、「日本神宮本庁」と刻まれた前述の石柱です。

ところで、昨年10月18日付の記事「本庁以外の神社神道の包括団体」では、神社本教、北海道神社協会、天社土御門神道本庁の3団体について解説をさせて頂きましたが、日本神宮本庁についてはまだ解説をしていなかったので、以下に、「神道事典」(弘文堂刊)から日本神宮本庁について記されている箇所を転載させて頂きます。

教派神道的な性格をもった教団。中島秀晃(1902〜88)が教祖。秀晃は、暦学、陰陽五行説などに関心を抱き、独白に研究を続けていたが、神理教の教師となり、昭和10年(1935)北海道河西郡に神理教所属の布教所を設立。15年宗教団体法による宗教結社として届け出た。その後秀晃は神職の資格もとり、昭和17年(1942)より河西郡芽室町の神社を複数兼務。戦後も神理教の布教所は拡大し大教会となるが、昭和25年に神理教から独立。それまで勤務していた神社を合わせて新制派神社神道として登記。28年には新制派神社本庁、さらに36年には日本神宮本庁と改称。この年本部を帯広市に移転。63年に秀晃が死去し、息子の中島康光が管長を継承。天之御中主神、天照皇大神、七福神大神を総称し、天照皇大神大神とする。「神理の法則」を知ることにより開運を図ることなどを説く。公称信者数約8万4千人

日本神宮本庁は、「平成17年版 宗教年鑑」(文化庁編)では「神社神道」に分類されていますが、この解説を読む限りでは、かなり教派神道としての性格が強い教団のようです。なお、同年鑑によると、日本神宮本庁の包括下にある神社数は24(このうち法人格を持っている神社は15)、布教所は28、計52箇所とされています。また、日本神宮本庁発行の書籍によると、同庁では全国を、道東、道北、道中、道西、道南、東北、関東、中部、近畿、中国、九州、四国の12教区に分けているようです。


◆1,031km!

帯廣明神大社を参拝した後は、帯広駅構内のエスタに立ち寄って実家へのお土産を買ってから、午前10時50分、帯広を経ち、一路札幌へと向かいました。そして、途中何箇所かで休憩をし、午後3時20分、ウチ(札幌市南区)に無事到着しました。釧路を朝早くに経ったため、多少寄り道をしたにも拘らず、暗くなる前に札幌に帰って来る事ができました。

ちなみに、一昨日の夕方にウチを出発してから今日ウチに帰るまで、私が車で走った距離は1,031kmで、この距離は、東京〜下関(山口県)間にほぼ相当します。さすがにこれだけ運転していると、いい加減車の運転はもう飽きました(笑)。


(田頭)

2007-07-29 北海道横断旅行(前編)

レガシーワゴン

今日・明日の2日間は神社から連休を頂きました。当初は東京に行くつもりで連休を貰ったのですが、5月7日付の記事で書きましたように東京へは5月に行って来たばかりなので、東京へはまた秋に行く事にし、今回の連休は車(貼付写真のレガシーワゴン)で道内を回る事にしました。

バイクに乗っていた頃は、タンデムシートにテントと寝袋を積んで1泊もしくは2泊程度の日程でよく長距離ツーリングをしていましたが、四輪に乗るようになってからは、自分で車を運転しての長距離の旅行やドライブ等はほとんどした事がなかったので、2連休というこの機会を利用して、ちょっと遠出をする事にしてみました。今回の旅行先は“道東”です。


◆昨夜は芽室で宿泊!

昨日、社務を終えた後、午後6時頃にウチ(札幌市南区)を出発し、まずは今回の旅行の第一の目的地である十勝支庁管内の芽室(めむろ)町へと向かいました(ちなみにこの時点では、第二以降の目的地はまだ未定でした)。芽室には、昨年2月16日付の記事「安産の象徴としての犬」や昨年6月24日付の記事「他宗教の結婚式」などで紹介させて頂いた、小学校時代からの古い友人であるK君が住んでおり、まずは彼に会うため、そして彼の家で泊めて貰うため、芽室に向ったのです。

北広島ICから夕張ICまで高速道路を走り、その後は石勝樹海ロード(国道274号)、日勝峠を通って、午後9時過ぎ頃に芽室に到着しました。芽室町は、札幌から十勝に向かった場合、帯広市の一つ手前に当たる町です。

芽室町のコンビニでK君と待ち合わせをし、久々にK君と彼の奥さんと再会を果たした私は、K君夫婦に連れられて帯広市内の居酒屋へと行き、そこで3人で夕食を食べてきました。店を出た後は、K君の家に泊めて貰うため、彼の家にお邪魔し、午前2時頃まで彼の奥さんも交えて3人で久々に長く熱く語り合い、楽しい一時を過ごさせて頂きました。

ちなみに、K君夫婦は昨年の6月に結婚したのですが、その時の祝賀会では僭越ながら私が発起人代表を務めさせて頂きました。昨夜はその祝賀会や二次会の話でも結構盛り上がりました。

そして、今朝は午前6時半に起床し、本日は仕事が休みであるK君と一緒に、彼の家から車で5分程の距離にある温泉(住宅街の中にあり、スーパー銭湯みたいな感じでした)へと行き、露天風呂に浸かりながらここでも1時間程彼と熱く語り合ってきました。

そして再び彼の家に戻って荷物の整理などをしてから、午前10時45分頃、K君と奥さんに見送られて、一晩お世話になったK君の家を出発し、私は更に東(札幌とは反対方向)へと向かいました。今回の旅行は、昨晩K君の家で泊めて貰うという事以外は一切予定を決めていない、かなり行き当たりばったりの旅行で、K君の家を出たこの時点では、釧路、もしくは、可能であれば根室まで行ってみようかなと漠然と考えていました。


◆芽室から根室へ!

とりあえず釧路に向かうため、本別まで開通している道東自動車道を利用する事にし、音更帯広ICから高速に入ったのですが、高速に入る直前、音更帯広ICのすぐ近くに鎮座している音更神社へと立ち寄り、参拝させて頂きました。音更神社は、町としては全道一の人口(約44,000人)を誇る音更町の総鎮守で、天照大御神を御祭神としてお祀りしている、明治33年に創祀された神社です。以下に貼付の2枚の写真が、その音更神社です。

音更神社 音更神社

音更神社には、一昨年の9月に利尻島で開催された、北海道神社庁研修所主催の神道行法錬成研修会で知り合ったS君が奉職しており、折角なのでS君にも一言挨拶したかったのですが、社務所で応対して下さった職員さんによると彼は出張しているとの事で生憎不在でした。アポなしの突然訪問だったので仕方ありません。

音更から道東道に入り、道東道の終点となっている本別からは国道274号、同392号を走り、白糠で国道38号に合流して海沿いを走り、午後2時に、釧路市に到着しました。帯広〜釧路間の距離は、札幌〜旭川間とほぼ同じで、運転所要時間は約2時間でした。そして釧路に着いた私は、「折角ここまで来たのだから、更に東にも行ってみよう」と思い、“東の果て”である根室まで行く事に決め、釧路で少し休憩した後、国道44号を走り一路根室へと向かいました。


◆北海道はとっても広い!

こうして午後4時15分頃、私は北海道を東西に横断し、日本本土最東端の街である根室市の市街地に到着しました。根室には10年近く前、バイクで一度訪れた事がありますが、私にとってはそれ以来の訪問となりました。釧路〜根室間は約120km強で、この区間も、距離的には帯広〜釧路間や札幌〜旭川間とほぼ同じでした。

ところで、日本最北端の街である稚内や、最東端の街である根室へは、同じ北海道内なのだから北海道民なら誰でも一度は行った事があるのだろう、と道外の人は思っているかもしれませんが、私の周囲を見る限りでは、稚内にも根室にも行った事はないという道民の方が圧倒的に多いです。これは私の推測ですが、多分大多数(9割)の北海道民は、根室へ行った事はないと思います。その理由は明確で、根室は遠いからです!

平成19年現在、北海道の人口は約560万人で、北海道の中心都市である札幌市には、そのうちの34%に当たる約189万人が住んでおりますが、その札幌から根室までの距離は約500kmあります。実は、この500kmという距離は、東名高速名神高速を使った場合、ほぼ東京〜吹田(大阪府)間の距離に相当します。東北自動車道を使った場合であれば、ほぼ浦和〜盛岡間に相当します。こうした事からも、北海道内の都市間の距離と、他県での県内都市間の距離を同じように考える事はできないのです。

ちなみに、道内の町の中で根室から最も遠いと思われる、北海道の最南西部に位置する渡島支庁管内の松前町(蝦夷地唯一の藩であった松前藩が置かれていた町です)からですと、根室までの距離は約800kmもあり、この距離は、ほぼ東京〜広島間に相当します。800kmというと、言うまでもなく日帰りできるような距離ではなく、しかも松前〜根室間には、東京〜広島間のように新幹線や航空路線がある訳でもないので、例え途中で宿泊したとしても、1泊程度でこの距離を往復する事はまず不可能です。

また、面積をみても、例えば網走支庁管内の北見市や十勝支庁管内の足寄(あしょろ)町などは、共に面積が約1,400平方kmありますが、東京都23区の面積が約621平方kmである事を考えると、北海道では、たった一つの市もしくは町が、23区全体の2倍もの面積を持っている事があるのです。このように、北海道はとにかく広いのです!


◆納沙布岬から北方領土を視察!

根室市に着いた私は、まず、国道沿いに立っていた標識の案内に従って、「北海道立北方四島交流センター」という、北方領土問題についての啓発とロシアとの交流促進を目的とした施設に行き、館内を見学してきました。

展示室に展示してあった各種資料は大変充実しており、それら全てをゆっくりと見学すると恐らく2時間あっても時間は足りないと思われましたが、私としては日が沈まない内に納沙布(のさっぷ)岬まで行きたかったため、かなり駆け足(30分程)で館内を見学し、受付の窓口で領土問題に関する各種大量の資料や、領土問題関連のグッズ(ステッカーや旗など)を貰ってから、すぐに納沙布岬へと向かいました。

そして、午後5時20分、ついに私は、根室半島の先端(北緯43度23分07秒、東経145度49分01秒)に位置する納沙布岬へと到達しました。納沙布岬は日本一早い日の出を見られる場所としても有名で、ここから北方領土(歯舞諸島)の貝殻島までの距離は僅か3.7kmで、岬からは肉眼ではっきりと歯舞諸島の島々を見る事ができました。以下に貼付の3枚の写真は、いずれも納沙布岬に立っていた標柱です。

納沙布岬 標柱 返せ 北方領土 返せ 全千島 樺太

下の左側の写真は、納沙布岬に立つ「平和の塔」という展望塔最上階の展望室(高さ97m)から見下ろした、納沙布岬の全景写真です。この手の観光施設は大抵午後4時半〜5時頃で閉館となるのが普通ですが、幸いにして「平和の塔」では、営業時間を「〜時まで」ではなく「暗くなるまで」と設定していたため、5時過ぎであったにも拘らず私は施設内に入る事ができ、貸切状態の展望室からゆっくりと眼下の景色を眺める事ができました。

下の右側の写真は、岬に建っている「四島(しま)のかけはし」という、北方領土返還を祈念するために作られた高さ13mのシンボル像です。像の下には「祈りの火」と呼ばれる点火灯台があり、この火は昭和47年に沖縄県波照間島(日本最南端の有人島)から採火されたものだそうです。なお、以下の2枚の写真は、いずれもクリックすると拡大表示されます。

納沙布岬全景 四島のかけはし

そして、以下の2枚の写真が、前述の「平和の塔」の展望室から望んだ北方領土の島々です。北方領土の中で最も根室寄りに位置する貝殻島は、納沙布岬から僅か3.7kmの位置にあり、その後方に位置する水晶島も含め、展望室からはこれらの島々をはっきりと肉眼で視認する事ができました。ちなみに、西野神社からですと地下鉄発寒中央駅までの距離、あるいは、札幌の地下鉄南北線でいえば大通駅〜北24条駅間の距離が、納沙布岬〜貝殻島の距離にほぼ相当します。山手線や京浜東北線でいえば東京駅〜上野駅間、京都の京阪本線であれば出町柳駅〜五条駅間が、ほぼ3.7kmです。北方領土とは、日本本土(納沙布岬)からそれ程に近い距離にあるのです。

肉眼で確認できる北方領土 肉眼で確認できる北方領土

上の左側の写真手前に写っている白い塔が納沙布岬灯台で、その対岸に位置する小さな島が貝殻島、その後方の島が水晶島、そして右側の写真は水晶島の一部です。肉眼でもこれ程はっきりと見える訳ですから、展望室に設置してあった望遠鏡を使うと、貝殻島の島内に建っている建物の細かな形や色までもはっきりと確認する事ができました(この2枚の写真もクリックで拡大表示されます)。

このように、実際に納沙布岬から北方領土を望むと、北方領土と称される日本固有の島々が、いかに根室から近い存在であるのかを実感する事ができます。しかし、根室から目と鼻の先であるにも関わらず、納沙布岬と貝殻島の間には、あってはならない“事実上の国境”が存在し、貝殻島は、行政上は北海道根室支庁に属する島でありながら、現実には日本の行政権が及ばない島となっているのです。この理不尽な現実に対しては、日本国民として、また北海道民として、とてももどかしい気持ちになります!


◆北方領土の碑

北方領土の碑 北方領土の碑

上の写真は、納沙布岬に鎮座する「納沙布金刀比羅神社」の境内に、神道青年全国協議会が昭和53年に建立した「北方領土の碑」です。私は、この石碑の存在は以前から知っていたものの、この石碑が納沙布岬のどこに立っているのかまでは正直知らなかったのですが、前述の「平和の塔」の駐車場からたまたま鳥居が見えたので、「どこの神社だろう?」と思いその鳥居のある神社に行ってみた所、その神社の境内でこの石碑を見つけました。

石碑の表面(左の写真)には「返せ 北方領土」、裏面(右の写真)には「一都一道二府四十三県の 心をこめて ここに記す 昭和五十三年八月二十五日 神道青年全国協議会」と文字が刻まれていました。私は一度も奉仕した事も参列した事もありませんが、神青協では数年おきに、ここで北方領土の返還祈願祭を斎行しているそうです。

結局、納沙布岬には1時間程おりましたが、午後6時を過ぎて辺りもそろそろ暗くなりかかってきましたので、私は、「根室に来て納沙布岬から北方領土を見る事ができて良かった」という充足感と、領土問題がなかなか進展しない事へのもどかしい気持ちの両方を抱きながら、根室の市街地へと戻りました。

なお、北方領土問題については、昨年2月7日付の記事「北方領土の神社」や、今年2月6日付の記事「北方領土の歴史(前編)」及びその翌日の記事「北方領土の歴史(後編)」などでも詳しく記させて頂きましたので、そちらの記事も御参照下さい。


◆今夜は釧路で宿泊!

今日はこのまま根室の市街地で泊まろうかなとも思ったのですが、今日根室で泊まってしまうと、明日一日だけで根室から札幌まで500kmもの距離を一気に運転しなければならなくなるので、明日の負担を減らすため、今日は釧路まで戻り、釧路で一泊する事にしました。

こうして午後9時過ぎ頃、私は釧路市へと到着し、市内に入ってから家に電話をかけてインターネットで釧路市内のホテルを家族に調べて貰い、安いビジネスホテルを見つけ、釧路駅近くのそのホテルにチェッインしました。

根室〜釧路間の距離は124kmありますが、両都市間には信号がほとんどなく、交通量も然程多くはないため、途中山道があったものの根室からは1時間55分で釧路に到着しました。ちなみに、今日は476kmの距離を運転しました。


(田頭)

大坊大坊 2007/08/01 21:04 お疲れ様でした。さすが若さですね。
先日、私も友人と風蓮湖を往復しましたので遠距離の実感分かります。確かに、周囲に稚内や根室に行ったことのある人は少ないですね。遠いからもあるでしょうが、いつでも行けるということでしょうね。
本州出身の私は道内全て行っているのですが、それも、いずれ本州に帰らなければという時期があったからです。
オートバイと違って4輪は安心できますね。気をつけて見聞を広めて下さい。

田頭田頭 2007/08/02 13:38 大坊さん、いつもコメントありがとうございます!
確かに二輪に比べると、四輪は安全・安心ですね。言うまでもない事ですが、二輪と四輪とでは、車体に同じ衝撃を受けたとしても自分自身が被るダメージが決定的に違いますからね。
それに、強い陽射しや雨風に自身が直接晒される二輪と、場合によっては車の中で寝泊りも可能な四輪とでは、居住性も格段に違います。

二輪に乗っていた当時を振り返ってみると、よくあんな危険な乗り物に乗っていたなぁと我ながら思います(笑)。私の母親は今でもたまに、「バイクに乗るのをやめてくれて、本当にホッとしたよ」と言います。
私も、自分は二輪に乗っていたにも拘わらず、もし親になったとしたら、やはり自分の子供には二輪には乗って貰いたくないと思うような気がします(笑)。
もっとも、運転そのものを楽しむのであれば、四輪よりも二輪の方が確実に面白いとは思いますけど。二輪は「実用性」というよりもほとんど「趣味」の世界ですからね。

ところで、四輪といえども田舎道では油断は禁物です!
今回の旅行では、根室市内の国道を走行中、道路脇の茂みから飛び出してきたキツネを危うく撥ねそうになり急ブレーキをかけるといったアクシデントもありました。
キツネのような小動物ならまだしも、シカやクマといった大型動物と接触したら、ドライバー自身も無傷では済まないでしょうね。田舎道は要注意です。

時々、宗谷本線や根室本線を走るJRの列車が、線路上を横断したシカもしくはクマと接触したために、ダイヤに何十分かの遅れが生じた、というようなローカルニュースを見聞きする事がありますが、こういったニュースは、道外の人達からすると、きっと“いかにも北海道”的なニュースに映るんでしょうね。

2007-07-28 木彫取り付け工事完了!

今月23日から行われていた、拝殿向拝の木彫装飾の取り付け工事が昨日完了し、拝殿が見違えました!さすが宗舟さん(東京の浅草と北千住に工房を構える木彫師さん)です、以前に比べて向拝が格段に格好良くなりました!ちなみに、比較のために貼付しておきますが、この写真(↓)が工事前に撮った向拝の写真です(冬に撮影)。

拝殿(工事前)

そして、この写真(↓)が、本日の朝撮ったばかりの、木彫取り付け工事完了後の写真です。両方の写真を見比べてみると、かなり全体の印象が変わったのが分かると思います。木彫を取り付ける直前に向拝全体を徹底的に洗浄して下さったため、形状だけではなく、向拝の色自体も明るくなりました。

拝殿(工事後)

この写真2枚(↓)は、木彫取り付け部分の、工事前(左側)と工事後(右側)の比較写真です。どちらの写真もクリックすると拡大表示されます。右側の写真に写っている本殿側(扉のすぐ上)の木彫は、「宝尽くし」というデザインの、大変御目出度い装飾です。

拝殿向拝(工事前) 拝殿向拝(工事後)

なお、木彫取り付け工事の様子を写した写真は、「西野神社アルバム」の平成19年7月「向拝木彫取り付け工事」のページ(下記URL)にも多数掲載させて頂きましたので、是非御覧下さい。

http://nishinojinja.or.jp/photo/190723.htm

(田頭)

2007-07-27 地域代表者と総代の合同会議

合同会議

今日は午後6時半から、当社参集殿に於いて、地域代表者(各町内会の会長さん達)と当社総代との合同会議が開かれました。

今日の合同会議では、24日の総代会で協議された各議案を地域代表者の方々に説明・報告し、幸いにして皆様方には全議案を快く理解・承認して戴く事ができました。

合同会議は約1時間半程で終わり、その後は引き続き参集殿で直会(懇親会)が開かれました。ちなみに、今日の合同会議と直会の様子を写した写真は、「西野神社アルバム」の平成19年7月「地域代表者と総代の合同会議」のページ(下記URL)にも掲載しておりますので、御覧下さい。

http://nishinojinja.or.jp/photo/190727.htm

出席者の皆様方、本日は夜遅くまでお疲れ様でした。そして総代の大坊さん、高橋さん、直会の後片付けを手伝って下さり、どうもありがとうございました。

(田頭)

2007-07-26 神葬祭での神職の装束

今日・明日の2日間、祭員として神葬祭(神式の葬儀)で御奉仕をさせて頂く事になりました。当社で神葬祭を受けるのは今月に入ってから2件目ですが、前回の神葬祭は宮司と松澤権禰宜との二人奉仕であったため、私が神葬祭で御奉仕させて頂くのはかなり久しぶりです。

当社での神葬祭の流れについては、昨年1月18日付の記事「神葬祭」で詳しく記させて頂きましたので詳細は割愛しますが、改めて簡単に記しますと、当社で執行する神葬祭は、「帰幽奉告・枕直し → 通夜祭 → 葬場祭・発柩祭 → 火葬祭 → 帰家祭」という流れで執り行われます。このうち「葬場祭・発柩祭」は、神事としては意味の異なる別々の祭典なのですが、実際には同一斎場で続けて執り行われるため、参列者から見ると同一神事のように映るかもしれません(「帰幽奉告・枕直し」も同様です)。ちなみに通夜祭は、昨年春までは「前夜祭」という呼称を用いていました。

そして、これらの神葬祭では、その時々に応じて神職の装束が変わります。しかし、普段神葬祭に参列する機会が少ない大部分の方は、恐らく神葬祭での神職の装束についてはほとんど御存知ないと思います。そこで今日は、神葬祭で神職が着装する装束について、以下に写真を提示しながら紹介させて頂きます(あくまでも西野神社での例であり、実際には各神社によって多少の相違がある事を御了承下さい)。


≪鈍色の衣冠≫

鈍色の衣冠

「鈍色」とは、葬祭奉仕時に神職が着装する装束に使われる専用色で、灰色に近い色です。当社ではこれを「にびいろ」と読み、以前私が実習していた神社では「にぶいろ」と読んでいましたが、改めて「鈍色」という言葉を国語辞典で調べてみるとどちらの読み方も掲載されているため、読み方はどちらでも良いようです。

「鈍色の衣冠」は、「通夜祭」「葬場祭・発柩祭」の時に斎主が着装します。一般の葬祭奉仕時の神祇装束としては最も正式な装束で、装束の色が鈍色という事以外は、基本的に「正服」や「斎服」と変わりはありませんが、ただ、頭に被る冠(かんむり)の纓(えい)の形は、正服や斎服と異なります。正服・斎服着装時の冠の纓は、冠の後方から後ろに垂れているのですが、葬祭奉仕時の纓は後ろに垂れず、クルクルと丸まっています。

なお、この装束の事を「鈍色の斎服」と称する場合もありますが、厳密にいうと、斎服というのはあくまでも白色の衣冠の事なので、この言い方は正確ではありません。

ちなみに、上記文中では「正服」や「斎服」といった言葉が出てきましたが、正服の写真はこのページ(←ここをクリックに、斎服の写真はこのページ(←ここをクリック)に掲載されていますので、御参照下さい。


≪鈍色の狩衣≫

鈍色の狩衣

「鈍色の狩衣」は、「帰幽奉告・枕直し」「火葬祭」の時に斎主が、「通夜祭」「葬場祭・発柩祭」の時に祭員が着装します。通常の狩衣(かりぎぬ)とは、色が異なるだけで形は全く同一です。

なお、この写真と、この写真の上下の写真とでは、持扇(じせん)の作法(の持ち方)が異なりますが、どちらの持扇も、祭式の教科書に載っている正式な作法です。最も一般的な持扇とされているのはこの写真の作法(主に女子神職向けの作法)で、上下の写真の持扇は、特に男子向けの持扇(主に総代向けの作法)とされています。


≪鈍色の格衣≫

鈍色の格衣

格衣(かくえ)は、本来は正式な神祇装束ではないのですが、着装が最も容易な装束であるため、当社では、装束の着装が容易でない時(例えば改服場所がなかったり、人の往来が激しいような場所)に於いては「鈍色の狩衣」の代わりにこの「鈍色の格衣」を着装する事があります。具体的には、「帰幽奉告・枕直し」の時に斎主が、「火葬祭」の時に祭員が、この装束を着る事があります。


≪備考≫

一連の神葬祭の流れの中で最後の儀となる「帰家祭」だけは、鈍色ではなく白色の装束を用い、具体的には、斎主は斎服を、祭員は浄衣を着装します。

但し、葬儀を執り行う機会が滅多にない神社では、葬祭専用の鈍色の装束を揃えていない所もあり、そういった神社が葬儀を執行する場合、神職は、装束を変える事なく一貫して斎服や浄衣などの白い装束を着装して奉仕されているようです。

ちなみに、神葬祭に於いて当社の神職が手に持つ具は、帰家祭では通常通り(しゃく)ですが、帰家祭以外においては鈍色の中啓(扇の一種)を用います。


(田頭)

2007-07-25 夏真っ盛り!

アジサイ

今日、札幌の最高気温は30.8℃を記録し、札幌では今年初めての真夏日となりました。本州方面から張り出した高気圧の影響による気温上昇らしいですが、札幌の真夏日初日は平均7月20日なので、平年より5日も遅く、昨年と比べると11日も遅い真夏日となりました。

また、市内の多くの小中学校(305の市立小中学校)では今日、1学期の終業式が行われ、明日から夏休みに入ります。2学期の始業式は、小学校は来月20日から、中学校は来月27日に行われるそうです。

この暑い中、当社拝殿の向拝では、現在、「宗舟」の木彫師さん達が懸命に木彫取り付け工事を行ってくれております。工事の様子は、完成後に、このブログや「西野神社アルバム」などで紹介させて頂きます。

今日貼付の写真は、当社の境内で咲いているアジサイで、その後方に見える赤い屋根の建物は神輿殿です。

(田頭)

2007-07-24 秋祭りに向けての総代会

御神輿渡御

今日は、当社参集殿に於いて午後6時から総代会が開かれ、二十数名の総代さん達が出席し、主に9月15・16両日に亘って行われる今年の秋祭りについて話し合われました。

祭典行事(宵宮祭、例祭、神輿渡御、後片付、直会等)について、秋祭り期間中に神楽殿で披露される演芸について、祭典関係収支予算について、神輿渡御(写真参照)の順路について、子供神輿渡御奉仕者募集について、神社参道に掲出する奉納提灯についてなど、秋祭りに関する各種の打ち合わせが行われ、また、伊勢の神宮式年遷宮奉賛事業への取り組みについてなども話し合われました。ちなみに、子供神輿の渡御と、奉納提灯の募集は、いずれも今年から初めて行われます。

そして今月27日には、今日の総代会で決まった事柄を報告・協議するため、当社総代さん達と各町内会長さん達との合同会議が開かれます。季節はまだ夏ですが、当社では段々と秋祭りに向けての動きが本格化してきます。

(田頭)

森野森野 2007/07/26 19:10 こんにちは。毎日拝見させて頂いております。以前瀬戸内・四国方面旅行の祭にはどうしたのか??心配のコメントを送ったことがある横浜のオジサンです。今日の日誌とは関係ないのですが職業柄よく困ることがあるので質問させて頂きます。職業は大工なのですが今回、リホーム工事の依頼がありまして、以前その家で生活していた叔母さんが(逝去)信心していたと思われる間口一間、高さ四尺くらいの神棚がありまして中央に天照皇大神宮の大きな木札、その左右にお稲荷さん(キツネの人形三体と和紙に毛筆で書かれたもの)、先祖の位牌、線香立てなどごちゃごちゃになっています。一部屋がそれのために気楽に使えない雰囲気のため一般家庭の神棚・お社などコンパクトにまとめたいと相談を受けたのですが−−−具体的にどうしたらよいのでしょうか?キツネの人形は触るのがなんとなく恐い気がするんですよね。ほかにも住人が亡くなり引き継ぐ身寄りもないのか解体する家に残された神棚、仏壇、位牌など困るんですよね−−この前なんか明治神宮崇敬会員、地元神社氏子役員さんみたいで昭和からの聖上のご真影や国旗などが飾られているお宅の解体前の産業廃棄物処理で困りはて−−(産業廃棄物業者は気にせずゴミ扱いなのですが)依頼元の不動産屋に地元の神社を探して納めて貰うようにお願いしてみたんですが、その後はどうなったかはわかりません。先祖や親戚の遺産だけで神仏を捨て去る若人が多いのも哀しいです

田頭田頭 2007/07/28 04:07 森野さん、お久しぶりです。
その節は御心配して戴き、どうもありがとうございました!

御質問の件ですが、昨年11月2日付の記事「神棚と仏壇」でも述べましたように、一つの家庭に神棚と仏壇の両方が同時にお祀りされている事は(積極的に推奨している訳ではないものの)別に構わないと思いますが、しかし、その両方が合体してしまう事(例えば、神棚に神社のおふだと御先祖様の位牌がお祀りされている)は好ましくありません。
いくらコンパクトにしたいとはいえ、それは避けた方が良いと思います。

間口一間、高さ四尺くらいの神棚というと、かなり大きな神棚ですよね。
最近は神棚も仏壇も、かなり小型なコンパクトサイズのものが増えてきておりますので、神棚・仏壇共にそういったものをお求めになられるというのも一つの手だと思います。
例えば神棚であれば、品質に拘らなければホームセンターなどでかなり小型・安価なものが売られていますし、神社でも、簡易な神棚(おふだ立て等)を授与品として用意している所は少なくありません。

解体する家に残された神棚、仏壇、位牌などについてですが、やはり神棚・神具関係については神社に、仏壇・仏具関係についてはお寺さんに相談されるのが最も良いと思います。
当社の場合は、神棚や神具、古いおふだやお守り、人形やぬいぐるみ、写真やアルバムなどはお預かり(清祓いの後お焚き上げ)しておりますが、仏具関係や故人の遺品等については、お寺さんもしくは専門のお焚き上げ業者さんに持って行く事をお勧めしています。

森野森野 2007/07/28 18:12  お忙しいのに申し訳ありませんでした。お施主さんに伝えてみます。個人的には折角、一部屋使って大きな神棚を纏ってあるのですから周辺を整理して家庭祭祀を故人にならい継続して行かれたらと思うのですがね。

田頭田頭 2007/08/02 13:05 森野さんへ
仰る通り、可能であれば、やはり御家族が故人に倣い家庭祭祀を継続するのが一番良いですね。
もっとも施主さんは、それが困難なので「神棚をコンパクトにまとめたい」と森野さんに相談されたのでしょうが…。

2007-07-23 中越沖地震の教団別被災・支援状況

新潟県柏崎市や同県刈羽村などに甚大な被害をもたらした、最大震度6強を記録した「新潟県中越沖地震」発生から、今日で丁度1週間が経ちました。今回の地震でお亡くなりになった方々に心より哀悼の意を表すると共に、怪我をされた方、住宅等に被害を受けた皆様方に、心よりお見舞い申し上げます。

今回の地震では、当然の如く神社・仏閣・教会などの宗教諸施設も大きな被害を受けました。“仏教王国”とも称される北陸地方は、浄土真宗曹洞宗の勢力が特に強く、両宗派系統の寺院が多いため、真宗や曹洞宗の寺院は大きな被害を受けた所が少なくなかったようです。また、新潟県は全国で最も神社が多い県であるため(4,779社あるそうですが、その大半は神職が常駐していない無人の神社です)、神社の被害状況は未だ完全に把握できるまでには至っていないものの神社の被害も少なくはなかったと思われます。

今日は、今回の地震での各教団毎の被害状況と、今回の地震に対しての各教団の支援・復旧活動をまとめてみます(平成19年7月23日現在の最新情報です)。


◆神社本庁

神社本庁は地震発生当日の16日、田中恆清副総長(石清水八幡宮宮司)を本部長とする「災害対策本部」を設置し、新潟県神社庁でも翌17日、庁長を本部長とする「新潟県中越沖地震対策本部」を設置し、神社関係の被害状況をはじめとする各種情報の収集を開始しました。

17日、本庁で対策本部会議が開かれ、現段階では新潟・長野両県の別表神社については特に被害が出ていない事と、長野県飯綱町の神社で工作物に被害が出いている事などが報告されました。

20日、本庁の災害対策本部の田中本部長と、神道政治連盟の稲貴夫事務局長が中越沖地震の御見舞に新潟県神社庁を訪れ、神社庁では、永井庁長と栗田参事が県内神社の被災状況や今後の対策方針について説明を行いました。

新聞等に掲載されたコメントによると、地震発生直後、新潟県神社庁では「状況把握に努めているが、情報が錯綜し、連絡が取れない宮司さんもいる」と話し、長野県神社庁では「新潟に比べれば被害は少ないが、飯綱町の牟礼神社や飯山氏内数ヶ所の神社で灯籠などの工作物が倒れた」と話していたようです。なお、新聞等に掲載された被災写真を見ると、新潟県柏崎市に鎮座する柏崎神社や柏崎大神宮、同権刈羽村に鎮座する若宮八幡社は、全壊した模様です。

新潟県内各神社の被災状況や、被災神社への支援状況、神社庁としての今回の地震への対応等についての最新情報は、17日に開設された「新潟県神社庁/新潟県中越沖地震情報」というブログ(下記URL)に詳しく記されています。

http://niigata-jinjacho.blog.ocn.ne.jp:80/chuetsuoki/


◆浄土真宗本願寺派(西本願寺)

17日午前中までに同派の伝道社会部に寄せられた情報によると、同派の新潟・長野両県内の寺院約80ヵ寺が被災した模様で、最も被害が大きかった柏崎市の西永寺と向徳寺の両寺院では本堂が全壊し、上越市柏崎区の正福寺も本堂の梁や向拝が破損し、堂内には立ち入れない状態が続いているそうです。特に被害は集中しているのは柏崎市や上越市の寺院で、本堂が傾いたり、本堂の屋根瓦の落下、壁の剥離、仏具倒壊、墓石倒壊などの被害が報告されています。

長野県飯山市の自坊・正行寺で今回の地震に遭遇した育成研修部の井上慶正賛事は「まるで荒海に浮かぶボートに乗っているようだった。思い出すだけで恐ろしく、暫くはトラウマとして残りそう」と話し、「本堂の壁が順番に剥がれ落ちていく」のを目の当たりにしたそうです。

本山宗務所からは、葛谷英淳伝道社会部長ら宗務員5人が、17日午前中に見舞金や見舞品のタオルなどを車2台に積み込んで出発しました。国府教区、新潟教区、長野教区では、教務所長らが被災寺院を見舞い、各教区では17日午後に災害対策委員会を開き、被災寺院や門徒達への支援策を協議しました。そして、この災害対策委員会の決定を受けて18日、有志のボランティア僧侶十数人が先発隊として現地(西永寺)に入り、住民に炊き出しを行い、すいとん百食を近隣住民へ振る舞うなどしました。


◆真宗大谷派(東本願寺)

同派寺院の被害は三条、高田、東京の3教区に跨っており、三条教務所によると、柏崎市や刈羽郡を中心に大きな被害が出ている模様です。柏崎市の聞光寺で本堂が倒壊した他、9ヶ寺程で山門や墓石が倒れ建物が傾いたそうですが、幸い寺族に怪我人は出ていないとの事です。

昭和5年に再建された本堂が全壊し、本尊も縦に3つに割れるなど甚大な被害を受けた聞光寺の坊守・井上さんは、「3年前の新潟県中越地震でも被害を受け、ようやく瓦の葺き替えが終わったばかりだった。これで親鸞聖人の御遠忌が迎えられると思ったのに」と肩を落としていたそうですが、庫裏と、境内にある幼稚園の建物は無事との事です。

三条教区では17日、本山から派遣された職員と協力し、被災地の寺院にタオルやブルーシート、水などを届け、高田教区では、17日午前までに34ヶ寺で壁や柱の破損、墓石の倒壊が確認されました。また、東京教区では16日、職員が長野第3、第4組の全寺院を訪問しましたが、壁の崩落や仏具の散乱は確認されたものの、三条・高田両教区に比べると被害は比較的軽かった模様です。

なお、今回の地震では同派の男性門徒(80歳代)が建物の倒壊に巻き込まれて路上で亡くなっており、既に近親者だけで密葬は済ませたものの、火葬場が機能していないため本葬はまだ行えない状態との事です。


◆曹洞宗

同宗寺院は、新潟県第三宗務所第六教区の柏崎市内に約50ヵ寺あり、宗務所の置かれている竜雲寺は甚大は被害がなかったものの、同市内の福厳院は全壊しました。また、同市にある妙智寺は本堂内の本尊や仏具が全て倒れ落ち、墓石は3分の2が倒壊しました。

乙川暎元教学部長は16日、長岡市内で地震に遭い、すぐに柏崎市の中心部を車で回り混乱状態を目の当たりにし、翌17日には、新潟入りした葦原正憲総務部長や総務部福祉課の職員らと一緒に被災地を視察しました。

17日、宗務庁内では、渕英徳宗務総長を本部長とする「対策本部」が設置され、同日、第三宗務所(竜雲寺)にも、葦原総務部長を本部長とする「現地対策本部」が設置され、ボランティアの受入れ態勢を整えるなどの支援活動が始まりました。また、宗務庁では被災地に救援物資を送ると共に、全国曹洞宗青年会、SVA(シャンティ国際ボランティア会)に協力を要請しました。

新潟県曹洞宗青年会は、17日午後、高橋英寛議員(全曹青幹事)を交えて今後の対応を協議しました。高橋議員は「宗門と青年会が足並みを揃えて復旧に当たりたい」と話しています。

19日には、渕宗務総長が新潟県庁を訪問し義援金を贈った後、現地対策本部で今後の対応を検討し、宿泊可能なボランティアセンターを竜雲寺前の公民館に設置し受け入れ態勢を整えました。

23日には曹洞宗総合研究センターと宗務庁からボランティアが派遣される予定で、30日以降は、永平寺・総持寺両大本山をはじめ各専門僧堂からもボランティアが派遣される予定です。


◆天台宗

天台仏教青年連盟は、地震発生後直ちに新潟県の震災対策本部に義援金を送りました。同宗所属の寺院の中では、特に大きく被災した寺院はなかったようです。


◆高野山真言宗

柏崎市の延命寺の本堂が崩れ全壊したものの、寺族に怪我はなかったようです。地震発生時、同寺の宇佐美住職は本堂内にいて「梁がバキバキ音を立てて折れ、飛び出すのがやっとだった。揺れなどというものではない。3年前の中越地震など何度か経験しているが、これ程の体験は初めて」と話していました。

16日から18日にかけて被災地を訪れ現地を視察した本山の五味芳道社会課長は、「阪神・淡路大震災の時と同じような被害状況だと思った」と話し、同宗では18日に災害対策本部を開設し、23日から実働態勢に入りました。今年3月に起きた能登半島沖地震では、能登・石川両支所で計53ヵ寺が被災しましたが、今回は、両支所内では特に被害は出なかったようです。


◆真言宗豊山派

地震発生時、檀家宅に出かけていた桑原和雄越後支所長によると、柏崎市の自坊・極楽寺を含め近隣の寺院では境内の石仏や石灯篭などが倒れ、壁のひびや欠落などの被害が出ているそうです。桑原支所長は「3年前の地震では長岡など山の方が被害を受けたが、今回は海岸線の地域が被害の中心ではないか」と話しています。

17日、宗務所では、浅井侃雄宗務総長を室長、中川祐聖総務部長を副室長に災害対策室を設置し、19日には、亀卦川尚文管財課長と書記1人が、越後支所管内寺院の被災状況取りまとめのため現地調査に入りました。

20日には、越後支所で豊山仏青災害対策拡大委員会の会議が行われ、宗務所から中川祐聖総務部長がオブザーバーとして出席した他、地元の宗会議員である佐藤義調氏と若月良英氏や、豊山派仏教青年会も会議に出席し、会議では現在把握している被害状況の報告が行われ、特に被害の大きい所へは重ねて調査を行う事などを決定しました。


◆真言宗智山派

新潟第三教区では、電話で教区内寺院の地震の被害状況を調べ、その結果、建物の倒壊などは報告されなかったものの、仏具の破損や墓石が倒れるなどの被害が報告されました。18日、同教区の鈴木教区長は、特に被害の大きかった日本海側の9ヵ寺を視察しました。


◆真言宗醍醐派

柏崎市の大照寺では本堂が傾き、庫裏が全壊しました。同市の不動院も、建物自体は無事だったものの本堂と庫裏の内部が散乱し、仏像が破損するなどの被害が出ました。


◆浄土宗

17日までに宗務庁に入った報告によると、被害は柏崎組で大きく、柏崎市内の西福寺と浄土寺の2ヶ寺では本堂と庫裏が全壊し、他の2ヶ寺でも本堂が半壊するなど大きな被害を出しました。西福寺では、本堂・庫裏の全壊に加え、墓地が陥没するなどの被害も発生したようです。

同宗では17日、災害対策本部を設置し、現地の新潟教区と連絡を取りながら状況の把握に努め、郵便振替による義援金の窓口を設け、新潟教区でも教務所内に対策本部が設置されました。

19日には、同宗の大本山知恩寺(京都市左京区)が勤息義照大御忌事務局長らを現地に派遣し、勤息事務局長らは被災寺院を見舞うと共に、見舞金や、飲料水・食料・日用品などの救援物資を届けました。知恩寺では先月27から3日間、勤息事務局長らが新潟教区に八百年大遠忌の勧募の依頼で出向いたばかりで、その矢先の震災だったため、いち早く見舞いに駆けつけたようです。

宗務庁では、23日に社会国際局と寺院共済を担当する財務局の職員らを現地に派遣し、被災寺院を見舞うと共に被害調査を行いたいとしています。

また、全国浄土宗青年会でも、19日に塩野理事長や東海ブロック長らが被災地に救援物資を届ける事を決め、義援金の拠出や新たな募金活動を実施する事を決めました。


◆日蓮宗

被災者のお見舞いと被災状況の確認・把握のため、18日、藤岡暎邦総務部長と橋本浩久福祉共済課長らが現地に入り、事前に本堂などが倒壊したとの情報が入っていた4ヵ寺を訪れました。この4ヵ寺のうち、柏崎市の東城寺と深光寺では本堂が全壊しました。

宗務院からは、小松浄慎宗務総長名の見舞い文書と見舞金が各被災寺院に渡され、また、新潟県西部宗務所や柏崎市役所にも見舞金が送られました。


◆臨済宗妙心寺派

今回の地震では、同宗の寺院は震源から離れていたため大きな被害はなかった模様です。支援活動については「現地と連絡と取って対応を決めたい」としています。


◆カトリック司教協議会

カトリック司教協議会の一団体として社会福祉の推進と募金・援助活動などを行なっている「カリタスジャパン」では、今回の地震による被災者救援のため、募金の受付を始めました。カリタスジャパンは現在、該当教区の担当者からの情報を待っている段階で、今後 現地災害対策支援本部と共に支援を実施していく予定です。


◆日本基督教団

柏崎市にある同教団の柏崎伝道所では、教会内部の家具類が散乱するなどの被害が出たものの、教会の建物への被害は少なく、倒壊の危険は無いとの事です。同教団の臼田宣弘牧師は、「現地に行って何か出来るかではなくて、自分が現地へ行って何をするのか明確にしてから来て欲しい」と具体的な援助を呼びかけています。

同教団関東教区新潟地区では、今後、対策本部を設置し、ボランティアのネットワークを形成していく予定です。


◆日本ホーリネス教団

柏崎市にある同教団の柏崎聖光キリスト教会は、1階部分が潰れ、2階部分が斜めに落ち込み半壊するという被害を受けました。地震発生時、同教会の片桐牧師夫妻は教団の聖会に出席していて現場にはおらず、教会は無人だっため幸い怪我人などは出ませんでした。


◆救世軍

18日、救世軍の緊急支援チームは、最近装備されたばかりのキャンティーンカー(緊急支援用車両)を柏崎市に出動させ、給食活動を行いました。避難所となっている柏崎第一中学校と柏崎小学校で豚汁や五目ごはんを調理し、被災者に振舞ったそうです。

また、支援チームは北条北小学校にも向かい、夕食として五目ごはんと豚汁120人分を提供するなどしました。支援チームには看護師も加わっていたため、血圧を測るなど被災者の健康状態のチェックも行なったそうです。


◆日本聖公会

中部教区の長岡聖ルカ教会は、支援活動を行なうため、自転車・作業着・水等を積載した車で被災地に向かいました。


◆天理教

天理教新潟教区災害対策委員会では見舞金の受付を開始しました。また、新潟教区災害救援ひのきしん隊(天理教信仰に基づき、一般公共施設での継続的な奉仕活動や、災害救援活動などを行なう団体)は23日〜25日に、被災地に出動を予定しています。

◆真如苑

同教団は地震発生当日の16日、被災地となった柏崎市と刈羽村に職員6人を派遣し、被災状況の把握に努めると共に、被災地で必要とされるアルファ米や保存水などの救援物資を届けるなどしました。

また、中期的な復興ボランティア活動のため、真如苑緊急時救援ボランティア「SeRV」(サーブ)は、被災地で物資の運搬、復興活動、清掃活動などを行い、22日には、現地教徒も含めた80人以上のボランティアが刈羽村での炊き出しに参加し、約6百食分の夕食を被災者に直接届けました。


(田頭)

2007-07-22 キリスト教の分裂と和解

キリスト教の世界では20世紀以降、各派に分裂してしまったキリスト教の教派同士の対話と和解を進め、最終的にはキリスト教会全体の一致促進を目指す「エキュメニズム」という運動が積極的に行なわれるようになっています。

当初はプロテスタントの立場から始められた運動だったのですが、その後、プロテスタント諸派とオーソドックス東方正教会)が加盟する世界教会協議会(WCC)がこの運動に取り組むようになり、後述する「第2ヴァチカン公会議」以降は、カトリック教会もこの運動に呼応するようになり、近年では特に、カトリックとプロテスタントのルーテル教会、アングリカン(英国国教会系の教会)の取り組みが成果を挙げていると云われています。

しかし、今月になって、ローマ・カトリック教会の頂点に立つ教皇ベネディクト16世が、カトリックをも含むキリスト教全体が今まで取り組んできたこのエキュメニズムを根本から否定するとも受け止められかねない声明を発表しました。「イエスは地上にたった一つの教会だけを建てた」「ローマ・カトリック教会だけが唯一の教会で、他のキリスト教教会は欠点がある」などと表現し事実上、カトリック教会だけが正統なキリスト教であると主張している法王庁文書を、今月10日、ベネディクト16世が承認したのです。

この文書では、「ローマ・カトリック教会が唯一の正統な教会である」と結論付けており、プロテスタント教会に対しては、「カトリックの教義によれば、その語の本来の意味において『教会』ではない」と決め付け、東方正教会に対しては、使徒的伝承を守っている点は評価しながらも、教皇に対する認識の面では「まったき教会としては欠点がある」としており、教皇がこのような文書を承認した事はエキュメニズムを否定する事になるため、東方正教会やプロテスタント諸派の各教会はヴァチカンに対して当然の如く、直ちに批判や抗議を展開し、エジプトのコブト教会の指導者達に至っては、あえて抗議はぜずに「これは悪い冗談である」と見做す事にしたそうです(笑)

という訳で、今日は神社や神道関係の話題ではなく、この話題(キリスト教分裂の歴史と対話・和解に向けての動き)を取り上げさせて頂きます。


◆キリスト教分裂の歴史

≪概論≫

キリスト教系統図

この項ではまず、現在のキリスト教会がどのように分派しているのか、その概略を簡単に記させて頂きます。

とはいっても、キリスト教の教派(教団)というのは無数に乱立しており、それら全てを把握するのは不可能であるため、まずは、無数にあるそれらの教派の中から特に代表的な教派を、歴史的な経緯や教義などの違いから以下のように「カトリック」「オーソドックス」「プロテスタント」「アングリカン」の4つに大別してみました。

【カトリック】 ローマ・カトリック教会、東方典礼カトリック教会、中国天主教愛国会、カトリック系各修道会フランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会、パリ外国宣教会、ベネディクト会、シトー会、アウグスチノ会、ヨハネ騎士修道会、サレジオ会、神言会など)

【オーソドックス】 コンスタンティノープル総主教区、ギリシャ正教会ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、アルバニア正教会、ブルガリア正教会、日本ハリストス正教会など

【プロテスタント】 ルーテル教会(ルター派)、改革派教会(ツヴィングリ派、バプテスト派カルヴァン派、長老派)、再臨派、クエーカー、メソジスト、ホーリネス、ペンテコステ派、救世軍アーミッシュなど

【アングリカン】 英国国教会、ウェールズ聖公会、スコットランド聖公会、アイルランド聖公会、スペイン改革監督教会、カナダ聖公会、米国聖公会、メキシコ聖公会、ブラジル聖公会、日本聖公会オーストラリア聖公会など

この4つの分類に従ってキリスト教の分裂過程を図示したのが、この項に貼付の系統図です。この系統図では、キリスト教の大きな分裂となった“時”を3つの吹き出しで示しましたが、以下の各項では、その3回の大分裂について、大まかにまとめさせて頂きます。

ちなみに、日本ではキリスト教を「旧教」と「新教」のふたつに分類する事がありますが、この場合は、カトリックとオーソドックスが旧教、プロテスタントとアングリカンが新教に分類されます。また、キリスト教を「西方教会」と「東方教会」のふたつに分類する場合は、カトリツク、プロテスタント、アングリカンが西方教会で、オーソドックスが東方教会に分類されます。



≪キリスト教が東西に分裂≫

西暦313年、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスは、自身の個人的な体験(夢の中で聞いたキリストの声に従って十字架を旗印にして戦った所、戦場で勝利を治めた)などからそれまで迫害していたキリスト教徒に信仰の自由を与え、315年にはキリスト教を公認しました。

そして330年、皇帝コンスタンティヌスは、ローマ帝国の首都を西方のローマから東方のビザンティウム(現在のトルコの首都イスタンブール)に移し、ビザンティウムを自分の名前から「コンスタンティノープル」と改名しました。皇帝コンスタンティヌスは、コンスタンティノープルに大教会を建て、自らコンスタンティノープルの教会の首長にもなりました。これが、教会が東西に分裂する最初のきっかけになりました。

当時、キリスト教の大きな教会は5つあったのですが、そのうちの2つ、西方(旧首都)のローマ教会と、東方(新首都)のコンスタンティノープルの教会が事実上の双璧として特に大きな勢力を誇るようになっていき、次第に両教会は対立するようになっていったのです。東方の教会では、皇帝が教会の首長であり教会は政治の下にあるとする「皇帝教皇主義」を採り、それに対して西方の教会では、教皇が皇帝よりも優位であり皇帝は教皇が認めるものであるという「教皇皇帝主義」の立場を採るようになり、これ以外の教義においても両教会は対立するようになっていきました。

例えば、教理上の問題では「聖霊」なる神を巡って、東方では聖霊は「父」なる神から、西方では「父」及び「子」から出発するとして主張して論争を激化させ、また、ローマの主教に使徒ペトロに始まる「教皇」として首位や至上権(後に絶対権)を与える西方に対して、東方はコンスタンティノープルの司教もローマの司教も同等の権威を有するという立場と採るなど、両教会の溝は深まるばかりでした。

そして、359年にローマ帝国が東西に分裂すると、キリスト教会もローマの西方教会とコンスタンティノープルの東方教会に分裂し、東西の両教会は分裂以後も教義の正当性を巡って論争を繰り返しましたが、両教会間の溝が埋まる事はついになく、1054年、東西の両教会はとうとう相互に破門しあうという形で決別し、これ以後、西方教会はカトリック(普遍的)を名乗り、東方教会はオーソドックス(正統派)を名乗り、全く別々の道を歩んでいくようになりました。

イスラーム勢力がヨーロッパに侵攻してきた際には両教会で共闘する事があったものの、基本的に両教会が接点を持つ事は20世紀までほとんどなく、カトリックは世界最大の宗教勢力として、オーソドックスは東ヨーロッパ各国の民族宗教として、それぞれ独自の発展を遂げていきました。

ところで、カトリックの場合は、ローマ教皇を頂点としたピラミッド型の組織を構築し、一つの巨大組織としてまとまりをみせていますが(但し中国のカトリック教会はヴァチカンとの関係を断絶しているため事実上独立していますが)、それに対してオーソドックスは、各正教会同士の横の連携がほとんど行われておらず、一つの組織としてのまとまりはありません。各正教会の中では、一応コンスタンティノープル総主教区が全世界の正教会を代表する立場にありますが、それはあくまでも歴史的・名誉的に正教会の中で首位にあるという意味で、それ以上の意味はありません。

ちなみに、オーソドックスの日本語での正式名称は「神聖正統使徒伝承東方教会」といいます。日本では、オーソドックスの事を「ギリシャ正教」と表現している書物も多いのですが、実際には、ギリシャ正教はオーソドックス(東方正教会)を構成する一正教会であり、この教会の名を以って全オーソドックスを代表させるというのは正確ではありません。

≪宗教改革によりプロテスタントが成立≫

1517年、北ドイツのヴィッテンベルク大学聖書学教授のマルティン・ルターが、贖宥状(俗にいう免罪符)販売に対して「九十五箇条の提題」を教会の扉に貼り付けた事が、中世のヨーロッパ社会を大きく揺るがした「宗教改革」の発端となりました。

贖宥状は、これを購入した者は個人の罪が帳消しになる(正確には、身内の霊魂のためにその人達の残した罪を軽減させるというものだったようです)という文句で教会から売り出され、その売上金は、大司教が謝礼金を法王庁に支払うためにフッガー家から借りていた負債を補うために使われ、また一部は、ローマのサン・ピエトロ寺院改築資金にもあてがわれました。

これに対してルターは、罪の軽減が金銭で買えるのはおかしいと考え、その問題解決のために疑問を呈したのです。ルターが提示した「九十五箇条の提題」の中では、「教皇が贖宥の意味を十分に説明すれば贖宥状の販売など必要なくなるだろう」と記されており、また、教皇に対しての批判も全く記されていない事から、少なくともこの時点では、ルターはカトリック教会からの独立などは全く念頭に置いていなかったと思われます。

しかし、カトリック教会としては、ルターのこの主張を“単なる一修道僧の異端的な意見”として放置しておく訳にはいきませんでした。なぜなら、贖宥状を与える事は教皇権を発動させる事ですから、その贖宥状を意味のない事にすると、教皇権も無意味になってしまうからです。更に、贖宥状の売れ行きが悪くなる事は教会の財源にとっても、また資本家のフッガー家にとっても損失になるからです。

こうして、ローマ教皇の代理となった教会側とルターとの間で論争が始まり、論争の過程でルターは次第に反教皇の考えを示すようになり、その間にも、活版印刷の普及によりルターの出した提題が民衆の間にも広がるようになっていきました。

ついにルターは、異端と認定されて教会から破門されてしまいましたが、ルターの同調者は貴族・市民・農民にまで拡大し、諸国の王達も宗教改革の実現を歓迎しました。宗教改革が実現し教皇の支配から離れる事ができれば、教会の権威が弱まり王権が強化されるのは確実で、更に教会の財産を国のものとできるため、諸国の王達にとっては、信仰心からというよりも政治的な思惑から宗教改革を歓迎したのです。

こうして、ルターをはじめとする宗教改革の推進者や支援者達は、カトリックから分派独立し、独自の教会を打ちたて、プロテスタント(抗議するという意味)と呼ばれるようになりました。プロテスタントの大きな主張は、「聖書主義」(聖書の解釈に教会は必要なく、個人の良心によって聖書は解釈される)、「福音主義」(神の前に正しいかどうかは信仰のみによって決定される)、「万人司祭主義」(教皇や聖職者の権威はなく、誰もが司祭である)の3つと言えますが、このうち宗教改革の根幹ともなった「聖書主義」は、実は新たな火種ともなりました。

というのも、聖書の解釈が自由であるという事は、いくらでも解釈を異にする教派が誕生する事を防ぎ得ない事を意味し、実際、ルターの時代からプロテスタント系の教派は次々と生まれ、現在では、凡そ3万という数のプロテスタント系教派が乱立しており、その中には、到底キリスト教と認める事はできないようなオカルト的な危険な教団も含まれています。結局、宗教改革によってプロテスタントは結束できたのではなく、皮肉な事に更に分裂していく事になっていったのです。

ちなみに、「ものみの塔聖書冊子協会」(エホバの証人)、「末日聖徒イエス・キリスト教会」(モルモン教)、「世界基督教統一神霊協会」(統一協会)などは、世間一般からはプロテスタントの一派と見做されている事が多いのですが、プロテスタントの側からは、これらの教団は単にキリスト教の名を語っているだけの、実際にはキリスト教の教義を逸脱した新興宗教の一派(カルト)と見做しています。

なお、日本国内のプロタスタント教会で最大勢力を誇っている教派(プロタスタント系包括宗教法人)は「日本基督教団」です。

≪英国国教会がカトリックから独立≫

16世紀前半にルターが宗教改革を起こしてから、ヨーロッパでは、ルターの影響を受けたツヴィングリやカルヴァンらによって、それぞれ特色の異なるプロテスタント教派が次々に誕生し、イギリスにおいても、教会がカトリックから独立をするようになりました。ところが、他の西欧諸国とは違いイギリスで教会がカトリックから独立したのは、聖書の解釈といった思想上の違いからではなく、イギリス国王ヘンリー8世の離婚と再婚の問題からでした。

ヘンリー8世は再婚したいがために、現在の王妃キャサリンとの結婚を無効と認めるよう教皇に願い出ていたのですが(カトリックでは離婚を認めていませんが、教皇から「結婚そのものが無効であった」という認可を受ける事で事実上の離婚が可能でした)、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世がヘンリー8世の願い出を認めないよう教皇庁に申し入れたため、教皇はヘンリー8世の願いをなかなか認めようとはしませんでした。そのため、痺れを切らしたヘンリー8世は教皇の許可を得ずに独断で離婚と再婚を行いました。しかし、ヘンリー8世のこの独断行為はカトリックの掟を破った事になるため、ヘンリー8世は教皇から破門されてしまいました。

それまでのヨーロッパ社会であれば、こういった場合は“カノッサの屈辱”の時のように国王が教皇に跪いて許しを請い、教皇から破門を取り消して貰うという形になるのですが、ヘンリー8世は教皇から破門された事を良い機会と捉え、カトリック教会と決別する事を決め、英国国教会の設立を宣言し、自らをその教会の首長としたのです。ここにおいて、イギリスでは教会は王の下に位置するものになったのです(今日でも、イギリスの国王は英国国教会の首長を兼ねています)。

ところで、王妃キャサリンと離婚し、キャサリンの侍女であったアン・ブーリンを新たな王妃として戴冠させるためにローマ教皇から破門されてまで英国国教会を作ったヘンリー8世でしたが、その新たな王妃アンが男児を出生しなかったために、彼はアンとの結婚2年後に、アンに反逆、姦通、近親姦、魔術という無実の罪を着せて彼女を処刑し、その翌年、3番目の王妃ジェーン・シーモアを迎えました。しかしジェーン・シーモアは待望の王子を出産した後、産褥で亡くなり、その後ヘンリー8世は、4番目の王妃を離婚、5番目の王妃を処刑し、6番目の王妃を迎えた後に、梅毒で亡くなりました。ちなみに、大英帝国繁栄の礎を築いた女王エリザベス1世は、ヘンリー8世と、彼によって処刑された2番目の王妃アン・ブーリンとの間に生まれた王女です。

以上のように、英国国教会はヘンリー8世の離婚問題が直接的な契機となって成立した教会であり、プロテスタントのように教義や聖書の解釈の違いからカトリックから分派した教会ではないため、教義や聖職位階制などは、実はカトリックと大きな差はほとんどありません。教理面では確かにルターやカルヴァンの影響も受けているのですが、実際にはカトリックの伝統も教会内に多く残しており、英国国教会自らの主張も「ローマに従属しないイングランドの歴史的正統教会」であり、プロテスタントでは認めていない主教・司祭・執事といった聖職位階制は今も固く保持しており、司祭の職位や、その司祭職によって執行される聖餐(ミサ)についての理解もカトリックやオーソドックスと根本的な相違はありません。

16世紀にアングリカニズムと呼ばれる英国国教会の神学的立場の基礎を築きあげた神学者リチャード・フッカーは、英国国教会はカトリックとカルヴァンの改革派とのどちらにも属さない独自のアイデンティティを持った「中道」の教会であると宣言しており、このように英国国教会は、カトリック的な立場とプロテスタント的な傾向をバランスよく共存させ、その姿勢や特徴は、英国国教会から派生した世界各地のアングリカン教会にも継承されています。但し日本では、アングリカン(日本聖公会など)は一般的にはプロテスタントの一派と見做されている事が多いようです。

ちなみに、各国のアングリカンは、「英国国教会が全アングリカンの母教会であり、その英国国教会のカンタベリー大主教がアングリカン全教会の最高位の職位である」という認識では一致していますが、それは、英国国教会がアングリカンの全教会に君臨している事や、カンタベリー大主教がローマ教皇のように全教会の頂点に立っている事を意味している訳ではありません。カンタベリー大主教はあくまでも精神的な指導者であって(イギリス国王の戴冠式を執り行うのはカンタベリー大主教です)、各国のアングリカンは教化活動においては連携をしているものの、教団の運営という点においては各国毎に事実上独立しています。


◆エキュメニズム

「エキュメニズム」もしくは「エキュメニカル」とは、今日の記事の冒頭でも触れたように、キリスト教の超教派による結束を目指し、最終的にはキリスト教の全教会の一致を目指す運動の事で、広い意味ではキリスト教相互のみならず、キリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動の事を指す場合もありますが、一般には、各教派に分裂してしまったキリスト教会の再一致を目指す思想・運動の事をいいます。

≪第2ヴァチカン公会議とエキュメニズム≫

カトリック教会は、本来他教派に対してはかなり攻撃的で排他性が強かったのですが、「第2ヴァチカン公会議」以降は攻撃の矛先をかなり弱め、他宗教派をあまり表立って攻撃はしないようになりました。ちなみに公会議とは、全世界の司教が招集されて教義と教会規律に関する諸事項を審議決定する、カトリック教会の世界会議で、西暦325年に開催された第1回のニケア公会議から、1962〜1965年に開催された第2ヴァチカン公会議に至るまで、計21回の公会議が開催されており、単純に平均すると約80年に1回の頻度で開催されている計算になります。

カトリック教会の大転換を告げる事になった第2ヴァチカン公会議は、教皇ヨハネ23世が招集し、公会議の会期中にヨハネ23世が死去したため一時休会を余儀なくされたものの、次の教皇パウロ6世によって再開され、足掛け3年間にも亘って開催されました。その第2ヴァチカン公会議によって打ち出されたカトリックの新しい方向性として特に注目され、しかも相当な成果を挙げたと言われているのが、カトリック以外のキリスト教会や他の諸宗教との対話や協力でした。

この第2ヴァチカン公会議で打ち出された新たな方向性によって、エキュメニズム運動は全教会規模で盛んになり、教皇パウロ6世は、東方正教会コンスタンティノープル総主教のアテナゴラス1世と共に、1054年以来続いてきた東西教会の相互の破門宣告を取り消し、また、教皇として初めて英国国教会を訪問しカンタベリー大主教とも会談するなど、今まで対立してきた他派との和解に尽力しました。

≪一枚岩ではないエキュメニズム運動≫

しかし、エキュメニズム運動は必ずしも一枚岩の運動ではなく、例えばオーソドックスは、世界教会協議会(WCC)の最近の議題はプロテスタント内部の問題にのみ終始しているとして総会を退席するなどし、プロテスタントとは必ずしも同一の歩調をとってはいません。また、冷戦時代に旧共産圏諸国の政府寄りの政策をとったWCCの政治的傾向や、他宗教との対話路線の行き過ぎ、フェミニズム神学への傾倒などに対しては批判の声も少なくなく、オーソドックスはWCCから脱退する動きを見せているとも云われています。もっとも、その一方で、従来WCCとは関係の薄かった福音派、カリスマ・ペンテコステ派がWCCに新たに加盟を検討しているという動きもありますが。

カトリック教会も、プロテスタントとの対話を促進する一方、「プロテスタントやアングリカンは使徒継承性を持たず、カトリックの聖体を受けることができない」と確認するなど、運動が進むにつれ、キリスト教の各教派では、自教派の独自性を再確認する動きも起こってきています。

また、オーソドックスの一部では、エキュメニズムとはキリスト教のカトリック化を進めローマの至上権を押し付けるものだとする反発も見られ、このため、カトリック教会に於いてはオーソドックスの信徒とカトリックの信徒が互いの教会で聖体拝領を受けることを一定の枠内で許しているものの、オーソドックスの教会ではこれを一切認めないなど、各教会の対応にもばらつきがみられます。

≪カトリックとオーソドックスの和解≫

しかし、例えそうではあっても、ユグノー戦争(16世紀後半のフランス国内で、カトリック勢力とプロテスタント勢力が凡そ36年にも亘って戦い続けた宗教戦争)にも見られるようにかつて他教派に対しては徹底的に非寛容で排他的であったキリスト教世界が、「対立」から「対話」へと動いている事は、大いに歓迎すべき事には違いありません。

エキュメニズムは、カトリックとプロテスタントとの間や、オーソドックスとプロテスタントとの間などでも推し進められていますが、以下では、特にカトリックとオーソドックス間でのエキュメニズムに絞って、その具体的な動きをまとめてみます。

【1964年】 エルサレムで、ローマ教皇パウロ6世が、東方正教会の最高指導者であるコンスタンティノープル総主教のアテナゴラス1世と会談し、アテナゴラス1世は、パウロ6世に聖ペトロと聖アンデレの2人の使徒を描いたイコンを贈りました。

【1965年】 ローマ教皇パウロ6世とコンスタンティノープル総主教のアテナゴラス1世が、相互の破門を解消する共同声明を発表しました。教義の解釈の違いなどからカトリックとオーソドックスは1054年に分裂し、それ以降互いを“異端”と呼んで対立を続けてきましたが、これにより両教会は911年ぶりに対立を解消し、エキュメニズムは大きく進展しました。

【2003年】 コンスタンティノープル総主教のバルトロメオス1世がヴァチカンを訪問し、教皇ヨハネ・パウロ2世と会談しました。

【2003年】 コンスタンティノープル総主教バルトロメオス1世が、教皇ヨハネ・パウロ2世をイスタンブールに招待したのですが、ヴァチカンでは教皇が84歳という高齢である事を考慮してその招待には応じない事を決め、その代わりに、東方正教会への友愛のジェスチャーとして、ヴァチカンは800年前に十字軍が持ち帰った聖遺物を東方正教会に返還する事を発表しました。

【2004年】 ロシア正教会の総主教アレキシー2世が、ロシア正教会とヴァチカンの関係が、幾つかの問題(ロシア正教会の信徒をカトリックに改宗させる問題など)に関しては断絶同様の事態を招いていると発表し、ロシア正教会とカトリックの間では関係不安が続いているという事を世間に公表しました。ヴァチカンでは、正教会の渉外担当のキリル府主教を討議のためヴァチカンに招くと発表しました。

【2005年】 ロシア正教会モスクワ総主教座の対外関係責任者のヴセヴォロド・チャプリン司祭が、教皇ベネディクト16世の一致を目指す呼び掛けを称賛し、同時に、それには確実な行動を伴わなければならない、また容易には解消されない相違がある、とも警告しました。

【2005年】 ロシア正教会の総主教アレキシー2世が、「対話と、提携を妨げる困難を克服し、カトリック教会とロシア正教会との関係を改善することに、私たちは門を開いている」との声明を発表しました。

【2007年】 東方アッシリア教会の総主教マール・ディンハ4世がヴァチカンを訪問し、教皇ベネディクト16世と会談しました。ちなみに、東方アッシリア教会とはイラクに形成されたオーソドックスで、イスラム諸勢力の抗争により信徒の多くはイラクを出国しているため、最近では西欧、米国、カナダ、豪州に教区を組織し、マール・ディンハ4世自身もシカゴに居住しています。ベネディクト16世はこの会見で、イラクをはじめ中東のキリスト者が現在置かれている困難な状況に深い憂慮を示し、時に英雄的犠牲を払ってまでもこれらの地に留まる司牧者と信者らに心からの連帯を表明しました。

≪ベネディクト16世の声明の波紋≫

紆余曲折を経ながらも、エキュメニズムはこのように進展してきたため、今日の記事の冒頭で紹介させて頂いたベネディクト16世の今回の声明は、カトリック以外のキリスト教各派から抗議や非難を浴びる事になったのです。以下に、その抗議や批判の一部を紹介させて頂きます。

【世界改革教会連盟】私達は、教会の歴史で今この時にこの種の声明が公表されたことに当惑している。私達双方の対話で育まれて来た信頼関係にとって、これは良くない。声明が『これらの教会共同体は、特に聖礼典を執行する司祭制度を欠いているために、感謝の祭儀の秘義がもつ真生で統合的な実体を保持していないので、カトリックの教義によれば、適切な意味で教会とは呼べない』としている所が特に問題だ。今日公表された声明で読み取れるように、ローマ・カトリック教会をイエス・キリストの一つなる教会だとする排他的な主張は、キリストにあって一つであることに向かう私たちキリスト者の召しの精神に反する。それは、ローマ・カトリック教会が改革派や他教派の家族との対話に真剣なのか疑問を生む。私たちが本当にキリスト教一致を祈っているのか疑わせる」との見解を発表しました。

【独逸福音主義教会】宗派間和合のための機会が再び遠のいた」とカトリック教会を批判しました。

【ルーテル世界連盟】 「教会」という名はルーテル世界連盟(LWF)のような組織には正確には当てはまらない、とされたことにLWFは驚きと失望を表明し、「ルーテル派教会は、この教会理解や、私たちの信仰の現実に関する指摘を受け入れることは出来ない」という声明を発表しました。

【米長老教会】 クリフトン・カークパトリック大会副議長は、プロテスタント教会が「適切な意味では教会でない」とされたことを問題とする公開書簡を他教会や連合組織に送りました。ベネディクト16世が承認した声明は、「私たちの信仰理解を誤り」「キリスト教一致への疑念を再燃」させる、と述べています。

実は今回の声明以外にも、ベネディクト16世は、ラテン語ミサを復活させるという教書を発表してユダヤ人達の反発を買ったり(ラテン語で進行する「トリエント・ミサ」にはユダヤ人の改宗を促す祈祷文が含まれているのです)、昨年には、イスラームを暴力的な宗教として描写した発言で議論をかもすなど、かなり保守的な傾向が見られます。

とはいえ、前教皇のヨハネ・パウロ2世も、かなり保守的な教皇ではありました。例えば、中絶は絶対に認めない、同性愛は絶対に認めない、女性が司祭に就任する事は絶対に認めない、教皇への権限の集中を図る、などといったその保守性は一部の人達から非難され、また政治的には、5月10日付の記事「解放の神学」の中でも紹介させて頂いたようにバリバリの“反共の闘士”でもありました。

しかし、ヨハネ・パウロ2世は他宗教・諸宗派との交流には非常に積極的で、オーソドックスやプロテスタント諸派との和解に向けて精力的に活動し、1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグを訪れるなどユダヤ人への親近感も示し、また仏教各派の高僧達とも多く会見し、イスラームとの和解だけは進まなかったものの(あえて進めなかったのかどうかまでは知りませんが)、異なる宗教間の協調と融和には大いに尽力しました。「空飛ぶ教皇」と称される程世界各国を訪れ、異なる宗教間の和解と交流を先代の教皇達以上に積極的に推し進めたことは、ヨハネ・パウロ2世の大きな功績と言っていいでしょう。

ベネディクト16世は、ヨハネ・パウロ2世の保守性だけを受け継ぎ、ヨハネ・パウロ2世の他教派に対しての開明的な姿勢は、残念ながら受け継がなかったのかもしれません。


(田頭)

田頭田頭 2007/07/24 18:11 世界最大の宗教であるキリスト教の信者は、全世界で約20億7千万人いると推定されており、その内訳を教派別にまとめると、だいたい以下のようになります。

カトリック ………… 約11億人
オーソドックス …… 約3億人弱
プロテスタント …… 約3億人
アングリカン ……… 約7千万人
その他 …………… 約3億人

ちなみに、イスラームの信者総数は全世界で約12億5千万人、仏教の信者総数は全世界で約3億8千万人と推定されています。

猿彦猿彦 2007/07/24 23:03 キリスト教もなかなか複雑ですよね。
中ではプロテスタントが一番考え方が柔軟のような感じがしますね。
キリスト教といえば聖書と賛美歌ですが、その聖書は旧約聖書と新約聖書とありますよね。興味深いのが現在の西暦が新約聖書から始まってることでしょうか。

田頭田頭 2007/07/26 10:37 猿彦さん、こんにちは。レスが遅くなってしまい申し訳ありません!
確かに、私もプロテスタント系の諸教団や信徒には、柔軟な考え方の人が多い気がします。

例えば、避妊・中絶や、離婚、同性愛などを一切認めず、司祭やシスターが結婚する事も認めないというカトリックの一貫した基本姿勢は(但し東方典礼カトリックに属する司祭は結婚していても叙階されているようですが)、クリスチャンではない多くの日本人から見るとかなり“頑迷な保守”と映るのは確かで、それに対してプロテスタントでは、信徒の離婚や牧師の結婚、女性や同性愛者でも牧師になる事などを認めている教派が多く(認めていない教派もありますが)、そういった一面に注目する限りでは、やはりプロテスタントの方がカトリックよりも“開明的な態度”を採っているように映ります。
歴史的にも、そもそもプロテスタントが成立したのはカトリック教会の堕落と腐敗が原因である事は間違いなく、またカトリックは今でも、十字軍による略奪や異教徒の殺戮、異端審問や魔女裁判、ナチスへの協力といった負のイメージを払拭しきれていないため、一個人としてはマザー・テレサのような素晴らしい人物がいても、教団としてのカトリックには、正直私個人としてはあまりクリーンなイメージは抱けません。

ただ留意すべきは、確かにプロテスタントには柔軟な考えを持つ教派や信徒が多いのですが、それと同時に、プロテスタントにはその対極の考えを持つ教派や信徒もまた少なくはないという事です。

例えば、「キリスト教原理主義」もしくは「キリスト教根本主義」などと称される福音派右派は、キリスト教世界の中では最も“右寄り”な過激派ですが、彼らはカトリックでもオーソドックスでもなく、実はプロテスタントの一派です。
彼らは聖書を文字通り一字一句真実と受け止め、その記述に誤謬や矛盾は決してないものと考え、創世記の物語も真実の歴史と捉えるため、創世記の記述と一致しない科学(特に進化論)は断固として否定し、アメリカ国内のキリスト教原理主義者達は特に、進化論の否定に加え中絶禁止、銃規制反対、善悪二元論、家族の重視などを強く主張しています。
対外的には、イスラームを敵視し、共産勢力に対してはカトリック以上の対決姿勢を示しているため、そのあまりにも独善的な考え方に対しては、カトリックやプロテスタント各派などからも批判されている程です。
しかし彼ら原理主義者達は、アメリカ国内に於いては共和党の重要な支持母体となっているため、今では単に“一部の過激な人達”として無視する事はできない程の大きな勢力・影響力を形成しています。

また、アメリカやカナダ、中南米には、従順・謙虚・質素を信条に、現代技術による機器を生活に導入することを拒んで近代以前と同様の生活様式を営んでいるキリスト教徒達がいますが(推定14万人)、彼らも、「アーミッシュ」と称されるプロテスタントの一派です。
アーミッシュの特徴は、現代社会のテクノロジーと社会制度の多くを拒絶する所にあり、電気・水道・ガス・テレビ・パソコン・電話・自動車などといった文明の機器を使う事を拒否し、農場ではトラクターを使わずに馬で鋤を引かせ、高等教育は認めず8年間だけの教育を実施し、社会保険制度を拒否してコミュニティ内部の相互扶助を重視するなど、厳しい規律を守りながら今でも開拓時代と同様の18世紀的な生活を営んでおり、一種独特の文化を形成しています。

ちなみに、幼少時代に私が通園していた幼稚園は、教会に併設されていたプロテスタント系の幼稚園でした。私がその幼稚園に入園する事になったのは、多分その幼稚園がウチから最も近かったという理由からだと思います。私は毎日歩いて通園していましたから。
また、私の姉は、プロテスタント系の高校に通っていました。基本的には一般の高校と変わらなかったようですが、「宗教」という学科があって、その授業では聖書について勉強をしたと言っていました。姉がその高校に通ったのは、その高校で音楽を学びたかったからでした(1年次は普通科に在籍してましたが、2年次からは音楽科に転科しました)。
ウチは社家ではないので、その辺は大らかでした(笑)。

田頭田頭 2007/07/27 06:35 記事本文では、≪カトリックとオーソドックスの和解≫という項の中で、カトリックとオーソドックスとの間のエキュメニズムについての具体的な動きを記させて頂きましたが、勿論、カトリックとプロテスタントとの間でも、エキュメニズムは積極的に進められています。

記事本文の補足として、以下に、平成16年に東京で執り行われた、カトリックとプロテスタントによる初の日本公式合同礼拝の様子を紹介させて頂きます。

平成16年10月31日、カトリック教会と、プロテスタント教会である日本福音ルーテル教会による公式の合同礼拝が、東京・四谷にあるカトリックの麹町聖イグナチオ教会で挙行され、両教会の信徒約550人が列席しました。

カトリックとプロテスタントは、1517年の宗教改革以来、「義認」(信仰心さえあれば神から義と認められると主張するプロテスタント側の考え)と「義化」(信仰の他に献金、奉仕、巡礼などの善行を積む必要があると主張するカトリック側の考え)の教理をめぐって対立してきましたが、1999年、南ドイツのアウクスブルクで、ローマ・カトリック教会と、ルーテル世界連盟(世界各地のルーテル教会の共同体で、日本の教会では、日本福音ルーテル教会が加盟しています)によって「義認の教理に関する共同宣言」が調印され、両教会は「基本的諸真理における合意」を確認し、残る差異も教会を分裂させるものではないということを確認し合いました。

この日行なわれた合同礼拝は、この「義認の教理に関する共同宣言」の日本語訳出版を記念して挙行されたもので、主司式を岡田武夫カトリック東京大司教、共同司式を山之内正俊日本福音ルーテル教会総会議長が務め、駐日法王庁大使エムブローズ・デ・パオリ大司教をはじめ来賓も多数列席しました。
また、合同礼拝終了後には記者会見が行なわれ、合同礼拝の意義について両教会の代表が発表を行いました。

2007-07-21 神前結婚式

大正天皇・皇后両陛下

あまり知られていませんが、今日、7月21日は「神前結婚記念日」です。「神前結婚記念日」は、明治30年の今日、日比谷大神宮(現在の東京大神宮)で2組の神前結婚式(民間の公式な神前結婚式としてはこれが初めてと云われています)が行われた事を記念して制定された記念日で、本日が神前結婚記念日である事に因み、今日は神前結婚式について簡単に解説をさせて頂きます。

実は、「神前結婚式」という神道式の結婚式は、明治時代になってから行なわれるようになったもので、その歴史は意外と新しく、江戸時代までの日本では、自宅で行われる「人前結婚式」が一般的でした。江戸時代の人前結婚式は、新郎と新婦が、家を護る神様の前で共に生きる事を誓い、その後で親戚や近隣の人々を集めた宴会を開いて二人を祝福するという形で行なわれていました。

江戸時代を舞台とした時代劇の中でよく行われている結婚式も、だいたいはこういう形で行われている人前結婚式です。例えば、45分間の時代劇の序盤で、紀伊出身の将軍や、天下の副将軍(そもそも副将軍などという職は実在しませんでしたが)、あるいは桜吹雪が良く似合う町奉行や、火付盗賊改方、もしくは額に三日月傷を付けた旗本、などといった主人公に助けられた町民(時には武家)の男性もしくは女性が、悪役の殿様・奉行・代官・商人・博徒などの辛辣な妨害を乗り越えて、ラストシーンで目出度く相方と結婚式を挙げるシーンは、ほぼ100%、人前結婚式です。

明治12年には新潟で神前結婚式が行われた記録がありますが、この時は、「神葬祭のある以上は神婚儀もある訳なれば、別に怪しむに足らぬものの…随分と妙な儀式にありしと、かの地より告げ越せり」(「郵便報知」明治12年5月2日付)と新聞ネタになった程で、明治時代になってからも、神前結婚式は今日の様に一般的な婚儀と言えるものでは全くありませんでした。

神前結婚式が一般に普及するようになったきっかけは、皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)の御婚礼です。明治33年5月10日、嘉仁親王殿下と九条道孝公爵の四女節子様(後の貞明皇后)が、宮中の歴史において初めて皇居内の賢所で神前結婚式を挙げられ、この御婚礼の様子が報道された事により、「皇太子様の様に神職の導きで結婚式を挙げたい」と考える人々が多く出始めるようになり、こういった要望を受ける形で、日比谷大神宮が、新聞記者や大臣等を招いて御神前で模擬結婚式(宮中婚礼の式次第を一般向けに簡略化したもの)を行い神前結婚式のPRを行ったのです。

神前座位略図

そして、これに倣う形で全国の神社でも神前結婚式が執り行われるようになり、以後、神前結婚式が人気を博すようになっていきました。ちなみに、今日の記事の一番上に貼付の写真が、神前結婚式普及のきっかけとなった皇太子殿下(大正天皇)・同妃殿下(貞明皇后)の御婚礼の際に写された御写真で、この文章のすぐ左に貼付の図が、神前結婚式の一般的な斎場配置図(神前座位略図)です。但し、この配置図については、細かな部分は各神社によって異なります(図が小さくて見辛い場合は、図をクリックすると拡大表示されます)。

歴史は浅くとも、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神が神慮を仰がれたように「神がめあわせ給ふ」という信念に基づき神明照覧の下、神々に誓って執り行われる神前結婚式は、日本古来の伝統と美風を継承した結婚式と言え、日本で生まれ育った私たちにとっては最も適合した結婚式といえるでしょう。

しかし、残念ながら当社では、神前結婚式を執り行う事はほとんどありません。札幌市内で神社に於いて神前結婚式を挙げる人の大半は、施設の充実している北海道神宮で式を挙げるのですが、その北海道神宮が当社から車で10分程の近距離にある事に加え、当社の拝殿は、新郎・新婦の御親族全員がゆったりと入って戴ける程広くはなく、また、当社では新郎・新婦の控室として使える部屋も用意できないため、新郎と新婦の2人だけ、あるいは新郎・新婦とその両親の6人だけで簡素に行いたいというような極めて小規模な結婚式以外は現実的には受け入れ難く、通常の形(親族を沢山呼んで、新郎・新婦は正式な装束を着て、という形)で式を挙げたいと希望される方は残念ながらお断りせざるを得ない状況なのです。

そのため、例えば神葬祭は、当社では凡そ2〜3ヶ月に1〜2回程度の頻度で受けておりますが、神前結婚式は1年に1回行なうかどうか、といった程度でしかなく、前述の様に受け入れ態勢が出来ていないため当社でも神前結婚式のPRは全くしておらず、今後もPRは考えてはおりません。なお、以下の2枚の写真は、当社拝殿内で結婚式を行なった時の、胡床の配置状況です。

西野神社 拝殿 西野神社 拝殿

ちなみに、キリスト教式や仏式の結婚式の式次第については、昨年6月24日付の記事「他宗教の結婚式」で解説させて頂きましたので、そちらも併せて御参照下さい。ところで、その「他宗教の結婚式」では、和泉元彌さん(狂言師、俳優)が仏前結婚式を行なったという事を紹介させて頂きましたが、最近では、つんく♂さん(音楽プロデューサー、歌手、作詞家、作曲家)も仏前結婚式を行なっています。

(田頭)

白 2007/07/23 21:26 田頭さま

はじめてコメントさせて頂きます、白と申します。
調べ物をしていたときに偶然こちらのサイトを知り、それからは時間が空いた時に少しずつ拝見させて頂いております。今と昔の神社や神道にまつわる話がたくさんあって、とても興味深いです。

神前式の結婚式はもっと前から連綿と続いていたと思っていたのですが、それほど昔から行われていたわけではないんですね。びっくりして思わず書き込んでしまいました。確かに言われれば、それ以前の結婚式で神前式はTVや本で見たことがないなあと。今でも結婚式は大安で!とか六輝を気にする割には、そんなに前じゃなかったんですね。

私はこの秋に結婚するのですが、勿論神前式です。なんだか写真を見ていると、だんだん緊張してきました…。

まだまだ夏本番、お体に気をつけてくださいませ。
更新楽しみにしております。

田頭田頭 2007/07/24 16:23 白様、はじめまして。
秋に御結婚をされるとの事、おめでとございます!

確かに神前結婚式の歴史は古くはありませんが、しかし本文中で述べさせて頂きましたように、伊邪那岐・伊邪那美の二神が八百万の神々の中で初めて夫婦となった故事に因んで、神々に見守られ神々に誓う形で厳かに執り行われる神前結婚式は、日本古来の伝統と美風を継承した結婚式と言え、日本人には最も適した結婚式といえるのではないでしょうか。

白様こそ、結婚を控えたこの大切な時期、体調等を崩す事のないよう御自愛下さい。
今後も宜しくお願い致します!

2007-07-20 木彫取り付け工事のお知らせ

向拝

今月23日から26日までの4日間、拝殿向拝(貼付写真に写っている箇所)で木彫装飾の取り付け工事を実施するため、工事期間中、拝殿内での御祈祷は平常通り行えますが向拝(賽銭箱や鈴緒のある所)での参拝はできなくなります。

また、向拝の上に置いている「おみくじ」は、工事期間中は授与所の前に移動させて頂きます。

参拝者の皆様には大変御不便・御迷惑をお掛けする事になり誠に申し訳ありませんが、御了承・御協力下さいます様宜しくお願い申し上げます。

(田頭)

2007-07-19 滋賀県からのお客様

昨日の午後3時頃、私が留萌で御神輿を担いでいた時、当社にお客様が来られました。このブログ5月17日付の記事同月25日付の記事6月1日付の記事などにコメントを付けて下さった、滋賀県に住んでおられるHN天璋さんが、北海道へ旅行中に当社に立ち寄って下さったのです。

天璋さんは当社の宮司から御朱印を受け、社務所の窓口で授与品を求められた後、松澤権禰宜に「田頭さんはおられますか」と尋ねて下さったそうで、その参拝者が私の知り合い(といっても実際にお会いした事はまだ一度もなかったのですが)と気付いた松澤権禰宜はすぐに私の携帯に「田頭君にお客さんが来ているよ」と連絡が入れて下さったのですが、その時私は当社からは160kmも離れた留萌にいたため、結局その日天璋さんと会う事はできませんでした。しかし、天璋さんは翌日も札幌におられるという事だったので、私は留萌から札幌に帰って来た後、天璋さんと電話で連絡を取り、翌日改めてお会いする事にしました。

そして今日の午後2時頃、天璋さんは再び当社を訪ねて下さいました(二度の御足労恐れ入ります!)。天璋さんは神道や神社、特に伊勢の神宮、そして日本史などに大変興味を持っておられ、しかもかなり勉強されている方で、今日は、当社に来る前には中央区に鎮座するG神社やY神社などに立ち寄り、G神社では名誉宮司さんと、Y神社では宮司さんと、社務所でいろいろとお話されてきたそうです。

私は、当社社務所の応接室で天璋さんからいろいろなお話を聞かせて頂き(大抵、私にお客様が来た時は私の方が喋っている事が多いのですが、今日は、どちらかというと私の方が聞き手になっていました)、一通りお話を聞かせて頂いた後は拝殿内や神輿殿に奉安されている当社の2基の御神輿などを見学して戴きました。

天璋さんは神社関係者の知り合いが多いようで、そのため神職や神社の職員ではないものの神社界の内情についてもかなり詳しく知っておられ、また神道についても独学でかなり勉強されており(特に古史古伝の一つである「秀真伝」にかなり強い関心を持っておられるようでした)、神道についての考え方や価値観は私とは違う所が少なくなかったものの、それも逆に新鮮で、私が教えられるような事も多々あり、楽しい一時を過ごさせて頂きました。そのため、天璋さんは当社には午後4時半頃まで滞在して下さったのですが、天璋さんとお話させて頂いた2時間半はあっという間に過ぎてしまった感じでした。

しかし、わざわざ滋賀県から来て戴いている訳ですし、次にお会いできるのはいつになるかも分からないので、折角の機会なので今日はもっといろいろお話をしましょうという事になり、私は社務を終えた後、再び天璋さんと外でお会いし、今夜は天璋さんと夕食を御一緒させて頂きました。(もし文月会会員の方でこの記事を読まれている方がおりましたら、私が今夜のカレンダー編集会議の出席予定を直前になってキャンセルさせて頂いたのはこういった理由からなので、御容赦下さい!)

天璋さんとは午後6時半に街中にある地下鉄の某駅で待ち合わせをし、その駅のすぐ近くにあるお店で、夕食を頂きながらいろいろなお話をさせて頂いたのですが、結局そのお店には11時過ぎ頃までいたため、当社の境内でお会いしていた時間も含めると、今日一日だけで、何と天璋さんとは7時間近くもずっとお話させて頂いた事になります!特に中世の歴史についての話は盛り上がり、神道の話についても多く考えさせられ事があり、有意義な時間を過ごさせて頂きました。

天璋さん、今日はいろいろとありがとうございました。そして、こちらが接待すべき所を逆に接待されてしまい、大変失礼致しました、今夜は御馳走様でした。

(田頭)

猿彦猿彦 2007/07/21 23:10 良い出会いをされましたね。
出会いとはやはり感謝と気付きですね。
有意義な時間は何事にも変えがたい宝物となりますねぇ。

田頭田頭 2007/07/22 14:12 猿彦さん、こんばんは。
今回の新潟での地震を初めて知った時、まず真先に「大通神社さんやKさん御一家、猿彦さん達は無事なのか!?」と思いましたが、後日Mちゃんから聞いた所、幸いKさん御一家や神社には被害がなかったとの事で、私も安堵しております。
今回の地震については、近いうちにこのブログでも記事として取り上げさせて頂く予定です。

天璋さんとの出会いは、私にとってもいろいろと勉強になりました。
天璋さんは、年齢は私よりも一つ下のようでしたが、とにかく勉強熱心で積極的で、しかも神道に関しては博識なだけに(将来的には階位の取得も考えておられるそうです)、天璋さんからは神道に関する質問をいろいろとされたのですが、こちらとしても思いつきでいい加減な回答をする訳にはいかず、質問される度に、正直ちょっと緊張しました(笑)。

一般の氏子や崇敬者の方は、大抵「〜が分からないのですが」とか「〜について教えて下さい」というふうに質問をされるのですが、神職に対して質問慣れしている天璋さんは、全て「〜って知っています?」とか「〜は知っていますよね?」という口調で質問をされるので、私としては自分の知識の習得度が試されているような気がして、実はちょっとドキドキでした(笑)。
中には私としても「それは聞いた事ありません」と答えざるを得ないような難しい質問もあり、また、私が「ええ、知っています。それは〜ですよね」と答えると「それって意外と答えられない神職が多いんですよ」と返されたりしましたので、やはりテストされていたんでしょうか(笑)。だとしたら、無学な神職として天璋さんを失望させてしまったかもしれません!
やはり神主は、日々勉強を怠ってはいけませんね〜。

天璋天璋 2007/07/27 00:55 お礼が遅くなりましたが、先日はありがとうございました!!
テストなんてしていませんからご安心を(笑)
失望どころか、お若いのに良く勉強してるなぁと感心しました。
私も田頭さんに負けないよう頑張ります。

田頭さんの文中に『特に古史古伝の一つである「秀真伝」にかなり強い関心を持っておられるようでした』とあるのですが。
古史古伝の書や秀真伝(ほつまつたえ)は読んでません。ちょっと違います。
あの時の話は、古史古伝(神代文字)とは別のヲシテ文献のホツマツタヱです。
記紀との三書比較の書もあると聞き興味がわいてきたところです。

田頭田頭 2007/07/28 12:38 天璋さん、北海道旅行お疲れ様でした!
ホツマツタヱについては私の解釈に思い違いがあったとの事で失礼致しました。
今後も宜しくお願い致します。

2007-07-18 留萌で御神輿を担いできました

留萌神社 神輿渡御 留萌神社 神輿渡御

留萌神社 神輿渡御 留萌神社 神輿渡御

留萌神社 神輿渡御 留萌神社 神輿渡御

今日は、留萌市に鎮座するR神社で御神輿の渡御があり、当社からは神力会の会員3人と私の計4人が、御神輿の担ぎ手として御奉仕に行かせて頂きました。

私にとっては、昨日が一日空いただけで先週の金曜日から連日、各地で御神輿を担がせて頂いており、前回(一昨日)は午前中に地鎮祭を一件奉仕してから厚田に向かいましたが、今日は午前中に人形供養の御祈祷を一件奉仕してから、午前11時半に私の運転で当社を出発し、道央自動車道・深川留萌自動車道経由で留萌に向かいました。

札幌から留萌に向かう場合、距離的には厚田や浜益を経由して海沿いの国道231号を走るルートが近いのですが、時間的には、内陸部を走る高速道路を使う方が早く(深川留萌自動車道は昨年11月に留萌幌糠ICまで開通しています)、高速道路を使う場合の当社とR神社間の距離は約160km(所要時間はほぼ2時間)で、この160kmという距離は、東名高速でいえば東京ICと静岡IC間の距離に相当します。

R神社には午後1時半に到着し、神社裏の市営球場のベンチで昼食を頂いてから(神力会の女性2人が美味しい手料理を作って来て下さいました!)、御神輿が出御(宮出し)するJR留萌駅前の御旅所まで徒歩で移動しました。そして午後2時半、58年ぶりに修復したという真新しい御神輿が駅前から出御したのですが、他の神社の御神輿よりも明らかに大きな御神輿だった上に(修復して更に大きくなったそうです)、出御して間もない頃は担ぎ手の数も多くなかったため、いつも担ぐ御神輿よりもかなり重く感じました。

御神輿は、留萌駅前(上段左側の写真)から開運町の商店街を通って、国道231号を横断して宮園町に入り神社へと向うルートを、約1時間40分程かけてゆっくりと神幸し、午後4時10分頃、宮入りしました。途中からは担ぎ手の数が増えてきたのでそうでもなかったのですが、出御したばかりの頃は担ぎ手が多くなかったため御神輿からなかなか抜けられず、しかも通常の御神輿よりも明らかに重い御神輿だったので、正直結構大変でした!

しかし、宮入りする直前には、神社の拝殿で控えておられたR神社の宮司さんが私にお宮についての解説をして下さったり、また、宮入りの後は神社の境内で豪勢な直会が開かれるなど(屋外で肉や野菜を焼いて食べてきました)、私達はR神社ではとても温かいおもてなしを受け、特に直会では各々がお腹一杯頂き、今日はかなり楽ませて頂きました(笑)。R神社の宮司さん、神輿会の皆さん方、温かくもてなして下さり、どうもありがとうございました。

また、渡御途中での休憩や直会の席では、私達4人は、私達同様御神輿の担ぎ手としてR神社に奉仕に来られた芦別市に鎮座するA神社の宮司さん達と御一緒させて頂きました(下段右側の写真)。A神社の宮司さん、いろいろと気を遣って戴きどうもありがとうございました。

(田頭)

萠翔會 岩谷萠翔會 岩谷 2007/08/07 07:11 この度は、留萌神社例大祭の神輿渡行にご参加いただき、ありがとうございました。
また、来年もお待ちしております。
皆さんでお越し下さい。

田頭田頭 2007/08/07 12:32 岩谷さん、コメントを付けて下さり、どうもありがとうございます!
留萌には多分来年も行かせて頂く事になると思います。その際はまた宜しくお願い致します!

2007-07-17 御神輿のワザ!

昨日の記事では書きませんでしたが、昨日私達が担ぎ手として御奉仕させて頂いた石狩市厚田区に鎮座するA神社の神輿渡御(みこしとぎょ)では、特筆すべき出来事がありました。

渡御の途中で「ワザ入れるぞ!」もしくは「ワザやるぞ!」という掛け声が入ると、担ぎ手達が皆で、その場で御神輿を垂直に立てるのです!確かにこれは“技”ですね。今までいろいろな神社の御神輿を担がせて頂きましたが、こういったワザは他の神社の渡御では見た事がないので、ちょっと驚きました。以下の写真4枚がそのワザを写したもので、御神輿を立てた上、更にその御神輿を時計回りに回転させている様子です。

厚田神社御神輿 厚田神社御神輿

厚田神社御神輿 厚田神社御神輿

この御神輿は神社の例祭で出御している神幸中の御神輿であり、神事を行なわずに巡行させる商店街などの所謂“カラ神輿”とは違うので、神職の立場としては「えー、こんな事していいの!?」という疑問が正直頭を過ぎりましたが、毎年行なっている事ならば、これももはや“一社の故実”(その神社だけの例外規定として古くから定着している伝統)なのかもしれません。

しかし更に凄いのは、この「ワザ」は御神輿を立ち上げて回るだけでなく、場合によっては、垂直に立ち上がった御神輿の先端に人が乗る事もあるのです!以下の写真2枚がその様子で、御神輿の担ぎ手2人が担ぎ棒の先端に乗っています。

厚田神社御神輿 厚田神社御神輿

何だか、正月などに見る消防出初式みたいな感じです。神様の載られる御神輿でここまでやってしまうと、これは神様のための神事というよりは、観客を楽しませるための曲芸もしくはアトラクションというべき性格の「ワザ」なのでしょう。

(田頭)

2007-07-16 厚田で御神輿を担いできました

「海の日」の今日、石狩市厚田区(厚田区は、一昨年石狩市に吸収合併された旧厚田村が合併の特例により暫定的に「区」となったもので、政令指定都市の「区」とは意味も立場も異なります)に鎮座する厚田区総鎮守のA神社で例祭が執り行われ、御神輿の渡御も行なわれたため、私は一昨日昨日に続き、今日も御神輿担ぎの遠征に行かせて頂きました!(A神社の渡御は朝から夕方まで行なわれているのですが、昨年同様、私は昼から参加させて頂きました。)

神力会の会員2人と私の3人は、午前11時半に西野神社を出発し、まず北区新川に鎮座するS神社に行き、S神社で同社の宮司さんと同社太鼓会の方々4人と合流してから、同会所有のマイクロバスに乗せて頂き総勢8人で厚田に向かいました。

厚田には午後1時15分頃に到着し、その時間帯、御神輿は御旅所(厚田小学校)で一時留まっておられ、担ぎ手の皆さんも方そこで昼食のために休憩されており、私達はその御旅所で、朝から渡御に奉仕・参加されていた神力会の会員4人と入れ替わりました。

そして1時35分、御神輿は御旅所を出御し、午後の渡御が始まりました。御神輿は漁港や老人ホームなどを経由し、飲食店裏の駐車場に立ち寄った際には神事も行なわれ(ここでは担ぎ手の皆さんにタコの刺身が振舞われました)、午後5時に、宮入りしました。以下に、今日の渡御の様子を写した写真を8枚貼付させて頂きます(各写真はクリックすると拡大表示されます)。

厚田神社 神輿渡御 厚田神社 神輿渡御

厚田神社 神輿渡御 厚田神社 神輿渡御

厚田神社 神輿渡御 厚田神社 神輿渡御

厚田神社 神輿渡御 厚田神社 神輿渡御

私がA神社の渡御に御奉仕させて頂くのは昨年に続き今日が2回目ですが、3日連続で御神輿を担がせて頂くのは今回が初めてで、御神輿を担ぐのが3日間も続くと、正直言ってさすがに肩がちょっと痛いです(笑)。でも、明後日もまた御神輿を担ぎに行く予定です!

(田頭)

2007-07-15 屯田で御神輿を担いできました

江南神社 神輿渡御 江南神社 神輿渡御

江南神社 神輿渡御 江南神社 神輿渡御

江南神社 神輿渡御 江南神社 神輿渡御

今日は北区屯田に鎮座するK神社の例祭日で、当社からは、神力会の有田さんと宮司と私の3人が、御神輿(おみこし)の担ぎ手として、近隣の各神輿会の方々と一緒に渡御(とぎょ)の御奉仕をさせて頂きました。

私にとって、K神社の渡御に参加させて頂くのは今年が始めてで、私達3人は午後4時半に西野神社を出発し、5時頃にK神社の宮出しの現場(屯田4条5丁目)に到着し、5時半から始まる御神輿の渡御に参加させて頂きました。

K神社の御神輿は予定通り5時半に出御し、渡御には神職が同行しないため途中で神事は一切なかったものの、休憩箇所は多く、休憩箇所ではその度に飲食物が振舞われ(提供して下さった地元飲食店の皆さん方、どうもありがとうございます!)、御神輿は9時頃にK神社に到着し、宮入りしました。

当社の宮司は急用により途中で帰りましたが、途中の休憩箇所では、近くに住んでおられる有田さんの娘さん夫婦やお孫さん達とも合流し(中段右側の写真参照)、私達は3時間半の渡御を楽しんできました!

(田頭)

2007-07-14 小樽グリーンロード夏祭り

グリーンロード夏祭り グリーンロード夏祭り

グリーンロード夏祭り グリーンロード夏祭り

グリーンロード夏祭り グリーンロード夏祭り

今日は、「三四郎会」という小樽市花園の神輿会の神輿(みこし)を担ぐため、当社神輿会「神力会」の会員3人と宮司と私の5人で、夕方から、小樽の「グリーンロード夏祭り」に行って来ました。グリーンロードの神輿巡行には、私は西野神社に奉職してから毎年行かせて頂いているので、グリーンロードで三四郎会の神輿を担ぐのは今年で4回目となります。

神輿は、午後6時にサンモール一番街(稲穂1丁目のアーケード)の西端から東方面に向って出発し、レインボータウンを通って、JR函館本線の高架下を潜り、出発から凡そ1時間半〜2時間後に花園グリーンロードに到着するという経路で巡行するのですが、この「グリーンロード夏祭り」はあくまでも地元の商店街が企画・開催しているお祭りであって神社は一切関わっていないため、神事等は一切なく、神輿にも神様はお載りになっていないため、神職という立場からはこの巡行を「渡御」や「神幸」と言う事はできませんが(この辺の事情は一昨年の7月14日付の記事を御参照下さい)、貼付した写真のように、神輿巡行の雰囲気は神社のお祭りと何ら変わる事がなく、とても活気がありました!

午後7時半過ぎ頃にゴール地点の花園グリーンロードに神輿が到着した後は、神輿を担ぐため各地から参集していた各神輿会はその場で解散し、私達5人は、近くの焼肉屋でラーメンを食べてから札幌に帰りました。この時期は年間で最も神輿を担ぐ機会が多く、明日は、札幌市北区に鎮座する某神社の神輿渡御の奉仕に行かせて頂きます。

(田頭)

2007-07-13 北海道空襲

最近は北海道民でも知らない人が多いようですが、戦争中は、ここ北海道に於いても米軍機による空襲が行われました。米海軍第38高速空母機動部隊が、終戦の丁度一ヶ月前に当たる昭和20年7月14日、15日の両日に亘り、根室、釧路、函館、室蘭など道内38市町村を空襲し、この「北海道空襲」により2千人以上もの道民(非戦闘員)が亡くなりました。

正規空母7隻と、重巡洋艦を改造した特設空母6隻、計13隻を主軸に編成された機動部隊が、道南から幌別沖約30kmの洋上に展開し、空母一隻から平均百機以上、一日の発進総数約1,500機で2日間に亘って北海道空襲を行ったのです。その忌まわしい北海道空襲から明日で丁度62年経つ事に因み、今日は、道民からも忘れられつつあるこの「北海道空襲」について書かせて頂きます。

《概略》

当時、日本海軍の連合艦隊は既に全滅し、国内では制海権も制海権も米軍に奪われ、米軍機を迎撃できる戦闘機は国内にはほとんど残っていませんでした。5月には日本の同盟国であったドイツが連合国に降伏し、6月末には日本軍は沖縄で惨敗し、戦争は最終局面に入っており、この時の日本はダウン寸前のボクサーのように打たれ放しの状態であり、日本側に反撃らしい反撃は何らできませんでした。

「北海道空襲」とはそういう時期に行なわれた空襲であり、被害の程度に差こそあれ、「東京大空襲」など他地域で行なわれた空襲や、広島・長崎への原爆投下同様、これは日本人(非戦闘員)に対しての米軍による一方的な殺戮に他なりませんでした。

米軍側の記録によると、北海道内の攻撃地は「函館、室蘭、苫小牧、小樽、旭川、釧路、根室、帯広、森、長万部、白老、浦河、島松、岩内、深川、下富良野、上富良野、士別、池田、留萌、妹背牛、白糠、川合、勇留島、津軽海峡、内浦湾、石狩湾、根室湾、積丹半島、襟裳岬、弁慶岬」と記されていますが、実際にはここに記されている場所以外でも空襲は行われており(網走、本別、厚岸など)、そういった、本来の攻撃予定地以外での空襲は、搭乗員の判断で行った任意攻撃である可能性もあります。

なお、本州・四国・九州に対する空襲は、一部には艦上機や戦闘機による攻撃、艦砲射撃などもあったものの、その主力はマリアナ基地から飛来するB29による爆撃でしたが、B29の爆撃した北限は青森市までで、北海道に対する空襲の主力は艦上機でした(但し後述するように室蘭では、大規模な艦砲射撃も行なわれました)。北海道ではB29は偵察のみで爆撃には参加しておらず、この点が、北海道と道外の空襲の大きな違いといえます。

《根室》

根室は北海道と千島列島との連絡の要地であり、北太平洋を防備する日本軍の重要な前線補給基地でもあったため、米艦上機は14日、まず北千島への補給路を断つべく北千島方面に向かうタンカーや輸送船を次々と攻撃し沈没させ(輸送船とはいっても、乗組員ごと国に徴用された漁船が大半を占めていたようです)、翌15日は、午前5時から午後4時半までの11時間半に亘って、艦上機延べ250機により根室市街地への爆撃と銃撃を行いました。

当時の根室には日本軍の飛行機は一機もなく、高射砲もなかったため、米艦上機に只管蹂躙され続け、絶え間ない機銃掃射のため消火作業もできず、市街地は19時間にも亘って燃え続け、一面の焼け野原となりました。3,500戸のうち7割に当たる2,457戸が焼失し、陸上では199人、港内外での船舶攻撃では170人、合わせて369人もの人々が犠牲となり、この空襲により根室はほぼ全滅しました。

《釧路》

釧路は、14・15両日に延べ140機による米艦上機の銃爆撃を受け、焼失倒壊家屋1,618戸、罹災者6,211人、死者183人、負傷者273人という甚大な被害を出しました。

「釧路市消防沿革史」によると、『(7月14日午後2時40分)再度大挙来襲、入レ代リ立チ代リ、市内上空ヲ旋回、爆撃ハ間断ナク既ニ二時五十分頃火災発生セルモ如何セン上空低空ニ抑圧サレ、執拗ナル銃撃ハ熾烈ヲ極メ四―五十メートルノ低空銃撃ハ(消防車に)全ク出動ヲ不可能タラシメタリ』と当時の様子が記録されています。

釧路空襲を調べている写真史家の桑島洋一氏によると、「悲劇だったのは、空襲の時は決して防空壕から出るな、という当局からの命令を守ったため、多くの市民が防空壕の中で焼死した事です。防空壕といっても多くは手掘りで土中に穴を作り、トタン屋根を被せ土盛りした、現在のシェルターとは大違いのものでした。それと、たまたま14日は市内厳島神社の宵宮祭。楽しい団欒の日が永遠の追悼の日になったのでした」との事です。

《室蘭》

室蘭は北海道を代表する工業都市であると同時に、重要な軍需工場群を持つ都市として「重要都市」に指定されており、特に日鋼室蘭の第六工場は、射高2万mの最新鋭の高射砲(制空権を失っていた当時の日本にとって、事実上B29に対して唯一威力を発揮していた武器)を生産できる国内唯一の工場であった事から、室蘭は、米軍機動部隊にとっては重要で格好の攻撃目標となっていました。

そのため室蘭は、まず14日に艦上機により空襲され、翌15日には艦砲射撃をされ、北海道内の空襲では死者数、焼失家屋数共に最大の被害を出す事となりました。

14日、米軍機500機が室蘭に来襲し、室蘭港に停泊していた艦船や航行中の船を次々と大破・沈没され、更に室蘭市内に機銃掃射の雨を降らせました。そして翌15日は、午前9時37分から10時37分までのきっちり1時間、6隻の戦艦と、巡洋艦や駆逐艦などの10隻が、幌別沖約30kmの洋上から室蘭に対して一斉に艦砲射撃を行い、この1時間の攻撃で427人もの市民が犠牲となりました。

「戦時災害罹災状況調査書」によると、室蘭市内の空襲での被害状況は、被災世帯1,941世帯、被災人員8,227人、死者436人、重軽傷者49人とされていますが、この死傷者数は一般市民のみで軍人は含まれていないため、実際にはもっと多くの犠牲者が出たと推察されています。

《函館》

函館は、北海道と本州とを青函連絡船で繋ぐ“北海道の玄関口”であった事から、米機動部隊の重要な攻撃目標とされ、特に、北海道と本州を結ぶ大動脈であった青函連絡船に攻撃が集中し、連絡線のうち8隻が沈没、4隻が大破し、350人もの乗組員が犠牲となりました。

14日、第四青函丸が上磯の葛登支岬沖で、津軽丸が上磯の矢越岬沖で、翔鳳丸、飛鸞丸、第二青函丸が青森港外でそれぞれ沈没し、松前丸は七飯浜沖で座礁・炎上し、第三青函丸は福島沖で、第六青函丸は知内沖で、第十青函丸は函館港外でそれぞれ沈没もしくは大破し、第七青函丸と第八青函丸も大破しました。そして、14日は無傷だった第一青函丸も、15日、再度来襲した19機の米艦上機の攻撃により、下北半島の三厩沖で撃沈され、青函航路は完全に壊滅してしまいました。

当時は、北海道の石炭が京浜工業地帯の燃料をまかなっており、青函ルートが壊滅した事は日本にとって戦争を継続する生産力の根源が無くなってしまった事を意味し、この空襲は日本の敗戦を決定付けました。

《苫小牧》

14日午前9時、米艦上機十数機が苫小牧を空襲し、本町一円を機銃掃射すると共に、王子製紙工場、勇払大日本再生製紙工場、錦岡方面にも爆弾や焼夷弾を投下しました。翌15日にも午前6時から、前日同様本町一円に、米艦上機18機が約1時間半に亘って機銃掃射を行いました。苫小牧の空襲での死者は4名と記録されています。

《旭川》

国策パルプと松岡木材が攻撃されて一部炎上し、駅にあった貨車も攻撃され、飛行機2機が爆破されたという記録が残っていますが、被害状況の詳細は不明です。

《本別》

十勝管内の本別町も米軍機の空襲を受け、市街地は3日間に亘って燃え続け、被災者1,900人、死者40人を出しました。本別町がなぜ米機動部隊に攻撃されたのかについては、帯広が雲に覆われて見えなかった事に加え美里別川と本別川とが合流する地形が帯広と似ていたため帯広と誤認されたとか、鉄道の分岐点がある池田と間違われた、といった諸説がありますが、はっきりはしていません。

《札幌近郊》

札幌では丘珠飛行場や手稲などが攻撃され、小樽の在港船舶なども攻撃されましたが、札幌・小樽の市街の被害は少なく、むしろ、その迂回点となった石狩町(現・石狩市)が米軍機三十数機に銃爆撃され大きな被害を出しました。

「戦災記録簿」によると、15日の午前8時頃、石狩の花畔(ばんなぐろ)地区で米艦上機の機銃掃射により牛や馬が撃たれ、午後3時頃には約30分間に亘って河口の本町地区や八幡地区が空襲され、250キロ爆弾三十数発や小型爆弾が投下され、機銃掃射もあったと記録されています。

(田頭)

2007-07-12 某神職養成所の学生寮の規則

このブログは、神職養成所に興味・関心を持っている方や、神職養成所への入学を検討しておられる方々も読んで下さっているようなので(そういった方からの質問のコメントやメールを時々頂きますので)、私としては、そういった方の存在を意識して、昨年11月19日付の記事では各神職養成所の学生募集要項について書かせて頂き、今年2月17日付の記事では神職養成所(普通課程)の学生が履修する学科について書かせて頂き、また、今年3月20付の記事では神職養成所の一つである京都國學院と大社國學館の学生の一日について、今年4月10付の記事では京都國學院普通課程の年間行事を、その翌日の記事では大社國學館普通課程の年間行事を、それぞれまとめさせて頂きました。

今日も、神職養成所に関わる事を書かせて頂きますが、今日取り上げるのは、某神職養成所の、寮の規則(但し一部のみ)です。寮の規則は各養成所によって異なっているため、以下に示すものが神職養成所の標準的な規則であるとは言えない部分もあるのですが、どの養成所も全寮制を採っているため養成所に在学する学生にとって生活の中心の場となるのが寮である事という事には変わりなく、寮の規則は、養成所の学生達にとっては大きな意味を持っています。


◆某養成所男子寮 寮則

普通課程の男子学生達が寄宿する男子寮では、入寮している学生が守るべき規則として、寮則と細則を定めています。以下に、寮則の一部を抜粋します。

◎本寮は、神職たるべき修養、躾を体得し、諸規定を守り、神社人たる人間形成に努め、相互の信頼を深め、友情と和を尊び、楽しく明るい共同生活を行うことを目的とする。

◎寮生は常に火災、盗難その他の災害予防に留意し、互いに連絡を密にし、責任を持ってこれらの災害の防止に当たること。

◎女子学生の寮内宿舎棟への立入は一切禁止する。

(実はこの規則は形骸化しており、現実には容認されています。寮内の風紀を乱さない程度であるなら学生間の男女交際もある程度は黙認されており、どの養成所でも学生同士が卒業後に結婚したというケースは過去に何例もあります。但し、22時のその日の最終点呼以降は、女子学生は男子寮内には入れません。)

◎学生寮の日常の維持管理は、学生互いに協力し、自主的且つ積極的に、健全な寮運営を計る事を期す。

(学生達は学生自治会を組織し、自治会では、自治会長に当る「委員長」、委員長を補佐する「副院長」、自治会の会計を担当する「会計係」、各種祭典の準備や段取りを担当する「祭儀係」、写真の撮影と販売を担当する「写真係」、寮内及び実習で必要とされる各種物品の注文や購入を担当する「物品係」、寮内に設置されているジュースの自動販売機の商品の補充や選定を担当する「ジュース係」、球技大会の開催や寮内食堂にある書架の管理を担当する「保健体育図書係」などの各係や役職を設けています。)

◎電気製品等で寮生活上必要と認められないものについては寮内持込は禁止する。

(但し2年生になれば、自室に、テレビ、ビデオデッキ、コンポ、パソコン等の電化製品の持ち込みは可能です。1年生のうちは、2年生が許可しない限りは原則として持ち込み禁止です。)

◎喫煙は指定の場所のみで行い、宿舎棟特に寝台の中では厳禁とする。尚、この規則を犯し事の大小を問わず、火災の原因となったことが判明した場合は、厳重に処罰し院長の採決を得て退寮に処する。

(指定の場所とは具体的には寮内の食堂のことです。但し2年生が認めれば、食堂以外の場所でも喫煙可能です。現実には、寮則で定められた文言よりも2年生の判断が優先されます。)

◎寮内に於いての飲酒はいかなる場合もこれを禁止する。(中略)尚、年一度の寮祭後の新酒拝載は成人に限り認める。

(実際には、寮内での飲酒はある程度黙認されています。「学生」とはいってもその内訳は未成年よりも成人の方が多いですし、それに神職は直会などで御神酒を飲んだり飲まされたりする機会が多いですから。但し、建前としては寮内はあくまでも禁酒なので、あまり大っぴらにお酒を飲むと当然問題になります。)

◎門限は午後七時とする。

(点呼の関係上、実際には午後6時40分が門限です。但し休日の門限は午後9時です。門限までに帰寮できなかった場合は、数日間の罰掃除等が科せられます。ちなみに、寮の門限時刻は各養成所によって異なります。)

◎寮生は別に定める日課を厳正に確実に実行し、特に祭典の奉仕並参列、朝夕点呼、国旗の掲揚、降納には全員威儀を正し整然としてこれに臨むこと。

(体調不良などによる欠席はその限りではありませんが、寝坊などにより朝夕の点呼や国旗儀礼に遅れたり欠席したりすると、数日間の罰掃除等が科せられます。)

◎外泊は原則として禁止する。但し、止むなき事情に依り帰宅し外泊する場合は、外泊許可願出を事前に提出し神社担当職員の承認を得る事。

(休日が2日、もしくは、滅多にありませんが3日続くような場合は、特に「止むなき事情」がなくても、原則として外泊が許可されます。但し、養成所によっては学生の外泊は一切認めていないという厳しい所もあります。)


◆某養成所男子寮 細則

実習神社の職員や奉仕先の関係者の方など目上の人に対するけじめとして、また集団生活におけるけじめとして、上記の寮則とは別に、細則が定められています。以下にその細則の一部を抜粋します。

◎食堂で、足組み、肘つき、くわえタバコ、立ちタバコ、腕組みなどは目上の人がいる場合失礼なので控える。

◎食堂で、料理をしてもよいが、長時間に及ぶものは避ける。

◎内線の使用は、係および公的用件のみに限る。目上の人からの電話は先に切らない。

(ちなみに、寮内に外線はありません。以前は設置されていたそうですが。)

◎各自の携帯電話は節度をもって使用する。

(但し、養成所によっては学生が携帯電話を所持したり使用したりする事を認めていない所もあります。そういった厳しい養成所では、寮内に設置されている公衆電話でしか外部とは連絡が取れません。)

◎目上の人がいる場で喫煙するときは、「失礼します」と一言断る。後から目上の人が来たときは「失礼しています」と一言断る。同学年でもマナーを心がける。

◎部屋に同部屋以外の目上の人がいるときは、「失礼します」と一言断って入室する。後から目上の人が来たときは「失礼しています」と一言そえる。

(ちなみに、私が在学していた養成所の学生寮は二人で一部屋でしたが、養成所によっては、男子学生は全員で大部屋の一部屋に入る、という所もあります。)

◎他の部屋に入るときは先ず「失礼します。○○(さん)に用があってまいりました」と伝える。

(同学年の学生しかいない部屋に入る時はそんな事はいちいち言っていませんでしたが、先輩の部屋に入る時は、確かに私もそう言っていました。)

◎風呂は19:00〜21:30の間で、各自自由にすませる。

(上記時間は1年生の入浴時間で、2年生の入浴時間は上記以外の時間となります。ただし年度によっては、あえて学年毎に入浴時間を分けていない場合もあるようです。)

◎洗濯機の使用は22:00までに限る。

◎雅楽の練習は食堂にて21:30までとする。

◎22時点呼後、及び日曜日の21:30までは寮内での服装は自由とする。

◎ウォークマン等、耳を塞ぐものは22時点呼後に限る。

(本殿の警報に備えるためです。本殿の警報が鳴った場合、学生は全員走って本殿まで状況を確認に行きます。実際には、野良猫が警報センサーに引っ掛かるために鳴る誤報がほとんどなのですが。)

◎休日の帰寮時間21時は厳守する。

(休日の門限は午後3時という養成所もあります。その養成所では、学生達は夕方になる前には帰寮しなければならないという事です。)


◆某養成所女子寮 注意事項

女子学生は、社務所に併設されている女子寮に入寮しますが、女子寮では独自の寮則や細則を定めていないため、原則として女子学生も、上記の寮則・細則に従うことになります。但し、女子学生のみに適用される「女子寮注意事項」は存在するので、以下にその「女子寮注意事項」の一部を抜粋します。

◎男子禁制のこと。家族のみ許可とする。友人不可。

(女子学生は、自由時間内であれば男子寮へは事実上自由に出入りできますが、男子学生は、原則として女子寮内に立ち入る事はできません。)

◎寮内は火気厳禁。暖房器具も電動力のものを使用すること。

◎通常の寮生活中、寮外に出る服装は「白衣・袴」「作業着」「制服」のいずれかであること。休日は、基本的には同様で、遊びに行く際の私服は構わないが、私服のまま社務所・男子寮を歩き回ることは避けること。

◎寮内清掃は、男子寮の寮清掃時間とは別のことなので、女子だけで実習時間外に当番で行うこと。

◎入浴時間は午後8時〜9時30分まで。休日でもこの時間なので要注意。使用する際必ず「女子入浴中」の紙を立てかけておくこと。

(女子寮内には風呂がないので、女子学生は社務所内の風呂を使います。この風呂は宿直の職員も使うので、職員の入浴する時間により、女子学生の入浴時間は変動します。)

◎女子学生の正式の服装は、制服・学年別ネクタイ・白シャツ・白靴下(足首まで)・黒またはこげ茶の靴(ヒールなし、金具等装飾の無い無地のもの)・束髪(結べる長さの者はできるだけ黒ゴムで束ねること)である。

◎毎日の実習中は、明らかに化粧をしているとわかるようなメイクはせず最低限に抑えること。口紅も薄くすること。頭髪もできるだけ結ぶのが望ましい。無論、髪を染めるなどは却下。香水も不可。参拝者から見ると、白い色を身につけるあなたがたは少しの色でも目立ちます。

(そういえば、女子寮には、これ以外にも洗濯物を干す際の注意事項等もありました。)


(田頭)

神田 孝神田 孝 2007/07/22 00:37 2007〜1992の9星の暦を分けて貰えませんか。

田頭田頭 2007/07/22 13:30 >神田さん
暦の本については在庫がないため(毎年1月中に無くなってしまいます)、申し訳ありませんがお分けできません。

2007-07-11 敬神婦人会 さくらんぼ狩り

さくらんぼ狩り

今日は、当社敬神婦人会の会員8人が、西野の丘陵地(西野浄水場より北方向の無番地)にあるさくらんぼ畑で、さくらんぼ狩りを行なって来ました。

さくらんぼ狩りに行って来た当社宮司の奥さんから聞いた話によると、さくらんぼ畑は勾配の急な傾斜地にあるものの、高い場所に位置するため周囲の眺望は素晴らしく、展望台もあり、その展望台からはJRタワー(札幌駅南口に位置する地上38階・高さ173mの、関東以北では最も高い高層ビル)や札幌中心部の街並みが、綺麗にはっきりと見えたそうです。

なお、今日のさくらんぼ狩りの様子を写した写真は、「西野神社アルバム」の平成19年7月「敬神婦人会 さくらんぼ狩り」のページ(下記URL)にも掲載させて頂きましたので、そちらも御覧下さい。展望台からの眺望や、さくらんぼ畑の中にある大きな露天風呂も写っています。

http://nishinojinja.or.jp/photo/190711.htm

(田頭)

2007-07-10 おみくじの設置状態を変えました

1月3日付の記事「おみくじ」で詳しく紹介させて頂いたように、当社では、「恋みくじ」「招き猫おみくじ」「開運みくじ」「扇子おみくじ」「こどもおみくじ」など10種類のおみくじを扱っているのですが、今年の5月、その10種類のおみくじのうちの一つである「おみくじ」(所謂普通のおみくじ)を「QRコード付きおみくじ」に更新し(置き換え)、更に今月からは、11種類目の新しいおみくじとして「血液型みくじ」を扱うようになりました。

とはいっても、それら全11種類のおみくじの箱を社頭に出すのは年末年始期間秋まつりの時期だけで(仮設テントと複数台の長テーブルを設置しないと全種類を置けないので)、平常時は「おみくじ」と「恋みくじ」の2種類の箱だけを拝殿向拝(賽銭箱横のの上)に置き、それ以外のおみくじについては参拝者から「あのおみくじはないんですか?」と問い合わせがあった時のみ一時的に授与所から出しておりました。ちなみに、以下に貼付の写真が、秋まつりの時に10種類のおみくじを並べて置いている状態です。

秋祭り

しかし今月からは、「血液型みくじ」を新たに扱うようになった事を契機に、平常時に社頭に出すおみくじの種類を増やす事にし、現在は「QRコード付きおみくじ」「こどもおみくじ」「恋みくじ」「幸運おみくじ」「血液型みくじ」の5種類を社頭に出しております。以下に貼付した写真のように、内部で4つのスペースに仕切られているおみくじの箱を2箱並べて使う事で、今までと同じスペースで数種類(最大8種類)のおみくじを同時に置けるようになりました(今まで使っていたがっしりとした木製の箱の方が風情はあるかもしれませんが…)。

おみくじ

当社に参拝にお越しの際は、これらの中からお好みのおみくじを引いていって下さい!ちなみに、おみくじの吉凶の順番について尋ねられる事が時々ありますが、これは社寺によって解釈が違うのですが、当社の場合は「大吉>中吉>小吉>吉>末吉>凶>大凶」という順番で説明しております。

(田頭)

2007-07-09 会えるうちに会っておこう

今月1日付の記事「懐かしい友達との再会」では、私がまだ神職になる前、書店でアルバイトをしていた頃の話を書かせて頂きましたが、昨夜は、その当時のバイト仲間2人と、当時私達の上司であったNさん(当時店長)と、私の4人で、久々に飲んできました。その仲間2人とは先月末にも会って飲んできたばかりですが、Nさんと会うのは5年ぶりくらいの事で、懐かしい思いに浸りながらいろいろな思い出話に花を咲かせてきました。

昨夜のその飲み会の席で、元店長(現在は某出版社顧問)のNさんが、私にこんな話をして下さいました。昔からの友人がいて、彼とはもう何年もずっと会っていなかったものの、彼からは毎年必ず年賀状が届き、年賀状には毎年「今年こそ会いましょう」とか「今年こそ飲みましょう」と書かれていた。自分としてもそのうち彼と会おうとは思っていた。しかし、再会を果たす前に彼は急逝してしまった。「ウチの人は生前よくあなたの事を話しておりました。主人も喜ぶと思うので是非参列して下さい」と彼の奥さんから直接連絡を貰って彼の通夜に参列して来たが、その時強く思った事は、「会いたいと思ったのなら、もっと早く会うべきだった」という事。

既に還暦を迎えたNさんは、「おまえらはまだ若いからそこまで考えないかもしれないけど、俺らの年だと、今度会おうなんて話して会う機会を先延ばししていると、もう会えなくなってしまう事があるんだよ」としみじみと仰っていましたが、私の周りでも、今年3月31日付の記事で述べましたように私より少し年上の方が急逝しておりますし(私とは10歳も歳が離れていなかったです)、また、昨年8月11日付の記事で述べましたように、私よりも年齢が若い人も急逝しており(彼も私とは10歳も歳が離れていなかったです)、それだけにNさんの言葉には「ホント、その通りだな」と深く頷いてしまいました。

先のことなど誰にもわかりません。“死”という最悪の要素以外でも、遠方に移転する事になったり、あるいはその他何らかの事情により、いずれ会おうと思っていた人達と会う機会を永久に逸してしまうという事は十分に起こり得ます。それだけに、縁あって知り合った良き仲間や友達とは、「そのうち会おうね〜」などと思わずに、会えるうちになるべく早く会っておくべきだと思いました。

(田頭)

2007-07-08 建築儀礼に適した日

時々、「地鎮祭をしたいのですが、どの日に行えばいいんですか」という問い合わせの電話を受けます。大抵の人は「大安は吉の日で仏滅は凶の日」という認識はあるのですが、それ以外にも日にちによって吉凶があるのであれば、やはり吉とさる日に地鎮祭(もしくは上棟祭)を行いたい、と考えるようです。

先月25日付の記事「何でも信じ過ぎるのはどうかと思います」で述べましたように、こういった吉凶は細かく気にし出すときりがないのですが、しかし、そうは言っても、建主として地鎮祭に参列する機会というのは普通は一生に一度(人によっては2回位その機会がある人もいるでしょうが)の事ですから、折角ならお日柄の良い日に執り行いたいと考えるは当然の事です。そこで今日は、地鎮祭やその他の建築儀礼を行うに当たって吉凶とされる日について、簡単にまとめさせて頂きます。


◆六曜

六曜については昨年11月13日付の記事「六曜」で詳しく書かせて頂きましたので、この項では詳細は省きますが、改めて簡単にまとめると、六曜(六輝)とは暦法の一種で、よく知られているように「先勝」「友引」「先負」「仏滅」「大安」「赤口」の6種をいいます。

旧暦1日の六曜だけは常に固定されていますが(旧暦の1月1日と7月1日は先勝、旧暦の2月1日と8月1日は友引、旧暦の3月1日と9月1日は先負、旧暦の4月1日と10月1日は仏滅、旧暦の5月1日と11月1日は大安、旧暦の6月1日と12月1日は赤口)、それ以外の日は原則として、先勝→友引→先負→仏滅→大安→赤口の順に繰り返されていきます。以下に、各「六曜」の一般的な解釈について簡単にまとめさせて頂きます。

【先勝】午前中は吉で午後が凶。この日の午前中に地鎮祭を行う方は多いです。

【友引】朝と晩が吉で正午は凶。

【先負】午前中は凶で午後は吉。

【仏滅】最も凶の日。この日に地鎮祭は行う方はほとんどいないです。

【大安】最も吉の日。この日に地鎮祭を行う方が最も多いです。

【赤口】午の刻(午前11時〜午後1時頃まで)のみ吉で、それ以外の時間は全て凶。一般的にこの日は地鎮祭を避ける方が多いです。


◆中段十二直

「中段十二直」とは暦注(暦に記載される日時・方位などの吉凶やその日の運勢など)の一つで、建(たつ)、除(のぞく)、満(みつ)、平(たいら)、定(さだん)、執(とる)、破(やぶる)、危(あやぶ)、成(なる)納(おさん)、開(ひらく)、閉(とづ)の12種をいいます。

但し一般のカレンダーには、中段十二直は載っていない事が多いです(暦の本に掲載されているカレンダーの各日にちの欄には、その日がどの中段十二直に当たるのかが記されています)。以下に、各「中段十二直」について、建築儀礼に関係のある事項のみ記させて頂きます。

【建】柱立て、上棟などは大吉。但し動土は凶。

【除】吉の日。但し動土は凶。

【満】全てにおいて吉の日。

【平】地固め、柱立てなどは吉。但し溝や穴を掘るのは凶。

【定】建築、柱立て、上棟は吉。但し樹木の植え替えは凶。

【執】吉の日。但し金銭の出し入れや財産整理は凶。

【破】訴訟や談判事などは吉。但し祝い事は凶。

【危】諸事控えめに慎むべき日。

【成】建築は吉。

【納】商品購入は吉。

【開】建築、移転は吉。

【閉】建墓、トイレ造りは吉。但し柱立て、上棟は凶。


◆二十八宿

「二十八宿」とは暦注(暦に記載される日時・方位などの吉凶やその日の運勢など)の一つで、角(かく)、亢(こう)、氏(てい)、房(ぼう)、心(しん)、尾(び)、箕(き)、斗(と)、牛(ぎゅう)、女(じょ)、虚(きょ)、危(き)、室(しつ)、壁(へき)、奎(けい)、婁(ろう)、胃(い)、昴(ぼう)、畢(ひつ)、觜(し)、参(さん)、井(い)、鬼(き)、柳(りゅう)、星(ほし)、張(ちょう)、翼(よく)、軫(しん)の28種をいいます。(但し「氏」は正確にはこの字ではありません。漢字変換ができませんでした。)

但し、中段十二直同様、一般のカレンダーには二十八宿は載っていない事が多いです(暦の本に掲載されているカレンダーの各日にちの欄には、その日がどの二十八宿に当たるのかが記されています)。以下に、「二十八宿」のうち特に建築儀礼に関係のある21種を記させて頂きます。

【角】柱立ては吉。

【亢】普請建築は凶。

【房】移転、柱立て、上棟などは吉。

【心】移転は吉。普請建築は凶。

【尾】移転は吉。

【箕】動土、建物の改造は大吉。

【斗】土掘り事に大吉。

【牛】全てにおいて大吉。

【危】壁塗り、船普請は吉。高所での仕事は大凶。

【室】全てにおいて吉。

【奎】宮造り、柱立て、上棟は吉。

【婁】動土、契約、造園は吉。

【昴】祝い事は吉。造改修は凶。

【畢】全てにおいて吉。

【参】祝い事は吉。

【井】全てにおいて吉。

【鬼】婚礼以外は全て大吉。

【星】便所改造は吉。

【張】全てにおいて吉。

【翼】樹木の植え替えは吉。高所での作業は凶。

【軫】全てにおいて吉。特に地鎮祭、上棟、落成式は吉。


◆下段

「下段」とは暦注の一つで、その日の吉凶を示すものなのですが、根拠のない迷信とされて明治の改暦に際して全廃されたため、「中段十二直」や「二十八宿」同様この暦注も現在のカレンダーにはほとんど掲載されていません。しかし、暦の本などには今でも掲載されているので、以下に、「下段」のうち特に建築儀礼に関係のあるものを記させて頂きます。

【大みゃう】太陽の光が隅々まで照らすという意味があり、万事において大吉。

【天おん】天から恩恵が下されるという意味があり、万事において大吉。

【母倉日】天が万物を育成するという意味があり、特に普請に吉。

【月徳日】月の福を司る日で万事において吉。

【よろづよし】他の凶日と重なってもそれを打ち消す程の大吉日。

【黒日】特別の大凶日。葬式以外は用いてはいけない日。

【凶会日】万事において忌むべき日。

「下段」には上記以外にも様々な吉日や凶日があります。詳しくは当社ホームページ内の「今日はどんな日?」の「下段」のページ(下記URL)を御参照下さい。

http://nishinojinja.or.jp/calendar/rekichu3.html


◆干支

十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を相互に組み合わせたものを「六十干支」といい、全ての日にちにはこの六十干支が割り当てられています、そして、その日の六十干支によっても吉凶があります。

但し、中段十二直や二十八宿同様、各日にちの干支も、一般のカレンダーには掲載されていない事が多いです。以下に、地鎮祭と上棟祭を斎行するに当たっての吉日のみ記させて頂きます。

【地鎮祭の吉日】甲子、甲寅、甲辰、乙未、乙酉、戊申、庚子、庚午、庚戊、辛卯、壬子、壬寅

【上棟祭の吉日】甲子、甲辰、甲午、乙卯、乙酉、乙亥、庚子、庚辰、庚午、庚戌、辛丑、辛亥、壬申、癸巳、癸酉、癸亥


◆選日

「選日」(せんじつ)とは、七曜(日・月・火・水・木・金・土)、六曜、中段十二直、二十八宿、下段、九星以外の暦注全ての総称で、「撰日」とも書きます。

【土用】

立春、立夏、立秋、立冬前の18日間の事で、1年に4度あり、土用の期間中に土を犯す仕事(土木工事など)をする事は凶とされています。土用に入る始めの日を「土用入り」、土用が終わる日を「土用明け」といい、入り日の時刻によっては土用の期間が19日間となる事もあります。

今年(平成19年)について言えば、1月17日〜2月3日、4月17日〜5月5日、7月20日〜8月7日、10月21日〜11月7日の各期間(いずれも新暦)が土用に当たります。

【不成就日】

何事も成就しない、不首尾の結果を招く日とされ、結婚、開店、柱立て、子供の命名、移転、契約など、事を起こすには用いてはならない凶の日とされています。

旧暦の1月と7月の3日・11日・19日・27日、2月と8月の2日・10日・18日・26日、3月と9月の1日・9日・17日・25日、4月と10月の4日・12日・20日・28日、5月と11月の5日・13日・21日・29日、6月と12月の6日・14日・22日・30日が不成就日(但し全て旧暦)となります。

これら旧暦の不成就日を今年(平成19年)の新暦(但し今月以降のみ)に置き換えると、7月5日・13日・19日・27日、8月4日・12日・15日・23日・31日、9月8日・12日・21日・28日、10月6日・11日・19日・27日、11月4日・13日・21日・29日、12月7日・14日・22日・30日となります。

【三隣亡】

三隣亡は棟上げなど建築に関する事の凶日とされており、この日に建築、土起こし、柱立て、上棟などの建築事を行うと、後日になって火災を起こし、その災禍は三軒隣まで及ぼすと云われています。しかし、江戸時代の三隣亡は「三輪宝」と書かれ、その意味も現在とは正反対の吉日とされており、この日が凶日というのはただの迷信と考えて差し支えないようです。

旧暦の1月・4月・7月・10月の亥の日、旧暦の2月・5月・8月・11月の寅の日、旧暦の3月・6月・9月・12月の午の日が三隣亡です。

【犯土】

「犯土」(つち)には「大犯土」(おおつち)と「小犯土」(こつち)があり、大犯土は庚午の日から丙子の日までの7日間、小土犯は戊寅の日から甲申の日までの7日間をいい、この期間に土を犯す事(土木工事など)は凶とされています。但し、大犯土と小犯土の変わり目の丁丑の日は間日とされ、この日は犯土の期間には含まれません。


(田頭)

田頭田頭 2007/07/10 17:21 日にちの吉凶を示す暦注としては、代表的なものだけでも、今日の記事で書かせて頂いたように六曜、中段十二直、二十八宿、下段、干支、選日などがあります。
細かく調べていくと、こういった日にちの吉凶を示すものは、まだ他にいくらでも出てくるはずです。今日の記事では書きませんでしたが、それぞれの日にちには「九星」も割り当てられていますし。

だからこそ、以前の記事でも述べましたように、こういった吉凶は頭から全てを信じるのではなく、「どこかで割り切る」という発想が必要になってくるのです。
全てにおいて吉とされる日に地鎮祭を行なおうとすると、「六曜」は大安で、「中段十二直」は満・定・執・成・開のいずれかで、「二十八宿」は箕・斗・牛・室・婁・畢・参・井・鬼・帳・軫のいずれかで、「下段」は大みゃう・天おん・母倉日・月徳日・よろづよしのいずれかで、「干支」は甲子・甲寅・甲辰・乙未・乙酉・戊申・庚子・庚午・庚戊・辛卯・壬子・壬寅のいずれかで、それでいて、土用・不成就日・三隣亡・犯土には当らない日を探さなければならず、しかも、建主さん御一家にとっても参列可能な日(仕事が休みの日)でなければなりませんが、そのような日を選んで地鎮祭を行なおうとすると、いつまで経っても家は建てられません!

仮に、全てにおいて大凶日とされる日、もしくは建築儀礼にとっては凶とされる日(その日に建設を始めると災いが及ぶとされるような日)に地鎮祭を行なったとしても“それがために”災いが起こるような事はありません。
なぜなら、例えどんな大凶日であったとしても、地鎮祭は、行わないよりは行なった方が良いに決まっているからです。
地鎮祭を行なえば絶対に災いが起こらない、とまでは言えませんが、仮に災いが起こったとしても、地鎮祭を行なった事により大難が小難になったと考える方がむしろ自然であり、少なくとも、それ(凶日に地鎮祭を行なった事)が要因となって災いが発生するという事は考え難いという事です。

地鎮祭をしないで大吉日に工事を始める場合と、例えその日が大凶日であっても地鎮祭を行なってから着工する場合とを比べた場合、私は、後者の方が「良い」と解釈しています。
だからといって、日にちの吉凶を無視して地鎮祭を行なう事を積極的に勧めている訳では決してありませんが。

jo1upkjo1upk 2008/03/29 20:08 http://nishinojinja.or.jp/calendar/koyomi2008.html の吉日の日柄は、全てが満たす日ということなのでしょうか? http://f-shrine.com/jinja/kasou/imgs/kitijitu/kitijitu.htm などの二柱神社では、全て満たす日とされているので、そう思いました。

田頭田頭 2008/03/30 15:10 >jo1upkさん

こんにちは。
御指定のURL(http://nishinojinja.or.jp/calendar/koyomi2008.html)は常に「最新の日」の暦が表示されるため、jo1upkさんが具体的に何月何日の事を言っておられるのかがちょっと分かりませんが、このコメントの投稿日が平成20年3月29日となっておりますので、仮にその日を指しているとすると、その日は、六曜は「大安」で大吉日、中段は「除」で一応吉日(但し動土は凶)、二十八宿も「てい」(←漢字変換できず)で吉日ですが、下段は「天おん」という大吉日と「黒日」という大凶日が重なっています(そもそも同じ下段で大吉日と大凶日という正反対の日が重なっているのが不思議ですね)。

吉日が複数重なっているため、地鎮祭や上棟祭などにはむしろ適した日といえますが、黒日である事も考慮すると、「吉日の日柄を全て満たす日」という訳ではないようです。
もっとも、他にも干支、九星、選日などの組み合わせがある事も考えると、そもそも「吉日の日柄を全て満たす日」が本当に巡ってくる事があるのか、かなり疑問ですが。

ただ総合的に判断すると、これだけ吉日が重なるのは珍しいので平成20年3月29日がかなり良い日である事は確かです。
地鎮祭や上棟祭をされるのであれば“お勧めの日”といえます。

jo1upkjo1upk 2008/03/30 16:18 >田頭さん
書き方が悪くてすみません。お日柄の相談というよりも、暦に興味があって、色々とプログラムなど作っているのですが、あのページの下のほうで、例えば、地鎮祭の吉日を選ぶと、

六曜の先勝・友引・大安・先負
十二直の除・定・平・成・開・納
二十八宿の心・斗・室・昴・畢・井・鬼・軫・房・心・牛
立春、立夏、立秋、立冬、の前十八日間の土用は凶。但し春の土用は、巳・午・酉の日、夏の土用は卯辰・申の日、秋の土用は未・酉・亥の日冬の土用は寅・卯・巳の日は間日として障りない

と表示されますが、この部分だけを二柱神社さんなどが書かれている内容と比べると、当然かと思いますが、似ている部分が出てくると思います。そこで、二柱神社さんの場合は、すべてを満たす日と明示されているので分かるのですが、西野神社さんの場合は、似ているにも関わらず、それが書かれていないので、そのように解釈した日でよろしいのですか?ということなのです。

ただ、私も下段や選日など色々と気にしだしたら、どこの日にもならないということも理解していますので、まぁ、気にするなら、とことん気にしてみると、実は、この日なんですよ。という日を調べられるようにしようかな。と考えているんです。

実は、今度、引越でして、また数年もすれば、改築清祓や地鎮祭のことも気にすることになるので、今のうちに、お日柄算出プログラムでも作ってしまおうと思っているわけです。私なりの解釈で作った引越のカレンダーは、以下のページになっています。

http://jo1upk.blogdns.net/saito/?%E6%9A%A6%2F%E5%BC%95%E8%B6%8A

西野神社さんで書かれたような日を導き出すようにも、発展したいと思っている次第です。

田頭田頭 2008/03/31 07:26 >jo1upkさん

私の解釈が間違っていたようですみません。

「それが書かれていないので、そのように解釈した日でよろしいのですか?」とは、「全てを満たす日とか書かれていないので、全てを満たす日ではないと解釈しても良いのですか?」という事なのでしょうか。
そうであるならば、(私はあくまでもブログの担当者であって、基本的に「西野神社アルバム」のコンテンツ以外の当社ホームページには関わっておりませんが)多分その解釈で良いと思います。

他所の神社さんのホームページの事は私は知りませんが(どうこう言える立場でもないですし)、既に何度も述べているように「全てを満たす日」というのは、現実にはほとんどありえないと思いますし、そこまで吉日に徹底的に拘る必要もないと個人的には思っています。

ちなみに、当社のホームページに関しての質問や問い合わせ等は、このブログに書かれるよりも、ホームページ(トップページ)に記載されているメルアドにその旨の内容を送信された方が、ホームページ担当者からより適切な回答が得られるかと思います。

jo1upkjo1upk 2008/04/02 23:32 >田頭さん

状況、承知いたしました。色々とお返事、有難う御座いました。

2007-07-07 創祀百年奉納献詩

今から22年前の昭和60年(1985年)、当社は創祀百周年という記念すべき年を迎え、この時期、当社では創祀百周年の記念事業として、社殿増改築(幣殿造営、拝殿増築、神饌所増築、社殿屋根の葺替え、回廊・欄干の増設など)、社務所新築、玉垣(延長60m・180基)建設、神社諸施設整備(授与所改築、渡廊下改築、ガレージ移設、手水舎改装など)、創祀百年記念塔建設、百年記念植樹、百年誌編纂、創祀百年記念式典・祝賀会開催などの諸事業を行いました。

今日紹介させて頂くのは、この百周年の時、元小樽商業高校教頭・元釧路高校校長の安宅文雄先生が、当社の創祀百周年を記念して奉納して下さった献詩です。とても達筆な文字で書かれています。

創祀百年奉納献詩

この掛け軸には『奉祝創祀百周年 神明あきらかにして西野を拓く 豊玉三神大みいつ 萬民尊崇神佑を謝す』と書かれており、現在は社務所和室の床の間に飾られています。

(田頭)

2007-07-06 小学生達からの感想文

西野小学校3年生

先月の28日、当社氏子地域内にあるN小学校3年生の児童17人が、社会科の「町をたんけんしよう」という学習の一環で当社を見学に訪れ(写真参照)、当日は宮司が不在だったため松澤権禰宜が社務所の御祈祷控室で子供達の質問に答えたり、私が子供達を神輿殿に案内するなどしたのですが、今日、そのN小学校から「見学のお礼」と題した手紙が当社に届き、子供達13人分の感想文も同封されていました。以下に、その感想文の中から6人分の感想文を、全文転載・紹介させて頂きます。

西野神社かんぬしさんへ。しつもんにこたえてくださってありがとうございました。西野神社がなんでできたんですかというしつもんにこたえてくれてありがとうございました。

この子は当社創建の理由に興味があったようです。ちなみに、当社創建時の様子は先月24日付の記事「西野神社の創建」で詳しく書かせて頂きました。

西野神社のみなさんへ。この前はいろいろインタビューしたり写真をとらせてもらったりおみこしを見せてくれたりしてありがとうございます。神社に入るのははじめてだったのでうれしかったです。本当にありがとうございました。

子供達はカメラで境内の写真も撮っていました。喜んで貰えて幸いです。

西野神社のみなさんへ!このまえのしつもんありがとうございました。しつもんをゆったらなんでもおしへてありがとう。

子供達は平易な表現を使いながらも意外と難しい質問をしてくるので、時々ドキッとする事があります(笑)

北海道神宮のみな様へ。先日はおせわになりました。神主さんにおみこしを見せてもらいまことにありがとうございました。おみこしは全ぶ金でできていてびっくりしました。神宮はとても広くてすごいですね。

この子は、当社の事を北海道神宮と思っているようです(笑)。しかし「まことにありがとうございました」など小学3年生らしからぬ表現もあり、文章はしっかりしています。華やかな御神輿が特に印象に残ったようです。ちなみに、この子は当社をとても広く感じたようですが、当社の境内地の面積は約1,200坪で、北海道神宮に比べるとその面積は比較にならない程微々たるものです。

西野神社のみなさんへ。町たんけんの時、神ぬしさんのいるへやに入らせてもらって、ありがとうございました。そして、シールをくれて、ありがとうございました。シールをもらった時、すごいうれしかったです。いろいろなしつもんに答えてくれてありがとうございました。こも犬は何びきいるかとか。ありがとうございました。

子供達が帰る時、お土産としてシールなどをあげたのですが、その事を特に喜んで貰えたようです。この子は感想文の用紙に、可愛らしいイラスト(自画像?)も描いてくれていました。

西野神社のみなさんへ。こないだは社会のおべん強で神社に行った時へやに入ってしつもんをきいて教えてくれてありがとうございます。しつもんをしていろいろな事がわかりました。答えてくれてありがとうございました。

疑問が氷解したようで良かったです。また神社に来て下さいね!

(田頭)

2007-07-05 護国神社 御霊璽奉安祭

毎年7月5日に札幌市内に鎮座するS護国神社で斎行される「御霊璽奉安祭」には、私達「青年神職文月会」の会員達が助勤奉仕させて頂いており、今日の午後6時から斎行された今年の同祭には、私を含め12人の会員が、それぞれ祭員・典儀・賛者として御奉仕させて頂きました。

以下の2枚の写真が今年の同祭を写したもので、左側の写真が、山鼻祭典区祭典委員、宮司以下祭員、責任役員達が神門から拝殿に向って参道を参進している様子で、右側の写真が、献饌するために祭員達が祇侯している様子(これから神饌伝供する所)を写した写真です。

札幌護国神社 御霊璽奉安祭 札幌護国神社 御霊璽奉安祭

ところで、「護国神社」という名前の神社は全国に多くありますが(原則として各県に一社以上はあります)、そもそも護国神社とはどういう神社なのか、一言と言うと、護国神社とは、大多数の神社のように記紀などの神話に登場する神様をお祀りしている神社ではなく、幕末の戊辰戦争から大東亜戦争までの戦役で亡くなられた国家殉難の御英霊(戦後に亡くなった昭和殉難者も含み、神社によっては警察・消防・自衛隊の殉職者も含みます)を御祭神としてお祀りしている神社の事で、東京の靖國神社が、それら全国の護国神社の総本宮とされています。

戦没者をお祀りしているという性格上、靖國神社や護国神社は他の神社に比べて御祭神の数が圧倒的に多い事も際立った特徴の一つで、例えば靖國神社では246万6千余柱もの御英霊を御祭神としてお祀りしており、私達が今日御奉仕させて頂いたS護国神社は、靖國神社でお祀りされている御英霊のうち、札幌やその近郊出身の御英霊、及び御遺族が札幌やその近郊に住んでいる方の御英霊など、合わせて2万5千5百余柱を御祭神としてお祀りしています。

そして、今夜S護国神社で執り行われた「御霊璽奉安祭」というのは、簡単に言うと新たな神様をお迎えする合祀祭の事で、今年の御霊璽奉安祭では、新たに3柱の御英霊がS護国神社の御祭神として合祀されました。S護国神社は石狩や空知など道内の5支庁を同社の合祀管内としているのですが、御英霊の御遺族が管外から管内に引っ越して来た場合、その御遺族の申請により御英霊も、御遺族が以前住んでいた地域の護国神社からS護国神社に分祀(S護国神社にとっては合祀)される事になり、そのため、護国神社では毎年合祀祭(御霊璽奉安祭)が執り行われているのです(但し昨年は御遺族からの申請がなかったため合祀は行なわれませんでした)。

今日の御霊璽奉安祭では、私達文月会の会員12名は、宮司(斎主)、権禰宜(祓主・陪膳)の2人の同社職員に続く序列第3位(大麻所役・膳部)以下から序列第12位(先導所役)までの祭員と、典儀と賛者をそれぞれ務めさせて頂き、私は、今年の同祭では「五の手長」という所役を務めさせて頂きました(私は神職としては下っ端なので、斎主も含めて12人いた今日の祭員の中での序列は第9位でした)。なお、「手長」という所役についての詳細は、先月2日付の記事「伝供(でんく)」の、【伝供の作法】の項目で書かせて頂きましたので、興味のある方はそちらも御参照下さい。

ちなみに、今日の御霊璽奉安祭の式次第は以下のようになっていました。【1】宮司以下祭員並びに祭典区年番正副委員長及び参列者代表参進、【2】宮司以下祭員並びに祭典区年番正副委員長及び参列者代表祓所(神門前)に着く、【3】修祓、【4】宮司以下祭員並びに祭典区年番正副委員長及び参列者代表所定の座に着く(宮司以下祭員は幣殿、祭典区年番正副委員長及び参列者代表は拝殿)、【5】国歌斉唱、【6】開扉、【7】宮司合祀奉告の祝詞を奏す、【8】宮司本殿内に参入、【9】宮司合祀の儀奉仕(この間消灯し「海ゆかば」を放送)、【10】宮司祇侯座に著す、【11】献饌(祭員神饌を供す)、【12】宮司祝詞奏上、【13】宮司玉串を奉りて拝礼(祭員は座後列拝)、【14】祭典区年番委員長玉串を奉りて拝礼(副委員長列拝)、【15】本年度合祀遺族・遺族代表参列者の順に玉串を奉りて拝礼、【16】撤饌(陪膳所役のみ奉仕)、【17】閉扉、【18】宮司一拝、【19】退下、【20】祭典委員長挨拶、【21】宮司挨拶

以下の写真は、祭典が終わった後、社務所玄関の前で、私達文月会の会員全員で撮った記念写真です。今日はこの写真に写っている12人で助勤奉仕させて頂きました。前列の浄衣を着ている2人が典儀と賛者で、その2人以外の斎服を着ている人達は全て祭員として御奉仕させて頂きました(以下の写真はクリックすると拡大表示されます)。

助勤神職全員集合

祭典の後、午後8時からは、護国神社のすぐ近くにあるY神社の社務所にて文月会の役員会が開かれ、今日の役員会では、来月の札幌支部家族親睦会、8月例会(祭式勉強会)、文月会創立60周年記念事業、事業品のカレンダー、文月会野球部サンレインズなどについて、午後11時半頃まで皆で話し合ってきました。


(田頭)

2007-07-04 7〜10月の宮中祭祀

宮中祭祀(皇室祭祀)とは、皇居内に鎮座される宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)や神嘉殿、あるいは山陵(天皇、太皇太后皇太后皇后の山陵、御陵、皇族方の陵墓)に於いて、天皇陛下が御先祖や神々に深謝され、国家の安泰、国民の福祉、世界の平和などを祈念される一連の祭祀の総称です。

1月13日付の記事では1月の宮中祭祀について、2月1日付の記事では2月から3月にかけての宮中祭祀について、4月2日付の記事では4月から6月にかけての宮中祭祀についてそれぞれまとめさせて戴きましたが、今回はそれらの記事の続きとして、7〜10月にかけての宮中祭祀をまとめてさせて頂きます。


【7月30日】明治天皇例祭

近代日本の礎を築かれた明治天皇の崩御日(7月30日)に、宮中の皇霊殿と、明治天皇の御陵である伏見桃山陵(京都市伏見区)に於いて執り行われる、明治天皇の御聖徳を敬仰追慕する祭典(小祭)です。皇室祭祀令により大正時代には「明治天皇祭」として大祭で斎行されていましたが、昭和3年以降は、「明治天皇例祭」として小祭で斎行されるようになりました。

なお、明治天皇の御業績については、一昨年7月30日付の記事「明治天皇」や、同年11月3日付の記事「明治天皇の御聖徳」を御参照下さい。


【秋分の日】秋季皇霊祭

秋分の日に宮中の皇霊殿で執り行われる御先祖祭(大祭)です。明治11年6月の太政官達で春秋二季に皇霊祭を斎行される事とされ、それを受けて同年9月23日、初めて秋季皇霊祭が執り行われました。但しこの時の秋季皇霊祭は、天皇陛下が北陸方面を御巡幸されていたために有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王が御代拝せしめられました。幟仁親王の御尊影や御業績は4月18日付の記事「神社界の学閥」に掲載させて頂いておりますので御参照下さい。

なお、春季皇霊祭同様、この祭典には、内閣総理大臣、衆議院・参議院の両議長、最高裁判所長官、各国務大臣等に、掌典長より参列につき案内する事となっています。


【秋分の日】秋季神殿祭

秋分の日に宮中の神殿で執り行われる神恩感謝の祭典(大祭)です。明治12年9月23日に斎行された秋季皇霊祭、秋季神殿祭に天皇陛下が出御し御告文を奏し御親祭されて以降、両祭は御親祭とされ、皇室祭祀令でも春秋二季の両祭は全て大祭とされました。


【10月17日】神嘗祭賢所の儀

宮中の賢所に新穀をお供えになる神恩感謝の祭典(大祭)で、この祭典に先立って天皇陛下は、神嘉殿南庇に於いて伊勢の神宮を御遙拝されます。

神嘗祭については一昨年10月17日付の記事「神嘗祭(かんなめさい)」で詳しく書かせて頂きましたが、一言で言うと、神嘗祭とは、天皇陛下がその年に収穫された新穀(初穂)を神宮の神様に捧げて五穀豊穣を感謝するお祭りで、所謂「収穫祭」に当たります。

古来、天皇陛下は、神嘗祭の折には宮中から神宮に幣帛使を遣わせられていたのですが、応仁の乱以降はその古例が乱れ、幣帛使発遣は中断された事もあったのですが、正保4年(江戸時代前期)に幣帛使発遣が復活して以降は絶える事なく続けられており、明治4年、思し召しにより賢所でも祭典が執り行なわれるようになりました。

なお、明治5年の改暦の後も、古例の9月17日をそのまま新暦の月日に当てて行なわれてきましたが、新暦の9月17日は稲の成熟が十分ではなかった事から、明治12年7月に、神嘗祭の斎行日は10月17日に改定されました。そして、その改定に合わせて、発遣の日も神宮御遙拝の日も、同年より10月17日に改定されました。


(田頭)

2007-07-03 小学生達からの感想文

先月29日付の記事「H小学校2年生の子供達が見学に来ました」で詳しく書かせて頂きましたが、同日の午前11時から正午にかけて、当社氏子地域内にあるH小学校2年生の児童8人が、生活科の「とび出せたんけんたい」というテーマの学習の一環で当社を見学に訪れました。

今日は、そのH小学校の先生が「見学させて戴いたお礼」として、当社を見学した子供達が書いた感想文を当社に届けて下さいました。先生が届けて下さった封筒の中には、校長先生の名前で書かれたお礼状と共に、3人の子供(A君、Bさん、C君)の感想文が入っていたのですが、どれもとても微笑ましい内容なので、その感想文の全文を以下に転載・紹介させて頂きます。

◆A君の感想文

中をいっぱいけんがくさせてもらったのでたのしかったです。そして、おみこしをみにいってそしてかえろおとしたときにシールをもらいました。

神輿殿と御神輿

子供達には、拝殿の内部を見学して貰った後、神輿殿内に奉安してある二基の御神輿(おみこし)も見学して貰い、見学が一通り終わった後は子供達全員に記念品(冊子、シールなど)を差し上げたのですが、A君はその事を感想文で書いてくれました。

上の写真が、その時子供達に見学して貰った当社の二基の御神輿です。但し、これは宵宮(秋祭りの前日)に撮影した写真であり、平常時は、神輿殿の扉は施錠しており内部はこのように公開しておりません。

◆Bさんの感想文

にしのじんじゃは休みはなかった。おまつりは9月でした。かみさまのまえの上に「12し」のえがでていて、ねーうしとらうーたつみーさるいのししなどでていました。いろんなことをじんじゃの人がおしえてくれました。「どうもありがとうございました」と最後に言いました。

拝殿梁の木彫

上記文中にある『神様の前の上に「十二支」の絵が出ていて』というのは、拝殿の梁にはめ込まれている十二支の木彫の事です(左の写真参照)。この十二支の木彫の写真は以下のページにも掲載されておりますので御覧下さい。

http://nishinojinja.or.jp/photo/eto.htm

「どうもありがとうございました」と最後に言いました』というのは、私に対して、子供達が別れ際に言った挨拶の事です。年齢の割には随分と礼儀正しい子供達でした。

◆C君の感想文

ぼくは西のじんじゃにいきました。心にのこったことはりゅうが口から水を出すことです。これが一ばんあたまにのこったことで、おみこしもおぼえている。ぼくがいんたびゅうしたら「なん年ぐらいですか」ってきいたら「122年」っていってシールをもらった。

手水のイラスト

上記文中の『「何年位ですか」って訊いたら「122年」』というのは、「神社はいつできたんですか」と子供達に訊かれた際に私が「今から122年前にできました」と答えた事を指しています。

心に残った事は龍が口から水を出す事です』というのは、当社の手水の事を指しています。ちなみに、3人の子供の感想文のうち2人の感想文に手水を書いた絵が描かれていましたので(上のイラストがそれです)、当社の手水は、子供達にとってはかなりインパクトがあったようです。

手水舎 屋内手水

上の写真のうち、左側が、参道沿いに建つ手水舎で、右側が、拝殿と社務所の連絡通路に設置している屋内の手水です。イラストはどちらの手水を描いたのか分かりませんが、とにかく子供達にはかなり強く印象に残ったようでした。


(田頭)

2007-07-02 カエル付ポケット守

カエル付ポケット守

今日は、当社の授与品の「カエル付ポケット守」を紹介させて頂きます。このお守りは、貼付写真のようにブルーとピンクの2種があり、サイズは縦4.5cm、横3cmとかなり小さなお守りなのですが、お守りの表面にはポケットが付いていてその中に可愛いカエルが入っており、裏面には当社の名前が刺繍されています。

そもそも、なぜお守りにカエルが入っているのかというと、「カエル」という言葉に、「出て行ったお金が又返る」「旅に出た人が無事に帰る」「人に施せば自分に還る」「若返る」「見違える」「栄える」「活き返る」「健康が蘇る」「愛が返る」といった意味があるためで、このお守りは、こういった言葉にあやかってこのお守りを持っている人が幸運になれるよう祈願されているお守りなのです。

また、かつて農村ではカエルは雨乞いの象徴として信仰される事もあり、カエルには雨乞いの御利益もあると云われています。

ちなみに、ポケットの中のカエルはポケットから自由に出し入れができますが、お守り本体とカエルはリングで連結されているため、カエルがお守りから外れたり落ちたりしてどこかに行ってしまうような事はありません。

(田頭)

ともぴーともぴー 2007/07/13 23:52 お久しぶりです。かわいい御守りですね。
これからは、参拝者のニーズにこたえる御守り奉製も重要ですね。
それにしても、西野神社の御守りはアイデア満載です。見習わな(笑)

田頭田頭 2007/07/14 06:29 ともぴーさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます!
確かに、参拝者のニーズに応えるお守りは必要ですよね。といっても、神社としての尊厳の護持という観点からは、あまりニーズに応え過ぎるのも、それはそれでまた問題なのでしょうが。

ただ、キティちゃん、けろっぴ、たれぱんだなどのキャラクターもののお守りを初めて見た時は、それまで実習していた神社ではそういったものを一切扱っていなかっただけに、正直かなり違和感を感じたのですが、今は何ら違和感を感じていないです(笑)。

2007-07-01 懐かしい友達との再会

川村社長と私

先月28日から今日までの4日間、不思議な事に、毎日、旧友との再会が続いています。今日は完全に私のプライベートな話になってしまい恐縮ですが、私の過去の思い出話を絡ませつつ旧友との再会について書かせて頂きます。

2月12日付の記事「私が神主になった経緯」でも少し書かせて頂きましたが、今から10年近く前(その当時は神職になる事などまだ考えてもいませんでした)、私は、札幌市内の某K書店でアルバイトをしていました。

国内や海外に多数の店舗や営業部を展開している国内書店業界最大手のK書店は、札幌市内の某デパート内に新規の店舗を出店する事を決め、私はその新店舗のアルバイト(オープニングスタッフ)として採用されたのです。店舗面積330坪、在庫冊数30万冊を誇る大型書店として開店したK書店の新店舗で、私は、多客時や人手が足りない時にはカウンターに入って接客もしましたが平常時は主に、バックルーム(倉庫)での商品の仕分けや返品といった裏方的な仕事をしていました。

私がK書店で勤務していた期間は1年半でしたが、今振り返ってみると、それは京都の神職養成所(全寮制)に在学していた2年間に匹敵する、とても密度の濃い1年半でした。高校生活の3年間よりも濃密な時間を過ごしたかもしれません。私にとって20代前半の“青春”とは、バイクとK書店だった、と言っても過言ではない程です。

私が勤務していた当時のK書店のその店舗の従業員数は凡そ30名で、社員もバイトも同年代の人達が多く(特にバイト同士は同い年か1年違いがほとんどでした)、また、オープニングスタッフという事で皆連帯感が強かったため、従業員同士すぐに打ち解け、当時は、バイト仲間で頻繁に飲みに行ったりもしていました(笑)。最近はカラオケにはほとんど行かなくなりましたが、その当時はバイト仲間同士でカラオケにも頻繁に行っていました(そういえば、今年はなぜか旅先の九州で、数年ぶりにカラオケに行って来ましたが)。

喜びや楽しみ、充実感や責任感、時には怒りや不信、そういった店員同士の様々な人間臭いナマの感情が交錯していたその職場では、出会いや別れ、友情や恋愛など、今思うと恥ずかしい程の様々な“青春”の要素が凝縮されており、その職場では、今でも親交が続き今後もずっと付き合い続けていく事になるであろう大切な友人達との出会いがあり、そして、その友人と些細な事で喧嘩をして何ヶ月間も口を聞かなかった事もあり、また、仕事や人生について熱く語り合って議論になった事もあり、今でこそ泥酔する事はなくなりましたが当時はお酒に酔った勢いで破目を外してしまった事も何度かあり、K書店にいた1年半の間にはとにかく本当にいろいろな事がありました。第三者から見ると多分全てが“若気の至り”もしくは“ただのバカ”に写るのかもしれませんが、私達なりにいろいろな“伝説”も作りました(笑)。

◆かつてのバイト仲間N君の思い出

先月の27日、凡そ5年ぶりに、その当時のバイト仲間N君から電話がかかってきました。N君はK書店でのアルバイトを辞めた後、大学を卒業し、正社員として全く別の業界に就職したのですが、その後警察官の採用試験を受けて合格したため会社を辞め、私の家の近くにある道警の警察学校(全寮制)に入学し、半年間の在学期間中には休みの日を利用してウチにも何度か遊びに来てくれました。しかし警察学校卒業後、十勝方面に配属されて以降は音信が不通になっていました。

そのN君から久々に電話がかかってきて、電話をくれた翌28日には当社にも来てくれ、当社境内において、凡そ5年ぶりにN君との再会を果たしました。N君は十勝から札幌に転勤になり、今は、札幌方面本部管内の某警察署刑事一課に所属する刑事になっていました。刑事一課の刑事というのは殺人・強盗・強姦・放火といった凶悪犯を取り扱う、刑事ドラマなどでもその活躍ぶりがよく描かれる刑事の“花形”であり、あまり細かい事を書くと個人が特定されるので詳細は避けますが、警察官としての階級も所謂一番下ではなかったため、N君は警察官に転職してからも持ち前の「真面目さ」と「常に前向きな姿勢」で順当に出世しているようでした。

N君とは当社の応接室で30分程語らい、翌29日の夜には、すすきのの居酒屋で再び会い、そこで4時間近くも(笑)当時の思い出話に花を咲かせました。K書店に勤務していた当時、N君とは喫茶店で5時間も熱く語り合った事がありましたし、当時はお互いに南区の真駒内方面に住んでいたため地下鉄の終電が無くなった後は、すすきのから澄川まで(8km程度?)二人で歩いて帰った事もありました。

彼が別の業界に就職し一時札幌を離れた後も、何度か彼の家に泊まりに行ったりもしましたし、彼が札幌に帰って来て警察学校に在学していた時にも、何度かウチに遊びに来て貰ったり、ウチで夕食を食べて貰ったりと、かなり親密な付き合いを続けていたため、思い出話に尽きる事はなく、とても楽しくお酒を飲んできました。

◆かつてのバイト仲間T君の思い出

そして、N君と飲みながら話しているうちに、折角だから当時の他の仲間とも話したいなと思い、K書店の店員ではなかったもののK書店の取引先(書籍の問屋)から派遣されて毎日K書店で私達と一緒に働いていたT君に電話した所、たまたますぐ近くにいるとの事で、その数十分後にT君とも合流を果たし、私達はその居酒屋の閉店時間まで3人で飲み続けました(笑)。

T君と会うのは7〜8年ぶりの事で、当時大学生だった彼も、今は、焼酎などの酒類製品や食品の輸入販売を行う会社で勤務しており、プライベートでは、今月の中頃に入籍するとの事でした。T君とは、当時のお互いの恋愛話などで盛り上がりました。片想いも恋愛経験のうちに入るのであれば、私も、恋愛経験は豊富だったかもしれません(笑)。

◆かつての上司N店長(部長)の思い出

T君は、当時の私達のボスであったNさん(K書店某店の開店時の店長で、今は60代)とも時々連絡をとり合っているようで、かなり遅い時間であったにも拘らずその場でN元店長にも電話をかけてくれました。T君は電話の途中で私にも電話を代わってくれ、そのため私はN元店長とも、電話口ではありましたが数年ぶりにお話をさせて頂きました。

当時、N元店長は、勤務時間中にも拘わらず私を喫茶店に連れて行って下さり、そこで職場での人間関係についての個人的な助言をして下さったり、また、取引先から貰ったビール券を私に手渡して「地下の食品売り場に行ってこれでビール買って来いや」と言い私が缶ビールをまとめて買って店に戻ると、「飲んでいいぞ」と言って下さったりするなど、かなり豪胆な人物でした。

N元店長のお言葉に甘えて、私達(男性アルバイト)は、タイムカードを押して仕事を上がった後、時々バックルーム(倉庫兼従業員休憩室)の冷蔵庫からビールを出して飲んでいましたが、今振り返って見ると、いくら仕事を上がった後とはいえ、職場で堂々とビールの飲むのって、かなりどうよ!?って気がしますが(笑)、当時はそんな事も許されていました。

今は既にK書店を退職されているN元店長は、電話口で私に、今後もK書店で知り合った人間関係を大切にするように、と言って下さいました。

◆かつての上司N店長代理(係長)の思い出

そしてT君は、N元店長に続き、当時の私にとってはもう一人のボスであった、N元店長代理(今は40代)にも電話をかけてくれ、今はK書店を退職し熊本で暮らしているN元店長代理とも、私は電話口で数年ぶりにお話しさせて頂きました。

K書店を退職した後、N元店長代理は全く違う職種(墓石屋さん)に転職しており、しかも今は音楽関係の仕事も手がけているそうで、近いうちにN元店長代理が作曲した楽曲がCDとして発売されるそうです。またプライベートでは、つい最近お子さんが生まれたそうで、電話口で私に初宮参りに行って来た時の様子を語って下さいました。

K書店で勤務していた当時、私はN元店長代理とは職場で口論した事もありましたし(クソ生意気なアルバイトでした…)、そうであったにも拘わらず、N元店長代理が別の店舗に店長として転任された後には、N元店長代理を訪ねてそのお店に仲間と共に何度か行った事もありました。

思いがけず懐かしい人たちと話す事ができ、私にとってこの日の飲み会は、たった3人という少人数ながらとても楽しい飲み会となりました。

◆かつてのバイト仲間K君の思い出

そして、N君やT君と一緒に飲んだ翌日の30日(つまり昨日)、当社では午後3時から「夏越の大祓」の神事を斎行したのですが、その神事には、K書店で知り合った当時のバイト仲間であるK君が、奥さんと一緒に参列してくれました(今日貼付の写真は、一昨年、そのK君と当社の境内で撮った写真です)。

K君とは、お互いにK書店を退職した後も音信が途切れる事無く連絡を取り続けており、彼は今東京で暮らしているため頻繁に会っている訳ではないものの、それでも年に2〜3回程度は札幌もしくは東京で会っており、当社には今までも奥さんと一緒に何度か参拝に来てくれています。

K君は、K書店でのアルバイトを辞めた後、大学を卒業し、同時期に結婚と就職をし、国内最大手某出版社の社員として某週刊誌の編集部で働いていたのですが、その出版社は数年で退職し、その後、主に政治・経済関係のフリーのジャーナリストとして活躍し、奥さんと一緒に終戦間もないアフガニスタンに一年間滞在するなどして日本に帰国した後は、ガスエネルギー業界の業界雑誌を出版する会社を東京で設立し、現在はその会社の社長と同誌の編集長を務めています。

彼が同誌で「天然ガスで変わる北海道エネルギー事情」という特集記事を組んだ時には、私も、札幌在住の素人カメラマンとして、重油コージェネシステムを受注した札幌市東区の某大型商業施設や、解体作業中の北ガス札幌工場などを撮影し、それらの写真を同誌に掲載して貰いました。

ちなみに、私はK書店の開店日の2週間前に採用されたため、開店日までは同社の別の店舗で2週間実習をしていたのですが、彼の奥さんは、その時の私の指導社員でした。

東京に旅行に行った際には、私は今まで何度かK夫妻の家で宿泊させて貰っており、またK夫妻とは札幌でも何度も会っており、K君とはK書店退職後も音信が途絶える事がなかったため当時のバイト仲間の中では最も親密に付き合ってきました。K書店に在籍していた当時、そのK君と今は警察官のN君と私の3人で、雨の中、街のド真ん中の大通公園で肉を焼いて食べた事も、今となってはいい思い出です(笑)。

しかしこうして振り返ってみると、バイトだったり社員だったりと雇用形態に多少の違いはあっても、当時は皆、同じ書店で働く“店員”という立場に違いはなかったにも拘らず、その10年後には、刑事になっていたり、作曲家になっていたり、雑誌の編集長兼社長になっていたり、神主になっていたりと、皆さん、実にバラエティ豊かな生き方をしているようです(笑)。10年前には、多分誰も今の自分を想像できていなかった事でしょう。私も、当時はまさか神主になるとは思っていませんでしたし。

ちなみに、K書店を退社した後、私は他にもいろいろなアルバイトを経験しましたが、今でもバイト仲間と連絡を取り合っているのは、K書店の仲間達だけです。

◆小学校時代の同級生T君の思い出

そして、実は今日も、懐かしい旧友との再会がありました。今日は、現在は自動車関係の仕事をしている、小学校時代の同級生のT君が、「最近あまり良い事ないからお祓いしてくれ」と言って当社に御祈祷を受けに来たのです。T君とは、ネット上で偶然出合った事がきっかけとなって昨年の年末に凡そ20年ぶり(!)に再会を果たし、「今度小学校の同窓会を開こう!」という話で盛り上がりながら二人で一緒に飲んだのですが、彼と会うのはそれ以来なので、半年ぶりの再会となりました。

御祈祷が終わった後、T君とは授与所の前で20〜30分程度立ち話をし、更に、「小学生の頃ってよく護國神社で遊んだよねぇ」という思い出話から「護國神社って何なの?アレって普通の神社じゃないの?」という話になり神職として、護國神社や靖國神社の御祭神について解説をさせて頂き、その後、車の中で待っていたT君の彼女に挨拶をし、同じく車の中で待っていたT君の飼っているワンコをかなりしつこく撫で回し(笑)、T君とは「来月また飲もう」と約束して別れました。

来月は、小学校当時学級代表や児童会の会長などを務めていた姉御肌の女性Kさん(通称:ねぇさん)も交えて3人で飲む予定です。私が事実上の幹事となって小学校時代の同窓会を開催する企画も進めているのですが、この企画もあまり進展がないため、T君やねぇさんの助力を得て、何とか同窓会の開催に漕ぎ着けたいと思っています。

◆京都の神職養成所の仲間達との思い出

また、来月は、京都の神職養成所の同窓会も開催します(この同窓会も、一応私が事実上の幹事です)。ただ、開催日は決定したものの、肝心の出欠状況がまだ未定なので、どういう形で開催できるかは分からないのですが、講師の先生方も何人かお呼びして、今年は盛大に開催できればいいなと思い描いています。予定では、昼の部と夜の部に分けて開催し、夜の部は同期(第97期生)だけの同窓会とし、昼の部は同期だけに限定せず全体的な同窓会にしたいと考えています。

1月21日付の記事「同期の仲間達」で詳しく書かせて頂いたように、神職養成所に在学していた2年間は、私にとってはかけがえのない貴重な思い出であり、養成所で出会った彼らとも、恐らく今後ずっと付き合い続けていく事になると思います。

友達との久々の再会は、実にいいものです。

(田頭)

烏帽子烏帽子 2007/07/04 13:18 はじめて拝読させていただきます。なかなかに人の繋がりが深く保てぬ昨今において、貴方の交遊を拝読し、感銘をうけました。佳き友と知遇を得て、これからも益々頑張って奉職してください。

田頭田頭 2007/07/04 14:59 烏帽子様、コメントありがとうございます。
私は、出会いに偶然はないと思っていますが、仮にその出会いが偶然の産物であったとしても、その後も交友関係が続いたという現実は決して偶然ではあり得ません。
今後も「出会い」を大切にし、そして友人達との交友を深め、友人同士、互いに切磋琢磨して研鑽し合っていければと思っています。
今後も宜しくお願い致します。

大坊大坊 2007/07/04 16:44 正に、青春の群像を小説を読むような気持ちで拝読しました。そのお友達との付き合いを大切に長続きされるようにして下さい。私は若い頃の友が少なく、今になって、あの人は、この人は、と気になっています。それだけにあなたの交友関係が羨ましいのです。
同級会も40の厄年とか還暦に開催されるのが普通ですが、今から大事に育て上げることがベストですね。それをしてこなかった私の経験からです。若い頃から丁寧に継続することでしょうね。

田頭田頭 2007/07/06 07:09 大坊さん、いつもコメントありがとうございます。
仰るとおり、確かに何事も「継続」が大事ですよね。縁あって知り合った友人達との関係は、いつまでも大切にしていきたいです。アドバイスありがとうございました。

でも、私の方こそ、世界一周という幼少の頃からの夢を実現させた大坊さんが羨ましいです!