福岛香织,是个女人名字,但是这个人是否存在,是男是女,其实是个巨大的问号。
它名为“记者”,但写的不是新闻稿件,而是收集中国社会的一切可以利用的情报,在日本进行反华宣传。它在日本最为右翼反华的产经新闻的电子版上有专栏,是反华专门店。
这次中国的西藏拉萨发生暴力事件,这个福岛香织当然兴奋得像个发情的母狗,上窜下跳,活跃非凡。首先是发表“西藏发生暴动,奥运开不成了!!”。接着又假称在拉萨有藏族朋友,给他打来电话,会声会色地描述了“中国的武力镇压”。接着当然是连篇累牍地发表内容虚假的文章,支持藏毒,诬蔑中国。
最近奥运圣火完成海外的传递,回到中国。拉萨的形势也稳定下来,这个东西找不到什么好说的了,开始拿川藏公里来说事,发表了题为“音乐的政治学,歌唱二郎山--造成西藏悲剧的涂满献血的道路”的邪文。
【音楽の政治学】歌唱二郎山 チベット悲劇に至る血塗られた道路

3月14日、チベット自治区ラサでの騒乱で、中国の国旗を燃やす人々(ロイター)
二郎山よ、万丈の高さを解放軍が恐れようか 鍛えた鉄のような漢(おとこ)が決心したからには 鋼のように固く 公道をチベットまでつくるのだ…
(
二郎山万丈高,解放军不畏惧,钢铁炼成的男子汉意志如刚,要把公路修到西藏)
1950年代初頭に中国を一世風靡(び)した「
歌唱二郎山」(作曲・時楽濛、作詞・洛水)。勇壮にして軽快。中国内地の四川省成都とチベット・ラサをつなぐ最初の道路「
川蔵公路」の工事を行いながら進軍した人民解放軍の艱(かん)難辛苦を民謡風に歌いあげている。
(
这是50年代初,在中国风靡一时的“歌唱二郎山”。歌曲雄壮轻快。用民谣的形式,表现了中国人民解放军从四川成都到西藏拉萨,一边修着川藏公路,一边进军西藏的艰难困苦的情形。)
50年4月、毛沢東主席の命を受け、解放軍第二野戦軍
第18軍を中心とする11万の工兵らが、全長2400キロ、平均海抜4000メートル以上の山々を超えゆく道路を敷設するという難工事に挑んだ。その最初の難関が、四川省雅安市天全県に位置する海抜3437メートルの二郎山。霧深い原生林、薄い空気に、土砂降りといった悪天候。岩盤や落石などが工事を阻んだ。低温による睡眠不足、食糧不足による疲労と飢餓で兵士はばたばた倒れたが、その屍(しかばね)を乗り越えて軍は進んだ。
飢餓は「餓死した馬の血を飲み、肉を食い、その皮を煮て保存食とした」「防寒着の綿をかき出して食った」というほどすさまじかった。54年12月、道路がラサに貫通するまで実に3700人以上の将兵の命が失われたという。
この道路敷設の第一目的は「
チベット解放」(51年)につながる「
チャムド侵攻」(50年10月)の成功だった。主力部隊と連携し、
第18軍52師団154団は未踏の地を切り開いて金沙江(長江上流)岸からチベット軍を包囲。この作戦を陰で支えたのは、地元のチベット族コミュニストたちだ。金沙江岸のチベット族の多くがチベット政府が派遣した腐敗役人の圧政に耐えかね、マルクス・レーニンの民族主義政策に共鳴していた。解放軍に食糧を運び複雑な地形を案内した。
(这条道路的第一个目的是通向51年“西藏解放的, 50年10月的西藏侵攻。 解放军第二野战军第18军52师团154团和主力部队协同作战,在金沙江边开辟道路把西藏军包围。 支援这次战役的,是当地的藏族居民。金沙江边的藏族受到西藏政府派遣的腐败官员的压榨,对马克思,列宁的民族主义政策产生共鸣。为解放军运粮,在复杂的地形中为解放军带路。)
おそらく当時、命をあがなって道路を敷設した解放軍兵士も、協力したチベット族も、この歌を誇らしげに歌った人民も共産党の正義を信じていたのだろう。すべての民族が平等に自決権をもつ明るい共産主義社会をもたらす救世主だと。だが、「解放」は彼らが想像していたものとまたく違うことをすぐに思い知る。
( 想当年,用生命铺设道路的解放军士兵和藏族, 以及怀着自豪的心情来唱这首歌的人民都相信共产党的正义,是带来所有 民族平等和自决权的共产主义的救世主。可是他们不久之后就知道解放是和他们的想象完全不同的东西)
チベットの悲劇と今にいたる民族問題は、この1本の血塗られた道路から始まった。そう思うと、勇壮軽快な歌声は鎮魂歌のように胸をかきむしるのである。
(西藏的悲剧,和现在的民族问题,是从这条涂着鲜血的路开始的。想到这,雄壮轻快的歌声,就像镇魂曲一样在胸中心如刀绞”)
(北京 福島香織)