[U]在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座 |
(1)朝鮮という国号 「李氏朝鮮」を建国した「李 成桂」は「咸鏡道」の「永興―現在の咸鏡南道 金野」の出身だが、これまでの「高麗」という国号を代えるに際して、中国の明朝の太祖(朱 元璋)」に裁決を仰いだ。その際に提出された国号案は2つあり、「朝鮮―箕子朝鮮の称号」と「和寧―永興の別名」であった。「朝鮮」、「朝が鮮やかな国」であるからこの国号を選んだのではない。これは朝鮮人が後で考え出した知恵である。 太祖「朝鮮」を国号とすることを許したが、国王を名乗ることを許さず「執政(国王代理)―権知高麗国事」の称号を与えた。もちろん印璽もその名称であった。つまり中国(明朝)の属国であったのである。 新しい教科書を作る会が、教科書を作るにあたって朝鮮は中国の属国だとしたら、韓国および在日朝鮮人などからそうではないとして猛烈な抗議があったが、これは歴史を捏造するものである 朝鮮が中国の属国となったのは、古来からであるが、歴史的に明らかなのは新羅時代の中国の唐朝の助けを借りて朝鮮を統一してからだと言われる。現在、朝鮮の姓はこのとき唐朝から賜ったものという。 (目次に戻る) (2)恥辱碑文 ソウル市の漢江の南の松披区松披洞(ソンパドン)に「恥辱碑」がある。「三田渡碑(サムジョントピ)」とも言う。正しくは「大清皇帝巧徳碑」という。 文禄・慶長の役(壬辰倭乱(イムジンウェラン)・丁酉再乱(チョンユウチェラン)−1592年〜1598年(中断あり))の後40年も経たない1636年に清国が朝鮮を侵略した。これを「丙子胡乱」という。 当時は李氏朝鮮王朝の16代仁祖王の時代であった(当時は中国(明朝)から国王を名乗ることを許されていた)。李氏朝鮮王朝は満州族の清国を認めず、満州族を「胡」と呼んで蔑んでいた。 朝鮮軍は抵抗の間もなく降伏した。仁祖はこれまで蔑んでいた「胡服」を着て、この「三田渡碑」の前に設けられた「受降壇」で清の太祖に向かって9度地面に頭を付けて拝礼を行わされるという屈辱を受けた。1637年1月30日のことである。 仁祖はこれに留まらず、一方的な和約を結ばされた。その内容は、清の属国となり、王の長子・次男および大臣の子女を清に人質として送ること、日本国との交流の許可などであった。 李氏朝鮮王朝はそれ以来、毎年、全国から選ばれた妓生と宦官を清国に送るはめになったのである。これが「慰安婦」である。それ以前の元朝にも「慰安婦」を差し出し、あるいは女を連れ去られた。これを「帰順女」という。意味は用済みになった女は朝鮮に帰されたが(帰順)、当然朝鮮では蔑まれ、辱めを受け、一門の恥だとして肉親によって殺されたりしたのである。表現は悪いが「慰安婦」は朝鮮の伝統だ。なぜ、中国に賠償を要求しない「慰安婦制度」は日本統治時代の直前まで行われたのだ。 このように朝鮮が独立を保ったという時期はとても少ない。さらに李氏朝鮮王朝の官僚などの簒奪にあって国民は窮乏の域にあった。いかに朝鮮国王にまともな者がすくなかったかは「李朝実録」を読めばすぐに理解できる。 当時の状況は、現在の北朝鮮と同じである。それでも反乱が起きないのは窮乏が常態であったからだと思う李氏朝鮮王朝下の国民を奈落の底から救ったのが日本だったのである。 属国でも良いのではないか。それをバネにして国を再建すれば良いのだ。「朝鮮民族は独立心の旺盛な民族過去に属国になったことがない」、などと歴史を捏造するからおかしくなるのだ。 再度言おう。朝鮮は「属国」の連続である。 (目次に戻る) (3)誰が韓国を共産主義から守ったか 日本統治時代の間島地方(現在の中国の吉林省の朝鮮人自治州延辺地方)・満州の共産ゲリラ(実態は夜盗)の討伐は朝鮮人(正確には日本国籍を有する朝鮮人)が当たっていた。これらの中には「金 源錫大佐」、「白 善ソプ中尉」、「朴 正煕(岡本中尉)」、がいた。彼らは満州軍官学校、日本の陸軍士官学校の卒業生である。そして、北の「平安道」、「咸鏡道」の人が多い。共産ゲリラと称する夜盗も「平安道」、「咸鏡道」の者たちなので、言葉・地縁から彼らが当たったのである。 彼らが「李 承晩大統領」時代の韓国軍の中枢を担っていた。それが親日派追放というから傑作だ。 彼らは日本軍・満州国軍に所属したため、日本の軍人とは気脈を通じており、朝鮮戦争(朝鮮動乱)の時のにも日本の軍人の助けを求め、彼らがこれに協力したことは公知の事実だ。 旧日本軍の彼らがいなかったら、韓国軍の創設は不可能でアメリカ軍を中心とした国連軍だけで朝鮮戦争を乗り切れなかったと思う。特に朝鮮戦争が1953年(昭和28年)に休戦した後も10年近くにわたって共産ゲリラが韓国中部の智異山などに立てもって抵抗をつ続けたが、これを討伐したのが当時の韓国陸軍総参謀長の「白 善ソプ大将」であった。彼の満州などでの共産ゲリラ討伐経験がこの共産ゲリラの掃討に役立ったのである。 韓国にはいまだに親日派の糾弾運動が盛んで、彼らにもその矛先が向けられているが、彼ら旧日本軍の朝鮮人がいなかったら、その運動家も生きてはいない。また,生きていたとしても真っ先に「金 日成」に粛清されていたよ。誰が韓国を救ったか、こういう反親日派を生かしておいてくれたかを考えたらよい。 (目次に戻る) (4)〔補正版〕李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(1) 1、李氏朝鮮時代の朝鮮の人口 @人口の調査方法 李氏朝鮮時代(以下朝鮮時代という)には、人口などを把握するため「戸籍帳籍」というものが作られており、各戸ごとの申告書(戸口単宇)に基づいて3年毎に作成されておりました。 申告の内容は、住所、戸主の職分、姓名、年齢、本貫(出自)、父、祖父、曽祖父、母方の祖父の職分と姓名、妻の父、祖父、曽祖父、母方の祖父の職分と姓名、家族構成、使用人、奴婢、でした。 したがいまして、これを見れば人口がわかるようになっておりました。 現存する朝鮮時代の「戸籍帳籍」は「山陰帳籍―1603 年、1630年」と「大邸帳籍―1690 年-1849年」です。 ところで、これらは朝鮮の人口の一部で他の地域の「戸籍帳籍」が散逸してしまっているため全体を推し量ることはできません。朝鮮の人口を把握するには朝鮮時代の王朝が編纂した王朝史である「李朝実録」を丹念に拾ってゆくしかありません。それが次のものです(「李朝実録」には他の時代の人口も掲載されているが、紙面の都合で割愛した)。もちろん、朝鮮王朝も3年毎に作成される「戸籍帳籍」に基づいて人口を算出しております。 A李氏朝鮮時代の朝鮮の人口 1636年 1、521、165人 1666年 4、107、156人 1690年 6、952、907人 1753年 7、298、735人 1837年 6、708、529人 1904年 5、928、802人 (目次に戻る) (5)〔補正版〕李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(2) 1、李氏朝鮮時代の朝鮮の人口 この朝鮮時代の人口が正しいかについては、疑問が投げかけられております。 この疑問については、特に朝鮮時代末期の人口と日本統治時代の初期の人口があまり にも違うことから指摘されています。 例えば、1906年については980万人であるという見解がありますが(韓国は日本人が作った 黄 文雄 徳間書店2002.4.30発行 による−出典不明)、これは当時の 大韓帝国(1897年に朝鮮から国号を変更)の警務顧問部の日本人の調査によるものと思われます(善生永助 朝鮮の人口研究 大正14年8月20日発行 朝鮮印刷―正確には9、781、671人)。 ところが、その前年の同じ大韓帝国の内務部の調査では5、793、976人でした。 これについても、12、934、282人と(金 哲 韓国の人口と経済 岩波書店 1965年7月27日発行)とする考えもあり(出典不明)、錯綜しています。 いずれにせよ、朝鮮時代(大韓帝国も含む)の人口調査は杜撰だったことが伺われます。その理由としては、この時代の人口調査が軍役と課税のために行われていたために朝鮮時代の苛政と相まって調査される側がごまかしたものと考えられております。 (目次に戻る) (6)〔補正版〕李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(3) それでは、前記の朝鮮王朝による人口が全く信用できないかというと、信用できるという研究者がほとんどで(例 四方 博 李朝人口に関する一研究―朝鮮社会経済史研究(中) 昭和52年9月30日発行 国書刊行会、善生永助 朝鮮の人口研究)、信用できないという研究者も朝鮮時代の末期に限ってその信用性を否定しております(例 金 哲 韓国の人口と経済)。朝鮮時代の全てにわたって信用できないという研究者はいないようです。金 哲(敬称省略)は、1800年代から1600万人以上ではなかったかと推測しております。しかし、これも推測の域を出ません。 前記の人口から朝鮮時代の中期から末期にかけては人口が全く増えていませんが、これは研究者がこぞって王朝の苛斂誅求に原因があるとしております。特に末期の状態については外国人の旅行者がその時代の状況を詳細に著わしております(例 イザベラ・バード 朝鮮奥地紀行 平凡社、ダレ 朝鮮事情 平凡社など)。 なお、1636年の人口が1、521、165人ととても少ないのは、この時代は「文禄・慶長の役」後の国内紊乱で人口の増加が見られないまま、この年には「丙子胡乱―清国の侵略」が起き、調査も充分に行われないことと相まってこのような結果となったものと考えます。 (目次に戻る) (7)〔補正版〕日本統治時代の朝鮮の人口 1、日本統治時代の朝鮮の人口 1910年 13、128、780人 1920年 16、916、078人 1930年 19、685、587人 1940年 22、954、563人 1944年 25、120、174人 ※ これらの数には、満州などに移住した人の数は含まれておりません。したがって、1940年と1944年の朝鮮人の人口はこれより多いものと思われます。 なお、満州への人口移動の原因と実態については後に詳述いたします。 ☆ 資料は、朝鮮総督府統計年表 日本統治時代の朝鮮の人口については、その信頼を疑う者は日本人・朝鮮人を含めて誰一人としておりません。 この原因は、日本の善政にあります。この内容については既に研究済ですが、なお検討のうえ投稿いたします。 なお、学習するに当たっては、朝鮮人(在日朝鮮人も含む)の著した著作は除外した方が良い考えます。反日思想に捉われ資料を自分に都合の良いように引用していると考えられるからです。 さらに日本でも戦後の朝鮮研究は戦前と比べて水準が低いのが実情なので(理由は、贖罪意識に捉われて研究することが憚れた、また、反日家(日本人・朝鮮人、在日朝鮮人)からの抗議を恐れた)、戦前の研究者の著作を中心に学習なされることをお勧めいたします。戦前の研究者の著作で朝鮮の人口に関するものは、前に示したとおりです。 (目次に戻る) (7)李氏朝鮮時代の身分制度(1) この時代(1392年―1910年(ただし、1897年からは「大韓帝国」であったが、実体は李氏朝鮮時代))の身分制度も高麗時代のものを継承した。 身分は、大きく「良民」と「賤民」に分かれる。 「良民」とは、自由民であり、納税、国役の義務を負い、さらに「両班(文班、武班)」、「中人(下級役人、技術官など)」、「常民(農民、商人、職人)」に分けられた。 「賤民」は「奴隷―奴婢」と「白丁(ペクチョン)(動物の屠殺に従事する者)」、「才人(広大ともいう)(芸人)」、「官妓(役所に所属する酌婦)」、「牽令(キュンエン)(牛・馬を引く者)」、「砲手(猟師)」、「水尺(スチョク)(狩猟民)」、「駅卒(駅の使用人)」、「巫女」、「僧侶」など多岐にわたっていた。 「奴婢」は「公奴婢―国家に所属するもの」と「私奴婢―個人に所属するもの」に分けられていた。 さらに奴婢は「公奴婢、」「私奴婢」とも「入役奴婢」と「納貢奴婢」とがあった。「入役奴婢」は、国の労役や主人の雑役に従事しなければならないが、「納貢奴婢」は国や主人から独立の生計を営みながら一定の身貢をする義務があった。 (目次に戻る) (8)李氏朝鮮時代の身分制度(2) 「奴婢」は売買、贈与、相続の対象となった。つまり、財物として扱われていた。 父母の一方が奴婢の場合は、子も奴婢となった。「両班」が罪を犯し「奴婢」になったり、「奴婢」が軍功などで「中人」、「常民」になったりすることもあったが、極めてまれで身分間の移動はなかった。 豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄の役(1592年―朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)・慶長の役(1596年―朝鮮では丁酉再乱(チョンユウチェラン))のときに、ソウルの王宮(景福宮)が放火され炎上したが、これは日本軍のものではなく(朝鮮では日本軍が放火したと捏造している)、奴婢が登録簿を滅失させるために行ったものである。日本の名誉のために当時の朝鮮の文書から引用する。「城中を観望すれば、火起こりて煙焔天に漲る。蓋し乱民先ず、堂隷院刑曹を焚く。その公私奴婢の文籍在る所を以ってなり・・・・」(朝鮮史第四編第九巻 宣王25年4月30日)。 奴婢制度は、1894年の甲午改革で廃止されるまで続いた。しかし、なかなかその偏見は収まらず、現在でも「五姓」といって賎民の子孫とされる「姓」があり、結婚・就職などの障害が見られる。 (目次に戻る) (9)李氏朝鮮時代の身分制度(3) 李氏朝鮮時代には、どのくらいの「奴隷―奴婢」がいたのであろうか。 これについては、現存する李氏朝鮮時代の「戸籍帳籍」は「山陰帳籍―1603 年、1630 年」と「大邸帳籍―1690 年-1849年」を分析すればわかる。これらの「戸籍帳籍」は日本人研究者に公開されていないと聞くから(次に韓国に行ったら確認してみる)、専ら、四方博京城大学教授(執筆当時)の「朝鮮社会経済史研究(中)」から引用する。 「大邸帳籍―1690 年-1849年」は現在の韓国中部の都市<大邸(李氏朝鮮時代は大丘)―韓国第二の都市>の人口調査の帳簿である。そこから、約11の面(村)を選び出して分析を加えている。 1、粛宗16年(1690年) 両班戸 290戸 常民戸 1694戸 奴婢戸 1171戸 総計 3156戸 2、英祖5年(1729年)、同8年(1732年) 両班戸 579戸 常民戸 1689戸 奴婢戸 824戸 総計 3092戸 3、正祖7年(1690年)、同10年(1786年)、同13年(1789年) 両班戸 1055戸 常民戸 1616戸 奴婢戸 140戸 総計 2810戸 4、哲宗9年(1858年) 両班戸 2099戸 常民戸 842戸 奴婢戸 44戸 総計 2985戸 ☆ 2、3、は1面の統計がない、したがって、各戸の計は1割減くらいと思われる。 また、王の年代に2つ、3つの時代があるのは、面が年代によってばらばらに分かれて いるからである。 (目次に戻る) (10)李氏朝鮮時代の身分制度(4) それでは、李氏朝鮮時代の「奴隷―奴婢」の数はどうだったのであろうか。 「大邸帳籍―1690 年-1849年」からの四方 博京城大学教授(執筆当時)の「朝鮮社会経済史研究(中)」から引用する。調査された面は「李氏朝鮮時代の身分制度(3)」に対応する。 5、粛宗16年(1690年) 両班 1027人 常民 6894人 奴婢 5592人 総計 13912人 6、英祖5年(1729年)、同8年(1732年) 両班 2026人 常民 8066人 奴婢 4940人 総計 15266人 7、正祖7年(1690年)、同10年(1786年)、同13年(1789年) 両班 3926人 常民 6415戸 奴婢 1957人 総計 12300人 8、 哲宗9年(1858年) 両班 6410人 常民 2659人 奴婢 4126人 総計 13195人 ☆ 6、7、は1面の統計がない、したがって、各人口の計は1割減くらいと思われる。 また、王の年代に2つ、3つの時代があるのは、面が年代によってばらばらに分かれてい るからである。 (目次に戻る) (11)李氏朝鮮時代の身分制度(5) この表を見てわかることは、「両班」の異常な増加である。粛宗16年(1690年)と 哲宗9年(1858年)を比較しても、170年間の間に、戸数にして7.23倍、人口にして6.24倍、となっている。哲宗9年(1858年)には、戸数の70.3%、人口の48.5%、となって、<両班大国>の様相を呈していた。支配階級が70%とは異常であるとしか言いようがない。これを見てもいびつな社会であったことがうかがわれる。 この増加については李氏朝鮮時代にも記録がある。丁 若庸(本当は金偏がつく)[1762-1836]の「牧民心書」、禹 夏永「禹夏永経論」に「両班」の身分を冒称することが盛んに行われていることが記述されており、国の法典の「続(経国)大典(1974年)」の刑法典の公賤条にも「三代にわたって<良人(両班も含まれる)>を冒称する者はこれが認められる」との規定が見られる。また、売官もとても多かった(「増補文献備考―宣祖13年(1565年)、「禹夏永経論」。 「奴婢戸」および「奴婢人口」の正祖7年(1690年)、同10年(1786年)、同13年(1789年の急激な現象は、逃亡、放売(奴婢は売買された)による。これについても「大邸帳籍―1690 年-1849年」に記録がある。哲宗9年(1858年)の「奴婢戸」の現象が顕著であるにもかかわらず、「奴婢人口」が変動していないことは奴婢戸当たりの奴婢人口が増えていることと、奴婢を一まとめにしたものとされる。 粛宗16年(1690年)と哲宗9年(1858年)を比較しても、170年間の間で、人口が全く増えていないことに驚く。これは李氏朝鮮王朝の苛政である。これはこの地方の特徴ではなく、全国的な特徴である。これについては既に詳説したが、なお再度遺漏がないように調査している。これが日本統治時代になると増加に転じ、大幅な増加となった。もちろん、善政である。 (目次に戻る) (12) (目次に戻る) (13)日本統治時代の朝鮮の人口増加(1) 1、 日本統治時代の朝鮮の出生率と死亡率(単位 %) 1911年―1915年 出生率 26.34 死亡率 17.24 差増率 9.10 1916年―1920年 出生率 31.49 死亡率 24.73 差増率 6.76 1921年―1925年 出生率 36.32 死亡率 20.82 差増率 15.50 1926年―1930年 出生率 37.52 死亡率 21.58 差増率 15.94 1931年―1935年 出生率 30.93 死亡率 20.29 差増率 10.64 1936年―1940年 出生率 32.57 死亡率 18.37 差増率 14.20 1941年―1944年 出生率 35.38 死亡率 18.50 差増率 16.88 ☆ 資料 朝鮮総督府 朝鮮人口動態統計 ※ 出生率、死亡率とも各期間中の平均値 ◎ なお、朝鮮における最高の出生率は、1942年の42.0%である。これは同年から始まった「食料配給制度の実施」と関係がある(金 哲 韓国の人口と経済 P 71 岩波書店 1965年7月27日発行 )。このように食料が行き渡れば人口が増加することが証明されている。 ★ 人口の増加率を正確に知るためには、国外に流出した人口も算出して計算するのが正しい。これを自然増加率という。これについて判明したものを次に掲げる(単位 %)。 ただし、推定値である。 1911年―1915年 10.02 台湾 11.2 日本 14.2 1916年―1920年 7.45 台湾 8.3 日本 9.5 1921年―1925年 17.06 台湾 17.1 日本 12.8 1926年―1930年 17.56 台湾 22.2 日本 14.2 1931年―1935年 20.77 台湾 24.8 日本 13.7 1936年―1940年 20.92 台湾 24.2 日本 13.5 1941年―1944年 25.76 台湾 24.2 日本 8.9 ☆ 資料 台湾の統計 G・W・Baclay,op,cit,V1 ☆ 資料 日本の統計 内閣統計局「人口動態統計」 これを見てわかるように、人口の増加率は1925年までには日本と同じ水準に達し、 その後はこれを凌駕している。 (目次に戻る) (14)日本統治時代の朝鮮の人口増加(2) 日本統治時代の朝鮮と台湾の出生粗率を挙げて、これをイギリスの植民地下にあったアジア諸国と比較してみたい。 「出生粗率」とは、再生産年齢(子供を生むことのできる年齢―15歳〜49歳)が100人当たり何人出生するかという比率をいう。これに対して「出生率」とは、人口(男女、老幼を問わない)100人当たり何人出生するかという比率をいう。 朝鮮 台湾 インド セイロン マレー ビルマ 1925年 42.8 42.8 33.0 38.5 28.5 1930年 42.4 45.0 33.5 40.6 24.3 1935年 42.4 46.0 34.0 37.8 27.6 1940年 42.2 45.4 33.8 35.6 40.2 32.1 1944年 41.2 42.1 29.1 36.6 39.4 ☆ 資料 台湾の統計 G・W・Baclay,op,cit,V1 その他 金 哲 韓国の人口と経済 P 71 岩波書店 1965年7月29日発行) これを見てわかるとおり、「出生粗率」は日本統治下にあった朝鮮、台湾の方が遥かに良いことが読み取れる。理由はもちろん民生の安定である。 (15)日本統治時代の朝鮮の人口増加(3) 日本統治時代の朝鮮と台湾の死亡粗率を挙げて、これをイギリスの植民地下にあったアジア諸国と比較してみたい。 「死亡粗率」とは、再生産年齢(子供を生むことのできる年齢―15歳〜49歳)が産んだ子供100人当たり何人死亡するかという比率をいう。これに対して「死亡率」とは、人口(男女、老幼を問わない)100人当たり何人死亡するかという比率をいう。 朝鮮 台湾 インド セイロン マレー 日本 1920年―1924年 25.7 25.0 26.8 28.9 22.0 1925年―1929年 25.5 22.1 24.3 24.9 19.4 1930年―1934年 21.6 21.2 23.7 22.4 21.5 17.9 1935年―1939年 21.4 20.6 22.6 24.5 20.8 17.3 1940年―1944年 18.9 18.5 22.6 19.7 20.1 16.1 ☆ 資料 台湾の統計 G・W・Baclay,op,cit,V1 朝鮮の統計 金 哲 韓国の人口と経済 P 71 岩波書店 1965年7月27日発行) 日本の統計 内閣統計局「人口動態統計」 その他 アジア経済研究所「アジアの人口増加と経済発展」 (目次に戻る) (16)日本統治時代の朝鮮の収支(1) 単位 千円 輸 出 輸 入 収 支 1910年―1914年 83,655 179,635 ▲ 95,980 1915年―1919年 485,644 468,881 16,763 1920年―1924年 1,121,6117 839,111 273,500 1925年―1929年 1,629,976 1,363,499 266,477 1930年―1934年 1,495,414 1,534,074 ▲ 38,660 1935年―1939年 3,023,809 4,092,908 ▲ 1,069,100 1940年―1944年 合計 ▲ 647,000 ★ 輸出、輸入とも朝鮮からみたもの ☆ 資料 朝鮮総督府 朝鮮総督府統計年報(各年度) このとおり、日本は、大幅な輸出超過だったのである。 また、朝鮮総督府の財政は、「朝鮮総督府特別会計」として、日本国の国家予算の一部として独立会計年度でもって編成されていたが、朝鮮だけではとうてい賄うことが不可能だったので、日韓併合当初の1910年度からだけでも年間1200万円程度の交付金が補充されていた。 これを合わせれば、947,000円もの赤字となっていたのである。 なお、朝鮮の財政赤字とその補填については>日本統治時代の朝鮮の収支(2)<で詳説する。 ところが、朝鮮から日本へ1910年から1934年まで、134,083,000円、1935年から1939年まで1,000,000円(推定)相当の金、銀が輸出されたとして、逆に187、083,000円の黒字(日本が朝鮮から利益を受けた)という者がいる(金 哲 韓国の人口と経済 P 71 岩波書店 1965年7月27日発行 )。 これは、数字のトリックである。この推定の数字も怪しいが、それよりも金、銀の採掘費用が全く計上されていない。 総ての物には原価がある。 (目次に戻る) (17)日本統治時代の朝鮮の収支(2) その原価、つまり、朝鮮の予算(歳入と歳出)を検討してみたい。 歳 入 歳 出 収 支 1911年―1914年 121,368,697 206,507,853 ▲ 85,139,156 1915年―1919年 262,350,764 324,694,095 ▲ 62,343,331 1920年―1924年 455,394,312 705,327,380 ▲ 249,933,068 1925年―1929年 836,674,781 1,014,51,6.707 ▲ 177,841,976 1930年―1934年 758,360,546 1,128,575,517 ▲ 370,214,971 1935年―1939年 1,831,928,658 2,196,051,420 ▲ 360,122,762 1940年―1941年 1,288,430,855 1,745,326,121 ▲ 45,689,266 合計 ▲ 1,766,577,530 ☆ 資料 朝鮮総督府 朝鮮総督府統計年報(各年度) 1911年―1939年まででは、▲ 1,309,595,264円となる。この赤字は日本からの交付金、借入金および公債で賄われた。 金 哲(韓国の人口と経済 P 71 岩波書店 1965年7月27日発行)の金銀の数字を考慮しても、1,122,512,264円(当時の価格)のマイナスとなる。金 哲(敬称省略)はこの財政赤字を全く無視して、自分に都合の良い数字を選択して立論し、朝鮮は日本に搾取されていると決め付けている。 朝鮮総督府施政年報は、1942年以降は発行されておらず、朝鮮総督府」統計年報は、1943年以降は発行されていない。しかし、朝鮮の財政赤字と貿易収支の赤字はその後も増加していったことはそれまでの推移から見て間違いない。日本統治時代で、ただの一度も歳入が歳出を上回ったことがなかったのである。 なお、これまで、綿密に日本からの財政補填などを検討した論述が見当たらない。これも不思議である。 さらに、1945年の敗戦によって、朝鮮から引揚げた際に残した財産(日産)は日本人の個人財産も莫大なものがある。これも含めて朝鮮および朝鮮人は日本および日本人の犠牲の上に繁栄を極め、それは今も続いているといっても過言ではない(北朝鮮では遥に食い潰し、韓国でも食い潰しつつある)。 これは「再投稿」ですが、保存されていないようなので、申し訳ございませんが、こちらの<朝鮮統治>の拙稿に関連しますので、再投稿させていただきます。 (目次に戻る) (18)朝鮮人は、新疆・ウイグル地区の現状に学べ(1) 新疆・ウイグル地区からの日本への留学生が現在約1000名いる。 そのうち、500名が東京近辺にいる。 彼らが日本に来る目的は勉学のほか、中国の圧制からの逃避である。ここが他の地域の留学生と大きく異なるところだ。 彼らは故郷に家族を残しているため、声を上げることができない。新疆・ウイグル地区はウイグル人、韃靼人(タタール人)など多民地域だが、トルコ系の人たちが多い。もちろん、漢民族ではない。言語もウラル・アルタイ語族といわれている。 この地域は貧しいのではないかという誤解があるが、とても豊かなところだ。地下には天山山脈からの川(カレーズ)が流れ、そこから汲み出した水で豊富な農作物が採れる。ブドウ、瓜(ハミウリ)など果物の美味しさは日本の比ではない。石油も多く算出する。 もちろん、独立しても十二分にやって行ける。 ところが、石油などの資源は根こそぎ漢民族の中国中央政府が収奪して行く。 (目次に戻る) (19)朝鮮人は、新疆・ウイグル地区の現状に学べ(2) それも大問題だが、文化破壊が酷い。新疆・ウイグル地区には漢民族が70%もいるといわれる。もちろん、移住して来た(移住させられた)のである。そこで、漢民族の中国中央政府がどういう政策を取っているかというと、中国語を話せない者は官庁・公企業に勤務できない(させない)、ほとんどの学校が中国語で授業が行われている。ウイグル語、韃靼語などを話せない者も増えており、子供と老人の会話が成り立たない状況にもなっている。30年後には現地の言語が消滅するといわれる。 さらに、歴史を漢民族側からしか考察しないので、新疆・ウイグル地区の歴史は漢民族史観となっている。もちろん、蛮族の歴史観だ。自国の歴史を現地の目から学べないという。そのため、新疆・ウイグル地区の歴史は日本で学ぶ他はない状態になっている(日本の方が研究が進んでいる)。こんな馬鹿なことはない。 (目次に戻る) (20)朝鮮人は、新疆・ウイグル地区の現状に学べ(3) 独立運動が起きるのは当たり前だ。これはテロではない。漢民族に対する抵抗運動だ。 内蒙古でも全く同じ状況だ。モンゴル語などは消滅の危機に瀕している。「満洲語」、これは日本でしか学ぶことはできない。 新疆・ウイグル地区、内蒙古からの留学生は中国に戻る人は少ない。研究の自由も就職もないからだ。こちらも彼らの就職運動に邁進している。それと「新疆・ウイグル地区、内蒙古からの留学生」犯罪は全くといっていいほどない。漢民族とは全く違う。彼らは中国人と呼ばれるのを極端に嫌う。皆さんも彼らを中国人とは呼ばないでください。 チベットからの留学生などに接する機会がないので、知らないが、これと大同小異なのではあるまいか。 一国二制度、これは漢民族側からの制度であろう。台湾も一国二制度が適用されたら<新疆・ウイグル、内蒙古地区>と同じことになる。 漢民族の領土拡大主義を抑えないとアジアの安定、ひいては世界の安定はない。 朝鮮、ベトナムの歴史は漢民族の侵略と属国の歴史である。ベトナムでは「小中華思想」は今ではないが、朝鮮では残っている。<反日はあるが反中がない>おかしな国だ。朝鮮人は歴史を学んでない。 朝鮮人に告ぐ あなた方は日本を選択しますか、それとも中国を選択しますか。 歴史を学ばないと歴史は繰り返しますよ。<新疆・ウイグル、内蒙古地区>と同じことになりますよ。あなたがたの国は地勢的にも独立を保つのが難しい国ですよ。 (目次に戻る) (21)一進会(1) 石原東京都知事が、朝鮮人が日韓併合を望んだということについて、韓国政府、日本のマスコミから、非難の声が上がっているが、歴史を学んだことのない者の全くの言いがかりである。これを明らかにするため、順番を飛ばして説明したい。少し長くなるが、日韓併合への道のりを知るには欠かせないので我慢していただきたい。 朝鮮人が日韓併合を望んだことは朝鮮人の「一進会」の運動を見れば明らかである。 「一進会」は、日清戦争の発端となった「東学党」の流れをくむ。「東学」とは「西学―キリスト教」に対抗する朝鮮の<学>を意味し、<人乃天>、つまり人間平等と主体性(この思想は北朝鮮の「主体主義」に歪んだ形で利用されているーこれを創造したのが「黄 長Yであるー正確にいえば<創造>ではなく<剽窃>を掲げ)、1860年に結成された(教主崔 済愚)。この運動は李氏朝鮮王朝の圧制に苦しんでいた農民、下層階級に瞬く間に広がり王朝打倒運動となって各地の王朝の収奪下部機関の郡守などを襲い一大騒乱となった(これには日本からもこの思想に共鳴した武田範之などが日本人を集め参加している)。 朝鮮王朝側もこれを弾圧し、教主を死刑にしたが、2代目(これも死刑)、3代目と教主は承継され留まるところを知らなかった。3代目教主孫 ビョンヒは運動を続けたが王朝側の弾圧により1901年に日本に亡命した。ここで彼は日本の明治維新による国家建設に驚き、日本に傾斜して行く。腹心「李 容九」に朝鮮内での運動を託した(李 容九は「進歩会」を結成)。このころ、同じく日本に亡命していた「宋 ビョンジュン」も朝鮮の体制を変革するには明治維新のような国家建設が必要だとして「維新会」を結成した。 (目次に戻る) (22)一進会(2) この「李 容九」と「宋 ビョンジュン」の運動が合体して生まれたのが1904年結成の「一進会」である。「一進会」は会員100万人の大団体となった。この「一進会」は日本の傀儡で日本から援助を受けていたという妄言が後を断たない(朝鮮を知る事典 平凡社伊藤亜人など 2000年11月17日 新訂増補)。 一進会の1905年の会計報告を見ても、収入41万円(個人の拠出―14万円、会費―16万円、借入金―11万円)であり、日本からの援助金はなかった。それだけではない。一進会は日露戦争への日本軍に対する支援金25万円が拠出している(万円以下の端数省略)。さらに朝鮮各地での暴動の被害者救援金として15万円も支出しており、たちまち財政難に陥った。そこで、日本陸軍に支援を求め10万円の援助を受けた。それでも日本軍への援助は15万円もの赤字となっていた。 さて、「一進会」は韓日合邦を掲げ(連邦制、日本の一つの県になるなどの案があった)、運動を進めていたが、折からの「ハーグ事件(朝鮮国王が日韓協約の不当を訴えハーグの万国平和会議に代表を送った事件)」、朝鮮王朝の軍の解散などによる国民の怒りが向けられ、一進会員と王朝派との間に騒擾まで起こった。 地方の一進会員の中には会を背景に住民に威勢を振るうものもいて、朝鮮統監府もこれを持て余し、一進会員を間島地方(現在の中国延辺自治州あたり)に移住させようという計画が起こり1907年には50万円の予算が組まれた(その後26万円に減額)。 (目次に戻る) (23)一進会(3) 朝鮮には当時、一進会の他に大韓協会、西北学会(朝鮮の平安道の人が中心で天主教(キリスト教)の人たちも多く参加していた)、国是遊説団、普信社などの団体もあったが、1908年頃になると次第に反日が影を潜め、日本との親密な関係を模索し始めていた1909年10月26日に伊藤博文が暗殺され、曽禰統監は一進会の日韓合併を時期尚早として却下した。1910年9月には一進会も含めた総ての政治結社の解散が命じられ、会員100万名を擁して日韓合併を積極的に推進した「一進会」を切り捨てたのである。 そして、一進会員の間島地方移住計画も実行されることはなかった。 この会員100万名にも上り一進会員は天道教の3代目教主孫 ビョンヒの元に返り、それが反日の渦となって「三・一独立宣言」につながっていったのである。 これは、曽禰統監を筆頭とする日本政府の失政であった。「一進会」の要望どおりに<韓日合邦>を採り、彼らの運動を理解していれば、「三・一独立運動」はなかったのではないかと考える それはともかく1910年の日韓併合当時には、これに反対する政治団体は大韓協の一部に止まった。ほとんどがこれに賛成したのである。 (目次に戻る) (24)日本統治時代の朝鮮の人口増加(4) 朝鮮の人口を調査してみようとしたきっかけは、日本統治時代の朝鮮に始めて近代的戸籍が整備されて人口の動態が判明したので、その時代だけ検証しても朝鮮の人口増加が起きたのかはわからない。さらに、李氏朝鮮時代にも人口が順調に増加していたので日本統治時代に人口増加したのはマヤカシだという見解、李氏朝鮮時代には人口調査も行われなかったという見解、李氏朝鮮時代には戸籍など存在していなかったという見解が、横行していたから、これを糾さなければならないと考えたからである。 そして、李氏朝鮮時代の人口および日本統治時代の人口を論証したところ、今度は人口は近代になると爆発的に増加するので、日本統治時代の朝鮮の人口増加は自然現象であると指摘した者がいた。そこで、これをイギリスのアジアの植民地の人口増加の実態を示して更なる批判を求めたが、全く反論はなくそのまま消えてしまった。 さらに、日本統治時代の朝鮮が貧しかったので、人が増えたという情報(日本の朝鮮植民地に関する?反論(2))をいただいた。そうであるなら北朝鮮は爆発的に人口が増えているはずだが、1990年から人口が増えていないという話もある(少なくとも爆発的に人口が増えてはいない)。これも全く考慮にいれる必要のない見解である。 世の中には色々な人がいて、根拠を示さずに自説を述べるものが多い。こういうものを放っておくと<嘘も百回つけば本当になる>こともあり、妄言がまかり通ることになる。これに反駁するために資料を漁るのも大変な労力が要る。「出生粗率」と「死亡粗率」を比較し、かつアジアのイギリスの植民地と対比して分析したのは自分が最初であると自負している。 日本統治時代の朝鮮の人口増加は自然現象などではなく、日本の善政であることは信じて違わないが、さらに調査してみたい。ただ、朝鮮人の研究者の日本統治時代の朝鮮の人口増加についての言及はない。都合の悪いことには口を拭っているとしか思えない。具体的な資料を提示してくれて反論してくれれば、こちらもさらなる研究のしがいがあるのだが。 (目次に戻る) (25)道徳律(1) 朝鮮人は「人は正しく生きなければならない」というのに対し、日本人は「正しく生きたいと思う」というのではないのかと思う。この二つは雲泥の差があるのと考える。 朝鮮人の思考には常に道徳性が優先する。日本人はこれに対し「正しく生きなければならないということは理解できるにしても、これを実現するには困難が伴い不可能ともいえるとして、「正しく生きたいと思う」という<現実的道徳律>を選択することになったのではなかろうか。 このような朝鮮人の思考を律するのは「儒教」であると考える。朝鮮に儒教が伝来したのは、三国時代だといわれるが、ただ、そのころは仏教が支配思想となっていたため、国民の間には浸透しなかった。高麗時代には「仏教」は修身の、「儒教」は「治世」の掟と住み分けがなされていた。それが李氏朝鮮時代になってから、仏教を排斥し、儒教を国是としてため、「儒教」が支配思想となって行った。それを根底で支えたものが地方の中小地主階級だった。それ以前の高麗時代は中央集権が整備され、中央官僚・仏僧が支配階級を形成し、地方の中小地主階級は支配階級から排除されていた。李氏朝鮮王朝は高麗時代の支配思想も含めて支配制度を排除しなければ、支配を確立することができず、そこで利用したのが地方の中小地主階級であり、儒教であったのである。彼らは支配思想である仏教を克服する意味で「書堂(そだん)」という子弟の教育機を作り、そこで儒教を学び、これを精神的指針としていたが、これに李氏朝鮮王朝が乗った(利用した)と考える。 (目次に戻る) (26)道徳律(2) 李氏朝鮮王朝と地方の中小地主階級の利害が一致し、地方の中小地主階級は科挙という登用試験(儒教の学理試験)の合格者を独占することによって政権の中枢を占めるに要ったのである。儒学者のほとんどが地方の中小地主階級によって占められていることがそれを物語っている。 儒教は、庶民は刑罰が適用され、「礼―倫理的規範」が適用されず、士大夫(中国「周」時代の中級・下級官僚)には刑罰が適用されず、「礼」が適用されるというもので、<士大夫の学問>ともいわれ、科挙という制度によって官僚を独占した朝鮮の地方の中小地主階級の特権意識に合致するもので、彼らに受け入れ易かったのである。 元々、「儒教」は<修己治人の学>といわれ、己の精神の高揚を目指すという面と経世のための国家事業に参画すという面、があるとされる。朝鮮では儒教のうち「朱子学」が支配思想となったが、もちろん「朱子学」もこの両面を持っていた。 李氏朝鮮王朝の創成期には、この<治人>に重点がおかれたが、王権が安定してくると、 体制維持に貢献する<修己>に重点がおかれることは必然であった。朝鮮の「朱子学」は性理学=理学、つまり、「気」によってもたらされる人欲を滅して天理(「理」)を明らかにするもので、ここから、天文、地理、律呂(音楽)、医薬などは「雑学」と称され、<修己>を極める者には必要ないものであるということになって行くのも当然のことであった。そして、<天理を明らかにする>ことが先でその実践は後であるとの「知先行後」が唱えられ、これは、やがて、非実際的な学問に陥って行った。 (目次に戻る) (27)道徳律(3) これに異議を唱えたのが、「陽明学」である。これを唱えた「王 陽明」は朱子学の「格物致知」とは、物の在り方を格し(ただし)て人間本来の良知を致すようにすることだと理解した。この<良知>とは人間本来そのままの知であり、先に広く学んでその理を知り、その後にそれを実践するという朱子学の「知先行後」ではなく「知行合一」でなければならない、例えば、「孝」は人間本来の内なる心にあって、その理を知らなければ実践できないものではない。そして、このように聖賢の教えは書物を読書究理できる士大夫(中国「周」時代の中級・下級の官僚)の独占するものではなく、その余裕のない庶民にも聖人の境地に達することができる<良知>がすでに備わっており、この内なる「良知」こそが<天理>であると説いた。 この「陽明学」は学理を士大夫(韓国の地方の中小地主階級および彼らからなる官僚)から奪うことになるので、朝鮮の朱子学者はこぞって反対し、これを異端として葬り去った。 朱子学は、学理のための学問となり、党派のための学問となって、敗者は流刑、賜死(毒薬を与えられて自殺を強要される)となるので、学理も命がけで、血を血で争う事態となったのである(これを「士禍」(サグァ)という)。また、第17代孝宗(1649年〜1659年在位)が没した際には継母の大妃趙氏が喪に服す期間が1年か3年かで全国の儒者が動員され10余年も論争になるなど、今から考えれば全く無駄な理解しがたいことも行われた。このような喪服期間論争は一度に止まらなかった。 (目次に戻る) (28)道徳律(4) このような朝鮮の儒教は、「衛正斥邪」すなわち、朝鮮朱子学こそが「正学」あって、それ以外の学問は「邪学」として斥けるということとなった。 これはやがて漢民族の「華夷思想」に結びつき漢民族の「大中華」に対して自らを「小中華」と称する思想に染まって行った。 漢民族国家である「明」が1644年に満州族の「清」に滅ぼされると、儒教が行われているのは朝鮮だけであるとして、「清」を夷狄であるとし、「清」の文化を排斥し、「清」そのものを排除しようとすることにもなった。その結果が、「恥辱碑―在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(1)に所収」となり「清」の属国となったのである。 この論理は、19世紀になり、西欧の列強が朝鮮を覗うことになると儒教を国家の思想として受入れていない人倫に反した野蛮な国だと決めつけ、日本もまた<倭洋一体>と見なして排斥した。このように「衛正斥邪」は抵抗の思想としては一定の価値はあったが、変革の思想とはほど遠く、朝鮮の近代化の遅れをもたらし、やがて日本に併合されずとも中国、ロシアまた西欧諸国に支配されて行くのは必然であった。 (目次に戻る) (29)道徳律(5) 朝鮮の国民を律しているものは、このように<儒教思想>、朱子学の<修己>、人欲を滅して天理を明らかにし、これが先でその実践は後であるとの「知先行後」となるのではないか。そして、<天理>を極めて「正しく生きなければならない」ということにつながっているのではないいかと考える。 これに比べて、日本にも儒教は伝来した。江戸時代には徳川幕府によって儒教、特に朱子学を官学として採用した。これはそれまでの「下克上」の風潮を一掃し、既に獲得した権力を保持するための思想を必要としていたからである。しかし、武士階級には生死を超越するという教義のある「禅仏教」が広まり、また依然として極楽浄土を願う「浄土仏教」を信仰する者もいた。民間にも儒者が現れ、一般民衆にこれを説いたが、「浄土仏教」も根強く信仰されていた。いや、「浄土仏教」が本流となっていたのである。このように、江戸時代においても、儒教は民衆の中の支配思想にはならなかったと思える。江戸幕府は、中国・朝鮮のように「科挙」はついぞ採用しなかった。これは登用資格(合格基準)に「儒教」などの思想を採用することに疑問を抱いていたに他ならなかったと考える。 この儒教については、単純に幕藩体制擁護の役割を担っていたと考えることは先入観に過ぎないとう見解もあり(尾藤正英 日本封建思想史研究 1961年発行 青木書店)、前記の武士階級の思想動向から見ても朝鮮のような強固な国家思想とはなっていなかったと理解したい。 このことから、民衆、武士の中に流れていたのは「仏教思想」ではなかろうか。さらにもっと素朴な民間信仰である<万物に神が宿る>という思想ではなかろうか。 (目次に戻る) (30)道徳律(6) 「神道」もそうだが、「仏教思想」には、本来<政治思想>というものはないのではなかろうか。「儒教」のような<修己治人の学>ではなく、<修己>の学ではないか。もちろん「護国神道」、「護国仏教」というものはあったが、それは「神道」、「仏教」が権力と相互に結びつくための手段であり、<治世思想>と呼べるものは構築されなかったのではないかと考える。これが「神道」、「仏教」が<治世>に介入して、国難を招いたことのない<幸い>を日本にもたらしたのではないかと思う。明治維新以来の「富国強兵」も「大東亜戦争」も「(護国)神道」がもたらしたものではない。<良心的?日本人>と称される人々は「神道」が日本を破滅に導いたというが、「大東亜戦争」はアメリカに要因があるのであって、「神道」に要因があるのではない。覇権国家「アメリカ」がなければ、「神道」(もちろん「仏教」も)を信じた日本人が戦争という途を選択ことはなかったと確信する。 このことから、戦後、「神道」を排斥したのは、日本の精神的支柱を崩壊させようと考えたアメリカと共産主義者・社会主義者の合作であったのである。彼らの<戦後民主主義>を推進するには、「神道」が大きな障害となっていた。 何も「神道」が帝国主義、戦争賛美、軍国主義、の思想でもなかったが、>宗教を悪く<とする彼らにとっては排除すべき存在であり、「神道」が<スケープゴート>とされたに過ぎない。 (目次に戻る) (31)道徳律(7) このように日本人の精神構造を形造っているのは、「仏教思想」さらにもっと素朴な<万物に神が宿る>という思想である。 このような思想は多様性を内蔵しているのではないかと考える。つまり、唯一の絶対なる神を頂いていないということであろう。これに儒教などが加わって渾然一体となった<道徳律>を形成したのではなかろうか。聖徳太子によって604年に制定された「憲法17条」も「仏教思想」と「儒教思想」が混在しているといわれる。「仏教思想」を表したものは、第2条と第10条で、その他は「儒教思想」を表したものであるといわれるのも、このことを示している。 したがって、朝鮮のように絶対視された「儒教思想」に裏付けられた<道徳律>はなく、 絶対的な<道徳律>は造り得なかったのではないかと考える。 朝鮮人は「儒教思想」に裏付けられた人は正しく生きなければならない」という<道徳律>が支配し、日本人は>正しく<という道徳性を支持するにしても、絶対的に>正しく<というものを考えない、または、考えられないとしたのではなかろうかと思える。 朝鮮人の思考にある>正しく<という絶対的なものがあるかも疑わしい。果たして絶対的に>正しい<などというものが存在するのであろかということである。朝鮮では今でもこの絶対的に>正しい<とは何かを巡って議論がなされ、国論が一致しないのである。 日本人はこれに対し「正しく生きなければならない」ということは理解できるにしても、この>正しい<という普遍的なものは存在しないとして、これを実現するには困難が伴い不可能ともいえるとして、「正しく生きたいと思う」という<現実的道徳律>ともいえるものを選択することになったのではなかろうか。 (目次に戻る) (32)「反日思想」の根源 朝鮮の<反日思想>の根源は、前記のとおり、日本が「儒教」を国家および国民の思想となっていないところにある。日本は今でも「斥邪」の国として位置づけられているのである。朝鮮の<儒教国家>はまだまだ続く、これがなくならないうちは「反日思想」は払拭されることはない。朝鮮・韓国が経済的に日本を凌駕すれば、「反日思想」はなくなるということを説く者がいるが、これは誤りである。そのときには、日本を「邪学」に支配されているから、朝鮮・韓国に凌駕されたと言い、「反日思想」は「蔑日思想」に変わることがあってもその本質には変化がないと考える。 朝鮮では、中国が親、朝鮮が長男(兄)、日本が次男(弟)という言い方がある。中国を親と考えているところに「属国」を当然だとする考えがあって面白いが、それはともかく、兄の朝鮮が日本にいろいろ諭してやり、文化も伝えたのに、倭寇で朝鮮の村々を荒らし、文禄・慶長の役で侵略し、日韓併合で植民地にした。これは、日本が<長幼>の律を破ったからで、再び日本に「儒教」を基本とする<道徳>を教えてやらねばならない。しかし、どうてい「儒教」を敬わない蛮族の日本はそれを理解できないので、これは打倒すべき存在である、というのが<反日思想>の根源である (目次に戻る) (33)朝鮮王朝における女帝(1) 朝鮮の王朝の歴史といえば「三国時代」から(それ以前は神話の世界)日本に併合される「大韓帝国」までと考えてよいが、その間、3人の「女帝」がいた。いずれも新羅時代である。 新羅は紀元前57年に建国されたといわれるが、この時代の「女帝」を説明する前に、その「王の継承」について説明したい。 新羅の歴史については中国にも「新羅記」や「唐書」などが多数あるが、ここでは専ら「三国史記」(高麗王朝の第17代 仁宗23年(1145年)に「金富軾」らによって編纂された)と「三国遺事」(高麗王朝の第25代 忠烈王7年(1281年)に僧侶の「一然」によって編纂された)によることにする。 新羅の王(中国では長い間、王の呼称は許さず「公」しか許していなかった。例 594年 隋は新羅の王に対し「上開府楽浪郡公」を名乗ることしか許さなかった(「三国史記」、「三国遺事」では「公」を「王」と表記している)。王という呼称を許したのは624年 唐の高祖が「柱国楽浪郡公新羅王」としてからであるが(これについても唐は「公」と考えており「王」は付け足しだった(もちろん「三国史記」、「三国遺事」では「公」よりも「王」に力点をおきて考えていた)、ここでは「王」と呼ぶことにする)は世襲制ではなかった。朴、昔、金(これらはすべて中国からの賜姓)などの中から合議制で王が選ばれたといわれている(最近の研究では、朴、昔(祖先は日本)、金の3王朝の交替があったという見解が有力となっている)。 この稿は、オロモルフさんの論考に刺激されて起したものである。日本の女帝については同師匠の論考には感嘆しているので(もちろん、これに抗すべき学識もない)、そのまま全面的に引用させていただいた。 (目次に戻る) (34)朝鮮王朝における女帝(2) さて、「女帝」であるが、日本の推古天皇(593年―628年在位)の直後の632年に第27代として「善徳王」が即位された(632年―647年在位)。前の「真平王」(572年―632年在位)に男子がなく、他に適当な王の候補がなかったために「真平王」の長女である「善徳王」が選ばれた(姓は「金」(中国の「冊府元亀」では「募」)、名は「曼」)。「善徳王」は幼いときより聡明であり、なるべくして成ったとはいえるが、歴史上初めての女帝である(高句麗、百済にも女帝はなかった)。王族たちは躊躇したに違いない。 この時代には、新羅、百済とも日本に朝貢し、人質も日本に差し出しており、新羅から日本への帰化人も多く、極めて隣国日本との間にはかってないほどの友好関係が続いていた。もちろん、日本初の?女帝「推古天皇」の評判も新羅には広く伝わっており、その人物像も詳細に報告されていたことは想像に難くない。当時の朝鮮の三国にとっては日本は中国『唐』からの迫害を防ぐについて同盟的な国であり、また、これまで日本から再三に渡って侵攻され、多大な被害を蒙っていたことから逃れるためにも、極めて重要な国であったので、日本の情報は帰化人などを通じて逐一本国に伝えられていたものと思われる。 特に新羅は三国の中でも脆弱であったので、盛んに百済、高句麗の侵攻にさらされ、戦乱、戦乱の連続であった。 (目次に戻る) (35)朝鮮王朝における女帝(3) 「推古天皇」の前例が新羅の王族たちを安心させたに違いない。 王に推戴された「善徳王」も「推古天皇」への対抗意識はあっただろう。生来の聡明さに加えて、性格も優しかったので、生活困窮者、病人などを積極的に助け、国民に慕われ、善政を行った。 その結果、薨去後に「聖祖皇姑」の号を贈られた。生涯独身で、子がいなかった。 この時代が新羅にとっては一番存亡の危機にさらされていたのであるが、「善徳王」は武将「金 ユ信」、宰相「金 春秋(後の「武烈王(654年―661年在位)―日本に人質として差し出されていたこと経歴があった」)」を巧みに使い、唐との交渉し、唐より再び「柱国楽浪郡公新羅王」を賜り、冊封を受け、百済、高句麗との戦争に対処して国を維持した。名君だった。 それでも、当時の朝鮮は女性に対する差別は強く、「男は尊く、女は卑しい。どうして老婆が閨房を出て国家の政務を断じることを許しておけようか。新羅は女子を助け立てて王位に就けたが、これは世を乱すことであり、国が滅びなかったのは幸運だった。「書経」に「雌鳥がときを告げる」とあり、「易経」には「雌の豚が慌てて騒ぎ回る」とあるが、これを戒めとしなければならない」と揶揄されているが、これは全くの偏見で「善徳王」は救国の名君であった。 晩年には、女王では善政を施すことができないとして王族が反乱を起こしている。女王にはまだまだ抵抗があった証拠である。しかし、<善政を施すことができなかった>という記録はなく、王族たちが私欲のため権力を簒奪しようと反乱を起したのに過ぎない、と考える他ない。 余談であるが、新羅の都であった「慶州」の「善徳王」の墓を詣でたことがある。松林の中の直径10mほどの小さな円墳だった。誰にも顧みられずにひっそりと眠っていた。 新羅中興の祖と呼ばれている「王」にふさわしいと陵墓とはとうてい思えなかった。 「武烈王」の陵墓はいうに及ばず、武将の「金 ユ信」の墓と比べても極めて貧弱であった。 これは郷土史家の話では「善徳王」の遺言だったと言う。記録はないが、そんな気もしたという記憶がよみがえる。 (目次に戻る) (36)朝鮮王朝における女帝(4) 次の第28代「真徳王」(647年―654年在位)も女帝である。「真徳王」は体が大きく手が長かったという記録がある。「真平王」の母の弟の「葛文王」の子である。姓は(中国の「冊府元亀」では「募」)、名は「徳曼」である。「善徳王」の5寸(親等)にあたり、かなり遠い。 前の「善徳王」の善政もあり、女帝となり、女帝であることについて、異論がなかったようである。この時代には日本でも女帝の「皇極天皇」が即位されている。 この時代も引き続き百済、高句麗の侵攻に悩まされた。「唐」との絆を強め、中国の礼服に改め、年号も中国のものを用いた。現在、中国の属国化を図ったとして非難する朝鮮の歴史学者もいるが、国を保持するため止むを得なかったと思う。 この時代には、日本は百済との関係を深めていたため、新羅も日本の意に反して百済とは争うこともできずに、友好関係を結んだ。百済も次第に日本の意を汲み、新羅との争いは減少した。高句麗が巨大となり、唐も思ったほど頼りにならないため、百済とともに日本に援軍を要請し、日本も任那に軍を派遣して、百済、新羅とともに高句麗と戦った。 前の「善徳王」と同じく、独身で子がいなかった。 「善徳王」と同じく武将「金 ユ信」、宰相「金 春秋(後の「武烈王(654年―661年在位)」)」を用い、護国の人だった。 (目次に戻る) (37)朝鮮王朝における女帝(5) 時代はかなり下って、新羅の末期の第51代「真聖王」(887年―897年在位)も女帝である。姓は「金」、名は「曼」である。生涯独身で子はいない。 彼女が「王」になった経緯は、前の「定康王」に男子がなく、妹の「曼」は生まれつき明敏、鋭利であり、骨相が男に似ている。「善徳王」、「真徳王」の故事に倣って王に立てるようにとの遺言による。 ところが、淫乱で、臣下と情を通じ、これが亡くなるや今度は美少年2,3人を宮中に招き入れ淫行し、彼らに要職を与えて国政を委ねた。国庫が窮乏し、これを補うため徴税を強めたため、各地に反乱が起き、盗賊が横行し、国が乱れた。兄の「憲康王(第49代)」の甥(後の孝恭王(第51代)に897年に譲位した。 日本側でも記録があり、893年5月に新羅の盗賊が肥前、肥後国に襲来し、大きな被害を受け、894年2月には対馬に新羅の盗賊が押し寄せ、5月から8月まで占領される事態となった。海上の運航もままならなくなって、遣唐使の派遣も中止されている。隣国の政治が乱れると被害が甚大となる証拠である。何か、韓国、北朝鮮の現在を思わせて興味深い。 これから5代後の「敬順王」の時代の934年に「高麗」の始祖「太祖」に滅ぼされ、991年続いた新羅は滅亡した。 前の「善徳王」、「真徳王」と同じく、独身で子がいなかった。 その後は、どの王朝にも「女帝」は現れていない。 (目次に戻る) (38)朝鮮王朝における女帝(6) 朝鮮王朝における女帝の特徴は、「オロモルフ」師匠の論考にある日本の場合と比べると、次の特徴があるように思える。 1、王妃が夫(「王」)が亡くなった後に「王」になったことがない。 2、生涯独身で、子がいない。 3、女帝はつなぎ、つまり、王は男子が原則で、王に子がいなかった場合にのみ女帝が誕生している。 4、譲位した「王」は女帝の「真聖王」を除いて唯の一例もない(男子の「王」も含む)。 このことは、次のことを意味するものと思われる。 1、王妃も王族の場合が多いが、政治から排除されていたのではないか。「三国史記」にも王妃の功績が記されていることが全くない。「女が歌を謡うと家が滅びる」との思想が維持されていたのではないかと思われる。 2、新羅の場合は世襲制ではなく(世襲の場合もあったが、王から子へという世襲が続かなかった)、したがって、王妃が実子を「王」に推戴する制度がなかったと考えてよい。 3、女帝が即位するについては、止むを得ない状況があった。つまり、他に適任者がいなかった場合に限られる。自ら権力を握るために即位したということがなかった。また、同じく、自ら進んで即位したという記録がない。 これらのことは、女帝が忌み嫌われていたこととも関係する。「善徳王」の項でも紹介したが、女帝は忌み嫌われていた。第47代「憲安王」(857年―861年在位)の最後の年の王の言葉「私は不幸にも男の子がなく、娘だけである。わが国の故事に「善徳」と「真徳」という2人の女王がいるが、雌鳥が暁を告げる(不吉の兆)に近いから、これを法(決まり)とするのは良くない。甥は歳は少ないが、老成(大人びる)の徳があるから、臣下たちは彼を立てて良く仕えれば、必ず祖宗の令緒(良い跡継ぎ=功績)を落とさないだろうから、私は死んでも朽ち果てない」に良く表れている。 4、寡婦(大王后―日本の皇太后に当たる)が選ばれなかったのは、夫を先に死に至らしめたという悪霊が取り付いているという思想があったのではないか、と考えられる。つまり、こういう縁起の悪い人には「王」として国政を委ねることができないということではないかと思える。 朝鮮では今でも「寡婦」が忌み嫌われている。夫より先に死なねばならないのに、むざむざ生き残っているというのである。 5、生涯独身の者が選ばれた。また、結婚が許されなかったのは、夫が政治に口を出すことを慮ったのではなかろうか。夫を権力から遠ざけるという理由があったものと考えられる。 6、子を持つことが許されなかったのも、子を「王」にするという策謀を事前に防止するということにあったものと思われる。 7、譲位しようとした男子の「王」が最後の女帝の「真聖王」の前に一人だけいたが、臣下により翻意させられた。「譲位」という制度が確立していなかったと考えられる。 女帝が<つなぎ>であれば、譲位が容易に認められてもよかったが、これが1例しかないということは、やはり、前記の理由によるものと思われる。 「真聖王」になぜ譲位が許されたかは、悪政であったにせよ、女帝であったことが大きな理由であったと思われる。これは、悪政だったとしかいいようのない「王」も譲位させられていないからである。 「オロモルフ」師匠の日本の「女帝問題」についてのご指摘で認識させていただいたが、「天皇としての激務と妊娠・出産・育児とは両立しない」 朝鮮の新羅王朝は、このことを認識していたのではなかろうか。何よりも「女帝」自身が認識していたのではないかと考える。三人の「女帝」総てが、夫も子もいないのは偶然ではなかろうと改めて考えた次第です。 (目次に戻る) (39)朝鮮王朝における女帝(7) 「女帝」は、朝鮮では「新羅」にしか現れなかった。これは先のとおり「女が歌を謡うと家が滅びる」との思想に支配されていたと考える。 「新羅」と同時代の「高句麗」、「百済」でも「新羅」に「女帝」がいたことは当然知っており、善政を施していることを知ってはいたと思うが、これを導入することはなかった。 「新羅」の後の「高麗」も「朝鮮(李氏朝鮮)」も「女帝」は出現しなかった。 しかし、特に「朝鮮(李氏朝鮮)」では、王妃、寡婦になった王妃、あるいは側室およびその親族が度々政治に口を出し、国政を紊乱させた例は「李朝実録」を見れば列挙に暇ない。そして、やがては「閔妃(明成皇后)」のように「日韓併合」をもたらした者が出現した。 このことを考えると、朝鮮は本当に「女が歌を謡うと家が滅びる」という国である。それがために「女帝」を出現させなかったと考えたのではないかと思う。 「新羅」は先のとおり「女帝」になる者の周りを断って「女帝」を出現させた智慧には感心する。 (目次に戻る) (40)朝鮮王朝における女帝(8)[雑感] 女帝については、このように日本とは実情が異なっていたように思える。 朝鮮王朝における女帝(6)で述べたことは、もちろん、記録にはない。論考した者もいないようである。あくまで、私独自の試論というべきものであるので、自信はない。誤りがあれば御指摘いただきたい。 当たり前のことだが、「女帝」一つにしても隣国とは制度が異なるものだ。「近くて遠い国」を感じた。最近言われる「近くて近い国にしよう」などとは無理に考えなくて良いと思える。 この稿を起すについて、感じたことは、朝鮮の女帝誕生が日本の推古天皇の即位と業績を参考にしたのではなかろうか、ということである。推古天皇の即位がなければおそろく新羅でも「善徳王」という女帝の誕生はなかったと思われる。そして「善徳王」も「推古天皇」を常に意識して政治を行ったのではなかろうかと推測する。新羅と大和という国がお互いに意識し、影響しあいながら独自の道を歩んで行った時代であったような気がする。 そして、女帝に限らず、王が薨去してから、新たな「王」が即位したので、院政という二重権力が生じる恐れがなかった。唯、最後の女帝、第51代「真聖王」(887年―897年在位)は譲位したが、譲位した年の6ヶ月後に薨去しているので、院政もなかったと思われるし、院政の記録もない。 日本において、女帝を考えるについては、結婚問題、つまり生涯独身を貫かせるのか、これが無理だとしたら夫をどこから迎えるのか、という問題を考える必要があるのではないか。朝鮮の新羅王朝ではこの問題を解決していた。結婚が許されるとしたら、次の天皇は長子である女性に委ねるのか、それとも次子であっても男子に天皇の座を委ねるのか、という問題もあるのではなかろうか。 (目次に戻る) (41)朝鮮王朝における女帝(9) 女帝問題を考えるに当たって、朝鮮(新羅)と日本とを比較、<後継者>を巡っての暗闘という面からすると朝鮮(新羅)に軍配が上がると考えます。 朝鮮(新羅)の「女帝」は、@ 夫なし A 子なし B 男子の兄弟がいない、ことに特徴があります。したがって、後継者に実子などを推挙することは有り得ません。 これに対して、師匠の論考などを参考にして論じると、朝鮮と全く反対のようです。 したがって、女帝の中には、わが子・孫などを「天皇」に推挙しようと画策し、暗闘が繰り広げられたことが多い。特に古代ではその傾向が強いと思われます。 「推古天皇」がなぜ、「聖徳太子」に譲位しなかったか? それは子の「竹田皇子」の天皇への即位を望んだからだといわれており、「皇極天皇」もわが子「中大兄皇子(後の天智天皇」の即位を願い、対抗馬の「山背大兄皇子(聖徳太子の子)」を謀殺した(犯人は「皇極天皇」であるとは断言できないが、対抗馬がいなくなった利益はある)。弟の「孝徳天皇」も廃位させた。「天智天皇」の後を継いだ皇后の「持統天皇」もわが子「草壁皇子」の即位を願い、聡明で即位確実と見られてきた「大津皇子」を謀殺した。そして、即位を願った「草壁皇子」が早逝したため、今度は孫の「軽皇子(後の天武天皇)」の即位を画策した。 これらの事情は、師匠から補足があると思われますが、これらは<女帝特有の問題>に原因があったと考えます。 これに比較して、朝鮮(新羅)の「女帝」にはこのような問題が生じるはずがありませんでした。当時の朝鮮(新羅)の人々の叡智を感じます。新羅が中国の王朝の圧力を受け、百済、高句麗からの侵略に対抗し、1000年近くも国を維持させた理由がわかるような気がいたします。海に囲まれていた日本とは全く条件が異なり、<護国>比較にならないほど大変だったのです。 (目次に戻る) (42)異姓不養 「晋書(唐の「太宗(在位624〜649年)」によって編纂)」を見ますと、中国ではかなり古い時代から、姓が違う者を養子にすることが禁止されていたようです。これは中国が血縁を中心に社会が構成されていたことによります。 しかし、後漢の「曹操」(200年頃)によって「異姓不養」の禁止が解かれ、「異姓養子」が許されるようになりました。これは兵員を確保するため、徴兵されて後がない場合に異姓からでも養子を迎えて子孫を絶やさないようにするためで、<兵員確保>のため採られた政策です。ところが、「晋」が280年に中国統一を果たすと兵員確保の必要性が薄れ、再び「異姓不養」の禁止が採られた。これへの罰則は厳しく、違反者は死刑に処せられました。 その後も「異姓不養」の原則は絶えることがなく、中国の共産党政権の初期頃まで続いていたといわれます。しかし、<異姓養子>は忌み嫌われているようです。 朝鮮では、新羅が朝鮮を統一する前から、中国の風習が導入され、「異姓不養」の原則が貫かれました。これは現在まで続いております。朝鮮も<血縁社会>ですから、この風習は廃れることはないものと思われます。 (43)同性不婚(1) 「同姓不婚」も中国の風習であり、「儒教」から来たという者がいますが、これは間違いです。これも国が血縁を中心に社会が構成されていたことにより生まれたもので、儒教の創始者といわれる「孔子」(紀元前552年頃生誕)以前からあるといわれております。「異姓不養」と対になっております。この禁止が解かれたことはないようです。 韓国では、三国時代には<姉・弟、兄・妹>の間の兄弟婚も頻繁に行われていたようで、「郷歌(ヒャンガ)」と呼ばれた日本の万葉集にあたる詩歌にもこれが散見できます。後世、これを恥じた者が「郷歌」を破棄したため、三国遺事に13首、その他の資料で11首、合計24首しか残されていないという見解もあるようです。これが新羅後期の朝鮮統一時代頃(667年)から中国の唐からの風習が強まって、兄弟婚も行われなくなり、「同姓不婚」の風習が広まって行きました。さらに、高麗時代(928年〜1392年)には「儒学」も盛んでしたから、「同姓不婚」の原則が確立し、李氏朝鮮時代(1392年〜1910年になってからは、「儒教」が国教とされたため、「同姓不婚」が厳しく守られるようになりました。 現在の韓国では、「同姓不婚」は憲法違反とされましたが、国民の間では依然として維持されております。なお、北朝鮮でも同じです。これは1997年に北朝鮮人に直接確認しました。韓国より厳格に守られているようです。 (44)同姓不婚(2) 「同姓不婚」、人間の感情というものがありますから、これを乗り越えようとする人たちがおり、韓国社会は頭を悩ませているようです。これに比べて、「異姓不養」は人間の感情というものとはあまり関係のないものですから、韓国社会でもあまり問題となっておりません。日本統治時代の「創氏改名(1940年2月施行)」は当時の日鮮人相互間の養子問題を解決するために導入したものと考えますが(徴兵制を敷くためというのは明らかに誤り)、「異姓不養」を打破しょうとしたものです。もちろん、根底には朝鮮の「血縁至上社会」の打破がありました。残念ながら、日本統治時代は「創氏改名」施行間もなく終了しましたので、効果ははっきりしませんでした。現在、朝鮮では「血縁至上社会」が悪弊となって国の根幹を揺るがしております。 「同姓不婚」も含めて朝鮮の「血縁至上社会」を打破しようとした日本統治時代の政策は正しいものあったと考えます。 ひるがえって、日本は「同姓不婚」、「異姓不養」、「科挙」、「宦官」という悪習を取り入れませんでした。特に「異姓養子」はすばらしい制度で、異姓であれば家系の承継の選択肢が広がりますし、優秀な血を入れることも可能です。<婿養子>、すばらしい制度と確信します。近隣諸国の制度のうち、都合のよいものを選択して取り入れた。日本が中国・韓国などと比べて先進国でいられる大きな要因だと考えます。 先人の叡智には本当に頭が下がります。 (45)そ ば(1) 「そば」を「そば粉」で作った食ったものをいうとするならば、これは朝鮮から渡来したものかどうかはわかりません。 「続日本紀」に、元正天皇の養老6年(722年)に救荒作物として「そば」を植えたという記録があります。伝来経路は記載がありません。 「そば」の原産地は朝鮮ではなく、ロシアのバイカル湖から満州にかけての地域です。 したがって、朝鮮から伝来したと即断してはなりません。 朝鮮から蕎麦が伝来したのは、江戸時代の本山荻舟が「蕎麦は朝鮮の僧侶「元珍」が東大寺に来て、つなぎに小麦粉を入れることを教えて、初めて日本に蕎麦が生まれた」という話によるものと思われますが、先の「続日本紀」の記録を見ても遥か昔に「そば」が伝来しておりますから、「蕎麦」が朝鮮から伝来したというのも怪しいのです(朝鮮人は何でも朝鮮から伝来したと決め付けます)。 (目次に戻る) (46)そ ば(2) <そば>といわれるものには3種類あります。 1、小麦粉を材料とするもの、 2、そば粉を材料とするもの、 3、緑豆(もやしの頭?)、 ジャガイモの澱粉を材料にするもの(唐麺、春雨)です。 「小麦粉を材料とするもの」は中国の前漢(紀元前202年〜同1年)からあります。中国では「小麦」から作った「小麦粉」を<麺>といい、<麺>から作ったものを「餅」、それ以外の穀物で作ったものは「餌」といい、人間の食べるものではないと侮蔑しておりました。この「小麦粉」で作った「餅」を打って長く伸ばしたものを、華北地方では「拉麺(ラーミェン)」、華南地方では「打麺(ターミェン)」と呼んでおります。日本ではこれを「うどん(温飩―語源は中国の混沌)」と呼んでいました。小麦粉だけで作るものですから、日本での「らーめん」とは違います。このようなものは朝鮮には伝わりませんでした(正確にいえば流行しなかった)。「高麗図経」に、朝鮮では小麦が採れず中国から輸入するにしても値段が高く婚礼以外では食べられないという記録があります。 したがって、「うどん」を伝えたのは日本統治時代です。余談ですが、韓国に行ったとき、この「うどん」が韓国原産のものだと信じて疑わない者がおり激論となった記憶がございます。無知というものは恐ろしいものです。これを朝鮮の諺で「ソウルに行ったことのある者と行ったことのない者が喧嘩するとソウルに行ったことのない者が勝つ」というものです。 (目次に戻る) (47)そ ば(3) 「そば粉を材料とするもの」、これは中国では発達しませんでした。理由は「餌」だからです。現在でもそうです。 朝鮮ではこれを「クッス」といいます。朝鮮の麺で有名なものに「冷麺(レンミョン、韓国ではネンミョン)」がありますが、これは「平壌」が本場で「平壌冷麺」といい、私も「平壌」の「玉流館」で食べたことがあり、大変美味でした。「冷麺」、そば粉に緑豆澱粉を混ぜたものです。ただ、釜山の近くの「晋州冷麺(チンジュネンミョン)」はそば粉しか使いません。これが本当の「そば粉を材料とするもの」かも知れません。なお、北朝鮮の日本海側の「咸興(ハムン)」の「咸興冷麺」はジャガイモの澱粉を材料にしますから、「唐麺」に近いものです。「冷麺」では、これが一番おいしいと思います。ソウルの中心街の「明洞(みょんどん)」に、確か「咸興冷麺」という店があります。 「日本蕎麦」、はこの部類に入ると思います。 (目次に戻る) (48)そ ば(4) 緑豆(もやしの頭?)、ジャガイモの澱粉を材料にするもの(唐麺、春雨)も<麺>の仲間に入ります。朝鮮でこれを流行させたのは、日本人です。先に説明した「咸興冷麺」もこの部類ですが、全国に広めたのが日本人ということです。 これは「圧搾麺」の一種で、小さい穴から押し出して熱湯の中で糊化させるものです。 これに対して、「うどん」、「日本蕎麦」などは「切麺」といいます。「冷麺」も同じです。<小麦粉>で作るものもこの方式ではないでしょうか。 さて、日本の「らーめん」、これは<小麦粉>だけでなく、他の澱粉も混ぜるのではないでしょうか? したがって、これは中国の「拉麺」、「打麺」などとは違います。もっとも 現在の中国の「拉麺」、「打麺」が<小麦粉>以外に他の穀物の澱粉を使っているかはわかりません。もし、そうだとすると、これは<麺>ではなく、<餌>となり、それぞれ「拉餌」、「打餌」となります。 日本の「らーめん」もそうだとするならば、われわれ日本人は<餌>を食べていることになります。 いつものとおり長くなって、管理人さんを始めとして皆様には申し訳ございません。 学習しだすと止まらなくなるのです。 なお、この<歴史講座>途中が大きく抜けておりますが、あまりに専門的なものが多いので投稿を躊躇しております。 (目次に戻る) (49)日本人のルーツ(1) 日本人は、朝鮮半島から渡来した人を祖先に持つということが誠しやかに語られている。 しかし、最近の研究ではそうとはいえないという見解が強くなっている。 専門分野ではないので、「渡来人の問題」中橋孝博(「古代朝鮮と日本」西谷 正 名著出版1990年7月10日出版 に書収)を中心に検討したい。 結論を先にいうと、最初に南方民族が台湾から沖縄経由で日本に渡来し、その後、朝鮮から北方民族が渡来したが、この北方民族の形体的特質は殊のほか少ない。 この渡来説は「金関 丈夫」の「弥生人種の問題」(「日本の考古学」3 河出書房 1955年出版 に書収)が唱えたもので、1953年の佐賀県「三津」、山口県「土井ヶ浜」の遺跡から大量に発見された人骨が、これまでの縄文人(南方民族)とは異なり、北方民族の「高顔(面長)」、「高身(背が高い)」を特徴としていることから、北方民族(朝鮮民族も北方民族)が渡来したと考えた。北方民族の顔の特徴は「短頭」、「高顔(面長)」、「平面(鼻が低い)」、「目細」、「薄眉」、「小口」、「小唇」にある。これは北は寒さが厳しく、風が強いので、頭が小さく、顔が細く、面長になり、目が細く、口が小さく、唇が薄い、ツララがつかないようにするため、眉が薄く細く、なるとされる。 (目次に戻る) (50)日本人のルーツ(2) 「短頭」の日本の分布を見てみると、山陽、近畿、東海、東京などに多く(もちろん、朝鮮半島も)、沖縄、九州、北陸、関東以北には見られない。 また、耳垢は北方民族(朝鮮民族)は乾いているが、これは、本土に多いが、沖縄、関東以北は少なく、耳垢が湿っている。 指紋は、渦状紋、蹄状紋、弓状紋の3種類があるとされるが、朝鮮民族は「渦状紋」であるが、日本列島では東に進むにつれて「蹄状紋」が多くなっている(もちろん、沖縄も)。 血液型(ABO型)も朝鮮民族は「A型遺伝子」が強く、これも西日本から東日本にかけて薄くなっている(もちろん、沖縄も)。 血液中に含まれる「カタラーゼ酵素」の変異型も同じような傾向となっている。 「沖縄人」と「アイヌ人」の顔の形態がとても似ていることに気が付かれるだろうか。朝鮮人を含む北方民族とは異なり「丸顔」、「鼻高」、「眉が太い」、「大口」、「大唇(厚唇)」である。これは、先住民族の南方系の民族が日本列島に渡来したが、やがて、朝鮮半島から渡来した北方民族(朝鮮民族)によって次第に南と北に追いやられた結果であるといわれている。しかし、北方民族(朝鮮民族)も関東以北では南方系のアイヌ人の抵抗で、あまり進出できなかったようだ。 したがって、日本人のルーツが朝鮮民族であると即断するのは間違っているといえよう。 鏡を見よう。あなたは南方民族系、それとも北方民族系? いずれにせよ、朝鮮人の皆さん、残念な結果でしたね。 ここに登場されます方は、日本人のルーツが朝鮮人であるなどということを盲信していないと確信しますが、念のために投稿させていただきました。 (目次に戻る) (51)日本人のルーツ(3) 日本とロシアの沿海州地方はかって陸続きでした。そのため、そこから人が北海道に渡来し、次第に南下したのではないかという考えもあります。これは「渡来説」に対し「移行説」の一つともいえるのではないかと思います。NHKのテレビで放映され、信頼すべき見解のように流布されておりますが、これが一番信頼性の薄い見解です。専門家の間でもこれについては賛同する人が極めて少ないのです。 この見解が正しいのであれば、一番最初に渡来した北海道に北方民族の特徴が顕著に現れていなければなりませんが、これが見られないのです。 また、アイヌの古話に「先住民のコロボックルという小人が住んでおり、これを滅ぼして住みついた」というものがあると聞いたことがあります。また、アイヌには、先に示した北方民族の特徴がほとんど見られません。むしろ、南方民族の特徴が顕著に見られるのです。 確かに、日本とロシアが地続きであれば、人が渡って来たと考えられるのとは思いますが、それは「コロボックル」で南から来たアイヌ人(縄文人)に滅ぼされたと考えた方がよいと思います。アイヌは千島、樺太、沿海州にも多く居住しておりますが、これは日本から渡ったと考えた方がよかろうかと思います。なお、古話、神話というものを一概に史実に基づいていないと一蹴するのではなく、「日本書紀」の例でもわかるように、事実と考えられるものが多いのですから、他の事実と照らし合わせて考察すべきではないでしょうか。 (目次に戻る) (52)朝鮮の漢字事情(1) 朝鮮の漢字事情は悲惨な状況にあります。 朝鮮は、<正字>ですが、使わなければ意味がありません。 どうして、朝鮮で漢字が使われなくなったと言いますと、漢字は<日本統治時代>の残滓と見なされたからです。これはとうてい信じられない話です。 <日本統治時代>が始まる前までは、朝鮮人は<漢字>を使っていました。李氏朝鮮の第4代王「世宗大王」が1443年にハングル文字(訓民正音)を開発しましたが、これは朝鮮では日本の平仮名のような文字がなかったため、文盲の者が多く、特に女子、奴婢などにそれが顕著に見られたことを何とかしようとしたことにありました。 ハングル文字の特徴は、どんな発音もできることにあります(もちろん、万能ではなく、 例えば、日本語の「つ」という発音ができません)。そのため、母音が11、子音が17もあり(現在では、母音が10、子音が14)もあります。母音が5しかない日本語と比べてその数が多いのが特徴です。文字はこの子音と母音を巧みに組み合わせて作出します。 ところが、こと志と異なり。「諺文(おんもん)ー女・子供の使う言葉」と蔑まれ、男子、特に知識人には全く使われませんでした。そればかりか、「燕山君(1506年に王位を簒奪された)」は「ハングル」の使用を禁止したのです。 (53)朝鮮の漢字事情(2) これを改善したのが<朝鮮総督府>です。福沢諭吉が<分かち書き>、つまり漢字の間にハングル文字を挟む。ちょうど、日本で漢字に平仮名を付けるようにして、読みやすいようにしていたことに着眼し、これを新聞に導入し、徐々に<ハングル文字>を浸透させて行ったのです。そして、初等学校(小学校)でも<ハングル文字>の授業を始めました。 朝鮮人が見捨てた<ハングル文字>を<朝鮮総督府>が蘇らせたのです。もちろん、日本語も導入しましたが、<ハングル文字>も学習させることを忘れませんでした。<日本統治時代末期>には<日本語>が中心に学習することにされましたが、十分に<ハングル文字>を普及させたのです。 ところが、<日本統治時代>が終わりますと「漢字」が日本語の残滓ということで、<ハングル至上主義>がまかり通り、「漢字」が排斥され、街の看板からも「漢字」が消え、 1990年初頭にはほとんど消え去ってしまいました。しかし、朝鮮語の約70%は漢字から来た言葉で、漢字語の約70%は日本語から来たものです。これを排斥してしまったら、会話が成り立たないのです。 漢字を使わないことの深刻さは「姓名」を漢字で表すことから来る悲劇です。朝鮮の名前は、漢字が使われます。最近では漢字を使わない者もおりますが、まだ、少数です。今の子供は父の名前を漢字で書くこと、さらには自分の名前すら漢字で書けない者が非常に増えております。朝鮮の名前は「行列式(字)」という原則がありますから、漢字で名前を書けませんととても困ったことになります。 (54)朝鮮の漢字事情(3) さらに困ったことは、漢字を読めないため、朝鮮の古典が全く理解できないことです。 朝鮮の有名な歴史書「三国史記」、「三国遺事」、「李朝実録」の原典(漢字)に当たることができなくなっております。 日本にたくさんの留学生が毎年やって来ますが、漢字を知らないため、大変です。教官の教科書も読めず、授業について行くのに支障を来たしています。 韓国では、これが問題となり、漢字教育が行われておりますが、なかなか上手くいっていません。 北朝鮮では全く漢字を使いませんでしたが、最近では漢字教育も行っています。しかし、これも実をあげていません。 ベトナムも漢字が主流でしたが、今では全く使っておりません。次に漢字がなくなるのはどこでしょうか。 漢字は<正字>でなければ、語源がわかりません。それと旧仮名遣いを復活する必要がありますね。「絵」は「え」ではなく、「犬」は「いぬ」ではありませんよね。 最後にもう一度、おさらいをしましょう。<ハングル>を普及させたのは<日本人>である。朝鮮人が<ハングル>を使えるのは<日本人>のお陰である。朝鮮人から<漢字>を取上げたのは<日本人>ではない。 (55)大阪の朝鮮人(1) 大阪に朝鮮人が多いのは、大阪が1925年(昭和元年)には211万人という人口を有する世界有数の大都市であったということとともに大商業・工業都市だったことにあります。 朝鮮人も日韓併合の行われた1910年(明治43年)には大阪に206人しかいなかったのが1920年(大正9年)には4494人、1925年(昭和元年)には31,860人,1935年(昭和10年)には202,311人と爆発的に増加しております。1945年(昭和20年)には333,354人に達しております。 朝鮮人の全国との比較における大阪の在住比率も、1910年(明治43年)―9.2%、1920年(大正9年)―14.9%、1925年(昭和元年)―24.5%、1935年(昭和10年)―32.3%、1945年(昭和20年)―16.9%、となっております。1945年(昭和20年)に比率が少なくなっておりますのは「徴用令」が施行され、朝鮮人が日本内地全域に動員されたからです。 1925年(昭和元年)ころの大阪の工業都市としての性格は、中小零細工場が多くあったことにあります。これは東京や全国各地に見られた現象でもありますが、大阪にそれが顕著に見られたのです。 この中小零細工場が朝鮮人労働者を吸収したのです。1924年(大正14年)末の大阪の 従業員15人以上の工場で働く朝鮮人は11,357人で、大阪人を除けば鹿児島県人の14,306人に次いで全国2位の地位にありました。沖縄人の倍近くもあったのです。 (56)大阪の朝鮮人(2) それでは、大阪のどこに居住したのでしょうか。大阪の地理に詳しくありませんので大阪在住の人に補足していただかなければなりません。 東成区が圧倒的に多いのです。全体の30%を占めております。後は西成区、東淀川区、西淀川区がそれぞれ10%となっております。どういう地域でしょうか? 工場地帯でしょうか? それにしても大阪に朝鮮人が住みついたのは、大阪と済州島との間に「尼崎汽船部」の航路があり、「君が代丸」などが運行していたことが大きいと考えます。朝鮮郵船の航路もありました。大阪と朝鮮の釜山を経由する仁川への「尼崎汽船部」の航路もありました。これが朝鮮人を大阪に運んだのです。船は1000トン位ですが、1933年(昭和8年)には109回も就航しております。釜山と下関の間には「関釜連絡船」が就航しており、こちらの方は3000トンという大型船でしたが、大阪へは直行便が利用されていたようです。 何よりも大阪に朝鮮人が住みついたのは、大阪人の寛容さ、気取らない性格にあったのではないでしょうか。想像ではありますが、大阪の方が住みやすいのではないでしょうか。 (57)大阪の朝鮮人(3) 朝鮮人の日本への渡航につきましては、1919年(大正8年)の三・一独立運動をきっかけに届出許可制となり、これは1924年(大正14年)6月に一時撤廃されましたが、翌年8月には再び届出許可制が復活しました。これは、朝鮮人があまりに増え過ぎたからです。 1928年(昭和4年)6月時点での大阪市に住む朝鮮人のうち87.8%が朝鮮半島南部の慶尚南道(済州島を含むー当時、済州島は慶尚南道に属していた)、慶尚北道、全羅南道、全羅北道出身の人たちで占められていました。このなかでも特に多かったのが「済州島人」です。これは何故か朝鮮人の日本への渡航制限が済州島人には1933年(昭和9年)までは適用されていなかったからです。済州島人の日本移住者は1925年(昭和元年)時点での大阪市の朝鮮人の約40%も占めていたのです。1935年(昭和10年)には、済州島の人口25万人のうち約5万人(正確には48,368人)が日本に居住しておりました。実に5人に1人が日本に居住していたことになります。この済州島人の日本における朝鮮人625,675人に対する割合は、7.73%で、1935年(昭和10年)の朝鮮の人口は、22,208,102人ですから、済州島の人口は約1.12%ですから、異常な高さです。 大阪市での済州島人は1934年(昭和9年)の居住人口は37,938人で日本全体の済州島人50,503人の75.8%が大阪市に集中しておりました。大阪市に居住していた朝鮮人が171,160人ですから、その割合も31.8%にも及んでおりました。 大阪市での集中度は驚異的であったといえます。 (58)大阪の朝鮮人(4) それでは、どうしてこのように済州島人が多く日本に居住していたのでしょうか。 それは、済州島が火山島で耕地がとても少なく、貧しかったこと。済州島が昔から流民の島として差別の対象になっていたこと、方言がきつく他の地方の人たちと意思の疎通が困難だったこと、にあります。 決して、日本統治時代の施策によるものではありません。済州島に特別な弾圧が行われたという記録もありません。 「済州島は子供たちをほったらかしにしていたから、服でも履物でも人並みでない。日本に行ってた人は綺麗になって帰って来るし、姉さんも近所の人も大阪に来たら、ちょとでも綺麗な服を着れるし、・・・日本から帰って来た白い線の入った帽子をかぶった学生さんは格好良かった。何が楽しみかというと一生着る服を作ろうと思って行李に一杯木綿など詰めて帰る。自分の分、家の人の分、それが一番の楽しみだった」という当時のことを思い出しながら語る済州島人の言葉が全てを物語ってくれます。 日本が済州島人に夢を与えたのです。もちろん、朝鮮の他の地域の朝鮮人にもです。 (59)大阪の朝鮮人(5) このことは、日本に帰化した朝鮮人の「成和会」の会員105人に対する調査(1986年(し昭和61年)〜1988年(昭和63年)で、父・祖父が渡日した理由について、徴用によると回答した者、1名(1%)、経済的理由と回答した者、48名(45.7%)、知らない・無回答、46名(43.8%)です。同じ調査で、全国の朝鮮人を対象にしたもの(回答者355人)でも、徴用、4名(1.1%)、軍属5名(1.4%)、強制連行17名(4.8%)、経済的理由と回答した者、39名(11.0%)、知らない285名(80.3%)です。(「在日韓国人の現状と未来」―閔 寛植 白帝社 1994年6月20日発行)。 これを見ても現在の在日朝鮮人が主張する渡日理由が「徴用=強制連行」によるものであることが全く根拠のないものであることが明らかです。特に後の調査は「徴用」と「強制連行」の区別が明確にされていたか疑問があります。それにしても知らない・無回答の者が多いのには驚かされます。もはや在日朝鮮人が自分の歴史を物語っていないことを意味していると思います。それにもかかわらず、どうして在日朝鮮人「徴用=強制連行」説が跋扈するのか理解できません。 また、朝鮮人についての日本国内への「徴用者」は、1941年〜1945年までで222,084人で、軍属(志願制)69,997人、軍人(志願制)204,644人を加えても、50万人弱で、150万人〜200万人であったという数字は明らかに間違いです(同書)。 (60)大阪の朝鮮人(6) 平成13年(2001年)末の朝鮮人(外国人登録者)は日本に645,373人で、そのうち済州島人は112,048人、その占める割合が17.36%となっております。これは戦前の7.73%と比べますと異常な増加率といえます。 どうして、こんなに済州島人が増えたのでしょうか。これは戦後も依然として済州島が貧しかったことと、1948年4月3日に始まった四・三事件という国軍と共産党とのゲリラ戦で7年間で約8万人の島人が殺されたことにあります。その避難民が続々と日本に押し寄せて来たのです。 平成13年(2001年)末の朝鮮人(外国人登録者)のうち、大阪府在住者は166,232人で日本全体の25.75%となっております。ちなみに東京都は93,046人で14.41%となっております。やはり大阪が一番多いのです。 在日朝鮮人が戦前から日本に居住していたと考えるかも知れません。しかし、これは前記のとおり誤りです。 先の調査でも、両親の渡日時期について、戦前が97人(27.3%)、戦後56人(15.8%)、 無回答、202名(56.9%)です。先の四・三事件、朝鮮戦争での避難民であると考えます。 資料は、「越境する民」杉原 達―新幹社(1998年9月30日発行)、「入国管理統計」、 朝鮮総督府統計年報、によりました。ただ、結論部分は「杉原 達」氏の見解とは全く異なります。 (61)妓 生(1) 李氏朝鮮時代の「賤民」のなかに「官妓(役所に所属する酌婦)」があることは前にお話しましたが、北朝鮮の「喜び組」はこの「官妓」と考えればよいのです。 北朝鮮は驚くほど「李氏朝鮮」と似通っております。「李氏朝鮮」の伝統を韓国も含めて今も引きずっております。 さて、「妓生(きーせん)」ですが、李氏朝鮮時代には「官妓」の他に「私妓」と呼ばれる「私娼」がおり、街を形成して営業しており、格式の高さを誇っているのもありました。 よく映画になっている「黄 真伊(ふぁん じに)」はその一人ですが、こういう人はとても少なかったのが現状で、これを朝鮮人は誇大に宣伝しておりますが、騙されてはいけません。日本人のなかには、このような朝鮮人・日本人の書いた書物などを読み、そのまま信じる人がとても多いのですが、考えなければなりません。 この「妓生」も李氏朝鮮時代が衰退するにつれ、単なる売春街になって行き、格式を失って行きました。 日本統治時代の直前には「賤民」―「官妓」は廃止されましたが、身分制度が廃止されたからといって正業につくことができたわけではありませんでした。人たちの差別意識がなくなったわけでもなく、また、他の職業に就くにも技術もなく、「私娼」になるしかありませんでした。 これに日本からの妓芸(芸者)制度、つまり「検番(妓芸の管理・玉代の精算・回収を行うもの)」制度が持ち込まれ、独自の管理妓芸(芸者)制度が確立して行きました。「妓生養成所」を設けたのもその一つです。 単なる売春街に陥っていた私娼街を管理することによって、街・店を清潔にし、性病などの病気から女性を守り、健全な?売春街を形成するように努力をしました。これはお客を多く呼ぶためのものではありましたが、そこで働く女性たちにも利益をもたらしたのです。 (62)妓 生(2) 健全な?売春街の形成は、朝鮮人にはなかなか受け入れられませんでした。それは費用がかかるからです。 警察もたびたび取締りを行いましたが、一掃することができず、不衛生・不健全の私娼街は残って行きました。 売春業者には悪徳な者も多く、特に管理されない私娼街に多く、日本人もおりましたが、朝鮮人がとても多かったのは事実です。 これについても、日本人業者が日本人のために朝鮮人を売春婦に仕立て上げたということが言われておりますが、そうではありません。日本人の芸者もたくさんおりましたし、朝鮮人業者が圧倒的に多く、お客も朝鮮人がこれまた圧倒的に多かったのです。朝鮮人だけが清廉潔白だったというわけではありません。 朝鮮人の女性を搾取したのは朝鮮人業者だったといえます。 さらに朝鮮人業者に良い(金儲けの)機会を与えたのが、<慰安婦>だったのです。朝鮮人業者は莫大な利益を手にしたことでしょう。戦地にももちろん<朝鮮人業者>が女性を伴って赴きました。現在、インドネシア・サイパンに残っている朝鮮人のなかにはこの業者およびその子孫が多くおります。彼らが母国に帰らなかったのは、報復を受けるからだと言われております。 利益を得たのは<朝鮮人業者>だけではありません。<慰安婦>だった朝鮮人も同じです。彼女らが搾取されていたわけではありません。 (63)妓 生(3) ところで<(従軍)慰安婦>と呼ばれた人たちは、この売春街の出身者がほとんどです。 町や村の娘たちを強制的に狩り立てたわけでもなく、また、町や村の娘たちがそのまま<(従軍)慰安婦>になったわけでもありません。いったん、<売春街>を経由しているのです。 当時の朝鮮の新聞には、売春勧誘?の広告が見られます。しかも、募集主のほとんどが朝鮮人業者だったのです。 こちらは、強制的<(従軍)慰安婦>だったと称している人たちの証言集を検証しましたが、内容がたびたび変わっていることから、信用できませんでした。 さらに検証を深めようと、彼女らの出身地などを調べたいと思いましたが、出身地を明らかにしている者が全くいないのです。これでは、出身地に行って当時の事情を聞くことが不可能です。 しかたなく、できるだけの多くの朝鮮人に、日本統治時代に女性を強制的に拉致して<(従軍)慰安婦>したことを実際に見聞したか、を尋ねましたが皆無でした。<(従軍)慰安婦>の強制的徴用があったと主張する人たちも当該<(従軍)慰安婦>以外に証言を全く見出せずに苦慮しております。今後もそのような証言を見出すことはできないと思います。また、<(従軍)慰安婦>だったと称する人も、「吉田清治」の証言も全く破綻してしまっております。 そこで、最近は、朝鮮人がどういう境遇であったにせよ、<(従軍)慰安婦>に仕立てたことは日本の悪行であったというように方針を変えて来ております。 韓国のソウルでは今でも「韓国挺身隊問題対策協議会」なる団体が毎週水曜日に日本大使館前で抗議集会を開いております。今では人数は10名前後に減っておりますが、何か問題がありますと人数が増えます。 これを見学したことがありますが、日本人女性が参加していたのには驚きました。 売春が朝鮮人の悪習であったことは、現在の韓国の売春街を一掃できないことから明らかです。これにつきましては<売春大国>で詳しく説明してありますから、ご覧ください。 (64)一衣帯水 奈良時代に朝鮮語が日本で通じた。万葉集などの古典が朝鮮語で読めた。 これを信じている日本人は、朝鮮語はできるのかしら? こういう朝鮮人は 日本語がわかるのかしら? この前もこのことを論じていたら、奈良時代は<渡来人>がたくさん日本に来ていたから、<朝鮮語>は一般的に通じていたという見解の人がおりましたが、これは誤りです。 渡来人も帰化し代を重ねると(多分、子や孫になると)、朝鮮語が覚束なくなり通事(通訳)が必要だったと思いますよ。 「蘇我」氏も渡来人だといわれておりますが、大和政権に登用されるころには、朝鮮語など忘れていたと確信します。 これには経験があります。日本の大学で教官(朝鮮系中国人)をやっている人の子供が小学校6年のときに来日し、現在高校1年生ですが、母国語の中国語はすでに覚束なくなり、朝鮮語も話すのはまだ大丈夫ですが、書く方はすでに覚束なくなっております。 したがって、中国に帰国しても学校の授業について行くことができないそうです。 日本に永住を決断したといいます。 来日してから4年ですよ。<在日朝鮮人>、二世、三世のほとんどは朝鮮語ができません。これが現実です。 言葉というものは使わなくなるとかようになる良い実例です。 ちろん、奈良時代にもこちらのような<朝鮮オタク>はいたでしょうし、来日 したばかりの渡来人もおりましたから、ほんの一部には朝鮮語が通じたとは思いますが、不自由なく、朝鮮語で意思が通じた、こういうことはありません。 こちらの経験からいっても、日本人と朝鮮人は何一つ似ているところがありません。 顔も違いますよ。こちらは日本で朝鮮人を見れば一目でわかります。性格は全く違います。 朝鮮人、顔が平ら、目が釣りあがっている。エラが張っている。顔が脂ぎっている。 日本人の顔とは全く違います。 性格は全く違います。 奈良時代にはすでに今のような日本人の顔ができあがっていたと考えられますから、渡来した<朝鮮人>、一目で朝鮮人とわかったと思います。 <一衣帯水>、朝鮮を全く知らない者の言い草です。 |