蟹工船、一九二八・三・一五


小林多喜二:「蟹工船、一九二八・三・一五」(改訂第1刷)、岩波文庫、'03を読む。プロレタリア文学の名品と日本史で学んでからもう半世紀以上経っている。彼の小説はなんとはなしに今まで敬遠してきた。著者の獄死におぞましさを感じるからである。でも書店店頭に再刊として出てくると、私は躊躇せず買ってしまった。
彼の獄死は、一九二八・三・一五に描かれたような、残虐・無惨な拷問による死亡であったらしい。小説には「警察では、(獄死を)その男が「自殺」したとか、きまってそういった。」とある。死に至らしめた特高課員とその上司がどんな処罰を受けたかは知らない。何の処罰もなかったか、あっても法治国家の体面を保つ上で最小限のおざなりな処置であったろう。特高は戦争が終わるまで国民の思想行動監視組織として民衆に恐れられた。この時代を扱った文芸作品には数え切れないほど特高の影が描かれている。再放映中の「おしん」の初恋の相手も追われる立場であった。有能な作家・小林多喜二の、これから脂が乗ろうとしている年齢(29歳)での、あまりにも若い憤死を思うとき、歯止めを持たぬ官僚組織の危険性を改めて思い知る。特高的機能の組織はどの国ににも存在する。だが民主主義国家ではその活動に対し外部評価機関が強力にブレーキとして機能する。イラク崩壊でフセインの恐怖政治が少しづつ明らかになってきた。思想犯取締についてイラクはどんな体制であったか纏めて知りたいと思う。北朝鮮ついても同様であるが、あまりにも秘密のベールが厚い。
1928年3月15日は日本共産党々員ほか社会運動にたずさわる人々の一斉検挙の日で、小説の舞台になった小樽では500人以上が検束された。登場する人々はそれぞれに実在のモデルがいるという。小樽の社会労働運動がどんなものであったかを、主役を置かず群像として捉えることで活写している。狂気じみた拷問の末、札幌裁判所へ予審送りとするとき、特高が急に親しげに丼などご馳走して、暗に予審で自白を覆すことのないように、釘を刺すあたりは印象的だった。
蟹工船はカムチャッカ蟹漁業の実体暴露と告発の書である。書かれた時期は一九二八・三・一五とほぼ同じ昭和の初期である。一口で云えば漁夫や雑役夫が一銭五厘的期間奴隷として、一冬通して命を懸けさせられるきつい労働の姿を、やはり群像として描いている。一銭五厘と言うのはずっとあとの二次大戦中の言葉で、兵隊の命の安さを表現している。国民は、一銭五厘の葉書である赤紙(召集令状)が来ると「陛下の御為に」軍隊に入隊せねばならなかった。小説は、操業を終えて船が日本に帰る頃には、労働者意識に芽生えた連中が、挫折を繰り返しながらも、次第に団結して行く姿を描写して話が終わる。
蟹工船なんて私には未知の世界である。だからそれ自体が面白い。日露戦争で使い物にならぬボロ船になり、20年も係留されていた船が蟹資源発見で現役に復帰した。舞台の博光丸は3000トンという。何隻かが船団を組む。それに1隻の駆逐艦が付いて行く。ソ連の監視船に対する監視役である。船は基地の函館から稚内を回ってオーツク海を乗り切り、カムチャッカ半島西岸のソ連領海すれすれで操業する。不漁が続くと監視の目をかすめて領内の蟹を追いかける。蟹漁は川崎船を3-4艘下ろして行う。川崎船とは小型漁船を意味するようだ。水揚げされた蟹は蟹工船内で缶詰となる。2ヶ月もすると中積船が国の便りを運んでくる。戻り船には蟹缶が山のように積まれる。
船の組織にも驚かされる。船長は看板で、実質の航海指揮権は監督とその下の雑夫長が握っている。船長はお雇いで、監督が会社のお目付というわけだ。領海侵入で運悪く拿捕されると「看板」が役に立つ。名目上の最高責任者だからである。一旦出航してしまうと船内は治外法権域で、ピストルを下げた監督が勝手気ままに制裁を行う。リンチで死ぬ雑夫が描かれている。蟹工船は「工船」であって「航船」ではない、だから航海法の適用はない、しかし工場法の適用も受けていないとある。芝浦の工場にいたことがある漁夫の述懐が出ている。昭和初期になると、東京や大阪の大都市近辺では、労働環境も曲がりなりに改善されつつあったようだ。この小説は工場法改正法が施行された頃に書かれている。世界水準からはまだ遠いが、労働者酷使(小説には「虐使」と表現している。)に最低限度の枠組みは作っている。しかし工場法すら監視制度はザルで、全般に奴隷搾取的労働が相変わらず横行していたことが人々の雑談に出てくる。
「国道開拓」「鉄道敷設」の蛸部屋から逃げた土工に対するリンチのすざましさ、目に見えて身体がおかしくなってゆく石炭鉱山の坑夫の話、夕張炭坑にいた坑夫はヤマのガス爆発を食らったが運良く一命を取り留め坑夫を止めたという、餓死と隣り合わせでやっと開拓に成功しても結局は土地を取られてしまう北海道の「入地百姓」、それから少女時代の「おしん」家そっくりな家庭事情の百姓も出てくる。函館の蟹工船には秋田、青森、岩手の北東北からの出稼ぎ百姓が多かったらしい。
現代の働き盛りから見れば、昭和の初期は祖父母、曾祖父母が現役であった時代である。「昭和のドキュメンタリー映像」的なTV番組で、記録内容が豊かになり始める時代である。しかし小林多喜二が取り上げた底辺をうごめいた階層の記録は映像には勿論、文字にも殆ど現れない。彼の目は資本家に対する共産主義者という立場だから、資本主義の陰鬱な影にばかりに焦点を合わせていると云えなくもないだろうが、時代の優れた証言であることはその後の日本の歴史が「遺憾ながら」証明してしまった。彼がせめてあと10年生きていたらと官憲による虐殺に改めて怒りを憶える。

('03/08/11)