●ユダヤには古くから『ゴールデン・ブック(金欄簿)』と『シルバー・ブック(銀欄簿)』の2種類のブックがあって、前者のブックには同族(ユダヤ人)の出身で世界的に傑出した人物の名を代々登録し、後者のブックにはユダヤのために貢献した第三国(ユダヤ人以外の人々)の名をそれぞれ登録して、その功績を永遠に顕彰するというのである。この登録によって、全ユダヤから永遠に感謝と敬慕を受けることになり、非常な名誉とされている。それは単にノーベル賞などの如く現界的栄誉にとどまらず、神聖な「神の記録」の如く扱われるところに大きな特徴が見られる。
●日本人でこのブックに登録された者が3人いると言われている。その1人は、元陸軍大佐で陸軍の「ユダヤ問題専門家」の安江仙弘氏である。彼は格別の貢献があって、ユダヤ人しか登録されないはずの『ゴールデン・ブック』に登録された唯一の外国人(日本人)である。
●次は元陸軍中将の樋口季一郎氏である。彼は元イギリス外務大臣バルフォア卿の次に『シルバー・ブック』に記載された人である。
あと一人は民間人だと言われているが、残念ながらその氏名は知られていない。● 更に、元海軍大佐で海軍の「ユダヤ問題専門家」の犬塚惟重氏も『ゴールデン・ブック』に記録される予告を受けたそうだが、当人は辞退したという。
その後もいろいろな形で犬塚氏の功績を顕彰する計画がユダヤ人の間で行なわれたが、当人がこれを受けなかったので、のちにアメリカのユダヤ教会から、氏のユダヤに対する功労を讃えて彫刻した「銀製煙草入ケース」を贈られ、彼は大切にそれを保存していたという。●以下に、ユダヤ最高名誉に輝いた海軍と陸軍の「ユダヤ問題専門家」の略歴を記載しておく。こういった日本人がいたことを、どのくらいの人が知っているだろうか。(学校じゃ教えにくい面々であることは確かだ)
なお、「日ユ懇談会」や『ゴールデン・ブック』などの存在をもっと詳細に知りたい方は、三村三郎著『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(八幡書店・\4800)などを参照されるとよいだろう。
<1890〜1965>
しかし、満州にヨーロッパからのユダヤ避難民が押し寄せると、退役して、上海を拠点にユダヤ問題の処理に当たる。そしてその後、現役に復帰し、戦後は「日ユ懇談会」の会長を務める一方、日ユ同祖論の研究を深化させた。 『ゴールデン・ブック』への記載を丁寧に辞退。
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<1888〜1945>
1927年、ユダヤ研究が認められ、実地研究のため陸軍省からヨーロッパへ派遣され、パレスチナを主として各国のユダヤ機関を歴訪し、各地のユダヤ人と親交を結んで翌年帰国した。有名な日ユ同祖論者である酒井勝軍(かつとき)がパレスチナまで同行したのはこの時のこと。酒井との付き合いもあり、反ユから親ユに変わった。 1935年2月、ハルピンにおいて「極東ユダヤ人会議」の議長カウフマン博士及び幹部たちとの協議の結果、日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体として「世界民族文化協会」を創立し、医学博士の磯部検三氏を顧問とし自ら会長となって、「日ユ親善運動」のために活躍した。 1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、資金の移動を禁止されて苦難に陥ったユダヤ系商社に対して金融を斡旋したり、あるいはユダヤ避難民の救済など、当時極東におけるユダヤ人の諸問題に対して実際的な援助をしてきたため、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。 1940年10月、当時の軍中央部の方針と意見が合わず、予備役に編入されたが、翌1941年、多年にわたるユダヤ民族に対する功労により、ユダヤ民族の最高の栄誉たる『ゴールデン・ブック』にその名を永遠に記載された。 当時の「世界ユダヤ人会議」の代表はM・ウスイシキン博士で、同博士がこれに署名し、その授与式が同年11月1日ハルピンのモデル・ハウスにおいて、数百名のユダヤ人列席のもとに挙行されたと伝えられている。 彼はその後も、ユダヤ人保護に尽力するが、戦後シベリアに抑留され死去した。
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