17世紀に身を置き18世紀を支配した人
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アメリカでは毎年と言っていいほど、銃の乱射による事件が後を立たない。
昨年の4月にバージニア工科大学で起きた銃による乱射では、32人もの教員や学生たちが殺された。また今から8年前に起きたコロラド州立高校の銃乱射を覚えている読者も多いだろう。
大規模な乱射事件が起きるたびに、アメリカ国内では銃の規制を立法化しようという声が上がるが、いつのまにかそれらの運動が中途半端に終わってしまう。
「アメリカ人ってなんて野蛮な人種なんだ!」って思われる読者も多いだろう。あるいは銃規制に反対する全米ライフル協会は、「なんて力のある圧力団体なんだ!」って思われている読者もいるかもしれない。
ところが、この銃規制が進展しない本当の理由はもっと別のところにある。
このことを知っている日本人って案外少ないのではないだろうか。
アメリカが銃規制を断行できない理由は、銃規制が民主主義の根幹にかかわる問題だからなのである。
「えっ!なんで平和な民主主義が銃と関係あるの???」って思われる読者も多いと思う。
そう思われて当然である。というのは、
我々日本人が学校で教わってきた民主主義と、アメリカ国民が学校で学んできた民主主義がまったく違うからなのである。
端的に言うと我々日本人に見える民主主義の風景とアメリカ国民に見えている民主主義の風景が違うのである。
ちょっとむつかしいと思うので、たとえをつかって説明しよう。
たとえば、健康。
我々は健康というと、あたかも健康という「物」が存在しているように考えがちであるが、健康という「物」が存在しているわけではない。
健康をどのようなものであるかという捕らえ方、考え方なのである。
健康の見方には二通りあると思う。
一つは外側から見た健康。
顔色が良く、元気ハツラツで、ご飯もおいしく食べられる。身体のどこにも痛くはなく、自由に動かすことができる。このような状態を外から見て、健康の存在を実感する人もいるであろう。いわば外面から見た健康である。
これと同様に、日本人は外側から見た「状態」として民主主義をとらえる。
憲法が存在し、司法、行政、立法の三権に権力が分離され、普通選挙が行われて、、国民が選んだ人たちによって国会で法律が作られていれば、民主主義の国家であると日本人は考える。
もう一つの見方は、内側から見た健康である。
健康というのは、外側から見ただけではわからない。元気ハツラツで顔色も良く、ご飯もおいしく食べられたとしても、ひょっとしたら身体の内側では、脂肪が内臓にびっしりとへばり付き、高血圧で、血はドロドロになっているかもしれない。こんな状態であれば、けっして健康とは言えないだろう。適度な運動をして節制をこころがけ、適度な体重を維持し、体内では血がサラサラに流れて、はじめて健康と言える。その結果として、外側からみた血色の良さや、元気ハツラツで、おいしく何でも食べられるということなのである。
アメリカ国民の民主主義の見方はこれに近い。
アメリカ国民は民主主義を内側から見る教育を受けてきているのである。それはずばり言うと、民主主義の精神を学ぶということである。
アメリカ国民は民主主義の精神が国民一人ひとりに行き渡り、各個人がそれにしたがって行動することにより、はじめて健全な民主主義の社会が実現されると思っている。
彼らはその結果として、憲法や三権分立や議会政治があると考えているのである。
だからアメリカ国民は、議会のシステムや憲法、選挙制度といったことを学ぶ前に、民主主義のバックボーンにある思想や、民主主義社会にいたる歴史といったことを学ぶことがより重要だと思っている。
日本の民主主義とアメリカ合衆国の民主主義は表面上は似ているが、アメリカ国民にはあるべき姿の民主主義の風景が我々日本人とはまったく違って見えているのである。銃規制ひとつをとっても、日本人とアメリカ国民の民主主義の考え方が違うのは当然のことなのかもしれない。
我々日本人は高校生のころに、倫理社会(いまはこう言わないのかな?)で、日本国憲法や国会のシステム、三権分立の制度などを学ぶ。わずか5~6時間の授業でこれらのことを学習し、これが民主主義のすべてだと思っている。
片やアメリカ国民は、民主主義の精神がすべての国民に行き渡らせなければならないと思っている。だから彼らは小さい頃から歴史の中から民主主義の思想の変遷を教え、民主主義の精神を心の奥深くに植え込もうとする。
アメリカ国民が学校で子供たちに費(つい)やす民主主義教育の時間は日本の比ではない。
オジサンのブログ記事「歯止め」でも紹介したが、アメリカ国民は子供たちが幼稚園にあがる年齢になると、民主主義の思想が凝縮されているリンカーンのゲティスバーグの演説や、トーマス・ジェファーソンの独立宣言書などを暗唱させられる。そして高校生になるまで、ヨーロッパの民主主義にいたる歴史や、独立戦争における歴史を徹底的に繰り返し教えるのである。そうすることによって子供たちに民主主義の精神を注入していく。
アメリカ国民は、国民一人ひとりに民主主義の精神が根付くことによって、民主主義社会が健全に維持されていくと考えているのだ。
アメリカの大学には初等科の数学のコースがあるという。
大学に入学したばかりの生徒の中には簡単な代数の計算すらできない学生がいる。初等科の数学コースはそれを補うためのカリキュラムである。アメリカでは小学校、中学校、高校の算数や読み書きの時間を削ってでも、この民主主義の歴史を教えるためにこのような学力不足の生徒たちがでてきてしまうからだ。それくらい彼らは民主主義教育に時間をかけるのである。
以前、「徘徊する怪物」というオジサンのブログ記事に、アノーピさんというアメリカに在住の日本人の方からコメントをいただいたことがあった。アノーピさんにはハイスクールに通う息子さんがおり、息子さんは三権分立を提唱したモンテスキューの「法の精神」を学校の授業で読んでいるとおっしゃっていた。
日本ではモンテスキューは、「モンテスキュー」 → 「法の精神」 → 「三権分立」 という具合に、言葉の連想ゲーム的程度にしか学校で教えないと思う。「法の精神」を読ませる学校はほとんどないのではないだろうか。そんなに詳しくつっこんだら、日本では広く浅く知識を求められる穴埋め形式の大学入学試験に合格しなくなってしまうからだ。
アノーピさんがおっしゃるには、息子さんの民主主義教育はそれだけではない。民主主義の重要性を学ぶために、第二次世界大戦で命をかけて戦い、民主主義を守り抜いた退役軍人の慰問もしていると教えていただいた。このようにアメリカでは、日本では考えられないような膨大な時間をかけて、歴史の中から子供たちに民主主義の精神を教えるのである。
これはオジサンの経験からであるが、不思議なことに我々日本人であっても、彼らのように民主主義を民主主義の精神の中でとらえるようにすると、民主主義というものがまったく違って見えてくるのである。
このような民主主義の捕らえ方をすると、銃規制の問題だけでなくアメリカという国がいま世界でどのようなことをしようとしているかが見えてくる。それだけではない。今日本で起きている不祥事などが、実は民主主義の根底を揺るがす重大な問題であることがわかってくる。現在の日本は憲法を持ち、三権分立がなされ、議会政治が行われており、表面上は民主主義国家のように見えるが、実際には内側に流れる血液はドロドロで、内臓には脂肪がびっしり張り付いて、メタボリック症候群に陥っていることに気付くはずだ。
そこで本日は、みなさんといっしょに、アメリカ国民と同じように民主主義を民主主義の精神の中で見ていきたいと思う。
これによっておそらく皆さんにもアメリカ国民と同じ民主主義の風景が見えてくるだろうと思う。
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民主主義の精神がもっとも発揮された時代は、偉大なジョージ・ワシントンと建国の父たちが起こしたアメリカ独立戦争のときである。
だからアメリカ国民はこの時代の歴史を学校で何度となく繰り返し教わるのである。
このころのヨーロッパの国々の王様は強大な権力を持っており、絶対主義と呼ばれた時代であった。17世紀のイギリスの政治哲学者、トーマス・ホッブズはこの権力を聖書のヨブ記にでてくる伝説の怪物、リバイアサンにたとえるほど、当時の王様は強大な権力を持っていた。アメリカ13州はこの強大な権力を持っていた王様から独立を勝ち取ったのである。
民主主義の精神とはなにかをお話する前に、予備知識として、中世の後半から近代の初期までのヨーロッパの歴史の中で、このリバイアサンとも言える強大な権力者がどのように登場してきたかを簡単におさらいしておこう。
えっ、歴史は苦手だって!
大丈夫。オジサンも高校生のころは暗記科目が苦手で、特に歴史は及第点ギリギリだった。
大学入試に合格するためには細かなことを知らなければならないかもしれないが、民主主義のバックボーンを知るためには、そのように重箱の隅をつっつく必要はない。大きな流れを物語のように覚えておけばそれで十分。
それでは中世後半から近代初期までの歴史の物語を語ろう。
ローマ帝国が崩壊したあとのヨーロッパは分裂し、封建領主といわれる非常に多くの権力者たちが群雄割拠していた。そしてその封建領主のためにヨーロッパの人口の九割以上を占める農奴と呼ばれる人たちが土地を耕して農作物を作っていた。
農奴という言葉は世界史の授業で聞いたことがあると思うが、ほとんどの人たちが、農奴とは単純に農業をする奴隷と思っているのではないだろうか。農奴と奴隷は同じではない。
ここでちょっとアメリカに存在した奴隷と中世ヨーロッパの農奴との違いを述べておこう。
実はこの違いがあとになって歴史の流れの中で大きな意味を持ってくるからだ。
アメリカにいた奴隷は家畜と同じだと見なされていた。
だから主人は奴隷たちを意のままに扱うことができた。必要なければ売り払っても良いし、処分しても良かった。1980年代に50%という驚異の高視聴率をあげたルーツというドラマがあった。著者アレックス・ヘイリー氏の自伝的小説をドラマ化したものであった。オジサンと同じ年代か、あるいはそれ以上の世代であれば覚えているかもしれない。アレックス・ヘイリー氏の先祖であるクンタキンテという黒人が、西アフリカで奴隷商人たちに拉致されアメリカに連れてこられ、ある農園主に売られた。クンタキンテはキンテ族の王子で誇り高き戦士であった。奴隷である身分に耐えられず何度か脱走を企てるがいずれも失敗してしまう。そして農園主はこれ以上逃亡を企てないように、クンタキンテの片方の足の甲を切り落としてしまったのだ。こうしてクンタキンテは自由になることを諦め、奴隷として農園で働かなければならなくなってしまった。
その後、クンタキンテは種の保存のために、同じ農園で働く奴隷の女性となかば強制的に結婚させられ、そして女の子が生まれた。こうして奴隷の身ではありながら、愛する妻と娘の3人の幸せな生活を送ることになった。ところがその幸せな生活も長くは続かなかった。娘が成長し働ける年頃になると、農園主はクンタキンテ夫婦から娘を引き離し、市場で売ってしまったのである。
「なんてひどいことを!」って、多くの皆さんは思われるかもしれない。
しかし当時のアメリカでは、このような人身売買を非人道的と思う人はほとんどいなかったのである。
奴隷は家畜として見なされ、人としての一切の権利を持っていなかったからだ。
生まれたばかりの子犬や子猫を親から引き離して、ペットショップで売る感覚だったのである。皆さんもペットショップで売られている子犬や子猫を見て、「かわいい!」って思うことはあっても、「親から引き離されてかわいそう!」とは思わないでしょう。この当時のアメリカも同じ。奴隷が市場で売られても、それを哀れに思う人たちはほとんどいなかったのである。(もっとも現在のアメリカの多くの州では動物虐待であるということで、生まれたばかりの子犬や子猫を親から離してペットショップで販売することは禁じられている。いずれ近い将来に日本でも動物愛護の観点から子犬や子猫のペットショップ販売は禁止されるかもしれないが…)
ヨーロッパの農奴たちも不自由な身分であった。
土地に縛り付けられていたのである。
「お隣の封建領主様の方がやさしい!」からっていって、農奴たちは勝手に他の土地に行って働くことは認められていなかった。アメリカの奴隷たちと同様に農奴は封建領主の所有物であったのである。
ところがヨーロッパの農奴たちにはいくつかの権利が認められていた。
そのひとつは家族をばら売りされないということだった。
アメリカ開拓時代の奴隷にとってもっともつらいことは、愛する家族を引き離されることであった。だから南北戦争後、奴隷たちが悲惨な境遇(奴隷解放宣言のあとでも、元奴隷の地位向上政策は20世紀になるまで行われなかったため)の中で、彼らがまっさきにやったことは引き離された家族を捜し出すことであった。。
それに比べると、ヨーロッパの農奴たちは恵まれていた。
ヨーロッパの農奴たちはあくまで土地とセットと考えられていたので、封建領主であっても農奴たちの家族をばら売りすることはできなかったのである。もし封建領主がどうしても農奴を他の領主へ売らなけれっばならない場合は、土地と農奴の家族をセットで売らなければならなかった。
また、農奴たちは地代として収穫物の何割を封建領主に納めるというように決められていたので、残った収穫物を農奴たちは自由に処分することができた。
アメリカのまったく不自由な奴隷と違い、このように農奴たちには上記の権利が認められていたのであるが、このことがいずれヨーロッパの歴史を動かしていく要因の一つとなるので、こころに留めておこう。
さて、話しを封建領主にもどそう。
非常に多くの封建領主たちは限られたヨーロッパという土地の中でひしめき合っていたいたため、封建領主たち同士の争いごとが絶えなかった。
「隣の封建領主のところの家畜がオレのところの牧草を食べちゃう!」、「隣の封建領主のところを流れる川を堰き止めたので、オレのところに水が流れてこない!」なんて問題が起きていた。
ところがそれらの問題を仲裁してくれる人がいないので、即、実力行使にでたため、しょっちゅう戦争があちこちで起きていた。
そこで封建領主たちは彼らの中で力のある人を仲裁役として選ぶようになってきた。これがいずれ王様となり、封建領主は貴族となって王国を形成して行ったのである。
王様というと、皆さんは非常に強い権力を持った人と思われるかもしれないが、中世の王様はとても弱い立場にあった。ホッブズが言ったリバイアサンからはかけ離れた存在であった。なぜかというと、もともと王様は強い武力で周りの封建領主たちを力ずくでねじ伏せて王様になったわけではない。封建領主たちの中でちょっと大きめな荘園を持っている人が王様として選ばれたからだ。いわば村の庄屋さんのような立場であった。
王様と領主たちは主従関係を結ぶのであるが、この王様と家来の関係は、日本の戦国時代や江戸時代の殿様と家来の関係とは違っていた。
ヨーロッパの王様と家来である領主たちの関係は契約に基づいていた。
日本人の感覚からするとちょっと奇妙に思えるかもしれない。
彼らは詳細に記した契約書を作った。
たとえば、税金としての年貢は出来高の何割とか、戦争になったときは何人の兵隊を出すとか、こと細かに規定されていた。
だから、王様がお隣の王国と戦争をして、「あとちょっと家来が多く兵隊を出してくれれば勝てるのに~!」って思っても、契約以上の人数の兵隊を家来たちに要求することができなかった。あるいは王様の娘が結婚するので、「豪勢な結婚式をしてあげたいのだけど、家来たちはもうちょっと税金を払ってくれないかな~」って思っても、契約以上の税金を徴収することはできなかったのである。このように王様の権力は限られたものであった。
ところで王様と家来の関係が契約によると聞くと、「中世の時代の主従関係はずいぶんドライだったんだなぁ」って思う人がいるかもしれない。
しかし彼らの契約は必ず守られたということを記憶しておこう。
中世ヨーロッパには騎士道というものがあった。この騎士道とは契約によって決められたことはきっちりと履行するということである。ある意味では日本の武士道より信頼できるものかもしれない。
たとえばあだ討ち。
王様と家来の契約にあだ討ち条項があれば、王様が何者かに殺害されたとき、家来は必ずあだ討ちをおこなったのである。それに比べて日本では、戦国時代に主君を裏切って敵方につくことは日常茶飯事だった。日本の歴史上主君のあだ討ちをした例はわずかに二つ。忠臣蔵の赤穂浪士たちと織田信長のあだを討った豊富秀吉だけである。肉親のあだ討ちは数多くあったが、主君のあだをうつことは非常にめずらしいので後世に語り継がれる美談となった。
だから中世の主従関係は契約によって成り立っていたが、けっして希薄な関係ではなかったのである。
余談になるが、この契約という概念はじつは聖書からきている。
キリスト教の聖書をいままで読んだことがない読者の方たちは、聖書には人生の示唆に富んだ話や、愛に満ちた心やすらぐお話といった、ありがた~い言葉が書かれていると思っているのではないだろうか。
それはまったくの誤解である。
聖書は神様と人間の契約書なのである。
旧約聖書、新約聖書の「約」とは、契約のことを表している。旧訳聖書、新訳聖書ではないことにご注意。
特に旧約聖書の中ではこと細かに、神様が人間たちにしなければならないことを預言者を通して書いているのである。「出エジプト記」、「申命記」、「レビ記」といった章を読んでいただければわかるのであるが、祭壇の寸法から着る物、普段の生活の仕方から食べ物にいたるまで、やっていいこととやってはならないことを神様はビックリするくらい詳細に規定している。神様との契約とは、それらの言いつけを守れば神様は永遠の繁栄を保証してくれるが、その言いつけを守らない場合は、罰則として、一族の滅亡をもたらすというものである。
旧約聖書にはとくに古代イスラエルの民が神様との契約を破ったため、悲惨な歴史を歩まなければならなかったことが、これでもかこれでもかというくらいに書かれている。そのためヨーロッパの人々には、契約を守らないとどんなに恐ろしいことが起こるということが脳裏に焼きついたのである。
だからヨーロッパでは、単に人間同士の間に契約の概念が広がっただけでなく、
契約は絶対に守られなければならない、
という契約の絶対性が根付いたのである。そしてこの契約の絶対性が近代にはいって資本主義を生み出す土壌になっていくのである。このことはいずれ宗教ブログに戻したときにまたくわしくお話したいと思う。
さて、中世の王様と家来の関係はこのように契約に基づいた関係で、王様であっても強い権力を持っていなかった。
しかもこの時代のヨーロッパには伝統主義というものがあった。これは過去の習慣、風習は良くても悪くても、かならず守られなければならないというものである。このころになると、王様と貴族たちは定期的な会合を持っていた。これが後に議会となっていくわけであるが、そこでは新しい法律を作るわけでなく、過去の習慣や風習を確認しあう場で、法律は歴史の中から発見するものであったのである。だから当時の王様は会合(議会)でいつも貴族の不満と伝統主義の板ばさみに苦しんでいた。中世の王様はこのように中間管理職のような立場で、ホッブズがリバイアサンと呼んだ絶対的な権力を持つ王様とはかけ離れた存在だった。
ところが永遠に続くかと思われたこの中世の時代を、近代へ大きく動かす出来事がいくつか起きた。
ひとつは14世紀の中ごろに起きた黒死病(ペスト)の流行である。
黒死病は瞬(またた)く間にヨーロッパ中に広まり、多くの人々が死んだのである。この黒死病によりヨーロッパの人口の四分の一から三分の一が減ったと言われている。
この人口激減は結果として農奴の立場を強くすることになった。
封建領主たちは領地内で農奴が働いてくれないと食べていけないのであるが、農奴の人口が減ったため、農奴の機嫌を取らなければならなくなった。「少ない人数で悪いけど、もうちょっと残業して働いてくれないかな?」とかなんとかソフトに言って手なずけようとしたが、「じゃ、年貢の割合を下げろ!」って感じで、農奴たちは地代の引き下げなどを交渉し、相対的に封建領主たちの力は衰えていった。
もうひとつの出来事は11世紀ころから始まった数回の十字軍遠征である。
皆さんも学校の歴史で習ったと思うが、ヨーロッパ諸国はキリスト教の聖地であるエルサレムの奪還を目的に、トルコ帝国に軍隊を送り込んだのである。そこでヨーロッパ諸国が出会ったのはイスラム世界の圧倒的な文化の高さであった。もともと中近東にはギリシャ哲学が継承され、医学、数学、天文学などが発達していた。またトルコ帝国は世界貿易で栄えており、遠く中国の絹織物やインドの香辛料、あるいは美しい陶器などが持ち込まれていた。ヨーロッパ諸国の驚きは、あたかもブッシュマンがニューヨークへ来たときと同じ衝撃を受けたに違いない(この例えちょっ~と古いかな?)。そのようなわけで、十字軍が戦利品として持ち帰ったそれらの高い文化の品々はヨーロッパで珍重されたのである。
当然のことながらやがて、ヨーロッパの商人たちがアラブ諸国へ訪れるようになり、中東貿易が盛んになった。
そして貨幣経済が発達したのである。
この貨幣経済の発達は中世のヨーロッパを大きく変えることになった。
まずこの貨幣経済は、黒死病の流行により、相対的に立場の良くなった農奴たちに追い風となった。
いままで年貢を払ったあとの収穫物は、農奴たちが自由に処分できたのであるが、物々交換経済では、蓄積ができなかった(キャベツを蓄積しても腐っちゃうでしょう~♪)。貨幣経済の普及により農奴たちは貨幣によって富を蓄積することがはじめて可能となったのである。また農奴の中には商才に長けた者がいて、市場の価格が上がるまで待って農作物を売るようになり、大もうけをする農奴もいた。そして稼いだ貨幣を封建領主に渡して、自由になる農奴も現れてきた。
このようにして、封建領主たちは没落し、中世の封建制度が崩れていったのである。
この貨幣経済の発達によってもっとも恩恵を受けたのは王様だった。
もちろん王様も、元は封建領主のひとりであるので、黒死病の流行や貨幣経済による領土内の農奴たちの独立の被害をこうむった。しかしその損失を補ってなお有り余る恩恵があったのである。
それは貨幣経済の発達にともない財力を持った商人たちをバックに付けることが出来たからである。
当時は山賊や海賊がウヨウヨいた。
13世紀の後半にベネチアの商人マルコポーロは、法王の親善大使としてモンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンを訪れた。17年間皇帝フビライに仕えたあと、マルコポーロがイタリアに戻るとき、フビライは黄金や絹織などの土産を持たせ、4艘の船と600人のクルーでマルコポーロを送り出した。
18ヵ月後にイタリアについたマルコポーロは悲惨なものであった。
帰路の途中で海賊や山賊に遭い、生き残った者はわずかに18人。黄金や絹織物はもとより、着ぐるみはがされ、乞食のようにボロ布をまとった状態でベネチアにやっとのことでたどり着けたのであった。
こんな具合に、ヨーロッパの商人たちは中近東への旅路で山賊や海賊の被害にあっていた。
封建領主たちは山賊や海賊を取り締まってはくれなかった。もともと封建領主たちは戦時中に雇う兵隊は、山賊や海賊出身者が多かったからだ。中世の軍隊は平時は山賊や海賊をして生計を立てていたのである。だから封建領主たちは最初から山賊や海賊を取り締まろうなんて思っていなかった。
そこでヨーロッパの商人たちは王様に保護を求めたのである。
「王様、どうぞ私たちの通商の安全を保障して下さい」とかなんとか言って、商人たちは王様にお金を献上した。
議会でいつも小うるさいことを言ってくる憎き封建領主たちが没落していく様を、「いい気味だ!」って思っていた王様は、この商人たちの申し出に飛びついた。
そして王様は商人たちの中東貿易の安全を守るために、商人たちから受けたお金で多くの兵隊を雇ったのである。
これが常備軍である。
当時の王様のみが財力を持った商人たちを味方につけ常備軍を持ったことの意義は大きい。これによって権力基盤が確固たるものになったからである。
皆さんも歴史の授業で「常備軍」という言葉は何度か聞いたことがあるでしょう。
でも、この常備軍を持つことの重要性は学校でくわしく習わなかったのではないだろうか。そこでもうちょっと常備軍を持つことの意義を補足しておこう。
常備軍を持つことの重要性は、織田信長の例を挙げればわかりやすいと思う。
信長が戦国時代に天下を取れたのは、戦国武将で彼のみが常備軍を持ったからである。
中世のヨーロッパも日本の戦国時代も、富の源泉は土地だと思われていた。当時は通貨も流通していたが、多くの武士たちは農作物や米を生産できる土地をほしがった。だからお殿様は軍功のあった武将たちに土地を与え、武将たちは平時はその与えらた土地を耕して米などを作っていた。
戦国武将たちは百姓を兼務していたのである。
戦(いくさ)の時にのみ、クワやスキを刀にかえて出陣していた。
つまり当時の戦国武将たちは戦のプロとは言いがたかった。
これは勇猛で名高い武田軍も同じだった。
だから戦国大名たちは、戦功をあげた部下たちに与える土地を確保するために、つねに領土拡大に血眼になっていた。
そんな戦国大名たちの中で信長のみが土地にこだわらなかった。
彼は貨幣が将来、大きな富の源泉になることを見通していた。
そこで信長は商人たちを保護し、楽市、楽座の制度によってさかんに商業を奨励した。これによって貨幣経済が発達し、堺の町などは栄えたのである。
信長は豊富な財力を持った商人たちに献金させ、そのカネで軍隊のための兵士を雇ったのである。
信長の兵隊たちは土地を与えられたわけではないので、百姓仕事をする必要がなく、平時から戦の研究をし、かつ訓練をしていた。
つまり信長の持っていた軍隊はプロの軍隊だったのである。
プロとアマチュアの差は大きい。
このことを如実に証明したのが天下に最も近い戦国大名と言われていた今川義元との戦であった。
史上名高い「桶狭間の戦い」は、今川軍2万5千人に対し、信長軍はわずか数千人。
でも結果は、今川義元は首を取られ、信長軍の圧勝であった。
これほどまでにプロとアマの力の差は大きい。
人数的に十数倍の規模を持つ今川軍に信長が勝てた理由は、桶狭間で信長軍が今川軍に奇襲をかけたからだという説がある。それは歴史の事実かもしれないが、その背後にある歴史の真実をつかんでいない。信長の軍隊が平時に訓練をしているプロフェッショナルの集団であったからこそ、綿密な奇襲作戦を立て、迅速にそれを遂行できたと見るべきなのである。
社会人野球の優勝チームがプロ野球のどん尻のチーム(楽天?)と試合をしてもかなわないだろう。(たぶん…汗…野村監督頑張ってぇ~!!!)
中世の王様の軍隊も同じであった。
封建領主がそれまで雇っていた兵隊たちは、平時は百姓をしているか、あるいは山賊や海賊をしているならず者で、いざ戦(いくさ)になったときに統制が取れていなかった。それに比べて中世の王様の軍隊はプロフェッショナル。
王様の軍隊は封建領主たちが束になってもかなわない軍隊になったのである。
中世という時代に、商人たちの財力と圧倒的な軍事力を王様が手に入れたことは、大きな権力を手に入れたことを意味する。
ここでちょっと簡単に権力とは何かを補足しておこう。それによって当時の王様がどれほどの権力を持ったかがわかるからだ。
権力とは他者に対して支配し服従させる力を言う。
だからなにも権力とは国家のみが持つものではない。我々の日常にも権力は存在する。たとえば会社の上司は部下に対して業務に関し、支配し服従させることができるから、権力を持っていると言える。また親は小さな子供に対して親の言いつけとおりにさせることができるので、親は子供に対して権力を持っている。
それではこの他者を支配することのできる力の源泉はなにか?
このことを非常によく分析したのが、社会学者のアルビン・トフラー氏である。アルビン・トフラー氏によると、権力の源泉は3つに分けられるという。それをもっともよく説明しているのは三種の神器である。
三種の神器とは、テレビ、洗濯機、冷蔵庫のことではありませんぞ。それは日本の高度経済成長期の家電の三種の神器。念のため。
トフラー氏のいう三種の神器とは、本当の三種の神器。天皇家に代々伝わる三種の神器のことである。
天皇家の三種の神器とは、剣(つるぎ)、宝石、鏡のことである。
この三種の神器は、天皇陛下が崩御されるたびに、次の天皇陛下に譲り渡されるものである。昭和の天皇が崩御されたときも、宮中ですみやかに三種の神器の譲渡の儀式が行われ、平成の天皇へと受け継がれている。
実はこれはあまり日本人にも知られていないかもしれないが、この三種の神器は権力を象徴しているのである。つまり三種の神器の受け渡しは、崩御された天皇から次の天皇への権力の譲り渡しの儀式なのである。
三種の神器の剣、宝石、鏡はそれぞれ、物理的な力(暴力)、財力、知力を表している。そしてこの暴力、財力、知力こそ権力の源(みなもと)なのである。
こういうと皆さんも思い当たることがあると思う。皆さんの周りにいる権力を持った人たちというのは上記の三つの権力の源泉を1つ以上持っている人たちなのである。
ガキ大将がなぜ下の者を従わせることができるかというと、他の者たちより大きな腕力(暴力)を持っているからなのである。また親は小さな子供より大きな腕力、財力、知力を持っているから、子供を従わせることができるのだ。
国家はなぜ権力を持っているかいうと、警察という暴力装置を持っているからなのである。法に従わないものは、暴力という力によって強制的に人々を従わせることができるのである。
ところでトフラー氏によれば、この権力の源は時代とともにその重要性が、
暴力→財力→知力
というように移行していくという。
古代の時代では、権力の源泉は暴力であった。腕力の強い者にはより大きな権力があった。喧嘩や戦(いくさ)の強い、屈強な身体を持った男がリーダーになったのである。
ところが時代が変わり、産業革命がおこり、通貨が流通するようになると、腕力を持った者より財力を持った者が権力を握るようになった。銀行業を起こした中世ヨーロッパのフッガー家やメジチ家などは、一族の中から法王になる者やヨーロッパの国王になる者を輩出するほどの力を持っていた。
そして現代のコンピュータの登場により権力が新たな段階へ移行した。
大きな知力を持った者が大きな権力を握るようになってきたのである。
このことを象徴しているのが、ビル・ゲイツのマイクロソフトだ。
オジサンはコンピュータ音痴なので、皆さんの方が詳しいと思うが、マイクロソフトはウインドウズというコンピュータの基本ソフトを作っている会社である。工場を持たずプログラムを作る技術者たちの集まった会社であった。彼らはソフトを作りコンピュータ・メーカーへそのソフトを納める下請け業者のひとつであった。だから本来はコンピュータ・メーカーは顧客でありマイクロソフトに対し権力のある立場であるはずだった。「オレのところのコンピュータに基本ソフトを売りたいなら、これこれこのようなソフトを作れ!」って感じで、コンピュータ・メーカーはマイクロソフトへ強く命令できる立場にあった。
ところが実際はどうかと言うと、まったくその逆なのである。
マイクロソフトはウインドウズのバージョンをアップするたびに、IBM、アップル、デル、NEC、東芝といった大手のコンピュータ・メーカーに対し、アクセスタイムのこれこれのマイコンを使えとか、どこどこの部品メーカーのメモリーチップを使えといった指示をしているのである。つまりある面ではマイクロソフトはコンピュータ・メーカーを支配しているといえる。
知力を持ったものがより大きな権力を握る。
権力移行(POWERSHIFT)が起きているのである。
この権力移行はコンピュータの登場により、我々のまわりのいたるところで起こっている。このことを話し出すとこれだけで長~いブログになってしまうので、ここであえて止めておこう。我々の周りで起きている権力移行をもっと知りたい読者は、アルビン・トフラー氏のパワーシフト(POWERSHIFT)を図書館で借りて読んでいただきたい。1990年代にベストセラーになった本なので、多分邦語訳もあるのではないかと思う。
それでは話を中世の終わりに戻そう。
中世の終わりという時代は、物々交換経済から貨幣経済への移行期であった。そしてまだコンピュータを中心とする知識集約型社会は到来していなかった。つまりこの時代の権力の源泉は暴力と財力にあったのである。
そして商人たちの財力をバックにつけ、常備軍という強い暴力装置を持った王様は、この時代の最高の権力を身につけたということなのである。
さらにまたこの時代に王様の権力を決定付ける思想が生まれた。
国家の主権という概念である。
それまでの中世のヨーロッパには国家というものは存在していなかった。
国家の構成要素は、国土、国境、国民であるが、中世ではこれらが明確にされず混在していたのである。先ほど述べたように、中世では王様と家来の主従関係は契約に基づいていた。ところがAという家来はBという王様と主従関係を結びながら、Cという王様とも主従関係を結ぶことができた。またBという王様はDという王様と主従関係を結ぶことができた。つまり、どこからどこまでがBという王様の国土と国民なのか、またCの王様の国土と国民はどこまでなのかという明確な線引きができなかったのである。
したがってこの時代までは国家は存在しなかった。
中世の終わりに封建領主が没落し国王の権力が強大になり、重複する主従関係がなくなった。そのため領土、国境および国民がようやく明確になり、近代において初めてスペイン、イギリス、フランスといった国家が誕生してきたのである。
そして国家が生まれると同時に、国家には主権があるという考えも生まれた。
フランスの思想家、ジャン・ボダンは、「国家には永続的にして拘束を受けない絶対の権利がある」と、提唱した。国家は他国の干渉を受けず、自国のことを自国で決定する権利があり、国家の主権の主体は国王にあるという考え方である。
この思想はヨーロッパ中に広まり当時の国際法となったのである。
この国家の主権という概念は国王の権力を増大させることになった。
国家には主権があり、その主権は誰も干渉することが出来ない。そしてその主権の主体は国王にある。つまり簡単に言うと、国土および国民を王様が所有し、その所有物をどのようにしようが王様の勝手でしょってことだ!
ベルサイユの栄華を極めたルイ14世の「朕は国家なり」という言葉が当時の国王の権力の強さをよく表している。
国王はここにおいて絶対の権力を手に入れたのである。
この絶対君主となった国王の前では、国民は吹けば飛ぶような将棋の駒どころかチリほどの重みもなくなった。どんなに税金を課せられようが、ムチャクチャな徴兵を受けて遠くの戦場へ送られようが、国王の思いのまま。文字とおり、国民を煮て食おうが焼いて食おうが、王様の勝手。国民はなにひとつ文句を言えなくなってしまったのである。
このようにして権力の怪物、リバイアサンがついに歴史に登場したのである。
さて、中世後半から近代初期の絶対主義国家の誕生にいたるヨーロッパの歴史をざっと見てきた。それではアメリカ13州がいかにこの恐ろしいリバイアサンとも言うべき絶対君主から独立したかを話そう。
えっ!話が長くって疲れたって!
う~ん、これから先がもっとも大切な話になるのだけど…。もし、疲れた読者がおられれば、この先は日を改めて読んでいただけるだろうか。なにせこのあとの話をわかりやすくするために、ヨーロッパの歴史を復習したのですから。
ここで読むのを辞めてしまうということは、レストランで前菜だけ食べてメインディッシュに箸をつけないで帰っちゃうようなもの。もったいないでしょう~!
このあとの部分を読んでいただければ、皆さんもアメリカ国民と同じ民主主義の風景を見ることができ、銃規制がアメリカで徹底できない理由や、アメリカがなぜ世界で無謀ともいえる軍事行動を展開している理由がわかってくるのですから。それだけじゃありませんぞ!今の日本の民主主義が健康に見えて、実は内部ではメタボリック症候群をわずらい血液はドロドロの状態で、いつ脳梗塞や心筋梗塞が起きてもおかしくない状況になっているのがわかるのです。
だからもうちょっとがんばって読んでね。
それじゃ、ジョージ・ワシントンと建国の父たちが絶対主義国家のイギリスから独立したころの話をしよう。
.
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皆さんも高校のときの世界史で習ったと思うけど、アメリカ13州が本国イギリスから独立した原因は税金問題だった。
当時のイギリスはアメリカ大陸でのフランスとの戦い(フレンチーインディアン戦争)で財政が逼迫していた。時のイギリス国王はジョージ3世。彼はそのコストを13州に払わせるため多くのものに税金をかけたのである。
アメリカ13州はイギリス本国の議会に代表者を一人も送り込んでいなかった。だから彼らには税金に対する不満が溜まっていた。NO TAX WITHOUT REPRESENTATION! (代表なきところに課税なし!)という気持ちが強かったのである。
そして課税される税金が商業上の印紙貼付の義務付けだけでなく、砂糖からお茶といった日常品にまで及ぶにいたって、アメリカ13州はついに、「ふざけんじゃねぇ!」って感じで独立を決意した…
…と言うわけではなかった。
事はそう単純ではない。
皆さんも歴史の授業で、「ボストン茶会事件」という言葉を聞いたことがあると思う。イギリス本国はアメリカ産の紅茶に高い税金をかけ、インドの安い紅茶を13州に売りつけて大儲けをしようとした。これに対してアメリカの植民地人の不満はいっきに爆発し、港に停泊していた東インド会社のお茶の積荷を海に投棄してしまったという事件である。我々はこの事件が発端となって各地で戦闘が勃発し、アメリカ独立戦争へつながっていったと習ってきた。
ところがこの時点では、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムスといった多くの13州の識者たちはイギリス本国からの独立には消極的であったのである。外交官であったベンジャミン・フランクリンなどはこの時、イギリス本国との軍事衝突を避けるため奔走していた。
ジョージ・ワシントンと建国の父たちは、イギリス本国からの独立をためらっていたのである。
なぜか?
強大なイギリス軍を恐れていたからである…
…と、言うことではない。
確かに当時のイギリスは超がいくつも付いてしまうくらいの超大国。「けっして太陽が沈まない帝国」と言われるほど世界中に植民地を持っていた大国であった。イギリス本国から見れば田舎の村のような13個の植民地が戦っても、はたして勝てるだろうかという疑問があった。
しかし、それ以上に彼らがイギリスからの独立をためらう大きな理由がふたつあった。
ひとつは絶対君主に逆らうことが「神の摂理」に反することではないかという恐れであった。
先ほど中世後半に登場した国王の権力を決定付けたものとして、国家の主権という概念をお話した。16世紀の思想家、ジャン・ボダンという人が、「国家には永続的にして拘束を受けない絶対の権利がある」とし、その主権の主体は国王であると唱えた。
彼と同時期にやはりフランスの思想家で、国王の権力を磐石(ばんじゃく)にした人物がいた。ロバート・フィルマーという人だ。
ロバート・フィルマーは国王は国家の主権を神から授かっていると提唱した。
彼の主張はこのようなものだった。
聖書の創世記では、神は天と地を創造されたあとに、この世のすべての動物や植物を作られた。そして人類最初の人であるアダムを作られる時にこう言われた。 ”Have many children, so that your descendants will live all over the earth and bring it under their control (産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這生き物すべてを支配せよ。)『創世記第一章28節』”
つまり聖書ではアダムはこの世のすべてを神から授かり、その支配権はアダムの子孫に継承されるということである。そしてロバート・フィルマーは国王こそがアダム直径の子孫であり、国王がすべての支配者であることは神から授かったものであるので、王権は神聖にして冒(おか)すべからざるものであると主張した。
これを王権神授説という。
この王権神授説は当時のヨーロッパで自然に受け入れられた。
なぜかというと、若干の例外(古代ギリシャの都市国家アテネと初期ローマの共和制)はあるが、ヨーロッパでは王様のいない国はそれまで存在しなかったからだ。
今でこそ我々は王様のいない国が多数この地球上にあることを知っている。むしろ王様と国民を意識して生活している人は少ないだろう。だから王様のいない国を想像することは容易だ。
ところがこのころのヨーロッパの人々は王様のいない国など想像もつかなかったのである。夢想だにしなかったと言ってもいい。いつの時代でも、国が存在すれば王様が存在していたのだから。王様がいて国があるという感覚だろうか。
だから王様がいるということは自然のことであり、それは神の摂理であるというフィルマーの考え方は人々に自然に受け入れられたのである。
そんなわけで、どんなに酷い圧政を布こうが、武力と財力の大きな権力を握り、かつ国王は神聖にして冒すべからずという神がかり的なオーラを身につけた絶対君主に逆らおうと思う者はイギリス国内にはいなかったのである。
これは遠く離れたアメリカ13州も同じだった。
アメリカ大陸に初めて渡ったピルグリム・ファーザーズといわれる人たちは、イギリスで迫害を受け新天地へ逃れてきた清教徒と呼ばれる人たちである。このことからわかるように、アメリカ13州の人たちは熱心なキリスト(プロテスタント)教徒の子孫たちなのであった。
そんな敬虔なキリスト教徒にとってもっとも恐ろしいことは、神の御心(みこころ)に反した行いをして「救済」を受けられないことであった。我々無宗教の日本人には彼らが感ずる恐怖は理解しがたいと思う。このキリスト教における救済とはいったいどういうものなのかは、いずれ宗教ブログを再開したときに詳しくお話したい。その時に初めて彼らの恐怖の度合いがわかると思う。それまではちょっと我慢していただいて、ここでは救済を受けられないことは彼らにとって死ぬことよりも恐ろしいことであったということだけを覚えておいてほしい。
したがってジョージ・ワシントンと建国の父たちも敬虔なキリスト教徒であったから、彼らが国王に反旗をひるがえして独立戦争に踏ん切りがつかないのは皆さんにも理解できると思う。
彼らにとってこのロバート・フィルマーの王権神授説はそれほど巨大な壁であった。
そしてもうひとつ、ジョージ・ワシントンと建国の父たちがイギリスからの独立をためらう理由があった。
それは仮に国王を排除できたとして、その後にどのうような国を作ってよいかというビジョンがなかったことである。
なんども繰り返すが、それまでのヨーロッパには王様のいない国はなかった。だからだれも王様のいない国はどのようなものであるべきかという理想の姿を思い浮かべることができなかった。はたして王様のいない国など上手くいくのだろうか?彼らは王様のいない国家作りに不安を感じていた。
このビジョンのないことが白日の下に明らかとなった事件が本国イギリスで起きていた。
ジョージ・ワシントンと建国の父たちがイギリスからの独立を決意する120年前に起きた清教徒(ピューリタン)革命である。
この清教徒革命は神の前の平等をスローガンに迫害を受けていた清教徒たちが起こした革命で、当時の国王チャールズ1世を公開処刑し、清教徒主導の議会政治を行ったというものである。
ところが、国王の首をちょん切ったまではよかったが、議会内では各派閥が権力闘争を繰り返したため、清教徒革命を率いたクロムウェルという軍人が独裁制を布き、反対派の人々を粛清し恐怖政治を布いたのであった。結局、クロムウェルが病死したのち、独裁制に懲りた一般市民たちは、「やっぱり、王様がいたほうがいいや!」って感じで、亡命先からチャールズ1世の息子チャールズ2世を呼び寄せて王位につけた。チャールズ2世はクロムウェルの妻子や革命の首謀者たちを逮捕して処刑し、この無政府状態ともいえる清教徒革命後の混乱を収拾したのであった。
王様を排除した後の社会はどのようなものにするべきかというクロムウェルたちのビジョンの欠如が、清教徒革命後に混乱をまねき王政復古につながったと言えるだろう。
以上2点。
王権神授説と王様のいない国家はどのようなものであるべきかというビジョンの欠如。このふたつの問題が巨大な壁のようにジョージ・ワシントンと建国の父たちのまえに大きく立ちふさがっていた。
そこで彼らはその答えを歴史に求めたのである。
そして歴史の中に埋もれかかっていたある一人の人物と出会ったのである。
運命的な出会いであったと言っていいだろう。
この人物こそ難攻不落と言える王権神授説を打ち砕き、王様のいない国家は如何にあるべきかというビジョンを彼らに与えてくれる人であった。
その人物の名前はジョン・ロック。
ジョージ・ワシントンと建国の父たちの時代からちょうど100年前に存在していた17世紀のイギリスの政治哲学者だ。
ジョージ・ワシントンと建国の父たちがジョン・ロックと出会えたことは、人類の歴史において運命的な出会いであった。なぜなら彼らがジョン・ロックに出会ったことによって、その後の世界は大きく変わっていったのだから。
本日、長々とヨーロッパの歴史などを書いてきたが、実はこのロックという人物の思想を皆さんにお話したかったからなのである。
なぜロックの思想をお話しするのにヨーロッパの歴史を語ったかというと、このロックの思想は大きな歴史の流れの中で捉えないと、その本当の真価が伝わらないからなのである。
ジョン・ロックという名前は高校の歴史の授業で皆さんもお聞きになったことがあるだろう。おそらくロックという名前から、ロック→統治論→社会契約説、というように、言葉の連想が浮かぶのではないだろうか。しかしその思想についての歴史的意義というものをはっきりと認識している人は案外少ないのではないかと思う。
それは当然のことなのだ。
日本の歴史の教科書では、大学入試の穴埋め問題対策だろうか、広く浅く歴史の出来事を扱っているので、肝心な歴史の事件についての考察の深さが足りないからなのである。日本の歴史教科書にはロックについての記述はせいぜい2~3行くらいの記述しかない。ところがアメリカでは重要な歴史的出来事にはものすごい時間をかけて子供たちに、その歴史的背景や歴史的意義を教えるのである。特にロックの思想については日本人の想像を絶するほどの時間をかけて教育する。
冒頭、アメリカ国民は民主主義の精神を膨大な時間をかけて子供たちに教えると述べた。
実は民主主義の精神とはロックの思想のことである。
彼らは子供たちが幼稚園に上がる年になると、このロックの思想が凝縮されたリンカーンのゲティスバーグの演説やトーマス・ジェファーソンの独立宣言書などを暗記させる。そして高校になるまで何度も繰り返し教え込むのである。卒業後は国家的なイベントなどで繰り返しロックの思想を聴衆にリマインドする。AFNの放送などを聞いていると、時たまショート・ヒストリーという民主主義の歴史が流される。ほとんどがロックの思想に関してのものだ。
これほどまでにジョン・ロックの思想についてアメリカ国民は時間をかけて子供たちの心に深く植えつけようとするのである。
一方、日本ではロックについては、歴史の教科書の中でわずか2~3行程度の記述ですませている。
このロックに関しての認識の違いが、日本人とアメリカ国民の民主主義の捕らえ方の決定的な相違を作り出しているのである。
我々日本人の目から見ると、なぜアメリカは断固たる銃規制を行わないのかとか、あるいはアメリカはなぜ無謀ともいえる軍事行動を世界で展開しているのかがわからない。ところが逆にアメリカ国民から見ると、アメリカ国内であれば暴動が起きてもおかしくないような民主主義を危うくするような事象が日本では平然と行われていたりするのである。これらはすべてロックの思想を認識しているかどうかの違いから生じている。
そこで本日はアメリカ国民と同じ民主主義の風景を見ていただくために、このロックの思想についてお話したいと思う。
ちょっと(いや、かなりかな?)長くなってしまったので、疲れた読者はこの続きは明日また読んでね。絶対に最後まで読んでね~。
それじゃ、ロックという人がどのような人物で、どのような思想を持っていたかを話そう。
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ジョン・ロックは1632年にイギリスで生まれ、オックスフォード大学で医学と哲学を学んだと言われている。彼が10歳のころに清教徒(ピューリタン)革命が始まり、17歳のときにチャールズ一世が公衆の面前で処刑された。そして彼が28歳のときにクロムウェルの死をもって革命が終わり、チャールズ2世が即位し王政復古が行われた。
このように彼は多感な青少年時代を革命の混乱のなかで過ごしたのである。
海を隔てたお隣のフランスでは、太陽王と言われたルイ14世が君臨しており、絶対主義の絶頂期を迎えていた。イギリスでも革命に懲りた人々が王政を望み、それに加えてフランスからの王権神授説がイギリスに入ってくるにいたり、いよいよイギリスの絶対王政は強まっていったのである。
そんな絶対主義まっただ中で、若きジョン・ロックは疑問に思った。
「はたして本当に国家の主権は国王にあるのだろうか?」
そこで彼は、「国家とはなんだろうか?」という根本的な問題から考え始めた。
彼は国家とは何かということを考えるにあたって、国家のできる前の状態を想像してみた。
国や社会などという複雑な人間関係ができるずっとずっと前のこと。そこで暮らす人々は自由であったはずだ。人々が不自由になったのは社会ができ、ルールや伝統などに縛られているからだ。もともと社会や国が出来る前は、身分の上下などというものはなく、すべての人々は平等で自由であったはずである。このようにロックは考えた。
ロックはこの平等で自由であった人々を「自然人」と呼び、自然人が生きていた状況を「自然状態」と呼んだ。
ロックの理論のすごいところは、複雑な社会現象をこのように抽象化したということにある。
社会といっても千差万別。イギリスのように伝統的に議会の強い国もあれば、フランスのように絶対主義が強い国もある。また社会を構成している人々は弁護士や医者のようなエリートもいれば、商人もいるし、貧しい農民だっている。これらの個々の事象を個別に扱っていては「木を見て森を見ず」ということになり、そこにある真実を見抜くことができない。だからロックは思い切ってディテールをすべて捨て去って、対象となるものを抽象化したのである。
抽象化することによってロックの思想は科学となり、普遍性を持ったのである。この普遍性こそが、時を越え国境を越えてアメリカに渡り、アメリカの独立を成功させた大きな要因だ。
自然科学をたとえに出せばわかりやすいかもしれない。。
たとえば、幾何学。
幾何学でいう点と直線は抽象化されたものである。
点の定義は大きさがなく場所のみを示すものであり、直線の定義は太さがなくまっすぐで長さだけを示すものである。ところが現実の世界には、大きさのない点など存在しないし、まっすぐで太さのない線など存在しないのである。ミリ単位で見れば点にはかならず面積はあるし、直線を描いたってどこかで曲がっているし、太さもある。それらの詳細をいちいち考慮していたら、幾何学の問題は解けない。それらのディテールを省略して、点や線を抽象化することによってはじめて、巨大な建造物である超高層ビルやダムなどを作ることが可能となるのである。
数学もそうだ。
ゼロや負の数。
この世にはゼロや負の数なんて存在しない。八百屋に行って、「大根マイナス一本下さい!」って言ったて、八百屋のオヤジは???ってことになっちゃうでしょう。
でも、ゼロや負の数、あるいは虚数なんて実際の世界にはないことを抽象化することにより、人類はロケットを月面に到着させたりして、我々の住むこの宇宙を解明してきたのである。
ロックの場合も同じだ。
人間というのは集団で暮らす動物だ。太古の昔に我々の先祖が洞穴で暮らしていたころにはすでに群れをなしていた。そこには当然一部族としてのルールや身分の差はあったろう。自然人や自然状態などというものは現実には存在しないのである。
しかしロックは自然科学と同様に、あえて人間や社会を抽象化することによって国家とは何かを解明しようとしたのである。
彼の理論をさらに続けよう。
自然人は自然状態で土地を耕し種をまいて収穫して暮らしていた。そこでは国家も社会もなくすべての人は平等で自由であった。ところが時代が経るにつれて人々は社会および国家の必要性を感じるようになってきた。なぜかというと、犯罪が増えてくるからである。
人は個々の性格を持っている。Aという自然人はとても働き者で、朝から晩まで働き通し。かたやBという自然人はグータラで昼間から仕事もせずにブラブラしている。当然そこには貧富の差が生じてくることになる。やがて勤勉でないものの中から窃盗や強盗などをする者たちがでてくることになった。
そこで人々は集まって社会をつくり、人々が安心して生活できるためのルールを作った。
他人から物を盗んではいけない。人を殺してはいけない…などなど。
ところが、そんなルールなんて知ったことか!って感じの人もいて、ルールを作っただけでは従わない人も中には出てくる。
そんなわけで、人々はルールを従わせるための社会的権力を作ることにしたのである。
これが国家である。
国家とは本来人々の合意に基づいて作られたもので、国家の権力は人々との契約によって委託されたものである。王様が権力を持っているのは、神から与えられたものではなく、国民との契約によって権力を行使する権限を与えられているにすぎないのである。
だから国家の主権は王様にあるのではなく国民にある。
そして国家の任務はこの国民との契約に基づき、国民の生命、財産、自由を守ることである。
ロックはこのようにして、人は生まれながらにして自由で平等であり、国家の主権は国民にあり、そして国家の存在目的は国民の生命、財産、自由を守ることであることを証明して見せたのである。
これ、すごいことだと思わないか?
今でこそ我々は民主主義の世の中に育ってきたから、すべての国民は自由で平等であると言われても驚かない。それが当たり前になっているから。ところが、ロックの生きた時代は絶対主義の絶頂期だ。国王の権力は神から授かったものであり、王権は神聖にして冒すべからずというものであった。不自由、不平等、身分の差は当然のことと思っていた。国家の主権が国民にあり、人々は生まれながらに自由で平等であるなんて誰も想像もつかない時代だったのである。
ジョン・ロックの生きた時代を考慮した場合、ロックがこのように考えたことはまさに奇跡であった。
ロックの理論はさらに続く。
国家権力は国民が作ったものであるから、国民に奉仕するためのもの。ところが国家権力は放っておくと肥大化し暴走する。だから国民の代表者を議会に送り、真の国民の国民による国民のための政府を作って、政府の運営を監視しなければならないと唱えた。
しかしながら、それでも権力が暴走する可能性がある。
その場合はどうするか?
ロックは人々には国家との契約を改廃する権利があると言う。
それは抵抗権と革命権である。
もともと国家は国民との契約を結んで誕生したものであるから、もしその国家が契約違反をするのであれば、国民には契約を破棄し、新しい契約を結びなおす権利があるのである。
このロックの思想を社会契約説という。
ジョージ・ワシントンと建国の父たちが求めていたのは、まさにこのロックの社会契約説であった。
ジョージ・ワシントンたちはこのロックの社会契約説によって、王権神授説を否定し、イギリスからの独立が正当化され、かつその後の社会をどのように作ればよいかという指針を得ることができたのである。
ロックのこの社会契約説は燎原の火のごとくアメリカ大陸に広まった。
アメリカ13州の人々はロックの社会契約説を本気で信じたのである。独立戦争が勃発した直後は13州の寄り合い所帯の軍隊は強大なイギリス軍に押されっぱなしであったが、思想の力は強い。ロックの描いた世界を実現したいという思いが、最終的にこの独立戦争をアメリカ13州に勝利をもたらしたのである。
我々は歴史の時間にこのアメリカ13州のイギリスからの独立の出来事を「アメリカ独立戦争」と習ったが、アメリカのハイスクールの歴史の教科書ではこの出来事を、
AMERICAN REVOLUTION(アメリカ革命)
と呼んでいる。あくまでもロックの主張する「革命権」の行使なのである。
17世紀にロックがイギリスでこの社会契約説を発表したとき、すぐに「ロックの思想はすごい!」とはならなかった。ほとんどの人々は、ロックの抽象化した自然人や自然状態は実際にはあり得ないことで、社会契約説など「絵空事」と批評したのである。
ところが、ロックが社会契約説を唱えた100年後の世界では、ロックの社会契約説はもはや単なる仮説ではなくなった。アメリカ合衆国の誕生はロックのシナリオ通りに行われたからである。アメリカ合衆国は人類史上初めてロックの社会契約説に基づいて作られた人造国家となったのである。
その後、ロックの思想はヨーロッパにもどりフランス革命をも導いた。
17世紀の大事件と言えば、アメリカ合衆国の誕生とフランス革命だが、この二つの事件はロックがいなければ実現されなかった。
日本の政治学の泰斗(たいと)、丸山真男教授はロックについて、
「17世紀に身を置きながら18世紀を支配した人」
と評したが、まさしくロックの思想はジョージ・ワシントンと建国の父たちに出会うことによって、その後の18世紀の世界を大きく変えたのである。
現在、世界の三分の一くらいの国々が民主主義を標榜している。それらの民主主義の国々には憲法がある。そしてそれらの憲法には必ずロックの思想が盛り込まれている。もしロックの思想が盛り込まれていなければ民主主義ではないと言っていいほどだ。日本国憲法も例外ではない。1990年代に相次いで社会主義、共産主義国家が崩壊して行った現在、民主主義化していく国は今後とも増えていくだろう。ロックの思想は21世紀の世界をも支配しようとしているのである。
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以上、ロックの思想について述べてきた。
ロックの社会契約説を要約すると、人は生まれながらに自由で平等であり、国家は国民の合意に基づいて作られ、国家の主権は国民にある。そして国家の存在目的は国民の生命、財産、自由を守ることにある。国家権力は放っておくと暴走するので、国民は代表者を議会に送り、国民の国民による国民のための政府を作り、監視しなければならない。そして、国家権力がそれでも暴走するようであれば、国民には国家との契約を改廃する権利がある。
ロックの社会契約説を信じ、苦労の末にイギリスと戦って独立を勝ち取ったアメリカ13州の人々は、この戦いからひとつの教訓を得た。
それは民主主義というのは、非常に貴重なものであり、それらは命を賭してでも守らなければならないということである。ロックの抵抗権や革命権はそれを教えている。
このロックの社会契約説に基づく民主主義を理解し、且つそれを命がけで守らなければならないということ。
これこそが彼らが学んだ民主主義の精神である。
このことはトーマス・ジェファーソンの独立宣言書に現れている。
「すべての人間は創造主によって平等に造られ、生まれながらにして何人も取り去ることのできない生命、自由、幸福の追求の権利を有することは自明の理である。その政府の統治者は人々から選ばれた代表者で、選挙民の同意を得なければならない。いかなる政府であろうと、選挙民の権利を護(まも)らないときには、人々は時の政府を覆し、新たな政府を誕生させる権利を有する。」
実はこの命を賭しても民主主義を守るという考えは、現在のアメリカ国民も持ち続けているのである。
これ、日本人の感覚からするとちょっと信じられないかもしれない。
以前、オジサンが海外関係の仕事をしていたとき、ビジネスで知り合ったアメリカ人には機会があればいつもこう質問した。
「あなたは民主主義を守るために命をかけて戦いますか?」
するとほとんどのアメリカ人は、真剣な顔になって、「もちろん!」と答えた。
もし、皆さんの周りにアメリカ人の友人がいたら同じように質問してみてほしい。きっと同じような答えが返ってくるはず。
これ、同じ質問をオジサンが日本人の会社の同僚に聞いたら、「おまえ、ちょっと最近働きすぎでストレスが溜まっているのか~?」って言われてしまった。
これほどまでに日本人とアメリカ人 の民主主義に対する考え方が違うのである。サウナと水風呂くらいの温度差がある。
なぜこのような温度差があるかというと、アメリカ国民は民主主義というのは永遠に続くものではなく、つねに守っていかないとなくなってしまうという危機感があるのに対し、日本では民主主義というのは、社会が発展していけばいつのまにか自然に発生するものという感覚があるからだ。いつでもどこでも空気のように民主主義というのはあり続けると思っている。
ここまで読んでくれた読者には、もうアメリカ国民と同じ民主主義の風景が見えてきたのではないだろうか。
9.11以降、アメリカはアフガンやイラクそしてイランに対して、無謀とも思える強硬姿勢を取り続ける理由は、彼らが民主主義の危機を感じているからなのである。もし何もしなければ民主主義がこの地球上から消えてしまうかもしれないと本気で思っている。リンカーンの「人民の人民による人民のための政府をこの地上から永遠に消してはならない!」というゲティスバーグの演説の言葉が今でも彼らの頭の中で響いているのだ。
オジサンの文通友達でオハイオ州に住んでいるマイケルという敬虔なクリスチャンがいた。彼は不動産会社に勤めていた。マイケルはリザーバー(reservoir)の一員でもあった。おそらく日本人にはこのリザーバー制度はあまり知られていないかもしれない。リザーバーは通常は一般人と同じ生活をしながら、定期的に軍事訓練を受けている人たちである。つまりいったん国家の危機が生じたときに軍務につく予備兵だ。
同時多発テロが起きてからアメリカがアフガニスタンに侵攻したとき、政府から彼は召集された。そこで彼は不動産会社を辞めて、手薄になった欧州のアメリカ軍基地を支援するためにヨーロッパへ送られた。そこでマイケルは1年近く勤務したあと、またオハイオ州にもどってきたのであるが、なかなか新しい就職先が見つからず苦労していた。オジサンはそれまでこのリザーバー制度には何らかの特典があるものだと勘違いしていた。たとえば国家から仕事を優先的に斡旋してもられるとか。ところがそのような面倒をアメリカ政府は見てくれないのだ。もちろん多少の保障のようなお金はアメリカ政府から出ていると思うが、リザーバー制度はほとんどボランティアの人たちによって支えられているということがわかった。
もし日本にこのような民主主義の危機が起きた時、自分の仕事を辞してまで戦おうという人がはたして何人いるだろうか?
先週大統領予備選挙がアイオワ州で行われたが、アイオワ州で走るすべての車のナンバープレートには次のような標語が書かれているという。
”LIVE FREE OR DIE!”(自由に生きよ、しからずんば死を!)
たとえ命を落とすことになろうとも民主主義を守る…。アメリカ国民の民主主義に対する気概を感じる言葉ではないか。
この命を賭しても民主主義を守るということは、なにも外からの脅威だけに向けられているわけではない。
実はアメリカ合衆国政府にも向けられているのである。
もしアメリカ国家の権力が暴走したら、彼らは立ち上がって革命を起こすくらいの覚悟をもっている。彼らはそれほどロックの社会契約説を信じきっている国民なのである。
ここまで話せば皆さんもなぜアメリカでは徹底した銃規制が行われないかがわかるでしょう。そう、彼らには銃を取り上げられるということが、なんとなく「刀狩り」のように感じてしまうからなのである。頭では銃を規制するべきと思っても、潜在意識の中で抵抗感があるのである。「わかっちゃいるけど止められない~♪それ、スイスイス~ダララッタ~♪」ってところでしょうかねぇ(ちょっ~と古いかな~?)。
一方日本はどうかと言えば、日本共産党でさえ革命路線を放棄してしまったくらいだから、権力が暴走したら革命を起こしてでも民主主義を守ろうなんて思っている人はほとんどいないだろう。いやむしろ国家権力が暴走するなんて夢にも思っていないかもしれない。なんだかんだ政府を批判はするが、結局親方日の丸を信じているのが日本人だ。
だからあちらこちらで日本の国家権力が肥大化して暴走しているのに気がつかない。
たとえば天下り。
独立行政法人なんてわけのわからない会社を作って官僚が天下りする。いくつかの会社を数年ごとに渡り歩いてごっそり退職金をもらっていくシステム。この天下りはなにも中央官庁だけではない。皆さんの周りを見渡してほしい。市や区といった地方行政レベルでもいたるところにわけのわからない▲×○■組合とか、○▲☆■協会なんて法人があるはず。たいていは地方行政組織の上層にいた人たちが天下っている。このように中央官庁から地方行政にいたるまで天下りシステムは日本中に広がっているのである。
日本天下り列島
この言葉がピッタリの役人天国が日本という国だ。
これを権力の暴走と言わずなんといったら言いのだろう。日本の政治・行政権力は官僚や地方の役人たちに簒奪されているのである。今や官僚たちはリバイアサンになろうとしている状態。
しかし不思議なことに、マスコミも国民も天下りを個々に批判はするが、これを民主主義の危機と声を大にして唱える人がいないのはなぜだろう。民主主義のプロである憲法学者でさえ「民主主義がいまや崩れようとしている!」と警告していない。これはバミューダ海域やピラミッドの謎に匹敵する世界七不思議のひとつに入れてもよいのではないかと思う。
ここで問題です。
「天下り」を英語ではなんと言うでしょうか?
答えは…
「天下り」なんて英語はありません、が正解。
ためしに皆さんが持っている和英辞典で「天下り」を調べてもらうとわかると思う。日本の「天下り」に相当する英語の言葉は見当たらないはずだ。仮に和英辞典に載っていたとしても、どれもこれも苦し紛れの英訳しか出ていないはず。
なぜ「天下り」に相当するピッタリの英語がないかというと、アメリカには天下りがないから。
「えっ、うそ~!」っと、驚かれる読者もいると思う。
そうなのです。アメリカには天下りなんて不公平なことは起きないシステムが採用されているのです。
天下りの原因となっているのは官僚制。日本はこの官僚たちが政治家を動かし、日本を支配している状態。自分たちの都合のいいように政治システムを作っている。
かつてはアメリカにも日本と同じ官僚制があった。しかしそれは民主主義を危うくするものとして、とっくの昔に官僚制を廃止してしまった。だから天下りがないのである。
その日本型の官僚制を廃止した人は、第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンという人。
アンドリュー・ジャクソンは日本人にはあまりなじみのない大統領かもしれないが、アメリカ国民であれば誰でも知っている偉大な大統領の一人である。彼以前の大統領はジェントリーという貴族出身で、ほとんどが大農園主であった。ところがアンドリュー・ジャクソンは平民からはじめてなった大統領だった。彼は戦災孤児のど貧乏の逆境を跳ね返し、ホワイトハウスに駆け上った人だ。それだけに特に彼は特権階級の利権の独占が許せなかった。
彼は数々の業績を上げジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる時代を築いたが、そのうちの一つに抜本的公務員制度改革がある。
ジャクソンの時代にもノーパンシャブシャブや偽名を使ってまでのゴルフ三昧接待といった官民癒着があったのだろう。彼は「官僚は放っておくと腐敗し肥大化して、民主主義国家を危うくする」という危機感から、当時の官僚制を廃止して猟官制度を導入した。これは大統領が替わるたびに、公務員の主要ポストを総取替えする制度である。この猟官制度は現在にいたるまでアメリカ合衆国で採用されている。だからアメリカには天下りが起きないのである。
一口に官僚制を廃止すると言っても大変なことなのですぞ!
郵政民営化どころの話じゃない。全官僚を敵に回すことになるのですから。
しかしそれでもアンドリュー・ジャクソンは大統領生命をかけて官僚たちと戦い、公務員制度改革を断行したのである。なぜそこまでしたかというと、彼には民主主義は命を賭しても守り抜くという民主主義の精神があったからなのである。
ここまで読んでくれた読者の皆さんには、アメリカ国民が見る民主主義の風景が見えてきていると思う。どうですか。民主主義の精神から民主主義を見るとまったく違ってみえてくでしょう!
それじゃ、最後にこの民主主義の精神からみた日本の民主主義が実は健康そうに見えて、内部では血がドロドロのメタボリック症候群を起こしているということを検証して、この長かったブログ記事を終わらせることにしよう。疲れた方はちょっとここで休憩を取るか、明日この続きを読んでね。
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冒頭、アメリカ国民は民主主義の精神を膨大な時間をかけて子供たちに教えるとお話した。それに比べ、日本では数時間程度の民主主義の教育しか行わない。ロックの思想に関して言えば、わずか教科書に数行の記述しかない。
この結果、いま日本ではどのようなことが起きているか。
一億総民主主義音痴という状態が起きているのである。
あまりにも民主主義に鈍感になっていて、いま日本で起きていることが実は民主主義の根幹を揺るがす大問題であることに気付かない。
たとえば、薬害エイズ、薬害C型肝炎、防衛疑惑、ずさんな年金管理問題、等等…
ほとんどの国民がこれらの問題は個々に起きていると思っている。
ここまで読んでくれた読者には、もうおわかりになっていると思うが、これらは共通の原因から起きているのである。
民主主義精神の欠如
これこそがすべての問題の原因だ。
もし、厚生労働省の役人たちが「国民の生命を死んでも守る!」という気概を持っていれば、薬害エイズやC型肝炎問題は起きなかっただろう。社会保険庁の職員が末端に至るまで、「国民の財産である年金を死んでも守ってみせる」という気概で働いていれば、このようなずさんな管理で大問題になることはなかったはずだ。
厚生労働省の役人も社会保険庁の職員も、これは上層部の連中がやったことで、木枯らし門次郎なみの「あっしには関わりのねぇことでござんす」ってな顔をしている(このたとえもちょっと古いかな?)。ひとりひとりに民主主義を守り抜こうという民主主義の精神が欠如しているのである。”LIVE FREE OR DIE!”っていうくらいの民主主義を守るという精神がないのである。
あれもこれもそれも、すべて貧弱な民主主義教育から起こる民主主義精神の欠如が招いた悲劇なのである。
健全な民主主義社会は民主主義の精神が国民一人ひとりに行き渡り、各個人がそれにしたがって行動することにより、はじめて実現されるものなのである。
だから民主主義精神が国民ひとりひとりに根ざすことがなければ、同種の事件は今後とも起こってくるだろう。
どうですか。ここまで読んでくれた読者には、外見上は憲法があり、議会政治が行われ、三権分立が整っている日本の民主主義が健康そうに見えて、実は内部ではメタボリック症候群を患っていることがおわかりになったかと思う。
もしジョン・ロックがこの世に生き返って今の日本の状態を見たら、
「日本は断じて民主主義国家ではない!」
と言うに違いない。
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最後に日本の憲法9条についても触れておこう。
日本人に憲法でもっとも重要な条文はなんですか?…
…って聞いたら、おそらく
それは憲法9条の戦争の放棄であると答える人が多いのじゃないだろうか。
なぜかというと、戦後60年、日本では憲法論議はほとんど憲法9条に費やされてきたからである。テレ朝の俵総一郎さんの「朝までやってる」討論番組では、憲法問題はすべてこの9条問題だったし、憲法を守る会の人たちも問題としているのはやはりこの9条だった。とにかくマスコミも一般市民も憲法といえば9条のみ、憲法にはそれ以外の問題はないって感じで過ごしてきた。
だからほとんどの人たちが憲法でもっとも重要なのは憲法9条だと思い込んでしまうのは無理もない。
ここまで読んでくれた読者にはもうおわかりだと思うが、
憲法の命は基本的人権の保障にある。
日本国憲法で言えば、第十条「基本的人権の享有」、第十三条「国民の生命、自由および幸福を追求する権利の尊重」、第十九条「思想、信条の自由」である。
本来、我々が憲法に関して論じてこなければならなかったことはこの基本的人権の保障だったのである。あまりにも憲法第九条に時間を費やしすぎたため、国民の憲法に関する感覚がいびつになってしまった。
それを如実に表しているのが、隣国北朝鮮による日本人拉致問題。
こう着状態にあるこの拉致問題に対して、だれひとり武力を持ってして解決すべしと主張するものがいないのである。国民もマスコミも政治家も、武力で解決するという発想がないのだ。
それもそのはず、日本国憲法第九条では国際紛争を解決する手段としての武力を放棄してしまっているからだ。
日本では第九条は神聖にして冒すべからず的条文となってしまっている。
誤解がないようにしたいのだが、オジサンは戦争をすることを言っているのではない。拉致被害者救済の一手段として、武力の行使もひとつの選択肢として挙げているのである。
ここで冷静に考えていただきたい。
憲法第九条と基本的人権の保障とどちらが大切か?
民主主義教育をきちんと受けて、民主主義精神を受け継いでいるアメリカ国民なら、こんな簡単な問題は小学生でも答えられるだろう。またここまで読んでくれた読者にもすでにお分かりになっている。
憲法の命は繰り返すが、基本的人権の保障にある。比べること自体がナンセンス。国家は国民の生命、財産、自由を守ることが最重要事項である。
基本的人権の保障を遂行するのに憲法第九条が足枷(あしかせ)になるのであれば、さっさと修正するべきである。
憲法でぜったい変えていけないのは基本的人権の保障だけ。それ以外は民主主義というのは時代が変われば、状況も変わっていくので憲法もそれに合わせて修正していかなければならない。アメリカ合衆国は建国いらい何度も憲法を修正して、時代の変遷に対応してきた。日本国憲法も現代の状況に合わせて修正すべきなのだ。いつまでも日本はシーラカンスとなってしまった憲法を持ち続けるべきではない。
もし、アメリカ人が北朝鮮に拉致されて、アメリカ大統領がなにもしなかったら、アメリカ国民はその大統領を大統領のゴミ箱へポイしちゃうだろう。
1979年11月、駐イランのアメリカ大使館がテロリストに占拠されるという事件が起きた。時のアメリカ大統領は第39代のジミー・カーターだった。カーターは有名な平和主義者でハト派の代表格。そのカーターでさえ即座にピンポイントの救出をするために空てい部隊をテヘランへ送り込んだのである。なぜか?
イラン大使館の人質の中に一般国民がいたからである。
国民の生命、財産、自由を守ることは国家の基本中の基本。何もしなければ民主主義が死んでしまう。
だからカーターは軍隊を即座に送ったのである。
しかしながらこの時カーターは人質救出に失敗し、アメリカ国民は、国民の生命を守れない無能な大統領はいらない!って感じで、翌年の大統領選挙でジミー・カーターはゴミ箱へ結局ポイされちゃったのである。
もっとも何もしない日本の政治家より何倍もカーターの方がましか…。
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いろいろと長々と書いてきましたが、どうでしょうか。皆さんの民主主義の風景が変わりましたでしょうか。
私たちはCNNや映画、あるいは音楽などでアメリカ人に接する機会が多く、アメリカ人に対して親近感を持っていると思います。ところがそのよく知ったつもりになっているアメリカ人というのは、実は宗教や民主主義に関して、日本人とは似ても似つかない考え方を持った人たちなのです。
コミュニケーションで大切なことは、単なる言葉の技術だけでなく、こういった文化的な背景を学んで知ることです。バイリンガルと同時にバイカルチュラルを目指してくださいね。
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最後にオジサンのお願い。
本文でもお伝えしたように、民主主義の社会が健全に機能するためには、一人ひとりが民主主義の考え方を理解して、民主主義の理念にしたがって行動しなければなりません。そのためにはもっと充実した民主主義教育がこの国には必要です。現在の民主主義教育はあまりにも貧弱です。皆さんの中で将来政治家になる人や、文部科学省などの官僚になる人がいたらぜひ充実した民主主義教育を子供たちにできるように教育改革をお願いいたします。
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あとがき)
いや~、いつも長いブログを書きますが、今回は特別長かったですね。字数を数えてはいませんが、おそらく一冊の本になるくらいの分量がありましたよね。
最後まで読んでくれた読者に感謝します。
多分、このブログ記事を最後まで読んでくれたのは、今のアクセス数からすると数人程度かと思います。ひょっとしたら一人も完走できなかったかも…。
もし、最後まで読んでくれたら、読んだよ!って程度でいいので、コメント下さいね。一人でも読んでくれる人がいたらこれからも書き続けますから。
次回は民主主義教育に関して、歴史教育にもひとこと補足します。
私たちが学校で習ってきた歴史は、海外から見ると実に奇怪な教育に見えるんですよ。オジサンが仕事で付き合った外国人から学んだ歴史教育を紹介し、いかに日本の歴史教育がいびつになっているかをお話したいと思います。
それじゃ、またね~。ばいばい。
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参考文献
ルーツ
パワーシフト
統治論
アメリカ大統領物語
アメリカ外交の魂
憲法原論
バイブル
美しい国へ
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