2008-04-30
■[人類学] 正義と倫理のあいだについて

レヴィナスの話で好きなのが、裁きと顔の関係の話です。ポワリエとの対話の本、『暴力と聖性』(国文社、1991年)のなかで、レヴィナスは次のように言っています。
ある聖句は「裁きを下す者は個人の顔を見てはならない」とあります。つまり、裁き人は自分の前にいる者を見てはならず、その者の個別的な事情など斟酌してはならない、というのです。……けれども別の聖句があります。……「主はそのお顔をあなたに向ける」という聖句です。ラビたちは彼らの流儀で[この矛盾]に答えています。「判決を下す前には決して顔をごらんにならない。けれどもひとたび判決が下されたのちには、あのお方は顔をごらんになるのである。」(『暴力と聖性』160頁)
レヴィナスのこの言葉を知ったのは、2001年に出版された内田樹さんの『ためらいの倫理学』によってでした。内田さんは、裁き人が被告の顔を見てはならないのは、「顔」が誰によっても代替し得ない固有性を表すからであり、「顔」を見てしまうと裁きは下せなくなるから、裁き人は「正義」を実現させるためにあえて「顔」を見ないのだといいます。しかし、峻厳な正義を求めるのはもともと虐げられた「他者への慈愛」から来ています。ですから、裁きが下されたあと、人は再び慈愛に戻ってゆかなくてはなりません。被告の「顔」を見つめ、断罪された人びとのために「正義の峻厳さをやわらげ、個人的な訴えに耳を傾けること」、それが次になすべきことになります。すなわち、「裁き」の後に「赦し」が来なくてはならない、そう内田さんは解説していました(『ためらいの倫理学』角川文庫版、124-125頁)。
このレヴィナスの言葉は、倫理にとって「正義」と「慈愛」の両方がともに必要だということを語っていると解釈するのが一般的なのでしょう*1。けれども、ここで注目したいのは、「顔」すなわち個の固有性・単独性・代替不可能性・比較不可能性を消し去らないと「正義」の裁きは実現しないということです。それは、「倫理」が個の固有性・単独性・代替不可能性・比較不可能性に根ざすものであるのと対照的です*2。公正な裁きによる正義においては、比較不可能な個の固有性を消去して比較不可能なものを比較する必要があります。比較することなしに公正さは生まれません。先の光市母子殺害事件の判決に関して、瀬尾佳美さんが自身のブログで、「最低でも永山基準くらいをラインにしてほしい。永山事件の死者は4人。この事件は1.5人だ」といったことを書いたことが問題になりました(私はそのブログを直接読んでいません)。それを非難する人たちは、どうやら「子供の命を0.5人と数えている」ことを問題視しているようですが、とすれば、子供を1人と数えれば、非難しなかったということなのでしょう。つまり、その非難は、固有性・比較不可能性をもつ死者を数えて比較すること自体に向けられてはいないわけです。正義=裁きにおいては、そのように数えて比較することが当たり前のことであり、その意味では「0.5人」という数えることも(当否については意見があるでしょうが)、「正義」(=公正さ)にとってはなんら奇妙なことではないのです。しかし、「倫理」にとっては、「子供を1人」と数えようと、正義のためには不可欠な、数えて比較すること自体がそもそもふさわしくないのです。ようするに、瀬尾さんに対する非難は、正義と倫理を混同してしまっているわけです。
この騒ぎに関して起きたもっとも奇妙な出来事は、瀬尾さんの所属する青山学院大学の伊藤定良学長が「当該教員の記述は適切でなく、また関係者のみなさまに多大なご迷惑をおかけしたことはまことに遺憾であり、ここに深くお詫び申し上げます。今後このようなことが繰り返されることのないよう努めてまいります」と謝罪したことです。大学に非難の電話が殺到したからということらしいのですが、学長の見解をホームページに載せるのであれば、「当該教員の見解は大学の見解ではなく、また学長個人としてはそのような見解は不適切だと思うが、たとえそれが大学の見解と異なっていようと、教員個人が意見を表明する機会を青山学院大学は保証するものである」ぐらいのことを載せてほしいものですよね、なにせいちおう大学なんだから*3。もちろん、大学や学長とは異なる見解の表明でも本学は擁護するなんてことを載せたら抗議の電話を鳴り止ませることはできないかもしれないけども、よりによってそれを「多大な迷惑をかけた」(ここでも「迷惑」が理由になっています!)、「今後このようなことが繰り返されることのないよう」だとは(所属する教員に社会通念に反することを二度と述べさせないってこと? それって研究するなってことか)*4。
さて、話をレヴィナスの「正義」と「倫理」の区別に戻すと、最初に引用した言葉の少し前に、レヴィナスが、「人を比較して裁きを下す」ということは「〈国家〉のうちにおいてしか可能ではない」ということを言っています。それをレヴィナスは、慈愛と対比させて「始原的暴力」と呼んでいます。そして、「人間の諸権利についての気遣い、それは〈国家〉に属する機能ではなく、〈国家〉のなかにある非-〈国家〉的な制度であり、〈国家〉のうちにおいてはいまだ成就されていない人間性の訴求なのです」(『暴力と聖性』159頁)と述べています。つまり、「正義=裁き」と「倫理=慈愛」の区別は、同一平面での対比ではなく、前者が〈国家〉という社会の水準にあるものであり、後者はその水準のものではないということです。この区別は、レヴィ=ストロースのいう非真正な社会の水準と真正な社会の水準とに重ね合わせることができるというのが、私の言いたいことです。
レヴィ=ストロースの真正性の水準を、私はよく「〈顔〉のある関係」と言い換えていますが、その〈顔〉は、実はレヴィナスの〈顔〉に由来するのです。現代社会には、正義も倫理も必要です。しかし、それをともに用いるには、前者が固有性のある〈顔〉のある関係を捨象して成立する非真正性の水準にあるものであるのに対して、後者は真正性の水準にあるということを理解することが重要だということです。
そして、真正性の水準での「倫理」は、正義における(普遍的な)善悪をも超えてしまうということも大事なポイントでしょう。それについてはまた別の機会に書きたいと思いますが、私たちが正義=裁きとは無関係に、〈顔〉ある関係にある人を擁護するのは、その人が正義にかなっているからではなく、その人の代替不可能=比較不可能な固有性(私にとっての)を擁護しなければならないからです。でも、十分長くなりましたので、今回はこの辺で。
*1:そして、それはキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』における「正義の倫理」(何が正義なのか)と「ケアの倫理」(具体的な他人の声にどのように応えるのか)という区別とも重なります。ギリガンもその両方が必要であると主張しており、その二つの倫理をどのようにつなげたらいいのかという問題を提起していました。
*2:このようなレヴィナスにおける正義と倫理との区別については、同僚の哲学者の村瀬鋼さんのお話に示唆を受けました。ただし、私の誤解や曲解が入っていますから、村瀬さんには責任はありませんが。
*3:これはもちろんヴォルテールの言葉の焼き直しです。ところで、宮台真司さんがTBSラジオで、これをボードレールの言葉と言っていました。そのときは生放送だったので単なる言い間違いだろうと思っていましたが、宮台さん自身のブログでもボードレールと記してあったとのこと(http://d.hatena.ne.jp/macska/20080415/p1)。勘違いしてたのですね。そういった勘違いは私もやるので、寛容になりたいところですが、ボードレールがそんなこと言うわけないという勘ぐらいは働くと思うけど。
*4:この問題についてエントリーを書こうと思っていましたが、SUMITAさんがブログで「愚劣な言論を擁護する」(http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080427/1209224631)というエントリーをすでに書いていましたので、そちらにお任せすることにします。ただ、私は瀬尾さんの見解を「愚劣な言論」だとは思いません。すでに書いたように、正義=裁きにおいては「子供の命は0.5人」とか「いや無垢な子供こそ2人と数えるべきだ」といったように、数えて比較するようなことは当然のことだからです。瀬尾さんのブログ自体を読んでいないので遠慮すべきかもしれませんが、他のブログに引用されているのを読む限り、その問題は蓮っ葉な文体にあるでしょう。ユーモアもない(そのくせご本人はユーモアのつもりの)単なる蓮っ葉な物言いはいかがなものかというのが正直な印象です。
遠慮すべきでしたね。
瀬尾氏が問題とされているのは何もこの一件だけではなく「(批判されるべき見解を示して)そういった見解は先進国のものではなく中国人のようなもの」との人種差別的発言、「拉致家族にしても私は軽い違和感を覚えます。私は子供をなくした経験がありますが、
「めぐみちゃん」はちゃんと育って、結婚までして、あまつさえ子供まで儲けています。」との犯罪被害者を冒涜する発言、「自分を支えるだけの収入を得るだけの訓練もうけてこなかったのに、なぜシングルマザーなどになったのでしょう。文字が読めず、避妊の知識さえなかったのでしょうか?」と母子家庭を侮辱する発言、「阪神は死者数6000を超えますが、中越沖は10をちょっと出たくらい。中越沖の死者数なんか阪神規模でいえば誤差の範囲です。」と何の罪も無い天災被害者を貶める発言等々多々あるからです。
中にはこんな発言もあります。
「少なくとも東京の私学に地方から通う学生には、家庭の貧困を助ける意味での奨学金は必要ないと思います。だって、東京の私学は、授業料だけでなく住居費もとても高い。そんなところにわざわざ通うなんて、ミンクのコートと同じで贅沢ですから。」
先生はご自身の授業で同じことを学生に向かって発言できますか?それとも「地方出身者は上京して私学に通うこと自体が贅沢なのだから奨学金など必要ない」というのが成城大学にて教鞭を執る者の正義と考えて宜しいでしょうか?
何にせよ読んでもいないものに対して論評を加えるという行為自体が学者としてあるべき姿なのかどうか、私は非常に疑問を感じます。
つまり、あなたはろくに読んでもいないのに、このような無礼で幼稚なコメントをしているわけです。読んだから書いたのだと言うのかもしれませんが、それだと、自分が小学生より読解力も頭もない人間だと言っていることらなりますから、言わないほうがいいでしょう。たぶん、瀬尾さんの名前かなにかを検索して、見つかったブログに同じような文言を書き込んでいるのでしょう。よくそういうコメントを「脊髄反射」的と言いますが、わざわざ手間をかけて「脊髄反射」するなんて手間の分だけ無駄ですよね(手間や時間がかからないところが脊髄反射の命ですからね)。プライドのようなものがあれば、自分の幼稚さをさらけ出すようなことをするわけがないとも思うのですが、それをすることで仲間でもできるとか、よくやったと認められることでもあるのでしょうか。あるいはなにか手ごたえみたいなものを感じるのかな。よく分からないのでお答えくださればと思います。以上、「脊髄反射」的に応えてみました。
>成城大OB
日本語読めてます?
瀬尾を擁護していると思ってるみたいだけど違うよ。
瀬尾はくだらんやつだが研究とはなにかわかってない青学もくだらんって書いてあるんですよ。普通に読んだらわかるでしょ。
それで成城OBって、、、在学生が読んだらがっかりするよ。
あとね「軽い違和感」っておっしゃってるけど私はそれにすごい違和感感じます。
…って書いてたらブログ主がコメントしてたw まあいいや。
大学なんて行かなくて良かったわ。
研究者の卵や研究をしようとしている学生も読んでいるかもしれないのでフォローしておくと、それでも研究者たるものは、さまざまな査定や審査を通るためにそれなりに努力し、議論や文章の技術を身につけようとしています。無意味な「脊髄反射のコメント」などではなくです。日本語が書ければ議論なんて誰でもできる、というわけではないのです。そのような努力などしたくないというのであれば、「大学なんて行かなくて良かった」と、私も同意しますよ。
ちょっと前からブログ拝見していますが、沖縄戦と死刑関係は妙なのをひきつけるようですな。
よけいなお世話ですが、妙なのしかこないみたいだからやめといたらいかがですか?
せっかく興味深いことを書いてるのに、話がどうでもいい方向にいってる。まあ、物知りが知識をひけらかしてくれるおかげでちょっとは勉強になることもあるけど。
あんまりものを知らないで聞くのもなんですが、裁きを下すものが相手の顔を見たらいけないというのは、西洋の独特な考えなんですか?
それとも世界中でそういう傾向があるんですか?気が向いたときにでも教えていただければうれしいです。
>nze
先生の言うことはなんでも本当と思うようなやつは大学なんか行かないほうがいい。
君は行かなくてよかったね。行ってたらひどいことになってたさ。世間様にも迷惑だ。
「いずれにしても、元少年が殺されれば、報復が果せた遺族はさっぱり幸せな思いに浸るに違いない。自分の血を吸った蚊をパチンとたたき殺したときみたいにね。それだけは喜んであげたい。」
瀬尾氏のブログより:
「私としては、女子学生に多額の奨学金を貸し出すのはなんとなく気が引ける。
光市の母子殺害事件の被害者みたいに、借りるだけ借りておいて、卒業したら間髪いれずに孕んでそのままぜんぜん働かず、挙句の果てに平日の昼間から家でぶらぶらしていたため殺されちゃうなんてことになっては回収不能になるからだ」
このような「意見」であっても、
「教員個人が意見を表明する機会を大学は保証するべきだ」とお考えなのでしょうか?
(このような「意見」を公に発言する人物を教員として雇っている責任が大学にはあり、謝罪するのは当然ではないのでしょうか?)
また、
「私がこのエントリーで論評を下しているのは瀬尾さんを批判したブログの文章で、そっちはもちろん読みました」
とのことですが、どのブログを読まれたのでしょうか?瀬尾さんを批判したブログ全てを読むことは不可能だと思いますが?
もう脊髄反射することにも飽きてきました。このブログはもちろん私的なもので公的な機関ではありませんので、日本語の通念に反するようなコメントは、今後は勝手に「検閲」して一方的に削除しますね。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080502/1209661435
>それを非難する人たちは、どうやら「子供の命を0.5人と数えている」ことを問題視し
>ているようですが、とすれば、子供を1人と数えれば、非難しなかったということなの
>でしょう。
確かにそういう人も多いでしょうけれど、そうではなく、その0.5と算出した方法や基準の非論理性
や考え方の不合理を問題にしている人も多いですよ。これは、「固有性・比較不可能性をもつ死者
を数えて比較すること自体に向けられて」いるのではないのでしょうか。
また、「裁判」を行う以上、何らかの数値化・合理化可能な基準が必要である」と認めた上で、論じ
ている人も多いですよ。
決して蓮っ葉な文体のみに反応して叩いている人たちばかりではありません。
さて、学長の謝罪文についてですが、どうして「所属する教員に社会通念に反することを二度と述
べさせないってこと? それって研究するなってことか」という解釈に行き着くのか、正直なとこ
ろ理解できません。
学長としては(大学としては)、「当該教員」が大学の所属教員であり、本人がそれとわかる様に
書いている以上(そして、多分大学側でも本人だと確認したのでしょう)、所属教員が外部の誰か
に「迷惑」をかけ、そのことで“世間”を騒がせていることを考えれば、組織の長として「多大な
迷惑をかけた」と謝罪するしかないでしょう。
所属して(本人がそれを書いて)いる以上、問い合わせや批判を受けて何も釈明しなければ、「当
該教員の見解」を大学が容認している事になるので、まず「当該教員の見解は大学の見解ではな」
い事は表明しなければなりません。そして、所属している(雇っている)という関係上で発生した
不始末の尻ぬぐいはしないといけません。その部分が「多大な迷惑をかけた」という謝罪ですね。
つまり、こんな教員を雇っていてごめんなさい、という事であり、研究内容がどうのという事では
ないわけです。
「今後このようなことが〜」は、まあ謝罪文における常套句なのですが、「所属する教員に社会通
念に反することを二度と述べさせないってこと」と読めないこともないですね。しかし、それが
「研究するな」には繋がらないでしょう。研究内容に文句をつけるという様には読めないし、単に
日常生活でも社会人だという自覚を持ち、オープンな場での「蓮っ葉な」言葉づかいや挑発的な言
動を避けるよう、指導する(いい大人が恥ずかしい)という意味だと解釈する方が妥当ですよ。
でも、組織の名前を肩書きに付けている以上は、その組織の理念に反する行動は、私生活において
も(内部告発等以外は)控えて然るべきではないでしょうか。どうしてもしたいなら、組織から離
れて、自分自身で責任が取れる範囲でやる。あるいは、弾圧覚悟で内部で旗をあげる。これは、一
般企業であろうと大学の様な教育機関であろうと変わらないものではないでしょうか。教員(人を
指導する立場)である以上、これくらいは理解しているはずなので、大学も今まで特別な指導を行
ってこなかったのでしょうが、その結果、この様な事態になったので、やはり指導は必要だったと
いう事ではないでしょうか。
考えるに、大学の教員って、大学に所属している(雇われている)と言っても、半分はフリーラン
スの技術者の様なもので、大学の名前が無くても研究自体はできますよね?(資金等の現実問題は
別の話として) 会社員の場合は、仕事をしても、基本的にはほとんど全てが自分ではなく会社の
業績になります。もちろん、大学での研究成果が全て研究者個人のものになると考えているわけで
はないですよ。ただ、会社の場合は、外部から見た場合に、個人の仕事の結果はほとんど見えてこ
ないですからね。その辺りで、一般の会社員とかと、所属(雇用)の意識が違っている様な気がし
ます。
大学の対応に対する批判のくだりに至っては笑止千万で曲学阿世を自ら体現して見せようとでもしているのだろうか。この辺りの議論は町村教授のブログで数日に渡り展開されているが、小田さんは一読もされてはいないのだろう。瀬尾暴言事件に関して学者の立場で発言をするなら、関連する資料の収集も分析も碌にせず我田引水に「私の誤解や曲解が入っていますから」と平然と断って展開するのは大した心臓だとはおもう。「この餃子、毒が入っていますから」って言って店頭に並べるようなものだとは思いつきもしないのだろうか。
まあ、読みもしない瀬尾さんのブログをネタに自分の博識を披露したかったのだろうが、論語読みの論語知らず的な、博識馬鹿ぶりのご披露となってしまったのはお気の毒としかいい様がない。
2点、質問させていただきます。
1.
>それを非難する人たちは、どうやら「子供の命を0.5人と数えている」ことを問題視しているようですが、
>とすれば、子供を1人と数えれば、非難しなかったということなのでしょう。
>ようするに、瀬尾さんに対する非難は、正義と倫理を混同してしまっているわけです。
実際にはこの准教授がここまで非難を受けている(皆さんが問題視している)のは
そこ(だけ)にあらず、なのですが、一旦そこは置いておきます。
質問。
基本的な論旨は理解したつもりですが・・・
(少なくとも日本の裁判における)正義(裁き)とは、
人としての「倫理」を無視して全く個別に考えられるべきものでしょうか?
ご教授ください。
2.
>「当該教員の見解は大学の見解ではなく、また学長個人としてはそのような見解は不適切だと思うが、たとえそれが大学の見解と異なっていようと、教員個人が意見を表明する機会を青山学院大学は保証するものである」ぐらいのことを載せてほしいものですよね
(うしろのコメント欄にも似た事が書いてありました)
自由な研究も結構ですが、教員は自宅にただ1人引きこもって暮らすわけではない以上、
「社会に暮らす人間としての」守るべき「マナーや品性」を大学が求めるのは当たり前ではないでしょうか?
人様をつかまえて「ドブに落ちた10円玉」呼ばわりするな。
亡くなった方に対して「せっかく死んでくれた」などと言うな。
そんな、躾レベルの指導(=一部発言の不許可)も、
大学としては不適切とお考えなのでしょうか?
ご教授ください。
(別の言い方をしますと、
「従来の社会通念や一般常識と異なる意見、研究」
と
「特定の個人やグループに対する明らかな誹謗中傷や侮蔑等の反社会的活動」
は、どちらも等しく「大学が発言機会を保証すべき」なのでしょうか?
という質問です。)
今回の青山学院大学の学長の謝罪が見過ごせないのは、それが「言論」に関することであり、そして歴史的に見て「言論の場」・「研究の場」として機能してきた「大学」の問題だからです。「言論」ではなくて、所属教員がたとえば有毒ガスを発生させたり、セクハラしたりしたのであれば、もちろん謝罪するのは当然です。しかし、今回は所属教員の「言論」に対して、言論の府とは思えない「迷惑」という空疎な言葉を使って理由を述べて、謝罪している点は、やはり批判しておかなければならないでしょう(この「迷惑」という言葉については4月5日のエントリーで取り上げましたので、ぜひご覧ください)。
そのエントリーでも書きましたが、一般企業は「言論の自由」を守る義務はありません。映画館が自主的に上映を中止したり、企業が自分たちの利益のために所属員の「言論」の公表を許可しないことを批判しようと思ったら、それがその企業の利益にならないようにする(不買運動など)しかありません。しかし、大学は(たしかに最近は「学生」を「消費者」と呼んでいて、一般企業になろうとしているようですが)、歴史的には「言論の自由」「学問の自由」という理念(もちろん実際にはそれに反することをいくらでもしてきていますが)を掲げてきた機関であり、そういった歴史など無意味だというのでないかぎり、どんな言論でも、たとえそれが不愉快な言論でも保証していかなければなりません。というのも、人文社会科学にとって(本当は自然科学もそうなのですが)、言論こそが研究の基礎だからです。そして、研究の基礎となる言論は社会の通念とは異なる非常識なものです。もちろん研究の基礎にもならない非常識な言論もたくさんありますが、それを学長が判断して区別することなどできませんし、したら「非常識な言論の自由」が損なわれ、研究も損なわれるのです。そして、一般企業とは異なる原理をもつ、そのような制度や場が社会の中に存在することは、学問や研究とは直接無関係な人びとにとっても利益となるはずです。
ですから、たとえそれが愚劣で不愉快な言論であっても、そしてその不愉快な言論をみて、大学に抗議が殺到しようと、所属教員の「言論」を止めさせようというような声明を出すことは、大学の理念だけではなく、長期的な利益にも反することです。繰り返しになりますが、人を不愉快にさせたり傷つけたりする「言論」を表明することは犯罪ではありません(セクハラなどの犯罪なら「こんな教員を雇っていてごめんなさい」と謝罪するのは当然でしょう)。もちろん、それに対して批判することも自由です。私が言っているのは、犯罪でもない言論に関して、「迷惑」ということを理由に(どんな言論でも「迷惑」はかかります)、大学を代表して学長が「今後このようなことが繰り返されることのないよう努めてまいります」などと謝罪することは、セクハラなどの犯罪を犯した場合や、一般企業の場合とは当然違ってしかるべきなのに、それを分かっていないということなのです。
長くなってしまいました。書いているうちに「阿呆」さんから、コメントが二つ、odummyさんからコメントが1つ来ました。Odummyさんに関しては、このsigokuさんへの回答で答えになっていると思いますが、「阿呆」さんのコメントに関しては、「瀬尾暴言事件に関して学者の立場で発言をするなら」というくだりだけで、お約束どおり削除してもいいのですが。というのも、私が取り上げているのは「阿呆」さんも書いておられるように、瀬尾さんの「暴言」ではなく学長の対応なのですから、ただ、ご本人が名乗っているとおりの人かもしれないので(その割にはえらそうな物言いですが)、すでに書いていることですが、丁寧に説明すれば、《たとえどんな内容の言論であろうと》、学長の対応は大学として間違っているということを述べているのですから、その論旨は、瀬尾さんが実際に何を言っていたのかには影響されないものです。二つ目のコメントも論評にはなっていないので、いまのところは晒しておくだけにします。明日にでも削除しますので悪しからず。
学問の自由、大学での言論の自由は、一般世間より広い?イエイエ大学の自治があるから、保証されるものであり当然、組織の構成員はその組織の存在を無にするような発言は許されません。大学に所属するなら、その発言の影響力を考えても一般の市井の人間より高いモラルが求められ、本人もプライドをもって発言すべきでしょう。学長の対応を論じるといいながら、その対応の元になった瀬尾発言を碌に読みも調べもしてないで、偉そうな物言いで対応できる小田さんの知性の偏り(多分低さではないのでしょう)は社会に対する害毒です。所属する教員に社会通念に反することを二度と述べさせないってことが、イコール研究するなってことかと結びつく粗雑な思考回路は、路上に屯する中学生並みの短絡思考で、論理的な思考経路の跡も全く見られません。(脊髄反射ならカエル並みか?)
成城大OBさんの読解力をあげつらう前に、自らの思考力を鍛える練習が必要だよ。がんばてね。
例えば表現として、ポルノ表現は日本国という組織に所属するものには規制されている。当然大学もその日本国の中にあるので同じ規制を受ける。それどころか、大学は自治を守るために、その構成員により高いモラルを求めるものだから、当然日本国以上の規制がある。これを言論弾圧と理解するか、大学を構成する人間のプライドととるかで話は違ってくるのだが、そういった詳細を論じるまでも無く、内容如何に係わりなくなぞと、粗雑な論で論理飛躍を起こすようでは、さらに其れを鼻にかけて「丁寧に説明すれば」などとやられると、笑いすぎで腹痛になりそうだ。
(質問の1.には別途、お答えいただけるのでしょうか。)
2.に関していただいた回答に対し、また2つ質問です。(先の1、2と区別するため、A,Bとします。)
A.
セクハラも本来「犯罪」ではなく、「人が不愉快な思いをさせられた」というものなのですが・・・
特定個人を傷つける「行為」は謝罪が当然で、「言葉」は謝罪が不当である、という論理がよく分かりません。
例としてセクハラをあげてしまったのが失敗で、要するに
「刑事事件を起こしたら」謝罪が当然、というお話をなさろうとした、ということでしょうか。
(Aオマケ)
もし、この発言により甚大なる精神的苦痛をうけたとして、
誹謗中傷された方々が民事訴訟をおこしたらどうなるでしょうか。
B.
「特定個人やグループに対する侮蔑、誹謗中傷」を学長が判断できないのでしょうか。
また、教育理念に愛と奉仕の精神をうたう青学において
「人様をむやみに侮蔑し、故意に傷つけるような発言は控えなさい」
と指導する事が、本当に大学の理念に反し、長期的な不利益になるのでしょうか。
(要するに、改めて
「従来の社会通念や一般常識と異なる意見、研究」
と
「特定の個人やグループに対する明らかな誹謗中傷や侮蔑等の反社会的活動」
は、大学においては同じもの(「自由な言論」)として捉えられるのでしょうかと
お伺いしているようなものですが。)
あれ、コメントを書いているうちにまた阿呆さんのコメントが来ました。「ポルノ表現」云々は法規制が日本国にある以上、それは犯罪です。私はその法規制には反対ですが、しかし、そのような法規制がある以上、大学が謝罪するのはまだわかります。上のsigokuさんのコメントへのコメントで書いたように(阿呆さんはお読みにならなかったのかもしれませんが)、私が問題にしているのは犯罪ではない「不愉快な言論」であって、大学に犯罪まで認めろといっているのではありません。「教員に社会通念に反することを二度と述べさせない」というのが、まずいのは、阿呆さんが書いているように、その通念自体がゆれるものであり、そのようなことを学長が表明することによって、確かに不愉快な言論の表明は減るでしょうが、同時に自由な言論にもとづく研究も萎縮してしまうということもお分かりでしょう。そんなことより、不愉快な言論が減るほうが良いというのであれば(私はそれが危険なことだと思っているのですが)、なかなか通じないのでしょうけれども。
>「当該教員の見解は大学の見解ではなく、また学長個人としてはそのような見解は不適切だと思うが、たとえそれが大学の見解と異なっていようと、教員個人が意見を表明する機会を青山学院大学は保証するものである」ぐらいのことを載せてほしいものですよね、なにせいちおう大学なんだから
瀬尾女史は炎上後の釈明で「本ブログは全く個人的なものであり、わたくしの所属組織とは無関係です」と述べていました(実態は所属組織の肩書を背景にしたり、学生や大学教員に投げ掛けた記述もあったりしましたが、それはひとまず置いておいて)。であれば大学としては彼女を保証するのではなく、むしろ「大学教員といえど私人としての言動に対しては青山学院大学は一切関知しない」として、大学を通じた意見表明は認めず、全責任を瀬尾女史個人に負わす方がいいのではないかとも考えます。(教員としての彼女をどう処遇するかは別問題として。)大学の自治と言うのであれば、彼女の個人としての言動には大学は介入しない、謝罪もしないし保証もしないと言う方が筋が通ってるように思えます。
彼女自身やその弁護者、あるいは学長の見解への反論者の方々に見受けられる意見に、「瀬尾女史の個人ブログでの発言は大学とは無関係、大学を批判対象にするのは間違い」「でも大学教員だから大学から全力で言論の自由を保証してもらう」というのがありますが、この2つは個人メディアとしての立場と大学教員としての立場を都合よく混同してるように感じます。個人として発信していたというのであれば、大学教員として大学から保証される自由も放棄すべきではないでしょうか?
このような見方についてどう考えられますか?教えていただければ幸いです。
また、追加の質問ABですが、これもお考えになればお分かりと思うのですが、まず「セクハラ」を例に出したのはちょうど境界にあるものだからです。上のポルノと同様に、この基準は揺れ動くものですが、現在は「男女雇用機会均等法」等で規制された犯罪となっているので、それに対して大学が謝罪するのは当然のこととなります(しかも、それは「大学の犯罪」となりますから)。もちろん、「不愉快」というだけでは、セクハラは成立しないということも付け加えておきます。同様に「特定の個人に対する明らかな誹謗中傷」も犯罪となりうるもので、その場合も立証されたら、学長が謝罪するだけではなく、処分をも考えて当然でしょう。ただし、それも立証されたり立件されてからの問題ですが。しかし、odummyさんが一緒に挙げられている「侮蔑」は、犯罪ではなく、言論によって人を侮蔑したからといって、学長が謝罪するというのはおかしなことです(本人が謝罪するのは問題にしていません)。しかも、今回の学長の話では、「子供の命は0.5人」ということを問題にしているようですから、「特定の個人への誹謗中傷や侮蔑」を問題にしているわけではないようです(それを問題にするのも立証・立件されてからすべきですが)。オマケに関してですが、大学が訴えられたらということですか? そのような訴訟はないと思いますけれど(教員個人が民事訴訟で訴えられたらということなら、民事訴訟をおこされた教員について謝罪するというのも変ですよね?)。
質問Bに関しては、まさに犯罪としての「線引き」(これは比較可能であるという前提ではじめて可能となりますが、これとて学長が行うべきものではありません)ではない「線引き」(「侮蔑」と「自由な言論」との間の)を大学や学長ができないし、すべきではないということです。「線引き」ができないということと「同じ」だということは異なっているのはお分かりですよね。それは異なっているけれども、大学においては学長であろうと「線引き」をしてはならないということです。
モラル以外にも、宗教系の学校の場合は、その信奉する神を受け入れない人や、他の神を信奉する人は受け入れられても、否定する人は受け入れがたいでしょう。
学長見解では、その部分でも抵触していると述べられているのでは。
他所の話で恐縮ですが、町村教授のところで、この辺のところは沢山書いたのですが、町村さんのご意思か、あちらでの言論の自由は奪われてしまいました(笑)。 削除もまた、対応の一つだと思い受け入れられるし、きつい口調でも返事があるのは歓迎ですが、答えず逃げて、投稿拒否で、言論の自由も無いものですね。
私自身の立場は先の質問とは逆で、瀬尾女史の個人ブログと言っても実質的には所属大学と無関係とは言えないものだったので、所属長が何らかの責任を取る(謝罪するなど)のは必要だという見解です。また、大学人が保証されるべき「言論の自由」についても、いつでもどこでも誰に対しても使える特権的なパスポートのようなものではなく、「大学の自治」が及ぶ程度の範囲(学内と学界内くらい)に留めるべきだと考えています。
が、それはさておき、「大学の自治」「組織に対する学者個人の独立性保持」ということからすると、先の質問のような大学や学長のスタンスもアリなのではないかと考え、質問させていただきました。