2008-05-01 Thu
■鶴岡法斎君へ

鶴岡法斎の放浪都市
http://blog.goo.ne.jp/t-housai/e/a735f202d9461d2ac68986a1c0603add
あと伊藤剛さんからのご意見ですが、記憶的に曖昧な部分もあります。「そうだっけ?」と思う箇所もあるのですが、伊藤さんがそう思っている、という事実を受け止めます。
またこれを機会に、なんですが昨年暮れぐらいから何とか久しぶりに話ができないものか、と思っていました。メールとか出していいですか?
ぼくにメールを出すよりも、自分が何をしてきたかを真摯に問うことが先ではないですか。
あなたは唐沢俊一という「師匠」の尻馬に乗り、ひとを攻撃し、誹謗中傷し、嘘をつき、いい加減な仕事を垂れ流してきた。
他人を攻撃しても、自分の価値はまったく向上しないにもかかわらず、あなたは他人を攻撃してばかりいた。それは記憶しているよね?
ぼくのあずかり知らないところで、あなたの「被害」にあったひともたくさんいると思う。
たとえば、サイト名は記さずにおくけれど、1998年ごろオタク系テキストサイトをやっていた青年を「おまえなんてミジンコ以下」とかなんとか(文言は正確に記憶していませんが)、中学生みたいな悪口でいじめ抜いたこともあったよね?
そんなとき、どんな気持ちだった? 楽しかった? ぞくぞくした? わくわくした?
あなたは、本を出そうと焦っていた。
何はなくとも有名になりたかった。
こつこつと積み上げたり、勉強をしたり、努力をしたりする前に、とにかく「営業」やら「ハッタリ」やらに精を出していた。
なんにせよ「近道」を取ろうとした。つまりインチキやズルをしたわけです。
他人への攻撃や誹謗中傷も、その一環でしょう。
たぶん、そこには「師匠」唐沢俊一のロクでもないアドバイスもあったんじゃないかと思います。
あの頭のおかしな男は、ぼくに対しても「伊藤君は、金の稼げるライターに育てようと思っていたんだけどね……」と、編集者にこぼしていたんだそうだから(ちなみに、その編集者というのは、元・太田出版、現・楽工社の日向泰洋氏だ)、もっと「愛弟子」であるあなたに対しては、何くれと言ってきたに違いないでしょう。
でもそれは、「インチキをしろ、ズルをしろ」というものじゃなかったのか。
自分自身の処方がそれしかなく、身近な者も自分も騙してきたひとだから。
けれど、インチキやズルは本当の意味では「実績」として積まれていきません。何よりも自分の心に対して嘘をつき続けるのだから、当然です。
あなたは、唐沢俊一に比べれば、多少なりともまじめだし、まだしも人の心(というのも嫌な言い方ですが)を持っているように見受けられる。
だから、日記にあのような追記をしたのでしょう。
そこには、あなたの良心の存在が感じられます。
パクリが発覚しても開きなおり、あまつさえ被害者を誹謗し、手前勝手な被害者意識にしがみつき、周囲を騙し、要職に居座っている唐沢俊一とは天と地ほど違う。
ぼくへの誹謗中傷について、謝罪は要求しません。
いまさら謝ってもらっても、何にもならないからです。何もいりません。メールも不要。
これはひたすら、あなたの内面の問題です。
ぼくなどは構わず、ただただ自分と向き合うことが先決だと思います。
そのうえで、自分自身に恥じないような、よい仕事をしてください。
2008-04-29 Tue
■[告知]桑沢キャラクターメディア研究ゼミ、コミティアに出ます。

http://k-cmr.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/55_5cc5.html
コミティア84
2008/05/05(祝/月) 11:00-16:00
ま14b・桑沢キャラクター研究会
一昨年度より森川嘉一郎さんをヘッドに、桑沢デザイン研究所で続けている「キャラクターメディア研究ゼミ」ですが、昨年までのコミケ参加に加え、コミティアにも参加することとなりました。
このゼミでは、毎年12月の冬コミにあわせた同人誌(同人ソフト)を学生に制作させ、その実践を通じて「キャラクター」(ぼくの言葉でいうとキャラですが)をプレゼンする媒体(メディア)を作ることを学ぶものです。
昨年度までは竹熊健太郎さんと講師三人体制だったのですが、今年度からは竹熊さんが『サルまん2.0』ほかで多忙となられたためゲスト講師に退かれ、森川さんとぼくの二人で学生さんの指導をします。
このコミティアでは、ゼミ同人誌既刊二冊のほか、学生・卒業生たちの個人誌(たぶんコピー誌やフリーペーパーが中心だと思いますが)を頒布します。よろしくお願いいたします。
■m9

買ってきました。
いまどき鶴岡法斎に依頼するあたりに、編集者の手抜きというか、見識&センスのなさを感じてスルーしていたんですが、ココロ社id:kokoroshaさんと、しろうとid:sirouto2さんの原稿が面白そうなので購入。これから読みます。
参考:http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~yanataka/manga.html
- 出版社/メーカー: 晋遊舎
- 発売日: 2008/04/26
- メディア: 単行本
※追記:ある方から、鶴岡法斎氏には「今は個体認識できるほど存在感がない」というコメントをいただきました。そうか、そういえばそうだな。となると、これ以上はいじめてるみたいになるかもしれないが、まあ「宿縁のある」間柄だそうだから、多少ネチネチやらせてもらうよw。
もっとも、記憶に基づいて一方の立場からものを書くのだから、できるだけ穏やかに書くことは心がけようと思う。またこれをこうしてブログに書いても、おそらくはぼくには何のメリットもない。むしろ昔の話を蒸し返さなくてもいいだろう、と言われて批判されるほうがありそうだ。でも、やはり記しておいたほうがよいと思った。
なぜならば、彼を見ていてぼくが学んだことは、多少なりとも若い編集者やライターのひとに役立つかもしれないからだ。
まあ、鶴岡は11年前、オレのインタビューを取って、チェック後に文章を改竄して掲載したうえ、パルコ木下氏にオレが言ってもいないこと(ニュアンスの問題だが、中学生程度の読解力で分かるような、おそらく意図的な間違い)を伝え、それについて否定的なコメントを引き出したり、唐沢俊一にこちらのインタビュー(もしかするとテープ起こし)を読ませ、それに追いかぶせるようなコメントを載せるようなアンフェアな真似をして、読者にネガティヴなイメージを持たせるような操作をしたのだから、それに比べたら実に可愛いものです。
さて、ここ十年ほどの鶴岡のウェブでの日記やら何やらも見ていて、そのうえで今回「m9」を見たのだけれど、本当に、まったく進歩のない男だと思った。基礎的な学力もなければ思考能力もなく、ハッタリとレトリックでどうにかやってきた者なので仕方ないのだけれど、かつてはそこそこ仲良くしていたこともあるし、もしかしたら見所のある人かとも思い、いくつか出版社を紹介したこともあったわけですよ。
物書きの才能というか商品価値というのは、個々人の力量だけでなく、そのときどきの状況の関数でもあるので、その時点(96〜7年ごろ)は、あの男にも多少の需要はあった。しかも、奴はハッタリがなかなか上手く、「このひとはいろんなことを知っているし、何か大きなことをしてくれそうな雰囲気がある」と思わせる手腕は大したものだった。それが単なるハッタリだというのに、ぼくなどはなかなか気づかなかったのだ。
最初に会ったころの鶴岡のハッタリはすごかった。椹木野衣よりも現代美術に通じ、松沢呉一に古本の手ほどきをした23歳、というのが彼自身の語りから得た鶴岡法斎像だった(後に松沢氏に尋ねたところ、氏はただ呆れていた)。
それが、はじめて「こいつ実は大したことないんじゃ?」という疑念がよぎったのは、確か1997年の二月ごろだと思ったけれど、当時太田出版から出ていた「ギャンブル大帝」(だったか? 記憶なので多少自信なし)の企画で、カバラか何かオカルトでギャンブルの必勝法を云々といったページの書き手を探しているというので、鶴岡君がいいんじゃない? カバラでもオカルトでもずいぶん詳しそうなことを言ってたから、というので電話をして、これこれこういう企画なんだけど、どう? と振ったところ、どうにも電話口でしどろもどろになってる。このときに「あれ?」と思ったわけだ。
その後も、奴の原稿をいくつか見ていくうちに「あんなに博識でいろいろ経験もあるように言っていたけど、これは実は知識も何もないんじゃ……?」という疑念は少しずつ大きくなってきた。それでも、その疑念を押し込めていた。字数が少ないからこんなものなんだよ、とか。いつもいつも上手くネタを出せるわけじゃないんだよ、とか。
ところが、わりと決定的だったのは、当時知った自主テクノ(いまでいう同人音楽のはしりみたいな、アニメの声優声をサンプリングしてトラックを作っていたもの)を鶴岡に聴かせたところ、「これは×××の○○○に何々を乗っけただけでどうこう」(具体的な文言は忘れた)と、いまでいうマッシュアップみたいな手法で作られてて、特に機材などをそれほど必要としないのだ、と説明した。奴は音楽もやっていたので、そんなものかなと思ったんだが、後に制作者本人と知り合い、音作りの実際を知ると、これがまったくのデタラメだったのだ。
とはいえ、「デタラメ」と知ったのは、唐沢俊一と例の一件があり、一連の唐沢の妄言の尻馬に乗った鶴岡がトークライブなどでぼくの悪口というか誹謗中傷を言って回っているという噂が多少聞こえてくるようになった頃になってからだ。
そしてさらに鶴岡への評価を決定的なものとしたのは、もちろん『マンガロン』である。
これ以降は、彼がハッタリ野郎であるかどうかといったことを脇に置いても、じゅうぶんできる話である。むしろ、著作でいい仕事がされていたならば、それ以前のハッタリ・知ったかぶり話は、むしろ「ちょっといい話」になっていただろう。
『マンガロン』は、「早稲田大学の漫画史の教科書です」と帯にうたっておきながら、鶴岡自身の読書体験をただ平坦に綴っただけのもので、ほぼ、見るべきものはない。ただ、70年代生まれのマンガ読者に向けた、同世代性を持ったマンガ評論本が、たとえそれが批評もどきとしてもなかったので、鶴岡と同世代の編集者にはウケたようだ。それで彼は「SPA!」のマンガ書評も担当するようになった。
確かに「若いマンガ論者」というのは、当時(2000年ごろ)には、あまり注目されるような書き手がいなかった(静かに地道によい仕事をしているひとはいたが)、とくに70年代生まれ、20代というと稀少だった。そのためか、たとえばそのころ初めてお会いした呉智英さんからも、「鶴岡法斎をどう思う?」と尋ねられたことがあった。そのときにはあまり批判的なことを言うのもよくなかろう(実のところ、彼の書いたものへの自分の評価に対する自信のなさがあった)と「比喩の使い方がひじょうに上手いですね」としか答えなかったように記憶している。このように呉さんも当時は多少なりとも彼を気にかけていたようだし、永瀬唯氏が彼を評価し「スタジオ・ボイス」誌に紹介したという話もきいたことがある。
早稲田の非常勤にどういう経緯で決まったのかは詳らかにしないけれど、大学の中にときどきいる「大学という知の権威」を疑ったり、それに対抗することこそ学問のとるべき道、と考えるひとの実践が空回りして、最もどうしようもないものを引いたというケースかもしれない。真面目なカルチュラル・スタディーズのひとほど危ない、というあれだ。
いずれにせよ、当時の彼は「気鋭のマンガ評論家」という位置を取りかけていた。ところが「SPA!」の書評も、たとえば『ブラックジャックによろしく』の一巻を扱ったときだったと思うけれど、これ読まずに書いてないか? というものが見られるようになり、そのせいかどうか止めてしまう。ちなみに、マンガ書評を読まずに書いてるんじゃないか疑惑は、「師匠」の唐沢俊一にもある(そっちが気になるひとはまとめwikihttp://www13.atwiki.jp/tondemo/pages/45.htmlを参照)。
紙媒体での鶴岡の仕事は、このへん以降あまり見ておらず、今回の「m9」は久しぶりではあった(メディアファクトリー「コミックフラッパー」でも連載を持ってるそうだが、そちらは未見)。変わってねえな、と思った。
さて、ここでようやく鶴岡との交際を経ての「教訓」になるんだが、それは「誰かいい書き手はいませんか?」と問われたときの対処についてだ。
とにかく、ひととの個人的交際のみで誰かを編集部に紹介することはしない、という、きわめて当たり前のことだ。その相手の書いたものをよく読んで、それから判断するということだ。そうでないと、この手の社交能力や自分の売り込みや知ったかぶりに長けた人物の手管にうまうまと乗ってしまうことになる。一度、そうした目くらましをされると、書いたものが多少よくなくても、「まあ、毎打席ヒットを飛ばせるわけでもないしな。まだまだこのひとにはポテンシャルがあるだろう」と好意的に解釈してしまい、余計に引っ込みがつかなくなるということにもなりかねない。
これは、ぼくが書き手だからこのような判断基準を持つということであって、編集者のひとにそのまま当てはめることはできない。雑誌には埋め草的なページや、毒にも薬にもならないページが必要だったりするし、代替がないなどの理由で、本心では「ダメだし」しながら、それでも黙って使い続けるというケースもある。
今回の鶴岡の登用も、そういう判断かもしれないのだが、そうでもない感じがする。
あるいは、鶴岡のだめさ加減を知っていて、それでも「こんなにダメでボンクラでもこうやって文筆の仕事が出来てるんですよ」という姿が、あるメンタリティの読者の癒しになるという意味で需要があるという計算なのかもしれない。「オレは自分のことを学歴もなくイケてない奴と思ってるが、鶴岡さんだってちゃんとやってるんだ、オレも何とかなるかも」と思わせるという商品価値だ。まあ、すごくネガティヴな人生応援歌ですね。
とはいえ、担当者氏がもし彼を本当に買っていて、何かしらの期待をしているのであれば、どうか、彼を引っぱたいてでも何でもして、オレにこんなことを書かれなくて済むような良い仕事をさせてやって欲しいと思う。それこそ、編集者の腕の見せどころだと思う。
やればできる子だと思いますんで。
※「鶴岡法斎の放浪都市」 http://blog.goo.ne.jp/t-housai
「誰でもオタク系ライターになれた。いまは無理」
http://blog.goo.ne.jp/t-housai/e/679bfbafbda944df09e2700fddb57b16
※追記の追記:あとねえ、唐沢俊一がブログをパクるわ、一方で鬼畜を気取ってるクセに実はヘタレだわ、という体たらくになっていった(元からそうだったという話もあるが、程度が悪くなっていったとはいえる)背景には、鶴岡の悪影響もあるような気がするんですよ。
実際はどうだったかはともかく、鶴岡って不良っぽい感じがするんだけど、一方の唐沢には、どこかお坊ちゃんが無理して不良を気取ってるような面があるでしょう。そこに、より「ホンモノ」っぽく見せてる鶴岡が来て、何かとヨイショしてくれるものだから、だんだん引っ張られていったというのはあるんじゃないかと思ってる。
※追記の追記の追記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=791414744&owner_id=7401
BB氏(多根清史氏)のミクシィ(全体に公開友人の友人までの公開)で、こういった反応が。消される可能性もあるので、スクリーンショット推奨です。
唐沢俊一ウォッチャーの皆さんには、彼本人が空虚な笑いを演じて見せているところが観察できます(「裏亭」というハンドルで「あはははは、BBさん意地悪〜。」と一言コメントを入れているのが唐沢です)。
しかし、このBBというひとも「イジられるのが有名税」というのなら、唐沢氏をいじったらどうなんでしょうね。オレなんかよりよほどネタも豊富だし、何倍も有名でしょう。テレビには出ているし、天下の朝日新聞書評委員です。
それにしても、実に牧歌的なやり取りです(唐沢も、自分の「弟子」がここまで強く批判されてるんだから、少しは擁護を試みたらどうなのか)。彼ら自身の狭い世間だけが社会だと思っているかのようですね。想像力が足りません。すでにこのエントリーの一部は、2ちゃんねるの唐沢俊一スレにもコピペされています(http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1208837414/)。
BB氏は「鶴岡原稿どうこうよりも、wktkの目が期待する通りの反応をする本人が面白がられてることにピンと来ないgoito-mineralさんに萌える! 」と言われていますが、ここでこのように唐沢の空虚な強がりめいた振る舞いを晒すというぼくの行動も「期待通り」なんでしょうかね。後だしで「期待通り」と言ってみせて、上位を取ろうというさもしいハッタリでなければ、そうなります。
すると、BB氏にとっては、こうしてまた唐沢俊一が晒され(このブログの読者には出版関係者も多いです)、笑いものにされるだけでなく、彼の問題がまたひとつ掘り下げられてしまうことも、ご自身の「期待通り」ということになります。
なるほど「意地悪」の向く先は唐沢氏だったのか。味方のふりをしてざっくりと刺す。唐沢氏の利益になろうが不利益なろうが精神的な負担になろうが知ったこっちゃないという態度。
BBさん、なかなかの策士とお見受けしましたw
2008-04-28 Mon
■[告知]「思想地図」に論文を書きました。

いまさらですがお知らせです。
「ニッポンのイマーゴポリティクス」と題された章で『マンガのグローバリゼーション―日本マンガ「浸透」後の世界』というタイトルの文章を書いてます。東アジアはもちろんのこと、北米やヨーロッパの若い作家たちが「日本スタイル」のマンガを自らの表現としはじめている状況を紹介するとともに、すでに事態が「日本製のマンガ作品が世界各国で受け入れられて嬉しい」と脳天気に言ってればいい場面をはるかに通り越していることと、日本国内のマンガ関係者に特有の諸外国への関心の低さなどから、今後、オリジネイターであったはずの日本が国際市場から取り残される可能性を指摘しています。
こういう問題提起をする以上、「まんが読者である私」「おたくである私」という自意識の問題にも踏み込まざるを得ず、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を中心に大塚英志氏の批判を正面から試みています。
2005年アメリカで刊行された、スヴェトラナ・クマコヴァ作『ドラマコン』に登場する「マンガは日本のものだ!」「日本人が描いてないものをマンガと呼ぶな!」という "closed minded manga fan" の白人少年をとりあげ、その閉鎖的なマニア心理と、大塚氏がアメリカン・コミックスやハリウッドの実際をよく知りもせず批判し、日本戦後マンガの「倫理性」をいう態度とを重ねています。
『ドラマコン』の日本語版は、ebooksでダウンロード販売されています。スクリーンショットが取れないようプロテクトがかかっていたので、「思想地図」では原語版の図版を用いています。
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=7001&genreid=28025
論旨としては、「クール・ジャパン」に象徴される転倒したナショナリズムに対抗する、一見リベラルな言説が「マンガを読む/描くぼくら=おたく」というネオエスニックな閉鎖性へと堕していくことの指摘と、物語るもののかたちとしての「マンガ」の可能性ということになります。大塚氏の言う日本マンガ・アニメの「歴史性」からくる「倫理」は、とどのつまり、敗戦国の国民という、私たちと同じ過去を持ってないと実現できないものという主張に収斂してしまうのではないか? ということです。
2ちゃんねるの東スレで、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1208858405/
582 :考える名無しさん:2008/04/27(日) 19:33:58 0
伊藤剛の論文は、半分以上が大塚批判だったな。
でも、それってさ。わざわざ「思想地図」って名前の雑誌でやることか?
期待してただけに、がっかりだよ。大塚は耄碌してるけど、そう簡単に
馬鹿にしていい奴じゃない。
と書かれてましたが、正面から批判することと、馬鹿することは当然違います。
それと「東浩紀の雑誌で伊藤剛が大塚英志を批判」ということ自体が、すごく狭いオタク論壇プロレスみたいに見えたのかもしれませんが、マンガやアニメの世界化と「日本」が無媒介に結び付けられることに対して、検討しなおしてみたというものであり、大塚氏の批判はその手がかりであって目的ではありません。それでも「思想」にふさわしくないのであれば、そもそもぼくがわざわざ「思想地図」に呼ばれた意味がわからなくなる。
期待していただいたようなので、再読していただければと思います。この評だと、とにかく大塚英志を馬鹿にしただけの文章を載っけただけみたいなので、一言。
ていうか、「耄碌してる」ってのもひどいいいざまw
大塚氏の批判を正面から試みた理由には、氏の影響の大きさもあります。
大学でマンガ研究をやってる学生・院生の方の論文を拝見する機会が最近は多いんですが、本当に、示し合わせたように大塚英志が参照されている。いまのところ、そうした論文で『ジャパニメーション〜』をそのまま受けたようなものは見ていないのですが、それだけ影響力の大きなものとして「大塚英志」はある。
また、この「思想地図」の拙文については、同書をそのまま引き継ぐ形でぼくや夏目房之介さんを批判した紙屋高雪氏にもぜひ意見を伺いたいところです。
紙屋氏は、「ユリイカ」2006年1月号での夏目房之介、宮本大人、私の鼎談での『ジャパニメーション〜』への言及に対し、「ところで夏目たちの態度はなんだ」「太平楽を気取る」と強く論難をされています。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/japanimation.html
そう論難された以上(具体的には夏目さんに向かってるのですが)、では正面から批判を試みましたので、正面から返してくださいますか、と詰め寄るくらいのことはさせていただきます。
紙屋さんとは、面識も何もなく(築地書館の社長のはからいで電話で一度お話しただけ)、ただ書かれたものを読むだけでそれでも人柄の良さに好感を持っていたし、世代的な共感もあって、良質なマンガエッセイとして高く評価しているのですが、しかし、思想の部分では相容れないというよりも、いつも突然のように戦後民主主義的な左翼の枠組みに飛んでしまう身振りに違和感を感じていました。それが実は現実の否認になっているように感じられたんですね。これは大塚英志氏にも共通して感じることです。ちなみに『ジャパニメーション〜』で語られている戦後マンガ言説史ですが、あれは相当に問題があり、呉智英が石子順を攻撃したことがマンガ言説の脱政治化を促し、夏目らの「表現論」につながったというのは、あまりに牽強付会というものでしょう。紙屋さんはこの点についても大塚言説を受け入れておられますが、しかし、では、現在「表現論」の観点から石子順造(順ではなく)が再評価されようとしていることを、どのように説明するのでしょうか。
また、それに無批判に乗っかってか、表現論vs社会反映論という二項対立を自明のもののように扱っている紙屋さんの言説にも、首をひねらざるを得ません。表現論と社会反映論はけっして対立するものではなく、接続しうるものだということは、テヅカイズで説明したとおりなのですが、またその一方で「ガンダムで政治が語れてしまう」といったことを口にしてしまう紙屋さんの呑気さには、少々呆れてもいます。
「思想地図」が刊行された背景には、「サブカルチャーについて語ることが、そのまま政治や思想を語ることになりうる」という認識があると理解していますが、それはこのような皮相なレヴェルでなされていいものではないでしょう。
表現論の要諦は、「表現」を主題を語るための透明な媒体と扱わず、不透明でいたるところ不連続なものとしてみるところにあると思います。それは、社会を構成する諸要素もまた、同様に不透明で複雑で、不連続なものとしてとらえることにつながります。私にしても、社会反映論を反映論であるからという理由だけで退けることはしませんが、しかし慎重にはなります。なぜ慎重になるかといえば、素朴な反映論が、表現を透明なものとして扱うというだけでなく、社会の複雑さを捨象した、ひどく図式的でのっぺりしたものに思えるからです。
そもそも「思想地図」の小論自体が、表現論と社会反映論がきれいに対立するものではないことを示すものになっていると思います。
■きりりん『いもーと*もーど』購入

新宿書店@新宿で。
平台のいい場所に山積み、当店オススメポップつき。
掲載誌である程度読んでいたのですが、あらためていいですよ。
ここ数年は、かつてのようにエロマンガを読んでいなかったので、微妙に浦島太郎状態なのですが、皆さんの評などを見るにつけ、きっと群を抜いているのでしょう。
なかでは、『わたしとあの子とあの子のお兄ちゃん』のズタっと終わるラストがハードボイルドでカッコいいと思いました。このアフターケアのなさは、町田ひらくにも通じるものが(絵柄やテイストはまるで違いますが)。
そして、兄妹入れ替わりでセックスする『水仙の華の沼の淵』がやはり白眉。
相手の欲望を先取りして自身の欲望に取り込むといった回路が描かれていると思いました(具体的な説明は微妙にネタバレになるので止めておきましょう)。
読者と、描かれたキャラの「同一化」を論の中心に据えているいずみのid:izuminoさんにも是非読んでほしいと思いました。あと永山薫さんがもし未読だとしたら、あなたニセモノの永山さんですね? と言ってあげますw。
それから、きりりん君には「ちゃんとソワカちゃん描いて〜」とリクエストしておきます。できれば10話のその2のがいーなーと。
http://miyoung.jp/view.php?movie=0ebfc54fba0f5908724ae4a00deabca0
手塚文化賞の初期・選考委員やったときに、唐沢氏から
鶴岡氏を「弟子です」って紹介されたんでした。
それ以降、一回もお会いはしてませんが…、そんな人物に
なっちゃってましたか。やれやれ。
あ、ついでに宣伝になってしまうんですが、
『マンガ編集者狂笑録』(水声社)を刊行しました。
貴兄には献本ということで、近日行くと思います。
まさに御笑読下さい!
御感想など、ミクシイでいただけたら光栄です。
以下、あまり愉快でない話題で申し訳ないんですが、「そんな人物になった」というよりは、最初から「そんな人物」という感じですね。
唐沢や鶴岡のような手合いにとっては、長谷さんのような著名な方と交際があることを強調するのも、ひとつの「手」になっています。逆にいえば、気をつけていないと、あの手の連中に社会的な信用を与えてしまうという失敗をおかすことになります。たとえば、唐沢は昨年、パクリ発覚後、都電の中で紙芝居を見る催しに参加し、そこで同席した長谷さんや中野晴行さん、藤本由香里さんほかの方のお名前を日記に記していました。そのように利用されてしまうのです。現在、朝日新聞の書評委員の方々で、ずいぶんその「被害」に遭っている方がおられるようです。誰それが自分を褒めただの賞賛されただのという物言いで。しかしいま唐沢日記に登場するというのは、唐沢俊一の検証サイトなどを見ている読者からは、情報もなく唐沢に騙されっぱなしの人という評価を下されるというリスクが生じてしまうわけです。
あ〜、あのときね。
ビックリで話し出来ませんでした。
ぼくは、顔のわりに、気が弱いし(笑)
むこうは、いい度胸?!だよね。
ただ、唐沢は「叱られる」というセンスにとても弱い男です。もし長谷さんがガツンと怒鳴りあげたら、それでぴゅーっと萎縮して何もいえなくなったんじゃないかとは思います。いま彼がウェブでの批判が青山学院大の某准教授に集中していることに対し「表現の自由を侵害している」とトンチキなことを言ってるんですが、これなど、ちょっと強く批判されただけでモノを言えなくなるヘタレな心性のあらわれでしょう。
それから、bigburnさんのミクシィ日記の件ですが、結果として、bigburnさんが唐沢を「釣った」格好になってますね。もしかすると、多根さんも鶴岡君もすでに唐沢に陰でボロクソに言われてるかもしれません。