ハートフルレター

変化ではなく、交換されよう。

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さるさる日記

2008/04/30 (水) そのことばは人に、届いていますか。

 最近、すばらしく霊的で、

 自信に満ちて、

 力強く語る若者たちのメッセージを聞きました、DVDで。

 そこで話す人も聞く人もみんな満足してる。

 でも満足していない人が、一人だけいました。

 私です。

 ことばが通じないんです。

 例えば私がアラビア語を覚えて、いくら熱心に皆さんの前で話しても
わからないわけでしょ。

 それと同じです。

 そんなメッセージ、いくら一部の人に霊的だなんだって言われても、
自己満足以外の何物でもない。

 聞いてる人も悦に入ってるなら、それは「自分たち満足」です。

 ホントに悪いけど「だから、なに?」ってなってしまいます。

 百歩譲ってことばは分かるとする。

 でも言い方、伝え方が、

 そこで聞いてる人よりよっぽど若いのに、

 そこで聞いてる人に、今まで世話になってきたのに、

 えらく横柄(そうに見えても)だったら、聞くに堪えません。

 ホントに悪いけど「なに様?」となるのです。

 まとめると、

 伝えることばと、伝え方が大事だってこと。

 この2つが人に届いているだろうか、危機意識を持ってほしい。

 「今日の私の話、どうでした?話し方はどうでした?」

 謙虚に聞いてほしい。

 聞かれた人たちは本当にその若者のことを思うなら、本当に思ったこと
を伝えてあげてほしい。

 私はそのDVDを見て、

 彼らが語る深遠な聖書の真理を、

 一般のことばにまで落とし込んで、ちゃんと人々に届ける働きがしたい、

 そんなふうにこころから思いました。

 聖書のことば
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ
 ます。」
               第1テモテ2:4

 
 

2008/04/29 (火) 兄弟で熱く、語ろう。

 今日は1日エンジョイに満ちた日でした。

 6万坪の奉仕作業を終えて、家に帰ってみると久しぶりに弟が来ている
ではありませんか。

 さっそく熱く語り合ってしまいました(笑)。

 弟は昨年までは高校の教員、今年は違う組織に勤めています。

 いっしょに晩ごはんを食べながら、語り合い、

 さらには子どもたちもいっしょに、

 「デニーズ」へ移動して・・・!

 さらに語り合ってしまいました〜♪(しかもごちそうになりました〜)

 あ〜、久しぶりの兄弟の会話、楽しかったです。

 枕木焼けでヒリヒリした顔は、冷たいマンゴミルクプリンでいやされ
ました。

 実の兄弟と実の親子の組み合わせは、不思議なコラボレーション。

 この弟の救いのために祈ります。

 熱く本人に語る前に、神様に熱く祈ります!

 聖書のことば
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われ
 ます。」
                 使徒16:31

 
 

2008/04/28 (月) 伝説が生まれるようなことに、挑戦しよう。

 新しいチャレンジが来たとき、

 柔らかく対応できる人とそうでない人がいます。

 これは仕方のないことです。

 でも1つだけ思いを伝えておきたい。

 私はどんなチャレンジがやって来ても、逃げません。

 どんな中からでも、

 どんな人たちからでも、

 益になること、成長に役立つことであるなら学びます。

 その時点で失敗もあります。

 時期尚早な時もある。

 でもいいのです。

 チャレンジせずに、何もしないでいるよりよっぽどいいのです。

 やってみてダメならやめたらいいし、

 昨日書いたように「形」につまづくぐらいなら、そんな「形」あっさり、
捨てたらいい。

 とにかく飛び込んで見なきゃ、いいか悪いかなんてわからないという
ことです。

 チャレンジすると見えてくるものがあります。

 チャレンジした人にしか見えないことがある。

 そうやって見えてきたいろいろなことが、やがて、

 主の現わしてくださった栄光、奇跡の「伝説」と呼ばれるのです。

 聖書のことば
「彼らは、義の樫(かし)の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう」
                  イザヤ61:3

 
 
 

2008/04/27 (日) 「形」に、つまづかない。

 「形」というものへの偏見は誰にでもあります。

 慣れ親しんだ「形」、初めて見る「形」、抵抗のある「形」。

 私たちは「形」に違和感を感じた場合、どうしたらいいのか。

 ある方が、

 「形でつまずくくらいなら、形を変えたらいいんですよ」

 そう言ってくれました。

 何か安心しました。

 そうか、「形」にこだわらなくてもいいんだ。

 どうしても受け入れられない、違和感のある「形」を、無理に取り
入れることはない。
 
 「形」よりも、

 その中に入る「いのち」こそ、本当に大切なものなんですものね。

 聖書のことば
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの
 息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」
                  創世記2:7

 

2008/04/26 (土) 教会で、会席料理を食べよう。

 今晩は掛川にある「しゃぶしゃぶの寅や」で、生まれて初めて、

 本格的な「会席料理」なるものをいただきました。

 (懐石じゃなく会席の方です)

 もちろん自分たちで行けるはずはなく、ある方のご厚意です。

 まさに「和」のフルコースディナー。

 雅(みやび)な時間を堪能しました。

 お店の作りといい、雰囲気といい、店員さんの立ち振る舞いといい、

 私たちが学びたい一流の居心地。

 「和」の中に「洋」も織り込まれていて、畳敷きにじゅうたんに

 テーブルという「折衷(せっちゅう)」のインテリアも粋でした。

 「おもてなし」のこころを随所に感じます。

 外国のお客様も大勢みえるそうで、「日本料理」のレベルの高さも

 感じました。

 それでもやはり、

 世界であろうと日本であろうと、最高の食卓は「主の」食卓です。

 世界に誇る霊的「会席料理」は、やっぱり主の集会なのです。

 毎週教会で、霊の会席料理をいただきましょう。

 聖書のことば
「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか」
                ルカ15:23
 

 

2008/04/25 (金) みんなでキリストを、語り出そう。

 以前と今とはっきり感覚が違うことがあります。

 それはメッセージに対してです。

 以前は集会に行く大きな目的は、

 1)いいメッセージを聞くこと。

 2)いいメッセージをすること。

 これはもちろん、人々の救いのため、信仰の成長のためです。

 ですから集会の中で、一番大切な時間は何かと言えば、

 疑いもなく、「メッセージを聞く」時間でした。

 でも今、自分の中にある一番の願いは、

 キリストのからだの中に集まった一人一人が、

 キリストを生かし出す、

 キリストを表わし出す、

 キリストを語り出す、ということです。

 そこに救いがあり、成長があればハレルヤ!と思っているのです。

 「メッセージってなんだっけ?」

 みんながメッセージというものを忘れるくらい、

 自然に、いつでも、誰でもがキリストを語り出している共同体こそ、

 キリストのからだの交わりであり、集会だと信ずるのです。

 聖書のことば
「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる
 宮となる・・・」
                 エペソ2:21
   

 P.S.
 もう1つの「ハートフルレター」はこちら。
 http://livechurch.exblog.jp/

 

2008/04/23 (水) 新しい1年を、明日から始めよう。

 明日のPTA総会で、いよいよ役員の任期が終わります。

 いろんな経験をさせていただいた1年でした。

 学校行事はもちろん、対外的なイベント、会計監査や突然の告別式にも
3度参列(1度は県外)しました。

 中でも、先生方を対象にした<聖書講演会>も催してくださり、神様の
大きな恵みを感じました。

 環境が変わり、小さくなりがちだった私に対して、

 「胸を張って人前に出なさい」
 
 神様からのそういうメッセージに思えた、この1年でした。

 そして明日が、その節目になる一日です。

 ですから私の中では、今年に限っては、1年の始まりは、

 1月1日ではなく、PTA総会の日、4月24日なのです。

 これから始まる新しい1年に期待しています。

 (神様は今度はどこに遣わしてくださるんだろう)

 ホント〜に楽しみです♪

 聖書のことば
「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。
 あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」
                 使徒13:47
 
 
 

2008/04/22 (火) 近くの人こそ、与えよう。

 いいことばに出会うとうれしいですね。

 「だからこそ、お母さんとかお父さんとかに、『おはようございます』
  や『おやすみなさい』って言うことができるリーダーじゃないとダメ
  なのよ」

 (ドキッ!)

 人は遠くの人には丁寧にかかわるけれど、近くの人には意外と甘えが
出て、粗末に扱ったりする。

 むしろ近くにいる人こそ大事なんだ、という教えですよね。

 イエス様に従っていた十二弟子は、いつもイエス様といっしょにいて、
日常の中にイエス様の「愛」や「優しさ」を見ていたんだろうな。

 ただの教理や教えじゃなく、「愛」の実際によってつながっていたはず
です。

 「愛」は求めるものでなく、こちらから与えていくもの。

 甘えがある人は、良くしてもらっても「ありがとう」を言いません。

 「求めること」に慣れています。

 軽いノリで要求してしまいます。

 そして、しっ放しです。

 よかれと思って「要求」することだってあります。

 でも、要求はチャレンジであって、与えることではありません。

 「与える」ことから始めたい。

 与えることが「愛」なのですから。

 聖書のことば
「長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたを
 ほんとうに愛しています。」
                ヨハネの手紙第2/1節

 
 

2008/04/21 (月) 永遠の時を、生きよう。

 神様と私たちとの間で、最も大きなギャップがあることは、

 「時間感覚」だと思います。

 「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
                 (第2ペテロ3:8)

 神様は永遠の過去から、永遠の未来というスタンスで私たちを見て
おられます。

 この長さで、愛しておられます。

 私たちはあまりにも「今」という感覚が染みついているので、このこと
を見失ってしまうことがあります。

 「今」が悪ければ、だめだと嘆き、
 「今」が良ければ、満足に浸る。

 今月ダメなら、自分には祝福はないと思い、
 今年ダメなら、神様はもう愛しておられないと思う。

 神様はそんなふうに、私たちを見ておられますか。

 「今」限定の祝福なんて、本来ありません。

 私たちの良いも悪いも、すべて神様の御手の中にあります。 
 私たちの過去も未来も、すべて神様の御手の中にあります。

 「あの時は祝福されてた」

 「今はあまり恵みがない」

 神様に対して、こんな失礼な言葉はありません。

 もし恵みがなければ、信仰生活そのものもあり得ないのです。

 聖書のことば
「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどである
 かを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛
 を知ることができますように。」
                   エペソ3:18、19

 

2008/04/19 (土) 半端を、超えよう。

 ホームパーティーを主催する時のスタンスは、ある親しい友人の

 影響を、私はかなり受けています。

 彼は与える恵みに満ちていて、それも半端じゃありません。

 これでもか、と良くしてくださるのに、何の要求もしてこないのです。

 そんな素ぶりさえ見えない。

 人は純粋に善を行なおうと思うけれど、案外下心がちらっと見えたり
します。

 「ああ、やっぱりな」とか、「そりゃそうだろうな」となります。

 たとえ相手が、クリスチャンであってもです。

 下心じゃなくっても、秘めたる願いは、人には必ずあります。

 それはそういうものです。

 ただ中途半端な親切には、下心が見え見えだということです。

 半端じゃない親切に対して、初めて人は頭を下げるようになる。

 「参りました」となるのです。

 ホームパーティーは、そういうスタンスを目指しています。

 人は必ず頭を下げるようになります。

 思いをはるかに超えた、イエス・キリストの愛に。

 聖書のことば
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」
                 エペソ3:19
 

 

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