昨年、経済産業省の「近代化産業遺産群」に認定された犬島精錬所跡(岡山市犬島)。この精錬所と、倉敷市中庄にあった帯江鉱山の関係をご存じでしょうか。
帯江鉱山は、中国民報(山陽新聞の前身)の創始者坂本金弥が明治時代に本格的に経営、大阪に支店を構え、外国商館を通して輸出していた岡山でも有数の銅山でした。
初めは現地で採鉱から精錬まで手掛けていましたが、煙害が次第に深刻化。地元住民の反対運動が激しくなったため、一九〇九(明治四十二)年、犬島に精錬所を移したのです。帯江鉱山は、犬島精錬所のルーツ的な存在なのです。
犬島は今、再び脚光を浴びようとしています。二十七日には跡地が直島福武美術館財団によるアートプロジェクトの舞台としてよみがえりました。煙突などの遺構群は新たな命を吹き込まれました。
一方、帯江鉱山は、歴史の草むらに埋もれようとしています。中庄地区を中心とした跡地には今も、倒れたままの赤れんが煙突や火薬庫跡、精錬かすのブロックを城壁のように積み上げた遺構などが点在するものの、公的な保護の手は差し伸べられていません。中庄で生まれ育ち、鉱山跡地が遊び場だった私の知る限りでも、かなりの遺構が姿を消し、寂しさを感じます。
犬島はこれから、多くの観光客が足を運ぶことでしょう。その際、ここの精錬所に、川を下り、瀬戸内海をへて鉱石を運んでいた鉱山が、倉敷の町に近い丘陵部にあったことも、ちょっと思い出してみてください。
(ニュース編集部・木村慎二)