歌のトレーニングで引きこもりを克服する「声楽療法」を続ける指揮者、佐藤宏之さん(60)が茨城県の自宅に加え、東京・田端にスタジオを開設。通えるようになった人は「ここまで回復できてうれしい」と話す。『社会的ひきこもり』などの著書のある精神科医、斎藤環さん(46)のもとで医学的検証も進んでいる。(八並朋昌)
◇
「フッフッフッ」。JR田端駅前のビル3階にある12畳ほどのスタジオ。発声に合わせて上腹部を勢いよく突き出す佐藤さんの手本を見て、横浜市の女性(22)も発声トレーニングを10分ほど続ける。
「それじゃ今日の歌にいきましょう」と佐藤さん。
ピアノ伴奏に合わせて、女性が「故郷(ふるさと)を離るる歌」を歌い始めた。付き添いの母親(59)も、ソファで一緒にリズムをとる。
「“さらばふるさと…”と繰り返す部分は、繰り返すごとに声を大きく」と佐藤さんは指導するが、女性はうまくできない。しかし佐藤さんはそれを指摘することなく2曲目の「この道」に移り、「今日は高音部がよく出ますね」とほめたうえで、「故郷を離るる歌」に戻った。すると女性は繰り返し部を指導どおり歌えた。「気分を変えると、できることがあるんです」と佐藤さん。
声楽団体「二期会」のバリトン歌手でもある佐藤さんは、40代で指揮法を学んだ異例の指揮者。イタリア留学で習得した伝統唱法に、独自の筋トレーニングなどを加えた「佐藤式ベルカント発声法」は、鑑賞中心の音楽療法では得られない顕著な効果を上げている。当初は茨城県阿見町の自宅スタジオのみだったが、「遠い」という声を受け、昨年9月に田端スタジオを開設。毎週金、日曜に都内レッスンを行っている。
◇
女性は「高校時代から感情の浮き沈みが激しく、短大進学後に引きこもりになった。進路選択を後悔していたところに、アルバイトの忙しさや失恋が重なり、心のバランスが崩れた。話すことも起きることもできなくなった」という。
心療内科を受診し、抗鬱剤を服用したが「気力は回復せず、2年間悶々(もんもん)としました」。レッスンを始めたのは昨年末。「最初は嫌々だったのが、4回目くらいから歌うのが楽しみに。今はごはんもおいしく、家の掃除など何かをできるようになったことがうれしい」
9回目のレッスン後、経緯を語る女性を見て、伴奏のピアニスト、小松沢恭子さんは「最初は言葉も出せなかったのに、こんなにしっかり話せるようになるなんて」と驚きを隠さない。
佐藤さんは「奇声を発し猿のように歩く引きこもりの20代男性は、毎週1回のレッスンを9カ月続けて回復。就職もできた」。「声が小さくて会社で発言を無視される」と悩んだ30代男性は、数回のレッスンで声が出るようになり「無視されなくなった」という。
◇
斎藤さんは、こうした回復例を自分の目で見て、一昨年11月から、診療部長を務める千葉県船橋市の爽風会佐々木病院で、佐藤さんを招いた声楽療法を隔週で試行。入院、外来、デイケアの10〜80代の、引きこもりをはじめ認知症、統合失調症の患者が「毎回15人ほどでグループレッスンを受けている。個人レッスンより効果は薄いが、何を勧めても参加できなかった人が続けられるなど、2割ほどの人に顕著な効果がある」といい、学会発表に向けた研究論文作成に着手した。
斎藤さんによると、成人を含む引きこもりは100万人を超す。「佐藤先生は決して強制的なことは言わずに“うまく歌う”よう導く。これが自己コントロールや精神バランスを引き上げるのでは」と分析する斎藤さんは「療法機会を増やすため、佐藤式メソッドをきちんと習得したお弟子さんが増えれば…」と話す。
問い合わせは佐藤さんの自宅スタジオ(電)029・887・2394、ファクス029・887・7233。佐々木病院(電)047・429・3111。
【関連記事】
・
東京都内の引きこもり2万5000人 都が初の推計調査
・
【Re:社会部】孤独から救う強引さ
・
22歳女性が窒息死 両親「引きこもり…押さえつけ…」
・
横浜市職員が覚醒剤 自宅に引きこもり匿名通報
・
長〜い冬休みの弊害 ロシア、引きこもり…家族崩壊?