チュニジア

カルタゴの遺跡を訪ねる
カルタゴの歴史は紀元前9世紀に始まる。

現在のレバノンあたりにあったフェニキア
美人との誉れ高いエリッサ女王は王権争いに敗れ、
亡命したところが、北アフリカの港だった。

アルファベットを発明したフェニキア人は、
航海術に優れていたので
地中海を東へ西へ商業活動していた。

北アフリカのこの地は
もともとベルベル人の支配する土地だったが、
紀元前814年に、
フェニキア人はこの地に都市を築いた。
カルタゴという名は、新しい城という意味である。



カルタゴは、シシリー、サルディニア、
マグレブ一帯から南スペインにまで版図を広げ
紀元前6世紀から紀元前2世紀の間繁栄していた。

カルタゴはシシリーをめぐって、
ローマと対立していたが
紀元前264〜261年の第1次ポエニ戦争によって、
カルタゴはシシリーを失う。

紀元前219〜201年の第2次ポエニ戦争では
カルタゴの名将ハンニバルが、
象部隊をひきいてアルプスを越え、
ローマを攻めた。

紀元前146年の第3次ポエニ戦争で
カルタゴはローマ軍に敗れ
カルタゴの町は破壊されつくした。
そのすごさは、建物を破壊しただけではなく、
草木も生えてこないように
塩をまいたほどといわれている。


     ローマ時代のカルタゴの遺跡


カルタゴ時代で残っているものに、
トフェの墓地がある。

ここは、フェニキアの古代宗教の神と
カルタゴの守護神の聖域であったところで
何千人もの幼児がいけにえとして捧げられたといわれる。
墓地はこうした幼児を祀ったものである。
奥には幼児の首を切った台もある。


    カルタゴ時代の遺跡・トフェの墓地


その後、ローマはローマ市民を移住させることで
都市としてのカルタゴを再興しようとした。

ユリウス・カエサル
(ジュリアス・シーザー)による
カルタゴ再興は
跡を継いだアウグストゥスの手で現実になる。

現在残っている遺跡は、アントニウスの共同浴場、
劇場、ローマ人の住居跡などがある。


ローマ領になったカルタゴは、
ローマの穀倉地帯といわれるようになるとともに
ラテン神学の発祥の地となるまでに文化的にも発展した。

キリスト教がローマの国教となった4世紀には、
キリスト教史の中でも最大の思想家の一人といわれる
聖アウグスティヌスがカルタゴに生まれ、
カルタゴ近郊のヒッポで司教となっている。

聖アウグスティヌスは多くの著作を残しているが、
『 あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ
 わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない 』
と冒頭に表明している「告白録」は、
回心に至るまでの魂の奇跡を記しており
哲学的にもたいへん重要である。
白い壁とチュニジアン・ブルーの町
シディ・ブ・サイドの町は、
カルタゴのすぐ北にあるので
チュニスから日帰りで両方を観光できる。


      シディ・ブ・サイドのTGM駅

シディ・ブ・サイドには、
フランスの聖ルイ王にまつわる伝説がある。
聖ルイ王は、フランスの歴史の中でも
人徳豊かな国王として知られる。

13世紀の十字軍遠征において、
聖ルイ王はチュニスを攻める途中に、
ペストにかかってなくなるが
伝説によれば、美しいベルベル人との恋のために、
イスラム教に改宗し
シディ・ブ・サイドと名前を変えて余生を送ったという。

チュニジアの美しい風土に似つかわしい伝説である。


          石畳の坂道

  土産物屋に並ぶ陶器もチュニジアンブルー

この町は、白い壁と、
チュニジアン・ブルーの窓枠や
ドアの美しい家並みがとても魅力的で、
いかにも地中海的である。
チュニスの小さなメディナ
チュニスのメイン・ストリートのフランス通りの突き当たりにある
フランス門は、メディナへの入り口になっている。

チュニスのメディナは小さくて、
割りときれいなので比較的歩きやすい。
フランス門の右手からメディナのメイン・ストリートになる。


         フランス門 

チュニスのメディナの通りの名前をよく見ると
布の通り、帽子の通り、香水の通りなどとあっておもしろいが
これは同業者が同じ路地沿いに集まっているからだろう。

メディナは、7世紀にアラブ人が北アフリカに
侵入して来て建てられた古い町なので、
城壁に囲まれたメディナの中は1000年以上前と同じ光景が
繰り広げられているところもあるのだろう。


       メディナの中の大モスク

大モスクは、8世紀に建てられた。
正式名はズイトゥーナ・モスクで、
オリーブのモスクともいう。
オレンジ色のミナレットと
馬蹄形をしたアーチの連なる回廊が素晴らしい。
中庭は質素ではあるが、
重々しい感じがする。


チュニジアのモスクは四角いミナレットが多い

     ミナレットはランドマーク・タワー    

       屋根の付いたスーク

  かまぼこみたいに連なるスークの屋根

    高いところからメディナを見ると・・・

チュニスに限らず、
アラブのメディナはまずモスクが中心にあり
それを囲むようにスークや住居があり、
いちばん外側に城壁がある。
チュニジア鉄道の旅
チュニジア鉄道には、
TGMとグランド・リーニュ(長距離電車)の2つの系統がある。
TGMはBanlieue Nordの略で,
カルタゴやシディ・ブ・サイドなど近距離電車。


  チュニス中央駅(長距離電車の発着駅)  


中央駅の中には、銀行や郵便局もある。

主要路線は、チュニス〜スース〜スファックスの
地中海沿いの路線で便は良い。


       スース行きの列車

     6:30        8:45
チュニス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・スース


     海岸通り近くにあるスース駅

スースの町は、地中海に面した明るい町である。
海岸通りは、やしの並木と白亜の建物が並んでいて
コート・ダジュールの雰囲気がある。

スースのメディナは、駅のすぐ近くにあり、
9世紀に造られたといわれているが
城壁は比較的新しく、コンクリートできれいに修復されていた。

メディナの中には、851年に建てられたグラン・モスクがある。
グラン・モスクの中庭に入ると、壁面にアラビア文字が
美しい装飾のように彫りつけられているのが目につく。

アラブ社会を訪ねると、
幾何学模様の壁面装飾をいたるところで目にするが
あの幾何学模様がかもし出す、
素晴らしい均衡の感覚には、いつも感心する。
チュニス〜ジェノヴァ航路
チュニジアのヨーロッパ航路は、
チュニスの外港ラ・グーレットに発着する。


   チュニジアの豪華客船「ハビブ」号



チュニスを出港した船は、シチリア島、イタリア半島を東に
サルデーニャ島、コルシカ島を西にしながら
ジェノヴァに向かって北上するのだが
多くは夜間航行なので島影を見ることはほとんどない。


    チュニスから地中海を北上する 

イタリア半島と接するマグレブ東端のチュニジアは
かつてローマ帝国の「アフリカ州」だったが
さらに歴史をさかのぼって、
チュニジアがカルタゴと呼ばれていた時代には
共和政時代のローマにとっての宿敵であった。

チュニジアが歴史の教科書に登場するのは、
このカルタゴと呼ばれていた時代。
とりわけ名将ハンニバルとローマ帝国の戦いはドラマティックだった。

ポエニ戦争
(BC3世紀〜BC2世紀にかけてのローマとカルタゴの戦い)前の
カルタゴは、北西アフリカ一帯を根拠地にし、
サルデーニャ、コルシカの両島を前線基地にして
地中海世界の商業活動をリードする大国であった。

第1次ポエニ戦争(BC264年〜BC241年)では、
地中海史上最大といわれる海難事故が
シチリア島の南でローマ側に起きている。

この海難事故で、230隻のローマ艦隊のうち
難を逃れたのは80隻のみで
ローマは6万人を失っている。



    ジェノヴァの街をはるかに臨む

          ジェノヴァ港        

   ヨーロッパ〜アフリカ間の物資輸送

ジェノヴァは、イタリア最大の港町である。

かつては、地中海の覇権をめぐって
ピサやヴェネチアと何度も戦った歴史がある。

ジェノヴァもナポレオンによる征服までは
ヴェネチアと同じように、独立共和国であった。


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