真説日本古代史 本編 第十部 原始国家から専制国家へ(2) 1.任那滅亡 継体朝の末期以降、ヤマト政権と「百済」・「新羅」の力関係は、『好 太王碑文』に見られる時代や「倭の五王」時代とは違って、ヤマト政権優 位とはとても言えなくなってきている。 『日本書紀』は対等以上の記述を試みているが、その内容は防戦一方で あるとしか読みとれない。 時のヤマト政権は、「百済」への「任那」四県割譲を認めたばかりか、 欽明朝においては「新羅」の「任那」侵略が際だっている。 欽明天皇も「百済」との協力により「任那」復興を模索したが、「百済」 は意に反して、「任那」進出の機会をうかがい始めた。 さらに突然の「高句麗」の「百済」侵攻により、「任那」政策どころで はなくなった「百済」に、手を貸したのは「新羅」だった。 このことから「高句麗」軍は撃退された。 この結果、「新羅」は「任那」政策にも首を突っ込んでくることになっ た。平和的な解決ができなくなったヤマト政権は、軍事的解決をこころみ たが、『日本書紀』はことの成否を語らない。 「二十三年春一月、新羅は任那の宮家を打ち滅ぼした。」 これは562年のことである。 欽明は、臨終に際して次のように語っている。 「自分は重病である。後のことをお前(敏達天皇)にゆだねる。お前は 新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのごとく両者相和する仲と なるならば、死んでも思い残すことはない」 しかし、欽明が親新羅派だったことから、欽明崩御までの一連の記述は、 にわかに信じ難いものとなってくる。 事実は、ヤマト政権と結んでいたのは「新羅」であり、それは「百済」 のゲリラ戦によるによる「倭国」侵攻に防戦するためであった。 しかしながら、その機会空しく、欽明崩御の混乱に乗じた「百済」は、 「倭国」の政権を乗っ取ってしまったのである。 「百済」・「新羅」の両国に比べ「倭国」のヤマト政権は建国が早く、 そのために朝鮮外交も有利に展開できていたのだが、建国後の「百済」・ 「新羅」は国内情勢も安定することにより、他国の高い文明を早期に吸収 していったのであろう。具体的に言えば、地続きである中国から伝播され る文化・文明にさらされることにより、急速に発展していったものと思わ れる。 国威の優劣は雄略の時代を境に逆転し始め、継体の頃ほぼ劣勢となった 以降、欽明朝に至ってはヤマト政権の威勢など、他国に及ばなくなってし まっている。これらは『日本書紀』の記述が匂わしているものである。 『欽明紀』には、特筆すべき割り注が記述されていた。先に紹介した 「ある本によると、・・・・」 で始まる一文であるが、『欽明紀』こそ巻頭であったことを証明してい る記述でもあった。これを『十巻本』の巻第一としたが、この部分が大い に重要であるからこそ、序文とも言えよう割り注が必要があったのだと思 われる。 ここに記載されている「泥部穴穂部皇子」(ほしひとのあなほべのみこ) こそ正式な皇太子であり、割り注以前に記載されている「訳語田淳中倉太 珠敷尊」(おさたのぬなくらのふとたましきのみこと、後の敏達天皇)は、 敏達を欽明の系譜に連ねるために、挿入された記述ではないかと思えてし まうし、実際そのように考えている。 欽明天皇の十六年春二月、「百済」の王子「余昌」(後の威徳王)の弟 「恵」が奏上し、「聖明王」の死を報じている。 十七年春一月には、次のように記されている。 「百済王子の恵が帰国を願い出た。よって多くの武器・良馬のほかいろ いろの物を賜り、多くの人々がそれを感歎した。阿部臣・佐伯連・播磨直 を遣わして、筑紫国の軍船を率い、護衛して国に送りとどけさせた。別に 筑紫火君を遣わし、勇士一千を率いて、弥弖に送らせ、航路の要害の地を 守らせた。」 何とも仰々しい記述である。「筑紫」は「百済」の手中とも読める記述 であり、後には、実際そうだったのであろう。 軍船を護衛をつけ、しかも航路の要害の地を守らせたのだ。と言うこと は他方からの攻撃を察知していたということになる。 この他方とは「新羅」と考えるのが一般的であろうが、後の敏達が 百済 政権であることからすれば、ヤマト政権(以後、倭国政権)であった可能 性が高い。 欽明朝半ばにはすでに、「百済」は「倭国」に侵攻していたと考えられ る。 もう一度繰り返すが、欽明は臨終に際して次のように語っている。 「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、 任那を封じ建てよ。またかつてのごとく両者相和する仲となるならば、死 んでも思い残すことはない」 はたして本当に「新羅」なのだろうか。欽明の殯に「新羅」は哀悼の意 を表しているのである。従って「新羅」を「百済」と読み替えたほうが、 つじつまが合うというものだ。 そして敏達の御代に、「蘇我馬子」は大臣になっている。私見による大 臣とは大王と同意である。つまり「蘇我馬子」は大王になったのであり、 欽明が全権を委ねた者とは「蘇我馬子」であったと思われる。 敏達は、「百済」の「威徳王」の弟「恵」の落とし種ではないか。皇后 の「石姫」は継体の皇子で宣化の娘である。 かつての継体朝は「百済」と同盟関係にあり、「石姫」を皇后に選んだ ことに問題があろうはずが無く、むしろ皇統維持のための積極的な婚姻と 考えられる。 畿内に存在した二つの王朝は、武力抗争により互いに第一政権を交代し ながら、「壬申の乱」という結末により、一時的に終結したのだと考えて いる。 これを系図にすると、おおよそ下記のようになる。 「百済政権」 敏達───舒明─────皇極(斉明)─天智─弘文 「倭国政権」 蘇我馬子─物部鎌姫大刀自連公─孝徳─────天武 (聖徳太子こと入鹿摂政時代) 2.蘇我馬子の崇仏 敏達朝は、三韓からの使者との間でもいくつか事件を起こしている。 例えば、敏達天皇二年秋七月一日の条として、 「越の海岸で難波と高麗の使いらとは相談し、送使難波の船人、大島首 磐日と狭丘首間狭を高麗の使いの船に乗らせ、高麗の二人を送使の船に乗 らせた。このように互いに入れ違えて乗らせ、悪事をたくらむことへの用 意とした。一緒に出発して数里ほど行ったとき、送使難波は荒波を恐れて、 高麗の二人を海に投げ入れた。」 他にも帰国子女「日羅」殺人や、「高句麗」の副使が大使を刺し殺した 説話など、『敏達紀』の多くはこのような記事に終始している。 三韓の使者と問題を起こしている記述は、敏達朝自身が非常に不安定な 政権であったことを物語っていると思う。 そんな『敏達紀』の十三年秋九月の条に、「百済」から来た「鹿深臣」 が弥勒菩薩石像一体を、「佐伯連」も仏像を一体持ってきたとある。 これを「蘇我馬子」が請けたときから「馬子」の崇仏、「物部守屋」の 排仏が始まったようであり、『崇峻紀』には「蘇我馬子」と「厩戸皇子」 との連合軍が、「物部守屋」軍を壊滅させ「守屋」を敗死に追い込んだと 締めくくっている。 俗に言う、「蘇我・物部の宗教戦争」である。 ちなみに仏教公伝は、『欽明紀』十三年冬十月の次の記録の時と言われ ている。 「聖明王は西部姫氏達率怒ロ利斯致契らを遣わして、釈迦仏の金銅像一 体・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった。」 さて、その「蘇我・物部の宗教戦争」であるが、『日本書紀』からみた そのいきさつを箇条書きにしてみると次のようになる。 @用明天皇二年夏四月、用明天皇の崩御 A五月、物部守屋、密かに穴穂部皇子を天皇に推す B六月、蘇我馬子、穴穂部皇子を殺す C七月、蘇我馬子、諸皇子と群臣(注)とに勧めて物部守屋の滅亡を誅 する (注)泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子 紀男麻呂宿禰・巨瀬臣比良夫・膳臣賀陀夫・葛城臣烏那 羅・大伴連ロ歯・阿部臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・ 春日臣 D朝廷軍は三度退却したが、厩戸皇子・蘇我馬子の誓願により勝利する E八月、泊瀬部皇子即位(崇峻天皇) この間に『日本書紀』は、次のような一文も載せている。 「時の人は語り合って言った。『蘇我大臣の妻は、物部守屋の妹だ。大 臣は軽々しく妻の計を用いて、大連を殺した』と。」 「物部守屋」の私軍に対して、諸皇子・群臣十五人が率いた朝廷軍が、 三度も退却させられたというが、それほど「守屋」は強かったのだろうか。 この結果「物部」宗家は滅亡し、後世に名を残した「物部氏」は傍流で あるという。 また、「厩戸皇子」・「蘇我馬子」の誓願とは寺塔を建立することであ り、おのおの「四天王寺」・「元興寺」を建てている。 ところが、『崇峻紀』の約半分を割いて記述されている「蘇我・物部の 宗教戦争」であるが、戦争終結後の人事は、 「蘇我馬子宿禰を前のように大臣とした。群卿の位もまた元のごとくで あった。」 としており、「物部守屋」がいなくなった以外は、何ら変化がなかった のではないか。 大連の位は、この後置かれることがなかったので、政権担当システムが これを機に変わったと言っても差し支えないと思うが、それにもかかわら ず、人事に変更がなかったことは、いったいどういうわけなのだろうか。 これら一連の『日本書紀』の記述に、疑いを抱かせる文献が存在する。 『先代旧事本紀』である。この文献は「物部氏」の私的史書であることが 通説になっているが、「物部守屋」滅亡に関していっさい語っていない。 また、「物部守屋」を本宗家と記述している『日本書紀』に対して、傍 流としている。 『先代旧事本紀』は、なぜ守屋を滅亡させた「蘇我氏」を声を大にして 非難しないのか。 そして「蘇我氏」と関係の深い『元興寺縁起帳』は、「物部氏」の迫害 については記すものの、最終的には「蘇我・物部」の両者は和解したとし ているらしい。 『日本書紀』は、「蘇我氏」が「物部大臣」と呼ばれていたと記してい るが、それは「馬子」の妻が「守屋」の妹であり、母方の財力によって世 に威勢を張ったかららしいが、それは兄を滅亡に追い込んだ「馬子」と、 婚姻 関係を続けたということであり、それはあまりにも人の心理を無視し た記述ではないだろうか。 「聖徳太子」についてもそうなのだが(叔父の崇峻天皇を殺した相手で ある「馬子」と政治を司っている)、無謀な記述には必ずからくりがつき ものであると考えている。 従って、『日本書紀』が記すような大々的な宗教戦争など無かったので あり、「守屋」邸を中心にした小競り合い程度のことであったのではない か。 さらに、「守屋」滅亡の後も「物部氏」は要職についているのである。 例えば、「壬申の乱」の時に「大友皇子」に最後まで従っていた舎人に、 「物部連麻呂」がいるが、彼は後に、筑紫総領、中納言、大納言、太宰師、 右大臣を歴任し、養老二年左大臣正二位で亡くなっている。 また天武天皇の殯には、「石上朝臣麻呂」として法官のことを誄してい る。 おそらく『先代旧事本紀』のいう「物部守屋」は傍流が真実なのであろ うし、「石上朝臣」こそ「物部氏」の本宗家であったのだろう。 大阪府南河内郡太子町に「叡福寺」が現存している。最盛時には八町歩 という広大な敷地を有したという。 そこに「聖徳太子」の墓があるのだが、「叡福寺」の門前にある「西方 院」は、「太子」の三人の御乳母である「善信」(蘇我馬子の娘)、「禅 蔵」(小野妹子の娘)、「恵善」(物部守屋の娘)が出家し、太子御廟の 前に一宇を建立したのが始まりだというのである。 なぜ「馬子」の娘と太子に滅ぼされた「守屋」の娘が、いっしょに太子 の御廟を守らなければならなかったのか。 このことにこそ真実が隠されているとしか思えない。 ここで第9部で紹介した系図を思い出して欲しい。 『元興寺縁起帳』 ? ├──────聡耳皇子(大王・元興寺をつくる) 大々王(物部氏の出身) 巷奇有明子(蘇我馬子) ├──────善徳<長子>(元興寺を建てる) ? 『日本書紀』 蘇我馬子 ├──────善徳(元興寺の初代管長) 物部守屋の妹 『先代旧事本紀』 宗我嶋大臣(蘇我馬子) ├──────豊浦大臣、名を入鹿 物部鎌姫大刀自連公 「物部守屋」の妹は、「物部鎌姫大刀自連公」といい、その実、大々王 であったではないか。 「蘇我馬子」は大臣である。大臣は大王と同位であろうことは既に述べ てあるが、そんな馬子を差し置いて大々王と言わしめた「物部鎌姫大刀自 連公」とは、文字通り大王以上の大王であったに違いない。 これらのことから「物部氏・蘇我氏」の両者の間で、何か約束事があっ たのだと思われる。 あくまでも推測しかないのだが、「馬子」が「守屋」の妹である「物部 鎌姫大刀自連公」と婚姻することにより、「物部氏」と同族となり「馬子」 はその地位を「物部鎌姫大刀自連公」に譲位した。 「馬子」は無位になったのだが、無位ということは、比較する対象の地 位がないというこだ。つまりこれほどの最高位はない。 そして、政治は「馬子」指導のもと、両氏の子である「聖徳太子」が摂 政として遂行し、ここにトロイカ体勢が確立したのであろう。 結局、「物部氏」宗家(守屋ではない)は、「蘇我氏」の持ち込んだ仏 教を、当時の政情から容認せざるを得なかったのであり、その結果が両者 の和解同族化であると思われる。 朝鮮諸国と「倭国」の関係は、仁徳王朝を前後して逆転してしまったの だと思う。つまり、仁徳以前は「倭国」の朝鮮半島政策が色濃かったのだ が、以降は徐々にではあるが、朝鮮諸国からの影響が「倭国」を脅かすよ うになったのである。 その目に見える逆転時期は、継体朝時代であると思う。 確かに「物部氏」は、古代より神道を継承してきた一族であったのだろ う。しかし、「物部氏」と言えども、大陸から渡ってきた仏教を取り入れ 「倭国」の近代化を推進しなければ、「倭国」はさらに衰退していってし まうことはわかっていたのだと思う。 いち早くそれに目を付けたのが「蘇我氏」であり、悪く言えば「物部氏」 を利用したのであるが、「物部氏」も追従せざるを得ない状況であった。 なぜなら、時の政権は「百済」政権(敏達朝)であったからである。 ただし、宗教として仏教を導入したのではなく、文化としての仏教を導 入したのであるが、いずれにしても教典を伴うものであるので、結果とし ては同じかもしれない。 唯一の誤算は、「物部氏」の傍流「守屋」の反発であったが、このよう な崇仏・排仏をめぐる争いについての記事は、「物部氏」を悪者とする飛 鳥時代の大寺院の僧侶たちの史観により、作られたものにすぎないという 説も提唱されている。 「蘇我氏」と「物部氏」の融合の最大の理由は、敏達朝に対抗できるで きる勢力を結集するためだったのであり、後にこれが功を奏して、敏達亡 き後の政権は再び「倭国」が奪取したのである。 「蘇我・物部」の融合の事実は、『日本書紀』編纂者にとって、ストー リーの展開上どうしても抹殺しなければならなかったことである。 「蘇我氏」が大悪人であればこそ、「中大兄皇子」と「中臣鎌子」(後 の藤原鎌足)が企てた「乙巳の変」(大化改新)の正当性を主張できるの であり、実際『日本書紀』は、「蘇我氏」が行ってきた悪行を次のように 掲げている。 @物部守屋殺害 A崇峻天皇暗殺 B山背大兄皇子殺害 さらに、「太子」の部民を使って大陵・小陵を造らせたとか、雨乞いを したとか、細かく述べればたくさんあるが、要人の殺害が一番の大悪行で あろう。 これらの殺害はすべて天皇家に対する迫害であるので、「中大兄皇子」 が「入鹿」殺害を決心したことは理解できるが、このままでは「鎌子」は 『日本書紀』がどのような装飾語で讃えようとも、単に殺害を手助けした 片棒にすぎない。 ところが、用明の二年夏四月二日、『日本書紀』はある事件を記載し、 「中臣氏」にまで大義名分を与えている。 磐余の河上で新嘗の大祭が行われたのだが、天皇は病にかかり次のよう に語られた後、宮中に帰ってしまった。 「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲し い。」 これをきっかけにして、崇仏・排仏論争が始まり「守屋」殺害につなが るのであるが、これに反対したのが、「物部守屋大連」と「中臣勝海連」 であった。そして「物部氏」側についた「中臣勝海」は、「蘇我氏」の手 勢に殺されたという。 つまり、「蘇我・物部」の融合があっては、被害者「中臣氏」の存在が 宙に浮き、後の「中臣鎌子」に大義名分を与えることができないというこ とだ。ただし、現代の歴史観ではこの「中臣氏」と「鎌子」は、同族では ないとするのが一般的のようである 古史古伝の一つである『九鬼文書』は、「物部守屋」は東北に逃れたと いうが、これが案外真実なのかも知れない。 3.蘇我氏の出自と二つの百済 武内宿禰─石川─満智─韓子─高麗─稲目─馬子─蝦夷─入鹿 上記は「蘇我氏」の系譜とされているが、初期の頃はともかく、皇統と 深くかかわるようになった「稲目」の代以降になっても、なぜか母方の系 譜が不明のままなのでである。まさに不審としか言いようがない。 これだけでも「蘇我氏」という人物像が、創造されたことの傍証のひと つとなっている。 さて、『応神紀』二十五年の条に、 「二十五年百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。王は 年が若かったので、木満致が国政を執った。王の母と通じて無礼が多かっ た。天皇はこれを聞いておよびになった。───百済記によると、木満致 は木羅斤資が新羅を討ったときに、その国の女を娶って生んだところであ る。その父の功を以て、任那を専らにした。我が国に来て日本と往き来し た。職制を賜り、わが国の政をとった。権勢盛んであったが、天皇はその よからぬことを聞いて呼ばれたのである。」 とある。 この「木満致」と「蘇我満智」の名が同音であり、ついで「韓子・高麗」 という名が朝鮮半島にゆかりがあることから、「蘇我氏」は百済系渡来人 であるという説がある。 「蘇我満智」は『履中紀』二年春一月四日の条に記されているように、 「平群氏」・「物部氏」・「円氏」らとともに国政に携わっている。 応神天皇=仁徳天皇であることから、「満智」の登場時期と「満致」の 来朝時期がぴったり重なってくる。このことから、「木満致」=「蘇我満 智」は事実であると考えている。 興味深いことは「満致」が「百済」の国政を執り、しかも「任那」をも 手中にしていたことである。 時代は異なるが、これとそっくりの説話が『雄略紀』五年夏四月の条と それに続く条に記されている。 「夏四月、百済の加須利君が、池津媛が焼き殺されたことを人伝に聞き、 議って、『昔、女を貢って采女とした。しかるに礼に背きわが国の名をお としめた。今後女を貢ってはならぬ』といった。弟の軍君に告げて、『お 前は日本に行って天皇に仕えよ』と。軍君は答えて、『君の命令に背くこ とはできません。願わくば君の婦を賜って、それから私を遣わして下さい』 といった。加須利君は孕んだ女を軍君に与え、『わが孕める婦は、臨月に なっている。もし途中で出産したら、どうか母子同じ船に乗せて、どこか らででも速やかに国に送るように』といった。共に朝に遣わされた。 六月一日、身ごもった女は果たして筑紫の加羅島で出産した。そこでこ の子を嶋君という。軍君は一つの船に母子をのせて国に送った。これが武 寧王である。百済人はこの島を主島という。 秋七月、軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。───『百済 新撰』によると、辛牛年に蓋鹵王が弟の昆支君を遣わし、大倭に参向させ、 天王にお仕えさせた。そして兄王の好みを修めた。とある。」 まず、本文中の「軍君」は『百済新撰』の「昆支君」と、同一人物であ ることはすぐに判明する。また『百済記』の「木羅斤資」は「もくらこん し」と発音するらしい。「昆支」も「こんし」と読める。 「筑紫」の加羅島とはいうものの、伽耶諸国の中の「加羅国」、それは 「任那」かもしれない。(逆に『日本書紀』のいう「任那」あるいは「日 本府」は、筑紫にあったと言う説も考えられなくはない。また、主島はニィ ムナと発音でき「任那」そのものである。) 『百済記』と『百済新撰』の二つの説話の年代差は、『日本書紀』に従 えば約一世紀である。しかし原典は同一の説話であり、二つの史書に採用 されたときから、別々の説話のようにされてしまったか、『日本書紀』が ある目的を持って、別々の時代の説話として引用したのではないだろうか。 もし後者であると仮定したならば、その目的とは「蘇我氏」の出自隠し であると考えられよう。 「武寧王」は「嶋君」と称されていたことは、『日本書紀』自身が認め ているが、「嶋」の名乗りを持つ者はもう一人いることをお忘れだろうか。 「嶋大臣」こと「蘇我馬子」である。 同じ名乗りを持つ者は、同一人物か直系の同族とみてもよいのではない だろうか。 考えてみれば「昆支」が、日本に渡航するために兄(百済王)の妃を賜 りたいとする申し出は、いかにも造作くさいと言えはしないか。 実は「武寧王」が「昆支」の子であるという記載が、『武烈紀』四年の 条にあるのである。 「この年、百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王 を捨てて、嶋王を立てた。これが武寧王である。───百済新撰にいう。 末多王は無道で、民に暴挙を加えた。国人はこれを捨てた。武寧王がたっ た。いみ名は嶋王という。これは昆支王子の子である。即ち末多王の異母 兄である。昆支は倭に向った。そのとき筑紫の島について島王を生んだ。 島から返し送ったが京に至らないで、島で生まれたのでそのよう名づけた。 いま各羅の海中に主島がある。王の生まれた島である。だから百済人が名 づけて主島とした。今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支 王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない。」 ただし、「武寧王」は、王陵の墓誌銘から523年62歳没し、逆算す れば、462年生まれであることははっきりしているので、「武寧王」= 「蘇我馬子」が成立しないことは明らかである。これらを考慮に入れて系 図を修正すると、下記のようになる。 昆支(斤資)─武寧王(満致・嶋王)─稲目?─馬子(嶋大臣)─入鹿 「武寧王」を「昆支」の子としながらも、実は「蓋鹵王」の子であると いう態度は実に不穏であり、結局、「武寧王」の出生が謎に包まれている からではないのだろうか。「武寧王」の出生には公にできない秘密がある のだと思う。 「木満致」は「百済」の国政を執りながら、「任那」をも専らにしたと いう。彼は幼少の「百済王」の母と密通していたとか、父の「木羅斤資」 と「新羅」の女との子であるとか、これが事実だとしても、多分に悪意が 込められた記述になっているように思う。 しかも、「任那」を専らにしたということは、「百済」同様国政を執っ ていたというこにならないだろうか。 この記述の悪意の部分を取り除けば、「百済」・「任那」両国にまたが る執政であったように読める。 継体の御代、「任那」四県を得て、「百済」は復興したというが、この 「百済」の「任那」への侵攻が、加羅島の「武寧王」の出現につながって いる。「武寧王」は「加羅」を抑えていた百済王族であるか、あるいは次 期加羅国王候補だったのかも知れない。 そして、「武寧王」が百済王として復帰したとき、「武寧王」を仲介し て同国化し、それを継体朝に承認させたのかもしれない。 さらに、「武寧王」=「木満致」ではないかと匂わせる文献が、存在し ている。それが『三国史記』だと言ったら、驚かれるだろうか。 『三国史記』の『百済本紀』には、「木満致」(もくらまんち)が、 「蓋鹵王の時代に登場しており、「木満致」が「木満致」であることを、 疑うことはまずできないだろう。 475年に蓋鹵王が「高句麗」の策略によって殺された。「百済」が滅 亡の危機に瀕していた時、死の淵にいた蓋鹵王は、実子である後の「文周 王」と、腹心の「木満致」と「祖弥桀取」(そみけっしゅ)に対して 「おまえたちは必ず兵を率いて戻ってきて、百済の王統を絶やすな」 と言ったという。 「文周王」は「新羅」から兵を率いて戻ってきたが、後の二人の行方は 記述されていない。 これらのことにより、「木満致」は『日本書紀』のいう応神=仁徳時代 の人物ではなく、5世紀後半の人物であったことになり、「武寧王」と、 「木満致」の父の名が、共に「コンシ」(斤資=昆支)であることからみ ても「木満致」は腹心などではなく、武寧王と同一人物と言えないまで も、兄弟に近い血縁関係であったと推察できる。 従って「蘇我氏」の祖は、「百済」と「任那」にまたがる連邦?の王族 だったことになるし、その子孫と考えられる「蘇我氏」が、「漢(あや) 氏」系氏族や、「秦氏」などの渡来系氏族を(「加羅」からとも「百済」 からとも言われている)、傘下におくことができたことも一気に説明が付 いてしまう。 これについても、「蘇我氏」が葛城出身の単なる一豪族にすぎなかった とすれば、到底不可能な話であろう。 『日本書紀』は、「蘇我氏」は天皇の外戚としながらも、母方の血筋に 触れていない理由は、このあたりにあるのだろう。 さて、代々の倭国政権が、親新羅であったり親百済あったりするように、 「百済」本国も政権移動の度に、親倭国・親新羅など同盟国が移り変わっ たと考えられる。 『欽明紀』をみると、「新羅」に征服された「任那」を何とか復興させ ようとする政策を試みるが、「倭国」の行動を除けば、「百済」と対立姿 勢をみせる「新羅」・「日本府」(「任那」か?)の連合という図式に、 「高句麗」が「新羅」側に参戦するという、完全な「百済」包囲網となっ ている。 しかも「日本府」にいるメンバーは、「吉備臣」・「的臣」・「河内直」 であり、彼らは渡来系の氏族である。さらに「百済」にも「紀臣」・「物 部連」など「倭国」からの逆渡来人らしき名もみられる。 継体朝の時の倭国政権は、ある意味で二朝状態だったといえるが、同時 期に「百済」も分裂状態だったのではないのか。また「百済」だけでなく 「新羅」・「任那」の朝鮮諸国すべて分裂していたのかもしれない。 もっと言えば、例えば「毛野臣」に代表されるように、国家の枠組みを 越えて、一豪族が落城占拠せしめた地方に自治権を行使する(つまり建国 し国王となることである)、戦国時代さながらの様相になっていたのでは ないのだろうか。 しかも、その自治権を第三国に認定させるため、同盟を結ぶというよう なことも当然あったことであろう。 当事者である倭国政権は、朝鮮諸国に対して使者による調停を試みてい るが、朝鮮諸国優位のこの時代に、調停が成功するはずがない。 『日本書紀』は武寧王の即位をクーデターによるものと、推察させるに 充分な記載になっている。武寧王を即位させた勢力は、先代の王朝とは別 勢力であったはずだ。 そして、「武寧王」が薨じた後に立った百済王は「聖明王」なのである が。 この時代になると、倭国政権は「筑紫」を整備して海外の国に備えなえ なければならなかった情勢となっている。 「百済」からみれば、「武寧王」時代とは外交方針が変わったことにな る。友好から侵攻である。 この180°転換した方針は、「聖明王」即位の背景にも政変があった ことを物語っていると思う。 つまり、武寧王派と聖明王派とは、互いに敵視する関係であったと思わ れるのである。 敏達は「聖明王」の子「余昌」(威徳王)の弟で、「恵」の摘流であろ うことは既に述べてあるが、まさに聖明王系であると言える。 欽明天皇の十六年春二月、「聖明王」の戦死の報告のために「恵」が来 訪するのであるが、「恵」はおもしろいことに「蘇我氏」に諫められてい る。 「・・<前略>・・聞くところによるとあなたの国では、祖神を祀らな いということですが、今まさに前科を悔い改めて、神の宮を修理し、神霊 を祀られたら、国は栄えるでしょう。あなたはこれを決して忘れてはなり ません。」 「神を祀れ」とは、先進崇仏派である「蘇我氏」とは思えない言葉であ る。文字通りが真意であるとしたら。これは皮肉以外の何ものでもなく、 「蘇我氏」としては、聖明王系王朝をよく思っていなかったのではないか と思われる。 「蘇我氏」の祖を考えた場合、それはいっそうはっきりしてくる。 それが「木満致」とすれば、国政を執る立場ながら「百済」から追放さ れているのであるし、「武寧王」とすれば聖明王系は敵対する派閥である からであり、いずれの場合も敵視するに値する充分な理由である。 先のような皮肉の一つも、言いたくなるであろう。 そしてこの「聖明王」の摘流が、「倭国」で百済政権をうち立てたので あるのだから、「蘇我氏」が穏やかであるはずがない。 4.蘇我豪族連合 欽明崩御後の間隙をついて、出現した百済政権の敏達朝ではあったが、 「蘇我氏」は旧倭国政権の構成メンバーに働きかけ、豪族連合を成立させ ることにより、敏達朝の専制政治に対抗していったのである。 具体的に言えば、「波多・平群・紀・巨勢・葛城」などの主要豪族の多 くを、「蘇我氏」と同族とする系譜に取り込み、さらに旧知の渡来系協力 者である「忌部・秦・東文・西文」などの氏族の財源を頼りにして、「蘇 我馬子」を頂点にした政治組織を確立したのである。 最終的には「物部守屋」の妹を大王とすることで、「物部氏」とも融合 し蘇我政権を盤石にしていった。 敏達も「蘇我」も共に「百済」系である。このときの「倭国」には、二 つの百済系王朝が成立していたことになり、「百済」の政権争いが、その ままの形で「倭国」に持ち込まれたことになる。 敏達崩御後は、「物部氏」の取り込みに成功した蘇我王朝が第一政権を 奪取し、大王位を譲位された「守屋」の妹である「物部鎌姫大刀自連公」 が司祭者となり、「聖徳太子」こと「蘇我入鹿」摂政時代が始まる。 同時に敏達の亡き後の百済王朝は、舒明が嗣ぎ飛鳥の岡本の宮に遷る。 この岡本の宮は、後の斉明天皇(重祚前の皇極天皇)も宮地として定め 後飛鳥岡本の宮と名づけられている。 斉明天皇の二年、この宮についての記述が『日本書紀』にされている。 「この年、飛鳥の岡本にさらに宮地を定めた。・・<中略>・・やがて 宮殿が出来ると、天皇はお移りになった。名づけて後飛鳥岡本宮という。 多武峯の頂上に、周りを取り巻く垣を築かれた。頂上の二本の槻の木の ほとりに高殿を立てて名づけて、両槻宮といった。また天宮ともいった。 天皇は工事を好まれ、水工に溝を掘らせ、香具山の西から石上山にまで及 んだ。舟二百隻に石上山の石を積み、流れに従って下り、宮の東の山に石 を積み垣とした。時の人は謗って、『たわむれ心の溝工事。むだな人夫を 三万余。垣造りのむだ七万余。宮材は腐り、山頂は潰れた』といった。ま た謗って、『石の山岡をつくる。つくった端からこわれるだろう』と。 ───あるいはまだなかなかできあがらない時、この謗りをしたのか。」 これによれば、岡本の宮(=後岡本の宮)は多武峯にあり、その頂上に は四方を垣が取り巻く両槻宮をも築いたという。さながら戦国時代の天守 閣と石垣を想像させるではないか。標高は609メートルの多武峯にある 天守閣、これはもはや戦争を意識しての築城以外あり得ない。 この多武峯の中腹には舒明陵跡も存在しており、ここが敏達崩御後の百 済政権の拠点であったことは容易に想像がつく。 山を下りればそこは「飛鳥」であるのだが、逆に言えば「飛鳥」を追わ れた百済政権が籠城を決め込んだということである。 しかも、舒明の岡本の宮も斉明の後岡本の宮も、よりにもよって火災に あっているのである。さらに舒明は蝦夷の攻撃を受けているというではな いか。 『日本書紀』は蝦夷をいわゆる蝦夷のように記しているが、実は「蘇我 蝦夷」すなわち、「蘇我馬子」の軍勢だったと推察している。 このようにみた場合、岡本の宮の火災とは「蘇我氏」豪族連合による攻 撃によるものであり、そしてこの蘇我政権こそ旧倭国政権を丸抱えした、 新たなる倭国政権そのものと言えるかもしれない。 多武峯が百済政権の拠点であった証拠は、ここに「談山神社」が現存し ていることにある。この神社の由来は、「中臣鎌子」と中大兄皇子が「入 鹿」殺害の密談をしたことから、「談山」の名がついたというのである。 敏達が亡くなった後の百済政権は、倭国政権の脅威から逃れるように、 多武峯に背水の陣を惹いたのであろうが、おそらくここで、倭国政権の乱 れる隙をうかがっていたのであろう。 ただ、単に籠城しているだけであるのなら、いつかは物資もつきてしま うものだ。従って密通内通のたぐいは当然あっただろうし、百済政権を第 一政権として租税を納める豪族もあったことであろう。 まあ、これは百済政権が主流だった頃の、倭国政権についても言えるこ となのであるが。 もしあなたがこの状況下で、政権奪回の目的を持って倭国政権を倒すに は、どうすればよいか。 圧倒的な武力差があるのなら、一気に戦いを挑むこともいいだろうが、 残念ながら武力は圧倒的に倭国政権優位であった。百済政権側が勝れてい れば、政権交代などなかったはずである。 私なら内通・密通者を利用して、大王には参謀格の豪族が、百済政権と 内通しているというような嘘の情報を伝え、その参謀格には百済政権と内 通しているのではないかと、大王が疑っているというやはり嘘の情報を伝 える。 いわば、情報撹乱によるゲリラ戦である。この内通者は、倭国政権の側 近であればあるほどよい。 これにより両者間の信用は失墜し、例えば、百済政権からもたらされた 「よろしく」などという伝聞が起爆剤となり、政権崩壊の引き金となって いくのである。 多武峯に潜む百済政権が採った方法とは、まさにこれであろうと思われ る。 この結果が最終的に、「乙巳の変」につながっていると考えている。 「乙巳の変」については、ひとまず置いておくとして、『日本書紀』に よれば舒明と「聖徳太子」には、一世代のずれがあるが、私はこの二人を 二朝併立による同年代人と考えている。 推古天皇の十三年、「聖徳太子」は斑鳩の里に宮を造り移り住んでいる。 このころの首都は「飛鳥」であるにもかかわらず、聖徳太子はなぜ「斑 鳩」に移り住まなければならなかったのか。 一説には、理想主義者の「太子」は権謀術数渦巻く政界から疎まれ、失 脚したのであろうとも言われているが、これらの情報戦により、失脚させ られたのであろうと考えることはできる。 「聖徳太子」は斑鳩の里から政治の中枢である「飛鳥」まで、空を飛ん で行ったという伝説もあるが、逆に言えば当時の感覚で、空を飛ばなけれ ば通うことのできないほどの、距離であったということである。 仮に当時の人々が、この伝説を信じていたのだとしたらどうなるか。 そのときには、「太子」はもはや人間ではなく、それができると考えら れた唯一の存在、それはもはや霊魂であったことに他ならない。 死してなお政治の中枢「飛鳥」へ向かう、という「聖徳太子」の悲劇性 はともかく、7世紀初頭の歴史的事実で極めて重要なことは、中国その当 時でいえば「隋」であるが、「隋」との間に初めて国交を開いたことであ る。 その発端は、「倭国」より「隋」の「耀帝」(ようだい)に送られた、 次の国書によるものであった。 「日出づる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。恙なきや云々」 『隋書倭国伝』に記されている有名な一文である。この国書は大業三年 (推古十五年、607)にもたらされたものであり、この時の使者は、こ れまた有名な「小野妹子」である。 「帝はこれをみて悦ばず・・」 と続くが当然であろうし、翌年「裴清」(『日本書紀』では「裴世清」) を「倭国」に遣わしているが、これは東海の孤島「倭国」が意気軒昂なこ とを、怪しんだための調査だと言われている。 このとき『日本書紀』に従えば推古の御代であるが、実際には「物部鎌 姫大刀自連公」大王、「聖徳太子」摂政時代である。従って、その記述は 欺瞞に満ちている。 まず「隋」を「唐」としているうえ、「裴世清」が持参した国書は、 「大門の前の机の上」 に置かれ、使者「裴世清」を招待した儀式は終了したという。 興味深いことは、「大門」と書いて「みかど」と読ませることにある。 『日本書紀』の記述によれば、「裴世清」はこのとき「倭国」の天皇に 会っていない。しかし、わざわざ大国「隋」から国書を携えて訪れた使者 に対して、天皇が面会さえもしないということは到底考えられない。 実は、この時の様子を『隋書倭国伝』は克明に記している。 「その王(倭王)は清(裴清)とたがいに見え、大いに悦んでいうには 『私は海西に大隋礼儀の国があると聞いている。故に遣わして朝貢させた。 私は夷人、海隅にイ辟在して、礼儀を聞かない。そこで境内に留まって、 すぐにたがいに見まえなかった。いま、ことさらに道を清め、館を飾り、 大使を待っている。願わくば大国惟新の化を聞かんことを』と。清が答え ていうには、『皇帝は徳は二儀にならび、沢は四海に流れる。王は、化を 慕うの故をもって、行人を遣わして来させ、ここに宣諭するのである」と。 すでにして、清を引いて館に就かせた。その後、清は人を遣わし、その王 にいうには『朝命はすでに達した。すぐに塗を改めるようお願いする』と。 そこで、宴享を設けもって清を遣わし、また使者をして清に随い来って方 物を貢させた。この後、ついに絶えた。」 このように「裴清」は王(天皇)と会い、語り合っているにもかかわら ず、この事実を『日本書紀』は、「大門」という曖昧な形でしか記述でき なかったのである。 『日本書紀』によれば、この時の天皇は推古であったが、「裴清」 が 会った人物が男性である以上、王とは「聖徳太子」であったと考えられる。 もちろん王が「馬子」であった可能性も否めないのだが、『日本書紀』が 「聖徳太子」を摂政であったとしているので、ここは「聖徳太子」を推し たい。 おそらく、「馬子」は裏で操っていたのだろう。 いずれにしても、この偉業は倭国政権の書いたシナリオであり、「蘇我 氏」の偉業であったのである。 『隋書倭国伝』に克明に記述されている以上、敵対政権の偉業であると はいえ、万世一系の天皇家を主張する『日本書紀』は無視することができ なかったのだろう。 本来なら抹殺してしまいたい事実でありながら、記録を残したわけであ る。曖昧になるのも当然なのかもしれない。「隋」と「唐」と誤記したの も単なる誤記などではない。「唐」の時代は百済政権の復活した皇極・天 智の時代であるからだ。 さて「隋」と国交樹立を成功させた倭国政権であったが、この直後前代 未聞の行動にでている。 なんと、「百済」の宿敵「新羅」とも国交を樹立させているのである。 推古十七年秋七月の条から始まる一連の外交記事によれば、「新羅」と 「任那」の使者が「倭国」の訪れ、使者たちを朝廷をあげてもてなしたと いうのである。その記事は、「裴世清」のときと遜色のない内容となって いる。 「任那」はすでに「新羅」の占領するところであるので、「新羅」外交 であったことになる。 多武峯に隠遁している百済政権が、本国「百済」を後ろ盾に持ち、おそ らく九州を抑えていることに対して、第一政権であるとはいえ、倭国政権 が何の備えもなく政権を維持できるわけがない。 「隋」との国交樹立はそのためであったし、さらに「百済」を抑えるた めには、「新羅」と結ぶのが常であろう。 「蘇我氏」は確かに武寧王系の百済王族であるのだが、「百済」本国が 別系統の派閥で占められている以上、「倭国」で倭国人として生き抜かね ばならない。勝つためにかつての宿敵「新羅」と結んだことは、むしろ当 然のことなのかもしれない。 5.上宮王家滅亡事件 通説によれば、「聖徳太子」は次第に「蘇我氏」の横暴に疑問を抱くよ うになり、「蘇我氏」と天皇家との板挟みとなった末、斑鳩の里へ隠遁し たと言われている。(『日本書紀』によれば太子は天皇家の血も引いてい る) さらに、その地で非業の死を遂げた「太子」の意志は、子の「山背大兄 王」(やましろのおおえのみこ)に引き継がれ、「蘇我入鹿」と反目した 「山背大兄王」は、一族もろとも「入鹿」の手勢により、死に追いやられ たのであるらしい。 ところが「蘇我入鹿」=「聖徳太子」であることを、すでに知っておら れるみなさんには、この説話がでっちあげであることくらい、すぐにおわ かり になることであろう。 しかも、「聖徳太子」と「山背大兄王」との親子関係を疑う、文献も存 在している。 「後の人、父の聖王と相い濫るといふは、非ず」 これは『上宮聖徳法王帝説』の中の記述なのであるが、後世の人々が、 太子と「山背大兄王」が親子ではないと噂することは、良くないことであ るとしているのである。 逆に言えば、当時から親子関係を否定する噂が、蔓延していたというこ とだ。 当時よりこのような噂が蔓延していたのだから、人々は『日本書紀』の 嘘を見破っていたのであろう。 両者が親子でないとすれば、「山背大兄王」とはいったい何者であるの であろうか。 『隠された十字架』の著者である梅原猛氏は、法隆寺を「太子」の霊を 慰める鎮魂の寺であったとしている。そして上宮王家滅亡事件、すなわち 「山背大兄王」憤死の真実は、「藤原氏」の黒幕による事件であったとも しているのだが、「法隆寺」には直接の被害者である「山背大兄王」は、 なぜか祀られていないばかりか、「山背大兄王」の墓は、どこにあるかさ えもわからないのである。 結局、「山背大兄王」は『日本書紀』が創造した人物であり、実在しな かったことになるのではないか。 仮に実在であったとしても、百済政権の舒明と倭国政権の摂政・「聖徳 太子」は、同時期併立の存在であると考えているので、『日本書紀』のい う「田村皇子」(即位して舒明天皇)と、太子の子「山背大兄王」の皇位 争いなどありえるわけがない。 また「山背大兄王」は「太子」の子、つまり飛鳥の聖者の子のように記 述されている。 「自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しか し自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一 つを入鹿にくれてやろう」 上記は「入鹿」に急襲された「山背大兄王」が、自決する寸前の言葉で あるらしい。 まこと聖者の子は聖者だと云わんばかりの言葉である。 「入鹿」はそんな聖者を、自決に追い込んだ張本人とされている。つま り、「入鹿」に聖者殺しの汚名を着せるためにだけに、「山背大兄王」が 創造されたのだと思えてしまうのだ。 天皇家をないがしろにする「蘇我入鹿」、しかも聖者殺しときている。 これは、暗殺されるに充分以上の理由になるではないか。 『日本書紀』が聖者と位置づける「山背大兄王」であるが、その実、彼 を小馬鹿にしている記述もしている。 『舒明紀』に「山背大兄王」の言葉として、次のようにある。 「噂に聞くと叔父上は、田村皇子を天皇にしようと思っておられるとい うことですが、自分はこのことを聞いて、立って思い、すわって思っても、 まだその理由が分かりません。どうかはっきりと叔父上の考えを知らせて ください」 この叔父上とは「蘇我蝦夷」である。これによれば、「山背大兄王」は 「蝦夷」大臣の威を借りて、天皇になりたいという欲求に満ちている。 先の言葉と比較すれば、これが同一人物の言葉とは思えないほど、矛盾 していることにお気づきになろう。 これだけでなく、『日本書紀』は聖徳太子一族を小馬鹿にしている表現 を、数回に渡り記述している。 例えば、「太子」の側近中の側近と言われている「小野妹子」は、遣隋 使という使命を大成功に終えている。「妹子」は大徳冠という冠位十二階 の最高位であったことが、『続日本紀』和銅七年四月十五日のこととして 記録されている。 「夏四月十五日 中納言・従三位兼中務喞・勲三等の小野朝毛野が薨じ た。毛野は小治田朝の大徳冠・小野妹子の孫で、小錦野毛人の子である」 しかし、『日本書紀』はそのことについて、いっさいふれていないばか りか、「小野妹子」が「随」からの国書を盗まれたとする汚名を着せてい る。 国書は「裴世清」が持参し「大門」に渡しているのだから、「妹子」が もっているはずがない。 聖徳太子については言えば、敏達七年三月五日の条に 「莵道皇女を伊勢神宮に侍らせた。しかし池辺皇子に犯されることがあ り、露わになったので任を解かれた。」 とある。このままでは何ら「太子」に関係なさそうなのだが、この皇女 が「太子」の妃になっているとしたらどうであろうか。 「池辺皇子」は、これ以外に『日本書紀』に登場しないが、どうやら用 明天皇のことであるらしい。つまり、「太子」は、父に犯された皇女を妃 にしているということになる。 もっとも、『日本書紀』は「莵道皇女」の素性すら曖昧にしているのだ が。 「莵道皇女」は「莵道貝蛸皇女」(うじのかいだこのひめみこ)といい、 またの名は「莵道磯津貝皇女」(うじのしつかいのひめみこ)という。彼 女は推古と敏達の間の皇女であるのだが、同姓同名の皇女が「息長真手王」 (おきながまておう)の娘「広姫」と、敏達との間にも存在しているので ある。 この貝だの蛸だのというこの名が虚名であろうことから、この皇女の実 在性も疑わしい。 これらのように『日本書紀』が聖徳太子一族を、どんなに聖者と記述し ようとも、子細を読めば聖者らしからぬ扱いをされているのことは、 自ずと判明してくるのである。 親子関係を疑うという噂に関して言えば、実は『日本書紀』ですら「山 背大兄王」は聖徳太子の子であると、直接言及している記述はない。 それにもかかわらず、一般に親子であるとされている理由は、「山背大 兄王」が斑鳩の宮にいたこと、上宮の王と呼ばれていたこと、「蘇我氏」 を叔父上と呼んでいることなどに由来するが、ただこれだけなのである。 まあそれでも親子であったものとしよう。そうであるにせよ、天皇の位 にこだわりつづけた「山背大兄王」は、聖者としての資質を欠いていると いえ、逆に「田村皇子」を天皇として擁立しようとする、「蘇我氏」のバ ランス感覚の良さが際だっているではないか。 これらのことからすれば、「山背大兄王」も『日本書紀』によって造作 された人物像と言え、はたして実在していたのかは疑わしい。 実在したとしても、『日本書紀』の記述を正確に読めば、単に天皇家を 脅かす危険人物であったことになる。 上宮王家滅亡事件などなかったのではないか。 『日本書紀』は、上宮王家を全員自決したと記してはいるものの、後世 一人くらいは上宮王家を祖と、自称する人物がいてもよさそうなものであ る。 上宮王家が聖徳太子一族であるならば、なおさらのことと思われるが、 なぜか存在していない。『神代紀』の神を祖とする一族は存在しているの に、これはどういうことなのだろうか。 聖徳太子一族とは、まさに『日本書紀』のいう「蘇我氏」三代(私見で によれば「馬子」「入鹿」の二代であるが)そのものであるにもかかわら ず、「蘇我氏」を悪玉にしたてようとして捏造された人物像であると考え ている。 彼らの実体が「蘇我氏」である以上、どんなに聖者であったかを力説し たとしても、悪意が見え隠れしてしまうのであろう。 そして『日本書紀』が「山背大兄王」を、「太子」の子のように登場さ せた理由を一言で言えば、「乙巳の変」の正当性を主張する大義名分以外 何ものでもないように思う。 逆に言えば、「乙巳の変」に正当性など無かったことになるのである。 6.蘇我氏とは 「蘇我氏」の場合、『日本書紀』では「蘇我」であるが、他の文献では 「宗我」と書く例が少なくない。「蘇我」は『日本書紀』が採用した当て 字であり、一般的には「宗我」と書いた可能性は高いと思われる。 『日本書紀』では、「蘇我馬子」や「蘇我入鹿」と書かれているので、 「蘇我」が現在でいう名字のように思えてしまうが、「蘇我」にはもっと 深い意味が潜んでいる。 単なる名字であるならば、現在でも「蘇我」を名乗る一族が多数いても 不思議ではないが、なぜか私の知るところではない。 ただし、ただ一つの例外を除いてはだが。 大阪府南河内郡太子町に「叡福寺」が現存しているが、この寺の脇に西 方院という尼寺があることを前述している。 ここの住職が代々「蘇我」姓を引き継いでいる。太子町の地名の由来は もちろん「聖徳太子」からであり、「叡福寺」は「太子」が眠る御廟なの である。 さて、その西方院の伝承によれば、聖徳太子の薨去後、「蘇我馬子」の 娘・「善信」(ぜんしん)、「小野妹子」の娘・「禅蔵」(ぜんぞう)、 「物部守屋」の娘・「恵善」(えぜん)らが出家し、太子の御廟の前に一 宇を建立したのが始まりらしい。 前述の関裕二氏は、この事実を次のように検証している。 「通説では太子と対立していたとされる蘇我馬子の娘と、これまた明ら かに太子と敵対していたはずの物部守屋の娘が太子の墓を守るために出家 したことは、太子の正体と叡福寺の存在意義を知るうえで、貴重な証言と なってくる。(『聖徳太子はだれに殺されたのか』「学研」刊)」 では「蘇我」とは何か。実は、これも関裕二氏が答えを用意してくれて いる。 「また『風土記』は、この“須賀”を“須我”と書き、あるいは“宗我” と書く。 問題はこの“宗我”である。・・・・<中略>・・・・また出雲大社の 本殿真裏の摂社は素鵞社(そがしゃ)と称し、スサノオを祀る。さらに、 『粟我大明神元記』には、出雲の簸川の川上でスサノオとクシイナダ姫と の間にできた子が、なんと『蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴』 (そがのゆやまぬしみなさむるひこやしましぬ)であったというのだ。 要するに、スサノオの最初の宮“須賀”とゆかりの深い一族“蘇我”は、 きわめて出雲的な一族であったことになる。」(『抹殺された古代日本史 の謎』「日本文芸社」刊) ちなみに彼は出雲王朝を縄文人国家、スサノオを縄文人としているので、 「蘇我氏」は「倭国」土着の氏族であったことになるが、あくまでも私見 による「蘇我氏」は、「百済」武寧王系の一族であることに変わりはない。 「蘇我氏」がスサノオとゆかりが深い氏族であるとしたら、武寧王やそ の父の昆支王も同じように、スサノオと深い関係があることにある。 スサノオ族は「伽耶」からの渡来集団であった。 確かに「百済」自体は扶余の亡命貴族らが、「馬韓」王権を乗っ取って 建国した国家である。 しかし「武寧王」の出生秘話や、「武寧王」が「大和」に居座った「市 辺押磐皇子」系の残党(実際にはこちらが本流かもしれないが)よりも、 「河内」に宮を立てた継体朝と結んだこと、あるいは「くたら」(本来古 代日本語には濁音はないらしい)と発音できない「百済」を、なぜ「くた ら」と発音させるのかなど総合的に考えてみた場合、「武寧王」は扶余系 ではなく、スサノオの「統一奴国」であり、それが倭国大乱後に分裂した 「邪馬台国」連合の宿敵、「旧奴国」(「狗奴国」のことで「くなら」と 発音したであろう。「な」と「た」は容易に音韻変化するので、「くなら」 は「くたら」になる)の王族の血を引く者だったのかもしれないと、イマ ジネーションをふくらませてしまう。 日本の歴史には、必ず大きな二つの潮流が存在している。それが時々に 姿を変えあるときは衝突し、あるときは同盟しながら今日まで面々と続い ている。 通説・定説とされている歴史の中だけでも、「邪馬台国」と「狗奴国」、 「出雲」と「大和」、「吉備」と「大和」、「磐井」と「継体」、「蘇我 氏」と「天皇家」、「天智」と「天武」、「平城」と「嵯峨」、「源氏」 と「平家」、「足利」と「北条」、「南朝」と「北朝」、近世においても 戦国時代は言うに及ばず、「豊臣」と「徳川」、「幕府」と「薩長」など 掲げれば枚挙に暇がない。 あるいは戦前の「天皇」と「軍部」も、その例に入るかもかも知れない し、現代における与野党入り乱れての政治の覇権争いなど、まさに二つの 潮流に相応しい事例と思われる。 「歴史はくり返す。」 この言葉を信じない方々にとっては一笑される内容であり、単なる偶然 と捉えられることを承知しているのだが、少なくとも「壬申の乱」に到る までの歴史の背景には、覇王・スサノオを祖とする(血縁とは限らない) 「蘇我氏」から天武天皇に結びつく本流と、天智天皇に結びつく「倭国」 の亜流(現在まで続いていると考えれば、こちらが本流になろうか)との 覇権争いが、常に根底にあったと信じて疑うことはない。 2001年4月 第10部 了 |