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景教のことども

第一章アトンの罠その6

 聖書は、モーゼの出自を示すものとして、モーゼの祖父ヨセフの流転の物語を伝えている。ヨセフはパレスチナの出であるが、兄弟たちの奸計で奴隷として他国に売り払われる。流転の末、エジプトにたどり着いたヨセフは、ファラオの夢のなぞ解きをしたことで奴隷の身から開放され、大臣に取立てられた。ヨセフの出世を聞きつけたヨセフの縁者達は、ヨセフを頼って大勢エジプトに移り住むようになった。これがヘブライ人であるという。やがてファラオの代が替わるとヨセフのことも忘れ去られ、ヘブライ人たちは奴隷の身に落されてしまった。


 こうした流転と出世の物語が成立する余地が、当時のエジプトにあったのだろうか?最近、アルマナ遺跡の発掘でアルマナ時代の大臣の墓が発見され、その碑文からこの大臣がシリア出身の外国人であることが分かった。このことからこの墓の主が、ヨセフの物語のモデルになったその人ではないかと言われている。こうした考古学的研究の成果で、アルマナ時代のことが明らかになりつつあるが、当時はエジプトの国際化が進み、多数の外国人がエジプトに移り住んでいた。その中には、宮廷内で出世するものも少なくなかったという。
 前述の通り、アルマナ革命は旧勢力である神官団を宮廷から遠ざけ、ファラオの権力を確立するためのものであった。いきおい、旧神官団とつながりのある旧来のエジプト人政治家は敬遠され、神官団の影響力のおよばない外国人のなかからスタッフを抜擢するようになった。もちろん、こうしたことはアルマナ革命時代の間だけだったことは言うまでもない。改革者ファラオ・イクナーアトンが没すると神官団の巻き返しが起こった。アルマナ革命は終焉し、宮廷は神官団の息のかかった政治家が占め、外国人スタッフは放逐された。たぶん外国人政治家やその縁者にとって、政治的禁圧の下、苦渋の時代となっただろう。

 こうした状況証拠から、モーゼの祖父ヨセフの物語はアルマナ革命当時のことであり、モーゼのエジプト脱出の時代はアルマナ革命の約70年後、ラムセス2世の治世(紀元前約1290−前1225)の出来事だと言われている。もし、ヨセフがアルマナ時代に抜擢されて出世した外国人であったならば、当然ながらそれはアトン信仰の関係者であったことを意味する。すなわち、聖書に記されたヘブライ人とは、アルマナ革命に参加した外国人とその縁者達であり、ヘブライ人の神、名を語ることを禁じられた天地創造の神ヤハウェイとは、アトン神そのものであることになるのだ。
 ヤハウェイとアトンが同一神ではないか、とする説は心理学者のフロイトら複数の人間が唱えた説である。この説は多くの異説による反対意見と、決定的な証拠が出なかったたため、省みられることが少なかった。しかし近年の考古学の発掘調査で、エジプト史上で封殺されてきたアルマナ革命当時の事跡が明らかになってきた。こうした研究の結果から、モーゼの祖父とされるヨセフがアルマナ革命の関係者であったとすれば、モーゼの神ヤハウェイがアトン神以外のどこから来たのか説明が困難になる。
 「ヤハウェイ」はもともと口に出して唱えることを禁じられた神の名の、仮そめの名「YHWY」から来ている。この仮の名は神の名を示す記号であり、口に出して唱えないためにもともと母音を含んでいなかった。その記号に無理やり母音を当てて発音したのが「ヤハウェイ」であり、これは誤って伝えられた神の名だという。神の真の名は、唱えることを長く禁じられたため、信徒たるヘブライ人自身も忘れ去ってしまったという。しかし、エジプト史上で名を唱えることを禁じられた神はアトン以外にはない。
 先にも述べた通り、隠れアトン信者であることが明らかになれば、ツタンカーメンのようなファラオといえども命を奪われる。アルマナ革命以後、宮廷を追放されたアトン信者とその関係者は、その信仰と身分を伏せて隠れ住んだことだろう。前述のようにエジプトのファラオは、自ら神性を持つゴッドキングであり、その性格から一般民衆を監視し禁圧する必要のない政権であった。しかし、神官団の方は神の意を解釈する解釈権の担保者であるがゆえに、異説を唱えるものはたとえファラオであってもこれを排除するのである。聖書に記されたヘブライ人の受難は、これら神官団によるアトン信者への圧迫であったと考えられる。

 聖書の記するところによれば、ファラオは国内に居住するヘブライ人に恐れをいだき、ヘブライ人の嬰児を皆殺しにするよう命じたとされる。モーゼの父母は、この難を避けるため赤子のモーゼを葦の篭に入れナイル川に流す。皮肉なことに、たまたま川遊びに来ていたファラオの娘が幼子モーゼの乗った篭を拾い、モーゼはファラオの娘の養子となって宮廷で育つこととなる。
 これは典型的な「王の嬰児殺しと難をくぐり抜ける選ばれた子供」の説話である。この説話の起源は、聖書ではなく、聖書の成立のはるか以前、ペルシャ帝国の建国神話にさかのぼることができる。前述のように、モーゼ五書の編纂が始まったのは、ペルシャ帝国がバビロニアを滅ぼした(紀元前539年)後である。エルサレムに帰ったユダヤ人たちは、ペルシャ皇帝を神から遣わされた救い主と讚えた。聖書の中にペルシャの建国神話が紛れ込むのは無理からぬ話である。
 聖書の編纂者たちが、モーゼの出自にペルシャ神話を持ってきたのは、奴隷解放のリーダーであるモーゼがなぜ宮廷育ちだったのか、説明に窮したためだろう。実際には当時のエジプト宮廷内には、他国から嫁いだ王妃やそのお付きなど、多数の外国人が居住していた。モーゼとその家族もそうした外国系宮廷人の一家であり、アトン信者と関わりがないと認定されたため宮廷内に住むことを許されていたものと思われる。モーゼを養子としたファラオの娘は、たびたびイクナーアトンの王妃ネフェルティティとされる(時代的に少々ずれる)が、これは聖書の編纂者たちが、モーゼがアトン信仰の生粋な後継者であると主張したかったためであると思われる。
 また、聖書の記述では、モーゼと後にファラオとなるラムセスは、宮廷で兄弟のように育ったとされている。二人の兄弟が、片や民衆のリーダーとなり片や恐怖の独裁者となり、最後には対決するというパターンは、ローマ帝国の建国神話に見られる典型的な兄弟対決説話である。ここでも聖書の編纂者は、他所から神話的モチーフを借りているのである。では、なぜ聖書の編纂者はラムセスとモーゼに兄弟説話を当てはめようとしたのか、ラムセス2世の方から当時の時代状況を見てみることとする。

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