『ダ・ヴィンチ・コード』と三本の矢
「ヤコブには12人の息子がいた。
あるとき、息子たちの間に諍いと不和がるのを見たヤコブは、12本の杖を取って来た。
ヤコブは、これらを頑丈な帯で束ねると、長男に手渡し、折るよう命じた。
長男は折ろうとしたが、できなかった。ヤコブは次々と息子たちに杖の束を手渡し、
こうして末っ子に至るまで、めいめいが杖を折ろうとしたが、全員折ることはできなかった。
するとヤコブは杖の帯を解き、一本を長男に手渡し、折るように言うと、彼はそれを折った。
次に、別の一本を次男にと、全員に杖を手渡し、折るように言うと、みな杖を折った。
ヤコブは言った。
『息子たちよ、ここから二つの教訓を学ぶがよい。
一つ目の教訓はお前たちができないことでも、力を合わせればできるということ。
二つ目はの教訓は、お前たちが結束していれば、決して敗れることはないということだ』」
上記はタルムードの文書、シフリからの引用である。
これを読んでおや、どこかで聞いた話だなと思う方は多いのではないだろうか。
有名な毛利元就の“三本の矢”の逸話に酷似している。
むしろ、これを後から知った者は、これを“三本の矢”からの引用では?とさえ
考えてしまうだろう。
黒澤明監督の映画『乱』(85年)では、娘と息子は違えど、
シェークスピアの「リア王」を題材に、この三本の矢も織り交ぜてある。
毛利元就の言に
「ひとえにひとえに武略、計略、調略かたの事までに候」
という言葉は残っているが、
三人の息子(隆景と吉川元春と小早川隆景)への逸話は
中国の『西秦記』に同じような話があり、そこからとって
江戸時代になって話が作られたとされる説がある。
当時は鉄砲と同じくしてキリスト教も伝来しており、また、
元就の膝元、萩には明治時代に弾圧政策で流され殉教したキリシタンが眠ってもおり、
この辺の関連性も調べると面白いものが見つけられそうだ。
さて、『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくる象徴学なるものには、
書物や絵画、彫刻、建築など、そこに描かれたモチーフを、
何かの象徴として読み取ることが、全体を通してのキーワードとして展開される。
読んでいない方のためにここでは伏せるが、
この小説の最大の「謎」とされる主題にあたるものは有名な伝説にまつわり、
それに関係する多くの芸術作品や建物などの読み取り方が、
いくつものキーワードとして提示されていて、非常に興味深い。
登場人物やストーリーテラー、小説そのものの全般の感想は別にして、
このキーワードの裏付けと、そこから導き出される宗教的、時代的な各々の側面は
読む者を惹き込んで離さない。
小説、『ダ・ヴィンチ・コード』は、
作中でも出てくる映画『最後の誘惑』(88年・米、W.デフォー主演、M.スコセッシ監督)同様、
ローマ・カソリックにとって脅威とさえなる“史実”の裏返しになってしまうため、
世界的に物議を醸す問題作、と謳われている。
特に問題なのは映画『最後の誘惑』と同じく、
マグダラのマリアについてとイエスに関する言及箇所で、
故にレオナルド・ダ・ヴィンチの周知の絵画「最後の晩餐」が当然の如く登場する。
筆者は修復途中のこの絵画の現物を、18歳当時にミラノで観た覚えがある。
(サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会)
残念ながら傷みが激しく、且つ、保護のために殆ど洞窟かと思えるような暗さだった。
巨大な絵の全貌よりも、保全に張られたロープにぶら下がる何カ国後かの
注意看板の中央に、「立入禁止」という日本語を見つけたことと、
回廊の外のカードを売る土産物屋が「ゲイシャ・フジヤマ・ミソシル(?)」と共に
非常に下品極まりない日本語を連呼していたことだけしか覚えていない(苦笑)
今更だが、この「最後の晩餐」が物議を醸し、問題作と言われ続けた理由を
私は最近まで知らなかったし、
ダ・ヴィンチがローマ・カソリック教会から異端児扱いされ、
いくつかの絵画が人目を避けられたり、
修復(改ざん?)されたことも最近まで知らなかった。
小説はこの“異端”であることの真相に言及して、
ミステリアスに物語のドラマを盛り上げており、
かつての芸術家たちが当時宗教や教会に深く関わっていたことが浮かんでくる。
また、多くの宗教学者や研究者が、この“異端”に限らず、
イエスについて、また、聖母マリアやマグダラのマリアについての異説を、
今日まで様々に発表をしてきたように、
新・旧聖書の記述についての事実の論究は尽きることがないようだ。
聖書をめぐる異説以外にも、記述そのものの裏付けや歴史的な背景から、また、
書物・文献(古文書)の記録まで、図表、彫刻や教会そのものの建築など、
角度切り口は澱みない。
逆に言えば、聖書とキリストについては謎が多いと言うことだ。
イエスは誰の子なのか(つまりは処女受胎についての科学的根拠)、どこから来たのか。
神格化されて長き今となってはこれは疑問に思うことすら許されないように考えられる。
例えば、イエスはユダヤ人とされているのに、想像されるのと違う金髪、背高とされること。
これはナザレのイエスはルカ福音書によると純潔な「ダビデの家」のヘブル人で、
"ガリラヤの人”であって、バビロン捕囚後聖書に初めて現れる
ユダヤ人(褐色で背が低い)のそれとは違うと言う解釈がある。
例えば、アブラハムがエジプト王家の血筋で、ファラオの一族ではないかとする説、
そして川辺の葦の中で拾われたモーゼがエジプト王家の血筋で、果ては
あるときエジプト王朝の歴史から忽然と姿を消す異端・アクエンアテン本人だと言う説。
その裏付けに、かのフロイトは『モーゼと一神教』でAdonai(ヘブライ語の神)を
エジプト読みではd=t,o=eの音訳と考え、Atenai、つまりアテン、だと主張している。
ティム・ウォーレス=マーフィー著『シンボル・コードの秘密』には、
以上の他にも、聖書の多くの懐疑的な一部分から、
小説に登場するテンプル騎士団やロスリン礼拝堂、
もちろんダ・ヴィンチのルネサンス絵画、黒い聖母、
マグダラのマリアとイエスの子(まさに“異端”中の異端)まで、
実際の文献や研究に照らし合わせた解釈が多数記されている。
小説には出てこないが、フランス北部にある、
聖母崇拝として名高いシャルトル大聖堂の記述と資料はたいへん興味深い。
同じく小説には出てこないが、フランス北部の、地図にも乗っていなかったひなびた田舎、
レンヌ=ル=シャトーについても若干の記述がある。
ヘンリー・リンカーンによる曰く付の著書『レンヌ=ル=シャトーの謎』は、
言わずもがなマグダラのマリアと、
1890年当時にカソリックの司祭ベランジェ・ソニエールが突如赴任して
豪勢な生活を送ったことに疑問を抱いて書かれ、
1世紀近く経た1981年に出版された当時、大変な物議を呼んだという。
小説を読んだ方には、ソニエール司祭と聞いてピンと来るだろう。
丁度その当時、1887年には、
ローマ・イスラエル政府間に交わされたバチカン公文書が発見され、
ウィリアム・デニス・マハン(牧師)によって記された
『古代の文書・サンヒドリンの考古学的文献とユダヤ人タルムード』が出版されている。
日本の作家、荒俣宏氏にも著書(『レックス・ムンディ』)がある。
残念ながらリンカーンの著作は真偽に疑わしい捏造情報があるとのことで失墜を見たものの、
それはしかし、今回の小説が「問題作」と評されるように、
教会の裏側の真実を皮肉っているようで何とも妙な気持ちになる。
こうした著作が発表されたり、教会周辺の空気が変わってきた事情は時代なのだろうか。
かつて異端とされるものは教会の敵と目され、弾圧は必至であったと聞く。
魔女狩りさえ叫ばれ、十字軍が闊歩し、地動説が頑なに拒否された時代と、
昨今の急激な事情の変化はどこから来るのだろうか。
バチカンの天文台は占星術から趣を変え、法王は進化論に耳を傾け、
果ては近年、それこそ戒律違反どころでない性的醜聞が公に晒された。
教会は存続を危惧する一方、しかし必ずしも教義の締め付けをよしとしない方向に
転換せざるをえないのか、はたまた黙認をしているのだろうか。
キリスト教圏では物議を醸しているのは間違いないものの、かつての中世のように、
即刻宗教裁判、火炙りとはならないのが現代の人権優先社会だ。
尤も、欧米では物議を醸しても、ここ日本では売れるか売れないかだけが焦点だが。
昨今の宗教感心熱の高さには特に異論を唱えるつもりはないけれど。
しかし、敬虔なカソリック信徒でも、ましてキリスト教徒でもない我々日本人は、
読み進む内に不思議な疑問に囚われていくのを感じると思う。
なぜ、異端であることなのか、なぜ、異端者がいるのか。
そして、異端とは実は何か、である。
宗教は信心によってその教会を維持し、
その力の維持には信心させるに至る経典が存在する。
つまりは神であり、そして神の存在の解釈である。
当然、解釈は人によって異なり、それは分派を呼び、
それがまた組織なり国となることは、
キリスト教に限らず、イスラムや他の宗教圏を見ても自明だ。
故に、逆に力の分散を恐れ、その統合を図ろうとすれば、
少なからず弾圧なり軋轢なりが生じる。
起源はそれこそイエスの処刑にあり
(結果、皮肉にもこれがローマ教会の根本に逆説的に関わるのだが)
日本では例えばキリシタンの弾圧を想像する人も多いと思う。
日本のそれはむしろ権力者の恐れ、即ち政治的な策謀が起因しているのだが、
こと時勢が弾圧なり迫害に至ったとき、取られる行動は立場などによって異なってくる。
地下に隠れて存続と次なる光明を見出そうとする者もいれば、
島原の乱の天草四郎のように戦いを挑む者もいるだろう。
権力者によっても立場や政策は異なっている。
ときを過ぎ、近代経て、往時の権力者の抱いた懸念と外れたのか、
日本はキリスト教徒の国とはならなかった。
が、そのせいか否か現代においては数千の宗教団体が林立する、
まさに宗教大国となっている。
その実、自分は某か「○○教」であると主張する人は殆どいず、
12月25日や2月14日の真の意味、日曜日が休(安息)日である理由も、
13日の金曜日の意味も特に知らないまま、
自国の文化のように(まるで国民的)行事として取りこんでいるのは、
逆にカソリック圏の人からすると謎ではないだろうか。
国境を持たない島国故に外国の支配の脅威に晒されたことがないせいか、
はたまた実は仏教的な考えが民族の中に深く根ざしているのか、
それとも風土的なお国柄に加えて資本主義経済の発展と浸透がなしえたのか、
深い信心と宗教に生活の基盤を持たないことが、「宗教」と聞くと「?」と感じたり、
身構えてしまったり、不審に思ったり、
果ては怯えたりするゆえんになっている気がする。
読み進んでみてキーワード以前に登場人物が躍起になる“問題”に
「ハテ?」と疑問に思う方、
それ以前に、手に取ってすぐ目に飛び込んでくる本の帯の
「問題作」の文字にピンと来ない方の多くはたぶん、
思想の基盤に宗教が根差していない、自国日本の風土の寛大さが原因だと
気付かずにいるのだと思う。
そして、ことの重大さから導き出された、
“異端”なる者たちの生き残る術が隠された謎解きに今一つのめりこめずにいると、
寓話の意味も解釈も知らぬまま、
それとなく見逃して通り過ぎていたことも知らされる。
絵にそんな意味があったのか。
そうやって描かれたのか。
と、知る以前に、
「それがいったい全体なんで問題視されるんだろう」と。
まるで無垢な子供のような疑問を抱いてしまうだろう。
それくらい、私たちは、(信者や研究者の方を除いて)カソリックについて、
キリスト教について知らない。子供の頃から聖書を読んでも読まされてもいない。
当然、ユダヤ教についても知らない。
イスラム教についても、コーランについてなど知る由もない。
ところが、“3本の矢”の逸話は知っている。
でも、シフリ文書にある“ヤコブの杖”の話を知っている人はどれだけいるだろう。
そして、ここから導き出される解釈は?
毛利元就が敬虔なクリスチャンであった・・・?
『ダ・ヴィンチ・コード』はそういう、寓話や伝説、組織や、
残された絵画や建築についての宗教的な意味を考える上で、
象徴とされるものを側面から解釈して、
パズルのような謎解きを上手い手法でまとめている。
そこには新たな解釈の提示しかない。
無垢な考えで読むと、どっちが正しいと考えたり、そうだったのかとか感心する以前に、
もっと早く気付くことがあると思う。
いや、正確に言うと、読むではなく、見る、だ。
ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」には、最初から、その人がいる。
描かれていても、変に思わない。
そして、構図についても、そういう構図の絵なのだな、とか思うだけだろう。
何も(カソリックを)知らずに見た人は、たぶん、きっと、
そこまで驚きはしない。
『ダ・ヴィンチ・コード』(上/中/下) ダン・ブラウン著/越前敏弥・訳/角川書店
参考:
『ユダヤ・キリスト教 封印のバチカン文書』
(~「古代の文書・サンヒドリンの考古学的文献とタルムード」)
林 陽・訳/徳間書店/99年8月刊行
『シンボル・コードの秘密』~西洋文明に隠された異端メッセージ~
ティム・ウォレス=マーフィー著/大山晶・訳/原書房/06年1月刊行
筆者SinHP
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