これは恐ろしい本である。引き裂かれた書である。しかも、これはフロイトの遺書なのだ。人生の最後にフロイトが全身全霊をかけて立ち向かった著作だった。
それがなんと「モーセ」という神の歴史に立ち会った存在に対する挑戦であったことは、フロイトその人の存在がかかえこんだ血の濃さと思索の闇の深さと、そして歴史上の宿題のとてつもない大きさを感じさせる。
ぼくが最初にこの本を読んだのは、日本教文社の「フロイト選集」第8巻(吉田正巳訳)だったのだが、たちまちにして“しまった”という気分になった。もっと早く読んでおけばよかったという思いと、こんな本、知らなければよかったという気持ちが一度にやってきたのである。それにそのころは、ぼくはまだユダヤ教の歴史をろくすっぽ学んでいなかったし、多神教の風土に育った日本人として一神教の社会文化を眺めるということもしていなかった。だからフロイトがこの問題に立ち向かう意味がほとんど見えていなかった。
しかしその後、さまざまな歴史の起源も宗教の意図も、またラカンやドゥルーズやハンデルマンと接して、フロイディズムのその後も見えてきた。そこであらためて『モーセと一神教』を読んだのだが、今度はますます事の重大に身が引き締まる。またまた読まなきゃよかったと思った。
こういう事情があったので、いまとなっては、当然、書きたいことはいろいろあるのだが、今夜はいくつかの感想に絞っておきたい。でないと問題が破裂しかねない。その理由はすぐわかる。
まずは、本書がなぜ恐ろしい本なのか、なにゆえに引き裂かれた書なのかということを言っておかなくてはならないのだが、これは一言でいえば、モーセの謎とフロイトの謎が2000年の時空を超えて、これをまさに荒縄のように直結してしまっているからである。しかも直結していながら、そこに意外な、もっとはっきりいえば法外なというべき“捩れ”と“断絶”と“計画”がはたらいた。 フロイトは紛れもないユダヤ人である。むろんユダヤ教に対しては敬虔な気持ちをもっている(フロイトは社会的にはカトリック教会に親近感をもっていた)。
一方、モーセはユダヤ教を開始した張本人である。モーセによって一神絶対者としてのヤーウェ(ヤハウェ・エホバ)が初めて語られ、初めて「十戒」が定められ、初めてユダヤの民が選ばれた。割礼も始まった。ということは、こう言ってよいのなら、それまで歴史上、ユダヤはなかったのだ。ユダヤ人もいなかったのだ。
しかしそのフロイトは本書において、なんとモーセはユダヤ人ではなくエジプト人であると断定したのである。それだけではない。フロイトは、モーセはエジプト第18王朝のアメンホーテプ4世が名を変えてイクナートンとなったときに、ごくごく限られた宮廷集団で信仰していた「アートン教」の“直系”だとみなしたのだった。
アートン教というのはマート(真理と正義)に生きることを奉じた信仰で、人類史上で初の純粋な一神教となった例だった。ただしイクナートンの死とともにアートン教は廃止され、涜神者の烙印を捺されたファラオーの王宮は破壊され、多くのものが略奪され、第18王朝は壊滅した。これが紀元前1350年前後のことだった。
これまでわかっている信頼すべき考証では、モーセが出エジプトを敢行したのは、およそ紀元前1250年前後のことだろうということになっている。50年ほどの誤差はあるだろうから(ぼくは『情報の歴史』では紀元前1275年を出エジプトとした)、仮にフロイトの仮説の通りだとすると、アートン一神教がモーセによって“持ち出された”ということは、年代的に符合する。 それにしてもフロイトは、なぜこんなことを言い出したのか。フロイトの仮説が何を示しているかというと、「エジプト人モーセがユダヤ教を作った」ということを告げている。まさにパウロがキリスト教を作ったように、だ。
しかしパウロが作ったキリスト教は「キリスト人」とか「キリスト民族」という血の創造ではなかった。パウロはそこまでの創作はしていない。パウロがしたことは情報の編集である。けれどもフロイトによれば、モーセはユダヤ教を作っただけでなく、ユダヤ人を作ったのである。実際にもそれまでユダヤ人の母集団であるセム族とヤーウェとはまったく結びついていなかったし、だいたいヤーウェという神の名がなかった。またセム族の集団や部族が割礼をするということもなかった。割礼はエジプト人の一部の慣習だった。
モーセはこれらを一挙に創作したか、制作したか、出エジプトにあたって“持ち出した”のである。 モーセはシナイ半島を渡り、こうして特定の地に落ち着いた。そここそがパレスティナの南のカナーンの地だった。そしてその結果、何がおこったかといえば、アブラハムやイサクたちがユダヤ人となり、かれらによる初期ユダヤ教が生まれたのだ。つまりモーセは「ユダヤという計画」を実施した。これではモーセは、まるで遺伝子操作をしたということになる。本当にそんなことがあったのか。 しかし、フロイトの仮説はこれだけでは終わらない。
モーセはそのようにして計画を実行に移し、それを新たなユダヤの民が受け入れたにもかかわらず、モーセはかれらによって殺害されたとみなしたのだ。 この点についてはスーザン・ハンデルマンの快著『誰がモーセを殺したか』(法政大学出版局)があるのだが、ここではそこまでは踏みこまないことにする(最後にちょっとふれることにする)。 ともかくもフロイトの仮説の骨格はざっと以上の通りである。なんという仮説であろう!
けれどもフロイトはなぜにまたこんなことを言い出さなければならなかったのか。そんなことが精神医学にとって必要だったのか。しかもフロイトは最晩年の78歳になって、まるまる2年にわたってこのモーセ問題に憑かれてしまったのだ。もっと長生きしていたら、もっと深淵に向かって、この問題に傾注していただろう。それでも、ここからはさらに意外な展開が待っている。 さしあたって、ふたつのことが予想される。ひとつは、この時期にナチスによる大量のユダヤ人迫害と虐殺が大進行していたということがある。これにはフロイトはそうとう深く考えこまされていた。
たとえば1934年のアルノルト・ツヴァイク宛の私信のなかで、「私はいま、なにゆえにユダヤ人は死に絶えることのない憎悪を浴びたのか、自問しております」と書いていた。これはフロイト自身の奥にどくどくと流れている血を根本的に振り返るあきらかな動機のひとつになっていた。また、長きにわたったヨーロッパの社会史の現在が、いまになってなぜユダヤ人と全面対決しているのかという謎を解きたいという動機もあった。ホロコーストの対象になったこと、さらにさかのぼればディアスポーラを受けたことである。
が、これだけならフロイトならずともユダヤ系の現代思想家や文学者なら考えそうなことだった。カフカもずっとこのことを考えた。だからここには、もうひとつの理由があるはずなのだ。こちらのほうが大きい動機であった。 それはフロイトはユダヤ人でもあるが、言うまでもなく、かつまた精神医学者であって、精神の歴史の解明者であったということだ。そういう自負をもっていた。
そこには人間あるいは人類が宿命的にかかえた意識と無意識の潮流を証したという思想がある。その成果がある。いや、フロイトにとってはそのような“真実”があるというべきものだった。それは「類」としての人間精神の暗闇に挑むという研究だった。それは人種や民族を超える“真実”であるはずだった。
たしかにこの暗闇はそれまで誰も踏みこんではいなかった。フロイトはそこへ半ばはさしかかったのである。もっと踏みこみたかったのだが、そこまでは思索や研究が突入していなかった。そして、この精神の暗闇に挑んだフロイトが自身の課題を完成させるには、モーセは殺されていなければならなかったのである。 本書の117ページ(文庫版)、フロイトはこんなことを書いている。
ある人が激越な列車事故に遭遇し、見たところ無傷に立ち去ったとしても、のちに過度の精神的ならびに運動的な症状が出てくることがある。これは「外傷神経症」というものであるが、この外傷神経症とどこか共通する事態が、ひょっとするとユダヤ一神教の誕生に関して「類」的におこっていたのではないか。
こう書いたのだ。フロイトはここで「潜伏期」という神経症発症の用語をつかってまでして、ユダヤ教とユダヤの民の歴史において「モーセの一撃」がもたらした衝撃を語ろうとしているのだ。つまりこれは、「類」としての早期の自我侵害ではなかったかというのだ。
そんなことがありうるのかという疑問に対して、フロイトはすかさず反論を用意する。この民族の早期自我侵害は、モーセという特定の個人の出現による事件によって語られるようになったことが、長期にわたってユダヤ民族の「普遍的な自我」の外傷(トラウマ)となったのである、と。
なるほど、ユダヤ教が漠然と集団的に発生していたのならともかくも、ヤーウェの声を聞いたモーセという明白な十戒の個人的な提示者によって起源したということは、その後のユダヤの民のそれぞれの意識にとっては、つねに一個のモーセの偉大性との相同効果をおこすものだったろう。モーセを思うということは、モーセに連なる個人としてのユダヤ者を思うことなのである。けれども、そのモーセは「類」としてのユダヤ民族の発祥者でもあった。そのため、ここには「類」と「個」の重合がおこってくる。ユダヤ人とはこの宿命をもった者たちなのである。
このような見方は、たとえば一人の名前のはっきりした「日本人」の発祥者などもっていないわれわれ日本人には、どうもピンとこないものがある。日本人だけでなく、多くの民族は祖先伝説や始祖伝説をもっているけれど、それはたいていは盤古とかイザナギとかオーディーンといった得体の知れない物語の主人公である。そこにはフロイトが言うような、モーセ問題がない。
しかもフロイトは、そのモーセ問題にはそれがユダヤ民族の外的傷害である「一撃」がこめられていたと言う。いったい、なぜそこまで言う必要があるのだろうか。 かくてフロイトはモーセが殺害されたという奇怪な仮説を導入するにいたったのだ。
もっとも、これだけではフロイトの仮説は裏打ちはされない。どこの地にもどんな古代中世にも、神の殺害や王の殺害があることは、フレイザーの『金枝篇』でもふんだんな類例が提出されている。そこでフロイトは、ここにはもうひとつの事件が重なったと見たのである。それは「父殺し」ということ、しかも「原父」の殺害と抹消ということだった。
これはエディプス・コンプレックスを“発見”し、トーテムとタブーの不可避の関係を解明してきたフロイトにとっては、最も得意とする問題である。もしこのことが「原父モーセ殺し」に結びつけられるのなら、そこには個人の外的傷害に勝る、民族の精神としての外的傷害が想定できることになる。
ただしこのことは、きっとフロイトも晩年まで思いつかなかったことにちがいない。なぜなら、ユダヤ教においてもユダヤ研究者にとっても、また歴史家たちにとっても、モーセが殺されたというような証拠やそれを匂わす事績や、また、そういう推理を応援する史料はまったくなかったからである。これは、ひとりフロイトだけがこだわった異常な仮説だったのだ。フロイトはモーセを殺し、そのうえでユダヤ民族の外的傷害を救おうとしたわけである。 このように見てくると、これはどうやら「モーセの計画」というよりも「フロイトの計画」である。それにしてもこんな辻褄合わせは、許されてよいものか。
モーセが殺されたから、ユダヤの民族の系譜は「父殺し」の原罪をもたざるをえなくなり、しかしながらそのような外的傷害があったからこそ、ユダヤ教が保持できた、また、その最初の外傷の記憶がつねにこの民族を悩ませつづけた、というような壮絶な辻褄合わせが、はたして成立するものなのか。
われわれはここからついにフロイト心理学の「闇」にも入っていかざるをえなくなる。 フロイトには「エス」(Es)という概念がある。
なかなか難しい概念だが、フロイトが周到に想定した心的構造においてきわめて重要で意外な“心的審級”をはたすものと位置づけられている。 フロイトの前期の思想では、エスは無意識的なものである。また未知なものである。エスは心の最も深層において、なんらかの本質を貯蔵していて、そこではつねに生の衝動と死の衝動が対峙している。フロイトはこのエスを「存在の核」とよび、ラカンは「存在の場」とよんだ。この見方からすると、ふだんはその人間の現実的な欲望が先行しているため、エスの衝動は外にあらわれない。したがって、エスは無意識そのものであるとも考えられてきた。フロイトも初期の研究では「無意識はエスの内部における唯一の支配的な特性である」と書いていた。そして、この唯一の特性には「抑圧」がかかっているとみなした。
しかしフロイトはその後、このエスこそが何かの契機で自我に組みこまれた特性にもなっていると考えるようになった。抑圧こそが特性なのだ。そして、そのような自我に組みこまれたエスは、自我がおもてだっては気がつかない強力な生の衝動や死の衝動を発動させることがあり、そこではエスは自我との意外な対立物(ないしは統合物)にさえ審級するのではないかと考えた。
こうして本書では(ということは最晩年のフロイトでは)、「自我はエスという樹木が外的世界の影響力をうけた結果、発達してくる樹皮のようなものなのだ」という説明になる。
問題は、この樹木としてのエスが民族の意識や無意識にもはたらいているとフロイトがみなしたことだった。そしてそこにユダヤの樹皮がめくれあがっていったのは、どういうことだったのかということになってくる。 フロイトは本書の第2部の後半で、ユダヤ民族の特性がいかに醸成されたかということを述べると予告して、ついに次のような巧妙な説明をする。
エスには実は二つのはたらきがある。それを作用させる自我の状態によって、エスは快感も不快感もよびおこす。エスはまた、あまりに心的外傷が強いばあいは、この刺激を中断してしまう作用をもっていることがある(欲動断念)。これは自我が自我自体に深刻な危機がくることを見抜くばあいである。ここまでは、いい。
ところが、これらとはべつに、自我の残余の部分にエスを大きく引きこんで、自我の危機を覆ってしまうようにすることもある。これはエスが「自我に審級してきた」とみなせる。これこそは「超自我」ともいえるもので、かつてはこれが神であることが多かった。
問題はついに「超自我」におよんだのである。フロイトはさらに次のように考えた。このような超自我は、近代社会以降も「両親」または「父親」の後継者あるいは代理人としての機能をもって、自我をコントロールすることがある。現代においては子供たちが、しばしばこのような超自我をスーパースターや怪獣や幻想動物に託している。まして太古や古代おいては、超自我は神にも、神の代理人にもなりやすい。
おそらくモーセはそのような超自我としての役割をユダヤ民族の集団心理学的なしくみのなかで発揮したにちがいない。そしてこの「モーセの一撃」によって、後続するユダヤ民族は超自我としてのモーセと一神教を“発見”したにちがいない――。 フロイトはこうして「エス・自我」に「超自我」が審級してくる可能性を、モーセがユダヤの民に与えた歴史的ふるまいを通して解こうとしたわけである。
ゲームは終了である。フロイトはこの遺書を残して死んだ。 しかしながら、この“フロイトの遺書”に対する反響はひどく冷たいものだった。このようなフロイトの推理や結論はあまりに唐突で、しかも論証は曖昧で、また、モーセの殺害という奇矯な仮説には、それが父親殺しのモチーフのユダヤ教への導入であったとしても、どうにも無理があるという批判が相次いだのだ。フロイトの著作のなかで最も妄想が過ぎるという非難も集中した。
さらには、精神分析はいつだってこういう妄想によって患者を“逆正当化”しているにすぎないという、精神分析全体に対する鉄槌をくだす者もいた。 ところが、ところが、である。この“遺書”にはもうひとつの読み替えが可能だったのである。ゲームは終わっていなかったのだ! その予想もつかない読み替えにふれて、今夜のフロイト散策を終えておきたい。 フロイトの父親はヤーコプ・フロイトという。フロイトは『夢の解釈』でこの父親ヤーコプを影の主人公として登場させて、フロイトがどのように父親の存在から越えようとしてきたかを述べた。ありていにいえば、いわば「父殺し」を試みた。
しかし、この「父殺し」はうまくは成就しなかった。すでにフロイトは『トーテムとタブー』によって、かの有名な父殺しの理論、すなわちエディプス・コンプレックスの理論をなかば証明してみせたのであるが、『夢の解釈』ではそれを自身の家系にあてはめることには成功しなかったのだ。
しかしフロイトはあきらめてはいなかった。ぼくはフロイトが『モーセと一神教』にとりくんだのは78歳からの2年間だったと書いたけれど、その後のフロイト研究では、フロイトはもっと前からずっとモーセにとりくんでいたらしい。これはフロイトがミケランジェロのモーセ像にあれほど傾倒していたからも、察しがつくことだった。フロイトはこう書いていた、「これほどまでに強烈な印象を私に与えた彫刻はいままでのところ、ほかにない」というふうに。
しかし、その文章にはもっと暗示的なことも書いていたのである、「私自身がモーセのまなざしを受けている一人なのである」と。 そうなのだ、フロイトはあきらめていなかったのだ。フロイトは父ヤーコプからの脱出を、全人類史の主要な一部ともいうべきユダヤ民族の父殺し(モーセ殺害)を幻視することによって、なんとか正当化しようとしていたのだった。
つまり『モーセと一神教』とは、フロイトの周到きわまりない精神史的家系論の仕上げだったのである! このことに最初に気が付いたのはジャック・ラカンであり、ついではマルト・ロベールやエドワード・サイードだった。
かれらはフロイトの精神分析学が重要なのではなくて、フロイトの精神を分析することがフロイトの精神分析学であることに気がついたのだ。スーザン・ハンデルマンの『誰がモーセを殺したか』もこのことを議論してみせた。
そうだとすると、では、どうなるか。 フロイトは、自分自身の父親ヤーコプ(=ヤコブ)の精神史的殺害を通して、これをモーセの出現とその殺害に時空をまたいで重ねることによって、“新たな精神分析学というユダヤの教え”をもたらすために『モーセと一神教』という遺書を書いたということになる――。
どうですか。 長々と書いてしまったけれど、やっぱり恐い話でしたね。 しかし、この話にはまだまだ続きがある。それについては、いまは書く気がないけれど、ぼくの調子さえよければ、ジャック・ラカンを採り上げる日の「千夜千冊」にまわしたい。星野仙一監督ではないけれど、あー、しんどかった。
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