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シュメール幻想論

                                                                                                                                                         夜泣爺氏 著

                                                                                                                        

シュメールへの旅立ち       2004/09/25

紀元前383年、インドのクシナガラで釈迦は入滅したと伝えられている。

釈迦の入滅後、500人ともいわれている弟子たちが集まり、釈迦の生前の教えを「一切経」(大蔵経ともいう)とよばれる大教典にまとめた。

余談ではあるが、読経を聞いていると、冒頭に「如是我聞」(にょぜがもん)という言葉で始まる経が多いことに気づく。

これは、「私は、このように聞いた」という意味であり、釈迦の弟子たちが、釈迦の言葉を思い出しながら経をまとめたためである。

話をもとに戻そう。

「大蔵経」は、紀元前2世紀に完成する。

このなかに極めて興味深い記述があり、それが私をシュメール古代史の解明に駆りたてたのである。

「一切経」にこう書かれている。

「倭国、発音はウワという。東海の海のなかにある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている」

歴史で著名な「魏志倭人伝」が書かれたのは、西暦239年である。

日本が歴史書に登場してくる400年以上も前から、インドにいた釈迦は日本のことを知っていたことになる。

なぜなのだろうか。

私のシュメールへの旅は、この一文から始まったのである。

さらに「一切経」の「仏本行集経」のなかで、釈迦はこういっている。

「自分の祖先はスメの地ゆかりのスメル族で、自分はスメル族の末裔である」

スメル、すなわちシュメールのことである。

遙か遠いメソポタミアの地シュメール(現イラク周辺)からインド・中国大陸を経て、日本列島へと、どのようにしてシュメールの文明は伝わったのか。

そのとき、日本はどういう状態であったのか。 私はそれを明らかにしたいと思っている。



シュメール文化の投影-1

いまから約5500年以上も前に、人類最古の文明が生まれたといわれている。

それが、チグリス・ユーフラテス両河の下流地域で生まれた「メソポタミア文明」である。

この文明を創りだしたのが「シュメール人」であった。

考古学の進歩により、かれらの歴史や文明に関して、次第に様々なことが明らかになってきている。

メソポタミアの遺跡から大量に発見された粘土板(楔形文字)の解読により、新しい事実が古代の真実を教えてくれるようになった。

粘土板の数は、約50万枚以上といわれており、その解読がすべて終われば、古代の歴史は一変されるだろう。

すでに知っている方も多いと思われるが、「旧約聖書」に書かれた「エデンの園」や「ノアの洪水」などの話は、シューメールの粘土板からの引用であった。

もっとも、「旧約聖書」では、その引用を自ら語っているような部分が存在している。「旧約聖書」のなかで、アブラハムはカルディアのウルで生まれた、と書かれている。

カルディアとは、シューメールという意味であり、ウルはシューメールの都である。アブラハムはシューメールの都ウルで生まれ育ったのである。

父のテラこそセム系遊牧民であったが、その母も、妻のサライもシュメール人であった。

シューメールの神話と文化を受け継いで、完成したのが「旧約聖書」なのである。

このシューメールという呼び名は、英語読みの発音である。ラテン語ではスメルと読む。

では、その昔、シューメール人たちは、自分たちの国名をどのように発音していたのであろうか。

楔形文字の記録によると、「キ・エン・ギ」と呼んでいたらしい。その意味は、「葦の主の地」ということである。

私たち日本人は、神話時代、自分の国を、「豊原葦の瑞穂の国」と呼んでいた。

さらに、私たちとシューメール人たちの間には、同じ「葦の国」というだけでなく、驚くほどの類似点が指摘できる。

その最も著名な例が、「十六菊家紋」である。

シューメール王朝最盛期の都バビロンのイシュタル門には、王家の紋章として、「十六菊家紋」が描かれている。

「十六菊家紋」、いうまでもなく、日本の皇室の紋章と同じなのである。

そして、日本のほとんどの家紋は、シューメール文化のなかに見られると伝え聞く。シューメールと日本との接点は、極めて深いといえよう。



シュメール文化の投影-2

シュメールの創世神話「エヌマ・エリシュ」は、紀元前3500年頃に成立している。

この「エヌマ・エリシュ」は、その後、世界中で創られた創世神話のもとになったといわれている。

詳しい内容比較は、ここでは控えるが、「エヌマ・エリシュ」の影響を受けて誕生した世界の創世神話を列挙してみよう。

紀元前3000年頃、「エジプト創世神話」、紀元前1200年頃、インドの「リグ・ヴェーダー」、紀元前800年頃、ギリシャ神話「神統記」、紀元前500年頃、「旧約聖書」などである。

ところが、これらの創世神話よりも、「エヌマ・エリシュ」に酷似しているといわれているのが、紀元712年に成立した日本の「古事記」の創世部分なのである。

「古事記」の上巻にある「天地の初め」を見てみよう。

ここからは、難解な読みの漢字がでてくるが、嫌がらずに読んでいただきたい。

天と地がわかれ、高天原(たかまがはら)に3神が登場する。

3神とは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・神産巣日神(かみむすひのかみ)である。

ここがよくわからない。

ほかの創世神話のように、絶対神1神とか夫婦神2神というのならば納得できる。しかし、そうではない。なぜ、3神なのだろうか。

シュメールの創世神話「エヌマ・エリシュ」と比較してみよう。

「エヌマ・エリシュ」では、まず、アプスー(川の水の神)・ティアマト(海の水の神)・ムンム(雲の水の神)の3神が原始神として現れている。

「古事記」と同じである。

「エヌマ・エリシュ」では、さらに、この3神が混じり合い、7神を生みだしたと記されている。

しかも、重要な点は、これら7神が、すべて夫婦神であるという点である。7神が、夫婦神として現れており、数にすれば、7組14神となる。

「古事記」では、どうなっているのだろうか。

最初の3神の次に、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこじ)と天之常立(あめのとこたち)の2神が現れている。この2神は、それぞれ独身として生まれている。

さらに、その独身2神から、国之常立(くにのとこたち)・豊雲野(とよくもの)の2神が生まれる。この2神も独身である。

神々の誕生は、まだ続く。

国之常立(くにのとこたち)・豊雲野(とよくもの)の2神から、5組の夫婦神が生まれる。最後に生まれた夫婦神が、有名な、伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の夫婦神である。

独身である、国之常立(くにのとこたち)・豊雲野(とよくもの)とを夫婦と見れば、6組の夫婦神といえる。

もう1代遡り、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこじ)と天之常立(あめのとこたち)も夫婦と見れば、夫婦神は7組となる。

3神の原始神に7組の夫婦神。これと同じ構造の創世神話は、いまのところ、シュメールと日本にしか見られない。

なお、「古事記」の解釈では、国之常立(くにのとこたち)と豊雲野(とよくもの)、そして、その後の5組の夫婦神を加えて、「神世七代(かみよななよ)」といっている。

だが、私は、自分の解釈の方が正しいのではないか、と考えている。ただ、「古事記」の解釈においても、3(原始神)と7(夫婦神)に、こだわっているところが、シュメール文化の投影を強く感じるのである。



シュメール文化の投影-3

シュメール人が残した文化や文明の形跡のいくつかが、日本文化に投影されている事に関して、明らかにしてきた。

文明や文化だけでなく、シュメール人と日本人との人種的な類似点はないのだろうか。 それに関して見てみようと思う。

シュメールの遺跡から多くの人骨が発見されている。その特徴は、身長が低く、肩幅の広い頑丈な骨格をしている。

頭蓋骨などから見て、目や鼻が大きい。印象としては、日本の古代人とよく似ている感じがする。 だが、これはあくまでも印象の段階である。

シュメール人の人種に関して、とても興味深い報告がある。

それは、シュメール人の血を受け継いだ南部イラク人の子供に、「蒙古斑」が見られるという事実である。

「蒙古斑」、いうまでもなく、私たち日本人を含む、モンゴロイド系民族特有の特徴で、幼児期のお尻に青いあざが見られることで知られている。

シュメール人と日本人とは、同じモンゴロイド系民族なのである。

モンゴロイド系民族は、その分布から、日本人・韓国(朝鮮)人・中国人などを中心としたアジア系とインドネシア人・マレー人などからなるポリネシア系、さらには、アメリカインディアンなどのアメリカ系に分けることができる。

同系民族といえば、マヤ文明のもとになった文明を築いた人たちのDNAとアイヌ人のDNAが同じであったという報告もある。

いずれにしても、シュメールの民たちは、メソポタミアの地から民族移動を行い、アジア・ポリネシア・アメリカと広がりながら、そのひとつの終着点として、日本にまで到達したのではないかと考えられる。

それを証明するために、私もまた、シュメール人と共に、永い歴史の旅にでてみようと思っている。



歴史に消えた謎の民族人-1

日本とシュメールとの関係を考えていくうえで、シュメール人とはどのような人たちであったのか、まず、それを知らなくてはならない。

いまから約7500年以上も前のことである。 南メソポタミアの地に肥沃な大地があった。メソポタミアとは、「川の間の地方」という意味である。

チグリス・ユーフラテス両河の下流地域のことである。 現在のイラク南部、バスラの北西部である。 すでに、この地には、先住民族の石器人が住んでいた。

また、この地の東側(イラン)にあるエラム山脈周辺には、エラム人とよばれる民族が居住していた。さらに、ユーフラテス川上流のアラビア砂漠には、遊牧系セム人が回遊していたのである。

つまり、紀元前5500年のメソポタミアには、3つ、あるいは4つ程度の先住民族が存在していたのである。

しかし、かれらの文明度は低く、文字や優れた道具などを持っていなかった。

この地に、ある日、突然、シュメール人が現れたのである。

シュメール人がどこから来たのか、なぜ、この地に現れたのか、諸説はあるが、はっきりとしたことはわかっていない。

このことに関しては、いずれ、私の見解を述べようと思っている。

シュメール人は、出現するとすぐに、この地の集落を支配し、それをやがて都市にまで発展させた。

なぜ、そのようなことが可能であったのだろうか。

おそらく、先住民族と比べて、圧倒的な武力、技術力、そして、農業力を持っていたからだと考えられる。 シュメール人は、麦作や稲作の知識と技術を持っていたのである。

かれらは、その麦からビールやパンまでも製造していた。楔形文字が刻まれた粘土板に、「楽しきはビール、苦しきは旅路」という言葉が残されている。

「苦しきは旅路」という部分に注目したい。ここから、シュメール人の姿がぼんやりと見えてくる。

かれらは移動民族であった。なんとなく、のちのユダヤ民族を思わせる臭いが漂っている。

また、その歴史もユダヤ民族の歴史と相似する点が多い。

先走るのはやめよう。いまは、シュメール人について語るときである。

シュメール人が、当時の先住民族と大きく異なる点として、文字を持っていたことを指摘する学者が多い。

私もその考え方に異存はない。だが、私は、文字も素晴らしいが、シュメール人が体系づけられた宗教を持っていたことこそが、先住民族を圧倒する力になったと考えている。

この時代の宗教は、アニミズムが中心であったと思われる。自然の力に驚き、そこに何らかの神性を感じ、畏怖していた時代といえよう。

その世界のなかに、いきなり創世神話を持つシュメール人が登場したのである。神に関する体系的知識を持つということは、最も神に近い人間となる。

古代においても、現代においても、神を知る人間は、神と同様なのである。

おそらく、こうした宗教的側面の力を可能な限り活用し、シュメール人は、メソポタミアの地を支配し、そこに華やかな文明を創りだしていったと考えられる。



歴史に消えた謎の民族人-2

シュメール人たちは、武力だけで、先住民族を支配したのではない。 先住民族たちと混血しながら、同化していったのである。とくに、遊牧系セム人との婚姻が、さかんに行われたようである。

シュメール人は、巨大な中央集権国家を創りあげるのではなく、いくつかの独立した都市国家を創っていた。ラガシュ、ニップール、キシェ、ウル、ウルクなどが、その代表的な都市国家であった。

これら、都市国家は、紀元前3500年頃に、最も絶頂期を迎えたと思われる。

詳しい歴史は、あえて書かないが、シュメール人による都市国家時代は、紀元前2350年頃まで続いたといわれている。

その後、統一王朝が生まれる。アッカド王朝である。シュメール人と混血した、セム系アッカド人、サルゴン王が築いた王朝である。

やがて、この王朝は、紀元前2190年に、グディ人に侵略され、崩壊する。

グディ人による支配は、約90年間続き、再び、シュメール人による王朝が開かれる。紀元前2112年、ウルナンムがシュメール人王朝(ウル第三王朝)を再興する。

このウルナンムが発布した「ウルナンム法典」が、のちの「ハンムラビ法典」のもとになるのである。

ここまでの歴史的経過は、極めて複雑で、あえて、ここでは、割愛する。

紀元前2004年、ウル王イビ・シンがエラム人の捕虜として連れ去られ、シュメール人王朝(ウル第三王朝)が消滅するのである。

そして、この紀元前2004年に、シュメール人がメソポタミアの歴史から、忽然と姿を消してしまうのである。

シュメール人は、どこに行ったのであろうか。 古代史の大きな謎とされている。ただ、かれらが残した文化や文明は、その後のバビロニア王朝、アッシリア王国へと受け継がれていく。

では、シュメール人は、どこに。

諸説がある。

インド、中国を経て、最後は日本にまでたどり着いた、という説が、最近では有力である。

私の考えもそれに近い。

ただ、私は、シュメール人は、二度、日本にやってきたと考えている。

紀元前2004年、シュメール人王朝(ウル第三王朝)が消滅したとき、一部のシュメール人は、インドへ向かったかもしれないが、ほとんどのシュメール人は、メソポタミア周辺に残っていたと考えている。

では、なぜ、その痕跡が残っていないのか。

私の考えでは、シュメール人は、違う民族に姿を変えて、生きのびたと思っている。このことを証明するには、いまも現存する、ある民族の大きなタブーに挑戦しなくてはならないのである。



歴史に消えた謎の民族人-3

いよいよ、民族史のタブーに触れようと思う。

かなり複雑な話となるだろう。できる限り簡潔に、しかも解りやすく書こうと思っている。

しかし、それでも難解な話なのである。

現在、ユダヤ人と呼ばれている民族がいる。だが、この人たちは、ほんとうは、民族ではない。単なるユダヤ教徒の集まりなのである。

1950年に制定された、イスラエル共和国の法律である「帰還法」を見てみよう。そこに、ユダヤ人の定義が載っている。

それによると、「母親がユダヤ人であるか、あるいは、ユダヤ教に改宗した人」と書かれている。

父親がユダヤ人で、母親が日本人の場合には、生まれてきた子供は、ユダヤ人ではないことになっている。

それなのに、母親も父親も日本人で、ユダヤ教に改宗(手続きは複雑)すれば、ユダヤ人になることができる。

おかしな話である。

要は、ユダヤ人とは、ユダヤ教徒の集まりだといえよう。

なぜ、こんな変なことになっているのだろうか。特に、なぜ、母親にこだわっているのだろうか。ここに隠されたタブーが存在している。

いま、イスラエルにいるユダヤ人を見てみると、そのほとんどが「白人系ユダヤ人」である。

どうして、「白人系ユダヤ人」と、あえて書いたのか。

実は、ユダヤ人には、そのほかに「セム系(黄色人種系)ユダヤ人」が存在するからである。

イスラエルでは、「白人系ユダヤ人」のことを「アシュケナジー系ユダヤ人」と呼び、「セム系(黄色人種系)ユダヤ人」のことを「スファラディ系ユダヤ人」と呼び、区別している。

これらの呼び名に関して説明すると、極めて長文になるため、割愛する。

ただ、ユダヤ人というのは、「白人系ユダヤ人」と「セム系(黄色人種系)ユダヤ人」の二つの人種がいる、ということを覚えてもらいたい。

そして、ここからが重要な点である。

いまのイスラエルにおけるユダヤ人を代表しているのは、「白人系ユダヤ人」である。しかし、この人たちは、旧約聖書に登場するモーセやアブラハム、そして、イエスなどの子孫ではないのである。

旧約聖書に登場するユダヤ人とは、黒髪・黒い瞳を持つ、セム系の黄色人種なのである。

前回の文章を思い出してほしい。

紀元前2004年、シュメール人は突然、歴史上から忽然と姿を消した、と書いた記憶がある。 それから、4年後の紀元前2000年、メソポタミアにいた遊牧系セム人のある家族が、移動を始める。

家族といっても数人ではない。多くの人々を引き連れた一族と考えてほしい 。その家族の長は、「アブラム」と呼ばれていた。かれの妻は、シュメール人のサライである。

かれの母もシュメール人である。つまり、「アブラム」は、セム人とシュメール人との間に生まれたハーフであった。

「アブラム」たちは、遊牧系セム人であるため、各地を回遊していた。当時のメソポタミアでは、こうして移動する人たちのことを「ハビル」と呼んでいた。

「ハビル」と呼ばれていた「アブラム」たちは、ユーフラテス川を渡り、パレスチナ地方やエジプトへと移動した。

パレスチナ地方やエジプトに住む人たちは、「アブラム」たちを「ヘブル(川の対岸からやって来た人たち)」と呼んで、自分たちと区別した。

それが、「ハビル」から「ヘブル」という言葉に変わり、最後に、「ヘブライ」あるいは、「ヘブライ人」と呼ばれことに繋がったのである。

「アブラム」は神の啓示を受け、名前を「アブラハム」と改名し、シュメール人の妻、サライとの間に「イサク」という子供を得る。つまり、「イサク」は、シュメール人のハーフとシュメール人との間に生まれた子供なのである。

ほとんど、シュメール人といってよいほど、シュメール人の血を濃く受け継いだ人間なのである。

この「イサク」が、正統なるユダヤ人の先祖なのである。旧約聖書にもそう記されている。 では、「アブラム」は、セム系だけの人種を引き連れて、移動していたのであろうか。

そんなはずはない。 実際には、「アブラム」の母も妻もシュメール人である。

「アブラム」の一族とは、セム系・シュメール系、さらにその混血系と、多くのシュメール人を内包したグループだったのである。

紀元前2004年に姿を消したシュメール人たちは、ほんとうは「アブラム」と共に旅を始め、次第に「セム系(黄色人種系)ユダヤ人」に変わっていったのである。

シュメール人はユダヤ人と呼ばれるようになり、歴史からその名が消えたのである。

もちろん、これは私の自説である。

前に、シュメール人は、モンゴロイド系民族であったと書いたが、神が契約した正統なるユダヤ人もモンゴロイド系民族である。

それでは、「白人系ユダヤ人」とは、どのような人々なのか。

紀元7世紀の頃である。コーカサスからカスピ海北岸にかけて、総人口約100万人の「ハザール汗国」という巨大な王国が存在していた。

住民はトルコ系白人(コーカソイド)で、商業や武力に優れていたが、これといった宗教を持っていなかった。

この「ハザール汗国」が、紀元8世紀末から9世紀にかけて、「全国民がユダヤ教に改宗」するという、歴史上、例を見ないことを行ったのである。

その背景に関しては、いずれ機会を見つけて書こうと考えている。

紀元12世紀前後のことである。この「ハザール汗国」が、東ローマ帝国とその頃、新たに台頭してきたモンゴル帝国との攻撃を受け、滅亡してしまう。

その時に大量の難民(改宗ユダヤ教徒ハザール人)が生まれ、それが、いまの「白人系ユダヤ人」の祖先となったのである。

だからこそ、「帰還法」にあるように「ユダヤ教に改宗した人」をユダヤ人として認めないと、自分たちのアイデンティティーを失ってしまうのである。

さらに、「母親がユダヤ人」とすることで、歴史の真実を隠したのである。本来は、「母親がシュメール人」でなければ、正統なるユダヤ人とはいわないのである。

こうした歴史の流れのなかで、「セム系(黄色人種系)ユダヤ人」は、どうしていたのだろうか。

そこにまた、もう一つの大きな歴史の謎である「失われたイスラエル10支族」の問題が控えているのであった。



歴史に消えた謎の民族人-3

ほんとうのユダヤ人とは、『旧約聖書』に登場するアブラハム・イサク、そしてその血縁の一族であるということを、前回、明らかにした。

ただ、複雑な背景を理解してもらうため、ひとつだけ意図的に省いた部分がある。

今回は、それを補足しながら、失われた「イスラエル10支族」に関して、触れていきたいと思っている。

実は、「イスラエル民族」と「ユダヤ人」とは、厳密にいうと異なっているのである。

「イスラエル民族」とは、アブラハムの子であるイサクが生ませた双子の弟ヤコブ(アブラハムの孫)から始まるのである。

シュメール人のハーフとシュメール人の母から生まれたイサクは、エサウとヤコブという双子を得る。

その後、弟のヤコブは、神の命を受け、その名を「イスラエル」と変える。

そして、ヤコブは、『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の父」となったのである。 ヤコブは、4人の妻に12人の息子を生ませた。

生まれた順に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けた。

ヤコブの死後、それぞれが、一族の長となり、ルベン族、シメオン族......という風に、イスラエルの各支族が誕生した。

ただし、レビ族だけは祭祀を司る専門職であったため、「イスラエル12支族」として数えない。

レビ族を除外し、11男ヨセフがもうけた二人の息子、マナセとエフライムをそれぞれ独立させ、マナセ族・エフライム族と数えることで、「イスラエル12支族」とした。

従って、シュメール人の血を引く、ヤコブの一族は、正確には「イスラエル民族」といわなければならない。

また、「イスラエル民族」とは、ヤコブの血を受け継いだ「12支族で構成される一族集団」を指している。

「ユダヤ人」とは、「12支族で構成される一族集団」の中のたった1つの支族である「ユダ族」を中心とした名称であり、紀元1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスによる造語だといわれている。

さらに、複雑なことに、現在、「ユダヤ人」と呼ばれている人たちが建国した国が「イスラエル」で、しかも、そのほとんどの「ユダヤ人」たちは、ヤコブの血を受け継いだ子孫ではないのである。

二重のトリックが施されているのである。

ほんとうは「イスラエル」と呼べない一部族(ユダヤ族)が「イスラエル」を名乗り、さらに、それを名乗っている「ユダヤ人」は、ほんとうの「ユダヤ族」でない、という構造なのである。

なぜ、こうなっているのか。

いまのユダヤ人たちが、自らの出自を隠し、真実を隠蔽するために、わざと複雑化させたとしか考えられない。

このことを理解したうえで、いよいよ、失われた「イスラエル10支族」の謎に迫ってみようと思う。



歴史に消えた謎の民族人-5

失われた「イスラエル10支族」の謎に迫ろうと考えている。 ところが、これがまた、難解な話となる。

複雑な歴史的経過や耳慣れない外来語の人名・国名が続くことになる。

これを何とか簡素化してみようとは思っているが、話の過程で省けないものもある。我慢して、読んでいただきたい。

まず、シュメール人の血を受け継ぐヤコブ率いる「イスラエル12支族」は、世界的な飢饉から逃れるため、エジプトへと移住したのである。かれらは、エジプトの地で、大いに栄えることとなる。

しかし、かれらの発展を恐れた人物がいた。 エジプトの王、ファラオである。かれは、「イスラエル12支族」を捕らえ、奴隷の身分に突き落としたのであった。

時が経ち、奴隷となった「イスラエル12支族」のなかから、一人の男が立ち上がる。有名な「モーセ」である。かれの話はよく知られているので、割愛しようと思う。

ただ、時代経過だけは、明らかにしておこう。

紀元前1290年、「モーセ」は「イスラエル12支族」を引き連れて、エジプトを脱出する。その後、40年間にわたり、「モーセ」たちは彷徨うことになる。

紀元前1250年、「モーセ」のあとを受け継いだ「ヨシア」が、約束の地カナン(パレスチナ)へ侵攻、先住民を倒し、各氏族ごとに領土を12に分割したのちに、イスラエル王国を建国した。

紀元前1000年頃、羊飼いの青年「ダビデ」が、全イスラエル民族を支配し、「イスラエル統一王国」を建国する。

やがて、この王国は繁栄を続け、「ダビデ」の息子「ソロモン」の時代に、絶頂期を迎えた。「ソロモン」の死後、「ソロモン」の息子「レハベアム」が即位する。

それを契機に、王国内で反乱が起こり、内乱へと拡大していった。

紀元前925年、「イスラエル統一王国」が2つに分裂することとなる。

10の支族からなる「北イスラエル王国」(首都はサマリア)と2つの支族(ユダ族・ベニヤミン族)からなる「南ユダ王国」(首都はエルサレム)の2つである。

この時、12支族に入っていなかった祭祀を司るレビ族は、南北2つに別れたのである。

これが、「イスラエル12支族」の悲劇の初めであった。

民族の分裂は、宗教面での分裂も生むことになった。

「南ユダ王国」は、絶対神への信仰を守り通し、「北イスラエル王国」は、偶像崇拝、多神教へと姿を変えていった。

私は、この「北イスラエル王国」の絶対神放棄こそが、シュメール人がもともと信仰していた宗教への回帰であると考えている。

つまり、「北イスラエル王国」の10支族の方に、シュメール人の血や文明が色濃く投影されていた、と考えている。

紀元前722年、イスラエルの2つの王国にとって、大きな変換期がやってくる。



歴史に消えた謎の民族人-6

紀元前722年、メソポタミア地方にあって、その勢力を急速に伸ばしてきた「アッシリア帝国」が、「北イスラエル王国」を侵略。

「北イスラエル王国」は滅亡することになる。このとき、「イスラエル10支族」は、捕虜として「アッシリア帝国」へ連行されるのである。

旧約聖書でいわれているところの「ニネベ捕囚」である。そして、歴史の舞台から、「イスラエル10支族」は消えてしまったのである。

その頃、「南イスラエル王国」は、どうなっていたのだろうか。 「南イスラエル王国」は、「アッシリア帝国」の侵略を免れることができた。

しかし、紀元前587年、「新バビロニア王国」の侵略を受け、滅亡する。「イスラエル2支族」は、バビロンへと連行されてしまうのである。(バビロン捕囚)

紀元前538年、「新バビロニア王国」が滅亡すると、「南イスラエル王国」の「イスラエル2支族」は、パレスチナの地へ帰ることが許される。

そのとき、「アッシリア帝国」は既になく、捕囚されていた「北イスラエル王国」の「イスラエル10支族」も、パレスチナへ戻ることができたにもかかわらず、戻ることはなかった。 > これが、「失われたイスラエル10支族」と呼ばれ、世界史における最大の謎のひとつとして、今日まで語られている事件である。

「北イスラエル王国」の「イスラエル10支族」は、いったいどこに消えたのだろうか。

それを語る前に、パレスチナに戻ってきた、「南イスラエル王国」の「イスラエル2支族」に関して、簡単に見ておこうと思う。

「イスラエル2支族」は、パレスチナに戻ると、まず、「新バビロニア王国」によって破壊された「ソロモン神殿」を再建した。

それから「新ユダヤ教」という教義をつくり、徹底した宗教管理を行ったのである。その後、「ローマ帝国」の支配を受けることとなり、ローマ支持者とローマ不支持者とに二分されてしまう。

そのなかで、登場したのが「イエス」であった。

話を戻そう。

「失われたイスラエル10支族」はどうなったのか。

これに関しては、いくつもの学説がある。死に絶えた、という学者もいる。「アッシリア帝国」の人々と同化した、と唱える学者もいる。

だが、忘れてはいけない。

「失われたイスラエル10支族」は、世界最初の文明を持つ、誇り高きシュメール人の末裔である。また、同時に、唯一絶対神から祝福されたイスラエル人でもある。

この消え方は、紀元前2004年に、シュメール人が歴史上から忽然と消えた事件と相似している。シュメール人は、もともと民族移動する人種なのである。

かれらは、また、新しい旅に出発した、と考えるのが妥当である。

では、どこへ移動したのか。 日本へ、と書きたいところだが、そうはいかない。紀元前500年代、日本にはまだ、大きな集落の影さえない。

「イスラエル10支族」は、どこへ向かったのか。

それは、かれら祖先の故郷である。しかし、メソポタミアの地には、かれらの痕跡がない。

おかしいと感じる人も多いと思う 。そうではないのである。 思い出してほしい。紀元前5500年頃、シュメール人は、突然、メソポタミアの地に現れたことを。

つまり、かれらは、ある母国を出発し、メソポタミアに到着したのである。その母国こそ、「イスラエル10支族」の目指す地であり、祖先の故郷なのである。

「イスラエル10支族」は、母なる地に向けて、はるか遠い旅に出たのである。



シュメールの母なる地-1

シュメール人の母なる地は、どこであるのか。私は、この発見に随分長い時間を費やしてきた。

紀元前5500年、突然シュメール人は、「どこか」からやって来て、メソポタミアの地に文明を開化させた。このことに関しては、すでに明らかにしてきたので、改めて書く必要はないと思う。

問題は、紀元前5500年の時点で、シュメール人はすでに、稲作等の農耕技術、楔形文字、宗教、などの文化を持っていた、という点である。世界中を見回しても、シュメールより古い文明は見つからないのである。

いや、正確には、見つかっていなかった、と書くべきである。

当初より私は、中国文明にそのルーツを見つけようとしていた。なぜならば、中国古代文明には、「甲骨文字」という、シュメールの「楔形文字」に、非常に類似した文字が存在していたからである。

しかし、ここで壁にぶつかったのであった。 中国の古代文明といえば、世界4大文明のひとつである「黄河文明」が挙げられる。

黄河流域の肥よくな黄土地帯に農耕が行われ、仰韶(ヤンシャオ)文化や竜山(ロンシャン)文化が栄えた。

この最も古い、仰韶(ヤンシャオ)文化でさえ、紀元前5000年頃が始まりなのである。メソポタミア文明の後で生まれたか、あるいは、早くても、同時代の文明なのである。これでは、シュメール人の母なる地になり得ないといえる。

シュメール研究者のなかで、最も支持されている説がある。

現、中国新疆ウイグル自治区和田(ホータン)市周辺が、シュメール人の母なる地であるという説である。

和田(ホータン)市は、古代には「コタン」と呼ばれており、日本のアイヌ人(縄文人の末裔)の集落、コタンを連想させる。また、シュメール文化と類似した文化も数多く存在している。

だが、和田(ホータン)市が、紀元前5500年以上前の文明であったという考古学的痕跡は、いまのところ発見されていない。

私も以前から、和田(ホータン)市には注目しており、この地は、母なる地ではないものの、シュメール人が民族移動したときの重要な拠点都市である、という認識を持っている。

私がほんとうに注目したのは、最近、さかんに遺跡が発掘され、その姿が明らかになってきた、「長江文明」なのである。



シュメールの母なる地-2

「長江」、日本では「揚子江」という名で、よく知られている。

北チベットの氷河を源流としている、全長約6300kmの大河。雲南・四川の省境を流れ、中国大陸を横断、上海から東海に注いでいる。

この大河は、もともと中国で、「江」と呼ばれていた。川という意味である。その後、大きさを形容する言葉が付加され、「大江」あるいは「長江」と言われるようになった。

中国解放後、「長江」という呼び名に統一されたのである。 日本には、いまでも「揚子江」という呼び名が残っている。

本筋から離れるが、なぜ、「長江」が「揚子江」と呼ばれるようになったのだろうか。 諸説あるが、これから紹介する説が、中国では、一般的である。

19世紀初頭の頃である。ある西洋人が、「長江」を船で下っていた。その雄大で、美しい景観に感動した西洋人は、ふと船頭に尋ねた。「この河は、何という名前ですか?」 西洋人を振り返った船頭は、あたりを見回し、「揚子橋」です、と答えた。折しも船は、「長江」に架かった「揚子橋」の下をくぐろうとしていた。船頭の返事を聞いた西洋人は、「揚子橋?揚子江の聞き間違いだな」と勝手に解釈し、その後、中国以外では「長江」が「揚子江」と呼ばれるようになった、という説である。

これと似た、謂われ話は、世界各地にある。カンガルーやインディアンの名前に関するものなど、有名な話も多い。

「長江」は、現在、「黄金水道」と呼ばれており、上海、武漢、重慶などの中国主要都市を結ぶ大動脈でもある。その流域には、中国総人口の三分の一にあたる、およそ4億の人々が居住しおり、中国における穀物生産の40%、米生産の70%、工業生産の40%を占めている地域である。

また、「三峡」に代表されるように、多くの美しい峡谷が存在し、同時に、『三国志』などの歴史の舞台としても著名な地域である。

1990年代に入り、この「長江」中流・下流地域で、黄河文明より古い文明の痕跡が、次々と発見されたのである。 たとえば、「玉蟾岩(ぎょくせんがん)」遺跡。 1993年と1995年に、湖南省道県で発掘された洞窟遺跡である。

紀元前14000年〜紀元前12000年の遺跡とされており、稲の籾殻も発見されている。 それだけではない, 1993年には、江西省万年県で、「仙人洞/呂桶環遺跡」が発掘されている。

紀元前12000年前後の、旧石器時代末期から新石器時代初期にかけての洞窟遺跡で、石器や大型動物の骨製器、丸底土器の破片、栽培稲の痕跡などが発見された。

これら中流・下流地域の遺跡は、「長江文明」と呼ばれ、現在もさかんに調査・発掘が進められている。

これの発見により、日本人のルーツが発見された、などと騒いでいる日本の学者も多い。中国から韓国を経て、日本へやって来た、と主張しているのである。

だが、ことは、そんなに単純ではない、と私は考えている。

「長江」中流・下流地域、私はここもまた、シュメール人の母なる地ではない、と考えている。

私が、想定している地は、「長江」の上流地域なのである。

最近、「長江」上流地域で、紀元前15000年の遺跡が発掘された。しかも、稲作の痕跡も発見されている。

この「長江」上流地域周辺の中でも、四川省成都市郊外の「龍馬宝トン」古城遺跡に、私は注目している。この古城遺跡で、紀元前2500年頃に造られた「三層の祭壇」が発掘された。

写真でしか確認はできていないが、メソポタミアの地にシュメール人が造った「ジグラット」(ピラミッド型神殿)と非常に良く似ている。

また、「長江」上流地域を西に行けば、多くのシュメール文化研究者がシュメール人の母国と主張する、「新疆ウイグル自治区和田(ホータン)市周辺」にも近い。

「宝トン」と「ホータン」、発音も似通っている。

いずれ、発掘調査が進行すれば、さらに明確になってくると思われるが、私は、シュメール人の母なる地は、「長江上流地域」であると思っている。

そのなかでも、「宝トン」周辺地域が、シュメール人の母国であり、「宝トン」周辺地域の地層を深く掘っていけば、その痕跡が発見されると、私は考えている。

紀元前15000年に生まれた「長江上流地域文明」、それが、どのようにして、シュメール人やシュメール文化と変わったのか、次回は、それを明らかにしていきたいと思う。



シュメールの母なる地-3

紀元前15000年頃、「長江上流地域」に、石器人から進歩した人たちが生まれた。 名前はまだつけられていない。「長江人」と仮に呼んでおこう。

この「長江人」のなかから、天才的な一族が、生まれた、と私は考えている。

ここからは、私の推論である。

その一族は、「文字」と「宗教観」を発見したのである。そのことが、「長江人」を世界文明の源に押しあげる原動力となった。

紀元前10000年、氷河期が終わりを告げる。地球規模での環境変化が、「長江人」を民族移動へと駆り立てたのである。

その頃、すでに「長江人」は、上流から中流・下流へと小規模な移動を行っていた。「長江文明」と呼ばれる基盤は、すでに創られていたのである。

「長江人」は、3つのルートで、移動を始めた、と私は考えている。

1つは、中央アジアを目指した。この一族は、やがて、「突厥」、「匈奴」と呼ばれる民族へと変わっていった。 2つ目は、黄河を目指した。この一族が、「殷」という国家を創造するのである。 これらに関しては、いずれどこかで書きたいと思っている。

3つ目が、本題であるシュメールと関わってくる一族である。

結論的に書こう。 この一族は、まず、「和田(ホータン)」に移動する。そこから、インドを目指す。「モヘンジョ・ダロ」を経由し、インダス川三角州のカラチ周辺にたどり着いた。

「モヘンジョ・ダロ」は、「長江人」(のちのシュメール人)にとって、生産拠点都市であったと考えられる。ここから発掘された土器は、日本の弥生式土器と、形状・色彩・文様が極めて酷似している。

さらに、「モヘンジョ・ダロ」の大浴場遺跡は、その寸法が、日本の尺貫法で測れるのである。日本の尺貫法は、十進法と六十進法の併用で成り立っている。シュメールの計測法と同じなのである。

カラチ周辺にたどり着いた「長江人」の旅は、ここで終わりではなかった。 そこから船で、中近東にわたったのである。そして、陸路をさらに、メソポタミアへと進んだのであった。

そして、紀元前5500年、突然、メソポタミアの地に出現したのである。「文字」と「宗教」を持ち、周囲の先住民から「シュメール人」と呼ばれることになる。

ただ、誤解のないように断っておきたい。すべての「長江人」が、メソポタミアまで旅したわけではない。途中の「和田(ホータン)」や「モヘンジョ・ダロ」に定住した人たちも少なくはないと思われる。そのなかで、メソポタミアまで到達した一族があった、ということである。

荒唐無稽な説だと思う人もいるかもしれない。しかし、紀元前6000年〜5000年にかけて、「文字」と「宗教観」をもつ民族は、のちに、「楔形文字」や「亀甲文字」、「神代文字」という同種の文字を創った「長江人」だけなのである。

興味深い資料が存在している。

紀元前2350年代のシュメールの記録に、「交易先として、メルッハ、マガン、ディルムン」という具体的な地名が記されている。

「メルッハ」は現在の「カラチ」周辺、「マガン」はオマーンの「マスカット」、「ディルムン」は「バーレーン」である。メソポタミアとインド・中近東を結ぶ航路が古代に存在していたことを示す資料である。

カラチからインダス川を遡れば、「モヘンジョ・ダロ」に到達する。 この航路は、紀元前5500年に、「長江人」がメソポタミアへと移動した道なのである。

さらに、もうひとつ重要なことは、シュメール人が「モンゴロイド民族」である、という点である。シュメール文明よりも古い文化をもつ「モンゴロイド民族」は、「長江人」しか存在していないのであった。



母なる地への旅路-1

「シュメール人の母なる地」探しに、すこし時間をとられてしまった。

本題に戻ろうと思う。

紀元前500年代、「イスラエル10支族」(今後は、「シュメール系イスラエル族」と呼ぶことにする)は、またしても、旅にでた。「シュメール人の母なる地」に向けてである。

道は、はっきりとしている。

まず、陸路でオマーンの「マスカット」に向かったのではないだろうか。

そこから、船で「カラチ」を経由し、「モヘンジョ・ダロ」ヘ渡ったのに違いない。

「モヘンジョ・ダロ」は、シュメール人の生産拠点都市である。食料や様々な情報を、ここで獲得したのだろう。

一部の人たちは、「和田(ホータン)」まで、足を伸ばしたかも知れない。あるいは、往復していたのかも知れない。

ただ、「シュメール系イスラエル族」は、互いに10族としての結びつきが強く、分裂することはなかったと推測される。

紀元前600年〜400年、この頃の中国は、春秋時代から戦国時代にかけての動乱の時代であった。

「モヘンジョ・ダロ」から「和田(ホータン」にかけての移動は可能であったが、長江上流地域に向けて、10氏族もの大量の民族移動は難しかったと思われる。

そこで暫く、「シュメール系イスラエル族」は、「モヘンジョ・ダロ」周辺に居住し、中国への道を探っていたと考えられる。

しかし、「モヘンジョ・ダロ」周辺も居づらくなってくる。新たな地を探して、また、旅にでなくてはならなかった。 どこへ。

縄文人の住む土地へ、である。

前に私は、「シュメール人は二度、日本にやってきた」と書いたことがあった。

なぜ、そう書いたかというと、シュメール文化が、二種の日本人に影を落としているからである。

これが、シュメールと日本との関係を混乱させる原因となっていた。

ひとつは、「縄文人」の生活にシュメール文化の影響が見られること。

ここで見られるシュメール文化の影響は、どちらかというと、古代シュメール文化に近い内容となっている。

一例をあげると「縄文人」の子孫といわれている「アイヌ人」のなかに、シュメール文化の影響を見ることができる。

アイヌ伝承によると、かれらの祖先は「シュメレンクル」と呼ばれていたそうである。

シュメール人という意味である。

また、かれらは「北海道異体文字」という、シュメールの「楔形文字」とそっくりの文字をもっていた。

「北海道異体文字」は、シュメール語で訳せると発表している言語学者も多い。

ここでは、これ以上、この問題に触れることは避けたい。話が膨らみ過ぎて、本論からどんどん遠ざかるためである。

「縄文人」のなかに、シュメール文化の影響が見られる、ということが重要なのである。

では、「縄文人」は「シュメール」民族と同一なのか。それは、違っている。

「縄文人」は、まだ日本列島がほかの大陸と地続きの頃、南方からやってきた石器人と北方からやってきた石器人との混血によって生まれた先住民族である。

「長江人」が、民族移動を開始した紀元前10000年、氷河期が終わり、海面が上昇する。

日本列島が大陸と完全に切り離された。

縄文海進と呼ばれている時代である。その頃から、日本列島では混血が進み、「縄文人」が形づくられていく。

では、その「縄文人」に、どうしてシュメール文化の影響が見られるのだろうか。

私は、第一次の「シュメール人」移住が行われたためだと考えている。

それは、いつのことなのだろうか。

紀元前2004年、「シュメール人」が忽然と歴史から消えたときである。

多くの「シュメール人」は、アブラムと共に旅立ったが、それに同意しない部族たちが、「カラチ」から、海を越えて、日本列島、あるいは、ポリネシア諸島へ移住したのであった。

現在、ニュージーランドのマオリ族は、日本語と同じように、母音として、アイウエオの五音を持っており、日本語同様、子音と母音が結合している言葉を使用している。

また、シュメール語は、アイウエの4つの母音となっており、日本語とよく似た構造となっている。シュメール、日本、ポリネシアは、同じ言語圏なのである。

この日本列島へ向かった「シュメール人」たちは、「縄文人」との間に、緩やかな結合を行った。その結果、シュメール文化が「縄文人」の間に伝播されていったのである。

なぜ、緩やかな結合かといえば、征服等の武力によって伝えられた文化であれば、征服された側は、時間が経過し、束縛から解放されれば、すぐにそれを放棄してしまうからである。

「アイヌ人」を始めとする「縄文人」の文化のなかに、シュメール文化がいまも伝えられている、ということは、互いに互いを尊重したり、尊敬する関係が存在していたためだといえよう。

第一次の「シュメール人」移住が行われた時代は、おそらく、紀元前1000年くらいであったと推測される。丁度、縄文時代後期にあたる。

この頃から、縄文遺跡のなかに、文明が存在した兆候が数多く見られるようになってくる。

そして、いま、第二次のシュメール人の移動が、「シュメール系イスラエル族」によって、行われようとしていた。

日本列島における弥生時代の開幕であった。



母なる地への旅路-2

日ユ同祖論という説がある。

日本の各地にユダヤ人の痕跡が残っていることから生まれた説である。

日本人とユダヤ人は同じ祖先をもつ民族である、という考え方である。

この説の弱いところは、いつ、どのようにしてユダヤ人が日本にやって来たのか、ということを解明できない点であった。

ユダヤ人が、日本にやって来たのではないのである。 「シュメール系イスラエル族」が日本に移住したのである。

「シュメール系イスラエル族」の中心は、「失われたイスラエル10支族」であり、当然、イスラエル文化が日本に投影されることになった。

「モヘンジョ・ダロ」周辺にいた「シュメール系イスラエル族」は、何らかの理由で、居づらくなり、移動を決意する。

それは、いつの頃だろうか。おそらく、紀元前200年代だと推定される。

なぜならば、紀元前200年代頃の中国漢時代の石碑に、イスラエル人居留地があった事実が刻まれているからである。

これは、年代推定だけでなく、もうひとつの極めて重要な点を示唆している。

それは、紀元前200年代には、イスラエル人が中国にまで到達していた、ということである。

そして、それが可能なのは、「シュメール系イスラエル族」だけだと考えられる。

「モヘンジョ・ダロ」周辺に居住していた「シュメール系イスラエル族」のなかに、「和田(ホータン)」から中国の中心部まで、足を伸ばした人たちがいたのだろう。

しかし、それはあくまでも、一部の人たちであったに違いない。 多くの「シュメール系イスラエル族」は、第一次の「シュメール人」移住と同様に、海上ルートを使用し、日本列島へと向かったのである。

この「シュメール系イスラエル族」の日本列島移住に関して、私は、ある推論をしている。考古学的事実も、学術的資料もない、ただの空想に近い、幻想である。

ひとつの夢として、読んでほしい。

「シュメール系イスラエル族」は、単独で、日本列島を目指したのではなかった。

移動に際して、航海術や地理に関して、ほかの一族の協力を得る必要があった。

あるいは、逆に、日本列島へ移動しようとしていたほかの一族に、「シュメール系イスラエル族」が参加したのかも知れない。

私が名付けるところの「長江人系グドゥ族」と出会い、「シュメール系イスラエル族」は共に旅することになったと考えている。

「長江人系グドゥ族」とは、その昔、長江上流からカラチへ移動した一族の中で、メソポタミアには向かわず、インドに残った一族であった。

先祖をたどれば、「シュメール系イスラエル族」と同族である。

「長江人系グドゥ族」は、牛をトーテムとする一族であり、シュメールでは、かれらのことを「グドゥ(牡牛)族」と呼んでいたことから、私がそう名付けた一族である。

おそらく、この「長江人系グドゥ族」は、王と巫女とによる国家体制をもつ民族であったと推測している。

その国家は、インドから、いまのイランにまで及んでいたと思われる。

かれらがイランで建設した都市は、イランに現存している「スーサ」であると考えている。

当時の人たちは、「スーサ」の支配者を「スーサの王」と呼んでいた。

この「長江人系グドゥ族」が、イランの先住民ある「戦闘集団エラム族」におされて、領地が狭まり、ほかの新天地を求めたのである。

私は、「長江人系グドゥ族」の指導者が、「スーサの王」であり、巫女は、「ヒミコ」と呼ばれていたのではないか、と考えている。

また、「スーサの王」と「ヒミコ」という名は、代々、継承され、使われてきたのではないか、とも考えている。

エジプトの「クレオパトラ」の例にあるように、古代において、女性の名前は、同じものがつけられてきた経緯がある。「ヒミコ」という名前も、そういう種類の名前であったと思われる。

「シュメール系イスラエル族」と「長江人系グドゥ族」は、共に船に乗り、日本列島を目指したのである。その目指した先は、いまの九州であった。



倭国の創世-1

紀元前15000年に石器人から文明人に進化した「長江人」は、メソポタミアに移動し、「シュメール人」となった。

さらに、旅を続け、「シュメール系イスラエル族」となり、紀元前200年頃、日本列島に到達したのである。

ついに、倭国の謎を解明する時がやってきた。

倭国誕生に関しては、「一人一説」と呼べるほどの学説がある。そこで、私も心おきなく、独自の説を述べてみたいと思う。

倭国誕生の謎を複雑にしている原因のひとつに、日本の歴史書の問題が指摘できる。「古事記」と「日本書紀」(今後は、「記紀」と表記)の問題である。

この2つの歴史書が真実をいっているのか、虚実なのか、それを論議しようとは思っていない。

「記紀」は、それを編纂した権力者の意向が働いている歴史書であり、真実も虚実も含まれている、と私は認識している。

しかし、「記紀」だけでは不十分なので、中国の歴史書も参考に用いたいと思っている。

まず、中国の歴史書に、倭国がいつ、どのような内容で、登場したのを、年代別に見てみようと思う。西暦1年から西暦300年くらいまでを見てみよう。

『漢書地理志』/西暦1年前後、楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国。

『後漢書東夷伝』/西暦 57年、倭奴国王に金印を授けた。

『後漢書東夷伝』/西暦107年、倭国王帥升らが生口160人を献上する

『後漢書東夷伝』/桓帝(西暦147〜167年)、霊帝(西暦168〜189年)のときに倭国に大乱あり。

『粱書』/霊帝の光和(西暦178〜183年)の年間、倭国乱れ、相攻め伐ち、年をへたり。

『魏志倭人伝』/西暦239年、邪馬台国の女王卑弥呼が、中国の皇帝に使いをだす。

翌年、中国から使者が来る。

さらに、西暦247年、ふたたび卑弥呼が中国に使いを出す。

西暦247年、中国から張政という使者が邪馬台国に来たが、卑弥呼は死去していた。

西暦290年頃、『魏志倭人伝』を書いた陳寿はこう記している。

「その国、もと男子をもって王とし、往まること7、80年、倭国乱れ、何年も戦乱が続いた。人々はひとりの女子を立てて王とした。その名を卑弥呼といった」

これだけのことが、中国の歴史書に書かれているのである。これを細かく分析することで、倭国の実態が見えてくると考えられる。

どこから注目してみようか。私は、国名から分析してみようと考えている。

西暦1年から239年までは、「倭国」という名称が多い。

「倭」とは、中国が辺境の国を呼ぶ蔑称であるから、漢字から国名の意味を探ってはならない。発音で、考えるべきである。

「ワ国」と呼ばれていたのである。そこに居住する人は、「ワ」の国の人間だから「ワジン」と呼ばれていた。

西暦239年の『魏志倭人伝』で初めて、「邪馬台国」という国名が記されている。

しかし、書籍の題名には、「ワジン」伝となっている。しかも、西暦290年頃になっても「倭国乱れ」となっている。

「邪馬台国」という国名が登場しても、中国から見て、日本列島は、依然、「ワ国」であり、日本人は、「ワジン」なのである。

「ワ」という概念は、それほど大きい概念なのである。

話はすこし飛ぶが、「大和」と書いて、なぜ、「ヤマト」と発音するのだろうか。「大和」は、音読みすれば、「ダイ・ワ」である。

「大きな・ワ」である。「ヤマト」などと読ませる言語学的法則など見あたらない。

また、のちに、中国からの蔑称である「倭」を「ヤマト」とも読ませている。

逆にいえば、「ワ(倭)」や「ダイ・ワ(大和)」を、「ヤマト」と読ませるようになったのである。

ここに、倭国に関する最初の謎が秘められているのであった。



倭国の創世-2

「倭国」の実態を、中国の歴史書に書かれている内容から見てみることにしよう。

「倭国」が初めて、歴史書に登場したのは、『漢書地理志』のなかである。

「西暦1年前後、楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国」と記されている。(樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云)

この記録で、注目すべきは、「倭国」があったとは、書かれていない点である。「倭人」がいた、といっているのである。

その「倭人」の国が、100以上もあったと記されている。

「倭国」という国がないのにもかかわらず、なぜ、「倭人」と呼ぶのか、それも重要な疑問点といえよう。

西暦1世紀の頃、日本列島には、「倭人」と呼ばれる民族が創った、100以上の国があった、と『漢書地理志』は書いている。

つまり、「倭」とは、国名ではなく、民族名に近い扱いとなっている。

「倭国」が登場するのは、西暦57年である。

『後漢書東夷伝』に、「倭奴国王に印綬を授けた」と書かれている。(倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬)

ここでは、「印綬」と書かれているが、実際には、一辺の長さが2.3・の「金印」であった。

この「金印」には、「漢倭奴国王」という文字が刻まれており、1784年、現在の福岡県志賀島(しかのしま)で発見される。

このことから、『後漢書東夷伝』の記録が真実であることが証明されたのである。

この『後漢書東夷伝』の記述にも、疑問が指摘できる。

そこに書かれている国名である。「倭奴國」となっている。「倭国」ではないのである。

これがもとで、様々な論争が生まれている。「倭奴」を無理矢理「ワ」と読ませたり、「イト」とか「ヤマト」と読む説もある。

それどころか、『後漢書東夷伝』の書き間違いだと主張する乱暴な説もある。

これは、本来の中国語が示す意味の通り、「ワ」と「ナ」の2つの国が朝貢したと理解すべきなのである。

「奴」という漢字も蔑称である、当時、日本列島には、「ワ」と「ナ」の国が存在していたと解釈すべきなのである。

従来の学説は、「ワ国」でさえ、充分に解明できないのに、そこに「ナ国」まで出現したら、いっそう混乱してしまうため、こじつけが行われてきたのである。

西暦107年の『後漢書東夷伝』に書かれている「倭国王帥升らが生口160人を献上する」という記載にも、学者たちは困惑している。(倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見)

なぜならば、この記録を素直に読めば、「倭國王帥升・等」となる。

問題は、「等」にあった。

これでは、「倭国」の王が複数いることになってしまう。

そこで、「倭国王・帥升等」と読み、「帥升等」は、国王の名前である、などという奇妙な解釈が生まれることになった。

一つの列島に、「倭国王」と名乗る王が複数、存在していた、という事実が理解できないのである。

しかし、ほんとうは、複数、存在していたのであった。

その事実を明らかにする前に、もう一度、「倭国」の歴史的経過を整理しておこう。

西暦の初め、日本列島には、「倭人」が、100以上の国(おそらく、集落であったに違いない)に分かれて、暮らしていた。

この当時は、まだ、国名がつけられていなかった。

次ぎに、「ワの国」と「ナの国」との2つの国が、朝貢した。

それを見ていたのだろう、今度は、複数の「ワの国」の国王が朝貢したのである。

ここで、改めて、おかしなことに気づく。

100以上も国があって、国名として登場するのは、「ワの国」と「ナの国」だけである。

しかも、「ワの国」は複数、存在している。

だが、これで、正しいのである。

紀元前200年頃、「長江人系グドゥ族」や「シュメール系イスラエル族」は、日本列島にやって来て、九州地方から山陰、近畿地方にかけて、複数の「ワの国」を創ったのである。

その国造りに関しては、あとで、ゆっくりと述べようと思っている。

それでは、ここで、複数の「倭国」が存在した真実を解明してみようと思う。



倭国の創世-3

複数の「倭国」が存在した、という事実を解明するためには、私たち日本人が、日常的に行うことが多い、「人称の混同化」という現象を知る必要がある。

「人称の混同化」とは、自分を指す言葉が、相手を指す言葉に替わったり、相手を指す言葉が、自分を指す言葉に替わる現象を意味している。

この現象は、今日でもよく見られる。たとえば、私自身のことを「自分」と呼ぶ。しかし、同時に、相手のことも「自分」と使用する例が多い。

「昨日、自分は何してた?」などと使用されている。

私は幼児期に、東北地方から越後にかけての東日本で育ってきたが、私自身を「ワ」と呼んだり、相手のことを「ワは」などと呼んできた。

また、相手のことを「ワは」と呼んだ場合、私自身は、「ナ」と言った。あるいは、地方によっては、相手のことを「ナ」と呼ぶこともあった。「ワ」は「我」であり、「ナ」は「汝」である。

ところが、これが自分と相手を指す言葉として使われたり、反対の意味で使われることが多かったのである。

このことに関しては、国語辞典にも記されている。 この「人称の混同化」は、古来から行われていた。

九州地方から山陰・近畿地方にあった各氏族(各支族も含め)の小国家では、自分の国のことを「ワの国」(私の国)と呼んだ。

また、相手の国のことも「ワの国」(あなたの国)と呼んだのである。 つまり、存在する国が、すべて「ワの国」であったのである。

地域によっては、あるいは、ときには、「ナの国」と呼ぶこともあった。

これを日本列島以外の国から見れば、全体が「ワの国」であるため、「倭国」と考えた。さらに、「ワの国」の人だから、「ワジン(倭人)」と称したのである。

このことがわかれば、中国の歴史書に書かれた、一見、矛盾するような内容も素直に理解することができると思われる。

では、「ワの国」が、どうして「ヤマト」に変わったのだろうか。 「ワの国」の人とは、どういう種族であったのか、それを調べることで、答えは明確になってくると考える。

「ワの国」を創ったのは、カラチまで移動した「長江人」であり、一部は、カラチに留まり、船による貿易をしていた。ほかの一部は、船で中近東に渡り、メソポタミアにたどり着いた。いずれも、海洋族なのである。

各部族名・支族名は変遷した地域によって異なるものの、すべて「海人(アマト)族」として包括できる種族であった。

この「海人(アマト)族」の「アマト」が音韻変化し、「ヤマト」に変わったと私は考えている。

つまり、「海人(アマト)族」とは、長江上流地域から、カラチに向かったすべての「長江人一族」の総称であり、そのなかに、「長江人系グドゥ族」や「シュメール系イスラエル族」、さらには、ほかの族が含まれていたのである。

これら諸族は、すべて同族であり、「海人(アマト)族」(音韻変化により、「ヤマト族」)という呼び名こそが、かれらの統合された名称であったと思われる。

いいかえれば、すべての「ワの国」(私の国)は、客観的にいえば「ヤマト族の国」であった。

だからこそ、「ワ(倭)」は「ヤマト」と言い換えることができたのである。

また、隣り合う「ワの国」と「ワの国」との結合が強かった地方では、「大きいワの国(大和)」と呼ばれていた。だから、それもまた「ヤマト」と言い換えることが可能であった。

そこで、次の疑問がわいてくる。誰が、なんのために、言い換えたのだろうか。

自分のルーツの正当性を主張する権力者が、ほんとうは、「ワの国」や「大きいワの国」を乗っ取ったにもかかわらず、自分こそが、由緒正しき「ヤマト族」の後継者だと宣言するためである。

それは、誰であったのか。

「記紀」編纂の過程を見れば、すぐに理解できる。「記紀」編纂の号令をかけたのは、天武天皇である。(西暦681年)

「日本書紀」によると、天武天皇は、壬申の乱(西暦672年)で、天智天皇の息子である大友皇子(おおとものみこ)を倒し、天皇に即位した。

即位するまでは、天武天皇は「大海人皇子(おおあまのみこ)」と呼ばれていた、と記されている。

天武天皇は皇子のときから、「海人(アマト)族」、即ち、「ヤマト」の支配者を名乗っていた、と婉曲的に書かれているのである。

「記紀」編纂の最初の意図とは、天武天皇こそが、民族のルーツである「海人(アマト)族」の正統なる支配者である、と宣言することにあった。

そして、非常に興味深いことであるが、西暦720年、「日本書紀」が完成したときに、この歴史書の名前は、「倭(ワ)書紀」でも「大和(ヤマト)書紀」でもなく、「日本(ニホン)書紀」となっていたのである。



倭国の創世-4

なぜ「日本書紀」と書かれたのか、それに関して知りたいと思う人は、多いだろう。

しかし、いまその考察を始めると、話は本題からどんどん離れていく。いずれ、どこかで明らかにしよう。

いまは、「シュメール系イスラエル族」の行く末をたどっていきたいと考えている。

紀元前200年頃、「長江人系グドゥ族」や「シュメール系イスラエル族」は、長い船旅の結果、日本列島の九州地方に到着した。

私の考えでは、九州に着いた「海人族」は、幾つか複数の部族によって構成されていたと思われる。しかし、中心となる部族は、3つであった。

1つは、「スーサーの王」をリーダーとする「長江人系グドゥ族」。この部族は、武力に優れており、「銅鐸文化」をもっていたと考えられる。

2つ目は、「ヒミコ」をリーダーとする「長江人系グドゥ族」。この部族は、古代から伝承された宗教(呪術)に優れた部族であった。

「スーサーの王」と「ヒミコ」は、婚姻関係にあり、2つの部族が一緒になっていたと思われる。

また、「スーサーの王」や「ヒミコ」という名称は、個人名ではなく、役職名に近いものであり、代々、受け継がれてきたものと考えられる。

3つ目が、「イスラエル族10支族」からなる「シュメール系イスラエル族」であった。この部族は、洗練された宗教知識や土器製作、農耕技術などをもっていた。

このことを「記紀」から裏付けてみよう。 「古事記」にこう記されている。

黄泉国の穢れを落とすために行った禊ぎの最後に、「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」は、三柱の神を生む。

その三神とは、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」、「月讀命(つくよみのみこと)」、「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」である。

そして、「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」は、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」に、高天原(天界)を治めるよう命令する。

いいかえれば、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」に宗教的祭儀を任せたのである。

「月讀命(つくよみのみこと)」には、夜之食国(よるのをすくに)を治めるように命令する。

「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」には、海原(うなばら)を治めるよう命令する。海原(うなばら)とは、海と地上を指す。

この三神とは、「長江人系グドゥ族」や「シュメール系イスラエル族」のリーダーであった三人を神格化したものである。

「古事記」では、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」が最初の神となっている。

そのわけは、あとで説明しようと思う。

まず、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」とは、「長江人系グドゥ族」の「ヒミコ」のことである。

「日本書記」によると、「天照大御神」の正式名称は、「大日霎貴尊(おおひるめむちのみこと)」となっている。

この「大日霎貴」を、その意味から分解すると興味深い結果となる。

「日霎」とは、「日の巫女」という意味である。書き直すと「大日巫女(おおひのみこ)」となる。

「大」は、尊敬語の一種、あるいは、意味を誇張する接頭語としてとらえてほしい。

すると、「日巫女」は「ひみこ」と読めるのである。

では、「古事記」はなぜ、「日巫女(ひみこ)」のことを「天照大御神」と書いたのか。

それは、「日巫女(ひみこ)」が「海人(あまと)族」を代表する正統なる祭儀者である、といいたかったのである。

だから、その名を「天(あま/海)照らす神」と記したのである。

すべての「海(あま)族」を「支配する(照らす)」神の使いである、と宣言したのである。

次ぎに、「月讀命(つくよみのみこと)」であるが、かれに関しては、後で述べることにする。

先に、「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」を見てみたい。

「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」、「長江人系グドゥ族」の「スーサーの王」そのものである。

「スーサーのおう」だから「すさのを」なのである。

かれは、「海原」即ち、「海人(あまと)族の地」を束ねる支配者となる。

最後に、「月讀命(つくよみのみこと)」を見てみたい。

この神は、これ以降、「古事記」に登場してこない。見方を変えれば、歴史から消されてしまった神である。

この神が、「シュメール系イスラエル族」なのである。

「ヒミコ」と「スーサーの王」、そして、「シュメール系イスラエル族」の三者が九州地方に着いた時に、それぞれの役割分担が話し合われた。

その時、諍いが起きたと推測される。おそらく、宗教論争であったと思われる。

地上の支配者は、武力をもっている「スーサーの王(建速須佐之男命)」で決まったといえる。

問題は、神を祭儀する者を誰にするかで、内部論争が起きた。

「シュメール系イスラエル族」の宗教観は、新しく斬新なものであった。

そのため、新しい地で、新しい国を創ろうという意欲にもえていた「スーサーの王」にとって、「シュメール系イスラエル族」の宗教は、新時代にふさわしいものと感じていた。

「スーサーの王(建速須佐之男命)」は、「シュメール系イスラエル族」を推挙した。

それに対して、古いアミニズムに近い宗教観をもつ「ヒミコ」は、猛烈に反発した。ほかの部族も「ヒミコ」を支持したに違いない。

また、九州地方には、かれらのほかに、第一次シュメール人の移動で定着していた人たちもいた。

こうした人たちも「ヒミコ」の宗教観に近く、「ヒミコ」に賛同したと思われる。

その結果、「海人(あまと)族」の祭儀は、「ヒミコ」が握ることとなり、「天照大御神」を名乗ったのである。

敗北した「シュメール系イスラエル族」は、「月讀命(つくよみのみこと)」として、裏方(夜の世界)に回され、日本史の舞台から消されてしまったのである。

しかし、このことは、「ヒミコ(天照大御神)」と「スーサーの王(建速須佐之男命)」・「シュメール系イスラエル族」連合との間に、和解できないしこりを残すことになったのである。



倭国の分裂

「ヒミコ(天照大御神)」と「スーサーの王(建速須佐之男命)」・「シュメール系イスラエル族」連合との確執は、次第に大きなものとなってくる。

この経緯を「古事記」から見てみよう。

「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」から「海原」を治めよと命令された「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」は、それに反発し、抵抗する。

「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」は、私は亡き母の国である「根之堅洲國(ねのかたすくに)」に行きたいと泣き叫んだのである。

ここで問題になるのが、「根之堅洲國(ねのかたすくに)」である。一般的には、「地底の片隅の国」と考えられ、死者の国と訳されている。

同じ光景を「日本書紀」では、どう描いているだろうか。

「日本書紀」では、「伊弉諾(いざなぎ)の尊が、お前の行動は、はなはだ無頼である。

天上に住むべきではない。また、葦原中国(あしはらのなかつくに)にいるべきでもない。すみやかに、底つ根の国へ行け」となっている。

ここで注目すべきは、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と「根之堅洲國(ねのかたすくに)」が違うと書かれている点である。

「葦原中国(あしはらのなかつくに)」は、おそらく、いまの出雲市周辺だと考えられる。

すると、「根之堅洲國(ねのかたすくに)」は、島根県西部の石見周辺になるかもしれない。

島根県の「根」とは、根之堅洲國(ねのかたすくに)」から派生した地域名である可能性が高い。

いずれにしても、「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」によって追放された「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」は、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」に会いに行く。

そこで、「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」は、乱行の限りを尽くす。

怒った「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」は「天岩屋戸(あめのいはやと)」に籠もってしまう。

ほとんどの人がどこかで見聞きしている、有名な話である。

「天岩屋戸(あめのいはやと)」から出た「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」は、「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」を追放することとなる。

この一連の話は、九州地方に定着した「ヒミコ(天照大御神)」と「スーサーの王(建速須佐之男命)」・「シュメール系イスラエル族」連合が分裂し、「スーサーの王(建速須佐之男命)」・「シュメール系イスラエル族」連合が九州を去り、出雲に向かったことを神話として伝承したものである。

追放された「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」は、人格が変わったように勇者となり、活躍する。

実は、この話は、最古の文学作品である、シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」に登場する主人公の「ギルガメシュ」と非常によく似ている。

「記紀」のなかに、シュメール文化の影響が見られる部分だと考えられる。

「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」が建国した「出雲国」は、やがて、「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」の子孫である「大國主命(おおくにぬしのみこと)」の時代に、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」に献上されてしまうのである。

これが有名な「出雲の国譲り」と呼ばれる神話である。

この話は、私流にいえば、「長江人系グドゥ族ヒミコ派」が、「長江人系グドゥ族スーサー王派」と「シュメール系イスラエル族」とが創った「出雲国」を乗っ取った、ということである。

「記紀」は、「長江人系グドゥ族ヒミコ派」の子孫が編纂したものであるため、「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」を正統なる支配者として、その中心に置いたのである。

しかし、「長江人系グドゥ族スーサー王派」のリーダーである「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」は、別名、「牛頭天王(ごずてんのう)」と呼ばれている。

「牛頭(ごず)」は、「グドゥ族」のグドゥから派生した言葉と思われる。

ほんとうは、「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」こそ正統なる支配者の家系であったと思われる。

「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」が簒奪した「出雲国」とは、どのような国であったのだろうか。

出雲を中心に、西は、「長江人系グドゥ族スーサー王派」が山陰地域全体を領土としていたと考えられる。

東には、「シュメール系イスラエル族」が、10の支族別に支族国家を建設し、三輪山(奈良県)まで領土とする広大な国であったに違いない。

とくに、「シュメール系イスラエル族」が建設した支族国家は、それぞれの結びつきが強かったため、「大和(ダイ・ワ)」と呼ばれていたのである。



倭国からの追放-1

記紀」の記述は、神話史を終え、「神武紀」の時代に入る。

「天照大御神(あまてらすおほみのかみ)」の末裔である「神武天皇」の、東征が始まるのである。

「記紀」は詳細に読むと、同じような出来事が、神話史や「神武紀」、ほかの天皇紀などに繰り返して書かれている。

これが、「記紀」の内容を理解していくうえで、混乱を招かせている。この解釈を始めると収拾がつかなくなる恐れがある。

ここは、素直に、「記紀」に書かれた内容を追っていこうと思う。

神武天皇45歳のときである、東にある美しい土地を手にいれようと、神武天皇は軍団を自ら率い、九州日向国から東征に向かったのである。

力をつけた「長江人系グドゥ族ヒミコ派」が、「長江人系グドゥ族スーサー王派」・「シュメール系イスラエル族」連合国家に対して、戦争を開始した、ということである。

神武天皇の東征は、苦労の連続であった 。激しい抵抗に遭い、3人の兄を失ってしまう。

ようやく「菟田下県(うだのしものこおり)/奈良県宇陀郡」にたどり着いた神武天皇は、ここで最後の決戦に備えることとなる。

当時、この地を治めていたのが、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」と呼ばれる人物であった。

「饒速日命(にぎはやひのみこと)」には、義理の兄がいて、その名を「長髄彦(ながすねひこ)」といった。

この「長髄彦(ながすねひこ)」が、最後まで神武天皇に抗戦したのである。

このとき、非常に興味深いやりとりが、神武天皇と「長髄彦(ながすねひこ)」との間で行われている。

簡単にまとめると、次のようになる。

「長髄彦(ながすねひこ)」が、まず、神武天皇に向かって言った。

「私は、天神(あまつかみ)の子孫である饒速日命に使えている。ところが、おまえも天神の子孫だと名乗っている、いったい、何人の天神の子がいるんだ」

これに対して、神武天皇は、「天神の子はたくさんいる。おまえが、君主と仰ぐ人物が本物の天神の子であれば、証拠の品をもってこい」と答えた。

すると、「長髄彦(ながすねひこ)」は、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」の「天羽羽矢(あまのははや)」と「歩靱(かちゆき)」を差し出した。

神武天皇はそれを見て、「嘘ではないようだ」と言いながら、自分の「天羽羽矢(あまのははや)」と「歩靱(かちゆき)」を見せた。

それを見た、「長髄彦(ながすねひこ)」は、畏まり、恐れ入った。

「天羽羽矢(あまのははや)」と「歩靱(かちゆき)」とは、弓の矢と靱(ゆぎ/矢を入れて背負う器具)のことである。

この逸話は、何を象徴しているのだろうか。

神武天皇と「饒速日命(にぎはやひのみこと)」とが、同じ神を信仰している民族であるということを暗示している。

それも、「あま(海)」の神である。つまり、二人とも、同じ「長江人系グドゥ族」の子孫であるということを物語っていたのである。

神武天皇と「長髄彦(ながすねひこ)」との決戦は、劇的な幕切れとなる。

「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が、義理の兄である「長髄彦(ながすねひこ)」を殺し、神武天皇に帰順してしまったのである。

これは、どういうことであろうか。

「長江人系グドゥ族スーサー王派」の「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が、「シュメール系イスラエル族」を裏切った、ということにほかならない。

この後、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が率いる「長江人系グドゥ族スーサー王派」は、「物部氏」と呼ばれ、歴史に名を残すことになる。

それでは、「シュメール系イスラエル族」は、どうなってしまったのか。かれらにとって、最後の旅に出立するのであった。



倭国からの追放-2

シュメールへの限りないこだわり。



神武天皇との戦争に敗北した「シュメール系イスラエル族」は、奈良周辺の地域に、かられの文化を残しながら、さらに東へ向かって旅立って行った。

このとき、「シュメール系イスラエル族」を率いていた指導者は、のちに「秦氏」と呼ばれる一族であったと考えられる。

いまでも、「秦氏」の氏神を祀る京都太秦の「広隆寺」には、「いさら井」と呼ばれる井戸がある。

その名前は、「イスラエル」を意味していると伝えられている。

また、「広隆寺」境内には、「大酒(おおさけ)神社」と呼ばれる神社がある。

この「大酒」を昔は、「大辟」と書いたそうである。「大辟」とは、漢語で「ダビデ王」という意味である。

「大酒神社」は、「ダビデ王」を祀った神社なのである。

さらに、「秦氏」ゆかりの地として、「八坂神社」があげられる。この神社は「祇園祭」で、有名である。

「ぎおん」とは、イスラエル民族の「シオン」からきたという説もある。

「シュメール系イスラエル族」、即ち「失われたイスラエル10支族」は、「秦氏」に連れられて、東北地方を目指したのであった。

青森県三戸郡新郷村に「十来塚(とらいづか)」と呼ばれるところがある。最近では、キリストの墓である、などと主張する人もいる。

「十来塚(とらいづか)」。その名前を見てほしい。「10の支族が渡来した」という意味である。

東北のどこに渡来したのか。 一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)までである。

東北に、一から九までの地名が残されていた。だが、「十戸(とおのへ)」は存在しない。実は、東北には、昔、「とおのへ」と呼ばれていた地域があった。

それが、現在の「遠野(とおの)」なのである。

「失われたイスラエル10支族」は、ついに、最後の安住の地を得たのである。

東北地方には、イスラエル文化の影が、あちらこちらに見られる。

ひとつだけ、有名な話を、紹介しておこうと思う。

東北地方に、「ナニャドヤラ」という盆踊りの歌がある。

ナニャドヤーラ・ナニャドヤーラ

ナニャドナサレータ

ナニャドヤーレヤ

この単調な歌詞を何度も繰り返して歌うのである。

だが、その意味は、いまではもう失われている。

ところが、この歌詞は、ヘブライ語で解釈できる、という説がある。

ヘブライ語で、「民族の先頭にヤハウェ進み給え、汝の御名をほめたたえん」と読めるそうである。

最後に、シュメールの影に関して、書いておきたい。

この幻想記は、シュメールを旅することで始まり、ここまで来たのである。

「万葉集」に、こんな歌がある。高市皇子がひそかに思いをよせていた、異母妹の十市皇女が亡くなったときに詠んだ歌である。

山振の 立ち儀ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく (巻2・158)

悲しく、美しい歌である。

亡くなってしまった十市皇女を生き返らせるために、黄金(山振/やまぶき)の花に彩られた「生命の泉の水」を汲みに行きたいけれど、その道が知らないために行けない。と、高市皇子は嘆いているのである。

黄金に彩られた「生命の泉の水」。

それこそ、シュメール最古の物語、「ギルガメシュ叙事詩」にでてくる泉なのである。

ギルガメシュは、この黄金に彩られた「生命の泉の水」を求めて、旅立つ。

しかし、その道を見つけることができず、失意のうちに寂しく故郷に戻るのであった。

遙かな旅に出たシュメールの人たちは、終わりの地として、日本にまでたどり着いた。

だが、ここが、かれらにとって、黄金に彩られた生命の泉の地であったのかどうか、いまとなってはわからない。



---シュメール幻想論・完---