千年王国
千年王国の到来と空中携挙 [TOP] [もくじへ]
●世界は炎で焼かれ、その残りの灰から新しい天と地が創られる。(ミルトン・『失楽園』)
●ここでノストラダムスに耳を傾けましょう(『諸世紀』の中でも最も格調の高いことで有名な詩です)
魂なき肉体は、もはや犠牲とはならず
死を迎うる日は、復活の日とならん
神の御霊は、魂に歓喜を与えたまい
不滅の御言葉は、いまここに具体化せん
(U−13)
神の御言葉が、実質的に与えられん
天と地の隠された神秘的事柄は、いま明らかとなり
肉体・魂・霊は一体となりて、あらゆる力を備え
みな天の座において、主の足元にひれ伏す
(V−2)
●この「神の国」こそが聖書のいう「千年王国」であり、日月神示のいう「みろくの世・松の世」でしょう。この時代は文字通り「千年間」続くと多くの預言書に記されています。
<ノストラダムス>「それから神と人間との世界に平和が訪れます。それはおよそ千年の間安定し続けるでしょう」(セザールへの手紙)
<黙示録>「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間支配する」(11/6)
<ケイシー>「最後の審判のときに、信仰深く公正であった者たちは、千年の間治め裁くために主に取り上げられるのだ」(5755/2)
なお、仏典<観弥勒下生経>の中でも「弥勒の世は千年続く」と告げられています。
そして、ケイシーが述べている「主に取り上げられる」人々。これこそが「空中携挙」なのです。(中略)
これは、主にクリスチャンの間で古くより信じられてる教義で、「終わりのとき、イエス様が雲に乗ってやってこられ、敬虔な信者たちを空中に引き上げて終末のかん難から救って下さる」といった信仰です。言うなれば地上からの緊急避難組で、この選民達が千年王国の住人となるわけです。(中略)
恐らく黙示録の次の言葉からきたものと思われます。
「その時、天から大きな声がして、『ここに上ってきなさい』というのを、彼らは聞いた。そして彼らは雲に乗って天に上った」(11/12)
選民は
選民はどのようにして行われるか [TOP] [もくじへ]
●しかし、そもそもの出発点はこの「空中携挙」という言葉にあります。
これは英語の「Rapture」の翻訳語ですが、手元に英和辞典があれば引いてみてください。どこを探しても「空中」にしろ「持ち上がる」にしろ、そんな意味は載っていないでしょう。この語の本義は「狂喜、歓喜、忘我、恍惚」。すなわち最近流行の「至高体験」を意味する言葉なのです。(中略)
事実、本職の牧師でもあるポール・ソロモンもそのソースを通じ、次のように述べています。
「もしあなた方が福音で宣べ伝えられていること、召される教会のラプチャーを考えているとすれば、それはあなた方が迷信とみなしているものとさほど異なるものではないのである」(241)
では、「迷信」でない真のラプチャーとは何か、まずイエスに聞いてみましょう。
「そのとき彼(神)は御使いたちをつかわして、地の果てから天の果てまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マルコ伝13/27)
いいですか、このラプチャー(選民)は地(この世)だけでなく、天(あの世)の霊魂もその対象とされているのです。もっともこれは当たり前の話で、終わりのとき
「死者はその眠りから覚まされ、裁きの庭に立つ」ということでした。だとしたら、最後の審判でラプチャー組に選ばれる死者も、もちろんいるわけでしょう。(中略)
では、別の預言でこれを確認してみましょう。
「そのとき、キリストに結ばれて死んだ人たちがまず甦り、生き残ってる私たちはたちまち彼らと一緒になって雲の上に引き上げられ、空中で主と会うのだ」(テサロニケ人への手紙4/16)
●
「あなた方に奥義を告げよう。私たちすべては眠りにつくのではない。終わりラッパの響きとともに、またたく間に一瞬にして変えられる。というのは、死人は朽ちないものに甦らされ、私たちは変えられるのである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである」(コリント人への手紙T・15/51)
最後にある「聖書にある言葉」が「神の国の成就」であることは、すでに度々見てきました。そしてその「神の国」へ入るためのラプチャーですから、「眠りにつく(死ぬ)のではない」と念を押しているわけです。では、どうなるのか。一瞬のうちに「朽ちるもの→死ぬもの→物質肉体」から、「朽ちないもの→死なないもの」へと変えられるといってます。これこそが「奥義」だというのです。では、どんな体なのか。
「私たちの卑しい体を(神)ご自身の栄光の体と同じ形に変えて下さるであろう」(ピリピ人への手紙3/21)
この「神ご自身」は上位次元者ですから、私どもの「卑しい体(肉体)」も、それと同じ次元になるということでしょう。なぜそうする必要があるのか。
「わたしのおる所に、あなた方もおらせるためである」(ヨハネ福音書14/3)
その「わたしのおる所」は当然「神の国」ですから、今やこの世が神の国化した以上、そこの住人の肉体もそれに見合った存在になる必要があるわけです。そして、神の国が「あの世的世界」であることも、すでに見たとおりです。ならば、そこで死者と出会っても不思議ではないことになりましょう。これがイエスのいう、
「新しいブドウ酒は新しい革袋に入れよ」(マルコ伝2/22)の意義であるように思います。
神の国になったら
神の国になったらどうなるか [TOP] [もくじへ]
ここらあたりは、ポール・ソロモンのソースの最も詳しいところで、
「あなた方の中には、そのとき一瞬にして変えられてしまう人がいる‥‥あなた方が肉体をここで捨て去るというのではない。突如として、あなた方は物質の体と光の体とを知り、重く濃密な物質を光に変えてしまうのだ」(185)
物理学では「物質とは、結局、凍結されたエネルギー(光)のことである」という言葉があります。この場合、こう考えてみたらどうでしょう。たとえば、氷が温められて水になったとき「氷が消滅した」というでしょうか。いや、氷というのはもともと特殊な状況下にあった水なのです。それがまた元の状態へ戻ったに過ぎません。私たちの肉体(物質)も本来は「光」だったのかも。ならば‥‥
「肉体の振動の時代は過ぎ去り、神への旅における人間の発達にとって、それはもはや適当なものではなくなっている。私たちはもはや物理的である必要はないのである」(285)
春になって「私たちはもはや氷である必要はないのである」と水がいうかも知れません。
(中略)
「彼らは皆、体に帯びる物質を減らし、大きく拡大された次元の中へ入っていく。それは四次元という表現では足りない。変化はそれ以上のものである」(604)
ここでも「次元」という言葉が確認できます。しかも、その変化は「四次元以上」だとか。これについて、ケイシーのソースは
「(現在の)地球は、この太陽系では単に三次元(空間)を表すに過ぎない。では、この太陽系にはいくつの次元があるのか、それは八次元である」(5757/2)
ここにある「地球は単に三次元を表す」とは、太陽系においては三次元生物の存在する唯一の星、そういう意味ではないでしょうか。(実際、神秘学の教えによれば、この地球以外の惑星にも、三次元以外の存在なら知的生命体は実在すると告げているのです)
今度は我が(日月神示)の方でこれを見てみましょう。
「大地も転位、天も転位するのぞ」(五葉之巻15)。どのように?
「八方的地上から十方的地上になるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変わるのであるぞ」(至恩之巻14)
(中略)
「灰になる肉体であってはならん。原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ。今の物質で作った何物にも影響されない新しい生命が生まれつつあるのぞ」(五葉之巻16)。
いうまでもなく、物質は物質にしか影響を与えることができません。これを見る限り、私どもはついに物質を超えた体になるのです。
(中略)
「あなた方はこのように理解するとよい。この世界が高められた段階に変えられることが必要なだけである。人がそのとき瞬時にして次元を変化させるならば、教会のラプチャーとして述べられているのと同じ有様で、彼(皆さん)は空中で主とまみえるために取り上げられる」(ソロモン241)
「よくよくあなた方にいっておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3/3)
臨死体験
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どの道、肉体的には一度死なねばならないのです。この地球自体が今の肉体では生存できない環境になってしまうのですから。ここらあたりは「日月神示」がより詳しく、
「何もかも一旦は天地へお引き上げぞ」(36)
「残る者も一度は死ぬことあるぞ。死んでからまた生き返るぞ」(38)
「地上界が総て変わるのぞ。人民のみこのままというわけには参らぬ。死んで生きてくだされよ」(星座之巻8)
「人民一度死んでくだされよ。死なねば甦られん時となったぞ。今までの衣を脱いでくだされと申してあろう」( 〃 )
「着物脱いで裸体になること、つらいであろうなれど、脱がねば新しい着物着られんぞ」(667)
「大掃除激しくなると、世界の人民は皆、仮死の状態となるのじゃ。掃除終わってから因縁のみたまのみをつまみ上げて、息吹き返してミロクの世の人民と致すのじゃ」(紫金之巻4)
神の国とはどんな
神の国とはどんな所か [TOP] [もくじへ]
●
「神は天にあるもの地にあるものをことごとくキリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」(エペソ書1/9)
いうなれば、天(あの世)と地(この世)を一つに合体するということです。
それを今度は「大本神諭」「日月神示」の預言から見てみましょう。
双方とも「三千世界をひとつに丸める」という言葉がくり返し出てきますが、さらに
「天も地も世界が平均(なれ)るのであるから、今までの行為(おこない)を致して居ると大失敗を喰らうぞよ」「今までは天地揃ふての世ではなかりたが、(これからは)天と地が一つになりて統治(おさめ)るぞよ」(大本神諭)
「三千世界、一度に開いて世界一列一平一つのてんしで治めるぞよ」(日月神示)
●今までの三界はそれぞれ別階層で、全く交流のない世界でした。せいぜい、霊能者が幽界のとば口をかいま見る程度が関の山だったわけです。それが「神の国」では、「天(あの世)と地(この世)が一つになりて治める」ということです。単純化すれば「この世があの世化する」と考えればいいでしょう。
「新しい人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所」(日月神示)
では、そこでの人間はどんな姿になってしまうのか。いえ、本当は考え方が逆で、
「物質界は霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、また霊と体とは殆ど同じ形をしているのであるぞ」(日月神示)
ただし、霊界の方では物質的制約が全くなくなるわけですから
「霊界は無限・絶対・自由自在であるぞ」(日月神示)
「日々に 神の心の 急き込みは 自由自在を 早く見せたい」(おふでさき)
(中略)
どんな事態か、要するに天と地が合体するのですから、私どもはそこで神々(上位次元者)と一緒に暮らすことになるのです。ウソではありません。東西の預言が口をきわめて次のように告げています。
「これまでは 如何なる神と ゆうたとて 眼にみえんと いうていたなり」(おふでさき)
「この度わ どの様な神も 真実に 現れ出して 話するなり」(おふでさき)
今の世では、神というのは「目に見えない存在」だといっているが、今度来る世では、その神々と直接会って話ができるようになる。そう告げているのです。これはソロモンのソースも同様で、
「そのこと(ラプチャー)がなされるならば、準備されるならば、それらはあの一なる異象に至るだろう。あなた方は周囲の霊を見るであろう」
「周囲の霊が見える」のは何も霊視力が高まるからではありません。人間が神々と同じ次元の存在に変異するからで、これを「一なる異象に至る」と表現しているようです。いいいかえれば、
「彼(キリスト→神)が現れるとき、私たちは自分たちが彼に似たものとなることをしっている」(ヨハネへの手紙)
「似たもの」とは同じ姿形ということではなく、「わたしたち」人間が神と同位相の次元にレベルアップするという意味でしょう」
神の国の住人
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「新しい霊界は、神人共でつくりだされるのざ」(日月神示)
「神と人と一つになって、一つの王となるのぢゃ。上下揃うて一つになるのぢゃ」(日月神示)
「神と人間、同じになれば神代ざぞ」(日月神示)
「地上は砂漠のようになるでしょう。そして、神と人との間に平和と和解のときが訪れるでしょう」(聖母預言/ラ・サレットの告知)
「見よ。神の幕屋が人と共にあり。神が人と共に住み、人は神の民となり。神自ら人と共にいまして、人の眼から涙をぬぐいとってくださる」(黙示録)
(中略)
これは比喩でも何でもなく、まさにありのままの事実を述べていたのです。ただ、私どもは今まで各宗教が説いている、いかにも宗教臭いイメージで神を考えていたので、何やら構える姿勢になってしまうのではないでしょうか。神とは、要は私どもの世界より上位次元に住む存在なのです。したがって、次元上昇する次の世界では、
「今度世変わりたら、臣民この世の神となるのざぞ」(日月神示)
「新しき世とは神なき世なりけり。人・神となる世にありけり」(日月神示)
ともあれ、このように飛翔した人間たちを、
「今までは 同じ人間 なるように 思ているから 何も分らん」(おふでさき)
「しかと聞け 同じ人間 なる様に 思ているのは これは違うで」( 〃 )
これがいわゆる「超人類」の誕生です。「超」といっても、現在の肉体や大脳がスーパーマン化するのではありません。
「世が代わるのであるから是迄に無かりた事が出来るぞよ」(大本神諭)
ということで、文字通り存在の次元が違う人類が誕生するのです。それをこの神は、
「だんだんと 珍しい人が 見えてある 誰の目にも これが見えんか」(おふでさき)
この「珍しい人」こそ超人類だと思います。すでに神の次元ではこの人類が見えているのでしょう。
神の国の住人と神
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●「神」も人類の進化した姿なのでしょうか。どうもそうではないようです。真の神と呼ぶべき存在は、恐らく現人類よりは1進化期(以上)レベルの進んだ霊的生命体のように思われます(私どもでさえ次元上昇するというのに、神存在が、物理的肉体をまとっているはずもありません)。
要するに、この神々は遠い昔、この地球上で進化を果たして神になった魂ではないということです。これは聖書がはっきりと断言しています。
「第一の人は地から出て地に属し、第二の人は天から来る」(コリント人への手紙)
この「第一の人」は私ども地球人で、「第二の人」が天から来た神々‥‥ということは、双方は別系統のようです。すなわち、
「あなた方は下から出た者だが、私は上から来た者である。あなた方はこの世の者だが、私はこの世の者ではない」(ヨハネの福音書)
つまり、人間はこの世(地球)から進化した者だが、わたし(神)はこの地球で飛翔を果たしたものではない、そういっているのです。明らかに違う進化系なのでしょう。
ここらあたりは、ポール・ソロモンのソースが詳しいところで、
「このように理解するとよい。地表に住む人間がほとんどいなくなり、新時代の指導が教師や長老として訓練された者たちから与えられる時代がくる。新時代の新人類にとって、彼らはまるで神のように目に映じるであろう」
ここでいってる「新時代の新人類」こそ、あのラプチャーされた選民のことなのです。この新人類にとっても、新しい世界はいささか面食らう環境に違いありません。そこで、「そこには手助けが必要である。他世界から数多くの魂が到来する‥‥高度に進化した魂、大いなる師たちが遣わされるのである」
この神々は「他世界からやってくる魂」だといいます。これを異次元からと取るか、あるいは別の星からと取るかはなかなかむつかしいとろです。しかし、物理的生命体でない以上、結局はどちらでも実質は同じことだといえましょう。いずれにしても、この方々は新しい地球人をサポートしてくださる、いわばボランティアで、もちろんお一人ではなく「高度に進化した数多くの魂」だといってます。
そしてこの方々こそが、キリスト(救世主)存在なのです。救世主というのは、私どもを「この世の終わり」から丸ごと救って下さる方ではないのです。そんなことはどの預言書を見ても一言も記されてはいないのですから。ここはくれぐれも間違えないでください。
さて、以上をまたノストラダムスに説明してもらいましょう。
天使の子孫による支配が始まる
彼らは王国を平和な連合により統治する
逆らう人々の反抗は封じ込められ
その平和は長く維持されるであろう
「天使の子孫」が「他世界からやってきた救世主たち」でしょう。この方々はどうやら「天使族」ともいうべき系統のようで、この神々が新人類を支配するといいます。日月神示にあった「一つのてんしで治める(天皇ではありません。天使なのです)」時代ということでしょうか。
神の国の様子
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●
「神の国と申すものは光の国、喜びの世であるぞ」(日月神示)
「新しき臣民の体からも光が出るのざぞ。その光によって、その御位分かるのざ」( 〃 )
「草木も人民も山も海も光り輝いて、真にそこら中がキラキラ致して頼もしい穏やかな世になるぞよ」(大本神諭)
「水晶のように物が透き通りて見え出すから、悪の身魂の潜れる場所が無き様になるぞよ」( 〃 )
「真実に この本道が ついたなら 末は頼もし 陽気尽くめや」(おふでさき)
「世界中 皆一列に 澄み切りて 陽気尽くめに 暮らすことなら」( 〃 )
「陽気尽くめ」とは「光尽くめの世」という意味のほか、陰(地)の気が失せるということでもありましょう。西洋系の方でも、
「そのとき、義人たちは彼の父の御国で太陽のように輝きわたるであろう」(マタイ伝)
「彼らは王冠の宝石のように、主の土地で高貴な光を放つ」(ゼカリア書)
「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに光輝く」(ダニエル書)
何やら全ての人々は、宗教画の聖人のように全身からオーラを発するようです。あらゆるものが光り輝くということは、要するにみな周波数が上がり、そのエネルギー値が高まったということでしょう。
物理学でも「次元世界」というのは、結局のところ「エネルギー値の段階的界層性」であろうという説があります。ならば、これが次元飛翔の実態なのでしょうか。少なくとも、今の物理的世界の延長線上に想像できる光景ではありません。
事実、預言の方でも、新しい世界では、
「物が大変わり致す」「新(さら)つ洗い替えの世になる」「アンナものがコンナものに成りたと世界の人民に改心致させる仕組」(大本神諭)
「今までのこと、ちっとも交わらん新しき世となる」「天地一度に変わると申してあること、近づいたぞ」(日月神示)
「未来の王国は非常に異常な形で出現するだろう」(セザールへの手紙)
「その事(神の国)が始まるのは、物理的変化がなされた時である」(ケイシー)
「あなた方の知ることもなく、人の心が想像できない新しい地球、新しい天の夜明けである」(ソロモン)
みなその衝撃的変化を強調しています。
「面白や 多く人が集まりて 天の与えと いうてくるぞや」(おふでさき)
これぞ人々に対する「天(神の国)の与え」ということでしょう。
このような世界へジャンプするためか、人間の寿命も大幅に延びるようで、
「世変わりたら、生命長くなるぞ」(日月神示)
「体は新しくされ若返ることができる。体は地とその影響力を超えるからである」(ケイシー)
とはいえ一気に不死身になるわけでもなさそうで、はじめの頃は、
「新しき人民の住む所、霊界と現界の両面を持つ所」(日月神示)
何やらまだ半分は物質領域に片足を突っ込んだ世界のようです。たとえていえば、神の国を二階とすると、まだ中二階の段階と考えればいいでしょう。ともあれ、
「半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならぬ」(日月神示)
その「半肉体」は、それでも今の私どもの体とは大違いで、
「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(イザヤ書)
きんさん・ぎんさんなど、まだはなたれ小娘だというのです。そしてその長寿はさらに延び、出口王仁三郎の預言によれば、
「
人間の長寿は最初に二百歳。やがて四百歳・六百歳となる」のだとか。では、その先はどうなるのか。それを今度は「おふでさき」預言の方で見ると、
「この助け 百十五歳を 定命と 定めつけたい 神の一条」
「助け」とは例のラプチャーのこと。ここでは、まず百十五歳からスタートするようです。なら、その後はどうなるのか。
「その後は 病まず死なずに 弱らずに 心次第で 何時までも居よ」
気持ち次第で「病まず死なずに」好きなだけ生きていなさいということでしょう。
もっと先になればどうなるか。
「また先は 年限経ちた ことならば 年を寄めるは 更に無いぞや」
ついに年をとらなくなる‥‥ということは結局不死身の体になるということです。それほど「年限経ちた」頃には、もう完全な「全霊無物質」の時代になっており、
「物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから、無限の生命が与えられるのじゃ」(日月神示)
「そして地に住む人々の心は変えられて、新しい感覚を身につける」(エズラ書)
ここらは西洋系の方も強調しているところで、
「正しい者は永遠の生命に入るだろう」(マタイ伝)
「彼らはもう死ぬことができない。彼らは天使のようであり、復活の子らとして神の子となったからである」(ルカ伝)
「もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。先のものがすでに過ぎ去ったからである」(黙示録)
「もはや死ぬことも、滅びることも、パンの欠けることもない」(イザヤ書)
「病は消え去り、死は姿を消し、地獄は遠ざかり、腐敗は忘れ去られる」(エズラ書)
「そして、その上を歩く者たちすべては光の存在、父なる神と共に歩む聖なる存在と化し、今の次元では想像もできないほど偉大で高貴なものごとをなし遂げるであろう」(ソロモン)
ついでといっては失礼ですが、かの日蓮上人も次のような予告をなさってます。
「(ついに人類は)長生の術を得、人法ともに不老不死の理(ことわり)現れん時をご覧(ろう)ぜよ」
まことに慶賀にたえません。
想像を絶する
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●そこで選民たちはどんな暮らしをするのか、ここらあたりは引用ばかりとなりますが、何しろ私の頭で想像できる世界ではありません。信じるしかないのです。
「何もかも人民まで変わるのが今度の大立て替え、食物も衣類も住居も皆変わると申している時が来ているのぞ」(日月神示)
「神となれば、食うことも着ることも住む家もなくなるぞ」( 〃 )
「彼らは飢えることなく、渇くこともない」(イザヤ書)
ありがたい話です。もっとも「食うこと」とは、早い話が肉体細胞に栄養を補給する作業ですから、その肉体が物理的でなくなる以上、「食う」必要もなくなるわけです。
「今までの様な大小便なくなるぞ。不潔というもの無き世となるのざぞ」(日月神示)
「私たちの住んでいる地上の幕屋が壊れると、神からいただく建物、すなわち天にある人の手によらない永遠の家が備えられていることを知っている」(コリント人への手紙)
「いと高き方の都が示されようとしている所には、人間の手になる建物があってはならない」(エズラ書)
マンションも一戸建てもあってはならないとか。つまり、人間がこの破壊された世界(地上の幕屋)を再建するのではないということです。この物理的世界は、そのまま放置されるのです。そしてこの世界では、
「金いらぬ楽の世になるぞ」(日月神示)
衣食住の必要がなくなるからには金を持っていても意味がありません。
「警察いらんと申してあるぞ」(日月神示)
金がないのですから、泥棒や詐欺師の出番もなくなるのでしょう。
「今まで長者というは金持ちが長者や。長者一夜にして倒れるで。これからの長者はころりと違うで」(天理教)
魂の長者こそ、真の長者であるという意味です。
「世界のいろは一つになるぞよ」(出口ナオ預言)
「いろは」とは言語のことで、それが「世界で一つ」ということは、全世界が共通語となるという意味です。多分テレパシーのようなもので意志を通じ合うのでしょう。
「岩戸開いて明らかになったら、宗教いらんぞ。政治もいらんぞ」(日月神示)
「人民の政治、神の国には用いられんのじゃ」( 〃 )
「判るように申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場を合わせた様なものが一時は出来るのぞ」( 〃 )
「判るように申す」といわれてもさっぱり判りません。恐らくそうなるのでしょう。
さて、すこぶる奇妙なのは次で、
「復活の時には彼らはめとったりとついだりすることはない」(マタイ伝)
つまり、「復活の時→神の国」では、結婚がないというのです。これもある意味では理にかなっています。結婚生活というのはつまるところ、子孫を残すためのSEX行為です。ところがもう物質肉体でなくなったうえ、千年王国そのものが人口を増やせないのです。なぜなら、そこに入れるほどの魂ならすでにラプチャーされているわけでしょう。
「それ以外の死人は千年の期間が終わるまで生き返らなかった」(黙示録)ということですから、人口を増やすこと自体が不可能なのです(もちろん、ごくわずかの出入りはあるでしょうが)。とにかく、
「これまでの事は一切用いられん事になるのぞと申してあろが」(日月神示)
神の国には何人
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●しかし、その「神の国」へは今の人類全てが入れるわけではないのです。そこが実につらいところなのです。どんな素晴らしい所であろうと、自分がそこに入れなくては何の意味もないわけですから、ここからが本書の最大のテーマとなります。すなわち「どれくらいの人々が選ばれるのか」そして「どうしたら選ばれる側になれるのか」の二点です。
では始めましょう。この世界は終末のトリプルパンチで恐らく惨憺たる様相を呈していることでしょう。しかし、次元飛翔を果たしたラプチャー組が舞い戻ってきます。もちろん彼らはすでに高次元化した体ですから、この物理的世界がどうなっていようと大して関係はないわけです。
「灰になる肉体であってはならん。原爆も水爆もビクともしない肉体になれるのであるぞ」(日月神示)
この半霊半物質の新人類が放射能などどこ吹く風とばかり、次々と立て替え後の「神の国」へ帰ってきます。でも、多くはなさそうで、
「立て替えいたしたら、世は一旦寂しくなるぞ」(日月神示)
「世界は縮小し、ほんのわずかの人しか生き残らない」(セザールへの手紙)
「この世に蒔かれた人が全て救われるわけではない」(エズラ書)
「いと高き方(神)はこの世を多くの人のために造られた。しかし、来るべき世は、わずかな人のために造られている」( 〃 )
「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ伝)
残念ながら、神の国へ入る人は多数派とはいえないようです。では、どのくらいの人がラプチャーされるのか。
「そのときふたりの者が畑にいると、1人は取られ、1人は取り残されるであろう」(マタイ伝)
要するに2人に1人ということか。いやこれはあくまで比喩であって、実数ではありません。実際はもっと少ないようです。
「世界の人民三分になるぞよ」(大本神諭/明治27年)
この「三分」というのは、「腹八分」という言葉もある通り「3割」という意味です。
「何もかも三分の一じゃ。大掃除をして残った三分の一で、新しい御世のいしずえと致す仕組みじゃ」(日月神示)
ここにある「三分の一」というフレーズは、聖書の中でもたびたび見られます。前の「三分」と同じ意味に取っていいでしょう。では、30%がラプチャー組か。いや、
「今の世の守護神、人民の心では、三分も助ける身魂がないぞよ」(大本神諭/大正6年)
「残る臣民、三分むつかしいぞ。三分と思えど二部であるぞ」(日月神示)
ここで早くも20%に目減りしています。
「臣民といふても、人間界ばかりでないぞ。神界・幽界のこともいうて知らしてあると申してあろが」( 〃 )
そうです。今回は「三界」の大立て替えでした。したがってこの20%は、この世の人間だけでなく、死者(あの世の魂)も含めての数なのです。では、どちらが多く選ばれるのか。そんなことは分かりっこありません。(中略)
「子が天国で親地獄という様にならん様にして呉れよ。一家揃うて天国身魂となって呉れよ」(日月神示)
至福1000年
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(中略)
地獄というのは何もエンマ様に命令されて行く所ではなく、自分で勝手にそこへ突き進んでいくのです。つまりは、生前の意識が自らをそこへ追い込んでいくと思えばいいでしょう。そのうえ、今回は「末代に一度」という、すこぶる特殊な進化の時期にいるわけです。そのため、
「大峠と成る前に改心を致して身魂を磨いて居らんと、大峠を越すのが辛いぞ」(大本神諭)
では、その大峠をどう越せばいいのか。
「因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ」(日月神示)
「因縁」は、最近では「カルマ」という言葉の方がなじみ深いようですが、この度はそのカルマの総決算をせねばならない時だといいます。どうやらとんでもない時代に、私どもは生まれ合わせてしまったようです。しかも、
「肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ」(日月神示)
でもどんな「改心」をすればいいというのか。改心とは「心(考え方)を改める」という意味です。ならば、結局のところ「体主(この世的思考)」からいかに離脱できるか、そして、どれほど「霊主」の考え方に近づけるかにかかっているでしょう。
要は、いかに顕世的欲望を減らすかです。
「この道は 惜しい欲しいと 可愛いと 欲と高慢 これが埃や」(おふでさき)
「欲望と慢心」それが「埃(カルマ)」なのです。でも、残り時間はさほど多くはありません。
「最後(どんじり)で改心を致しても、もう遅いぞよ」(大本神諭)
不合格者
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●では、そういう「改心」のできない落ちこぼれ組はみんな地獄行きなのか。そうではありません。この層は曲がりなりにも顕界(物質)レベルまでは達した魂でした。でも、世界にはまだこの水準に到達していない人々が大変多いのです。原始的部族とか、第三世界の下層庶民層は多分まだこのレベルかと思われます。
この人たちの魂は地獄へ行きようがありません。これは何も差別意識でいっているのではないのです。神秘学的にいえば、この人達は魂が人類に進化した時期が相対的に遅かっただけの話なのです。いうなれば人類としては比較的若い魂といっていいでしょう。
(中略)
一方、現在で最も進んだインテリ層は、間もなく神(界)方向へ帰還する上昇期に入るわけです。すなわち皮肉なことに、物質界の能力が優れた人ほど「選ばれる側」に入る可能性が高いということになります。
いずれにしても選別の基準はあくまで魂の進化のレベルの問題であって、信仰のあるなしではないということを、ここで再確認しておきたいと思います。
今が最も
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「殺さなならん臣民、どこまでにげても殺さなならんし、生かす臣民、どこにいても生かさなならんぞ」(日月神示)
「身魂の審判(あらため)を致して神が網を掛けるぞよ。網掛けたら神は離さぬぞよ」(大本神諭)
そうです。ここは何としてでも「網を掛けられる」組に入らなくてはなりません。さもないと、
「四つん這いとなりて着るものもなく獣となりて這ひ回る人と、空飛ぶような人と、二つにはっきり分かりてくるぞ」(日月神示)
「準備せざるものたちは、天を見上げたまま神がその時でさえ自分たちをお受けになるよう、天に向かって泣き叫ぶが、彼らは準備ができていない。もう遅すぎるのである」(ソロモン)
いやそうならずに、是か非でも新しい「神の国」を共に見ようではありませんか。
「これほどの 月日の心 心配を 世界中は 何と思てる」(おふでさき)
おわかりでしょうか。今は、惰性的日常生活に流されている時ではないのです。
「銘々に 今さい(え)よくば 良き事と 思う心は 皆違うでな」( 〃 )
「それ知らず 皆一列(全ての者)は 銘々に 皆うっかりと 暮らし居るなり」( 〃 )
果たしてそれでいいのでしょうか。
「しかし、主の日は盗人のように襲ってくる」(ペテロへの手紙)
「あなた方が放縦や泥酔や世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がワナのようにあなた方を捕らえることがないようによく注意していなさい」(ルカ伝)
「その日がいつであるか、あなた方には分からないからである」(マルコ伝)
「目を覚ましていなさい。私があなた方にいうこの言葉は、すべての人々にいうのである」(マルコ伝)
「いよいよ何もかも引き寄せるから、その覚悟よいか。覚悟せよ」(日月神示)
「何もかも一旦は天地へお引き上げぞ」( 〃 )
以上、ここまでコトがコトであるだけに私個人の主観は極力排除したつもりです。そして、ただ預言の言葉のみに重点をおいて話を続けてきました。それも単品預言で判断をするのではなく、各種預言を突き合わせて見事合致するものばかりを紹介してきたわけです。さて、皆さんはそれをどう判断なさったでしょうか。
では、その締めくくりとして、これまでの総まとめという形で、預言の神々によるディスカッションに耳を傾けてください。
以下、簡略化のため(聖)→聖書、(天)→天理教のおふでさき、(大)→大本神諭、(日)→日月神示‥‥で表示します。
「時は満てり、神の国は近づけり」(聖)
「時違えぬ様に、時来たぞ」(日)
「時節が来たぞよ、もう間が無いぞよ」(大)
「月日より 日々心 急き込めど 刻限待ちて いると思えよ」(天)
「その日は、すべての国に近づいている」(聖・オバデヤ書)
「新しき世となる終わりのギリギリの様相であるぞ」(日)
「月日には だんだん 見える道筋に こわき危なき 道があるぞや」(天)
「月日より こわき危うき 道筋を 案じていれど 銘々知らずに」(天)
「この世に地震、人々の騒乱、諸国民のはかりごと、指導者たちの不安定、君主たちの動揺などが現れてきたら、そのとき、これこそ高き方が前々から、初めのときからいわれてきたことであると悟りなさい」(聖・エズラ書)
「しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである」(聖・マタイ伝)
「1日に10万死にだしたら、神の世がいよいよ近づいたのざから、よく世界のことを見て皆に知らして呉れよ」(日)
「病はやるぞ。この病は見当取れん病ぞ」(日)
「それは起こらねばならないが、まだ終わりではない」(聖・マタイ伝)
「大峠となりたら、キリキリまひして助けてくれと押し寄せるなれど、その時では間に合わん」(日)
「天地のびっくり箱が開くと、天地が一度に鳴動(なり)だして、耳も目も鼻も飛んで了うようなエライ騒ぎとなるぞよ」(大)
「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きなかん難が起こるからである」(聖・マタイ伝)
「腰が抜けて、あごが外れて、アフンと致して、四つん這いに成りて苦しむような事が出来(しったい)致すぞよ」(大)
「いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でいて呉れよ。地獄の三段目に入ることは一番の天国に通ずることぞ」(日)
「ここまで世が迫りて来ているのぞ。まだ目覚めぬか。神はどうなっても知らんぞ。早く気づかぬと気の毒できるのぞ」(日)
「絶対絶命の世になりたぞよ。世界のものよ、改心いたされよ。世が変わるぞよ。ビックリ致すことが出来るぞよ」(大)
「今までと 道がころりと 変わるでな 皆一列は 心定めよ」(天)
「出来上がるまでは誰にも分からんが、出来上がりたら、何とした結構なことかと、皆びっくりするのざぞ」(日)
どうでしょ。おわかりになりましたか。さあ当書もオーラスに近づきました。
「『ソンナ事が在るものか』と申して、今に疑ふて居る人民ばかり」(大)
「これまでは 何処の人でも 同じ事 何をいうても 皆疑ふて」(天)
「人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのざぞ」(日)
(中略)
以上の事柄を本気で信じられる人間なんて、多分そんなにいないでしょう。ただその場合、単純な思い違いがあるのではないでしょうか。ひとつ聞きますが、あなたが信じたから多数決でコトは起きるのでしょうか。
逆に、人間の心が信じさえしなければ、全てのことは起こらないのでしょうか。いつの間にか人間の頭脳はそれほど完璧になったのでしょうか。聞くところによると、あの雲仙普賢岳の住民は、裏の山(普賢岳)が火を噴くなどとは噴火の直前まで誰一人として「信じていなかった」といいます。それでもあの山は噴火したのです。つまり、高度の自然性においては、人間の心が信じまいと、起こるときには起こるのです。天はあなたの気持ちに合わせて降ったり照ったりするのではありません。
ただ、ここでの問題は、現代人のこのような考え方にあると思います。すなわち、あらゆる事柄を自然性(神界レベル)よりも人間側(顕界レベル)を上位にした発想をしているのです。まさに「逆立ち思考」で、これこそが(無意識的な)「体主霊従」の考え方といえましょう。そしてそのような発想が現代人の常識の原点になっているわけで、その常識が「ぐれんとひっくり返る」(日月神示)のが、この度の「立て替えの仕組」なのです。
人知を超える
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●この度の預言は、三界(神幽顕)の全てを含むということでした。ということは、この世界より高次元の領域までもターゲットにしてることになります。それを物質位相の科学だけで証明するというのは、どだいムリな話だったのです。まさに、「次元が違う話」なのですから。つまりは「1に1足すと2になるというソロバンや物差しでは見当とれんのざぞ」(日月神示)という次元になるのでしょう。そういう世界へ、私どもは間もなく入るということです。
「その次元に入る準備のできている人々は、重い世界を離れ、軽い世界へと入るであろう」(ソロモン)
「今が自分を次の次元に引き上げる、ここにいる多くの者にとって最後の時代であることを知れ。到来しつつあるあまりにも重大な再臨として述べられている時代であることを」( 〃 )
これこそが、全預言の力説するメインイベントだったのです。それにしても、「最後の時代」という言葉はすこぶる重たい響きを持っているとは思いませんか。
さて、今度は「神道系各教団」に伝わる預言エッセンス録です。
「地球は今、一つの進化の時に至っている‥‥役行者が肉身を霊化させたと同じようなことを、現在の我々はなさなければならない」(白光真宏会)
「(火の大峠越えをした後)真光の業で浄められた種人のみが選ばれ、霊を主体とした世界が始まる」(崇教真光)
「その仮初めの死より覚めて(選民は)生き返らん。天の岩戸開きとは、人の世の魂開きなりと、真実告げ置くものなり」(天祖光教)
「マコトの岩戸開きは、これからなり‥‥神の子に還ることが、この度の新生なり」(神道天行居)
「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」(金光教)
以上ご覧になった通り、古今東西のあらゆる預言は、「神の国の到来」という点に関しては、いささかのブレも見せていないのです。
結局のところ、常に右往左往していたのは私どもの方で、いつも終末のドサクサの方のみに気を取られ、ああでもない、こうでもないと大騒ぎをしていました。その一方で、「神の国」の方はというと、従来ただ何とはなしにこう考えられていたのです。
「今のこの(物理的)世界を、神々の国のような素晴らしい社会に変えなくてはならない。そのためには、人々は今の生活態度を改め、もっと神や教祖様を全面的に信じる生き方をする必要がある」
せいぜいがこの程度のアイデアしか浮かばなかったのではないでしょうか。しかし、実際はとてもそんな生やさしい素朴な事態ではなかったのです。それはまさしく「末代に一度より無い」驚天動地の「大立て替え」だったのです。
俗に「蟹は自らの甲羅に似せて穴を掘る」という諺がありますが、私どもは結局自らのささやかな常識の範囲内でしか、上々(かみがみ)の言葉(高次元存在者からの預言)を理解することが出来なかったようです。それほど常識離れした内容だったともいえましょう。でも、起こる事柄がどんなに奇想天外であろうと、それはあくまでも私どもの社会通念にとって「奇想」であるに過ぎません。何も神界の上々までそのチンケな感覚に歩調を合わせる必要は全くないわけです。つまり、
「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからである」(マタイ伝)。そういうことなのです。
「実地のことは、実地の誠の生神でないと出来ん。臣民はお手伝ひぞ。雨風さへどうにもならんであろう」(日)
「人民の肉体生命はチョットの間であるから、霊魂の因縁性が判らんから、大変思いが違うのであるぞよ」(大)
「めいめいの 思う心は いかんでな 神の心は みな違うでな」(天)
あなたはいま
あなたはいま恐るべき分岐点にいる [TOP] [もくじへ]
何はともあれ、いままでの預言内容を結論的に整理すると、次のようになりましょう。
@今度の「立て替え」は、三界(神幽顕)の全てを含む大変革である。
Aこの大変革を推進する主体者は上々(高次元存在者)である。
Bこの大変革により今の物理的世界は壊滅し、肉体人間はいなくなる。
Cその後で「神の国」が到来し、この世界は「あの世化」する。
Dそこへ、選ばれてラプチャーされた人々が戻ってくる。
Eその新世界では、上々(かみがみ)と人間が一緒に暮らすようになる。
Fその人間も、やがては上々と同じ高次元の存在者となる。
以上の通りです。もとより、これらの預言を信じようと信じまいと、それはあなたの勝手です。しかし、信じて何か失うものでもあるというのでしょうか。それに対し、信じなかったことで、最後に後悔する(かも知れない)リスクは計り知れないほど大きいのです。
●再び繰り返しますが、私どもはどうやらとてつもない時に生を受けてしまったようです。でも前向きに考えるなら、これほど痛快なチャンスも、またとないといえましょう。少なくとも、今までの過去世で、こんなスリルを味わえた「生」もなかったはずです。ともあれ今回の生は、ただの「人生」ではありません。そう、うまくゆけば、私どもはこれから「神様」になれるのです。
「あなた方は、かつて地上に生きた人々の中でも最も幸運な人々である。歴史の記録の中で、むしろ独特な人々の集まりの中にいる。何故ならば、一つの時代からもう一つの時代の過渡期に生まれ、地上に生きているからである。あなた方は前時代が終わりを告げ、新時代の霊的爆発、新しい誕生がある時代に生きているのである」(ソロモン)
「人類において偉大なことは、人間が橋梁であって目的ではないことである。人間に於いて愛され得ることは、人間が通過点であることにある」(ニーチェ『ツアラトウストラかく語りき』より)
「人間とは、生成途上の神である」( 〃 )
「新しき世とは神なき世なり。人、神となる世にありけり」(日月神示)
「わたしはいう『あなた方は神である』と」(ヨハネ福音書)
ご覧の通りです。
(中略)
「これらの言葉は信ずべきであり、まことである」(聖・黙示録)
「この世を 始めた神の いふことに 千に一つも 違うことなし」(天)
「神の申したこと、一言半句間違いないのざぞ」(日)
「嘘の事なら、是れだけいつまでも執念(くど)うは申しはせんぞ」(大)
ということです。