(1988年2月)名古屋アベック殺人事件
小島茂夫、高志健一、龍造寺リエ、筒井ヨシエ、etc
A(当時19歳)をリーダーとする非行少年グループは、
1988年(昭和63年)2月22日夜、少女2人を含むA、Bたち6人は、いつも通り、テレビ塔の噴水の近くに集まっていた。誰かが「バッカンをやろう」と言い出した。「バッカン」とは、アベックを襲って金品を強奪することだ。
6人は2台の車に分乗して名古屋埠頭へ行った。そこで、2台の乗用車を鉄パイプや木刀で、次々と襲い、計8万6000円を手に入れた。それに勢いづいて、もう2、3件やろうということになり、
23日午前4時半ごろ、Aが場内に停まっている車を見つけ、「あれをやろう」と言った。Cが即座に承知し、ラリっている他の者も賛成した。車のアベックは理容師・野村昭善さん(19歳)とその友人・末松須弥代さん(すみよ/20歳)であった。
A、Bらは、まず2台の車で退路を塞ぎ、野村さんを車から引きずり出した。野村さんは必死で抵抗したが、鉄パイプや木刀でめった打ちにされた。野村さんが気を失うと、車内で腰を抜かしている須弥代さんを4人の男たちは輪姦した。
性欲を満たしてちょっと冷静になったAは気づいた。
「こいつらをこのまま解放すると、顔を見られているから、サツにタレこまれる。男は殺して、女はどこかに売り飛ばそう。それが駄目なら女も殺すほかにはない」
Aがそう言い出すと、他の者も我に帰って、「そうだな、早く片付けないとヤバイ」と焦り始めた。
野村さんをその場で絞殺し、その死体を車のトランクに入れて、タバコの吸殻などを拾い集め、逃げ出した。
23日朝、大高緑地公園で、窓ガラスが割られ、車体がボコボコになった車が発見された。所有者の須弥代さんが行方不明になっていることも分かり、警察の捜査が始まった。
翌24日、Aらは、須弥代さんを車内に監禁していたが、処置に困って、須弥代さんを絞殺することになった。AとBは、須弥代さんの首に綱を巻き付け、綱引きをした。「このタバコを吸い終わるまで引っ張るんだ」などとふざけながら絞殺した。この2人からは現金約2万円を奪っていた。
27日、目撃情報などからA、Bらが逮捕された。自供通り、
1989年(平成元年)6月、名古屋地裁は、主犯格のAに死刑、Bに無期懲役、他の4人には、懲役5年から17年の判決を下した。
Aは「少年だから死刑になるはずがない」と言って、裁判官の心証を悪くしたようだが、犯行の残虐ぶりが極刑の最大の原因となった。裁判長は「その冷血非情さには、一片の情状酌量の余地もない」と述べた。
AとBは控訴した。
1996年(平成8年)2月、名古屋高裁は、「精神的に未成熟な青少年による場当たり的な犯行で、矯正の可能性が残されている」として、1審判決を破棄、Aに対し無期懲役を言い渡したが、Bの判決は不明。
この事件の犯人についてご存じの方、情報をお寄せください。
情報が得られました。Bの名前は「高志健一(タカシケンイチ)」というそうです。
← これがその憎たらしいツラがまえ
産経新聞1996年12月16日
一審の死刑判決破棄
名古屋高裁アベック殺人犯行時19歳、無期に減刑
昭和六十三年二月、
松本光雄裁判長はA被告について、一審の死刑判決を破棄し無期懲役を言い渡した。
一審判決によると、A被告ら六人は六十三年二月二十三日未明、
さらに六人は犯行発覚を恐れて二人の殺害を共謀。翌二十四日未明、まず同県
控訴審でA被告側は、一審判決が認めた「精神的に未成熟な少年らが集団で犯した事件」であったことを強調。犯罪の結果の重大性の側面が強調され、未熟な少年であったことなどが考慮されておらず、最近のA被告の深い反省態度から矯正の可能性は十分にあるなどとした。高志被告側は、一審判決は殺害の共謀時期が違うなどの事実誤認があり、野村さん殺害については無罪と主張した。
ほかの四人は控訴せず、一審判決が確定している。
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平成8年12月16日、名古屋高裁・松本光雄裁判長は、一審名古屋地裁で死刑判決を受けた
懲役17年を言い渡された同市
続報
死刑を求刑されながら無期懲役に減刑された主犯の男の姓は、小島茂夫
共犯者のうち二人の女は、龍造寺リエ、筒井ヨシエ、というそうです。獄中で美容師の資格を取り、すでに出所しています。