縁故人事、一族に権力集中:宗教と封建の色彩が濃厚
「政教一致」体制の下、ダライ集団は縁故人事を行い、宗教と封建の色彩を濃厚にしている。ダライ・ラマ14世には7人の兄弟姉妹がいる。ダライ・ラマ14世と共に国外逃亡した家族には母ディキ・ツェリン(1981年没)、長兄トゥプテン・ジグメ・ノルブ、次兄ギャロ・トンドゥプ、三兄ロブサン・サムドン、姉のツェリン・ドルマとその夫、妹のジェツン・ペマ、弟のテンジン・チョエギャルとその妻がいる。
専門家は、ダライ集団と「亡命政府」の政治・武装・経済・教育など、重要な機関と派閥組織の権力はすべてダライの兄弟姉妹が握っており、ダライ集団さらには「亡命政府」内での一族専制は歴代ダライ・ラマを凌ぐものだと指摘する。ダラムサラ「カシャック(内閣)」の成立から現在までに、ダライ一族は相次いで5人の「カロン(大臣)」と主席「カロン」を輩出している。ここ十数年間、
「カシャック」が3人構成であろうと6人構成であろうと7人構成であろうと、ダライ一族はその3分の1、2分の1、あるいは7分の3を占めてきた。
――「チベットの完全な独立」を堅持するダライの長兄トゥブテン・ジグメ・ノルブは、タクツェル・リンポチェとも称される。彼は1950年にインドの米国公館と結託してダライの逃亡を策動し、連絡者の役割を担った。1951年には米国籍を取得し、米国と台湾の二重スパイになった。1956年にダライが釈迦生誕2500年記念のためインドを訪問した際、タクツェル・リンポチェは米中央情報局(CIA)の命を受けてインドへ飛び、ダライのインド残留を策動した。彼は「チベットは完全に独立して初めて生き残ることができる」「その他のやり方では死へ向かうだけだ」と公言している。
――軍事・外交・財政を一定に握るのはダライの次兄ギャロ・トンドゥプだ。彼は1951年にタクツェル・リンポチェに招かれて米国籍を取得し、米国政府とCIAの任務に就いた。その前は台湾、米国、インドと連絡を取り、分裂活動に携わっていた。彼は「インド・チベット特殊国境部隊」の初代副総監だ。彼は1959年に「亡命政府」「外交カロン」およびダライ駐米国ニューヨーク事務所の初代代表に就任した。米国から「四水六崗衛教軍」への資金援助はすべてギャロ・トンドゥプに渡された。
――衛生の権力を握るダライの三兄ロブサン・サムテンはチベット分裂集団上層部の主要メンバーの1人で、ダライの駐ニューヨーク事務所の代表を繰り返し務め、米国籍を取得し、後に「厚生省」と「チベット病院」の責任者に就任した。その妻は長年「カシャック」厚生省の事務次官補佐を務め、1988年1月には事務次官に就任した。
――教育の権力を一手に握るのはダライの妹ジェツン・ペマだ。1964年に姉の死を受けて「チベット子ども村」の責任者に就任し、以後25年間その地位にある。西側諸国の組織や個人から「チベット難民」への支援金品はすべて同組織の名義で接収され、ダライ集団垂涎の役得ポストとなっている。彼女は1970年の「チベット青年会議」発足時のメンバーの1人、および初代副会長であり、1985年には「チベット女性協会」の顧問に就任している。1990年から1993年7月までは「カシャック」の文化・厚生「カロン」だったが、評判が悪く辞任に追い込まれた。1986年に再婚するとその夫が急に出世したので、「ジェツン・ペマ・スキャンダル」が騒がれた。
――ダライ集団の三頭立て馬車の1つ、 「ダライ・ラマ庁」をコントロールするダライの弟テンジン・チョエギャル(ガリ・リンポチェ)は1980年に「インド特殊国境部隊」を退役後、「亡命政府」公安省の副次官に就任、1981年にはダライ・ラマ庁の特別補佐、副次官、事務長官を歴任した。その妻はダライの助言の下「チベット女性協会」を立ち上げ、1985年からは9年にわたりその常務委員と会長を務め、1993年には「カシャック」の「カロン」に就任し、文部と内務を担当した。
――公安の要職を独占するのはダライの義兄だ。彼は1968年から1986年まで「カシャック」の公安「カロン」、すなわち公安相を務めた。
国外のチベット人、特に西蔵の貴族とカム・アムド各地の土司・部落長は、ダライ一族が要職を掠め取り、「亡命政府」を独占していることに強い不満を抱いている。特にダライが独裁専制を敷き、政治的主張の異なる者を銃殺・毒殺していることへの憤慨は止むことがない。
「西蔵評論」は1993年4月、「今の新しい顔の民主を見るがよい」との社説で、「1人が権勢を得て、鶏犬天に昇る」その「姻戚関係」行為を非難した。各方面の世論にダライの兄弟争いが加わり、義兄が「カロン」に就けなかったことに続き、ギャロ・トンドゥプとジェツン・ペマも相次いで「カロン」を辞任した。(編集NA)
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