大量の事実は、拉薩(ラサ)「3・14暴力事件」がダライ(ダライ・ラマ14世)集団による「チベット人民大蜂起運動」の重要な一部であり、入念に組織・画策されたものであることを示している。ダライ集団は一体どのような性質の集団なのか?「チベット亡命政府」はどのような組織なのか?その組織構造と人員構成はどのようなものなのか?ダライ一族と「亡命政府」は一体どのような関係にあるのか?
表面上は「三権分立」、実質上は「政教一致」――。中国蔵学(チベット学)研究センター、四川蔵学研究所の権威ある専門家は、祖国分裂を愚かにも企み、「チベット独立」を妄想し、「政教一致」の農奴制社会の復活を企むダライ集団およびその「亡命政府」の本質を一言で喝破する。
「亡命政府」の成立、「チベット独立」の企み
西側とインドの反中勢力の庇護の下、国家を裏切り逃亡したダライは1960年5月、インド北西部ヒマーチャル・プラデーシュ州の小さな町、ダラムサラへ移った。同年9月、ダライ集団は逃亡チベット貴族、旧地方政府官僚、チベット人居住区の土司(首長)・部落長、上層僧侶、反乱の頭目などによる、いわゆる第1回「チベット人民代表会議」を招集し、「チベットカシャック政府」の成立を宣言した。これは後に「大雪域国政府」と改称、いわゆる「チベット亡命政府」だ。会議は「チベット国憲法大綱」草案を公布、ダライを政府「首脳」とすることを宣言した。この会議は、ダライを頭とし、祖国を裏切るチベット分裂主義集団の正式の成立を意味する。
1963年10月、ダライ集団は「チベット国憲法」を正式に公布。1991年に「亡命チベット人憲章」と改称した。両憲法は共に、同集団におけるダライ・ラマの至高無上の地位を明らかにしている。「亡命チベット人憲章」は、「将来のチベット地域(ウーツァン、ドトェ、ドメーの三州)(説明:西蔵(チベット)自治区、青海省、四川省、甘粛省、雲南省などのチベット人居住区を指す)を非暴力の平和な地域とする」と公言している。
「チベット独立」を実現し、西蔵を「政教一致」の「民主国家」にするという最終目標において両「憲法」に変更はない。
ダライ集団は仏教の説教と「チベット独立」の幻想を合体させた「国歌」を創作し、チベット仏教旗と旧チベット軍旗を1つにした「雪山獅子旗」を「国旗」と定めた。
「チベット亡命政府」の施設内に掲げられている「チベット版図」には、現在の西蔵自治区と青海省の全て、新疆ウイグル自治区の5分の1、甘粛省の3分の2、四川省の3分の2、雲南省の半分が含まれ、その面積は240万平方メートルに及ぶ。「これはダライ集団が吹聴するいわゆる『大チベット』だ」と、中国蔵学研究センターの朱暁明研究員は説明する。
「チベット亡命政府」はダライなど少数の分裂主義分子により構成され、国外の反中勢力が入念に画策・支持する不法組織なのだ。この「亡命政府」を正式に承認した国は、今日に至るまで世界に1つもない。(編集NA)
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