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【背景】
朝鮮総督府の初期の政策は「
武断政治」と呼ばれた。総督の命令(制令)が司法・行政・立法の全機能を有し、帝国議会の議決は不要とされた。
言論、集会、結社の自由も、(国際世論への配慮のため)一部のキリスト教徒を除き大きく制限され、朝鮮警察事務をすべて日本軍に委任し、通常の警察でなく軍の憲兵(軍事警察)が一般警察官を兼ねるとした。
スパイや義兵鎮圧の名目で、
法的手続なしに朝鮮_人を逮捕し処罰でき、朝鮮_人の日常生活に関与した。
韓国併合年での「憲兵警察」の人数は、7712名であった。
その内、朝鮮_人は4453名おり、憲兵を補助した。
なお、当時の朝鮮_人口1300万人に対して、憲兵警察の人数7712名というのは、
当時の台湾の警官配備の約半分、今日の東京都の警官配備の3分の1以下であり、決して多い数とはいえない。
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【証言】
B.Kさん(1910年生まれ)
1915年ぐらいだったと思いますが、突然光沢のある茶色の制服を着た
日本の憲兵が朝鮮_人の部下達を従えて姿を現しました。
当時、朝鮮_人は警察官とは呼ばれず、日本憲兵の補佐をしていました。朝鮮の治安安定のため、日本語を話せる朝鮮_人男性を雇っていたのです。朝鮮_人の部下達には黒い制服を与え、茶色の制服を着た憲兵の横を歩かせていました。
横柄な憲兵達が、私たちのところに近づいてきて、祖父を取り囲みました。そしてロープで縛り、連行しようとします。母親は取り乱し、連れて行かないようにと懇願しましたが、
憲兵達は彼女を蹴り飛ばし、祖父を連れ去ってしまいました。
理由は結局わかりませんでしたが、
祖父は数日後には戻ってきました。
日本の植民地支配以後、
多くの朝鮮_人たちは日本人と戦うためにゲリラ戦法を使い、自らを独立軍と名乗って、戦闘費用を捻出するために金持ちに金を要求していました。祖父の家系には手を出さなかったのですが、祖母側の家系は裕福だったので目を付けられたのです。
ゲリラ達は祖父の家系の人たちに、金を用意しておくように脅迫しました。しかし、祖母側の家系の家父長は金を出すことを拒否し、ゲリラが戻ってきても金を渡そうとしませんでした。そして
その場で兵士達に殺されてしまったのです。
T.Cさん(1911年生まれ)
祖父は、日本を慶尚道から駆逐するために戦った義兵でした。
1910年か1911年頃、
祖父の同志の多くは日本人に捕らえられ打ち首となりましたが、祖父は姿をくらませて生き延びました。
S.Iさん(1910年生まれ)
私の父は、東学の伝道者でした。東学は、とりわけ狂信的な愛国主義で、西洋の全てを朝鮮の伝統に反するものとして否定したのです。
父は、日本人が来るのを嫌がっていました。
(いずれも、
黒い傘の下で―日本植民地に生きた韓国人の声より)
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【私の見解】
確かに武断政治と呼ぶにふさわしく、
義兵に関しては処刑、また、義兵への関与の疑いがかかった場合、法的手続きなしに逮捕するなど、厳しい取り締まりを行っている。ただし、疑いが晴れた場合、逮捕者は釈放されたと推測される。
また、憲兵の横柄さや暴力的な行為を窺い知ることができるが、
憲兵のうちの半数以上が朝鮮_人であり、それらの行為に加担していたことを見逃してはならないと考える。
義兵の身分は証言では明らかにされていないが、朱子学や東学などを理念にもつ、旧支配階級(儒林と王朝の高官など)ではないかと思われる。
義兵は時にゲリラと化し、略奪や殺戮行為を行い、一般民衆の秩序を乱していたことは否定できないであろう。
義兵に関与していなかった場合でも、逮捕されたケースは多数存在したと思われるが、
義兵の社会的な悪影響を考慮すると、必ずしも不当な取り締まり行為とはいえないと考える。
To Be continued・・・
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