原告準備書面、論理に不自然なこじつけ
著作権裁判に関する資料を紹介しよう。4月14日付けの準備書面で、原告の喜田村洋一弁護士が執筆したもののうち、「2 本件『催告書』の著作物性」という部分である。(理解できなくてもバカではありません。)
2 本件「催告書」の著作物性
被告は、本件「催告書」の著作物性を争うが、以下のとおり、この主張には理由がない。
著作物は、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」(著作権法2条1項1号)と定義されている。
このうち「思想又は感情「の」表現」との要件については、本件「催告書」
の内容が被告による原告の「回答書」無断掲載が違法であることを論じ、救済を求めたものであるから、これを満たすことが明らかである。
次に、「創作(性)」との要件については、原告は、上記のとおり、本件「催告書」の執筆にあたり、回答書の著作者を検討すると共に、無断掲載に対する救済として何を選択するかについての判断を経た上で、これを作成したものであり、本件「催告書」が、誰が作成してもその表現形式及び表現内容が同じものになるような「ありふれた表現」でないことは明らかである。
また、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」との要件については、「厳格にある著作物をそれぞれのジャンルに区分して当てはまるか否かという判断をするためのものではなくて、知的・文化的精神活動の所産全般を指すものと一般に解されている」
(作花文雄『詳解著作権法(第3版』90項)ところ、本件「催告書」が人間の「知的・文化的精神活動の所産」に属することは疑いを容れながら、この要件も満たしている。
この記述について、わたしの私的な感想を述べてみよう。まず、全体として感じたのは、言葉の相関関係を考えならが、文脈をたどっていくと、論理が破綻している箇所が随所に見受けられるということである。たとえば、喜田村氏は冒頭で、
被告は、本件「催告書」の著作物性を争うが、以下のとおり、この主張には理由がない。
と、言う。法律にかかわる文書に特殊性があることを考慮するとしても、この文脈は明らかにおかしい。被告のわたしに「理由がない」のであれば、著作物性を争ったりはしない。争う理由があるから、裁判に前向きに取り組んでいるのである。
わたしの推測になるが、これは、
被告は、本件「催告書」の著作物性を争うが、以下のとおり、その主張理由は誤っている。
と、言う意味ではないだろうか。
次に喜田村氏は、
このうち「思想又は感情「の」表現」との要件については、本件「催告書」の内容が被告による原告の「回答書」無断掲載が違法であることを論じ、救済を求めたものであるから、これを満たすことが明らかである。
と、述べている。この記述を検討する前に、どうしても論考の対象になっている江崎法務室長の「回答書」を引用しなければならない。それは次の通りである。
前略
読売新聞西部本社法務室長の江崎徹志です。
2007年(平成19年)12月17日付け内容証明郵便の件で、訪店について回答いたします。
当社販売局として、通常の訪店です。
以上、ご連絡申し上げます。よろしくお願いいたします。
江崎氏はこの回答書をHPから削除するように催告書の中で求めている。しかし、喜田村氏の言うように催告書の中で、「『回答書』無断掲載が違法であることを論」じているわけではない。そのような客観描写は、わたしが点検した限りでは、どこにも見当たらない。最初から、「回答書」は、著作物であるという大前提に立って、削除を命じているに過ぎない。
さらに、喜田村氏は催告書は、
救済を求めたもの
と、断定しているが、裏付けはどこにもない。「救済を求めたもの」という判断は、喜田村氏の勝手な想像であって、わたしは救済どころか恫喝文書の可能性があると思う。救済を求める前提となる論理の展開がないので、催告書を送付した目的までもが曖昧になり、その結果、文脈にどのような「感情」が込められているのかは、個人の想像に頼らなければ仕方がない。感情の客観描写があれば、この限りではないかも知れないが。
次の記述もおかしい。
次に、「創作(性)」との要件については、原告は、上記のとおり、本件「催告書」の執筆にあたり、回答書の著作者を検討すると共に、無断掲載に対する救済として何を選択するかについての判断を経た上で、これを作成したものであり、本件「催告書」が、誰が作成してもその表現形式及び表現内容が同じものになるような「ありふれた表現」でないことは明らかである。
第1に、「回答書の著作者を検討すると共に、無断掲載に対する救済として何を選択するかについての判断を経」る事と、「創作(性)」はまったく関係がない。著作者の選択は人選であり、救済方法の選択は方法論の選択である。
これら2つの要素と「創作(性)」を結びつけるのは、いささか無理がある。論理が飛躍していて、具体的に両者の関係がよく分からない。人選と方法論が創作性を決定するのであれば、巷に溢れている文書はすべて著作物ということになってしまう。これでは知的財産を保護する著作権法の役割そのものがなくなってしまう。この辺りの事情を喜田村氏はどう説明するのだろうか?
文章に創作性があるかどうかは、文章以外の外的な要素は排除して、文章そのものに文体やレトリック、構成の工夫が凝らされているかを検証しなければならない、とわたしは思う。創作性の検証は、 人選や方法論で決まるほど、単純なものではない。
文章における創作性とは、通常は、レトリック、文体、構成である。手紙や生活綴方の作品が著作物として認められているのは、これらの形式・方法が文学の手法であるからだ。もっとも催告書や判決文であっても、複数を構成することで、ひとつの作品世界を構築した場合は例外だが。
さらに、次の記述。
本件「催告書」が人間の「知的・文化的精神活動の所産」に属することは疑いを容れながら、この要件も満たしている。
この文章もよく分からない。「疑いを容れながら、この要件も満たしている。」とは、具体的にどのような情況なのか?。常識的に考えれば、疑いがある場合は、排除の方向性を打ちだすものだが。
たとえば汚染された「疑い」がある血液製剤を使う医者はいるだろうか?おそらくいないだろう。安全を優先して排除するのが常識だ。あるいは銃撃殺人の「疑惑」だけで、容疑者を有罪にできるだろうか?殺人者の範疇から外すのが常識だ。
ちなみに、もし、「回答書」が著作物でないとすれば、それを著作物だと決めつけている催告書の内容そのものが全くのデタラメということになりそうだ。と、すればそれを「知的・文化的精神活動の所産」と決めつけるのはどうか?。むしろ読み捨てるしかない駄文ということにならないだろうか?われわれは明らかに内容が歪んだものを、知的財産として受けいれるわけにはいかない。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月28日)
オリコンVS烏賀陽さんの訴訟
地裁判決から見える言論の危機
レコードの売り上げ枚数を統計してヒットチャートを制作しているオリコン(株)と、ジャーナリストの烏賀陽さんの訴訟をご存じだろうか。この訴訟は、月刊『サイゾー』の編集部から、オリコンヒットチャートについてのコメントを求められた烏賀陽さんが、統計方法に疑問を呈するコメントをだし、それを編集部がまとめて06年4月号の記事に引用したところ、オリコンが烏賀陽さんだけを名誉毀損で訴えてきたものである。
オリコンが請求していた金額は5000万円。いわゆる高額訴訟である。
これに対して烏賀陽さんは、この訴訟は、本来記事の文責を負う編集部と出版社を対象から外して、取材源だけをターゲットにしたスラップだとして、反訴した。
東京地裁の綿引穣裁判長は、22日、オリコン側の主張をほぼ認めて烏賀陽さんに対して100万円の支払いを命じた。謝罪広告の請求については棄却した。
取材源、つまり情報を提供した者が名誉毀損に問われ、しかも、司法がそれを認定したのは、わたしが知る限りでは初めてである。まったく恐ろしい判決という意外に言葉がない。これでは新聞記者やジャーナリストは、気軽にコメントを取れなくなってしまう。コメントを出す側も、萎縮してしまう。
出版関係者であれば、常識として合意している事柄のひとつに、雑誌の記事は、外部ライターの著名があるものは別として、原則として共同作業で完成する側面が強いという特徴がある。編集部が記事の方向性を決めた上で、記者が取材して記事の草案をつくる。同時に編集部が関係者からコメントを集めたりする。
その上で編集部が全体の整合性や、規定の分量を考慮しながらひとつの記事に仕上げていくのだ。いわば共同作業である。速報性を命とする新聞編集になると、このような側面がもっと強くなる。
当然、記事についてのトラブルが発生した場合は、編集部や版元に責任がかかってくる。
ところがオリコンVS烏賀陽訴訟では、烏賀陽さんだけがターゲットになり、しかも100万円の支払いを命じられたのである。このような異常が正当なこととして認められてしまうと、雑誌ジャーナリズムや新聞ジャーナリズムそのものが成り立なくなる。
しかし、取材源を攻撃する手口は、水面下では静かに広がり始めている。たとえばわたしは新聞販売の問題を取材してきたが、最近、わたしの取材源となる人々に対して、読売新聞社が情報を提供しないように働きかけをしてきた。裏工作である。よほど言論に自信がないのだろうか?
これがエスカレートすれば、取材源となる人々が訴訟のターゲットにされかねない。そうなると内部告発も難しくなるだろう。
烏賀陽さんに100万円の支払いを命じる判決が下った背景には、日本の社会全体が言論の管理を強める方向へ向かっている事情があるのではないか。だれがそれを煽って、だれがそれを弁護しているのだろうか?
【オリコンヒットチャートの信憑性については、基礎的な知識が不足しているので言及できません。参考までに日刊サイゾーの記事を紹介します。】【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月25日)
ラテンアメリカ変革の流れが顕著に
パラグアイで、左翼の大統領が誕生
20日に行われた南米のパラグアイの大統領選挙で、中道左派のフェルナンド・ルゴ氏が当選した。これで南米のイベロアメリカ圏(スペイン語とポルトガル語の地域)で、親米派の政権は、ペルーとコロンビアだけになった。
パラグアイは右派のコロラド党による政権が61年も続いてきた。この間、1954年から89年までは、ストロエスネル将軍による軍事政権だった。チリのピノチエット将軍による軍事政権と並んで、南米で最もラジカルな政策が浸透していた。
1979年7月にニカラグアでサンデニスタ革命が起き、独裁者ソモサは自家用ジェット機でマイアミに逃げたが、その後、彼が亡命したのがパラグアイである。しかし、パラグアイで何者かに暗殺されて生涯を閉じた。
ラテンアメリカの変革の波はもう止まらない。同じ時代に、日本には改憲論を唱えている時代錯誤な人々がうごめいている。この違いは何だろう?
著作物認定で江崎室長は何を補填するのか?
14日に行われた著作権裁判の第1回口頭弁論についての記事を、『日刊サイゾー』が掲載している。橋本記者の執筆で、見落としがちだが極めて重要な視点の記述がある。もし、催告書が著作物として認定された場合、裁判を起こした読売の江崎法務室長は「何を補填できるのか」という疑問の提起である。
たとえば、江崎氏が著作権侵害を主張することによって、何を補填できるのか。あるいは、どのような利益を得るのか。これが作家などの芸術家やジャーナリストなどの表現者であれば、自らの著作物に対する名誉と尊厳の問題となるであろうし、そもそも著作者にとって著作とは生活の糧を生み出すものであるから、著作権を守ることは自らの生命と財産を防衛することである。
しかし、江崎氏は読売新聞社の法務室長という職にあり、かつ当の催告書は無料で送付されたものである。そう考えると、その催告書の著作物性が認められたとして、はたして江崎氏にどのような利益が得られるのであろうか。
かく考えていくと、この訴えを起こした利益の可能性としては、黒薮氏への言いがかり、あるいは口封じ的な言論妨害ではなかろうかという疑惑がますます強くなってくる。
弁護士まで使って、福岡在住の原告が東京地裁で裁判を提起し、催告書を著作物だと主張する行動自体が、わたしには不可解に感じられる。江崎氏の催告書が著作権法で保護するに値する傑作とはとても思えない。パターン化された文章で、しかも思想や感情の客観表現はどこにも見当たらない。
催告書を書く行為自体が思想・感情の表れという主張もあり得るかも知れないが、これでは具体的に思想・感情の中味を断定することができない。
事実、江崎氏の勧告書を読んで、あるひとは、「文書を削除してほしかったのだろう」と想像するかも知れないが、別のひとは、「黒薮の対応を観察したかったのだろう」と考えるかも知れない。わたし自身は、既に新聞販売黒書で報じたように「嫌がらせ」の意図を想像した。客観的な思想表現・感情表現があれば、このような想像の幅は生じなかったはずだ。
客観的な思想表現・感情表現と、文章によって喚起される想像の中味を区別することは、作文の基本である。もちろん両者が一致することもある。それは多くの場合、表現に創造的な工夫がこらされているときである。
ところが未熟な文章では、創造的な工夫が施されていないので、客観的な思想表現・感情表現までが欠落すると、たちまち文章が喚起する想像の世界が千差万別になる。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月24日)
日本の新聞社は権力構造の一部
日本の新聞社は、客観的に見てどのような存在なのだろうか。カレル・ヴァン・ウォルフレン著『日本・権力構造の謎』(早川文庫)によると、日本の新聞社は、権力構造を守るためのシステムの一部だという。この説にわたしも同感だ。
ジャーナリズムは、本来、権力を監視する役割を担っている。しかし、日本の新聞社に関しては、性質がかなり異なり、権力構造を支えるシステムに組み込まれている。
たしかに朝日新聞や地方紙が憲法問題で反政府よりの社説を掲げることはある。しかし、護憲のためにジャーナリズムの力で徹底的に闘うことはない。ほんのちょっと、政府を批判したり、ひにくる程度に過ぎない。そのために報道のスタンスが中途半端に感じられる。傍観者ではないかと思うこともある。
なぜ、こんなことになっているのだろうか。それは政府の顔色と世論の両方を気にしているからではないか。新聞が読者によって支えられている以上は、世論を無視した論調は取れない。しかし、同時に公権力の顔色もうかがわなければならない。と、なれば決定的な打撃を与えないように配慮しながら政府批判をして、お茶を濁すことになってしまう。
このような報道姿勢は、結果として、住民の不平不満を横道にそらせる働きをするので、政府としても大歓迎ではないか。不平・不満をぶつける対象が無くなったとき、住民の怒りは爆発する。それを防止して権力構造を守るのが、新聞の役割である。(4月23日)
新聞の闇を描く、『週刊漫画ゴラク』
新聞販売問題がテーマになった漫画が登場した。現在、発売中の『週刊漫画ゴラク』 に、「ミナミの帝王」という漫画が連載されている。原作は、天王寺大、劇画は郷力也。ざっと、次のようなタッチである。

いつも表に積み残される新聞の山 あれこそ世界に誇る日本の大新聞社が抱える奥深い闇でんなあ
ざっと見たところ20束ぐらいあったから約2000部ですわ
うちの店が3000部やさかい実に40%モノ新聞が毎日残されては消えていってますねん
萬田さんはこの前 あの新聞のことを「日本の大新聞社が抱える闇や・・」というてました
あの積み残しの新聞はいったい・・・
どんな秘密がありますねん
いずれ知ることやさかい話したろ
「押し紙」を排除するために、これから1年が大攻勢をかけるタイミングだろう。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月22日)
警官の天下りリストに読売と朝日の名前
読者の個人情報の管理に問題はないのか
ブラックボックスにメスが入らぬ理由
警官が天下りしている企業、393社のリストが『フラッシュ』(光文社・4月29日号)で公開されている。ジャーナリストの寺澤有氏による調査報道で、天下り先の企業として、新聞業界では、読売新聞東京本社と朝日新聞販売サービスの名前があがっている。読売に関する記述を引用してみよう。
00年7月、毎日新聞労働組合が警察取材の在り方を考えるパネルディスカッションを開いた。コーディネーターは元毎日新聞記者でキャスターの鳥越俊太郎氏、外部パネリストは元神奈川新聞記者でジャーナリストの江川紹子氏と筆者。席上、鳥越氏は「読売新聞は警察官からネタを取るため、天下り先まで用意している」と発言した。
それを裏付けるように、報道機関で唯一、読売新聞東京本社がリストに登場する。同社のコメント。
「従業員の経歴等に関する質問には従来よりお答えしておりません」
同社には特別に、紙面で天下りを批判していることとの整合性についても質問しているのだが、完全に無視された。
求人票によれば、同社へ天下る警視庁警察官の勤務先は「販売局セールス指導部」と「販売局販売企画調査部地域貢献課」。元読売新聞記者でジャーナリストの大谷昭宏氏が言う。
「勤務先からして、販売員や拡張員の人物調査、監視をおこなっているとみられます。前科のある者が入り、トラブルとならないようにするためです」
引用文の最後にある大谷氏のコメントに、わたしは異議がある。日本の中央紙が新聞拡張団などの「暴力装置」を組み込むことで巨大部数に達したのは、周知の事実である。と、すればむしろ論理が逆で、新聞ビジネスに係わる「ヤクザ者」に関しては、例外的に取り締まりの対象から外してもらうために、天下りを受けいれていると考える方が自然だ。もちろん、世論と建前があるので、目に余るような暴力は取り締まるだろうが。
「押し紙」や広告詐偽など、新聞のブラック・ボックスにまったくメスが入らないのも、天下りと無関係ではないかも知れない。
警官が新聞社の販売部門に入り込んだ場合、もっとも問題になるのは何か?。結論から先に言えば、それは読者の個人情報が公安関係者にもれる危険性である。公安警察が住民の情報を集めていることはいまや誰でも知っている。
通信傍受など簡単にできる時代である。コンビニの監視カメラの画像は、警察と共有されているらしい。さまざまな方法で彼らが、個人情報を収集している事実は、寺澤氏のレポートに引用されている元警部補の次のようなコメントでもうかがい知ることができる。
70〜80年代、私が公安警察官だったとき、各企業の天下りから照合されて、採用予定者の思想信条について回答することはまさしく業務できた。
普段から情報を集めているから、このような「個人情報の提供サービス」が可能になるのだ。と、すれば新聞社内の警察関係者が、読者についての情報収集をしないという保証はどこにもない。
しかも、彼らにとって幸いなことに、販売店の帳簿類を閲覧する権限が、販売店との商契約の中でも保証されているのだ。たとえば、読売の契約書の第6条。
乙は購読者名簿其他必要な帳簿類を作成、店舗に常備し、甲が閲覧を求めたときは提示する資を有する。
つまり新聞社内の警察天下りは、住民の誰がどの新聞を購読しているのかを知る立場にあるのだ。将来、新聞の販売網が統合され、さらに販売店と新聞社がオンラインで繋がった場合(販売会社化を含む)には、住民を購読紙で簡単に色分けできるようになるかも知れない。購読紙に関する個人情報が企業に流れたら、思想差別の温床にならないだろうか?
このような危険性を防止する策を新聞社は講じているのだろうか?また、天下り受けいれを、即刻に中止するつもりはあるのだろうか?。今後、取材してみたい。
【「週刊金曜日」(4月18日号)の金曜アンテナがトップ記事で、著作権・名誉毀損の2つの裁判を取り上げています。】【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月21日)
山本議員の奇妙な政治資金収支報告書
新聞販売業界と最も関係の深い議員のひとりである山本一太参議院議員の政治団体である一伸会の政治資金収支報告書(2006年)を調べたところ、自由民主党群馬県参議院選挙区第3支部を介した迂回献金になっている疑惑が浮上した。
下記の明細に示すように、寄付者はいずれも自由民主党群馬県参議院選挙区第3支部になっており、具体的に誰が山本議員に献金したのか、まったく分からない。
おそらく群馬県の選挙管理委員会が献金元を把握しているのではないかと思うが、大半の議員たちが明細を公表しているのと比較して、山本氏のやり方は道義的な問題があるのではないだろうか。
1月31日 50万円
2月27日 100万円
3月31日 100万円
4月28日 50万円
5月31日 100万円
6月30日 50万円
7月31日 100万円
8月31日 100万円
9月29日 100万円
10月31日 50万円
12月18日 50万円
12月28日 100万円
寄付者は、すべて自由民主党群馬県参議院選挙区第3支部。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】 (4月19日)
新聞業界から中川議員へ献金110万円
丹羽、町村議員へは「小づかい」6万円
日販協(日本新聞販売協会)の政治団体である日販協政治連盟が2006年に支出した政治献金の額と献金先を政治資金収支報告書で調べてみた。献金を受けた議員は中川秀直、丹羽雄哉、町村信孝の3氏。
献金額は中川氏がトップで、110万円である。丹羽議員と町村議員には、それぞれ「小遣い」6万円。
新聞業界は日販協をパイプとして、政界と繋がっている。2006年に新聞特殊指定を維持できたのも、政界との繋がりがあったからにほかならない。
2月27日 20万円 秀政会(中川秀直)
2月27日 10万円 中川秀直君を囲む会
3月24日 6万円 丹羽雄哉氏講演会
4月24日 20万円 中川秀直シンポジウム事務局
5月19日 10万円 政和政策研究会
5月29日 6万円 政和政策研究会
6月19日 6万円 町村信孝君を囲む会
7月27日 20万円 秀政会(中川秀直)
9月27日 20万円 秀政会(中川秀直)
11月27日 20万円 秀政会(中川秀直)
【メンテナンスのため17日と18日の更新は休みます】 【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月16日)
マイ・ニュース・ジャパンに手記を掲載
14日に東京地裁で著作権裁判がスタートした。読売がわたしに仕掛けてきた2つの裁判について、マイニュースジャパンに手記を掲載した。 ここをクリック。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月15日)
部数激減の原因、時代の解釈に誤り
最近、新聞の部数が激減しているらしい。「押し紙」があるので、実際にどの程度まで部数が落ち込んでいるのか、正確な数字は掴みようがないが、20代や30代で新聞を定期購読しているひとがほとんどいない情況のもとで、相当深刻になっているのではないかと思う。高齢者が読者の中心になっていることは、活字が大きくなったことでもうかがい知れる。
新聞ばなれの主要な原因のひとつにインターネットの普及があげられている。わたしもそのとおりだと思うが、あまりにもインターネットの台頭ばかりが強調され、新聞の内容が時代の感覚にあっていないから購読しない人が増えている事実が忘れられているようだ。新聞、特に改憲論を唱えている読売新聞は、時代を完全に読み違えている。
新聞の制作者は世の中の流れを敏感に読みとらなければならないが、わたしが観察する限り、商社などで働いている人々の方が的確に世界の流れを把握しているように感じる。成果主義の限界に気づいているのも、新聞関係者よりも、メーカーで働く人々ではないかと思う。
北京オリンピックの聖火が世界各地で、拒否されている事実は何を意味しているのだろうか。わたしは、住民の力が世界を動かすようになっている証拠ではないかと思う。しかも、暴力や独裁を拒否する方向へ動いている。それが21世紀の著しい特徴である。
20世紀は戦争の世紀だった。そこでは武力が国際紛争を解決する方法になっていた。ところがベトナム戦争のころから、侵略が失敗に終わることが増えてきた。米国の裏庭であるラテンアメリカでは、1980年代まで武力による紛争が続き、民族自決を目指す勢力が参政権を得た後、今世紀に入るころから、選挙による左翼政権が立て続けに誕生している。
同時に米国は、ラテンアメリカに対してまったく軍事介入ができなくなってしまった。ラテンアメリカ全体が暴力や不公平を認めない社会へと成熟してきたのである。今や裏庭ではない。
冷戦が終結したころ、東ヨーロッパの国々は、米国と親密な関係になるのではないかと言われていた。ところが実際は、米国よりも中国との関係を重視するようになっている。ロシアもむしろ米国より中国重視ではないか。改めて言うまでもなく、ヨーロッパはEUを核として、米国とは一線を画している。
こんなふうに今や軍事優先の米国型の政策は、急激に支持基盤を失っているのだ。時代に合わなくなっているのだ。当然、憲法9条は、これからの時代にその先見性が注目されるようになるだろう。
ところが読売は何も分かっていないのか、改憲論を唱えている。9条を不要と考えているらしい。時代錯誤な持論を貫くのは勝手だが、それが引きがねとなって部数を落としていることにも気づくべきだろう。世の中には、新聞人よりもよほど時代を読みる能力のある人々がたくさんいる。彼らにとっては、読売は読むに耐えない新聞ではないか。論調が主観的で未熟なものに感じるのではないだろうか。
護憲派は、だれも読売を読まないだろう。ジャーナリズムの評価は、究極のところ、主張が正しいかどうかである。客観報道の重視は、日本の新聞人だけの持論だ。もっともらしい嘘だ。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月14日)
14日に第1回口頭弁論、著作権裁判
読売新聞社がわたしに仕掛けてきた著作権裁判が来週から始まります。第1回目の口頭弁論は次のスケジュールになっています。
日時:4月14日(月) 10時30分。
場所:東京地裁526号法廷
読売の訴えが認められ、著作権法が拡大解釈され始めると、情報公開の手続きを経て、役所などの内部資料を入手しても、それを許可なしには公開できなくなります。内部告発を取り上げることも難しくなります。ジャーナリズム活動そのものに大きな規制が課せられると言っても過言ではありません。
言論の自由が危機的な状況に直面しています。傍聴、取材、報道をよろしくお願いします。
改憲論者の愚、反共・反住民・極右賞賛
『やっぱり読売新聞が面白い!』から、渡邉恒雄氏の発言を拾ってみよう。改憲論者の軽薄な見識がよく現れている。「押し紙」についての言及はない。虚偽部数が読売最大の問題であるはずだが。
ちなみに14日に始まる一連の裁判は、改憲論者とその取り巻き連中の言動を詳細に記録する格好の機会といえよう。
■名護市で行われたような住民投票もわれわれは反対なんです。ああいうかたちで国家の安全保障問題を一市の住民投票で決めるということは、むしろ憲法の精神に反するとして反対したんです。(187P)
■例えば像の檻といわれた通信基地に、おれは地主であるといって入っていって妨害した人がいましたね。あの人はあの地域の議員に立候補してわずかな得票で惨敗しているんです。日本の多くのメディアは、あの人がまるで反基地運動の英雄であるかのごとく、指導者であるかのごとくプレイアップしたんですけど、そういう存在の人なんです。だからそういうことをきちっと見分けて報道する役目が新聞にあるのではないか。(187P)
■正力さんのような人がいたから、読売は戦後一時期、鈴木東民という共産党員に乗っ取られたけれど、鈴木東民共産党を排除した後の読売というものは非常に自由な思考、考え方をする集団になっていったんですね。(190P)
《黒薮注:正力さんとは、正力松太郎氏のこと。元特高警察、戦後はA級戦犯として服役した。》【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月11日)
改廃から1月、久留米文化センター前店
読売批判と店主に同情的な意見が集中
読売新聞社がYC久留米文化センター前店を強制改廃してからひと月が過ぎた。この間、わたしはかなり多くの人々に、この事件についての感想を尋ねてきた。その大半は新聞販売の関係者や出版関係者、それに広告主である。
結論から先に言えば、読売の方針を支持するというひとは1人もいなかった。改廃通告から新聞の供給を止めるまでが、わずか半日という事実については、
次のような感想を聞いた。
「異常としか言いようがない。一般企業でも、解雇するときはひと月前に通知するはず」
「ヤクザの手口に似ている。普通はこのような改廃はしない」
「店主はさぞ無念でしょう」
「江崎氏らは、自分が解雇された体験がないのだろう」
「人権問題では」
「みせしめの改廃ではないかと思います」
と、いった声があった。
これまでわたしが取材したことがある「異常」な改廃の典型例としては、京都新聞社が2001年に藤之森販売所を改廃した事件がある。これは店主が病死して、初七日があけるとすぐに、改廃を通告した例である。YC久留米文化センター前店の改廃は、京都新聞のケースと同じぐらいたちが悪い。
・・・・販売店が虚偽報告をしていたという読売の言い分をどう思うか?
この質問に対しては、
「『押し紙』は社会問題になっていて、周知の事実」
「担当員は、販売店の帳簿を閲覧する権限があります。虚偽報告をしていたというのであれば、それを見抜けなかった担当員が怠けていたということでしょう」
「自分たちが『押し紙』をしておいて、虚偽報告とはよく言ったものだ。このような態度を改めない限り、読売は信用を失墜させるだろう」
繰り返しになるが、この事件に関しては、YC久留米文化センター前店の所長に同情的な意見ばかりで、読売を擁護したひとは1人もいなかった。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月9日)
地方紙は「押し紙」が少ないは事実か?
最近、「中央紙は『押し紙』が多いが、地方紙は少ない」という声をよく聞く。わたしは地方紙の「押し紙」を全国規模で調べたことはないが、少なくとも次のことは言える。地方紙は、販売網が販売会社化されているところが多く、それゆえに「押し紙」の実態が表にでないだけで、実際には「押し紙」率が高い可能性もある。実際、あるブロック紙について、古紙回収業者がこんな話をしていた。
「昔は2トン車で『押し紙』を回収していましたが、最近は4トン車を使います」
山陽新聞の「押し紙」については、たびたび新聞販売黒書でも紹介してきたが、複雑なからくりがある。山陽の場合、「押し紙」率そのものはそれほど高くない。わたしの推定でも15%程度で、たとえば福岡県のYCで明らかになったように、4割もの「押し紙」を抱えた販売店が複数あるといった異常事態ではない。
ところが山陽の場合は、チラシの搬入枚数が、ABC部数を大幅に上回っているのだ。ひとつの例を紹介しよう。2005年6月の山陽新聞・岡輝販売所の実配部数(朝刊)は、1702部である。ところがチラシ枚数は次のようになっている。
【15日】
スーパーハリウッド 2400枚
フォルクス岡山 2150枚
岡島屋 2400枚他
【17日】
旭化成ホームズ 2400枚
マクドナルド 2150枚
岡山日産自動車 2200枚
ジャスコ 2400枚
※山陽新聞社 1950枚
ラスベガス 2400枚他
岡輝販売所の元店主によると、新聞の搬入部数がはるかにチラシの枚数よりも少なく、その結果、チラシだけが多量に余っていたという。それは上記の数字でも明らかだ。
つまり「押し紙」率が低くても、チラシの操作で不当な利益を得る仕組みがあるのだ。それゆえに「押し紙」率だけで、経営の健全度を測るのは誤っている。
まして販売会社になってしまえば、「押し紙」はますます隠されてしまいかねない。新聞社が、販売会社の店舗に「押し紙」をしたところで、同じグループ内で資金が動くだけだから、損害を受ける者はだれもいない。
一方、チラシの水増し収入はすべてグループのものになる。だからよほど正義感のある社員がいなければ、内部告発などあり得ない。
販売会社の不正を見破るためには、「押し紙」だけではなく、チラシの搬入枚数と、ABC部数にも注意すべきだ。「押し紙」はあまり搬入せずに、チラシだけ水増しする手口も、あり得るのだ。これが日本を代表するメディアの実態だ。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月8日)
『週刊東洋経済』が日経新聞の特集
読売の実売部数、広告主は再検証を
『週刊東洋経済』(4月12日)が「日経新聞を読む人 読まない人」という特集を組んでいる。タイトルが示すように、日経を中心とした特集であるが、他紙との比較の中で、別の新聞の話もでてくる。「押し紙」という言葉こそ使っていないが、過剰な新聞部数についての言及もある。
それを読むと、日本の中央紙が「押し紙」政策を行っている事実をかなり多くの人々が知るようになっていることが分かる。裁判所も気づきはじめたし、もう、ごまかしようがない。興味深い箇所を引用してみよう。
印刷、販売店網を抱える巨大装置産業は、規模の維持を自己目標とする。仕組みを維持しようとすればするほど、販売店は無理に本社から多くの部数を仕入れることになる。そのため、実際に読者の手に渡る部数との間にキャップが広がっていく。読売1000万部、朝日800万部、毎日390万部とはいうものの、実際の読者数はこれより相当程度少ない、というのが業界の常識だ。
読売については、「風前の灯火『1000万部』」というタイトルの記事を掲載している。それによると、読売の場合、販売店で扱う部数は減っているが、駅のキオスクなどで売られる新聞の「即売部数」は増えているという。その理由を読売の広報部は次のように述べている。
「購読率が低下傾向にある中、非購読者への普及を促進するため、全社的な営業努力を実施してきた結果、部数増につがなった」
これに対して「あまりの急伸ぶりを疑問視する声もある」という。次のような業界関係者の分析である。
「新聞社が即売会社に販売した部数がABCの即売部数だ。つまり自社系列の即売会社に押し込めば、実売部数をはるかに上回るABCの数字をつくることも可能」
即売会社に対する「押し紙」の指摘である。もし、これが事実とすれば、販売会社に対しても同じことをやっている可能性がある。ANYのかけ声のもとで始まった販売網の整理・統合の目的は「押し紙」隠しではないかと、わたしが考えているゆえんである。事実、わたしは住民から、販売会社の「押し紙」とされる写真を入手し、現在、それを分析している。
販売会社や即売会社に対する「押し紙」が事実だとすれば、読売はグループで広告主を欺いていることになる。読売新聞に公共広告が掲載されているとすれば、資金の一部を国に返すよう本気で住民訴訟を考える必要があるだろう。マイニュースジャパン。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月8日)
4月14日から東京地裁で著作権裁判
催告書は著作権法でいう著作物なのか?
1週間後の4月14日(月)に読売新聞社の江崎徹志法務室長がわたしを著作権法違反で訴えた裁判が始まる。法廷は、東京地裁の526号法廷。時間は10時半から。裁判を前に、事件の概略を再度説明しておきたい。
現在、わたしは2つの裁判を提起されている。ひとつは著作権違反の裁判である。もうひとつは名誉毀損の裁判である。この裁判は、武富士などの先例があるいわゆる高額訴訟である。江崎法務室長らが請求している額は、2230万円である。
■著作権裁判の概略
YC広川の真村久三店主は、長いあいだ読売から差別的な待遇を受けてきた。たとえば「飼い殺し」の扱い。担当員の訪店も行われない状態だった。
しかし、2007年の暮れごろから真村裁判での読売の敗色が見えてくると、読売は方針を変更せざるを得なくなり、真村さんに対して訪店再開を申し入れた。
このニュースをわたしは新聞販売黒書に掲載した。大きなニュースだったので、裏付けを明確にするために、江崎氏が真村氏の代理人である江上武幸弁護士に送った次の文書を引用した。江上弁護士からの問い合わせに対して、江崎氏が訪店の真意を説明したものである。
前略
読売新聞西部本社法務室長の江崎徹志です。
2007年(平成19年)12月17日付け内容証明郵便の件で、訪店について回答いたします。
当社販売局として、通常の訪店です。
以上、ご連絡申し上げます。よろしくお願いいたします。
ところが江崎氏がこの文書を新聞販売黒書から削除するようにわたしに求めて、催告書を送ってきたのである。その理由とて、上記の文章(回答書)は江崎氏の著作物であるから、わたしには公表権がないというものだった。
しかし、著作権法で言う著作物とは、単なる文章というだけでは十分ではない。文章=著作物ではない。著作物と言うからには、一定の条件を満たさなければならない。その条件は、著作権法の2条1項に明記されている。
「思想又は感情を創造的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」
江崎氏の回答書を様々な角度から分析してみたが、これは単なる意思の伝達を目的とした業務上の通知であって、「思想」や「感情」の表現ではない。まして文芸(文章の芸術)であるはずがない。へりくつをこねあげて、たとえ著作物と判断したとしても、報道目的がある場合は著作権法の41条で公表が容認されている。
「写真、映画、放送その他の方法によって時事の事件を報道する場合には、当該事件を構成し、又は当該事件の過程において見られ、若しくは聞かれる著作物は、報道目的上正当な範囲内において、複製し、当該事件の報道に伴って利用することができる」
わたしは削除を断り、今度は催告書を新聞販売黒書で紹介した。
すると江崎氏は、催告書を削除するように東京地裁に仮裁判を求めてきたのである。その理由とて、再び著作物を持ちだしてきたのである。催告書が自分の著作物であるから、わたしには公表権がないというものだった。
(不思議なことに訴状では、回答書については削除を求めていない。回答書についても自分の著作物であるから削除するように主張していながら、なぜ削除を求めていないのかも知りたいものだ。)
14日から始まる著作権裁判では、催告書を新聞販売黒書から削除すべきかどうかが争われる。
この裁判で江崎氏の訴えが認められると、新聞記者やジャーナリストが情報公開法などを利用して第3者の書類を入手しても、それを自由に公表できないことになってしまう。内部告発の文書も公開不可能になる可能性がある。さらに脅迫状を受けとっても、それが著作物ということになれば、自由に公表できないことになる。
■名誉毀損裁判
この裁判については、マイニュースジャパンの伊勢記者のルポに詳しい。あえてわたしの考えを述べれば、著作権裁判と同様に裁判を悪用した言論弾圧という見方をしている。
なぜ、メディア企業がペンの力で反論せずに、裁判で反撃してきたのかは、推測の域をでないが、わたしは2つ理由があると思う。
1、ペンによる論争の中で販売関連の資料が公になると、「押し紙」や広告詐欺の事実を否定できなくなる。読売にとっては、話題にすること自体を避ける必要があるのではないか。
2、ペンによる論争に、勝てるという確信がもてない。裁判の方が勝率が高いと考えたのではないか?【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月7日)
毎日新聞の特殊指定違反は明白
公取に「押し紙」を取り締まる意思はないとの見方が定着している。2月20日、毎日新聞・箕面販売所の杉生守弘所長が、「押し紙」の存在を立証する販売局長の文書を手に公取委を訪れたが、やはり職員たちの反応は鈍かった。 この続きは、マイニュースジャパン。(4月6日)
著作権法の歪曲、回答書は文芸作品?
読売の江崎法務室長がわたしを著作権法違反で訴えてから、著作物とはなにかを考える機会が増えた。江崎氏は、最初、次に引用する同氏の回答文が著作物に該当するので、新聞販売黒書から削除するように求めてきたのである。(この文書は、訴訟の対象にはなっていない。)
前略
読売新聞西部本社法務室長の江崎徹志です。
2007年(平成19年)12月17日付け内容証明郵便の件で、訪店について回答いたします。
当社販売局として、通常の訪店です。
以上、ご連絡申し上げます。よろしくお願いいたします。
著作権法の第2条1は、著作物を次のように定義している。
「思想又は感情を創造的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」
わたしは江崎氏の回答書のどの部分が「思想」や「感情」を「創造的に表現」しているのか、まったく分からない。まして文芸(文章の芸術)であるはずがない。
たしかに斬新すぎて、その文体に秘められた美学がなかなか受け入れられにくい文章は存在するが、江崎氏の回答書の場合、起稿の意図そのものが文章の芸を展開することにあるわけではない。単なる方針の確認にすぎない。と、すれば著作物にはまったく該当しないのではないか?
一部の新聞関係者は、文章=著作物と勘違いしている。重大な誤解である。調査報道を絞め殺しかねない誤解だ。
この問題は今後、東京地裁で検証されると思うが、わたしにしてみれば極めて次元の低いトラブルに巻きこまれ、裁判の準備で仕事を次々とキャンセルせざるを得なかった損害は大きい。
まず、携帯電話基地局の取材がストップした。1月から予定していた単行本の制作も中止になった。1年前から計画していたニカラグアの取材も、裁判が終わるまで中止せざるを得ない。フリーになって11年目だが、これだけ莫大な被害を受けたことはない。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月4日)
YC久留米文化センター前の仮裁判
弁護団が「押し紙」参考資料を提出
YC久留米文化センター前店の地位保全の仮裁判(本裁判と平行して進行中)で、原告・平山春雄さんを支える弁護団は2日、裁判所に「押し紙」についての参考資料を提出したようだ。この参考資料は新聞労連のホームページに掲載されている元読売新聞販売局専任局次長の笹崎穏司氏の講演である。2004年10月7日に開かれた新聞労連の中央委員会で語ったもの。
驚くべきことに、笹崎氏は新聞社の「押し紙」政策を克明に暴露している。たとえば「押し紙」の処理については・・・・・
販売店に山のように残紙があれば、その処分に困ります。さすがに後ろめたいことをやっているという自覚だけはありますから、夜中とか、まだ誰も起きていない早朝とか、夜陰にまぎれて古紙回収業者が運び出すことになります。
「押し紙」をチラシの水増しで相殺するカラクリを、新聞社が知っている事実も次のように暴露している。
大多数の発行本社は、そんなことは百も承知で頬かぶりしている確信犯といえます。そう思わざるを得ません。
販売店はこの折込み収入がなければ本社に新聞の原価を払えないのですから、「発行本社は販売店を迂回して折込み詐欺を働いている」と言われても弁解の余地はありません。折込みだけではなく本紙広告のスポンサーをも欺いていることはいうまでもないことです。
元読売の販売局幹部の言葉であるから信憑性がある。講演録の全文はここをクリック。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月3日)
合言葉は、「増紙こそ正義である」
YC3店による地位保全訴訟で提出された原告の陳述書。第3回目は、YC大牟田中央の中島相互所長である。
中島さんも、読売の販売政策の下では、実質的に減紙が認められない実態を証言している。2001年ごろの合言葉は、「増紙こそ正義である」だったという・・・・・。
平成15年ころ私は、このままでは、経営自体ができなくなると考えました。そこで、平成15年8月から減紙をしてもらえることを期待して、業務報告書の予備紙記入欄には何も書き込まず、空欄にしていたのです。本社は、残紙数を把握していますので、販売局部長と担当員は、訪店の際、「残紙が多いね」などと述べていました。
しかし、過剰な予備紙を切ることはしてくれず、逆にセールスを入れ、実配数を増やして予備紙を減らすように要求してきました。
名誉毀損裁判について報道
マイ・ニュース・ジャパンで
マイニュースジャパンが、読売が黒薮を起訴した裁判について、伊勢一郎記者のルポを掲載した。タイトルは、「読売が「押し紙」報道のジャーナリストを突然提訴 主宰サイトの表記に、名誉毀損で2200万円請求」。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月2日)
1000万部死守の掛け声の下で
YC3店による地位保全訴訟で提出された原告の陳述書。第2回目は、YC大牟田明治店の野中彰夫所長である。
大牟田市は、三池鉱山で栄えた町だった。しかし、1997年3月に鉱山が閉山になると、人口が減っていった。それにともない新聞も減ったが・・・・・。
平成9年3月、大牟田三池炭鉱が閉山され、それに伴い、大牟田市の人口は激減しました。その結果、購読契約期間をまだ残した状態で、購読中止となる読者が増大しました。しかしながら、業務報告書に購読者減を正直に記入することはできませんでした。なぜなら、正直に購読者の減少を報告しても、減紙は認めてもらえないという話を他の店舗所長から聞いていたからです。
毎年、年間目標を掲げられ、数字上は、増紙にしなければならなかったのですが、実配数は減少し続けていました。年を追うごとに、業務報告書に記載する定数と実配数は、ますますその差が大きくなっていきました。
鉱山の閉山という個人の力ではどうすることもできない状況の下で、YCの経営を続けてきたが、昨年の10月、「押し紙」の負担に耐え切れなくなり、弁護団に相談した。そのときの「押し紙」は約900部(約4割)だった。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】(4月1日)
「うるさい、もう帰れ、もう来るな」
福岡のYC3店が読売新聞・西部本社を相手どって地位保全の裁判を起こしたことはすでに報じた。本日から3回に渡って原告の3店主の陳述書を紹介する。第1回目は、YC久留米文化センター前の平山春雄所長。
平山さんは3月1日に突然に店を強制改廃された。昨年の11月に弁護団を通じて、約1000部(50%)の「押し紙」を排除している。
平山さんの陳述書には、新聞業界に入った経緯から、店を改廃されるまでが綴られている。店主がどのような思いで仕事をして、読売新聞社をどのような視線で見ているのかが描かれている。たとえば、「01年頃から03年頃の経営状態」では・・・
ある時は、Y部長から、「なんだこの数字は」「ちゃんと仕事してんのか」「店も汚い」「机の配置を変えろ」「折り込み機会も場所を変えろ」と大声で言われました。また、私の増紙目標であった30部という数字を見て、「そんなんじゃだめだ。数字を変えろ。50だよ。」と怒鳴られました。
また、その間に、ばーんと音がするほど机を殴るのです。当時、まだ保育園児だった長男が、驚いて、泣きながら事務所にきました。私が責められていると思ったのでしょう、「うるさい、もう帰れ、もう来るな」と泣き叫んだほどです。【新聞販売黒書は、常に反論を歓迎します】 (3月31日)
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