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検証・チベット暴動:「自由を」の叫び封殺 響く銃声/商店は略奪/処刑の目撃情報

 中国チベット自治区の区都ラサで発生した大規模暴動は近隣のチベット族居住区にも拡大、中国政府は「すでに平穏を取り戻した」(公安省報道官)との立場だが、死傷者数などで中国当局と亡命チベット人組織の主張が異なり、詳細は不明のままだ。国際的な対中非難が強まる中、北京五輪を前に中国政府も国際世論に神経を使わざるを得ない。チベットで何が起きたのか。ラサ暴動を検証した。

 ◇その時、ラサで何が--

 ラサで何が起きたのか。14日の暴動発生時、記者が現地にいた英エコノミスト誌の報道や、非政府組織(NGO)「チベット人権民主化センター」の資料などから、発生前後の様子を再現した。

 ●契機

 最初の動きは「チベット動乱」から49年の3月10日だった。同センターによると、ラサ中心部で独立を求めるデモを始めた僧侶ら約10人を治安当局が激しく殴打し、逮捕。12日までに僧侶や尼僧のデモが数度あったが、治安当局に阻止された。

 このころ、東京のある旅行会社は現地の旅行社から、ラサ郊外にある名刹(めいさつ)のセラ寺やデプン寺が「見学できなくなった」と連絡を受けた。「修復のため」との説明だった。

 ●発生

 エコノミスト(3月22~28日号)によると同誌記者は13日夜、自治区当局者に「週初めに僧侶がデモをしたが、もう平穏だ」と説明された。だが、同センター資料によると14日午前10時ごろ、ラモチェ寺からデモに出た僧侶約100人と、治安当局者の小競り合いが発生。住民が加勢し、暴動へと発展した。

 中国国営新華社通信は、「複数の僧侶が午前11時ごろ、ラモチェで警察官を石で攻撃し、一部の暴徒がパルコル(八角街)に集まり破壊・略奪・放火を行った」と伝えた。

 エコノミストによると、チベット族の多い旧市街を走る北京路で、数十人が漢族経営の商店、漢族運転手が大半のタクシーに投石。次第に暴動は北京路南側の商店密集地域に広がり、群衆は店内から商品を引きずり出しては、火を放った。

 「チベットに自由を」「ダライ・ラマよ永遠なれ」。喚声があちこちで上がった。一方、伝統的な白いスカーフ「カタ」がくくりつけられたチベット族の店は、襲撃を免れた。

 治安当局は日中、ほとんど動かなかった。夜、武装警察に援護された消防車が市中心部に入り消火活動を開始。また、武装警察は夜明けまでにチベット族の集中する地域を封鎖した。

 ●鎮圧

 翌15日。投石するチベット族に武装警察は催涙弾を撃ち込み、一気に裏通りにも踏み込んだ。警告らしき散発的な銃撃も行われ、ラサは夕方には静けさを取り戻した。

 こうしたエコノミストの報道に対し、米政府系の「ラジオ自由アジア」は一斉射撃や処刑の目撃証言を伝えている。「14日、ジョカン寺前で治安当局が発砲し約100人の死者が出た」「刑務所に26人のチベット人が連行され、その場で射殺された」--。

 さらに、暴動鎮圧後、治安当局は一斉に戸別捜索を実施。ダライ・ラマの写真の所持などを理由に多数のチベット族を連行し、目立たぬようラサ郊外の工場に拘束しているとの情報もある。

 ◇現地で遭遇、日本人旅行者「始まりは突然だった」--報道管制に驚き

 暴動時、ラサには約50人の日本人が滞在していた。女性旅行客(22)が毎日新聞に当時の様子を語った。

 ●封鎖

 「ジョカン寺で何かあったらしい。パルコルで女の人が泣き叫んでいた」。ラサ入りして3日目の10日、初めてそんな話を聞いた。

 翌日、バスでセラ寺に向かったが、道が封鎖されていた。ガイドは僧侶によるデモの影響らしき話をしたが、街で異変は感じなかった。12日は近郊の湖を観光。帰路、バスが3度も公安に止められチェックを受けた。「何だろう」。不安が頭をかすめた。

 ●暴徒

 始まりは突然だった。14日午後2時ごろ、ラモチェ寺に近い北京路で、チベット族の男たち約20人が走って来た。大声を上げ、手には石。日本の男子学生が取り囲まれた。男たちは「エビデンス(証拠)」「チャイニーズ」と英語を口走っている。興奮した男が次々と集まってきた。

 学生はカメラを取り上げられていた。漢族と疑われているに違いない。「ジャパニーズ!」。そう叫んで輪の中に入った。突然、見知らぬチベット族の女性が、自分たちを強引に集団から引っ張り出してくれた。

 「ホテルに帰りたい」「今はだめ。大通りは危険よ」。その女性と、北京路南側の旧市街に密集する民家や商店を点々と避難しながら、落ち着くのを待った。黒煙が上がり、ボンボンと盛んに燃える音がした。「ドーン」。午後4時ごろ轟音(ごうおん)が響き、窓ガラスが震えた。大砲なのか。出会ったチベット族は、人が撃たれて血が流れる仕草を繰り返した。

 1キロと離れていないホテルへ戻ることができたのは午後6時半ごろ。目にしたのは、商店のシャッターを壊す人や商品を燃やす人の姿だった。夜、日本語のニュースサイトで、数日間の出来事を知った。ホテルの電話は通じず、携帯電話を日本人宿泊客に借りて実家に無事を知らせた。

 ●軍人

 翌15日、列車でラサを離れた。街には装甲車や軍用トラック、銃を提げた軍人があふれていた。チベット族は心の優しい人ばかりだった。暴動に巻き込まれたが「恐怖」は感じなかった。それよりショックだったのが、中国の報道管制だった。

 上海のホテルで見たNHKニュースは、アナウンサーが「チベット」と言うたびに画面が真っ黒に切り替わった。何が起きたのか、きちんと真実が伝わってほしいと願っている。

 ◇死者数に隔たり 亡命政府140人、新華社20人--各省の情報錯綜

 ラサ暴動は周辺各省のチベット族自治州に波及した。中国政府側と亡命チベット人側が発表した死傷者数は、ラサについても大きな隔たりがあるが、周辺各省の被害状況はさらに情報が錯綜(さくそう)している。

 ラサの暴動では、新華社通信が市民18人と警官1人が死亡したと報じた。その後、シャンパ・プンツォク自治区主席が外交団に暴徒3人の死亡を認めている。一方、チベット亡命政府はラサでの武力鎮圧でチベット人80人が死亡したと発表している。

 周辺各省では、チベット人権民主化センターが、四川省アバ・チベット族チャン族自治州で16日、僧侶ら数千人のデモ隊に治安当局が発砲し、少なくとも15人が死亡したとして、銃創のある遺体写真をホームページに掲載した。これに対し、新華社は「4人を射殺」と報じた20分後に「自衛で銃撃し4人が負傷した」と訂正した。

 同省甘孜チベット族自治州でもデモ隊側で18日に3人、24日に1人の死者が出たと同センターが発表したが、新華社は24日に同自治州で警官1人が死亡したと報じただけだ。

 一連の暴動で、亡命政府はラサの80人を含めて約140人が死亡したと発表。同センターはラサや周辺各省の自治州を合わせて「79人が死亡、100人以上が行方不明」と発表した。しかし、新華社はラサと四川省で計20人の死者が出たと報じただけで、デモ隊側の死者については一切報じていない。

 ◇中国、封じ込め徹底--ダライ・ラマの影響力遮断

 中国政府はチベット自治区ラサの治安維持を最優先している。現在も一連の暴動の発火点となったラサの寺院や僧侶らを厳しい監視下に置き、暴動再発を徹底的に封じ込めていく構えだ。

 中国は「ダライ集団がラサ暴動を扇動した」(温家宝首相)と主張。チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世(インドに亡命中)の国内への影響力を遮断することが治安のカギと判断している。

 孟建柱公安相は3月23日にラサ入りし、「寺院での愛国主義教育を深化させる」と述べ、僧侶らにダライ・ラマ批判を求めた。「愛国主義教育」は暴動が飛び火した周辺各省の寺院でも展開している。

 また、ラサの公安当局は3月14日の暴動で容疑者37人を正式逮捕し、寺院などから大量の武器を押収した。暴動で死亡した市民18人の遺族には自治区政府がそれぞれ20万元(約280万円)の見舞金を支払うことを決め、被害者と加害者の構図を浮き立たせている。

 一方、寺院での愛国主義教育や容疑者の大量逮捕には海外の人権団体やチベット族からの反発もあるが、「暴徒による犯罪行為」としての処理を迅速に進めることで事態の早期収拾を図る方針とみられる。

 ◇米は批判避ける

 米政府は、ブッシュ大統領が中国の胡錦濤国家主席に直接、チベット情勢への「懸念」を伝え、一定の圧力をかけたが、今後を見極めるムードが強い。

 「ダライ・ラマ14世側との対話こそが最大の利益だ」。ブッシュ大統領は3月26日、胡主席と電話協議したが、伝えた内容は米政府の従来姿勢である対話の再開だった。

 ブッシュ政権は人権重視が特徴だが、突出した中国批判を避けている。国際社会での「ステークホルダー」(利害関係者)の役割を期待する米国が追い込めば、逆に中国の孤立化を招くという懸念があるからだ。

 北京五輪のボイコット論についても「(モスクワ五輪をボイコットした)80年と同じ決断をするとは思わない」(ペリーノ大統領報道官)と否定。

 ただ、人権問題に厳しい民主党主導の議会の空気は異なる。ペロシ下院議長(民主党)は1日のABCテレビで「(ブッシュ大統領は)北京五輪開会式のボイコットを選択肢とすべきだ」と述べ、開会式に出席する意向を示している大統領に再考を促した。ペロシ議長は先月28日の声明で五輪の競技はボイコットすべきではないとの考えを示している。

 中国の人権問題への対処を怠れば、米国が「圧政国家」と位置付けている一方、中国が深い関係を持つ北朝鮮やイラン、ミャンマーなどに「米国は中国に弱腰」との誤ったメッセージを送るとの見方もある。保守系シンクタンク・ヘリテージ財団のジョン・タシク上級研究員は「大統領は開会式出席を政治的テコとして利用し、再考もあり得ることを示唆すべきだ」と指摘する。

 ◇ネット活用、チベット情報を発信--インド北部ダラムサラ

 チベット亡命政府があるインド北部のダラムサラは、ヒマラヤ山脈のふもと、標高約1700メートルの急斜面に住宅が並び、チベット仏教寺院が点在する静かな町だ。ところが、インドの他の山岳地帯では見られない携帯電話の送受信アンテナが谷や尾根ごとに複数配置され、電気やインターネットなどの通信インフラが充実する。今回の暴動では、世界にチベットの現状を発信する情報基地となった。

 亡命政府は中国から寄せられた情報をダラムサラでキャッチする。インターネットや携帯電話がその手段だが、複数の情報源から同じ内容が寄せられた場合のみ発表し、正確を期しているという。発表はホームページ上で行うから、世界の誰もがアクセスできる。

 一方、中国チベット自治区の人権状況をウェブサイトで公表し続ける非政府組織(NGO)「チベット人権民主化センター」の幹部は「インドも亡命チベット人を通じて中国側の動向を探っている」と通信インフラが充実している背景を分析する。インド政府はいち早く亡命チベット人の政治活動の取り締まりを決めたが、情報収集活動や公表の自由までは制限しなかった。亡命政府やNGOも、中国の発表に対抗する形で死傷者数などの発表が可能となった。

 ◇59、89年にも暴動--中国への不満募り

 チベット高原では7世紀初めと17~18世紀にそれぞれ統一王朝が出現。独自の仏教文化を核にチベット人としての意識が確立した。

 しかし、元時代(1271~1368年)には、チベットが中国の領土に含まれ、元朝の任命した僧侶が仏教の統率と行政を管理した。清時代(1644~1911年)には現行のチベット自治区にあたる行政区域が定められた。清朝がダライ・ラマとパンチェン・ラマの任命権を握り、管理が強まった。

 清朝は「警備」の名目でチベットに軍を派遣し、ラサでは略奪・破壊行為が行われた。また、ダライ・ラマ13世は清朝に名前と号の使用を停止され、インドに亡命した。

 1949年に中華人民共和国が建国されると、対立が激化。ダライ・ラマ側と中国との交渉で「チベットの平和解放に関する協定」(17条協定)が結ばれ「チベットは中国の一部」と明記された。

 59年3月10日、中国統治からの解放、チベット仏教の自由布教、政教一致の原則を求めるチベット族による動乱が発生。ダライ・ラマ14世は亡命し、中国軍は武力鎮圧した。

 65年にチベット自治区が成立。中国の憲法は自治を保障したが、不満を募らせるチベット族が89年3月、ラサ暴動を起こした。戒厳令が敷かれ、再び鎮圧された。当時、自治区トップの区共産党委員会書記だったのが胡錦濤国家主席だった。

 02年からはダライ・ラマ側と中国政府との非公式協議が行われてきたが、ラサでの暴動発生で対話の窓口は閉ざされたとみられる。

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 ■今回のラサ暴動を巡る経緯(3月)■

10日 僧侶ら数百人デモ。治安当局は約70人拘束

14日 ラサ市中心部で大規模暴動。商店など破壊

16日 チベット亡命政府、ラサ暴動での死者80人確認と発表

18日 温家宝・中国首相が記者会見で「暴動はダライ(・ラマ14世)一派が計画、扇動した。五輪を破壊しようという隠された目的がある」と非難

26日 中国政府が一部の外国メディアに3日間、ラサを公開

27日 ラサ入りした外国メディアに僧侶らが「チベットには自由がない」と訴え

28日 日本の和田充広駐中国公使を含む米英などの外交官15人が2日間ラサ入り

29日 チベット亡命政府、同日もラサで数千人規模のデモが発生したとの情報があると発表

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 この特集は以下の記者が担当しました。成沢健一、西脇真一、大谷麻由美、米村耕一(外信部)、浦松丈二(中国総局)、及川正也(北米総局)、栗田慎一(ニューデリー支局)、小谷守彦(ベルリン支局)

毎日新聞 2008年4月3日 東京朝刊

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