淫獣
第弐章 獄快の褥
01
目の前には、白衣の老医師。
幾星霜が彼の貌に皺を刻み、幾星霜が彼の慈悲深い笑みをカタチ作る。
オキシドールに触れ続けた骨色と化した指先は、人のものというよりは、もっと無機質で素っ気の無いものの印象が全面に押し出されている。
病を退ける、太古の榊の如く。
ソレを神の御業の尊い指先であると崇めるのは、容易い。
だがその脂気の抜けた干乾びた指先の感触や見た目こそ、それこそ縋りつけるモノであれば神も仏も・・・そして藁だって構わぬという心栄えに追い込まれているであろう患者にとっての、言いようのない安堵を約束して呉れるであろう、福音の幻であった。
ヒトという印象から乖離していればしているほど、有り難味が増すという仕組みから。
少年が幼い時分に小児喘息を発症してから、彼が少年の主治医となって------もう、十年余りは余裕に経とうか?
だからこそ、少年の体調の一挙手一投足に関しては、彼は誰よりも敏感であると呼べた。
無論、医師とはそのようなモノではなければならぬ。
だが昨今は医療に関しても当世流の利便性追及だとか無用なる慇懃さ------患者に対しての、取って付けた不恰好なる『様』を語尾に繋げる、カタチばかりの叮嚀さ------だとか。そういったモノばかりに視界を阻まれてしまっているからこそ、巨視的なる人間味を持ってしての付き合いというモノは失せ果て、結局は上っ面のみの付き合い、それこそコンビニエントな関係と成り果ててしまって久しい。
だが十年余り患者とその主治医であるという二人の間には、過去の医療の崇高にて深遠なる関係というものを、まだ幾ばくかは持ちえているようであった。
その証拠とばかりに、だからその老医師は、誰よりも己の肉体を管理下に置かなくてはならぬであろうに違いない、本人よりも更に・・・詳しく。そして緻密に。
少年の身体の具合を見知ることとなる。
それ故、多少の体調の悪さであったとしても、少年は彼に対して謀ることは不可能であった。
肉体は、精神とは比肩出来ぬほどに、正直に出来ているから。
「最近、よく眠れているかな? 」
鼻筋からズレ落ちてくる銀縁の眼鏡を指先で押し遣りつつ、老医師------黒羽は薄暈けたスチール製の机から、横の丸椅子に軽く腰を下ろす少年と相対峙をした。
彼が些細なる身動ぎをする度に、几帳面にも骨董級の肘宛付きの椅子は、微かな軋みを空に震わせた。不快とまではいかぬが、しかしその音色は少年の鼓膜に非常に感じるものがあった。
老医師の銀髪は蓬髪とは縁遠く、綺麗に逆さに撫で上げ付けられていた。毛量も多少は額の後退は否めぬものの、それでも殊の外豊かなままである。
背はこの年代の人間としては恵まれており、少々猫背気味になってはいるものの、しかしまだ少年に追い越されるには猶予在りかと思われる。
どことなく狭く、そしてほぼ白色のみで構成されると印象の深い診察室には、彼ら二人きりであった。
壁際の据付の蛇口から、ぽたりぽたりと無言の隙を突いて、雫が歯色の琺瑯製の洗面台に、垂れ落ちていく。
医師は軽く瞬いた。
特に思索する訳でもないのに、眉間に細やかな襞の皺が寄ってしまう。
積年の過労の賜物か、どうもここ最近視界が白く煤けて胡乱になる。
対象物が、捉え難い。
輪郭が朧である。
畑違いではあるが、これはきっと白内障の前段階であろうことは明白であろうと、知る。症状が飛蚊症にまで悪化する可能性は否めない。流石に網膜剥離で視界を失ってしまうのは避けるべきであろう。職を辞した後に、人生まで辞するつもりは毛頭ないのであるから。
黒羽老医師の、目先。
そこには華奢な体付きをした少年がつくねんと座っている。
借りてきた猫・・・よりも、頼りなさげ。
永遠の迷い子。
そんな職業とはかなり隔たりのある連想が、黒羽の灰色の脳内に淡く去来をする。
酷く線の細い少年である。
柔らかく頬に掛かる髪のせいか、どことなく中性的・・・更に遠慮なく言及するのであれば、どことなく少女的な清廉さと柔和さをも兼ね備えている、少年。
医師の身分としては非常に不穏当なる感想とは知りつつも、しかしこの少年ほどこういった診療室に似合いの人間も居ないのではないだろうか?
そんな詮無きことを------不図。
根拠?
そのような胡乱なモノ、端から存在はしないのだけれども。
だがとにかくも、当人である少年には、決して言えないこと。
亀の甲より何とやらではないが、黒羽にはその正直なる感想を口元から仄めかすような、そんな些細な失態を犯すことはなかった。
医療に従事する身とはいえ、結局の区分としては接客業であるということを、長の経験則として知悉するに至っていた。無用の軽口、差し出がましい減らず口こそ、顧客------この場合は患者に相当をする------からの信頼というものを存外に簡単に失墜させてしまうということを、よくよく理解して久しかった。
この年頃の少年である。
未だ二次成長の兆候もそれほど芳しいとは言い難い、少年。
外面の清楚なる印象から、思わず乙女という連想をしてしまうほどであるのだから、お世辞にも成長に恵まれているとは言い難い。
しかし同じ程度の年頃の少年たちは、それこそ青年とそろそろ呼んでも差し支えはないであろう------内面は同等の成長を迎えているかどうかは、また別次元の問題ではあるのだが------立派な体躯を得ているであろうことは、近年の加速的肉体の成長という意味合いでも黒羽は理解をしていた。
加齢と共に多少は身体が縮んで------正確には背骨と背骨との軟骨の磨耗と呼ぶべきである。------しまったとはいえ、黒羽はそう小男という部類ではない。青年期では彼が誰かの視線を上から感じるということは、尋常なる姿勢に於いてはそう多くはある事ではなかった。しかしこのところ、街に出れば顕著に育った若者や青年たちの視線を高所から感じることが頻繁になったと感じるのは、決して年寄りの偏狭なる僻みではないとは思うのだが。
そういった肉体の成長著しい世に於いての、この少年。
少なくともこの少年だけは、その恩恵には浴してはいないということは、明白なる事実であった。
就学の身である------そして世間一般的に随分と名の通った私立に通うということを、老医師は知悉してもいた。------少年にとって、大多数の平均から零れてしまうという事実は、大人にとっては大した意味合いを見出すことは出来ない。
勿論、少年の成長期はこれにて打ち止めということではない。
これから先、益々四肢はしなやかに伸び、ほんの僅か目にしなかった期間でも、充分に青年の肉体を得る可能性は皆無ではない。
ある一定の時期においての少年たちの身体というものは、それこそ若竹のような著しい成長を見せることがままあることであるのだから。
------しかし。
黒羽は目の前の少年をまじまじと見下ろす。
顔貌の清楚に整った容貌は言うに及ばすに。
きちんと揃えたチノパンの膝頭をやんわりと包み込むかのように、添えられた五指と五指の掌。まさか意図的ではないだろうが、指先を彩る爪は桜貝の色と光沢を仄かに湛えていた。
その麗然たる------しかしどこか危うさを秘めた雰囲気というものが、だから余計に少年を中性の面差しを深めていることに、相違なかろうかと思われる。
医師は不図視線の隅、蒼鼠色の鬱屈した鉄製の机を見遣る。
そこには、やはり煤けた机に如何にも似つかわしいといった塩梅に手垢に薄っすらと塗れた、古ぼけたプラスチックファイルを捲っていく。
幼い頃に小児喘息の症状が発現し、そして今日に至るまで。
多少の変遷、紆余曲折を経ながら、持病が好転の兆しを見せた時期あれば、悪化の一途を辿ることもままあった。
その流れの谷に該当する部分------症状の悪化に当たる------は、少年にとっての環境の劇的変化に丁度連動するということを、黒羽は理解をしていた。
発症時期、それは両親の離婚に当たる。それから一時期収束を見せていたものの、母の死により、父方に引き取られた時期。その頃から再び少年の発作の頻度が高くなっていっている、そのことを。
慣れぬ人間------幾ら血を繋げる親子関係であるとは言っても------との同居、それが少年の神経の負担になっていることは、だから黒羽は明瞭に知ることとなっていたのであった。
多分------少年、静眞本人が感知しているよりも、深く。