何かを吹っ切ったかのように颯爽と歩み寄よった男は、深々と頭を垂れる。
「わたくしは、宰相のムスタファと申します」
畏まるように拝礼した後、失礼を致しましたと一言侘びを入れてから、
低く太い声でそう述べた表情は、先ほどとはまるで別人のような真摯な顔つきになっていた。
その様子を静観していたユリアスは、背後にいた俺の腰をさらうように引き寄せて、男の目に触れさせると口を開いた。
「藤也。俺の腹違いの兄、ムスタファだ」
(おっ、お兄さんだったの―――?!)
そう心の中で叫んだ俺は、いつの間にか横抱きにされているユリアスの腕の中で、あたふたとともがく。
だって、ユリアスの身内なんだよ?
やっぱりちゃんと挨拶したいし、はじめは肝心だもんね。
……とは思うものの、俺の身体は豪腕な腕にがっしりと抱きとめられていて、膝から降りることすら出来ない。
見上げれは、離れることは許さぬ……と冷ややかな目をして無言に訴える視線と交差する。
仕方なく顔を戻した俺は、慌てて挨拶を返そうと言葉を掛ければ、
「は、はじめまして……こ、小塚藤也ですっ」
緊張のあまり、本名をさらすという失態を犯してしまったのだ。
(ひい゛ぃ―――ぃ!馬鹿バカ、何言ってんだよッ)
真っ青になって、マディーナですと訂正したけど、時は既に遅し……。
し―――んと静まり返ってしまったその場に、恐る恐るユリアスに助けを求めれば、クククッと愉快そうな笑い声が、俺の横から届く。
「本当に可愛らしい方だ」
と囁いた男、もといムスタファが穏やかに微笑みを見せるのと同時に、温かくてやさしく香りに包まれた。
ユリアスのような刺激的で、甘く官能的な危険なものとは全く違うけれど、心を穏やかにするようなこの香りが、
ムスタファの放つ特殊なフェロモンなんだと、そこはかとなく感じ取った俺を他所に、ユリアスが口を開く。
「何を焦っておる?」
「え?や、だって俺……藤也って言っちゃったし……」
「その前に、俺が藤也って話し掛けているのを聞いていなかったのか?」
「……ッ!」
(あぁ、もう俺ってば格好悪過ぎじゃん)
折角ちゃんと挨拶して、決めようって思ってたのに……と口を尖らしてぼやけば、
「気にするな。そうでなくとも、どうせもっと前に、俺が藤也と呼んでいたのも盗み聞きしておるのだろ?」
盗み聞き、と指摘されたムスタファは一瞬、水を刺されたようにつまらなそうな表情を見せたが、
「お二人とも、今後は、後宮内にご用意した私室以外では、絶対にその名を口にしないように」
よろしいですな?と宰相という職に就いている、もっともらしい話し方で、口調を辛めて注意を促すと、俺に視線をもどして話を続けた。
「イラスーンの王は、定めにより男児を二人、得なければならないということは、もうご存知ですね?」
俺は、黙って頷いて答えた。
一子は国の名を背負うものとし、一子は後継者が後継者として立てなくなった時のために必要なのだという。
だけど二人目の男の子がなかなか授からなくて、結局五人の父親になったのだ、とユリアスはそう言っていた。
そのことに関してユリアスは、俺に納得して欲しいとか、しろとは言わない。
簡単に受け入れたり、納得できることではないのだ、とユリアス自身がそう思っているからだと思う。
そして、俺はと言えば、ただあるがままを受け止めるしかないのだ。
そうはいっても、その思いはまだ不安定で、ちょっとしたことでも揺らぎそうになってしまう。
「現在、後宮には嬪を含め、一二名のご婦人がおられます」
(―――そ、そんなにいるのっ?!)
その人たちとも関係があるのかと、不安になった俺の身体をユリアスが包み込むように、ギュッと力を入れて抱きしめる。
そして、俺の耳元で囁いた。
「……神に誓う」
「え?」
「神に誓って、五人以外の元には通ってはいない」
「え、あ、……うん」
真剣な目で訴えるユリアスの言っていることは、多分本当のことなんだと思う。
それでも、その五人って言うだけでも、既に許容範囲を超えている俺は、落ち着かせるように大きく息を吸い、呼吸を整えた。
そんな俺達をチラッと垣間見た、ムスタファの話は続く。
「その方々全員に気を配られる必要はありません」
問題なのは、と躊躇するかのように一旦言葉を区切ったムスタファに、俺が訊ねた。
「……ユリアスの、五人の子供のお母さんたち?」
わずかに目を見開いたムスタファは、そうです、と短く頷いた。
目下のところ、彼女達の正妃の座を求める戦いは、その五名の中で繰り広げられているらしい。
だから、余程のことがなければ、直接、俺に危害を加えることはないはずだという。
「ですが念のために、後宮に入ったらなるべく目立たず、大人しくしていて頂きたいのです」
なにしろあそこは、陛下以外の男性は立ち入ることが出来ない領域なので、と補足する。
「っそっか、ファティマも駄目なんだっけ……」
と、ただでさえ知らない閉鎖された場所へ入るというだけで、憂鬱になっている俺は、思い出したかのように消沈して呟いていた。
すると、突然何を思ったか、あからさまなほどに大きな溜息をついたムスタファが、
「あーあ、やっぱ、このしゃべり方は疲れるんだよな」
と首を左右にコキコキ鳴らせ、口調を元の荒っぽいものに戻した。
ユリアスも、別段変わった様子も見せず黙認し、ただ黙って俺を抱きしめていた。
そして、ムスタファは柔和な笑みを浮かべると、わけのわからないことを口走る。
「君の存在って、すごいんだな」