米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望
4/25/2008 - 12:01 am by macskaここ数年、米国の宗教界でもっともめざましく支持を拡大している勢力は、無神論者の集団だ。進化科学者のリチャード・ドーキンスが書いた『神は妄想である』はじめ、クリストファー・ヒッチェンス『God Is Not Great (神は偉大ではない)』、サム・ハリス『The End of Faith (信仰の終焉)』といった書籍が続々とベストセラーになるとともに、無神論を掲げるグループが全国で結成され、若い人を中心に多くの支持者を集めている。
本論で「無神論」と訳されている言葉は atheism だが、この語の本来の定義は「神が存在しないと信じる」ことではなく「神が存在するという信仰を持たない」ことであることを考えれば、「無神論」ではなく「無宗教」と訳した方がより正確かもしれない。そこをあえて「無神論」と表記するのは、ただ信仰がなく宗教に無関心といったニュアンスのある「無宗教」という言葉では、新しい無神論者たちーーそうメディアはかれらを呼ぶーーの熱気が伝わらないからだ。
筆者はオレゴン州ポートランド地域で半年に渡ってそうしたグループに参加しつつ、観察をつづけてきた。ちなみにわたし自身の立場を開示しておくと、わたしは無神論的仏教者を自認している。世界認識や生き方の指針として中観派仏教の教えを参照しつつ、神仏や霊魂や転生といった超自然的なものについては信仰しない立場だ。
ところでポートランドには、現在の無神論ブーム以前からも無神論を掲げる団体が伝統的に存在していた。その団体はメンバーのほぼ全員が六十代かそれ以上の年輩の白人男性で、毎週一回集まっては何らかの勉強会を行なっている。勉強会の内容は、キリスト教徒以上に聖書のおかしなところをあれこれ議論したり、科学者を招いて熱力学第二法則の講義を受けたり(「進化論はエントロピー拡大の法則に反する」と主張する創造論者がいるので、それに対抗するため)となかなか硬派だ。…と思ったら、反グローバリズムだなんだでIMFの陰謀とかそういう話も出て来たりして、それ自体ちょっぴり怪しい雰囲気もある。
わたしが継続的に参加している団体はそれとは違い、ここ一年半くらいのあいだにできた新しいグループだ。このグループはインターネット上の同じ趣味を持つ人同士がお互いを見つけることができるソーシャルネットワークサイトを通して結成されており、現在メンバーとして登録しているのは二百人前後、そのうち月例のミーティングには毎回三十人ほどが参加している。ほんの一年半のあいだに、急速にメンバーを増やしてきたと言えるだろう。
ミーティングはポートランド郊外のビーバートンで開催され、年齢層は高校生からお年寄りまでかなり幅広いが、大多数は白人だ。地域にはインテルをはじめとするハイテク企業の研究開発施設があるためか、IT関係で仕事をしていそうな南アジア系エンジニア風の人も頻繁にみかける。男女比はだいたい 3:2 くらいで男性の方が多い。平均所得はやや高めに見えるが、タクシー運転手やスーパーの掃除員のような職種の人も参加している。
ミーティングというが、実態はカフェに集まって少人数のテーブルごとに自由に交流するのがほとんどで、特に決まった議題はない。厳しい宗教教育を行なう学校に通わされて苦労したとか、上司が宗教を押しつけてきてイヤだというような、無神論者のグループだからこそ打ち明けられる話があったかと思うと、単なる世間話やジョークの応酬をしているテーブルもあったりとさまざまだが、知的好奇心の強い人が多い。いろいろ話をするうちに「こういうものが欲しい」「こういうことをやろう」と盛り上がってくれば、誰かが責任者に立候補してそれを実現させることになる。
たとえば最近では、ある参加者が中心となって市内の書店の協力をとりつけ、月一回の読書会が開かれることになった。あるいは子どもを持つ無神論者たちは、教会で行なわれる日曜学校(キリスト教において子どもを対象に行なわれる宗教的道徳教育)のオルタネティヴとして、宗教色のない道徳・倫理育成教育を行なう集まりを開始した。また、自然博物館が毎月開くサイエンス・パブ(文字通りパブにおいて科学者が自分の研究について一般市民向けに発表するもの)に協賛し、支えている。
このような様々な活動がはじまるなか、無神論者たちのあいだにある興味深い対立もみえてきた。かれらのほとんどはキリスト教を信仰する家庭・共同体の出身なのだが、信仰を捨てたとはいえ心の底では信仰共同体的なものを求めている人は多い。それはたとえば他の人たちとの出会いと交流の場であり、同じ共同体の成員として経験する一体感・高揚感であったりする。このグループの呼びかけ人である五十代の男性は、「もしいまこのグループがなければ、みんながここに来てくれていなければ、自分は教会に戻っていただろう」とまで言っていた。
しかし一方では、そうした信仰共同体的なものに傷つけられた過去があったり、それを不快に感じる人たちもいる。そういう人たちにとっては、無神論者のグループが教会の真似事をするなど言語道断だ。すなわち、同じ無神論者にも、ただ単に信仰を放棄しただけの人と、信仰共同体的なもの自体を放棄した人の二種類がいるのだ。後者の人から見ると、教会が信仰に基づく道徳教育をすることと、無神論者の親たちが理性に基づく倫理教育をすることには、親が自分の思想を子どもに押しつけているという点においてほとんど違いがない。
無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないかーーすなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないかーーという問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。それに対し、いかに「無神論は信仰を否定し、理性による現実把握を推奨しているのだ」と反論しようとも、現実に「原理主義的な」としか形容しようのない無神論者が多くいるのだから、一般にそういう印象を与えてしまうのは仕方がない。
たとえば「新しい無神論者」の代表的論客として先に名前を挙げたヒッチェンスとハリスは、ともにネオコン的な「テロとの戦争」に全面的に賛同しており、アルカイダとは無縁だったはずのイラクでの戦争すらーーおそらくイラク人がイスラム教徒であるというだけの理由でーー支持している。ハリスはさらに、イスラム過激派を懲らしめるために中東で核兵器を使うことすら著書で主張している。かれらはキリスト教原理主義にもイスラム教原理主義にも反対という立場を打ち出しているし、実際本人たちもそう思っているのだろうが、理性主義という理念のために多数の人を犠牲にしても良いという発想は、原理主義として批判されても仕方がないだろう。
わたしが参加しているグループでも、大統領選挙に出馬しているバラック・オバマ上院議員の話題になったときにこのことは痛感した。そのころメディアではオバマの通っている教会の牧師だった人物の発言が「反米的」として問題とされていた。しかし、その教会が米国で最も悲惨な貧困地域の一つであるシカゴのハイドパークにある、貧しい黒人たちが多く集まる教会であることを考えれば、牧師が米国という国の人種的・経済的な不正義を厳しい口調で糾弾するのはまったく不思議ではない。ところがこのグループの人たちは、「あの牧師は狂っている」「これだから宗教者は」と、まったくその文脈を理解しようともせず、切り捨てるように口にしていた。
こうした政治的傾向は、西欧において近年目立ってきている排外的・不寛容的なリベラリズムの高まりを思い起こさせる。二年前、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺したイラスト掲載の是非をめぐりヨーロッパ各地で大きな騒動が起きたことがその典型だが、「言論の自由」のほかにも「男女平等」や「同性愛者の権利擁護」といった美名を掲げつつ、そういった近代的価値観を「理解しない、共有できない」とされたイスラム系移民らーー実際には、そもそも自由や平等の価値がかれらにも対等に適用されているとは言い難いーーを排斥しようとする主張は、ヨーロッパにおいて一部のフェミニストや同性愛者の権利擁護運動家らからも挙がっている。
移民問題がイスラム教徒ではなくメキシコ人の問題として扱われている米国では、そうした「不寛容なリベラル」的傾向が移民問題においてではなく、ブッシュ政権が掲げる「対テロ戦争」への態度として表面化している。無神論者の多数を含む「理性」原理主義者らは、内政面において妊娠中絶問題や同性愛者の権利をめぐってキリスト教原理主義勢力に肩入れするブッシュ政権を批判しておきながら、外交・軍事面においてはブッシュが口を滑らして「新たな十字軍」と呼んだ「対テロ戦争」に根本的な部分で反対できない。
ヒッチェンスやハリスだけでなくドーキンスさえも、アルカイダらイスラム過激派によるテロリズムの原因はかれらの特異な信仰であると論じており、欧米による帝国主義の歴史をかえりみることもなければ、欧米企業による資源の簒奪や米国が世界中で繰り広げる軍事介入への反発といった要素を考えようとはしない。仏教など東洋の宗教に妙に寛容なハリスは、中国による過酷な支配を受けているチベットを、帝国主義がテロリズムを生み出したという主張への反証(チベット仏教は平和的だから無差別テロを起こさない、イスラム教は邪悪なのでテロリズムを起こす)として挙げている。もし邪悪な信仰がテロリズムの根源的な原因であるなら、邪教を殲滅するしか解決策はないことになってしまう。
ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象ーー理性の審判を受け付けないものーーとなってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。
こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。そうした意識の大部分は、オバマの通っていた教会の牧師が過激な「米国主流社会」糾弾発言を繰り返すのと似たような文脈において形作られたもので、それなりに共感できないことはない。けれど、それが抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。
そうわたしが思っていたとき、ちょうど登場したのがクリス・ヘッジズによる新著『I Don’t Believe In Atheists (わたしは無神論者を信じない)』だ。著者は昨年出版した『American Fascist (アメリカ版ファシスト)』という本で米国におけるキリスト教原理主義の政治運動をファシズムとして否定した人物だが、最新作では「新しい無神論者」の代表的論者であるドーキンス、ヒッチェンス、ハリスらが理性や科学を教典の代わりとしてを持ち出すことで原理主義的宗教と同様の独善に陥っていると批判している。
しかしヘッジズの指摘はそれだけにとどまらない。かれによれば、ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている。そうした矛盾した性質のどちらか一方を強引に抹消しようとしても、その先に待ち受けているのは、ユートピアではなく宗教戦争やスターリニズムのような悲劇でしかない。中願派仏教の観点からも、ヘッジズのこうした人間理解にはとても納得がいく。
無神論者グループにおいてはじめてこの本が話題になったとき、一番最初に見られた反応はやはり「拒絶」だった。「ヘッジズの批判は架空の無神論者にしかあてはまらないもので、現実の無神論者はそんなに愚かではない」と。しかしある人が「対テロ戦争」をめぐるヒッチェンスやハリスの主張への批判には同意できる、と発言したのをきっかけとして、ヘッジズに肯定的な意見も出てきた。わたしはそうした発言を聞いて、ほんの少し「新しい無神論者」の行く末に希望を感じた。
* * * * * * * * * * * * * * *
(この記事は、メールマガジン α-Synodos(アルファ・シノドス)第1号(4月10日発行)に掲載されたものです。編集部の了承を得て、全文公開しました。この記事が気に入った人は、是非α-Synodos を購読してあげてください。気に入らなかった人も、この記事だけでα-Synodos を判断するのは編集長のちきりんがかわいそうだからやめてあげてね。)
2008/04/25 - 14:23:24 -
「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え…
本家ブログのエントリ「米国を席巻する『新しい無神論者』の非寛容と、ほんの少しの希望」がわたしの記事にしては珍しく大量にブックマークされている。過去もっともブックマー (more…)