シベリア抑留死から62年、94歳妻に遺骨2008年04月25日07時44分 とうちゃん、お帰り――。旧満州(中国東北部)で旧ソ連軍の捕虜になり、シベリア抑留中に死亡した元陸軍兵長の鹿俣正(かのまた・ただし)さんの遺骨が24日、静岡県浜松市浜北区に住む妻トヨさん(94)ら家族の元に届けられた。政府派遣の遺骨収集団が02年に現地から持ち帰った旧日本軍兵士の遺骨の一部が、DNA鑑定で正さんと確認された。生きていれば95歳になる夫。別離から60年以上たっての「再会」に、車いすのトヨさんは何度も涙を流した。
正さんは福島県伊達郡梁川町(現伊達市)の出身。養蚕の道具を商う家業を嫌って、トヨさん、生後8カ月だった長男淳一さん(71)を連れて満州へ移住し、現地のガス会社に就職した。左目が不自由だったが、太平洋戦争が始まって1〜2年後、30歳を過ぎてから召集された。 歩兵第178連隊に所属し、終戦間際、ソ満国境で捕虜となった。旧ソ連から政府に提供された「抑留中死亡者名簿」などから、現在のロシア・チタ州のハルボン収容所で終戦翌年の1946年1月、急性肺炎と栄養失調で33歳で亡くなったとされていた。 淳一さんは03年、政府が行うDNA鑑定に同意し、照合用にほおの粘膜を提供した。しかし、なかなか結果が出ず、「もうあきらめていた」という。 終戦翌年に日本に引き揚げるまで、トヨさんは、淳一さん、娘の浩子さん(65)、次男の征志さん(62)を連れ、貨車で朝鮮半島に連れて行かれたり、むやみに発砲するソ連軍兵士におびえたりする日々を送ったという。淳一さんは「女性では危ないからと、母は頭を丸刈りにし、背広を着て男性を装っていました」と振り返る。 トヨさんは昨年末、肺炎で生死をさまよった。記憶力や体が弱って車いす生活だが、遺骨が帰ってくると知ってからは、何度も涙を流したという。この日、静岡県援護恩給室の職員から遺骨を受け取り、額を箱に押しつけて泣いたトヨさん。ふたを開けて骨片を手にすると、「とうちゃん……」と声を絞りだした。 淳一さんは「よく帰ってきてくれました。今日の雨はおやじのうれし涙でしょう。これで我が家も終戦を迎えられました。本当に感謝します」と語った。 県によると、旧ソ連抑留者のうちDNA鑑定で身元が確認できた遺骨は県内で12人目。鑑定結果待ちは13人いる。 PR情報社会
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