裁判で裁かれるのは…こんにちは、 またまたお邪魔いたします。 >刑事事件では被告の罪を法が裁くのであって、 いえいえ、刑事裁判において裁かれるのは実は検察官なんです。 説明はこちらのサイトがよく出来ていてよろしいかと…。 http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-663.html国家権力というのは、非常に大きな力を持っている訳ですから(ホッブスによるとそれをリヴァイアサンと表現しました)、その権力の横暴から被告人を守らなければならない訳です。 その権力の横暴から被告人を守るためにはどうすればいいのか。それは、刑事訴訟法をはじめとする法律で行政権力を縛ることで、これがデュープロセスの原則(適法手続き)と呼ばれるものなのです。 だから「真実の探求」などは裁判の本来の目的ではないということになり、極端なはなし、真実などはどうでもいいということにさえなる。そのうえにおいて、行政権力の代理人たる検察官は、立証責任も完璧に果たさなければいけません。 ですから、裁判官の任務は、検察側の証拠について、手続き上も含めて一点の曇りがないのかどうかを精査することであり、その立証に少しでも疑問の余地が生じたり、あるいは少しでもデュープロセスの原則に反する行為(違法捜査など)が認められる場合には自動的に被告人は無罪ということになるのです。 どんなことがあっても無実の人を牢獄に送り込んではならない。国家権力の横暴を絶対に許してはならない。そのために犯罪者が無罪になることもあるかもしれない。しかし、その害よりも、国家権力の横暴を許すことの方がずっと害が大きいと考えることが、近代法、あるいはデモクラシーを理解するうえでのひとつの原則なのです。つまり、ひとりの犯罪者が行う悪事よりも、国家が行う悪事の方がずっとスケールが大きいというように捉える訳で、「疑わしきは罰せず」という考え方は、実はこういうことから生みだされたれたものなのです。 検察官を裁くことにより、初めて三権分立のチェックス・アンド・バランシズが働くんだということです。 ここでちょっと脱線気味で、三つの権力の中で、特に暴走しやすいのが、行政権力と相場は決まっていて、だから三つに分けてもまだ恐ろしい! ということで、その行政権力を、更に真っ二つに分けたのが、大統領がいるのに首相もいるという、フランスやドイツなのでした。ナポレオン、ヒットラー、思い浮かべただけでも想像はつきそうですが、行政権力で苦労したということなんですね。これらの国は。 このように、まともな近代国家であれば、権力を監視するということにきちんと気を配るもので、残念ながら、それすらも出来ない国が、ニッポンだということになります。 これは、警察官、検察官、裁判官という人間を、神様、あるいは間違いを犯さない「正義」の味方なのだと信じ込んでいる人がいかに多いかということなのでしょう。 はなしは戻って、そうすると、どうでしょう。今回の判決?! >「被害者の(事実関係の)申告にも問題があった」から??? これって検察側の立証に疑問の余地があるということではないんですかね??? それがなにか…被害者にも問題があるからと…単純に足して2で割ったみたいな??? このア法の姉川博之ってのは、頭の中がザクロのようになっているとしか思えませんが、ホントに裁判官なんですかね??? まさかモグリじゃないですよね! いやマジでそう思います! ロトン・ビューロクラシー(腐朽官僚制)もここまでくると、処置なしとしか思えないありさまです。ソビエト帝国の崩壊 http://www.asahi-net.or.jp/~ds4h-srhs/books/401/0052.html を笑っていられる場合ではありません! 警察、検察に疑われたが最後一巻の終わりだという刑事裁判の有罪率99、8%!も何故かナットク。。。 裁判所のない野蛮国家ニッポン、どうにかならないでしょうか。。。 たいへん失礼いたしました。m(_ _)m
【2007/08/25 03:53】
URL | しま #N/StHCbw [ 編集]
No title >いえいえ、刑事裁判において裁かれるのは実は検察官なんです。
私が裁くとした主体は、裁判官ではなく、検察も含めた司法という意味です。国が法で被告を裁くわけです。検察も裁判官もいわばそのメカニズムだと思っています。
裁判で“検察が裁かれる”という話は実務としてはそういう側面もあるかと思いますが、もしそうだとすると、今回の判決の場合、「被害者の申告に問題があった」→検察のミス」→「だから検察の意に反して減刑」ということで筋が通ることになってしまいます。
>単純に足して2で割ったみたいな??? ほんとそうですね。笑えます。
【2007/08/26 21:40】
URL | 瀬尾 #- [ 編集]
No title >どんなことがあっても無実の人を牢獄に送り込んではならない
実は私は冤罪があることは社会生活のリスクだと考えています。冤罪はあってはならないことですが、「あってはならない」というのと、あり得ないのとは違いますよね。人が裁くわけですから「どんな手続きを踏もうとも」、間違うときは間違えるでしょう。これは独裁でも民主主義でも(程度の違いはあったとしても)同じであるていど仕方のないことです(民主的な選挙で選ばれた代表がベストの人材とは限らないのと同じ)。
民主主義は手続きだといったのは、「間違えるにしても作法を踏まえよ」ということで、民主的手続きをふめば間違えないというのは幻想です。
冤罪を恐れるあまり、ほとんどの犯人を野放しにするような司法ではいけません。それでは司法が立法府を殺してしまうことになるでしょう。ま、バランスです。ゼロリスクを避けるためにありとあらゆるコストをかけてよいわけではない。潜在的被害者の人権を犯罪者のそれより低く見積もる理由などなにもないからです。
私が今一番憂いているのは、司法の場が、科学的な教育を受けてこなかった「文系」に独占されていることです。法律や哲学あたりは神学と同じで、サイエンティフィックな根拠にかけるため、話がさっぱり通じないと感じることがあります。非科学者が真理の追究をしようなんて土台無理ですよ。もっと科学捜査(鑑識)が力を持つようになるべきだと考えています。
【2007/08/27 00:23】
URL | 瀬尾 #- [ 編集]
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